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3-10 青の空、黒の空白

 槍の形をした尖塔から出ると、そこは雲がかかった枝の上。

 雲海に突き刺さった巨大な樹状区画は透明な強化硝子と幾重にも張り巡らされた呪術障壁によって外部の過酷な環境から守られている。

 呼吸すらままならぬ上空、身も凍り付く超高度。空から降り注ぐ陽光は細胞をわずかながらも破壊していくほど強い。けれど、そうした自然の猛威を呪術は乗り越えた。

 むしろ、この第一区は富裕層の住む区画としてエルネトモランで最も安全で快適な空間である。

 道行く人々の雰囲気もどこか地上のものとは違って余裕がある。

 私とハルベルトが石畳の道を歩く度、小さな足音が響く。その音が、ここでは不作法な異音にも聞こえる。

 この第一区に住む人々は、ほとんどが第一位の眷族種【エルネ=クローザンドの空の民】である。常時わずかに浮遊している彼ら彼女らは足音を立てるということがない。その他の住人も、足音を立てないような靴を使用していた。

 なんだか悪目立ちしているような気がして、私は気恥ずかしくなる。


「えっと、ハル。メイとの待ち合わせ場所ってこっちでいいんだよね?」


「そう」


 もう手は繋いでいない。理由のわからない恐慌状態からは抜け出せたみたいで安心したけれど、それでも私は不安なままだった。


「でも、後遺症も無いみたいで安心したよ。一晩寝たらすっかり元気になったってメールが来たけど、強がりじゃないといいな」


「メイファーラはそう簡単には死なない。心配するだけ無駄」


 口調は淡泊だが、それは冷たさというよりは温かな信頼を感じさせるものだった。興味が湧いて、訊ねてみる。


「メイはハルと前から知り合いだったんだよね? いつからの付き合いなの?」


「だいたい四年前」


 あれっと思った。それは確か、ミルーニャがメートリアンとして星見の塔に向かった時期と同じくらいではなかっただろうか。

 多分、無関係ではない。直感は当たっていた。


「メイファーラ・リトも予備候補だった。途中で脱落して末妹の選定に関わる詳細な記憶は消去されたはずだけど、星見の塔との関わりそのものは消えていなくて、たまにああして協力してもらってる。だから大まかな事情は把握済み」


「それ、記憶を消去する意味ってあったの?」


「規則だから――ただ、彼女の場合能力が能力だから、記憶消去が上手く行っていない可能性があるけど」


 過去視というのは記憶に深く関係している能力だ。そもそも、消去した直後に過去視が発動したら即座に記憶が甦ってしまうのでは?

 もしかするとメイファーラには洗脳や催眠といった、脳や心に対する働きかけが通用しないのかもしれない。

 彼女の過去視能力がどの程度なのかにもよるが、それが大神院の順正化処理まで無効化してしまうようなものだった場合、事態は少しばかり深刻になる。

 あくまでも仮定。ありえないことだけれど――彼女は、大神院に叛意を抱いてそれを察知されたとしても、洗脳を無効化してその意思を持ち続ける事ができてしまう。

 地上の秩序に反することが出来るかもしれない存在。

 そして、そんな彼女を身の内に飼っている智神の盾と松明の騎士団。

 何か恐ろしげな予感が浮かび上がってきたその時、朗らかな声が私の思考を消し飛ばした。それはもう、とても暢気で可愛らしい呼びかけである。


「おーい。アズー、ハルさんやーい。こっちだよー」


 見ると、雲霞を吹き出す噴雲広場で脳天気そうな少女が手を振っていた。長い髪が頭部の側面で揺れる。瑪瑙の髪留めが特徴的なメイファーラ。

 私は気が抜けて、こちらからも手を振り返した。

 合流した私たちは、そのまま第一区の街並みを歩いていく。

 ラーゼフに対しては教導だのと言っていたハルベルトだが、今日これから行うことは私の修行とは言い難い。

 

「それにしても意外。ミルーニャの呪具店って第一区にあるんだね。呪具のお店っていうと六区って感じがあるけど」


「メートリアンの所は主に通信販売だから、直接お客が来る必要が無いの。ペリグランティア製薬の支社があるのも一区だし、こちらの方が何かと動きやすいはず」


 そのかわり、探索者協会が遠くて面倒だとも言ってたけど。

 ハルベルトはつまらなそうに言って、私たちを先導する。私たちが目指しているのはミルーニャの家。住居であると同時に職場であり、錬金術師としての工房でもあるらしい。巨大企業に所属する錬金術師という身分上、定期的に出社する必要があるらしいが、基本的には工房での在宅勤務とのこと。兼業は大変ではないかと思ったのだが、呪具店の方は人を雇っているらしい。

 綺麗で上品な街並みを三人で歩きながら、他愛のない言葉を交わしていく。こうしていると、先日の激しい戦いが嘘のようだと思えてくる。

 ――本当に、誰一人欠けずにあの夜を乗り切ることができたんだ。

 実感が胸に広がっていく。第五階層では私とアキラしか生き残ることができなかった。けれど、今回は違った。なら、これからも私は。

 誰も死ななければいい。

 人が死ぬことは、とても悲しくてつらいことだから。

 考え事をしていたら、誰かにぶつかった。

 小さな衝撃。私よりも少しだけ背の低い、とても幼い少女。

 私は、その顔を見て驚いた。

 どんよりとした虚ろな目。慢性的な不眠にでも悩まされているかのような隈が出来ている眼窩。そして顔色は蒼白。荒れ放題の長い髪はとても不健康。

 小さな子供に対して抱く感想じゃないけれど――まるで、死体が歩いているようだと思った。

 少女は私をぼんやりとした眼差しで見ると、億劫そうに口を開いた。


「なんか、すみません。ぶつかってしまってすみません。生まれてきてすみません。私が存在したのがそもそもの間違いでした」


「ええっと」


 何故この子はこんなにも卑屈なのか。

 前にいるハルベルトとメイファーラも目を丸くしている。


「はあ。もっと終末に生まれたかったー」


「終末て」


「なんかもうダメダメですー」


 放射される負の感情。幼くしてここまで鬱屈を貯め込むとは、この少女の人生に何が起きたのだろう。


「ええと、あなた、一人? お父さんかお母さんは?」


「お空にいます」


「あっ、それは、ごめんなさ――」


「第一区は超高々度にある空の居住区、なーんて」


 なんだこの子。もしかしたら構って欲しいのだろうか。


「すみません。下らない事言って貴重なお時間を浪費させてしまいました。私のせいで貴方の人生が空費されて死の瞬間が近付いてしまった」


 大げさな子だ。私は首を傾げながらも、メイファーラを手招きする。

 察しよく少女の手を軽くとったメイファーラはそっと目を瞑った。

 そして次の瞬間には、


「探してるお兄さんなら多分こっち」


 と言って少女の手をひいていく。メイファーラの天眼は多機能だ。過去視と千里眼の組み合わせで、捜し物や捜し人などが簡単にこなせてしまう。エルネトモランの一区画ぶんは彼女が充分に把握できる範囲なのである。

 つくづく、圧倒的に優れた能力だと思い知らされる。

 予定外の寄り道に渋面を作るハルベルトをなだめつつ、しばらく歩くと目当ての人物が見つかった。迷子の手助けが修道騎士の役目かどうかは怪しいところだが、やっていけないということもないだろう。

 その男は、道端に丸椅子を置いて、静かに絵を描いていた。

 画架イーゼルに立てかけた大きなスケッチブックに鉛筆を走らせている。その表情は真剣で、道行く人々を金色の瞳がしっかりと捉えている。

 どきりとした。金色の瞳。その色彩に、ふとあの邪視を使う骨の花を思い出してしまったから。

 不吉な印象はそれだけに留まらない。

 最初、男が描いているのは一区の街並みに思えた。

 けれど、後ろから覗き込んでみると描かれた風景は異様であった。

 描き出されていたのは、写実的なものではなく、非現実の風景画。

 死んだ街だ。

 道行く人々は服を着た白骨か、至る所から中身をこぼしていく腐乱死体。その歩みには力が無く、葬列の如き暗色に充ち満ちている。

 それが鉛筆による白黒のみの絵であることも多分に影響していると思うけれど――清潔な街並みは見る影もなく色褪せて、そこに感じられる人の営みは全て裏返っている。空に浮かぶのも現在浮かんでいる太陽ではなく四つの月。空は暗く、時間は夜になっているようだ。

 現実を見ながら、現実とは裏返った虚構を描く。

 それはある意味ではとても効果的で適切な創作手法なのだと思う。絵ではないけれど、私も言葉を紡いで詩や小説を書いたりするから。散歩をしながら自然の息づかいを感じて、情景を膨らませたり飛躍させたりするのはとても理に適った行為だと実感として知っている。

 けれど、そうとわかっていても彼の描き出す死の風景は恐ろしかった。

 死というイメージを見る者に喚起させているという点で、彼の絵は素晴らしいということなのかもしれなかったけれど。

 見れば、彼の周囲には幾つもの絵が並べられていた。周りによく見えるように小さな画架に固定された絵の数々。鉛筆画だけでなく油彩画、水彩画、果ては印刷されたものまである。男の座る丸椅子の下に、接触感応式の描画用端末ペンタブレットが見えた。

 GUI系統のデバイス――つまり杖による機械的な邪視の再現。手書きと使い分けているのは、呪術的な『実感』の有無によって作品の『手触り』を変化させるためだろうか。

 絵は手というより目や脳で描くものなので、手で直接描くのも専用端末で描くのも慣れの問題以外は基本的に変わらないと聞くが、絵画に宿る呪力の性質は多少変化するらしい。それゆえ、絵画の呪的価値にまで気を配る絵描きは両方の手法で描ける環境を整えておくのだと、ものの本で読んだことがある。


「ヴァニタス――」


 ハルベルトがつぶやく。

 聞き慣れない言葉の響き。私もメイファーラも首を傾げた。少女はぱたぱたと男の元へ駆け寄っていくが、集中しているのか気付く様子が無い。

 私は聞き返した。


「それは?」


「人生の虚しさの寓意アレゴリーを表す静物画のこと。人が死すべきさだめであるという隠喩を込めた静物を描くのが普通だけど――このひとは、動く事物でそれを表現したいように見える」


 そう言われて納得する。並べられた絵画に描かれているのは、頭蓋骨、パイプ、砂時計、泡、散りゆく花。楽器なども存在するのは、時間芸術として刹那を表現しているのだろうか。血のような果肉をさらす柘榴と、果実酒をなみなみと注がれたグラスの横に置かれた葡萄は共に腐っている。

 だがそれらには全て人が描かれていた。

 動く死体。腐乱した身体で乾杯し、頭蓋骨の隙間から果実酒をこぼしていく。

 パイプを咥えた白骨死体の眼窩から煙が立ち上っている。

 腐った子供たちが庭でシャボン玉遊びを楽しみ、音楽家は枯れ木を背に世の儚さを切実に歌う。視覚のみに訴えるはずの絵画だというのに、聞こえないはずの息づかいがここまで届いてくるかのようだった。

 それは死の躍動。

 死にながらにして生きていて、生きながらにして死んでいる、幻想の風景がそこにあった。

 その中に混じって、唯一生者を描いた人物画があった。

 頭蓋骨を持った少女。柔らかに微笑む幼い美貌。

 その可憐さがあまりにも生の感触に満ちていたから、私はあまりに明白なその事実に気付くのが遅れた。

 それはここまで連れてきた迷子の少女だ。

 ふと、二人の関係性がどんなものなのか気になった。親子というには男は若いような気がする。兄と妹だろうか。


「はあ、ダメダメですー。完全に自分の世界に入っちゃってますー。こうなると書き終わるまで戻ってこないのです」


 少女は、諦めたように項垂れた。

 それからこちらを振り返って、おずおずと口を開く。


「あのう、ここにある絵、少しでも気に入ったものがあったら買っていただけないでしょうか。そんなに高いものではないのです」


「絵を売っているの?」


「はい。この人、ご覧の通り社会不適合者でして。物乞いの認可も法律がどうとかで降りなくて。放っておくと餓死しかねませんので、どうかお恵みと思って何か買っていただけませんか。あ、一応似顔絵とかも描けます」


 少女は男の服を引っ張って「おーい戻ってこーい」と呼びかけるが、反応は得られなかった。

 かわりに、動かす手は止めぬままに口が開かれた。

 何もかもにくたびれきったような、掠れた声だった。


「僕は静かに絵を描きながら飢えて朽ちていく。それが自然でありあるがままの人の在り方だ」


「またそんなこと言って。はあ、ダメダメです。こんなダメ人間のお尻を叩くのももう疲れてしまいました。もう私は限界かもしれないですー」


「君には苦労をかけて申し訳無いと思っているよ、マリー。だから一緒に死のう」


 男の言葉に私はぎょっとしたが、マリーと呼ばれた少女は適当に流していた。いつもの言動なのだろうか。

 ふと、ハルベルトとメイファーラが奇妙な視線を私と少女に向けていることに気付く。何か思うところでもあるのだろうか。

 不思議に思っていると、男は絵を描き終わったのか、ゆっくりと手を下ろしてこちらに向き直った。

 金色の瞳が、私を捉えた。

 ぞくりとした。なぜだかわからないけれど、不安が膨れあがっていく。

 金眼。死。骨の花。不吉と恐怖。嫌な連想ばかりが溢れて止まらない。偶然というだけで片付けていいのだろうか。根拠は無いけれど、何か、これは。

 私を殺す、まなざしであるような。

 聖女の死の宣告。

 私は死ぬ。定められた未来の回想。

 唇を噛んだ。不吉な予感を振り払う。よく見れば、ただ覇気のない男性というだけだ。特徴的なのは金色の瞳だけで、あとは平凡ながらも穏やかな顔だち、伸び放題の黒髪とごくごく普通の男性。腰は丸椅子の上だが、両足が地面についていないのは空の民だからだろう。

 幾ら何でも、目の色と描いている絵のイメージだけで敵だと断定するのは非常識だろう。直感は彼を怪しいと言っているが、確かな証拠も無しに敵意を向けるのはよくない。そう思ったのだが。

 メイファーラは無表情のまま三つに折り畳んだ短槍を伸ばして固定し、そのまま一切の躊躇無く男に刺突を繰り出した。ごく自然な動作で行われる完璧な奇襲。

 密やかに行われていたハルベルトの詠唱が完成し、男と少女の周囲を発光する文字列が取り囲む。

 白昼堂々の凶行に悲鳴が上がるが、私は二人の判断を信用した。メイファーラは少女の手をとって過去視を行った。その彼女の判断は確かだ。敵であることを先に知らせなかったのは、相手に警戒をさせないためだろうか。どうにかしてハルベルトだけには伝えていたのかもしれない。

 黒衣の中から槌矛を取り出して、松明の騎士団の紋章を宙に投影してこちらの立場を示す。本部は近い。通報によってすぐに応援が駆けつける筈だった。


「物騒なことだ」


 溜息と共に、男が呟く。

 金色の瞳の手前で、短槍の切っ先が制止している。

 ハルベルトが紡いだ呪文もいつの間にか霧散していた。

 

「生き急ぐのも死に急ぐのも同じ事だ。生も死も等しく空虚なのだから。あらゆることに意味などない。君たちの殺意も、僕の抵抗も、全てが無意味で無価値だ」


 金色の瞳は死体のように動かぬまま巨大な呪力を発生させていた。

 底無しの闇に引き摺り込まれるような気がした。輝かんばかりに美しい金眼の中央で、黒目があらゆる光を飲み込もうとして口を開いている。

 邪視。

 事象を改変する魔性の瞳が、向けられた敵意を悉く無効化していく。


「こうして直に相まみえるのはこれがはじめてだったね、アズーリア・ヘレゼクシュ。メイファーラ・リト。そして呪文の座のハルベルト。はじめまして、と言っておこうか」


 男はこちらの素性を把握しているようだった。だがそれは、あの骨花が使い魔の魔女トライデントに関係していることを考えれば当然のこと。


「使い魔のグロソラリア――いや、こう言うべきかな。僕はトライデントの細胞が一人。与えられた器官名は『右目』。まことの名はガルズ・マウザ・クロウサー。つい最近加えてもらったばかりの新参者だけれど、心は立派にトライデントの一員のつもりだよ」


 宣名による圧力が、私の足を後退させた。ガルズと名乗った男には不吉さはあったけれど威圧感はまるで無かった。だというのに、この恐ろしさは何なのだろう。


「この出会いは予定外だったのだけれどね。まったく天眼の民というのは面倒だ。いや、普通の感知では僕は捉えられない筈だから、厄介なのは君個人ということなのかな。メイファーラ・リト」


 メイファーラは答えぬまま、必死に短槍を突き入れようと腕に力を込める。彼女も受信専門とは言え邪視者である。視線の隙を見抜くことで、相手の邪視による防御を打ち破ることも不可能ではないはずだった。

 それが全く出来てないという事実は、両者を隔てる絶望的なまでの邪視者としての実力差を浮かび上がらせていた。


「そんなに怖い顔をしないで欲しいな。僕は今この場で君たちと事を構えるつもりはない」


「なら、どうしてこんな所にいるの」


「死で世界を塗りつぶすためさ」


 ガルズがそう言った直後、凄まじい爆発音がした。

 振り返る。時の尖塔、その最上部の壁面が崩落しているのが見える。

 愕然とその光景を見る私たちを嘲笑するように、ガルズは平然と画材を片付けていく。それを手伝うマリーはあくまでも無邪気な少女にしか見えない。


「エルネトモランで最も堅牢な時の尖塔を、爆破した――?」


「まず、一人」


「どういう意味?」


 鋭く訊ねると、ガルズはこちらに金眼を向けた。短槍から視線を離しているにも関わらず、何故かメイファーラは動けないまま。邪視者としてもあまりに逸脱した能力だと言えた。


「これから十三日後――1,123,200秒後に大規模な葬送式典が行われるね。僕はそれまでに十三人を殺す。僕の家には内々で処刑する死刑囚が上る階段を十三段にするという下らない慣習があってね。それへのあてこすりだよ。屍で築く十三階段というわけだ。そして登り切った十三日目の葬送で、僕は死者の葬列を率いるのさ」


 それは、殺人の予告だった。あるいは、松明の騎士団が本拠を構えるエルネトモランにおけるテロ予告。つまりは槍神教に対する宣戦布告。

 聖女クナータの未来回想は、この事を示していたに違いなかった。


「葬送の式典は第一区で行われる。ここは天の御殿に近い。魂を空に送るのにこれほど相応しい場所は無いわけだが――人が死ぬのにも相応しい場所だと、そうは思わないか? アズーリア・ヘレゼクシュ。僕と同じグロソラリア」


「私は、お前なんかと同じじゃないっ」


 確かに、魔女の使い魔としての資格を有するという点では共通している。

 それでも、この不吉な男と同じにされるのはどうしようもなく嫌だった。理屈ではなく、感覚がそれを拒絶する。

 どうしてだろう。私は、このガルズという男がたまらなく厭わしい。


「同じだよ。君は屍の上に立つ影喰いじゃないか。死の匂いがこびりついているよ。臭い臭い、僕とおんなじ人でなしだ」


「黙れっ」


 勢いをつけて槌矛を繰り出す。

 しかし、目の前に立ちはだかったマリーがそれを妨げた。長い黒髪を振り乱しながら驚くべき速度で間合いを詰めると、どこからともなく取り出した槌で私の攻撃を止めたのだ。小柄な肉体からは考えられない膂力。

 少女の右手が閃く。私は飛び退って鋭い一撃を回避した。

 それはのみだった。刃先は平たく、無骨そのもの。


「私の方は立体とか彫刻が専門でしてー。二人で協力するとこんなのも作れちゃったりー」


 それは少女の豊かな頭髪の内側に隠れていたのか。

 放射状に伸びる鋭角の花弁。白くおぞましく咲き誇る骨の花。中央には金色の眼球。浮遊するその使い魔を見るのは、もう四度目になる。


「私は『左目』のマリー。力作を何度も壊されて傷付きました。つらいのであなたたちを殺して私も死にます」


 やはり、この二人があの骨花を操っていた使役者だったのだ。

 使い魔の魔女トライデントの使い魔たち。使い魔を使役する使い魔。

 おそらくは、視覚的な呪術である邪視に秀でたガルズと物質的な呪術である杖に秀でたマリーが互いに補い合う関係にあるのだろう。

 隙のない、厄介極まりない相手だった。


「落ち着きなよマリー。今日はもう一人殺した。彼女は『まだ』だ。じきに厄介なのが来る筈だ。負ける気はしないけど勝てる気もしない」


「あーそっかー。死なない奴って嫌い。それ人じゃないし」


「あれを相手にするには準備が足りない。ここは撤退するとしよう」


「させると思う?」


 だが、そう口にする私の内心には自信が無かった。メイファーラはどうしてか動けないままだし、ハルベルトの呪文は何故か打ち破られてしまった。さっきから隙を窺っているが、マリーという少女は前衛としても優秀なようで中々仕掛けられない。


「ああ、そうだよ。君は僕を止められない。君は決して僕に勝てない」


「戯れ言を」


「中身のない言葉に意味を見出す詭弁使い。呪文などでは僕の邪視とマリーの杖は破れない。それを証明してあげよう」


 ガルズはスケッチブックから一枚の絵を千切り取った。

 それは先程まで描いていたこのあたりの風景画――生と死が反転した幻想の絵画だった。男の金眼が輝き、白黒の絵画が呪力を放出して膨れあがる。

 風景が平面から溢れ出し、溶けて流体となり、世界そのものに溢れ出していく。

 あまりに異常な光景。ありえない規模の事象改変。

 これは、まさか――。


「【浄界エリュシオン】――ヴァニタス・ヴァニタートゥム」


 直後、世界が一変した。

 怯え、逃げ惑っていた人々が上書きされる。生者は死者となり、美しい街並みは朽ち果てていく。色褪せた世界から音が消え、太陽が月に喰われて歪な光が辺りに満ちる。四つの月が輝く中で、透き通る青空が漆黒に染め上げられていく。

 虚ろな眼窩と腐ってこぼれ落ちそうな眼球が一斉にこちらを向いた。のろのろと近付いていくる無数の死者たち。

 この世界は、既にガルズの掌握下だ。彼は邪視――世界観を拡張させることによって、己の認識を世界に押しつけたのだ。

 修練の果て、ある階梯に辿り着いた邪視者は、一つの世界そのものを構築することすら可能である。世界槍の階層掌握者が独自の世界を創造するのと同じように。

 浄界。邪視の奥義である極限の事象改変が、私たちに牙を剥いていた。

 今のガルズは、この空間の掌握者だ。第五階層の奧で待ち構えていたエスフェイルと同格かそれ以上の敵だと言っても過言ではない。彼は文字通りこの世界の支配者――すなわち神なのだから。

 ガルズとマリーはそれが当たり前の事であるかのように浮遊した。空の民という特性ゆえ、それは余りに容易にイメージ可能な振る舞いだったのだろう。上昇する二人を止めるべくハルベルトの呪文が放たれるが、それは容易く打ち破られる。

 金色の瞳が、おぞましく輝いていた。

 あの邪視の前では、呪文は意味を為さない。何故かそれが確信できた。そして最速で発動する邪視には、呪文の構成を改変しても一瞬で対応されてしまう。ハルベルトは先程から詠唱に修正を加えながら無効化を突破しようとしているのだが、それに先んじて発動する邪視がそうした工夫の全てを潰してしまうのだった。

 漆黒の空で、ガルズが嗤う。


「さようなら、また会おう。心配しなくても君たちもみんな殺してあげるよ。死は誰にも平等に降りかかるものだからね」


 不吉な宣言と共に、二人の姿は闇の中に溶けていった。雲が立ちこめて、その姿は消えていく。

 術者が姿を消したにも関わらず、浄界はそのままだった。死者達が唸り声を上げながら襲いかかってくる。だが私は槌矛を振って牽制することしかできない。彼らは邪視によって死者という在り方を上書きされただけの生者だ。傷つけるわけにはいかない。どうにか助けないと。

 左手を準備するが、沢山いる死者に個別に【静謐】をかけるわけにもいかない。かといって、展開された異世界そのものに【静謐】をかけるというのも今ひとつイメージがわかない。世界そのものを解体するというのはその全てを掌握して理解するということだ。それができるなら私は邪視者になっている。

 何か、呪文の理屈でこの世界を説明する為の取っ掛かりがあればいいのだけれど――。

 このまま手をこまねいていては襲いかかってくる死者達にやられてしまう。常人を遙かに上回る力で抑え付けられて転倒する。背後で、ハルベルトとメイファーラが骸骨にのし掛かられていた。まずい、どうにかしないと。

 焦りのまま、闇雲にフィリスを解放しようとしたその時だった。


「晴れろ暗雲! 空よ、そのあるべき姿を取り戻せ!」


 澄んだ空のような、清澄な声だった。

 陽光のように力強い呪文が漆黒を切り裂いていく。

 黒い三角帽子が光の軌跡を描きながら空を舞い、手にした螺旋閉じのノートから次々と項を千切り取ってはばらまいていく。

 ひらひらと空を舞う紙片から、無数の文字列が螺旋を描いて降り注ぐ。

 明るい黄色の髪をたなびかせて、その少女は空から現れた。


「汝ら全てまやかしの死、塵と共に掃き清められ、その眼で朝の光をとくと見よ! 目覚めとはすなわち生のあかしなり!」


 高らかに唱えられた呪文と共に、彼女が乗る箒が世界を両断した。

 飛行の痕跡から、太陽の光が入り込む。

 少女の移動に伴って世界が塗り替えられ、漆黒の夜闇が晴れ渡る青空へと変化していくのだ。

 それはまるで、不浄に満ちた世界を掃除するかのように。

 彼女が縦横無尽に飛び回ったその後に残るのは、元の平穏を取り戻した第一区の街並みだけ。我に帰った人々は、自分が今まで何をしていたのかわからずに困惑するばかり。

 遠くから、松明の騎士団の応援が駆けつけてくるのが見える。その先頭にはソルダ・アーニスタとフラベウファの二人。

 どうやら窮地は脱したようだった。私は安堵して、救い手の少女を改めて見た。

 見覚えのある少女だった。箒を手に持って、両足を浮かせながら『着地』した空の民の少女。パレルノ山で災厄を呼び込んでどこかに消えたトラブルメイカー。

 名前は確か――。


「くっそ逃げられた。もう少し早く来てればぶっ飛ばせたのにあのやろー」


「リーナ」


「ほい?」


「リーナ・ゾラ・クロウサー。だよね、確か」


「そだよー。あれ、どっかで会ったっけ。会ったような気がする。やばい、夜の民の区別つかないとか言ったら失礼だったりする?!」


 それを直接訊ねる時点でどうなんだろう。

 つかみ所のない少女だと思った。人となりを良く知らない、ほとんど初対面の相手。ミルーニャの記憶の中で知った、彼女の腹違いの妹。

 そして、ガルズ・マウザ・クロウサーと同じ姓を持つ少女。

 彼女は、一体何者なのだろう。

 空虚な黒を振りまくガルズ。その闇を振り払い綺麗な青空を取り戻したリーナ。

 二人のクロウサー。

 激動の一昨日からわずかしか経っていないというのに、またしても波乱を含んだ展開に、ただ不安だけが膨らんでいく。

 とりあえず。


「あーっ! わかった、先輩が昨日からめっちゃ惚気てたアズーリアって人だ! えっえっマジで責任とって結婚するのそれとも年下なのに養子にするの? 私お父さんとお母さんとお兄ちゃんとお姉ちゃんで年下ってかなり無茶だと思うんだけど実際そこんとこどーなの?」


 あとでミルーニャを問い詰めよう。


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