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3-15 【死の囀り】カタルマリーナ


 ――これは万能の力なんかじゃない。

 サリアは念入りに私に繰り返した。


「過去遡行という手段に溺れないこと」


「溺れる?」


 輝く夜月――世界と世界を繋ぐ扉の前。

 作戦会議を終えて実世界に戻る直前、サリアが不意に忠告めいたことを呟いたのだった。

 彼女はどうしてか思い直したように首を振って、


「ああ、やっぱりいい。濫用するなって言いたかったんだけど、私が言っても説得力なんて無いしね。それにアズーリアはコアと同じ匂いがする。止めても馬鹿が治らない人種」


 といった。

 馬鹿とはどういうことだろう。

 私は羽をぱたぱたとさせて反論した。


「何それ」


「世界の危機と目の前で困っている人の危機、どっちが重い?」


 首を傾げる。


「んー、だいたい同じくらい?」


「ほらね」


「ええ、だって世界の危機ってつまり個別の人達の危機の総体でしょ? つまり本質的には同じものじゃない? もちろん、どちらを優先して対処するかと言えばそれは世界の方だろうけど」


「妙な理屈こねるわねアンタ――まあいい。とにかく遡行に頼りすぎると果てが無くなるし――なにより心の方が保たなくなる。どこかで妥協しないと、完璧な未来に辿り着くより先に頭がお花畑に旅立っちゃうの。これ、経験者からの忠告ね」


「経験、あるんですか?」


「今も元気に発狂中。ご主人サマから狂気を定期的に吸って貰わないとそのうちまともに会話できなくなる。だから、本当はあんまり余裕無いのよ」


 ということは、なるべく早くこの苦境を脱して仲直り用の贈り物を見繕わなければ、サリアの精神状態が大変な事になるのか。

 というか、狂気なんか吸って冬の魔女コルセスカは大丈夫なんだろうか。

 数日前に会話したときは、とてもそんな狂気を抱えているようには見えなかったけれど――。

 しかし、そういう事情があるなら、喧嘩してるからって繋がりを断たなければいいのに。

 いずれにせよ、サリアの言うとおり余り時間は無いようだ。


「今回で決めないと」


 そう、余裕は無いのだ、本当に。

 確定はしていないけれど、そうなるかもしれない未来。

 白い炎に飲み込まれて次々と命を落としていくティリビナの民たち。

 老若男女問わず――幼い子供たちまでもがそれを庇おうとするミルーニャと共に純白の炎の中に消えていく光景は、今も目に焼き付いている。

 リーナは輝く文字列の波に押し流され。

 メイファーラはおぞましい囀りに耳を傾けてしまい発狂し。

 同じように狂ったペイルはイルスを絞め殺し、そのペイルもまた自ら床に頭を打ち付けて命を落とし。

 ハルベルトはせめて師の亡霊と相打ちになる覚悟を決めるも、あまりにもあっけなく敗れ去る。

 そして、皆を守るためにその命を捧げたプリエステラ。

 ぐるぐると思考が過去に沈んでいく。伸ばしても届かない左手。伝えられなかった言葉。去っていく妹の背中。

 あの暗い森で死んでいった仲間達。犠牲を許容したこと。

 どこかで妥協しなければならない。それは理解している。

 あの森で、アキラに対して過去を再解釈させて物語による合理化を促した私が、こんな風に醜く足掻いているということの見苦しさにも自覚はある。

 こんな姿を見られたら、きっと彼は私を非難するだろう。

 けれど、それでも――


「ねえ、ちょっと大丈夫? だからといって気負いすぎないで。それだって潰れかねない原因になるんだから」


「うん。わかってる。大丈夫だよ」


「本当でしょうね。あのさ、アズーリア。アンタしばらく前の周回からずっと霊長類体になってないけど、それには何か意味があったりするの?」


 流石にサリアは鋭い。

 それとも延々と一緒に戦い続けてきたことで、私に対して勘が働くようになったのだろうか。

 私は何でもないふうを装って、


「ここではこの方が動きやすいってだけ。実世界だと鎧着てるから強制的に霊長類体に固定されるから、問題ないでしょう?」


 と、もう霊長類体に変身するのが大分つらくなってきていることを誤魔化した。

 サリアはしばらく沈黙する。漆黒の兜の中で、切れ長の目が眇められているような気がした。


「――買い物、付き合うって約束、ちゃんと果たして貰うからね」


「わかってるよ。あ、でも手加減はしてね?」


 言い合いながら、私たちはもう何度目になるかもわからない、『最後の瞬間』に帰還していった。

 輝く月に飛び込んで、影の中から飛び出したアストラル体がそれぞれの実体に戻っていく。

 加速された知覚が実世界のものと合流し、膨大な情報量――色彩、音、重さ、その他様々な感覚が全身を包み込んでいく。

 実感する。

 ああ、これが『生身』であるということだ――。

 短く息を吐く。

 世界は崩壊しつつあった。

 燃えている。

 白く曖昧なゆらめく『何か』。

 遠目には炎のようにも見えるが、それが実際には炎などではないことを私は良く知っている。

 暗いはずの坑道は白く輝く業火によって照らされている――否、消滅させられている。

 炎が覆い尽くした場所には何も無い。

 そこは世界が終わってしまった何も無い空白だ。

 視覚的な白い焔として翻訳された虚無――私たちが固まっている場所を除けば、この周辺は完全に虚無に覆われてしまっていた。

 倒れた私に覆い被さっている白髪の少女をそっと持ち上げて、地面に横たえる。

 軽い。元から小柄な少女だったけれど、それだけが理由ではない。

 下半身が丸ごと塵になってしまっていて、存在しないのだ。

 そればかりではない。あどけない童顔は皺が増えてまるで老婆のようになってしまっている。

 白焔――膨大な時間流に飲み込まれた者の末路だ。周辺にも、枯れ果てたティリビナの民たちがその屍を晒していた。


「ごめんね」


 生きていたいと彼女は言ってくれたのに。

 やっぱりミルーニャを諦めるのは、私には無理だ。

 私は彼女の年老いた姿を、もっと幸福に眺めていたい。

 静かに寄り添って、強く生きて、そして普通に老いていく姿を見ていたい。

 だからこの光景を受け入れることはできない。

 左手に、意識を沈み込ませていく。

 精神集中チャネリング

 繰り返される戦いの中で、その深度と速度は長足の進歩を遂げていた。

 左手に呪力が収束していく中、私は周囲の光景をしっかりと目に焼き付けた。

 その記憶を、決して忘れないために。


「だぁ」


 涎を垂らして、ごろごろと地面を転がっているメイファーラ。

 朗らかで無邪気な笑顔は、前と変わらない。けれど。


「うー、うー」


 常人以上の感応能力を持つ彼女は、あのおぞましい歌声を全身で受け止めてしまった。

 メイファーラが以前のように私の名前を呼びかけてくれることは、この時間の流れでは二度と無い。

 私は地面に突き刺さった箒とその上に乗った三角帽子を見た。

 その周囲で奇怪に捻れている螺旋の肉塊は、凝縮されているにも関わらずとても軽そうに浮遊している。

 リーナがかつてのように騒ぎ出す事も既に無い。物言わぬ前衛芸術となって静かに佇むのみだ。

 そして、私たちをずっと守り続けている、巨大な大樹を見上げる。

 私たちがいる一帯だけは白い滅びから逃れる事ができている。

 それは、途方もなく巨大な樹木が根を張って、障壁の役割を果たしてくれているからだ。私たちは大きな『うろ』の中で守られている。

 凄まじい時間流によって終端へと押し流されていくが、悠久の時を生き続ける古木は急速に成長を続けるばかり。

 炎と樹木という一見して相性の悪い戦いは、プリエステラの秘術が優勢だった。

 けれど、その絶対の守りにもそろそろ限界が来ているようだった。

 大樹の中心で生命力を捧げているプリエステラに限界が訪れたのだ。

 仲間を守るためにその命を擲った彼女の行為は、私が彼女を諦めなかったがゆえに無駄に終わってしまう。

 全員を護送する事だけを優先すれば、プリエステラ一人の犠牲で済むのに。

 尊い犠牲を許容すれば、ビークレットをプリエステラが、カタルマリーナをサリアが抑えることで、無事にパレルノ山の転移門まで辿り着けるのに。

 私はそれを、決して選べない。

 遠くで凄まじい轟音。呪力の衝突を感じた。

 恐らく、ハルベルトとカタルマリーナが【オルゴーの滅びの呪文オルガンローデ】をぶつけ合ったのだろう。明白な師弟の力量差。繰り返しの中で、ハルベルトが師を上回ったことはただの一度も無い。


「急いで。この機会を逃すと戻れなくなる」


 私の隣で、サリアが氷でできた弓を手にして言った。

 既に青白く輝く矢が番えられている。

 影の甲冑ではなく軽装の背後に浮かぶのは半透明の蝿だ。腹に巨大な時計を抱えた、不気味だがどことなく愛嬌のある虫。

 私は無言で頷くと、左手の金鎖を砕いて自分の影から莫大な量の呪力を引き出した。左手と足下から何か巨大な存在が私の内部に入り込んでくる感覚。

 魂を何かに明け渡した――そんな悪寒を強引に無視して、私は自らの守護天使マロゾロンドから借り受けた呪力を束ねていく。

 影を経由して呪力を共有し、サリアに注ぎ込んでいく。

 

「凍れ、トキバエ」


 右手で引き絞られた透明に輝く弦から、輝く矢が解き放たれた。

 光となって大気を切り裂く矢を【時蝿】が追いかけていく。追い立てられた矢は恐るべき怪物に追いつかれまいと加速していき――そこで私の認識が追いつかなくなる。

 サリアの眼前へと向かっていった矢が、いつの間にか彼女の背後へと真っ直ぐに進んでいる――奇怪な現象だがそうとしか言いようがない。

 その現象を正確に理解した訳じゃない。

 夜でもないから、大量の呪力に任せた力業も実行できない。

 だから私は、かつて見たハルベルトの仮想使い魔たちを再現し、それらの処理能力を借りてかろうじて時間遡行という奇跡を再現する。

 召喚された沢山の独角兎たち。汎用的な性能を誇る幻獣の群れがフィリスの能力を補助して、不可能を可能にする。

 私の背後に出現した【時蝿】がチクタクとお腹の時計を動かしていく。

 長針と短針がめまぐるしく逆回転し、時間がぐるぐると巻き戻っていく。

 私たちは矢のように遡る。


「気をつけろ、来るぞっ!」


 サリアの警告。私たちは過去に疾走しながら散開して、同じように遡ってくる攻撃を回避する。

 逃げていく私たちを認識した白き焔の貴婦人が時間流の焔を過去へと放射してきているのだ。

 あの白い焔は事象を加速させて終端に導く、いわば『正の時間流』だ。

 『負の時間流』で過去に飛ぼうとすれば、必ずあの白焔を回避しながらでなければならない。

 風景が逆さまに動き、仲間達が甦っていく戦場を次々と駆け抜けていきながら、私たちは背中を向けたまま炎を撒き散らす白焔のビークレットからひたすら逃げ続ける。

 私をかばって炎をその身に受けるミルーニャの下半身が再生し、見る間に若返っていく。メイファーラの瞳に理性が宿り、リーナが全身に文字を刻印されて苦痛にのたうち、樹木が若木となっていく。

 ティリビナの民たちが泣き喚くその光景を逆走しながら、私はただ逃げることしかできなかった。

 やがて、追撃の焔が止み、サリアと分かれて行動する時がやってくる。

 所詮は劣化した複製でしかない私の時間遡行ではサリアほど遠くには遡れない。

 サリアが遡れる『距離』は彼女がパレルノ山を訪れる直前。

 私が遡れる『距離』はティリビナの民たちが列を作って護送を開始する直前だ。

 この万能にも思える能力には、同じ時間を共有した者同士でないと遡行した事実を伝え合うことが出来ないという制約があるため、私が遡行した時点になるまでは情報共有ができない。


「私が戻った時点から、念のために【未来回想】で情報だけ送ってもいいけど」


「いいから、フィリスは温存しといて。それにあれは錯乱の危険性があるから止めることにしたの」


 なんでも、私は最初は【未来回想】で情報だけを過去に送るという負担の小さい方法を選択していたのだが、それは過去の私を無数の未来記憶で混乱させ、精神に負担をかける結果となっていたのだとか。

 その事に勘付いたサリアは秘術である【時蝿】を私に見せてそれとなく使用を促したらしいのだが、その辺の記憶はほとんど曖昧になっている。

 どうやらその頃はかなり精神的に参っていて、錯乱状態にあったようなのだ。


「ま、頑固なアンタの相手にもいい加減慣れてきたからね。大丈夫、ちゃんと説得してみせるし、できなくてもアンタが戻ってくるまで引き延ばすから」


「うん、よろしく」


 そう言って、私たちは二手に分かれていく。

 私はゆっくりと減速し、本来の時間の流れに戻っていき、サリアは更に負の加速を行って時間の向こうへと遠ざかっていった。

 さて。

 今回の試行を始めよう。





「何読んでるの?」


 端末から書籍画面を立体投影しているメイファーラに問いかける。

 視線の動きを読み取ってスクロールバーが下に動いていく。ごくごく一般的な読書の光景である。


「えっとねえ、こういうのだよ」


 そう言ってメイファーラは書籍情報を表示してくれた。

 相手のふわっとした口調に気が抜けていたのか、私は思わず、


「あっ」


 と声を漏らしてしまった。不覚である。

 小首を傾げるメイファーラに「何でもない」と誤魔化しを口にしてその場をやり過ごした。

 彼女が読んでいたのは、戦場小説あるいは迷宮小説と呼ばれるものだ。

 

「最近読み始めたの。ラーゼフせんせがおすすめだって」


「そ、そうなんだ」


 絶対わざとだ。

 許さない、今度会ったら影の触手で全身をくすぐってやる。


「まだあんまり読めてないけど、これすごい文字数でねー。なんだか読んでも読んでも終わらなくてちょっと疲れちゃうかも」


「申し訳ありません」


「ほえ? 何で謝るの?」


「なんでもないです」


 居心地悪く、呪動装甲の中でみじろぎした。

 そんなふうに会話していると、背後からプリエステラに声を掛けられた。


「二人とも、みんなの準備が出来た――けどさ」


 振り返ると、整列したティリビナの民たちの姿。

 パレルノ山を脱出する準備は整っているが、問題が一つある。

 拘束用の縄で雁字搦めに縛られて、目隠しをされた男と少女。

 ガルズとマリーだ。

 もちろん二人を束縛しているのは全て強力な呪具で、どのような高位の呪術師であっても抜け出すことはできない。ましてや、すぐ近くでサリアが抜き身の短剣を用意しているのだ。下手な動きをすれば二人の首は即座に飛ぶ。


「あれ、本当に連れて行くの?」


 眉根を寄せて苦言を呈するプリエステラに、私はやむを得ないというような口調を作って答える。


「仕方無い。ここに放置してたら世界の更新に巻き込まれて死んじゃうから」


「お願い、ちゃんとした裁きを受けさせるから、だから殺さないであげて!」


 必死に懇願しているのはリーナだ。

 彼女の目的は従兄弟であるガルズを捕まえて凶行を止めること。

 そして、自らの手で捕縛することで誰かに殺されないようにすることもだ。

 アルセミットには死刑があるので、槍神教の司教を複数殺害した上で爆破テロまで行った彼が火刑を免れることが出来るかどうかは正直微妙な所だ。

 クロウサー家という家柄が役に立つかどうかだが――何にせよ、私たちには捕縛してしかるべき機関に引き渡すことしかできない。

 このしかるべき機関というのが松明の騎士団なのか智神の盾なのかがまた難しい所なのだが、それは後で考えるとして。


「あのね、不測の事態――例えば【白焔】とか【死の囀り】とかに遭遇した時に、囮になって貰うって使い道もあるよ」


 私の言葉に反応してサリアが視線をこちらに向けた。兜に遮られて私の表情はわからないはずだけれど、確かに意思が通じ合ったのを感じる。

 私が『合流』したことを無言で確認し合う。


「え、えええ、ちょっとまってアズーリア隊長それは鬼畜過ぎるよ!」


 愕然とした表情で叫ぶリーナを手で制止して、私は続けた。


「たとえばの話。どちらにしても、いざという時に予備の戦力があるのと無いのとじゃかなり状況が変わってくる――というわけで、場合によっては貴方たち二人にも働いてもらうから」


「――やれやれ。いきなり襲いかかられて連れてこられたと思ったら、今度は強制労働か。ついてないな」


「ダメダメですー。【小鬼殺し】がいるなんて聞いてないのでもう死にたい」


 ガルズとマリーは苦言を呈しながらも逆らう様子は無い。

 ――パレルノ山到着直前に遡行したサリアは、転移門の手前で単独での偵察を提案した。


『まずは身軽な私が周囲を哨戒して、ガルズがいないかどうかを確認してくる』


『なら私も連れてって!』


 というやり取りがあり、空を飛べるリーナと人間の限界を超えた俊足を誇るサリアはティリビナの民の集落に向かう私たちとは別行動をとることになった。

 そして、今までの無数の周回から得た情報を元にしてガルズたちの位置を割り出したサリアが瞬く間に二人をねじ伏せ、ここまで連れてきたというわけである。

 考えてみると何から何までサリアの強さに依存した計画である。

 強すぎてもう全部サリア一人でいいんじゃないかなっていうくらい。

 他の二人もこのくらい強いんだろうか。怖い。

 

「小鬼殺しが目を光らせている以上、僕たちに打つ手は無い。大人しく従うとしようか」 


「ハル、念のため契約呪文で私たちに逆らえないようにしておいて」


「おっと、それは断らせてもらおうか」


「――どういう意味?」


 ガルズは肩をすくめて「どうもこうもない」と言う。


「現状、僕たちが助かる道はただ一つ。悪魔の九姉の記憶が襲撃してきて一時的に解放されることだけだ。その状況を乗り切った後、【小鬼殺し】の目を盗んで逃げ出せなければ僕らは逮捕連行即日処刑さ。死ぬことが確定しているのなら君らに協力する意味は無い。襲われたとしても抵抗せずに大人しく死んでやるつもりだ」


「みんな死ねばいいです末世到来ですわーいわーい」


 暗鬱に告げる言葉には本気の色があった。

 呪文で縛れば、彼らは宣言通り何もせずに死ぬだろう。

 それでは意味が無い。


「なら、いっそここで殺しちゃう?」


 メイファーラが朗らかに物騒な事を言う。彼女は悪魔の九姉が二人同時に襲撃してくるという未来を知らない。明確な脅威を潰しておくという意味では彼女の言葉の方が正しい。けれど。


「ううん。やっぱり生かしたまま連れて行こう。ちゃんとした手続きに則って裁きを受けさせないと。だよね、リーナ」


「う、うん。あの、ありがとう、アズーリア」


 どうやら、彼女に配慮した結果だと思われてしまったらしい。

 未来の知識を持っていることを隠さなくてはならない以上、好都合ではあるのだが、罪悪感で胸が少しだけ痛んだ。

 意外にも、反発しそうだと身構えていたペイルからは何の反応も無かった。

 ミルーニャは私の言うことならと受け入れてくれたが、ハルベルトは私の態度に不審を抱いたようで、胡乱げな視線を感じた。

 兎にも角にも、そういう経緯で奇妙な道連れを加えて坑道を進む事になった私たち。以前と違うのは、浮遊する絨毯に乗せられた二人の囚人が最前列にいること。

 そして、サリアが常時二人の動向に目を光らせているために、先行して敵の撃滅が不可能になっていること。

 それでも敵が接近していることはわかるため、その度に足を止めて私とハルベルトが呪文を叩き込み、撃ち漏らした敵をメイファーラとリーナが個別に仕留めていくというやり方で進んでいく。

 サリアが縦横無尽に活躍していた時よりは多少進みは遅いが、充分に順調な進行だった。

 ただし私とサリアは常時緊張したままだ。

 【死の囀り】カタルマリーナは完全に気配を断って接近してくるので、事前に襲撃を察知することが極めて困難だ。

 周回ごとに出現の時間も場所も異なるので、対処がしづらいことこの上ない。

 法則性なども全く見いだせない為、その場その場で対応していくしかないという結論に至った。執拗にプリエステラを襲おうとするビークレットの方がまだわかりやすい。

 それを見越して、『いつものように』私は事前にプリエステラに言い含めておいた。


「エスト、もし【白焔】が出てきたらサリア、さんが相手をするから、貴方はティリビナの民を落ち着かせて、確実に誘導することだけ考えて。怪我をした人がいたらイルスさんと一緒に治療をお願い」

 

「え? うん、わかったけど、どうしたの急に」


「くれぐれも、自分一人だけが犠牲になってみんなを守るとか考えちゃ駄目だからね。全員無事に生きて帰れないと、私いつまで経っても家に帰れないんだから」


「はあ?」


 このやり取りも、もう何回目だろうか。

 いつもなら悪魔の九姉による挟撃という状況に追い込まれた後、さしものサリアといえど神話に登場するような魔女を二人同時に相手取ることはできずに苦戦してしまう。その結果プリエステラは結局この言葉を無視してしまうのだけれど――今回は状況が違う。

 暗がりを松明の紋章で照らしながら歩いていくと、やがて『その時』が訪れた。

 闇の彼方にぼんやりと浮かび上がる半透明の女性。


「お姉、様――?」


 ハルベルトの呟き。私は左手の籠手を外し、槌矛を展開して杖形態に変形させる。サリアが素早くガルズの目隠しをはぎ取り、喉元に短剣を突きつけた。


「浄界を使え。ただしティリビナの民を死人で上書きしたら殺す」


「はいはい、仰せのままに」


 ガルズの金眼が輝き、狭い坑道が塗りつぶされていく。

 背後に現れた白き焔の貴婦人をも取り込んで、世界が変質していく。

 そこは夜の世界。

 一面の闇に塗りつぶされた、漆黒の空間だ。荒れた土。死臭が満ちる大気。風は湿り気を帯びて冷たく、頭上で輝く四つの月は現実の月齢を無視した満月だ。

 私の全身に、無尽蔵と思える程の呪力が漲っていくのを感じる。おそらくは夜の民の甲冑を影に着込んでいるサリアも似たような感覚に奮い立っていることだろう。夜の世界を創造できるガルズを引き込んだ、これが本来の目的だった。

 私たち二人の戦力はこれで格段に上昇した。

 これなら、勝ちの目も見えてくる。


「サリア、後ろお願いっ」


「任されたっ」


 サリアは勢いをつけてガルズの背中を蹴飛ばしてカタルマリーナの前に放り出し、そのまま後方に疾走していく。

 私は杖の天青呪石から伸ばした拘束帯をマリーに巻き付けて、ぐるぐると回転させて前に投擲した。


「これちょっと扱いひどくないですかー」


「死にたくなければ戦え」


 冷たく言い放って、周囲を振り返って声を張り上げる。


「行くよみんなっ! 私とハルとリーナであれを抑えている間に一気に突破して! メイは感応遮断してティリビナの民の護送を継続! ミルーニャ、エスト、ペイル、イルスさんはメイと一緒に転移門に向かって! 護送が最優先!」


「まかせてー」


 メイファーラがティリビナの民を引き連れて進んでいく。

 そうはさせまいと文字を帳面に書き付けようとしていたカタルマリーナの真下から、漆黒の影が飛び上がって翅ペンと帳面を弾き飛ばす。


「悪いけど、貴方の術は全部縛らせてもらう」


 私は己の影――アストラル界にある本体を蠢かせて、無数の触手として解き放った。攻性投射。その一つ一つが個別の攻撃呪文プログラム。時間だけは沢山あったから、相手に通用しそうな構成をハルベルトやカタルマリーナの呪文を参考にしながら片っ端から真似したのである。

 途方もない戦いの記憶――私の呪術師としての技量は、お師様とそのお師様の死闘という最上の手本を幾度も見せられたことによって格段に上昇していた。

 突然に実力が跳ね上がった私は、この世界が夜であるということを差し引いても異様に映ったらしい。仲間達からの奇異の視線。

 けれど、今だけはそれが私に都合良く働いてくれた。


「任せていいんだよね――頼りにしてるよ」


「アズーリア様――どうかご無事で。これ、使って下さい!」


 私を庇って死んでいくことが最も多かったプリエステラとミルーニャが、膨れあがった私の呪力を信じてこの場を任せてくれた。ミルーニャが手渡してくれたのは魔導書【死人の森の断章】だ。設定は以前のまま。アカウントを消さないでいてくれたらしい。

 私は無数の触手でカタルマリーナの細い身体を締め上げ、虚空に固定する。

 その隙にメイファーラ率いる一団が浄界の向こうへと脱出していく。事前に、こういう事態になったら脱出を可能にしておくようにガルズに言っておいたのだ。どうやらサリアの脅しが効いたと見える。

 背後ではビークレットとサリアが激闘を繰り広げ、私、ハルベルト、リーナ、そしてガルズとマリーがカタルマリーナと対峙することになったわけだが。


「うええ冗談きっついよこれ」


 リーナは半泣き半笑いで呻いた。

 【死の囀り】カタルマリーナの亡霊は、私の触手を容易く引き千切ると、腹話術の人形を放り捨てた。

 途端、巨大化した人形が襲いかかってくるが、これをハルベルトの【毛むくじゃらの亀ペルーダ】が迎撃。

 ガルズの邪視、マリーが操る骨花の邪視、そしてリーナが大量の紙片を撒き散らせながら放つ【空圧】が揃ってカタルマリーナを襲う――のだが、全てが無駄に終わった。

 本物ではないただの残響とはいえ、悪魔の九姉の亡霊は圧倒的だった。

 口元の布がはらりと落ちて、美しい唇の形が露わになる。

 その歌声は、口が開く前に夜の世界に響き渡った。

 未来のカタルマリーナが歌った呪文が、時空を超えて未来から過去である今へと響いてきているのだ。

 ただの余波に過ぎないそれは、しかし絶望的な圧力を伴って私たちに襲いかかる。観念的な『前方』から吹き付けてくる『意味の暴風』に意識が飛びかける。

 ここに残ったのは呪術抵抗が強い者ばかりだが、それでもリーナが呻いて耳を押さえ、マリーがびくりと全身を痙攣させ、ガルズが膝をつく。

 幾度となくその攻撃に苦しめられた私は『本命』が来る前に対処すべく黒い魔導書を開いて【爆撃】を発動。

 無効化されることがわかっている爆発を目眩ましにして、杖から拘束の光を伸ばしてカタルマリーナの喉に巻き付ける。呪文使い相手への定石だ。

 だがカタルマリーナは呪文使いとしての極限たる超高位言語魔術師――技量においては言語支配者にも比肩すると言われた世界有数の使い手である。

 その左手が虚空に文字を描き、右手が大陸共通規格の手話で呪文を唱える。

 左右の地面から伸びていた私の影があっけなく霧散し、更には私の拘束帯が強力な呪力ではずされようとしている。


「ハル、極大呪文! 合図したらありったけお願い!」

 

 私は魔導書の呪文で杖の拘束を強化しながら必死に耐える。

 カタルマリーナが本気で歌い出せば状況は一気に悪化する。ハルベルトは即座に私の意を汲んで詠唱を開始する。

 【死の囀り】は無言のまま手だけで呪文を撒き散らしていく。

 虚空を走る文字列がリーナの【旋風】でかき乱され、手話による空間の歪みでマリーの腕がぐるぐると螺旋に捻れていくが、彼女は素早く自らの腕を切断して逃れる。骨花はとっくに破壊されて機能を停止している。

 ガルズは瞳から輝きを放ちつつ、長大な呪文をぶつぶつと唱え続けている。聞き取りづらい暗鬱な言葉の群れが途切れたと思ったら、空に暗雲が立ちこめていく。


「英雄たちよ、今一度現世に集い給え」

 

 やがて黒々とした雲はガルズの周囲に降りてくると、その内部から次々と扁平な墓石が出現していく。

 雲葬――空の民特有の埋葬方法。雲の中から突きだした無数の墓、その数は七。

 びたりと、一つの墓石に血の気の失せた手が張り付く。

 更には他の墓石にも白骨化した腕や、腐敗が始まった手が張り付いて、雲の中から七人の命無き戦士たちが姿を現した。


「【骨組みの花】再結成だ――マリー、いくよ」


「わーい皆さんお久しぶりですー」


 ガルズとマリーを含めて九人――死人使いと死人で構成された、それは探索者の集団だった。

 長槍や槌矛、鉄槌などを構えた前衛が突撃し、斥候が呪符を巻き付けた投げナイフを投擲する。ガルズが後方から邪視で支援を行い、マリーが倒れた死人を【修復】したり前衛に飛び出して負傷者が撤退できる余裕を作ったりと忙しなく動き回る。その動きはとても統制がとれていて――全員を同時に操っているというのではなく、仲間の動きを信じ合ってきちんとした連携をとっているように見えた。

 【骨組みの花】――その探索者集団はガルズを残して全滅したと聞いている。調べた結果だとマリーもその一員であったらしいけれど、彼女はどうみても生きているようにしか見えない。

 その見事な戦い振りは、理想的な探索者集団そのものだ。

 壊滅以前の評判を聞く限り、ガルズがあのような凶行に走る理由が全くわからない。ガルズたちに何があったのか。こんな時だというのに、私はどうしてかそれが気になって仕方が無かった。

 ガルズ達【骨組みの花】が加わったことで、私たちの戦いは一気に安定し始めた。ハルベルトは延々と終わらない呪文を唱え続け、リーナの強烈な【空圧】と私の影の触手がカタルマリーナの左右の手から放たれる呪文をどうにか相殺していく。ガルズ達の攻撃は僅かだが、着実にカタルマリーナの防御障壁を削り本体に手傷を負わせつつあった。

 白骨死体の戦士が槍で腹部を貫き、腐乱死体の鉄槌が頭部を思い切り打ち据えた。カタルマリーナは半透明の身体をぶれさせて、一瞬だが存在が不確かになる。

 ほっそりとした輪郭が歪み、崩壊の兆しを見せ始める。

 その間にも左右の手は凄まじい速度で呪文を紡ぎ続け、未来から襲いかかる歌声が私たちの精神を確実に摩耗させていく。猛攻を抑えきれず、私の触手の間をかいくぐって不可視の呪力が死人を瞬時に灰にした。

 更には暗号化されていた文字列が突如としてその姿を現し、腐乱した斥候の全身を螺旋状の肉塊へと変貌させていく。


「リオン、ギザン!」


 ガルズが悲痛な叫び声を上げる。

 彼らはこの浄界――つまりガルズの世界で再現された死者であるから、また世界を展開し直せば甦らせることは可能な筈だ。

 だがその声に込められた感情は本物の苦痛だった。仲間を失うという悲しみ――それを、私はよく知っている。

 キール隊の皆。そして、今の仲間たちの、あり得たかも知れない結末での死。

 なんだか嫌な感じだった。

 ガルズとマリーは倒すべき敵だ。

 その事情を、内面を忖度してはならない。エスフェイルの時だってそうだった。彼の境遇を理解しつつも、倒すべき敵、憎むべき仇と見定めていたからこそかろうじて勝利できたのだ。

 敵の把握と理解は必要だ。

 けれど、共感しては駄目だ。殺せなくなる。

 そんな心の惑いが呪力をかき乱したのだろうか。

 カタルマリーナの喉に巻き付いていた拘束帯が引き千切られていく。未来から響いてくる歌声が力強さを増し、全身を襲う圧迫感が膨れあがった。


「うわあああやばいやばいこれ逃げよう死ぬ絶対死ぬって」


 リーナが涙目になりながら箒に跨って飛翔しようとするが、彼女はそうやって無理に前に出て突破しようとしては毎回カタルマリーナの呪文に掴まって肉の螺旋になる定めだ。このままだとまずい。


「遡ってっ、フィリスッ!!」


 金鎖を砕き、左手を解放する。

 意識を闇の中に沈み込ませる。敵の『歌』は何度も聞かされた。その度に絶望を味わったが、それだけ学習する時間があったということでもある。

 相手の呪文に対する理解は充分。問題は、それをやらせてくれるかだが――。

 カタルマリーナの口が開き、高らかに清澄な声が響いた。

 何度聴いても思ってしまう。

 これは人の歌声ではないと。

 それは木々が風に揺れて葉が擦れ合う音だった。

 それは寄せては返す波の音だった。

 それは谷間を通り抜けていく冷たい風の音だった。

 それは静かに降りしきる雨の音だった。

 それは稲妻が走り、弾けるように燃え立つ炎の音だった。

 川のせせらぎ。虫の鳴き声。鳥たちの歌。獣の咆哮。

 それらが混ざり合い、調和し、一体となって一つの大きな流れを作り出す。

 人が『歌』というものを体系化する以前の、原初の旋律。

 それは自然界が生み出した、最も古い形の神々への頌歌。

 古来、人は自然に神を見出し、神話を構築してきた。

 その根源とも言える最古の『意味』が全くの無加工で投げ出されていく。これは無限の可能性を有する呪文の種なのだと私は知っている。

 混沌とした自然界の環境音が、瞬時に秩序を与えられ、束ね上げられ、無数の順列組み合わせによって夥しい数の呪文となって侵攻を開始する。

 全てが本命で、全てが偽装。

 迫り来る呪文の嵐に、私は魔導書と影から呪術を吐き出して迎撃する。

 無数の触手が呪文と激突しては消滅していく。

 リーナが悲鳴を上げ、ガルズたちが衝撃によって弾き飛ばされた。

 私の背後ではハルベルトが呪文を解放しそうになるが、私の制止でかろうじて踏みとどまって機会を待つ。

 左手から伸ばした解体の触手は呪文の嵐の中を疾走し、『核』となる部分を探して彷徨う。そこに【静謐】をぶつければ相手には確実な隙ができる。ハルベルトの出番はその時だ。

 カタルマリーナが歌い続ける呪文の幾つかが【静謐】としての形をとり、私のフィリスによる【静謐】を打ち消す為に活動を開始する。

 私は影から引き出した触手を囮にしながら、魔導書で障壁を張りつつ前進。

 撃ち漏らした【静謐】が私に襲いかかるが、その【静謐】を金色の輝きが貫く。

 ガルズが邪視を発動させて【静謐】を打ち消したのだ。

 邪視による打ち消し。系統こそ異なるが、あれもまた別種の【静謐】に違いない。それはガルズが紛れもない高位呪術師であることを意味していた。

 打ち消しの呪術が吹き荒れる嵐の中を、私は必死に進んでいく。

 鎧に包まれた足が重い。

 未来から襲いかかる歌と今現在響いている歌、更には過去からの歌声が重なり合い、三重になって増幅された呪力の波が私の全身を絶え間なく責め立てる。常時【空圧】を浴びているような息苦しさだった。

 それでも私は前進する。

 ここで折れれば全てが終わってしまう。

 杖から拘束帯を放出し、カタルマリーナに伸ばす。喉を狙ったそれは弾かれてしまうが、狙いはその後ろ。

 ガルズが回り込ませていた暗雲と墓石に巻き付けた光の帯を、一気に引っ張る。

 背後から襲いかかった衝撃にカタルマリーナがよろめき、一瞬だけ呪文の嵐が弱まった。

 好機。

 私は左手に強く念じた。【静謐】が呪文嵐の中心らしきものを見つけ出し、非実体の触手を伸ばすと一気に解体する。

 これで呪文嵐を全て打ち消せば、ハルベルトの極大呪文で一気に勝負を決められる。そう思ったその瞬間だった。


「嘘、なにこれ」


 左手で解体したと思った呪文嵐の『核』が、爆発して私の全身に拘束帯を巻き付ける。意趣返しのつもりか、私が杖から放っていた光る拘束帯と全く同じ呪術だった。しかしその強度は段違いだ。


「【陥穽エンスネア】――駄目だ、あれは囮だったんだ」


 リーナが呆然と呟いた。

 彼女の言うとおり、私はまんまとカタルマリーナの策に嵌っていた。

 話によるとこのカタルマリーナは記憶とか残響みたいなものでまともな知性は無いらしいが、無意識のまま戦っているとは信じがたい狡猾さだった。

 だが、必ずしも手詰まりというわけではない。

 こういう状況もあり得るだろう、と予想していた私はあらかじめ保険をかけておいたのだ。影を介して、私はもう一人の私に呼びかける。


「【静謐】に【静謐】をぶつけてくるなら、こっちは【陥穽】に【陥穽】!!」


 カタルマリーナの背後から黒衣を纏った私の分身が姿を現し、無数の触手で彼女を絡め取った。

 天眼の民の錬金術師メイエルの箴言にこんなものがある。『落とし穴なんて、大抵は掘った奴が労力の分だけ損をする』――対抗策の対抗策を編みだして、更にその対抗策を――という不毛な浪費を避ける為に、対抗呪文使いは相手の力量を正確に見切って必要十分な対策を考えておくことが必要になる。

 私はあらかじめ自分の影の一部を切り離して待機させていた。その分だけ減少した私の呪力総量を見たカタルマリーナは、私の実力を見誤ったのだ。

 本来、分裂は自らを弱体化させるだけの行為だ。

 昼間なら自殺行為だし、夜だったとしても『私』という個我を危うくしかねない危険な試み。精神が未熟な幼少期や衰えた老年期ならまだしも、年若い私がするべきことではない。

 けれど、今の私は無数の戦闘経験があり――なにより、その度に接触していた私の守護天使によって呪力の総量が無尽蔵なまでに膨れあがっている。

 頼りすぎればサリアの忠告した通り飲み込まれかねない力だが――今はこの力に頼るしかない。

 ぞくりと全身を貫く震え。

 影から呪力を汲み上げるたび、肉体が変質していくのを感じる。

 切り離した私の一部が無数の触手を使ってカタルマリーナを拘束するのを見ながら、私は思い出していく。

 ああ、そうだ。

 私は縛る者であっても、縛られる者ではない。

 いかに彼女が最高位の言語魔術師であったとしても、こと束縛バインドに関して私が遅れを取る理由が無いのだ。

 この程度の【陥穽】では、私を縛ることはできない。

 私は窮屈な甲冑の隙間から這いだしていく。

 無数の黒い繊維質がざわざわと関節部や兜の隙間から出て行くと、細い繊維が依り合わさって幾本もの触手へと束ねられていく。『私たち』は逆に【陥穽】を束縛するとそのまま内側に取り込んだ。

 呪力を取り込み、喰らい尽くす。

 青い翼を広げ、触手の一部を硬質化させて角にする。

 蠢く触手たちの中心から無彩色の左手を突き出して、私は影から咲き誇る異形の花となって呪文嵐の中を進む。

 襲いかかる呪文を触手で引き裂き、逆に触手を引き裂かれながらも私は本物の【核】を見つけた。

 蠢き続ける触手の中から牡鹿と牝鹿、そして霊長類体の私の頭部が三つせり出して、フィリスを中心として鳴き声を上げる。甲高い詠唱。


「サカノボッテ、フィリス」


 無数の影が屹立し、夜闇の中で輪を描くように大小様々な触手が動き続ける。

 私は踊る。

 蠢き、脈動し、蠕動し、這いずって、あらゆるものを拘束する。

 あらゆる呪文が繋ぎ止められ、関連づけされていく。

 私は中心である【核】から連鎖的に結びつけられた呪文嵐の総体を捉え、一気に解体を行う。


「ゲンリノヨウセイカタリテイワク」


 わたしたちは口々に輪唱していく。牡鹿の私が、牝鹿の私が、霊長類の私が、その総数を私すら把握できない数の触手である私たちが。

 呪文を唱える。教えられたとおりに。学習したとおりに。

 摸倣こそが私の生態だから。

 お師様とそのお師様の呪文を正確に複製して、理解して、解体する。

 影の触手は嵐となって空間を蹂躙し、広がった青い翼が巨大化して月光の呪力を効率よく吸収する。

 月と影から無尽蔵に供給される呪力でもって、【死の囀り】の『歌』を解体していく。ばらばらにしていく。ぐるぐると触手で引き千切る。

 身体の中心にある左腕が盛り上がり、膨らんだ闇の塊が沸騰するかのように泡立っていく。色のない左腕の輪郭が曖昧になり、無数の泡となって散らばる。

 ぱちぱちと弾ける度に、中から小さな私が出現する。

 極小の触手を束ねて作ったそれは、影の海に咲いたアネモネ。

 色の無い、黒花翁草。

 夜風に運ばれていく夢幻泡影の種子。

 泡が弾けて生まれていく、儚くゆらぎ続ける仮想の命。

 黒いそよ風が吹いて泡が弾けるたび、小さな触手が飛び上がって増え続ける。

 私たちは解体する。

 目の前にある全ての呪文を解体する。

 過去の私が命じた通りに実行する。

 難しいことは考えられないけど、そのようにプログラムされたから後は言うとおりにして母体に回帰していくだけ。

 ひとつになればすぐに元通り。頭が良くなってどうすればいいのかちゃんとわかる。やることはひとつ。解体すること。

 ばらばらにして、ばらばらにして、解き明かして解き明かして構造を理解して把握して全容を解明してこの単純な肉体構造でも摸倣できるくらいに緻密に再解釈して再現を実行していく。

 『一番最初の幹』に触れるまで、ずっと忘れていた。

 私たちは霊長類の『代理親』を参照して変身形態を記録するから――私の場合はずっとビーチェの『家族』としての個我を自らに与えていたから、自分の本当の機能を制限してしまっていたのだ。

 私たちは、本当はこんなにも自由なのに。

 指とか足とか、不器用で杖に向かないとか、考えてみれば当たり前だ。

 あんなにも不自由な肉の身体で、一体どうやって器用さを発揮しろと言うのか。

 私たちにとってはそちらの方がよほど不思議。

 呪文嵐を綺麗に飲み込むと、影から触手を一本だけ伸ばしてハルベルトに合図を送る。

 何故かびくりと身体を震わせた彼女は、どうにか詠唱を完了させて私に拘束されたカタルマリーナの亡霊に狙いを定めた。

 私を見て、一瞬だけ躊躇う。

 それでもハルベルトは千載一遇の機会を見逃すことはしなかった。


「【オルゴーの滅びの呪文オルガンローデ】よ――在れ」


 詠唱時間に応じてその規模が膨れあがっていく極大呪文が、ついにその枷を解き放たれた。

 ハルベルトが構築した呪文竜は絶えずその姿を変幻させながら長くのたうち、しつこく過去から響いてくる呪文嵐をものともせずに夜闇を引き裂いて高く舞い上がった。

 月光を背にしながらその大きな顎を開くと、カタルマリーナを噛み砕かんと呪文で構成された牙を突き立てる。

 私の一部が膨大な呪文によって殲滅されていく。凄まじい痛みに耐えかねて、私を切り離した。経験した記憶が消失してしまったが仕方が無い。

 防御障壁が容易く破砕され、対抗呪文を唱える余裕すら無いままに、カタルマリーナは極大呪文の直撃を受けて全身を崩壊させていった。

 役目を終えた呪文竜が姿を消していくが、その時だった。

 消えゆくカタルマリーナの口が微かに動き、末期の呪文が発動する。

 【断末魔】の呪文。死に際に発動し、敵を道連れにしていくその即死呪術がガルズに襲いかかる。

 咄嗟に彼の前に出たのはマリーだった。

 仲間を庇おうとした彼女を見た私は――


「フィリス」


 自分でも理由がわからないままに、【断末魔】の呪文を打ち消していた。

 信じられないものを見るような視線が複数向けられて、私は思わず触手を小さく引っ込めてしまう。しょんぼりとしてしまって、翼が畳まれていく。

 わかってる。私は馬鹿だ。

 ガルズの浄界が解除されていき、夜が終わっていく。呼び出された死人たちも暗雲の墓石に帰って行く。

 ガルズには負傷した様子が無い。マリーも失われた片腕をいつの間にか復元していた。私は用心深く二人を監視しながら、サリアの様子を窺う。

 サリアの戦いもまた終了しているようだった。

 影の鎧を装備した彼女は、私と同じ様に月夜に力を増す。

 それでも激しい死闘を演じたようだったが、【白焔】ビークレットは全身を無数の槍で貫かれた挙げ句、二振りの短剣で喉と心臓を抉られて絶命していた。

 その輪郭が曖昧になり、白い炎が吹き上がって自爆しようとしたが、


「凍れ」


 という一言で全身が凍り付き、次の瞬間には粉々に砕け散った。

 きらきらと氷の粒が輝き、やがてそれも霧散していく。

 戦いは完全に終わった。

 私たちの勝利だ。

 ガルズたちは隙を窺っていた様だが――カタルマリーナとの戦闘中、既に私は二人の影に触手を巻き付かせていた。

 アストラル体の動きが妨げられている上に、サリアまでほぼ無傷で戦闘を終えている。この状況での抵抗を無駄と悟ったか、ガルズは溜息を吐いて両手を挙げた。


「お手上げだ。まさか英雄様がここまで【始祖】に近い怪物とは思わなかったよ。これは正攻法ではどうやっても勝てないな」


「ダメダメでしたー。以前みんなでロードヴァンパイアとかリュカオンとかレイスとかに遭遇した時も全部逃げてましたしー。そもそも人間が勝てる相手じゃないんですよー」


 今は異獣に堕ちてしまった夜の民の他の氏族たち――その中でも強力な個体は確かにそのように呼ばれていて、他の種族と比べても非常に恐れられている。

 私が『そう』であるかどうかについて――正直あまり実感が無いけれど、『本体』の話では私はプリエステラやクナータと同じらしい。

 ということはやっぱり私は上位種――それも精鋭種を超えた固有種というやつらしい。驚きの新事実である。

 なるほど。

 先程からやたらと視線を集めているのはそのせいかもしれない。

 と、リーナが倒れたまま動けないでいるのに気付いた。

 私はうにょうにょとうねる触手を差し伸べて尻餅を着いたリーナを引っ張ろうとした。この状態でも腰と足が地面から僅かに浮いているのがちょっと面白かった。


「嫌っ」


 ――おや?

 リーナが、紛れもない恐怖の感情を顔に浮かべている。

 どうしたんだろう。

 もうここには脅威が存在しないというのに、一体何がそんなに怖いというのか。


「あ、その、違うの、えっと」


 リーナは慌てたように取り繕おうとするのを、ガルズがおかしそうに嗤う。

 ハルベルトが私に近付こうとするが、一歩だけ足を踏み出して、それきりその場から動けなくなってしまった。

 ふと、記憶に甦る声があった。

 幼い頃の教え。妹と長老様が何度も言い聞かせてくれた『躾け』だ。


『いいですか、小さなアズーリア。外に出たら、私のように霊長類の真似をしなければいけませんよ。変身に疲れたら、全身を黒衣で覆い隠すのです』


『このように、地上では基本的に霊長類の摸倣をして無用な軋轢を生まぬようにするという取り決めがなされたのですな。これにより我々夜の民は地上で生きることができているわけです。こらこら、年寄りの退屈な話とはいえ、これはきちんと覚えないと駄目ですよ。変身が村で一番上手だからといって、気を抜いてはいけませんよ。感覚ではなく知識として覚えるのです』


「あ」


 やっちゃった。

 ここがあんまりにも夜のようだから――極限の状態、始祖に触れた恍惚、その他色々な要因があるけれど、一番大きいのは私の油断。

 まるで自宅でするように、もの凄く自由に振る舞ってしまった。

 周囲はみんな引いている。

 どうしよう、とうねうねしていると、かつかつと足早にサリアが近付いてくる。

 彼女は私の触手をぎりぎりと抓ると、


「アストラル体拡散させすぎ太らせすぎ。だらしないからさっさと黒衣に仕舞いなさい。ほら触手は影に引っ込める。イソギンチャク料理にして喰ってやろうか」


「やー! 痛い痛い、私おいしくないよ!」


「でしょうね。私もこんな下手物食いはちょっと勘弁だわ」


「ひーどーいー!」


 彼女に言われたとおり、私は黒衣を心の抽斗から取り出して身に纏う。

 途端、黒衣に合わせて縮んでいく私の体躯。

 鎧は【陥穽】ごと食い尽くしてしまったので存在しない。

 しまった、借りてるだけだから賠償しないといけない。


「うう、サリアの買い物に付き合った上に鎧の賠償まで。私のお財布が」


「はいそこグダグダ文句言わないの。いいから行くよ」


 サリアは私を引き摺りつつガルズとマリーを拘束していく。

 彼女は先程の激闘が嘘だったかのように振る舞いながら、遠巻きにこちらの様子を窺っていたハルベルトとリーナに声をかけた。


「ほら、しっかり引き取ってよ。【チョコレートリリー】なんでしょう」


 サリアの声が、少しだけ鋭さを帯びた。

 それを聞いて弾かれたようにハルベルトが走り出した。

 私の黒衣にしがみつき、ぎゅっと左手を握る。その感触を確かめるように。

 私は無言で握り返す。ハルベルトはほっと息を吐いて私に縋り付いてきた。

 リーナはまだ遠巻きに見ているだけだったが、小さく「ごめんね」とだけ言って私たちの歩みに加わった。

 私はガルズに目隠しをしているサリアを見た。


「何?」


「ありがとね」


 それは、色々な意味が込められた感謝の言葉だった。

 サリアはずっと私を助けてくれた。

 特に最後のは、ちょっとしたことだけれど、この上なく私の気持ちを救ってくれた。実のところ、今回一番嬉しかったのはこの事かも知れない。


「そうねー、ちょっと働きすぎたし、これは追加報酬が欲しい所ね」


「う、私のお財布が空にならない程度で許して下さい」


「さーて、どうしようかな」


 気安く言葉を交わし合う私たちに向けられるハルベルトたちの不審な視線。しまった、急に仲良くなりすぎた。いやでも、窮地を共に乗り切った仲ということでここは一つ納得していただきたい。




 そんな私に向けられる視線が、もう一つ。

 目隠しをされる直前。

 金色の視線が、じっと私を観察していた事も、それが私の命取りになることも、その時の私はまだ気付いていなかった。











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