3-8 再びの未来回想、そして来るべき次回予告
長い食卓の上に並べられた数々のご馳走は彩り豊か。味や匂いだけでなく目まで楽しませてくれる。豪勢で贅沢な、そこは満ち足りた地上の楽園。
雲上人が口にするような昼食だった。事実、この場所は雲より高い積層樹状都市の最上部で、壮麗なつくりの食堂に居並ぶ人々は高い地位にある要人ばかり。
大神院の高位神官をはじめとして松明の騎士団や智神の盾といった主要な騎士修道会の要職にある人物がずらりと並んでいる。
疲れる。
そんな感情を黒衣の中に隠しながら、私は黙々と食事をする。
和やかな歓談の中で黙りこくっていても、「夜の民だから」で通ってしまうのがありがたかった。私達にとって沈黙は美徳である。雄弁も美徳だけど。
空魚の切り身に粉をまぶして焼いたものを口に運ぶ。かりかりとした食感と柔らかで温かな内側の美味しさ、そして空魚特有の、内側に閉じ込められた蕩けるような流体味。一流の食材と一流の調理。大神院の偉い人はこんなに美味しいものを普段から食べているのか。
突き匙と掬い匙を動かす手が止まらない。なるほど、これではここにいるほとんどの人が似たような体型なのも頷ける。まあるい天使ドルネスタンルフもかくやというような突きだしたお腹。たっぷりと脂肪を蓄えた顎。食卓を囲むお歴々は揃いも揃って恰幅が良く、小さな私は明らかに場違いだった。礼装として黒衣を纏っていることも私の存在を浮き上がらせる要因のひとつだ。
ところで、肥満は貧困病である。
食料自給が一定水準以上の社会においては、むしろ中流以下や貧困層で肥満は増加する。清貧を体現する聖職者たちは安い鶏肉などを主食とするため(大神院は肉食を禁ずる戒律などは定めていない)、必然的に栄養が偏る。野菜は肉よりも高価なのだ。
この食卓には、野菜の類が驚くほど少ない。豆と青菜が小さなお皿に盛り合わせてあるくらい。後は肉、魚、合成食材、そして槍を模した細長いパン。ただし、その調理方法はこの上なく精錬されている。限られた食材を工夫して味わう為に、聖職者は肉や魚を用いた調理技術を発達させてきたのだ。
健康は豊かな者の特権である。
ゆえに肥え太った彼らの肉体はまさに貧しき聖職者としての正しき姿なのであるが、しかしながら緩みきった表情やだらしない口調は、その印象を良くないものにしてしまっている。
要は見た目による偏見から私が逃れられていないというだけの話なのだが、そうだとしても一度抱いてしまった印象というのは中々覆せないものなのだ。
隔意。断絶。『違う』という意識。
良くないことだとわかってはいるのだけれど――考えずにはいられない。
私は食卓の上を見る。
やはり、霊長類式のもてなしは馴染むのが難しい。故郷ではこんな豪勢な――そして特殊な食べ物は口にしたことがなかった。
白い長方形が、皿の上でぷるぷると揺れていた。
「大丈夫だよ、怖くないよ。さあ、ぼくを食べて」
ぷるぷると震えながら、白い長方形が喋る。一昨日――あの怒濤の一日を思い出す。パレルノ山に生息する長方形の害獣トントロポロンを呪文の小試験で蒸発させたこと。
もちろん、目の前にいるのは害獣ではなく、そうなる前に収獲された立派な食物。トント樹になった食べ頃の実、トントロポロロンズだ。
自然界では他に類を見ない直角。柔らかく白く淡泊な味、らしい。
そして喋る。
「さあ、そこのソースをかけてぼくをおいしくいただいて」
「そうですよ、わたしたちは食べられるために生まれてきたのです。貴方に食べられることがわたしたちの幸せなんです」
隣の皿で可愛らしく懇願するのは、羊人種。羊と霊長類の特徴を併せ持った少女で、私の掌の上に乗るくらい小さい。
「どうされました、英雄どの。捻れた角が硬そうだと尻込みしておられるのかな? こりこりしていて美味しいですぞ。ふわふわの綿毛の感触がまた絶品でしてなあ」
「ささ、一口に。ほれこのように」
先延ばしにしていたら、とうとう周囲から勧められてしまった。
食べられるために生まれてきた食用奉仕種族。
霊長類の業、美食を追求した果ての倒錯。
勿論、知性は人類ほど高く無いし、食べても法的な問題は無い。
そして食べられる事そのものが彼ら彼女らの幸福であると定められている為、いつまでも手をつけないと、
「食べていただけないんですか――? わたし、おいしくなさそうですか?」
「廃棄はやだよう。食べられたいよう」
このように、上目遣いで悲しそうに見られてしまうのである。
食べられる事こそが人生最大の幸福であり快楽であり目的。
想像を絶する世界観だが、そうなるように生み出されているのだから仕方無い。
周囲を見渡すと、神官たちは羊の少女たちをフォークで串刺しにして思い思いに口に運んでいる。
「きゃー」
「わー」
「やさしく食べてね、ぎっがっ」
などと、これから食べられてしまうというのにどこか危機感の無い声。牧歌的なんだか猟奇的なんだかわからない。
どうやら、ナイフは使わずにフォークで突き刺して丸ごと口に含むのが作法のようだが――。
じっと見られているのを感じる。
わかっている。
私という、成り上がりの新参者、祭り上げられた英雄が、彼らの流儀に馴染めるのかどうかを試されているのだ。いわばこれは通過儀礼。
ここで食べなければ、私は異物と見なされる。
だから、ちょっとくらい『田舎者の常識』とずれていても、頑張って『ゲテモノ食い』をしなくてはならないのだが――。
うう、やだなあ。
だって喋ってる。動いてるし目とかつぶらだし可愛いし――。
正直に言えば、食べるより仲良くお話とかをしてみたいのだけれど、多分複雑な受け答えとかはできないのだろう。それでも、ふるまいの『それっぽさ』に私は感情移入してしまうし、愛玩してみたくなってしまう。
心が苦しい。
逡巡していると、両足が同時に踏みつけられた。
両隣の二人が、私に早く食べろと急かしているのだった。
右隣に座っているのは、私と似たような黒衣を身に纏ったハルベルト。
左隣に座っているのは、いつもの白衣ではなく礼装のラーゼフ。
大神院の神官たちに招かれての昼食会という恐るべき試練に付き添ってくれている頼もしい味方だが、この時ばかりは私に優しくはしてくれないらしい。
いや、わかっている。ここで食べなければ私の立場は悪化する。だから、二人が私の足をぐりぐりと踏んづけているのは優しさゆえの行為なのだ。
でも苦しい。影と繋がっている足を責められると私は弱い。屈しそうになる。屈すれば楽になれるのか。
――とその時。観念してフォークを手に取ろうとした私の目の前に、とことこと黒い影が現れた。
卓の反対側から歩いてきた小さなその人物は、黒衣の中から自分の体積以上の棒付き飴を取り出す。円盤状に渦を巻いている、私たち共通の大好物だ。
「ぺろぺろ、するー?」
「あ、はい、いただきます」
目上の人からのお菓子を拒否することはできない。そもそも私に差し出されたお菓子を受け取らないという選択肢は無い。たとえ毒入りだろうが爆発しようがお菓子は受け取る。これは夜の民の誇りにかけて、絶対だ。
ぺろぺろと舐める。そのお陰で、しばらく何かを口にしないための口実が出来た。
ありがとうございます。
小さく感応の触手を伸ばして伝える。もちろん実体化はさせないまま。
私に助け船を出してくれた小さな黒衣の同胞は、私に背を向けた。
黒衣の内部から無数の影の触手が伸びると、恐るべき速度でトントロポロロンズと羊の少女を巻き取って、闇の中に引き摺り込んだ。
ばき、ごき、という何かが咀嚼されている音と「わー」「がっ、ぎっ、あり、がとうー」という朗らかな声が小さくなっていく。
「おやおや、群青どのは手癖が悪くていらっしゃる」
「ははは。全く、司教様もお好きですなあ。ほれ、私のもどうです?」
周囲の空気が柔らかくなっていく。
夜の民にして司教という高い地位にある群青様は、確か私の村の長老と並ぶほどに高齢であったはずだ。
これは霊長類もそうだけど、私達は老いと共に身体が小さくなり、赤子に近付いていく。老齢の夜の民は掌に乗るくらいの大きさとなるのが普通だ。
群青様が食べ物につられて卓上を移動していく。他の眷族種がすれば不作法なことだが、小さな夜の民が行うぶんには正常な作法の範囲だ。わざわざ床に降りて移動しろなどと言うような無礼な人は今どき存在しない。
ちょこちょこと黒衣の裾を引きずって歩く群青様が、とて、と転んだ。
私も小さい頃は良く転んだものだ。霊長類形態だとほぼ二頭身か三頭身になるから頭が重く、転びやすいのである。
周囲がざわついて、気遣わしげな空気が漂うが、次の瞬間には何事もなかったように立ち上がる群青様。一斉にほっと息を吐く。
――どうして他の眷族種って、私達が転ぶとはらはらした様子で眺めるのだろう。良くあることだから、気にしないでくれていいのに。
小さな黒衣姿のご老体は沢山食べてご満悦のようだった。
けぷ、とフードから音を漏らして、影の触手を伸ばして葡萄酒を啜る。触手は吸管のようにも使えるのだ。
その姿を周囲の人々はなにやら優しい目で見つめている。
ぽっこりと膨らんだお腹をなでさすり、黒い身体を食卓の上に横たえて一休み。
「おやおや、群青どのはもうおねむですかな」
「ああ、私も可愛い夜の民に生まれたかった」
「ほっほっほ、そんなに油断していると悪戯をしたくなってしまいますなあ」
言いながら、丸い指を伸ばしてフードをめくろうとする。
本来なら大変に無礼な行為なのだが、本気ではない事がわかっているのか、群青様も本気で抵抗する様子は無いし私が激怒したりもしない。ちょっと立ち上がりかけたけど。
フードにかかりそうでかからない指先からいやいやするように逃れながら、甲高い鳴き声で「きゃー」だの「やー」だのと庇護欲をそそる簡易呪文を唱える。罪の無い魅了呪術で、周囲の人々も望んでかかっている。
こういう光景を見る度、なんだかなあ、と思ってしまう。
私達の生態は他の眷族種から見ると興味深いものらしいが、だからといって誰も彼もが愛玩動物扱いされたいわけではない。
あのくらい小さいならともかく、私まであんな視線を向けられるのはちょっと恥ずかしい。ミルーニャは結構その傾向があるので今度注意しておこう。
あ、転んでフォークにぶつかった。
鋭利な尖端が突き刺さったせいで四つに分裂してしまったらしい。騒がしくなった食卓は、もうすっかり群青様を愛でるための会場だった。
と、左右の袖が引っ張られる。
「アズ、対抗して分裂して」
「そうだぞ、先程の分をここで取り返すんだ。英雄の芸を見せてやれ」
分裂はただの習性である。芸扱いはやめていただきたい。
――確かに、小さい頃は何度も分裂していた。
なにぶん幼い頃の話なので記憶が曖昧だが、難しいことが考えられなくなった私達は家の中のあちらこちらに散らばり、妹のビーチェをとても困らせたらしい。どうにか元に戻して貰った後で、何故か一人分足りないということまであった。結局、丸一年くらい経過した後でひょっこり出てきたのだが。どうやらビーチェの影があまりにも居心地がいいものだから、自然に入り込んでしまうようなのだ。
――もしかしたら、まだ妹の影の中には私の一部が入り込んでいるかもしれない。
それにしても、ハルベルトもラーゼフも勝手だ。
そもそも、私くらいの年齢だともう自我が固まっているから、分離するとしてもせいぜい二つまでだ。それも影と実体とを切り分けるとか、そっくりな双子とかの形をなぞって別行動させるとかが関の山。それでも使い魔の才能に秀でていれば長いあいだ離れたままでも平気の上、呪術の負担を分担して常人では不可能なほどの高位呪術を発動したりできるらしいけれど――。
二人の無茶な要求を黙殺していると、場の話題は別のものに移り変わっていた。
この場の目的は親睦を深めるためだとされていて、それは実際に正しいのだけれど、出席者が出席者である。どうしても政治的な色合いを帯びてきてしまう。
そして私の両脇を槍神教の九大騎士修道会の一つ、智神の盾に所属する二人が固めているということは、つまり私の立ち位置が松明の騎士団ではなく智神の盾に近しいと公言しているに等しい。
序列第八位の天使、松明を掲げる者ピュクティエトは武力や啓蒙を象徴する。古来より異種族や異民族を平定し、『異教徒』を葬ってきた『聖絶』の守護天使だ。
対して、序列第六位の天使、神々の図書館の管理者ラヴァエヤナは知識を司る。こちらは内部の『異端』を裁く法の番人であり、また異質なものを排除するのではなく教化して槍神教内部に取り込む宣教を象徴してきた。
どちらも大神院の牙であり槍でもある。
地獄との戦いにおいても、両者は足並みを揃えて事に当たっている。その姿勢にはかなりの差異があるのだけれど。
矢面に立って戦うのは松明の騎士団。しかし、智神の盾の支援が無ければ修道騎士は戦えない。
両者の力関係は微妙なのだった。
敵対者から恐れられているのは松明の騎士団だが、忌み嫌われているのは智神の盾だ。当然だろう、自分たちの在り方をねじ曲げ、変質させてしまうのだ。
私は智神の盾が独力で成功させた初の異獣憑きだ。
その事もあって、松明の騎士団の英雄とされている私は、同時に智神の盾の成果物でもある。私の処遇を巡っての政治ゲームは一つの巡節(季節)が過ぎる程に長引き、そのあいだ私はずっと地下に幽閉されていたというわけだ。
私の心情としては、救い出してくれたラーゼフと智神の盾に味方したいところだった。それに、フィリスを整備してくれる彼らを蔑ろにはできない。これは多分、ほとんどの異獣憑きにとっての共通見解だと思う。
「――しかしですな、余り勝手な動きをされても困るのですよ。ほら、一昨日などは私闘まがいのことまでしたとか」
「あの無頼漢のペイルとその取り巻きどもが負傷したという話ですな。幸いあの野人――ごほん、イルス司祭の治療が的確だった為に一命は取り留めたという報告は受けていますが、流石にあのような問題行動は慎んで貰いたいものです」
「その件についてでしたら」
ラーゼフは眼鏡の内側に小さな仮想文字列を表示しつつ答えた。その態度は毅然としている――というより、どこか面白がっているようにも見えた。
「あれはあくまで訓練の一環であり、その結果として戦力の向上に成功しております。ここにいるハルベルト殿の教導官としての腕前は確か。一昨日だけで我らが英雄の階梯とフィリスとの同調率は上昇しております」
「では修道騎士ペイル及びナトの負傷についてはどう釈明するのかね? 再起不能な重傷だと聞いているが?」
「修道騎士ペイルは生体装甲の超回復によって以前よりも身体能力が向上しており、また修道騎士ナトに関しましても我々智神の盾が開発している新型の呪動装甲――いえ、【神働装甲】の試作実験機の搭乗者として最高の適性を示すことが確認されております。これは手足という重要な器官が失われたからこその新たな資質です」
重傷を負ったことで高い霊感を獲得することはよくあることだ。物質的身体が損なわれれば、それを補うように呪的な霊体、アストラルの身体が強度を増していく。
臨死体験が人を強くする。これは多くの再現性の無い実験によって実証されている、非科学的知見である。
「結果として、戦力の向上という目的は達成されているものと判断できますが、いかがでしょうか」
地獄に勝利する事が両騎士修道会にとっての至上目的である。その過程には考え方の違いがあるにせよ、上方勢力の戦力が強化されたのであれば文句をつけようがない。
敵は地獄だけではない。巨大企業や他国から送り込まれてくる探索者もまた競争相手なのだ。
その場はどうにか収まったようだ。
私を庇ってくれたラーゼフに感謝しながら、どうやらこの昼食会は無事に終わりそうだと安心していたが、次の話題でぎくりとしてしまう。
「一昨日と言えば、何故かペレケテンヌル様への祈りが届かなくなったという報告が相次いでおりまして――」
「おお、私も聞き及んでおります。かの守護天使のお力を借りる神働術が全く使えなくなってしまったと。今日になってようやく微弱ながらも使えるようになったらしいですが」
「まるでかの天使のお力が弱まっているようだと」
「まさか、そのようなことが」
黒衣の中で、私は小さく震える。きっと顔は真っ青だ。
大変な事になっていた。
私は一昨日の夜、ミルーニャを苦しめていたあの守護天使、旧世界の遺物たる古き神に超極大呪文を撃ち込んでしまった。滅ぼすまではいかなかったが、大きな手傷を与えて世界の果ての果てまで吹き飛ばしてやったのだ。
そのせいで、あの守護天使の力を借りる術が使えなくなってしまったらしい。きっと色々な人に迷惑をかけてしまったに違いない。というか現在進行形でかけているのだ。
――後悔はしない。するつもりは無い。けれど。
自分の行動は、必ず誰かに影響を与えてしまうのだと、改めて思い知って、小さく唇を噛んだ。
私のせいで、嫌な思いをした人。損をした人。それから、不幸になった人。
かもしれない、でしかない。この目で見たわけではない。
それでも、私はいつもこうだ。
誰かを救えると、そう信じて行動して、得られるのは自己満足だけ。
ミルーニャは、不死の再生能力を失った。その事を、恨んではいないだろうか。
ペイル達は大怪我をして、キール隊は私を残して全滅した。
あのシナモリ・アキラだってどこかで不幸になっているかもしれない。
できそこないの英雄。
多分それは、ずっと私につきまとう問いなんだ。
周囲では、ペレケテンヌル系の神働術が使えなくなった事で出た影響とそれに対する対処などが話し合われている。
もし滅ぼしていたら、この世界からペレケテンヌル系の神働術が消滅していたのかもしれない。
あまりにも不遜な考え。けれど、何故か私にはそれが出来るような気がした。
フィリスなら、天使や神すら解体できる。
私のこれは、一体何なのだろう。
と、右隣のハルベルトがぽつりと言葉を紡いだ。
「きっと意地悪な三角は、黒衣の行進を邪魔してしまった。妨げる事が許されないその歩みを止めたゆえに、上位者からの罰を受けたの」
その発言は唐突過ぎて、周囲はしばし沈黙に包まれた。
やがて、神官の一人がおかしそうに反応する。
「博識ですな。流石は魔女殿。よく神話を勉強していらっしゃる。天使マロゾロンドと天使ペレケテンヌルの諍いの逸話ですな?」
「ああなるほど。そんな話もありましたな。そのせいで天使ペレケテンヌルは天使マロゾロンドに必ず道を譲るようになったとか」
「そもそも序列からして二位と五位ですからな」
「ははは、うっかり黒衣の天使の前に出てきてしまったというわけですか。天上の衝突事故とあれば、もうこれは天災のようなものだ。甘んじて受け入れる他あるまい」
食卓は和やかな笑いに包まれていく。
外部から招かれた異物であり客人でもあるハルベルトは、その発言だけで満足したように沈黙する。どうしてなのか、ちょっとだけ自慢そうだった。
私は、どう反応して良いものやらわからなかった。
話題は移り変わり、食卓には食後のお菓子が並べられていく。
待ってましたとばかりに私はスプーンで黒いプディングを切り分ける。
このほんのりとした甘味と苦味、そして僅かな酸味。亜大陸産のカカオ豆、おそらく品種はトゥルサ原産の――。
などと、お菓子に夢中になっていると、右から肘でつつかれる。何なんだろう。今はお菓子に集中したいのに。私がお菓子を楽しむ瞬間を邪魔するなんて決して許されない。たとえそれが神やお師様であったとしてもだ。
ぎゅうっと足を踏まれ、さらにぐりぐりとねじられてようやく私は顔を上げた。食べ終わったのである。
場の話題は、壁面に映し出された光学立体幻像についてのものらしい。グロートニオン結晶の輝きが遠くの景色を映し出している。
一人称――主観の映像。誰かの視界。金鎖システムが共有する修道騎士の記憶らしい。おそらく現在進行形。
おどろおどろしい風景から、第六階層の映像なのだとわかる。足を運んだ事は無いが、記録映像は何度も見せられた。
右手には長く白い骨のような槍。
見覚えがあった。その確かな足取り、揺るぎない視線。
迫り来る異形の怪物――複合種を最小の動きで倒し、やり過ごして戦闘を回避し、大胆さと機知によって窮地を脱するその姿。
顔はわからないし、どうせ見てもよくわからない。けれど、振る舞いから私はそれが誰の視点なのかわかってしまった。
松明の騎士団総団長。あるいは騎士修道会【松明を掲げる者ピュクティエトの貧しき同胞たち】の総会長。最弱常勝の聖騎士。守護の九槍が第一位。
松明の騎士、ソルダ・アーニスタ。
今、彼は第六階層に挑んでいるのだ。それも、たった一人で。
流れるような動きに迷いは無い。鎧は最小限で視界を妨げぬ為に兜も無し。速度こそ命と言わんばかりに疾走し、第六階層の奧へ奧へと突き進む。
恐るべき複合種たちの上位個体、精鋭種である狂怖種が現れるようになる。そのあまりにおぞましい姿は精神汚染を撒き散らし、見るものを恐慌させるが、我らが英雄はそれを護符の力で遮断する。
それまで引き連れてきていた複合種と激突させて体勢を崩し、まとめて槍で串刺しにする。鮮やかな手並み。そこまでの動きは完璧に訓練されたように最適化されていた。
そうして到着する。第六階層の最深部。
ここまで辿り着けるのは地上でもごく一握りだけだ。
暗がりの中で、途方もなく巨大な何かがみじろぎした。
「また、あなたですのね。わたくしもう飽き飽きですわ」
どこか高貴な響きが感じられる、年若い少女の声。
第十六魔将。第六階層の掌握者。
その力は、私がかつて戦った魔将エスフェイルとは一線を画する。
『大魔将』イェレイドがその殺意を膨れあがらせていく。
直後、死の衝撃が松明の騎士に襲いかかった。
緊迫した状況にもかかわらず、それを遠く離れた場所から眺める神官達の声は暢気なものだった。
「今度はちゃんと回避できてますな。反撃が命中しましたぞ。おっ、そこだっ、いけっ」
「最初の頃に比べたらかなり戦えるようになっとりますなあ。ほれ、開幕の連続攻撃にもかなり対応できるように。パターン化というのでしたか。序盤はかなり安定しているように見えますぞ。この調子で挑み続ければいつかは倒せるのでは」
「しかし、団長どのが挑み続けるせいで、第六階層の長大化と罠の無体さに歯止めがかからなくなってきているとの訴えが探索者協会や下位の修道騎士たちから寄せられて来ております」
「ふむ。確かにそれは困りものだ」
「あっ、やられてしまいましたぞ」
「ふむ。やはり大魔将は手強いですなあ。第十二魔将ズタークスターク以来の強敵だ」
巨大な質量が襲いかかり、映像が途絶する。
それはソルダ・アーニスタの死を意味していたが、誰も心配している様子は無い。わかり切った結末だったからだ。
「第六階層の攻略に団長どのが必要不可欠なのはわかるが、第四階層の防衛戦における損耗率も激しいと聞く。あのお力は防衛戦で貴重な人員を守るためにこそ振るわれるべきでは?」
「ソルダ団長にはしばらく防衛に専念していただいて、第六階層の攻略は若き英雄どのに任せたらいかがかな」
「それは名案ですな」
「さよう。この閉塞した状況を打破して頂くためにも、アズーリアどのには奮起していただかなくては」
話題の矛先が再び私に向けられる。
望むところ、と答えようとした私に、左右からの制止。
「お言葉ですが、修道騎士アズーリアは未だ力不足かと。団長殿とは違い、アズーリア・ヘレゼクシュは敗北すればそれで終わり。貴重な第一魔将も回収できなくなりましょう。十分な準備が整うまでは待っていただきたい」
「捕捉すると、フィリスは相手の情報を集めれば集めるほどその力を発揮できる。現段階で大魔将イェレイドの相手をするのは余りに情報不足。その為には、更なる威力偵察による情報の収集が必須」
ラーゼフとハルベルトが口々に異論を唱える。確かに二人の言うことも正論だった。私は勢いだけで戦おうとした事を恥じた。
「しかしですな、待つと言ってもどれだけ待てばよろしいのですかな。十分な情報とはどこまでを指すのです? 具体的な指標が無いと、こちらとしても今後の指針が立てられないのですが」
それに対してはハルベルトが答えた。
自信に満ちた、不遜な宣言だった。
「一巡節――半年以内にアズーリア・ヘレゼクシュの序列を可能な限り引き上げる。隊を率いることができる立場にまで。そして、英雄は己の部隊と共に第六階層に挑むの」
「ほう。それでは、半年で序列を三十位から――そうですな十位くらいまでは引き上げると。そういうことでよろしいのかな?」
「そんな謙虚な事は言わない。目指すのは、一桁」
場がざわついた。
当然だろう。ハルベルトは、私を守護の九槍にすると宣言したのだ。
松明の騎士ソルダ・アーニスタ、聖女クナータ・ノーグを始めとして、勇士カーズガンやあの第七位、そして天才キロンなどが並ぶあの奇跡の担い手達と同格の存在にしてみせると豪語した。
それは、誰かを追い落とすという宣言でもあり、場合によっては不敬ともとられかねない発言だったが。
「ははは、これは威勢のいい。確かに英雄というからには守護の九槍になって頂かないと困りますな」
「しかし現在の九槍はいずれも英傑揃い。第十位との差は余りに大きい」
「さよう。果たしてたった半年で序列を上り詰められますかな」
ハルベルトはこれにも自信に満ちた答えを返す――いや、これはもしかしたら。
信頼、なのだろうか。
「問題ない。英雄アズーリアは半年後、守護の九槍として第五階層に拠点を移し、第六階層の攻略を開始する」
だから、それまでに十分な情報を集めておいて欲しいと付け加えて、ハルベルトは口を閉ざした。
大言壮語。その期待は重い。けれど、そこに込められた想いが嬉しくて、私は胸に不思議な熱が湧き上がってくるのを感じていた。
あたたかでやわらかな、この気持ちは一体何だろう。
ハルベルト。私のお師様。
彼女の期待に、応えたい。
それに、第五階層に拠点を移して本格的な攻略を行うのだとすれば。
聖女クナータは彼が生きている事を教えてくれた。
シナモリ・アキラ。彼と再会出来るかもしれない。
未来への想いが、私の心を浮き立たせていた。
それは突然の事だった。
食堂の扉が開いて、ふらふらと焦点の定まらない瞳で歩み寄ってくる小さな姿。
「聖女様! お気を確かに、どうかお戻り下さい!」
女官が背後から取りすがるのも構わずに、聖女クナータは忘我の境に入ってその場に現れた。
一体何事かと色めきだつ面々をぼんやりとした瞳で眺める。
虚ろな十字の瞳には意識があるのかないのか定かでない。
託宣だ。それも、予定にない気紛れの霊感。
乱数が導き出した未来の回想。
「あなたと、あなたと、あなた。あとあなた。あとは、あとは――」
クナータはその場にいる大神院の神官達を順番に指差していく。その中には、夜の民である群青様も含まれていたから、彼女は分裂した一人を複数回指差すことになった。
そして、その細い指先が私に向けられる。
「お誕生日のお祝いかしら。あなたたちは、ついこの間に生まれたんですものね――あら、どうしてかしら。わたし、アズーリアとは古いお友達なのに――? みんな、この間生まれたと記憶しているのだけれど。もう、おかしいの」
戦慄。そして巨大な恐怖が空間を埋め尽くした。
未来から過去へと向かう聖女の認識は常人のそれとは異なる。我々にとっての生誕とは彼女にとって生命の終着点であり、逆に死とは生命の出発点。
つまり、誕生したという記憶が示すものは。
「し、死の宣告」
「ありえん。このような予定にない死者の託宣があるわけがない! それも、ここにいるのはいずれも槍神教の要ばかりなのだぞ!」
「数からして暗殺。いやテロか?」
「地獄の侵攻ということも」
「この難攻不落の時の尖塔を落とせるものがいるわけがない!」
「まさか、この中に味方を追い落とそうと企む誰かが」
「滅多な事を口にするものではない! そもそも原因は? 聖女様、不作法とは知りつつお尋ね申し上げる。我らはどのようにして生まれたのでありましょう?」
聖女クナータは、何か恐ろしいものを目にしたように――否、巨大な異物を頭の中に詰め込まれたように苦しみだした。呻きながら、どうにか言葉を絞り出す。
「この間の、大きな葬送式典。第一区、この大樹の梢。天の御殿に一番近い場所で、魂を空に送るの。迷える魂を黒衣の天使が導く。それで、みんなみんな生まれたのよ。星空のような魂の流れ、金色の瞳、骨の花――ああ、それから空を舞う魔女。歌が、歌が聞こえたわ。死の囀り、それから綺麗で素敵な――その最中に、沢山の、たくさんのひとが、あ――ああ!!」
十字に輝く瞳から血が溢れていく。歪み続ける記憶を振り返りすぎてしまったのだ。高い負荷に彼女の脳が悲鳴を上げ、血涙は美しい衣装を汚していく。
そして、糸が切れたように聖女様は意識を失って崩れ落ちた。
誰もが呆然と、その光景を眺めることしかできなかった。
その予言を、受け止めきれずに。
かつての回想とは異なる未来。
未来への展望が示された、その矢先。
「私が――死ぬ?」
死は誰にも平等に降りかかる。
生まれた以上、死を避けることはできない。戦いの中に身を置いていれば、それはなおさらだ。
けれど、私はまだ目的を遂げていない。
妹を、取り戻すことができていない。
それなのに。
死の絶望に狂乱するその場の中で、私もまた蒼白になって震えそうになったその時。
ぎゅっと、私の右手が握りしめられた。
両手で強く私の掌を包む。小さな、けれど確かな感触。
ハルベルトは、まっすぐに私を見つめて宣言した。
「運命なんて下らない。それに抗ってこその英雄でしょう」
その言葉が、あまりに力強かったから。
私は黒玉の瞳をまっすぐに見つめて、静かに頷いた。
「ありがとう。ハル、私は死なない。絶対に」
決意と共に、私はハルベルトの手を握り返した。