3-12 隠れた変数(オクルトゥム)
「それは無茶。やめておいた方がいい」
探索者サリアは、怜悧な瞳に静かな光を湛えながらそう忠告した。
夜も更けて、賑やかだった店内からは人が少なくなり始めている。
そんな中、私たち六人と二人の探索者は通路を隔てて言葉を交わしていた。これが人の多い時だったら声は喧噪にかき消されたかもしれない。店内に流れている背景音楽はしっとりとした譚詩曲。私の好きな歌姫Spearの『世界が一つだったなら』が緊迫した雰囲気を和らげていく。
「はい、私もそう思っていたのです。だからこそ、お二人の力をお借りしたいのです。どうかお願いできないでしょうか」
私はそう言って二人の探索者――アルマとサリアに嘆願の意を示した。すなわち、左手を前に差し出したのである。
その上には最上級のチョコレート菓子。断腸の思いで手放した心付け――甘いものの贈与。単純な比較はできないが、夜の民にとっての三本足を差し出すほどの行為である。誠心誠意のお願いだった。
しばしの沈黙。悩む気配が感じられる。
その間に、私は少しだけ前の出来事を回想する。
アルマとサリア、冬の魔女の仲間二人と偶然の再会を果たした私は、唐突にこれだと閃いた。稲妻のように私に直撃したその発想はある意味では暴挙だったが、同時にこの上ない天啓にも思えた。
ティリビナの民の護送。そしてガルズとの対決。
二つの困難を前にしている今、私たちは戦力に不安を抱えている。
ティリビナの民は異獣とされている。松明の騎士団は動かせず、人を雇おうにも信用のおける相手でなければ裏切られて守るべき相手が狩られかねない。
そしてガルズの力は強大だ。四英雄に次ぐと言われた程の実力者。並の探索者では相手にならない。
では、四英雄の仲間たちを雇えばいいのではないか。私はそう考えたのだ。
私は二人について何一つ知らない。一昨日の朝に少しだけ関わった程度だ。
しかし――
「信用できそうだと思った根拠は、お二人がエストを見ても特に何も言わなかったからです」
私たちがついている六人掛けの座席と長卓の奧。プリエステラは私が身に纏っているような黒衣で姿を隠していた。
私が混じりけのない黒で、ハルベルトがやや青みがかかった蒼黒。プリエステラはやや緑色に近い黒だった。
ぱっと見たところでは、夜の民が三人混じっている集団にしか見えないだろう。
だが、二人の探索者は見分けのつかない黒衣を見て、一目で私個人を特定していた。フードの内部が見えないように認識妨害の呪術が働いているにも関わらずだ。それはつまり、二人の霊的視力が高い事を――邪視の能力が高い事を示している。
そして私はハルベルトに聞いていた。冬の魔女コルセスカは邪視の座の末妹候補であると。ならば、おそらく二人はその使い魔だ。邪視のグロソラリア。あるいは転生者の方か。
二人は私の正体を見破り、同時にプリエステラが樹妖精であることもまた看破しただろう。
にも関わらず、彼女たちは探索者として『正しい』選択をしなかった。
最上級の探索者である二人には今更そんなことをする必要が無いからなのか。それとも別の理由があるのか。
私は、初対面の事――絡まれそうになっていた私の前に立ちはだかってくれた二人のことを思い出す。私を気遣ってくれた。通報されかねなかった男を助けようとしてくれた。その振る舞いを。
先にそのことを皆に相談したが、私を止めるものはいなかった。それどころか、
「私も正直六人だけでみんなを守りきれるかどうか不安だった。だから、それが可能そうなら是非お願いしたい」
と、プリエステラが積極的に賛同してくれた。
またハルベルトの方はフードでしっかりと両耳を隠しつつ、
「あの二人はハルと面識が無いから、耳さえ隠しておけば多分ばれない。ただこれから出来るだけ『ハル』とだけ呼ぶようにして欲しい。名前を知られたら偶然じゃ通らない」
ハルベルトはコルセスカと積極的に敵対しているわけではないが、さりとて協力関係というわけでもないらしい。
共通の敵であるトライデントと相対した時ならば共闘も可能だが、コルセスカがいない今、二人の仲間達がどのような反応をするかは未知数である。
果たして、二人の返答はどうなのか。
お菓子を差し出し、嘆願の姿勢で私は待つ。
ややあって、アルマが答えた。
「うん、できれば手伝ってあげたいな。コアちゃんならきっとそうすると思うし――けど、ごめんね」
私に対して友好的なアルマの言葉に、落胆が広がっていく。
彼女はとても優しい表情をしていた。プリエステラと私を見る目に宿るのは同情だろうか。彼女で駄目となると、当然もう一人の方も無理だろう。
だが私の予断を裏切って、アルマの言葉が続く。
「私は事情があって手伝いたいけど手伝えないんだ。だからサリアちゃんよろしく」
目にも留まらぬ速さだった。アルマは私の手からお菓子を素早く掴み取ると、神速の手さばきで包み紙を剥がしてそれを相方の口の中に放り込む。
不意を突かれたサリアは目を丸くした。どうにかしてそれを吐き出そうとするが、アルマの両腕が形の良い頭部と顎をがっしりと掴む。
凄まじい剛力。びくともしない両腕。開くことを許されない口の中でチョコレートが甘く溶けていく。
「はい、食べちゃったからには断れないねーサリアちゃん」
「あっ、アンタねえ――」
恨みがましい視線でアルマを睨み付けるサリア。人を殺せそうな視線を受けても平然と微笑み続けていられる胆力は尋常のものではない。
サリアはしばらく眉根を寄せていたが、
「あのね、繰り返すけどそれって無茶よ。そのガルズとか言う奴から身を守ることだけ考えた方がいい。そうでなければ、狙われてる貴方だけが警備の厳重な時の尖塔に引きこもって、他の五人で護送任務をやった方が危険が無い」
サリアの言うことは正論だった。私のせいでティリビナの民がガルズの襲撃に巻き込まれるようなことは避けねばならない。
しかし。
「悪いけどそうしたらハルはアズの傍に付く。アズの安全が第一だから」
「あたしも同じく。持ち場離れたらラーゼフせんせに怒られちゃう」
「エストさんには悪いですけど、今のミルーニャにとってはアズーリア様が最優先です。本当に、諸悪の根源が何を言っているのかと思われるでしょうけど――ごめんなさい」
「私はあのやろーが来そうな方で待つよ。エストには悪いけど」
つまり、私が待機して身を守ることに専念すると、ティリビナの民の護送に割り振ることが出来る人員がエスト一人になってしまうのだ。
そして、更新間近の現在のパレルノ山は先日よりも遙かに危険な場所である。ティリビナの民だけで移動するのはいかにも危険である。
本来ならば一昨日の夜に祭りが終わった後、すぐにでも出立する予定だったのだが、樹木巨人になった直後で疲労し、しばらく動けなくなってしまったのだった。
だから、ティリビナの民が危機に陥っている原因は巻き込んだ私たちや――ミルーニャにある。彼女の幼い表情は、とりわけ申し訳なさそうに見えた。
サリアは深々と溜息を吐く。
癖なのか、編み込まれた栗色の髪を手で触りながら、
「随分と好かれてるのね」
と呆れたように言った。
それから、長い指先を一瞬だけ口元に近づけて思案し始める。
何かの感触を反芻するように。
「まあ、食べちゃったし――美味しかったし、仕方無いか」
表情から迷いが消えたサリアは、決然とした表情でこちらを見る。
「言っておくけど、さっきのお菓子とは別に護送任務の報酬は相応に貰う。その条件でなら手を貸す」
「ありがとうございます!」
喜びが口から溢れ出た。たとえ一人でも心強かった。何しろ彼女は英雄の仲間。下手に人数を揃えるよりもずっと信頼が置ける。
きっと優しい人に違いない――根拠は第一印象と直感だけという頼りないものだったけれど、私の直感は正しかったようだ。
夜の民は呪的素養に優れる。とりわけ夜に働く直感は馬鹿に出来ない。
私は、自らの種族特性を信じて彼女たちを頼ることに決めたのである。
その後、お互いに自己紹介をしつつ連絡先を交換し、明後日に迷宮の転移門で落ち合う事を約束した。ハルベルトが契約の書面を即座に立ち上げ、署名して貰うのも忘れずに。
前払いで報酬の半分が振り込まれた事を確認すると、サリアは改めて協力の意思を示してくれた。
店を後にした私は、とても晴れやかな気分になった。
六人全員でお泊まり会――というのはメイファーラの言である。
私は松明の騎士団が管理している宿舎で寝泊まりしている。非霊長類系の眷族種が多く居住しており、その気風はどちらかというと大雑把である。ハルベルトの無理な申請が通ったのはその事も影響しているのかもしれない。
「宿舎から少し離れた場所にある訓練合宿用の大きな部屋を借りられたから、しばらくはそこで寝泊まりすることになる。夜に襲撃を受けた時に被害を押さえつつ即座に救援を頼める位置。警備の強化も申請して、さっき通った。自動鎧がうろついていると思うけど気にしないで」
車両に並んで座りながらハルベルトが言った。
隣に座る私が訊ねる。
「部屋から私物持ち込んでもいい?」
「構わない。ハルもそうする」
これは昨日判明したことなのだが、ハルベルトは私の隣室に引っ越してきていた。しかも一人で二人部屋を占有し、あまつさえ改装して広々とした一人部屋にしていたというから驚きだ。
本人は「これで修行が捗る」などと言っていたが、私は師匠の行動力に唖然とするばかりだった。
「うーん、あたしも引っ越した方が護衛がやりやすいかなあ」
「あっ、ずるいですよミルーニャもアズーリア様のお隣に住みたいですー! っていうかむしろ同棲したいですぅ♪」
「いや、先輩それ家の管理どうするの」
「そういえば私らも用意された敷地内で生活することになるのか。みんな、屋根のある建物に馴染めるかなあ」
「光合成ができる空間は用意する。ハルに任せて」
口々にお喋りをしながら、車輌を降りて改札から駅前に出る。宿舎までの道を知っている私とハルベルトを先頭に、六人で歩いていく。
日が暮れて、四つの月光の呪力によって輝く街灯が夜の道を照らす。
淡い蒼銀色がぼんやりと夜の雑踏を包んでいた。
道行き人々は帰宅する者もいれば、これから一日を始めようとする者もいた。
私のように概日リズムを変えていない夜の民たちにとっては、夜こそが活発に動く時間帯だ。黒衣を纏った姿が決して多くはないものの、辺りに散見された。頭の横から兎の耳を垂らした耳長の民たちの姿もある。
月光の下で、昼とは異なる街の姿がそこに現れていた。
ふと、そんな中で目に付く姿がある。
駅前で、青年が立て看板を掲げながら寄付を呼びかけていた。
「――清浄なる世界を実現せんが為、皆さんの力をお借りしたい! 野蛮で汚らわしい異獣どもをこの世から完全に駆逐し! 偉大なる槍神の威光によってこの世の全てを平定する! これこそが正義! これこそが我々が完全なる自由と平和を獲得するための唯一の方法なのです!」
顔立ちは覚えていない。覚えられない。
けれど、その声と背格好に覚えがあった。
立っている場所が、同じだったからかもしれない。
「皆さんの心遣いによって我々の大切な隣人達が守られるのです! 邪悪な異獣、おぞましい侵略者どもから愛する家族や大切な友人たちを守らんが為に! 是非とも、是非とも寄付をお願いします!」
一昨日、私は同じように駅前で叫ぶ青年を見た。
下方勢力との対話や融和を叫ぶ、地上の在り方に疑問を投げかける青年の姿を。
順正化処理。その結果が、いまこの場所に現れていた。
彼は道を行く夜の民の腕を掴み、爛々と輝く瞳で熱っぽく訴えかけた。そこには自らが掲げる正義への確信があった。
「おお、君ならわかってくれるだろう? 霊長類からかけ離れた異形の諸部族でありながら地上で暮らすことを許されているのは、君たちがマロゾロンドの加護を受けているからに他ならない。槍神教への忠誠を示すことこそが君たちが許される唯一の道なのだ。わかってくれるね?」
半ば脅迫のようにして、彼は強引にその夜の民から寄付を集めていた。掴まってしまった夜の民も諦めたように紙幣を手渡した。心なしか、一般的に適切とされる寄付の額よりも多めだった。
私の背中に、そっとプリエステラが近付いた。
「はやく行こう、アズーリア。なんだか私、怖いよ」
悲しそうに、そして不安そうに彼女は言う。
あの青年が、一昨日はまるで逆の事を叫んでいたと知ったら、きっと彼女はもっと悲しみ、不安がるだろう。私は無言でその場を立ち去った。
この地上で槍神教に立ち向かうとは、こういうことなのだ。
ガルズ・マウザ・クロウサーは、その槍神教に対して公然と刃向かった。
果たして、彼は何を思い、何を為そうとしているのだろう。
疑問は、夜の雑踏に紛れて消えていった。
「広ーい」
メイファーラが嬉しそうに言った。
清掃用の使い魔によって事前に掃除がされているようで、部屋は清潔だった。
私は早速就寝の準備をしようとしたのだが、
「さわさわ、かさかさ、お手伝い、お掃除お天気お留守番――【家妖精】よ、在れ」
ハルベルトが呪文を唱えると、仮想使い魔が出現して瞬く間に布団を敷き、床に熱を発生させて少し冷えていた部屋を温めていく。
役目を終えた半透明の少女は、虫のような翅を広げてそのまま外に出て行った。ハルベルトによると、家事の手伝いだけでなく見張りとしても機能するらしい。
「すっご、何あれ」
リーナが愕然としてハルベルトを見ていた。呪術師として、言語魔術師としての技量の高さを目の当たりにして驚いているのだろう。
私は自分の事でもないのに鼻高々になった。
「めっちゃ便利そう! 特許とらないの? ウチの会社が超欲しがるよそれ」
「既存技術の組み合わせで再現可能。似たような事ならハルじゃなくてもできる」
「でも性能と自律性が段違いじゃない! しかもあの短くて無駄のない呪文構成――勿体ないよ! 一稼ぎできるよ絶対」
リーナは目を輝かせてハルベルトに詰め寄った。
お金持ちのご令嬢の筈だが、なぜそんなにお金にがめつそうなんだろうか。
ハルベルトの反応は素気ないものだった。
「断る。呪文とは神秘。秘匿されるべきもの。他者に伝えるにしてもそれは出来る限り師匠から弟子に、伝達の齟齬が無いように、解釈の誤りが無いようにされるのが理想。そうすることで摸倣子の純粋さを保ち、神秘としての格を維持するの」
ハルベルトの言葉は呪文使いとしては当然のものだった。リーナは悄然と項垂れて諦めたようだった。
そのやり取りを見て、ミルーニャが馬鹿にしたように口を開く。
「はあ、これだから呪文使いはせこいって言われるんですよ。そうやって呪術を独占するから、既得権益を抱え込んだ血統系呪術師の貴族なんかが未だに大きな顔をしている。格差が拡大して資源は偏るばっかり。古代の言語支配者たちの理念に立ち返れば、あらゆる呪術はオープンソースであるべきだというのに」
「下らない。ラディカルな思想を掲げた杖使いの言いそうな戯言。そんなことをすれば呪術を呪術たらしめている非再現性や非局所性が失われてしまう」
「それは仮説に過ぎません。大体、再現性のある杖の呪術が呪文をエミュレート可能な時点でその理屈は成り立たないはずです。詭弁ですよ」
ハルベルトとミルーニャは何やら呪術的な思想、見解を巡って対立しているようだった。交わされる議論の内容は難しくて、未熟な呪文使いである私にはわかりかねる。周囲のみんなもぽかんとして二人の言い争いを眺めている。
そのとき、リーナが何かに思い当たったようにはっとして、普段から使っている透明なケースからノートを取り出した。
そして置かれていたミルーニャの鞄をごそごそと勝手に漁り出した。
「なにしてんですか」
「あっ――いったー!」
あった、と言おうしたリーナは後頭部をはたかれて発言内容を変更していた。流石に自業自得だと思った。
その手に握られていたのは、ひと揃いの呪具。複雑な細部をした円筒形の『杖』と小さな台座。その上には紙と二つの切れ目が入った仕切りがある。
なんだろう。何か、ハルベルトが端末に送ってくれた呪術の教科書であんなものを見たことがあるような気がする。
「いきなりどうしたんですか――ああ、そういえばさっきレポート課題がどうとか言ってましたね。副専攻の杖の講義で二重スリット実験なんてやるんですか」
「うん。講義だと電子線バイプリズムっての使ってたんだけど、出された課題はこっちの杖でのビーム照射方式。手伝って」
「自分でやって下さいよ」
「一人じゃ実験結果の非再現性が確認出来ないじゃん!」
聞けば、リーナはハルベルトとミルーニャの口論から課題内容を思い出し、それを手伝って欲しいのだとか。
大学生も大変だなあと思いつつ、私は快諾した。それに私はどうにか思い出しつつあった。二重スリット実験。確か近代以降の呪術理論の基礎となる実験で、非常に重要な内容だったはず。
ハルベルトに訊ねられて答えられなかったらまずい。ここで復習しておこう。
「はあ。まあいいですけど。本当は、厳密な結果を得るためにはもっときちんとした環境と設備が必要なんですが――この中で杖使いとしての純度が高いのはミルーニャだけみたいですし、実験に厳密さを求める必要は無さそうですね」
肩をすくめながら、ミルーニャは機材を床に置いて実験を開始した。
私たちはその様子を見るために周りに集まっていく。リーナはノートを手にして結果を書き込んでいく構えだ。
「折角です。この機会に皆さんの呪術適性を再確認しておきましょう。【チョコレートリリー】がどんな戦力構成なのかを把握しておいた方が、一緒に戦う時に連携がとりやすいでしょうから」
二重スリット実験。
それは呪術の基礎的な実験であると同時に、その実験を行った者の呪術適性、資質の傾向を測る為の検査でもある。
それは、この実験で得られる結果が、行った者の適性によって変動するという特異なものであることに由来する。
設置された台座が小規模な【窒息】の呪術を発動させ、その内部を真空状態にする。あらゆる電磁波が遮断され、闇が台座を覆った。これは厳密さを重んじる杖の呪術師にとっては必要な措置なのだという。
被験者は電子銃と呼ばれる杖を手にして、電子線を収束させて照射する。
それが世界に与える影響はごく小規模であるため、銃士でなくとも使用することが可能である。
まず、継続して放出された電子は仕切りとなる二つのスリットを通り、その向こう側に置かれた写真乾板に到達する。かつては写真術による呪殺に使用されていた感光材料だが、当然人を写せないように安全対策が施されたものだ。
実験が終わり、闇が晴れる。
果たして、二本のスリットを通過した電子は、写真乾板を感光させて濃淡の縞模様を作っていた。
「はいはい、あたし知ってます。電子って波の性質を持ってるんだよね。だから二つのスリットを通った波が干渉し合って当たる場所にむらができるんだ」
感光材料に生まれた干渉縞は、二つの入り口から出てきた電子が波となってぶつかり合った結果だとメイファーラは言った。私は映像でしか海を見たことが無いけれど、砂浜や岩壁に寄せては返す波は文字通りの『波形』を描く。緩やかな弧が重なり合い、岩壁はでこぼこに削れていく。波が均一に押し寄せる事は無い。それが互いに干渉し合えばなおさらだ。
「メイファーラさんはそう思うんですね。では、今度は電子を一個ずつ発射したらどうなると思いますか?」
「え? それは、一個ずつ発射するのを繰り返すってことだよね? そしたら干渉し合わないから、縞模様はできないんじゃないの?」
「では、実際に試して見て下さい」
ミルーニャに促されるまま、新たな写真乾板に電子銃を向けるメイファーラ。
結果は、
「ほら、やっぱり」
――メイファーラの言った通りだった。
直感的に私も同意していた。波の性質を持っているから干渉し合って縞模様を作る。なら、電子を一個ずつ、片方のスリットを通して干渉しないように放射すれば、干渉縞はできない理屈となる。
「でしょうね。直感的な世界観が現実に作用する――貴方は典型的な邪視者です。メイファーラさん」
「ほえ?」
「杖使いのミルーニャが同じ事をすると、こうなるのです」
ミルーニャはゆっくりと時間をかけて、単発の電子を感光板に発射していった。
メイファーラは首を傾げた。
今度はメイファーラの時とは異なる実験結果が得られたのである。
すなわち、干渉縞が生じているのだった。
「これってどういうこと? 一個ずつしか電子を発射してないんだよね? なのに縞模様が出来るの? じゃあこの電子は何と干渉して波みたいに動いたの?」
「あ、ちなみに私がやるとメイファーラちゃんみたいになりました」
というのはリーナの発言。邪視や呪文の能力に秀でた空の民らしい結果だ。
ちなみに、プリエステラが行うと電子が写真乾板に到達しているにも関わらず感光しないという奇妙な結果が生まれた。
素朴な自然崇拝の信仰心がこのような結果を引き起こすらしい。珍しい結果だとミルーニャも感心していた。
「まあ、リーナの方は直感だけで生きてる馬鹿大学生らしい結果ですね」
「なんだとー!」
憤慨するリーナの頭を押さえつつ、ミルーニャは静かに言葉を続ける。
「この実験結果から、私たち杖使いは『広がった空間の確率分布を支配する何か』の存在を仮定しました。波動関数を仮定し、外部環境からの未知の熱ゆらぎなどを疑い、多世界――これは一般的な意味での異世界ではなく、この世界が無数の可能性に分岐していくという『仮定』です――との干渉を想定しました。ですが、現代呪術で一番有力な説はひとつ。それが――」
「摸倣子?」
私が思わず呟くと、ミルーニャはこくりと頷いた。
「はい、その通りですアズーリア様。邪視者の中にはそれを世界のゆらぎ、空間の歪みや流れであると説明している人もいます。杖使いの中には、杖的な手法では間接的にしか干渉できないこの『何か』を導波と呼ぶ人もいます。確認出来ない未知の波が粒子の乗り物となって極微なふるまいに影響を与えているのではないか――そしてそれは人間の意思や情報によって影響を受けるのではないか、という仮説」
当たり前の事を言うようだが――この世界には呪術が存在する。
情報を媒介する摸倣子と、その運動である呪力によって発生する神秘現象。
けれど、その扱い方は個人によって様々に異なる。
邪視、呪文、使い魔、杖。あらゆる人は、おおまかに四大系統のどれかもしくは複数に適性を持つ。
「えっと、導波理論みたいな古典呪術観は局所的理論の否定で成立しなくなったって講義では言ってたけど」
「なに馬鹿なこと言ってるんですかリーナ。杖的に説明すればその通りですが、それだと他の三系統を無視することになってしまいます――まあ杖の講義ならそうなるのも無理は無いですけど。いいですか、その理屈だと、過去を扱う呪文の説明がつかなくなるんです。杖の呪術理論では、観測可能な情報というのは光速を超えて伝わることがありません。時間に干渉する――たとえばこの宇宙そのものを凍らせて時間を停止させるなんて芸当は、原理的には不可能とされています」
ミルーニャは何故かうんざりした表情だった。ハルベルトもまた小さく溜息を吐いている。どうしたんだろう。
「ただし、高位呪術――たとえば【静謐】ですね――によって離れた場所にある物体間の因果関係が光速を超えて伝わる時、それはあたかも時間を『遡って』世界に干渉しているように見えます。対抗呪文が事象を打ち消す時に遡及改変されるエネルギーの量とその閾値についてはめんどくさくなるのでまた今度説明しますけど――とにかく、確率的なふるまいの裏には確固とした存在がある。これが現代呪術の基本です。ま、私個人としては正直賛同しかねますけど」
私は思わず自分の左手を見た。
――遡って、フィリス。
対抗呪文【静謐】。その発動の起句を思い出したのだ。
寄生異獣を活性化させる文言は心の中から自然に湧き上がってくる。
それはその寄生異獣にとって最もふさわしい文言なのだと聞いているけれど――これは、何を意味しているのだろうか。
ハルベルトがミルーニャの言葉を補足するようにして口を開く。
「世界のゆらぎ。構造への共時的な干渉。メタテクストの改変。そして非局所的な応答。ある時空の一点に加えられた外力が、他の点においても変化を引き起こす。これと同じふるまいをする呪術を、アズは知っているはず」
確かに、聞き覚えがある。
あれは確か、ラーゼフが説明してくれたフィリスの特性。
私だけではなく、世界そのものを浸食する原初の魔将。
ラーゼフはそれをメタテクストの改変と表現していた。
今この時、この場所で語られている出来事とは離れた時間と場所を参照する、事象の引喩。
ええっと、確か――間テクスト性、だったっけ。
そこで気付いた。
今、ミルーニャは世界の在り方を杖的な視点で説明しようとした。
そして、ラーゼフはきっと同じ事を呪文的な視点に基づいて説明しようとしていたのだ。
おそらくは、同様に邪視や使い魔にもそれぞれ独自の世界の捉え方があるのだろう。
この世界には色々な視座、視野、視点が存在する。
邪視者は己の意思を世界に押しつけて事象を改変するし、呪文使いは過去の事象を解体して異なる解釈を汲み上げ、新たな物語として再構成する。使い魔を支配する者は己と他者の関係性から世界を規定し、杖使いはあるがままの世界で生きようとする。そうした様々な『世界観』が相互に影響を及ぼし合ってゆらぎ続ける。
「ゆらぎの神話――ハルたちはこのゆらぎを持った世界観をそう呼んでいる」
その言葉は、どこか深い響きを伴って私の中に浸透していった。
ミルーニャが厳かに言葉を継いだ。
「そして、全く同時に世界の構造そのものを改変するフィリスは、世界が常に参照し続けているアカシックレコード――この宇宙の全存在を貫く紀元槍の制御盤ではないかという推測が可能です」
「フィリスが、制御盤?」
「ええ、その一つ――例えば、世界の死を引き延ばし続けているコールドスリープ装置や、無数の神話や伝承から核心を抽出して射出成形する機械のような」
ミルーニャの言うことはよく分からなかったが、彼女が私の左手に宿る正体不明の存在について説明しようとしてくれているのはわかった。
これは特別なものだとラーゼフは言った。
けれどミルーニャの口ぶりだと、これと似たようなものが他にも存在するように聞こえる。
「紀元槍って何?」
メイファーラやプリエステラが不思議そうに問いかける。
ミルーニャは何故か私に向かってする時とは違ってわかりやすく説明していた。
「要するに、この世界そのものが一つの巨大な世界槍内部に構築された世界なのではないか、ということです」
「この世界が、私やみんなが住んでるパレルノ山みたいなものだってこと?」
「ええ。別にそう突飛な発想ではないでしょう?」
確かに――内側に改変可能な世界を内包する、より大きな世界が世界槍だ。ならばその外側にあるここが更に巨大な世界槍だとしてもおかしくない。あるいは、更にその外側、また更に外側と無限に拡張していくことも可能だ。
外世界――平行世界や上位世界、その更に外。それらを包括する更なる外部。
それは無限に仮定できる。あまりにスケールが大きすぎて、眩暈がしそうなほどに。
考えても仕方無いのはわかっているけれど――なんだか少しだけ怖かった。
ハルベルトは静かに私に囁いた。
「杖的な量子力学を破壊し、否定するもの。古典物理の延長である現代呪術理論では、二重スリット実験の結果を観測可能量を決定する観測困難な変数を導入して説明する。それこそが隠れた変数――すなわち呪力であり摸倣子。情報を媒介するもの」
私という夜の民を形作っているのも、呪力であり摸倣子である。
いまここで、『私』という情報を記述している誰かがいるとすれば、そうして生成された情報によって私は構築されているのだろう。
槍神教はそれを神や天使であるとしており、呪術師達はそれはありとあらゆる人々の視座であると説明する。
ありとあらゆる人々――つまりは内外の異世界、上下の異次元。
自分は誰かに創造された架空の存在かも知れない。
この世界は上位の世界によって生み出された箱庭かもしれない。
果てのない問い。
終わりのない恐怖。
だからこそ、地上の人々は絶対的な上位者を上限と定めて安心するのだ。
槍神が全ての始まり。
かの神から全てが流出し創造され形成されて活動を始めたのだと。
邪視者を始めとした我の強い人達は、自分を決定するのは自分だと言うに違いない。だからこそ、自分の意思で世界を改変できるのだ。
古い多神教の時代、高位の邪視者達が神族と呼ばれていたのはそれ故である。
「記述された情報は世界槍あるいは紀元槍の内側で事象を改変し、場合によっては人間ひとりを丸ごと情報的に再現して『転生』や『転移』といった現象すら引き起こせてしまう」
お師様は、私をまっすぐに見ながら言った。
瞳の強さで、奥の奥まで貫かれる。
最初に助けて貰った時の、綺麗な佇まいを思い出した。
「この時に外世界から特有の摸倣子が持ち込まれることがあり、こうした特有の因子を持つものたちを転生者と呼ぶ。この因子は夜月のような内世界の因子を有するアズのような異言者も持っているの」
「あっ、はいはい! それ私も持ってるよ!」
意外な事に、リーナが反応した。
けれど、考えてみればおかしな事ではない。ガルズ・マウザ・クロウサーはトライデントの使い魔だ。つまりはグロソラリアである。
ならば、同じクロウサー家の血を引くリーナもまたグロソラリアであるということになる。
「なんかねー、始祖が転生者だったらしーよ。代を経るたびに色んな血を取り入れまくったから、色んな内世界の因子も入ってて――ごちゃ混ぜなグロソラリアなんだって聞いたことある」
ふと、考えてしまった。
なら、リーナもまた末妹候補の使い魔となる資格を持っていることになる。
得意げな表情をする彼女の頬を、ぎゅううっとミルーニャがつねり上げた。
「リーナは異質性を持ってるんじゃなくて馬鹿過ぎて浮いてるだけです」
「いひゃい! 何するの!」
途端に始まる枕での叩き合い。ミルーニャの枕とリーナの枕が激突する。
メイファーラとプリエステラが囃し立て、私もちょっとうずうずとし始めるが、そこでハルベルトの咳払い。
私は居住まいを正した。
「話を続けるけど。四魔女――ハルたち末妹候補は、全員が紀元槍に関わる目的を持っている。傍らに異質な使い魔を置くのは、独特な世界観によって常にその在り方を問われ続け、否定的な世界の視線に晒されながら己の呪術を鍛えていくため。そうやって、呪術師の悲願である紀元槍への到達を為し遂げようとしているの。この際だから、四魔女の目的を説明しておく」
ハルベルトは布団の上で足を崩し、何故か枕を抱きしめながら言葉を続けた。それにしても仕草が可愛い。
「ハルの故郷である第四衛星、太陰には紀元槍を模した【神々の図書館】という機関があるけれど、本物はどこか別の場所に存在している。あるいはどこにも無いとも、どこにでもあるとも言える。それが紀元槍――すなわち世界を貫く槍のように『普遍する』神話的構造。私たち四魔女の目的は、その紀元槍に四通りの手段で辿り着くこと。四通りの摸倣と呼ばれる極めて困難な儀式呪術を執り行い、そうして紀元槍に到達することで【紀】に触れた存在となる――すなわち紀神の末席に加わることができるの」
紀元槍への到達。それこそが紀神キュトス、その引き裂かれた断片たる七十一番目――未知なる末妹になる方法だとハルベルトは語る。
「紀元槍に到達した者は世界を更新する権利を得る――ううん、世界を更新することができた者が紀元槍に到達する権利を得るというのが正しいかも。二つは同じ事だから」
ハルベルトが言うには、紀元槍に到達すれば、フィリスのような小さな制御盤で行うような限定的な世界改変とは比較にならない規模で世界を『更新』できるのだという。
パレルノ山に起きようとしている世界の更新。
紀元槍に到達するとは、それをこの世界全てに発生させるということだ。
「邪視の座は伝承をなぞり、迷宮攻略と竜退治によって神話を再生する。世界法則の表象である竜を打ち倒すことで世界そのものを破壊し、改変する。遊びと演劇という呪術的ふるまいになぞらえた、抽象的扮演遊戯的アプローチ」
それが邪視の座――つまり冬の魔女コルセスカの目的らしい。
かの英雄が火竜退治を目的としていることは周知の事実だ。まさかそれが世界の更新に繋がるなんて思っても見なかったけれど。
「杖の座は人類という枠組みそのものを変容させ、世界と対峙する人の在り方それ自体を更新する。人間以上的アプローチ」
ミルーニャは、それを全人類の不死という方法で為し遂げようとしていた。
彼女は杖の座としては二番手だったらしいけれど、正規の候補であるというきぐるみの魔女は一体どんな方法で人間という枠組みを変容させるつもりなんだろう。
そこで私は、宿主を浸食する寄生異獣という技術が、人間を変容させるという目的に適っていることに気がつく。
もしかすると、杖の座の候補者はミルーニャよりもずっと恐ろしいたくらみを持っているのではないか――漠然とした不安が胸の内に広がった。
そんな私には構わず、ハルベルトの説明が続く。
「使い魔の座は――残念ながら、ハルの権限ではその情報にアクセスできなかった。星見の塔における最高機密。九姉評議会だけしか閲覧できない情報だと推測される」
使い魔の座――トライデント。そしてガルズ・マウザ・クロウサーとマリー。
あの二人と対峙すれば、その目的も明らかになるのだろうか。
「そして呪文の座――ハルの目的は、絶対言語の再生。引き裂かれた世界の言葉、混沌の坩堝に叩き落とされた人類に秩序を取り戻し、大いなる調和をもたらす」
「絶対言語?」
またしても私は首を傾げる。
なんだっけそれ。
習ったことがあるような、ないような。
なんとなく、ハルベルトと同じように枕を抱えてみる。彼女と同じ立場に立てば記憶の底から習ったはずの事柄が浮かび上がってくるのではないだろうか――。
駄目だ。思い出せない。未知の言葉かもしれない。
「絶対言語とは非線形的な言語。【心話】や【静謐】はそれを限定的に実現しているけれど、完全ではない。言葉――そして呪文は四大系統で最も遅い呪術と言われているのはなぜか。答えられる、アズ」
「えっと、呪文詠唱をしなければならないからですよね。見ただけで発動する邪視なんかに比べると圧倒的に発動が遅れてしまうから――」
「五十点。正解だけどそれだけだと不十分。より厳密には、言語が言語であるがゆえに宿命的に有してしまう『差延』が原因」
「さえん?」
訊いてしまったのが間違いの元だった。
私の耳に情報が雪崩を打って襲いかかる。
何故か異界言語である英語を交えて開陳された情報の群れを、私はほとんど認識できなかった。
というか長大な呪文詠唱かと思った。
よりにもよって端末に文字情報として送られてきたので、私はそれをほとんど流し読みというか読み飛ばした。
繰り返すが読み飛ばした。
読み飛ばしたんだってば。
「言語というのは差異の構造であり時間的な属性を持つ。あまねく言語は線形の時間的秩序によって解釈される――というより、そのように構築されている。言語に於いてある語が何かを意味する時、その語は意味されているものの代理として現前する。リプレゼント、代理し代表し表象するということは、直接にはプレゼント、現前しないものを現前させるということだから。たとえばre-という接頭辞が参照しているもの。参照は過去への指向性を持つ。AはAであるという時、これらは同じであると同時に概念的には別のもの。二重化され、自分自身において非同一性を有する。言語構造の中で記号は他との関係を必要とし、差異化の運動の中では必ず『ずれ』と『遅れ』が発生する。言語/意味とは連関の中の差異であり、関係性との差異化の側面で『ずれ』として、時間との差異化の側面で『遅れ』として、それぞれ不可避の表出を見る。デリダによれば、『意識に直接与えられた純粋な現在』などは無く、不在の過去と現在とを引き裂きつつ関連付ける差異、記号参照において孕まれる遅れとずれとしての痕跡の働きこそが我々が行う運動の正体であり、それを差延と呼ぶのだという。ハイデガーの存在論的差異も参照。存在論的差異や存在は現存在からある意味で派生するものであり、現存在に先立たれている。それに対して差延は存在や現存在に先立ち、時間を蓄積させている。差延は何らかの存在や存在者や主体の作用ではない。そのような主体などの、主語になりうるようなものを成立させ、そのようなものに先立つ。遅れという差異が過去遡及的に過去に先立って過去を成立させる。構造的な遅さそのものが全体の構造として組み込まれた、それは遡及的な早さであるとも言える。観念的な『透明でずれも遅れもない関係=直接性』こそが『紀』であり『絶対言語』であり『非線形言語』。ハルの目的は言語が宿命的に有する不可能性を超越し、言語を超えた言語を完成させること。つまりそれが【絶対言語】」
メイファーラは「きゅう」と可愛らしく鳴きながら目を回し、リーナは途中から話を聞くのをやめて端末を弄り出し、エストはミルーニャにこっそりと「ねえ、ハルは頭がおかしくなっちゃったの?」と耳打ちをしていた。多分話について行けていたのはミルーニャだけだと思われる。
ええっと、私はその。
ミルーニャが眉をひくつかせながら深く溜息を吐いて一言。
「――まあ、そのデリダとかハイデガーとかは良く知りませんけど。呪術っていうのは摸倣子が伝播する意味を呪力として扱う技術です。それを言語によって為そうとすれば、言語が持つ性質のために知覚とか関係性とか身体性みたいな直接的に意味を扱う系統よりも遅くなってしまう、というお話ですね」
「あ、かろうじてついて行ける」
「それなら良かったです。現代では兎さんたちが第四衛星の【図書館】で無数の言語を管理して言語習得コストを軽くしてくれています。そうしてある程度の秩序が保たれているお陰でコミュニケーションは容易になりました。かつては独自の言語文化が入り乱れ、場合によっては過度に混淆して摸倣子を漏出させてしまい、様々な呪波汚染を発生させていました。最悪の場合は言語汚染災害――言震に至ります」
言震――それは、現代でもまれに起こりうる大規模な災厄である。
人が用いる言葉が衝突し、意思が混沌に飲み込まれ、あらゆる物質とアストラル体が呪波汚染に曝される。
相互理解は失敗し、決定的な断絶によって不毛な戦争が引き起こされる。
記録に残っている中で最大の言震は、天地を引き裂き、地上と地獄を分かつ大戦争の切っ掛けとなったのだと言われている。
兎たち――耳長の民たちが【図書館】の機能を停止させてしまえば、地上や地獄でも言震が引き起こされ、更なる混乱が生まれかねない。
そうなれば、原始時代――散らばった大地の時代の再来となってしまうだろう。
「そうした混沌、相互不和、不理解、不寛容といった悲劇を一掃して、絶対言語によって秩序を取り戻し、誰もが手と手を取り合えるような、悲惨な言震や不毛な戦争に怯えなくて済むような――そんな平和な世界を作りたい。ヴァージリアのお花畑な頭の中はこんな所でしょうね。ミルーニャ的には、世界はもっと滅茶苦茶になった方が愉快だと思いますけど」
私はほっと息を吐いた。わかりやすく教えてくれるミルーニャが天使に見える。大神院は序列五位の天使をあの性悪機械からミルーニャに変更するべきだ。
そしてハルベルトはとても夢想的で――けれどとても可愛らしくて、とても素敵な考えを持っているようだった。
きっとそれはすごく難しいことなのだろう。
ハルベルトが自分の目的をこの上なくわかりづらい言葉を用いて説明したのは、もしかしたら彼女なりの照れ隠しなのかもしれなかった。
だって、要約すればそれは「世界が平和でありますように」という子供のように純粋な願いなのだから。
「呪文というのが『言語の拡張』なので既存の言語を超越した言語を完成させようっていう、実の所かなり乱暴な理屈です。既存の線形言語の枠組みで試行錯誤するって方法もあるとミルーニャは思いますけど。要するに最後の部分だけ聞いていればいいってことです」
「ええと、つまり」
「言語を超えた言語を完成させる――具体的にどうやるのかは知りませんけどね。察するに、自己言及の摸倣子を循環させて動く伝詞回路の仕組み――つまり魔導書の応用だと思いますけど。半永久的に変容し続ける暗号化処理で意味を多重化させて、現行の魔導書では実現できない並列処理を実現させるとか――まあ夢の技術ですけど」
「夢じゃないし実現は目の前。ハルが開発した非線形参照型差延機関は一定の効果を上げているけど、まだ足りない。その先がある。そこに辿り着く事で、ハルは【絶対言語】をこの世に甦らせてみせる」
「頑張って下さい。所詮は最初から無謀な試みですが、夢を見る権利は誰にだってありますよ」
薄笑いを浮かべながら形ばかりの応援を口にするミルーニャ。
ハルベルトが掴み掛かり、メイファーラと私が制止する。
しかし、一人だけ目的不明とはいえ、『竜退治』に『人類の超越』に『言語を超えた言語』とは、どれもこれも不可能としか思えない試練である。
あるいは、それくらいの偉業を達成できなければ『女神になる』という奇跡は起こせないということだろうか。
「それを可能にする方法が、一つある。それこそがハルの目的。世界に【絶対言語】を普遍させる神話のメソッド」
「それは?」
私が問いかけると、ハルベルトは得意げな顔で宣言した。フードの片側がぴくりと動いたのを見るに、多分耳が少しだけ持ち上がっているのだろう。
「それは歌。ことばを呪文にのせて、世界に伝える儀式呪術。ハルは地上で、世界の中心で、そして地獄で。それぞれのステージで呪文を世界に響かせる」
全員、ぽかんとした表情でハルベルトを見つめる。
それくらい、彼女の言うことは突拍子も無いことだったのだ。
私は訊ねずにはいられなかった。
「でも、そんなことどうやって――そもそも、聴いて貰えるのかな?」
「誰もが耳を傾ける――何故ならば」
突然、ハルベルトは勢いよく立ち上がった。
枕を放り捨てて、座っている私たちを睥睨するようにして言い放った。
「今まで隠してきたけれど――今こそ教える。ハルの正体。その本質」
何故かもの凄くもったいぶっている。
と、私は不意に気付いた。ハルベルトが今まで枕の後ろに隠していたものに。
端末だ。それも音楽の再生に適した機種。
そこから流れ出す、歌姫Spearの楽曲。『エスニック・ポリフォニー』の不可思議な響きが室内に流れていく。
「ある時は星見の塔の上級言語魔術師、またある時は智神の盾の魔女術異端審問官、しかしてその実態は――」
「はいはい、どうせ未知なる末妹とか言うんでしょう。まだ決まってないのに気が早いですよヴァージリア」
ミルーニャの呆れ声を無視して、ハルベルトは高らかに声を張り上げる。
かつてないほどに元気いっぱいだった。美味しいものを食べている時以外では、滅多に見せない明朗快活さ。
「歌姫Spear――地上において知らぬ者無き天上の美声、楽神の囀り。世紀の歌姫とは、このハルベルトのもう一つの姿。ハルのライブは全世界に同時中継され、広がった摸倣子は世界を変える」
盛り上がっていく楽曲の進行に合わせるようにして、ハルベルトが腕を振り上げ人差し指で天を示した。まるで以前から何度も練習していたかのような見事な動きだった。
そういえば、店内で歌姫Spearの歌が流れていた時、ハルベルトはやけにそわそわとしていた様な気がする。何か言いたそうにこちらを見ては、その度にぐっと我慢するように言葉を飲み込んでいたような。
ハルベルトは驚きの秘密を明かしたわけだが、それを知った周囲の反応はこのようなものだった。
「わーすごーい」
「へーびっくりですぅ、はい解散」
「ってか誰なのそれ? 私、俗世間には疎くて」
「あのね、私はクロウサー家の娘だよ? なんでそんなすぐばれる嘘吐くかなあ。スピアってアヴロノ系だしもっと物静かだしあと声が違うじゃない」
思ったよりも盛り上がらなかった。
ハルベルトの手がふにゃりと落ちる。
「え――あれ。嘘ー! とか、信じられないー! とかサイン下さいー! とかそういう反応をするはず。おかしい。何故」
「ってか嘘でしょ」
「信じられません」
リーナとミルーニャが揃って冷淡なまなざしを向ける。
プリエステラに至っては「だから誰なの?」と首を傾げていて、メイファーラが端末を手にして説明していた。
ハルベルトは周囲からの冷たい視線にびくりと震えて、へにゃへにゃとしゃがみ込んでしまう。
彼女はそのまま枕を引き寄せた。
指先でぐるぐると円を描きながら「ほんとだもんうそじゃないもん」などと若干の幼児退行を起こしているハルベルトの横を通り過ぎて、私は部屋を出て行く。
「アズ、どこいくの?」
「すぐ戻る」
メイファーラと会話をしている時間すら惜しい。どうして私の足はこんなにも遅いのだろう。私はどうしてこんなに愚かだったのだろう。こんな――こんなことがあるなんて。
私は自室に戻り、ベストアルバムと色紙とサインペンを引っ掴んでハルベルトが待つ場所へ急ぐ。
リーナは言った。声が違うと。
けれど呪文を唱えている時、ハルベルトの声の調子はいつもの落ち着いた声とはまるで別人のようになる。
初めて出会ったアストラルの世界。仮想の斧槍を実体化させた時に聞こえた歌のような詠唱。そして天使との決戦の舞台だった影の世界で、オルゴーの滅びの呪文を唱えていたその響きはまるで歌。
極限の状況で、記憶が結びつかなかった――なんて言い訳にもならない。
あの歌声は確かに、歌姫そのものだった。
項垂れたハルベルトに駆け寄り、色紙を差し出しながら勢い込んで言う。
「あのっ、サイン下さいっ」
私、アズーリア・ヘレゼクシュは、歌姫Spearのデビュー直後からのファンである。
ハルベルトの表情が、ぱああっと輝いた。