幕間 『松明の騎士』
そう、記憶は確かに存在する。
けれど、その繋がりはどうにも曖昧だ。
ひとつひとつ思い出していこう。私――アズーリア・ヘレゼクシュが辿ってきた日々、駆け抜けてきた戦いを。
それは、私が【松明の騎士団】に入り、フィリスを宿したばかりの頃。
「『汝らこの門をくぐる者は一切の望みを捨てよ』――かぁ」
おどろおどろしい文言が転移門の上に刻まれていた。何かの引用だと聞くが、何の引用なのかは誰も知らないのだという。もしかしたら、この世界には存在しない幻の参照先なのかもしれない。
そんなことを思いながら、私は訓練過程の最終段階に入る。
単独での【竜骨の森】踏破。指定された場所まで進み、そこに群生する花を摘み取って戻ってくるだけの単純な試験だ。それさえ終われば私も晴れて正式な修道騎士として迷宮に潜ることが認められる。きっとどこかの分隊に配属されることになるのだろう。不安と期待が入り交じった不思議な気持ち。
四つある第一階層の裏面。その中でも、竜骨の森は比較的危険が少ないとされている場所だ。パレルノ山に一人で放り込まれたら死ぬ自信があるけれど、この森ならば訓練で同期の見習い修道士達と共に何度も訪れている。今更恐れるようなことは何も無かった。
空間が歪曲する際に発生する不可思議な光が、私の目に様々な色合いを映す。
黄色、金、あるいは白。
輝きに包まれたかと思うと、私はその場所に辿り着いていた。
銀の呪動装甲の脛当てを半ばまで覆い尽くす、緑色の色彩。
鬱蒼と生い茂る様々な彩度の緑。森の色彩。
匂い立つのは濃密な死の薫りだ。森には死が満ちている。生命力に溢れているように見えても、躍動する植物の下には数多くの屍が横たわっているのだ。土の下には冷たさと暗さしかない。
古の時代、異次元より飛来した巨大な墓標船。不時着の衝撃で展開されてしまった異界の記憶が世界槍の記憶と混淆し、無秩序な世界改変を開始して生まれたのがこの竜骨の森の起源であると言われている。中心部には巨大な構造体が屹立し、異界の知識が詰まった遺跡となっているが、既に松明の騎士団が調査を終えてしまっており情報としての価値はほとんど無い。今では駆け出し探索者や見習い修道騎士の訓練場だ。
指定された場所は墓標船の近く。手早く済ませてしまおう。私は槌矛を右手に、方形盾を左手に構えて、一歩を踏み出した。
柔らかい土の感触がした。
走る。軽い、空気を含んだ土を踏みしめて駆け抜ける。
かしゃかしゃと呪動装甲が音を立てるが、重さはほとんど感じない。むしろ私の肉体の動きを予測するかのように先んじて足を前に出してくれる。まるで外側にある骨のようだった。
それにしても、なんてことだろう。
背後から迫る【炸撃】の呪力を感知して横っ飛びに躱す。真横を通り過ぎていく赤い閃光。直後にねじくれた樹木に直撃し、その表面を焦がす。初級呪術で術者の能力も大した事は無い。私の呪術抵抗力なら強引に無視することも可能だ。しかし。
続いて一つ、二つと数を増していく火線、火線、そして衝撃。咄嗟に大きな巨木の後ろに隠れる。途端に幾つもの衝撃が盾にした樹木を揺らしていく。
数が多い。多すぎる。
それも、襲ってきているのは古代の異獣や遺跡の守護機械といった予想していた怪物などではない。
「いたぞ、あそこだ!」
「呪力を集中させろ! 一気に仕留めるんだ!」
キャカール系の訛り――つまりはこの迷宮都市エルネトモランが存在するアルセミット国の標準的な中央方言。大陸共通語の響きだった。
私を追いかけて攻撃してきているのは、私と同じ地上人類なのだ。服装は森に溶け込むような色彩の貫頭衣。緑色のそれはどこか祭服のようにも見えた。
何故、どうして?
地獄と地上は敵対している。修道騎士や探索者は世界槍で敵と戦う。ここまではいい。けれど、同じ勢力に属しているというのに、どうして戦わなければならないのだろう? 私は信じられない思いだった。当たり前の様に信じていた事。それが通用しないのが迷宮だと、あのラーゼフという妙な女性は言っていた。だから充分に気をつけろと。そしてどうしても対処しきれないと思ったなら『左手』を使えと。
籠手に包まれた左手と、手首に埋め込まれた金色の鎖を意識する。三つの環。三回きりの切り札。使い切ってしまえば後が無い。今ここで使うべきかどうか。そもそも、小さな呪術を連続で使用されているこの状況はこの『左手』向きではない。
どうしたものか。悩んでいる間にも、のべつ幕無しに呪術が木を揺らし、草木を焼いている。一か八か、盾で守りつつ攻め込んでみようか――そんなことを考えたその時。
叫び。命を絞り出すかのような痛ましい絶叫が響いて衝撃が途絶える。不審に思って様子を窺うと、驚くべき光景が繰り広げられていた。
少年が戦っている。
私よりもやや背は高いけれど、男性としてはけっして高くない。年の頃は私と同じか少し上くらいだろうか。長めの前髪から覗く目には強い光。
一人、二人と斬り捨てられていく。白い槍が翻り、血の軌跡を描いていく。だが相手の数は途方もなく多い。離れた位置から放たれた呪術の攻撃を飛び退って回避した少年は、呪符を地面に叩きつけてそのまま走り出す。黒々とした煙幕が追っ手の視界を遮った。命を奪わぬ程度に傷つける事で負傷者の救助をさせ、追跡者の数を減らす。少年の行動は始めから逃走を前提としていた。
「さあ、今の内に!」
少年は私のすぐ傍にまでやってくるとそう声をかけた。
理由はわからないけれど、彼は味方だ。直感して、私は走り出す少年の後を追いかけた。
霊長類の細かい顔立ちをすぐには覚えられない私でも、その少年が美しいのだということは何となくわかった。線が細く、体つきも男として育ちきる手前といった感じであり、まさしく少年と言う他無い。
身体を動かそうとすると、彼は口の前に指を当てて小さく囁いた。少年の高さだったが、槍のように鋭い声だと思った。
「しっ、もうしばらく動かないで」
私とその少年は木の根が盛り上がって空洞となった場所に身を潜め、泥を被せた布を被せて追っ手の目を誤魔化しているのだった。柔らかな土を伝わる振動。口々に交わされる声。心臓の鼓動は大きく感じられるばかりで、隣にいる少年に伝わってしまうのではないかと思われた。少年は動じる気配もなく、静かに身を隠している。
やがて人の気配が無くなると、少年は布を取り去って空洞から這いだしていった。簡素だがしっかりとしたつくりの服からぽろぽろと土がこぼれ落ちていく。木々の隙間からこぼれ落ちる陽光が、少年の顔を逆光に照らした。
「もう大丈夫みたいだ。出てきていいよ」
「ありがとうございます。なんてお礼を言ったらいいか」
「いや――巻き込んでしまったのはこっちだからね」
不可解な事を言う少年だった。一体どういうことなのか。兜に包まれた私の疑問が表情に出た筈も無いのだが、少年はひとつ頷くと、草むらに隠していた無骨な長槍を取り出してこちらを向きながら言った。
「まずは自己紹介と行こうか。僕は――そうだな。ひとまずはアルスタとでも名乗っておこうか。ご覧の通り探索者で、今はちょっとした任務を請け負っている最中なんだ」
「私はアズーリア・ヘレゼクシュ。松明の騎士団の見習い修道騎士で、今は試験の為にこの場所を訪れていました」
「ああ、知ってる」
私はその意味を、修道騎士が竜骨の森で訓練することが有名だからだと理解した。後で思い返してみれば、それは見当外れも甚だしかったのだが、それはさておき。
アルスタと名乗った少年探索者は、この竜骨の森を拠点とするとあるテロリスト――狂信者の集団の調査に来ているらしい。そして、可能ならばその殲滅も。
竜骨の森の奥地では、最近になって【竜神信教】と呼ばれる邪教集団が暗躍しているらしい。地獄の竜を崇拝するという彼らのほとんどは槍神教によって排斥されていったが、一部の残党は細々と活動を続けていた。その勢力が、近頃になって活発化してきたのだという。
「地上で排斥された狂信者たちが隠れ潜むには世界槍の裏面――それも危険度の低い第一階層の裏面はうってつけだ。しかし、観光客や初級の探索者、そして君のような見習い修道騎士にとってはこの上なく迷惑極まりない話でもある。そこで僕の出番ってわけさ」
森の中を歩きながら、アルスタは気楽そうに話した。聞く限りだと結構な難事のようにも思えるが、まるで気負った様子が無い。飄々とした立ち居振る舞い。腕の立つ探索者なのだろうか。私とそう年齢も変わらないというのに、少しだけ劣等感が刺激された。
聞けば、少年は一人ではなくもう一人仲間がいるという。自分が陽動役として見張りの注意を惹き付けている間に、その仲間が先行して敵拠点に潜入して調査を行うという段取りだったらしい。
「僕が派手に動きすぎたせいで、君まで見つかってしまったのだと思う。恐らく彼らは君を僕らの仲間だと判断して捕らえようとしてくるはずだ。君の身の安全は責任を持って保証させて貰うよ」
聞けば、龍神信教の拠点はよりにもよって指定された花の群生地のすぐ傍なのだという。これも何かの縁であり、こちらも試練を手伝うからそちらも狂信者集団の調査を手伝って欲しいと言われた。巻き込んだ挙げ句に体よく使われているだけのような気もしてきたが、愚痴をこぼしても仕方が無い。少年は助けてくれたし、悪意のようなものも感じない。この場所が危険であるのなら、仲間は必要だ。私ひとりでできることなどたかが知れている。
「よろしくおねがいします」
「こちらこそ」
革手袋に包まれた少年の手と、籠手に包まれた私の手が、甲と甲をぶつけ合う。
私とアルスタは、そうして即席の分隊を結成したのだった。
竜骨の森の植生は中央の墓標船に近付くにつれて次第に異形のものに遷移していく。鮮やかな緑色が、次第に黄色に、そして赤に、最後にはそれらが入り交じった極彩色へと変貌していくのである。
草木の形もまた尋常なものではなくなっていく。ねじくれた樹木は更にねじくれて真横どころか反転して地中へと穿孔するものまであり、柔らかな土を這う長虫や甲虫、小さな動物などの住処となっている。あれだけ繁茂していた草は次第に消え去り、変わって毒々しい色合いの菌類が姿を見せる。
「確か、このキノコって呪具や霊薬の素材になるんでしたよね」
「そうだけど、それは毒でもあるから不用意に触ってはいけないよ。専用の呪布で包むんだ」
伸ばしかけた手を引っ込める。呪動装甲があるから大丈夫だとは思うが、だからといって不用意な真似はすべきではない。
それにしても、少年の知識の該博さには内心舌を巻かされる。年若いということを感じさせぬほどに老練な――あるいは熟練した足取りで彼は森を進む。その時々で適切な指示を私に出しながら、危険を避け、地形を把握し、最適な道を進むのだ。
森の迷宮には怪物が少ない。しかし、道行きは相応に険しい。森というのはそこに生きる獣などよりも、場所それ自体がもたらす疲労が怖いのだ。少年はこの森における最大の敵を前にしてまるで臆する様子が無い。彼は自然という脅威と正しく対峙し、常に上回り続けていた。
「森はただそこにあるだけだよ。恐ろしいかどうかを定めるのは人だ」
アルスタの言う通りではあるのだろう。けれど、私には世界が意思や感情を持って様々な表情を見せているように思えてならない。ごく普通の夜の民のように、私は月と星と夜空を愛する。けれど、同時に昼の青空も同じくらい好きだ。どうしてかはわからないけれど、透き通るような蒼穹を見るたび、私の胸には郷愁のような思いが去来する。それはつかみ所が無くて、すぐに消えてしまうけれど。
空に広がる枝葉の隙間から、陽光が零れ、青空が見え隠れする。
世界槍の裏面、世界内部の小異世界にあっても空は美しい。
ざああっ、と風が吹き抜けていく。風は目に見えないけれど、吹かれて傾ぐ木々と枝葉が擦れて波打ち際のような音を立てるのがはっきりとわかる。海なんて映像媒体でしか見たことはないけれど、私には頭上の光景が海のように感じられた。空のさざなみが次第に遠ざかり、やがて終着点に辿り着く。
そこは無風だった。全ての音がそこで途絶え、草木もまたその命を絶やしていくかのようにぽっかりと空白が出来ていた。
静謐が満ちる場所の中心。途方もなく巨大な、無機質な構造物。
朽ち果てた鋼。巨大な墓標船の残骸がその場所に突き刺さっていた。
緑色の苔が金属の外殻をびっしりと覆い尽くし、長い年月を経てゆっくりと終わっていく異世界の巨大な記憶。斜めに傾いだ塔のようにも見える。無数に走った亀裂や複雑な突起の陰から栗鼠などの小動物たちが見え隠れしていた。飛び回る羽虫を小鳥が啄む。
「さて、見張りは四人か。強引に突破できなくもないけれど、ここはフーを待つ方が賢明かな」
私とアルスタは大きな樹の陰に隠れながら、先行してあの墓標船に潜入しているもう一人を待つことになった。竜神信教の根城はあの墓標船の残骸であり、私の目指す場所はあの墓標船の裏側にある。そこから花を摘んでくるのが今回の試験内容なのである。
「アズーリア。君は修道騎士になってどうするつもりなんだい」
出し抜けに、アルスタが問いを発した。時間を潰す為の雑談、いざという時に仲間を信用できるようにするための布石――会話は意思を繋ぎ、意思は未来を繋ぐ。それに、初対面の相手と沢山話すのは得意ではないが、この少年と話すのは嫌な感じがしない。
「迷宮を踏破して、地獄へ攻め入ります。故郷を襲い、妹を私から奪った憎い異獣を倒す。それが私の望みです」
「復讐か。それはいい。強い怒りと憎しみは人の心を奮い立たせる。君は怨念と呪わしい気持ちというものを正しく制御しているんだね」
少年は朗らかに私の心を肯定した。けれど、私の言葉は半分以上嘘だ――いや、嘘なのだろうか。私の今の言葉に、全く本心が含まれていなかったとでも?
私は異獣が憎い。地獄が許せない。私から妹を――大切なビーチェを奪ったあの魔女が呪わしくて仕方無い。
可能ならば、呪い殺してやりたいとすら思っている。
「君は正しい。そのまま復讐の道を進むことは地上の正義に適う――けれど、忘れてはいけないことが一つある」
「忘れては、いけないこと――?」
問いかけると、少年はどこか恥ずかしそうに顔をそらして、それからしばらくの間を置いて答えた。
「愛だよ」
「――はい?」
「いや、言いたいことはわかる。けれど大事な戦いをするのなら、ちょっとくらい大げさな事を言っても構わないと思わないかい?」
「それはまあ、そうですが」
むしろ、そうした場面でもないと使えないような類の言葉だとぼんやりと思った。
それにしても、なんというか。
少年らしい純真な言葉だと感心するやらこちらまで照れてしまうやらで、どうにも奇妙な気持ちになってしまった。
「これは持論だけど。復讐や呪い、怨念、憎悪、怒り――こうした負の感情は、大切なものを奪われたからこそ生まれるんだと思う。それが己の内側にあるか、外側にあるかはその人によるだろうけれど。それでもそれが尊いものであればあるほど、失われた時に生まれる暗闇はより深くなる。だから復讐心はね、愛の証明なんだ」
饒舌に語る少年の目が、不思議な光を湛えているように思えた。それは強く、深く、そして輝かしいばかりに暗い闇の色――。
「忘れちゃいけないのは一つ。最初の気持ちだ。愛する気持ちを抱いて復讐を遂げること。自分自身が大切なものを想うその唯一無二の気持ちの為に怒りと憎しみを仇にぶつけるんだ。それが復讐の意義であり、叶わなくなってしまった自分自身の想いを遂げる唯一の手段なのだから」
愛のための復讐。呪わしい想いは強い想いの裏返しなのだと語る少年に、私はふと既視感のようなものを覚えた。だから、理由もわからないままに尋ねた。
「もしかして、貴方も大切な人を失ったんですか?」
「いや――僕は、少し違うな。もうずっと遠い昔のことだけれど」
アルスタは目を閉じて、過去を追想しているようだった。どうしてか、故郷の長老を思い出した。年若い外見にも関わらず、その姿はまるで若かりし日々を回顧する老人を思わせるのだ。
「大切なひとを、僕は手放してしまった。離さなければ良かったのに。この手の熱が彼女を溶かしてしまうとしても、彼女の冷たさが僕を凍てつかせてしまうとしても、この後悔の苦しみに勝るものは無い――だから、ずっと足掻いている。もう一度彼女を取り戻す為に。偉そうな事を言ってすまないけれど、僕の戦いは復讐と言うには少し望みがあり過ぎる。儚い希望だけれど、最愛の人を取り戻す可能性が残されている」
それゆえに戦い続けるのだと、少年は語った。
私は、どうしようもないくらいに心を打たれて、胸が締め付けられるように苦しくなった。理由は明白。だって彼の境遇は私と良く似ている。
「あの、私、応援してます。何もできませんけど、貴方が大切な人とまた一緒にいられるように祈ります」
「祈る――それは、マロゾロンドにかい?」
私は呪動装甲を纏っているのに、どうしてかの黒衣の天使の加護を受けた者だとわかったのだろう。不思議に思いながらも、私は否定の言葉を返した。
「いいえ、大いなる槍神に」
ごく自然な返答だった筈なのに、何故かアルスタはこの上なく愉快な冗談を耳にしたかのように吹き出してしまった。肩を震わせて、大笑いが外に漏れないように必死に口を押さえる。
「ちょっと、外に聞こえますよ!」
「ごめんっ――でも、耐えられなくて――くっ、あっはは!」
囁き声でのやり取りだったけれど、私は木の向こうにいる見張りに気付かれないかどうか、気が気ではなかった。
その時だった。
「あるじ様、お戯れは止して下さい」
耳に響く涼やかな音。
金属をぶつけ合わせたような、綺麗な響きの女性の声だった。見れば、いつの間に現れていたのか、すぐ傍に人影が跪いていた。
簡素ながらも華美になりすぎない程度の装飾が施された侍女の服。跪いている為に広がったエプロンドレスの下から革の長靴が見えている。豊かな金髪は胸元や背中の半ばまで流れており、白い肌は美しく潤いを保っている。目は大きく、瞳は黄昏のように暗い赤。
特徴的だったのは、白黒のヘッドドレスの後ろから直立する二つの三角形。黄金の毛並みをした、獣のような耳。
そして、ほっそりとした首筋に見える頑丈そうな首輪と、その中央から伸びる金色の鎖。
金色の少女――いや、そう形容するにはいささか早過ぎる。何しろ私よりも背が低い。蕾のままの美しさで、童女、あるいは幼女は少年に傅いていた。
私は即座に呪動装甲の内部機能を起動させて松明の騎士団本部に通報した。場所は世界槍第一階層、第一裏面竜骨の森、女児に侍女の格好をさせて「あるじ様」などと呼ばせている怪しい少年を発見。これから拘束を試みる――。
「はい、承りました。金鎖システムから自動返信しますが、そんな変態主人は即刻逮捕して首輪をつけるべきですね。さあどうぞ」
「待て、フー。何か誤解がある」
「あれ?」
金鎖システムに通報したら何故か目の前の幼女から了承が返ってきた。金色の髪と金色の鎖を侍女服の各所から見え隠れさせる、正体不明の――金色の鎖?
「申し遅れましたが、わたくし金鎖のフラベウファと申します。以後お見知りおき下さい、アズーリア様」
その名乗りにぽかんとしてしまい、私はしばらく何も言えなくなってしまった。だってその名前は、私たち修道騎士にとって極めて重要な名前だったから。そして、彼女が金鎖のフラベウファだとすれば、主人と仰ぐのはどう考えても――。
「それでフー、内部の様子はどうだった?」
「非戦闘員らしき者がほとんどです。多くは呪力の低い弱った老人や傷病者――それに子供。それと、なにやら内部で大規模な儀式呪術を準備しておりました」
「時間的な猶予は」
「応援を呼んでいる時間は無いかと。ですが、見張りが四人、内部に五人、外に散った十数人を増援と考えても、あるじ様とわたくしで充分に対応可能だと判断しております」
少年はしばらく考え込んだ。
「よし、突入しよう。フー、全員拘束できるね?」
「もちろんです、わがあるじ」
「アズーリア、君の力を借りたい。できれば捕縛して連行したい。勿論、君の判断で自分の身が危ないと判断した場合は殺めても構わない。任せていいかな?」
「わかりました」
私は思わず頷いていた。身が引き締まり、口調も強張っていた。多分、私の予感は正しい。だとすれば、彼の指示には逆らえるはずもない。だって彼は――。
「よし、合図をしたら飛び出す。僕に続いてくれ」
一、二、三と聖なる数字が数えられ、私たち三人はほとんど同時に飛び出した。
突然の奇襲に対応しきれずに見張りの四人が次々と倒されていく。
私は左手の方形盾を構えて見張りの一人に突進し、全力で体当たりをくらわせた。いかに体格で劣っていても、呪動装甲のような硬い重量物が高速でぶつかってくれば転倒は不可避である。
私がひとりを押し倒している間に、アルスタは長槍を振るって一人の足を切り裂いて行動不能にしていた。奇妙な槍だった。骨張ったというか、骨そのもの。長大な生き物の背骨をそのまま槍にしたような異形の得物。無骨を通り越して原始的な武器を縦横無尽に振るって瞬く間に貫頭衣を纏った竜神信教の信者たちを倒していく。
墓標船の内部から次々と増援が現れてくる。彼らは次々に呪符や巻物を取り出して呪術を発動させようとするが、それらの呪具に素早く巻き付くものがあった。
それはフラベウファが操る金色の細長い鎖だ。彼女の両の掌から伸びた金鎖が自在に動いて、呪術を発動する前に封じ込めているのだ。
フラベウファは両腕を巧みにしならせて金鎖を操る。じゃらじゃらと音がして、金鎖が掌から吐き出されていく。
フラベウファの左右の掌に、口があった。唇は無い。亀裂が走り、ぎざぎざの牙が剥き出しになった簡素な出入り口。そこから金色の鎖が伸びているのだった。
「鎖せ」
冷淡な声。フラベウファの金鎖が竜神信教の信者たちを次々と拘束し、一繋がりにしていく。最後にまとめて締め上げる。ご丁寧に、アルスタが切り裂いた足までも縛り上げて血を止めていた。
鮮やかな手並みだった。一人の死傷者も出さずに場を収めて見せた二人に尊敬の眼差しを送っていると、アルスタの雰囲気が険呑なままであることに気付く。
「どうしたんですか?」
「おかしい――戦闘員の中に巫女が入っていない」
巫女というのは宗教体のほとんどで見られる特殊な神官のことだ。槍神教においては聖女がそれに相当する。最も神に近しいもの。呪的もしくは霊的な素養が高い、高次元存在と交信できるもの。竜神信教にもそうした存在がいるはずだった。
「フー、内部に巫女はいなかったのか」
「いえ、確かにいましたが――申し訳ありません、この男、非戦闘員として数えておりましたが」
言ってフラベウファは一人の男を示す。顔面は蒼白で息は荒い。よく見れば片腕を失っているようだ。怪我をしているにも関わらず仲間を守るために前線に出てきたのだろう。
「まずい」
アルスタは墓標船の内部へ駆け出そうとして、直前で足を止めた。
大地に衝撃が走る。草木が揺さぶられて、一斉に小鳥たちが飛び立って小動物が逃げ惑った。
墓標船の内部から膨大な呪力が溢れ、鋼鉄の残骸に亀裂が走っていく。巨大な質量が破壊と共に墓標船から飛び出した。
大跳躍を果たしたそれは、私達三人の目の前に着地すると、盛大に土と草花を舞い上がらせて咆哮した。耳を劈くような衝撃に私達はたじろぎ、螺旋状の破壊が金鎖を引き裂いて囚われた人々を救い出す。上を向いた船尾が破壊された墓標船から非戦闘員たちが現れて仲間たちを助け出していく。私たちは突撃してくる巨大な質量から逃れるのに手一杯だった。重い振動、凄まじい衝撃。
竜神信教が怪しげな呪術儀式によって起動させたそれを、どう形容すればいいだろう。一番近いのは、巨大な鋼の蜥蜴といったところだろうか。
しかしその首は途方もなく長い。逆三角形をした頭部の額には槍の如き鋭さを持つ螺旋の角。頑丈そうな、しかし機敏に動く巨大な四つ脚。重量の均衡を保つためだろうか、左右にうねる長い尾。
その全てが巨大であり、重々しく、そして圧倒的に堅牢であった。
それは機械。鎧のような鱗、無機的でありながら有機的なしなやかさを併せ持つ高度な杖の技術。
「まさか大機竜オルガンローデとはね――墓標船の奥深くで誰にも気付かれずに眠っていたのか。竜神信教の巫女がその感応力で呼び覚ましたのかな」
アルスタの分析は冷静だったが、声からは余裕が失われている。当然だろう。大機竜オルガンローデ。九体存在する創世の竜、その中で唯一架空の存在であるこの竜は、呪術によって創造することが可能な呪術竜なのである。四大系統に一つずつ存在するオルガンローデの秘術のうち、物質的に機械の竜を再現しようとする杖のオルガンローデは現在の技術では再現不可能とまで言われている。
そう、現在のこの世界の技術では。
異世界の知識が詰め込まれた墓標船を利用すれば、可能性はあるのだ。
杖の大機竜が勇ましく咆哮する。敵である私達を駆逐せんと重く大地を揺らしながら突進してくる。
「やるしかないっ。フー、アズーリア、援護を頼む! 転ばせてみる!」
少年は意を決したように宣言し、恐るべき巨大な機械に正面から立ち向かっていく。
疾走するアルスタの背中を見ながら、私は槌矛を展開して杖の形態に変化させた。
私が拘束の光を放ち、フラベウファが金鎖を放つ。更にアルスタは地面に槍を突き刺し、その柄が折れるかと思うほどにしならせ、槍が元に戻ろうとする力を利用して高らかに跳躍する。後ろ手に槍を引き抜いて、最高点に到達した彼は槍を伸張させた。背骨がばらばらに分解し、複数の節を金鎖が繋ぐ多節棍――否、鞭となって大機竜の首に巻き付いた。
大機竜の突撃を回避しながらの攻撃。アルスタは鞭の反対側を墓標船の突起に食い込ませ、勢い余った大機竜はそのまま転倒しそうになる。寸前で踏みとどまった巨大質量の足を、私とフラベウファの拘束呪術と金鎖が引っ張った。たまらず大機竜は転倒する。
圧倒的な敵であるからこそ、その力を利用して戦う事もできるのだ。アルスタの勇気と機転に私は感心したが、直後に起きた出来事に思考と感情を吹き飛ばされる。
凄まじい衝撃と呪力が大機竜の装甲から全方位に放たれて、拘束が全て弾き飛ばされていく。アルスタは骨の鞭を手に戻して再び攻撃を行うが、風を切り裂いていく穂先は不可視の障壁に弾かれてしまう。
「呪術障壁ですね。わたくしの金鎖まで弾くとは」
フラベウファが淡々と呟いた。
巨大な機竜は圧倒的な防御力を得て、更に勢いづいていた。頭部から生えた螺旋状の角を高速回転させながら突撃し、アルスタに襲いかかる。少年はかろうじて回避したが、危ういところだった。背にしていた倒木が螺旋の衝撃を受けて貫通されていく様子を見ていると、一度でも直撃したら助からないことは明白だ。
更に機竜は口から細長い筒を伸張させる。吐き出されたのはどろどろに溶けた赤熱する金属。液体となった金属が蒸気を上げながら少年に襲いかかる。
続いて、前足の付け根、肩の部分から複雑な呪文が展開され、追尾する文字列が少年の身を打ち据える。文字が雷撃に変じて少年の身を灼いた。
私の拘束呪術もフラベウファの金鎖も無効化されてしまう。これでは手の出しようが無い――いや、一つだけ手段がある。
金鎖の解放。『左手』の使用。実戦で使うのは初めてだが、ここでやらなければいつやるというのだろう。
見ると、フラベウファがこちらに視線を向けていた。
「わたくしが時間を稼ぎます。その間に、解析と解体の準備を」
彼女は何もかも理解していた。私も頷いて、左の籠手を分離。金鎖に意思を込める。
精神集中に入った私の前で、フラベウファが凄絶な呪力を放つ。私の左手の金鎖が砕けるのと、フラベウファの首の金鎖が砕けるのは全く同時だった。金鎖解放。それは寄生異獣の活性化を許可するということ。
「号は黄金、性質は黄昏、はじまりの記述は孤独と絶望」
使役型の寄生異獣――宿主から独立して行動する自律型の中でも、彼女はとりわけ傑出した能力を持つ個体として知られていた。寄生異獣を制御する為に存在する金鎖システムの中枢。異獣憑きたちの守護者。
第二魔将変異獣モルゾワーネスの万能細胞によって再現された、とある神話の登場人物。聖人、天使、古い神話では伴神とも呼ばれた彼女は、常に偉大なものの従者であったと伝えられている。
掌の口から吐き出される金鎖の数が次々に増え、彼女の周囲を取り巻いていく。伸びた金鎖は主である少年の周囲を壁のように覆い、大機竜の攻撃から守る。
「いぐにす・あうるむ・ぷろばっと――キュトスの姉妹が『零』番目、金鎖のフラベウファ、参ります」
この世のものとはおもえぬ奇怪な意味を内包した呪文が宣名と共に唱えられ、さらにありえない称号が現実そのものをねじ曲げる。キュトスの七十一姉妹はその名の通り七十一人――七十一柱しか存在しない。存在しないはずの番外位、数を失った欠番の魔女が膨大な量の金鎖を吐き出していく。
大機竜の突進をいなし、螺旋の衝撃を受け流し、稲妻のような文字列を絡め取る。
流麗に舞いながら金の鎖を踊らせるその姿は、まるでひらひらと踊る花びらのよう。
そして、フラベウファが時間を稼いでいる間に、私は密やかに精神を深く深く影に沈み込ませていた。細く長く伸びたフラベウファの金鎖が作り出す影が、私と大機竜の影を一瞬だけ繋ぐ。金鎖は障壁に弾き返されたが、私は繋がった影を通って自らの精神を大機竜とその身を守る呪術障壁の内部に侵入させた。
闇の中で、呪術を――そして大機竜の構造を掌握していく。
本来ならば到底不可能な凄まじいまでの情報解析。左手に宿る寄生異獣の力があってはじめて可能になる大呪術――対抗呪文、【静謐】。
私は大機竜の過去へと精神を沈み込ませながら、その言葉を口にした。
「遡って、【フィリス】」
第一魔将呪祖フィリスが左手で無彩色の輝きを放つ。途端、私の心に流れ込んでくる夥しい想いの流れ。私に過去視のようなことはできない。けれど、強制的にフィリスをもう一度活性化させて【静謐】を重ね掛けすることで、強引に解体してその構造を覗き込む。第二の金鎖が砕け散って、私は大機竜の過去へと遡った。
記憶の奔流。未熟な私の左手から、想いの声が溢れ出していく。
最初に見えたのは、シャベルを担いだ少年。同胞の墓を掘り終えて、どこかに向かおうとしている。その背後で少女が哀切な叫びを上げる。
「無茶だよ、行かないで」
「駄目だ、今度こそ見つかった。あいつらは俺達をけっして見逃さない」
「やだ、やだよ、だからってダイロくんが犠牲になることなんてない」
「わかってくれ、クィ。俺はお前やみんなを守らなきゃならない」
「こんなの嘘――私のせいで、私が託宣を受けなければ、こんなことには」
「お前のせいじゃない。お前のお陰で、俺はお前やみんなを守れる。見ていてくれクィ。俺はこの力であいつらを倒す。戦って俺達の居場所を勝ち取るんだ」
悲壮な決意。大量の呪石が捧げられた儀式場の中央で蹲る巨大な機竜。その角に少年が血を垂らすと、背中が開いていく。内側に入っていく少年が小さく何かを呟いた。少女が涙を流しながら儀式の最終工程を終わらせる。そうして、鋼鉄の蜥蜴は立ち上がった。一人の少年の命を捧げることによって。
――時間にして一秒にも満たなかっただろう。その間に、私はあの大機竜を取り巻く想いの一端を掌握した。してしまった。
唇を噛んで、左手に呪力を込める。竜神信教――『狂信者』『邪教集団』そして槍神教に抵抗する者たち。ただの、当たり前の人間たち。それでも戦わなければ私はここで死ぬ。妹を取り戻すことも、もうできなくなってしまう。
【静謐】が発動して呪術障壁を破壊した。大量の金鎖が今度こそ大機竜の前進を止めた。拘束された鋼の蜥蜴は身体を左右に振って金鎖を振り解いていく。その鬼気迫る様子に、思わず私は叫ぶ。
「聞いて下さい、その中には――」
「僕らにも聞こえたよ、悲しい声が」
アルスタは骨の槍を手にしながら、ゆっくりと大機竜へと歩み寄っていく。その声はひどく落ち着いていて、ここが戦場ではないと錯覚しそうになるほどだった。
「愛や絆が引き裂かれるのを見るのは、いつだって辛い――だから、ここからは僕の戦いだ。僕という存在は、全ての悲劇を笑い飛ばす為にこの地上に降りてきたんだから」
少年が骨を地面に突き刺した。そして、武器であるはずの槍を背にして自分が前に出る。すると骨の各部が伸張して少年を取り囲み、まるで本当に背骨から肋骨が伸びているような状態となった。
少年が静かに口を開いた。
「フラベウファ。松明の騎士団総団長の名に於いて聖遺物の解放を申請する」
「承りました、わがあるじ。緊急時における聖遺物の使用に関する規則第一条第四項に基づき、大神院の認可無しでの自動承認を行います。申請者の責任において聖槍の制限を解除」
フラベウファが答えた途端、少年の背後の背骨から炎が燃え立つ。更には金色の鎖が各部から大量に吐き出され、溶け出した金色が流動しながら少年の周囲を包んでいく。
炎の色――それは赤と橙。
金の色――それは黄と山吹。
炎の中から現れたのは、赤と黄金の装甲を輝かせた、燃えるような全身甲冑。
呪動装甲。修道騎士の証。
「みせりあ・ふぉるてーす・うぃろーす――炎は黄金を証明する。闇を照らせ、【フォグラント】!!」
鋭角な兜の内部から少年の声が響き、鎧型の寄生異獣が真紅の瞳を輝かせた。
第三魔将ヴェイフレイの燃えるアストラル体を憑依させたとある聖遺物――聖なる骨。槍に擬態していたそれが、呪動装甲としての真の姿を露わにしていた。
いや、それは【神働装甲】とでも呼ぶべきものであるのかもしれない。
「第八位の天使ピュクティエトに誓い、ここに宣名を行う! 我が名はソルダ=ルセス・アルスタ=アーニスタ! 闇を照らし、希望を掲げる【松明の騎士】!!」
背中から広がる炎の翼。最高位の呪術――神働術である【炎天使】を発動させて、少年は空高く跳躍し、そのまま飛翔した。
金鎖の束縛から抜け出た大機竜が、螺旋の角を回転させながら炎の天使を威嚇する。
「我があるじソルダ様は怪物揃いの守護の九槍の中では大した存在ではありません。武芸も神働術の腕も平凡。天才と言われている第九位あたりと比較すると実力の差は歴然です。巷では『最弱の聖騎士』などと呼ばれているとか」
その評判は私も知っていた。実際に見たことは無かったが、松明の騎士団の総団長ソルダ・アーニスタは序列第一位にも関わらずその地位に見合わぬ実力だと言う話だった。
「誇れるのは勇気と機知のみ――しかし制限を解除し、その真なる能力のひとつを解放したわがあるじは無敵です」
最弱という二つ名には続きがある。すなわち、最弱にして常勝。曰く、地上にとっての無限の希望であり地獄にとっての真なる絶望。彼こそは至高の聖騎士。
「初代松明の騎士である大フォグラントの存在を参照し、その威光を纏って戦う引喩系神働術――たった300秒ですが、彼はその間だけ真の英雄となる。空想の勇士を現代に甦らせる聖なる祭祀」
偉大なる修道騎士にして大司教、祭祀を執り行う祭司。
そして、地上における最高の英雄。
アルスタ――否、ソルダ・アーニスタは炎の翼を燃え立たせながら飛翔する。呪文による文字の雷撃を手の一振りで打ち払い、口から吐き出される高熱の液体金属を軽々と避ける。飛翔の勢いのまま繰り出された拳が爆炎を放出して大機竜の頭部を弾き飛ばした。
「――あえて名付けるとするならば、空想祭祀のアリュージョニスト」
フラベウファの呟きと同時に、空から舞い降りた炎の天使の足が螺旋の角と激突する。回転する螺旋と炎を纏った足裏が呪力を可視化させ、周囲の大気を稲妻が灼いた。
拮抗する両者の勢い。呪力の天秤が、やがて片方に傾いていく。
音を立てて螺旋の角が砕け散り、機械の竜の頭部が衝撃に破壊され、高熱で融解していく。次々に爆発していく長大な首。しかし大機竜は首を失ってもなお動き続ける。その命を燃やし尽くすまで。
「苦しいのかい――今、終わりにしてあげるよ」
静かに呟くソルダは、炎の翼をはためかせながら空高く舞い上がった。左腕の外側に黄金の円筒が出現する。腕と平行に取り付けられたその筒から、形のある炎が燃え上がった。赤々と輝くその尖端は鋭く、まるで槍か杭のようだった。
左腕の武装は投槍器、あるいは杭打ち機なのだ。
「貫け、神火明光!!」
灼熱の輝きが槍となって天から突き下ろされそうになったその時、離れた場所で固まっていた竜神信教の信者たちの中から一人の少女が飛び出す。真っ直ぐに駆け出して、大機竜に近付いていく。
撃ち出された炎の槍は止まらない。凄まじい熱が大機竜ごと少女を焼き尽くさんと地上に広がっていく。私は咄嗟に最後の金鎖を砕いた。同時にじゃらじゃらと音を立てながら金鎖が伸び、上空から「凍れ」という声が響く。
壮絶な呪力が嵐となって吹き荒れた。
衝撃が止んで、舞い上がった土埃が晴れていく。
少女は無事だった。金鎖に巻かれながら呆然としている。咄嗟に【静謐】を発動させて、少女に襲いかかった熱だけを打ち消すことができた。衝撃の方はフラベウファがいなければどうにもならなかっただろう。
そして、大機竜は完全に破壊されていた。
爆発によって内部構造が露わになり、微弱な放電と呪力の漏出を起こしている。放っておけばまた小規模な爆発を起こすかも知れなかった。
背中の分厚い装甲は熱によって融解し、内部もまた熱と衝撃によって完全に壊れていた。内部にいる誰かの生存は絶望的に思われた。
「そんな、ダイロくん、ダイロくんっ」
少女は緩んだ金鎖から抜け出すと、目尻から雫をこぼしながら走った。熱を持った大機竜にとりつくと、皮膚が熱で焼けていくのも構わずに背中に這い上がっていく。掌、腕、膝を火傷しながらも、少女は懸命に大機竜の残骸にとりつく。そして、その内側を見た。瞳から止め処なく涙が溢れた。幼い顔がくしゃりと歪む。
「ダイロくん――」
そっと差し出された少女の焼けただれた手が、ひんやりとした氷に触れる。
氷の障壁に守られて、生き永らえた少年の姿がそこにあった。
氷がひび割れて、少年と少女の間を遮るものがなくなる。
「最初から【氷槍】を発動して彼の命は守るつもりだった。愛する者同士が引き裂かれるのは、見ていられない」
私達の近くに降り立ったソルダの右腕には、左腕同様に巨大な円筒が出現していた。彼はその内部から氷の槍を撃ち出し、おそるべき優先度の凍結呪術によって障壁を作り出したのだ。
ソルダの鎧が光の粒子に包まれて、内側から少年が姿を見せる。
その首筋から微かな呪力が漏れていることに気がつく。どこに繋がっているのか、虚空のある一点で消失するか細い呪力の糸。まるで噛み痕のように淡く光る、首筋の二つの点。しかし、彼の首筋には実際には孔などは存在しない。まるでずっと昔に孔を空けられて、霊体だけにその痕跡が残されているかのようだと、何とはなしに思った。
彼は愛おしげにその箇所を撫でると、そっと呟く。
「きっと君ならこうするはずだ。そうだろう?」
遠くにいる誰かを想うように、彼は囁く。
そして、そんな主人を金色の従者が透明な表情で見つめていた。
大機竜から少女の手を借りて這いだした少年が、弱々しいながらも戦意を宿したままの瞳でこちらを睨み付けた。命ある限り、彼は戦うのだろう。
ソルダは決然とした面持ちで長槍を振りかざした。その穂先に、炎が灯される。
それはあたかも松明の炎の如く。
「松明の騎士の名に於いて宣言する。君たちは今この瞬間から人ではなく異獣となった。勢力変更の直後であるため、即座の攻撃はしないものとする。あのヲルヲーラにだって文句は言わせない。さあ、転移門へ向かい地獄へ渡るがいい!」
この地上と地獄の戦いで、敵味方を識別する呪術を行使できるのは三人だけだ。
すなわち、審判である翼猫ヲルヲーラ、上方勢力の頂点たる松明の騎士ソルダ、下方勢力の元帥たる迷宮の主セレクティフィレクティ――ベアトリーチェ。
一度『人ではない』と定められて地獄に降りたなら、もう一度ラベルを貼り替えられない限りもう二度と地上には戻ってくることができない。いかに居場所が無くなったとしても、生まれ故郷を捨て去れという宣告は無慈悲に過ぎた。
ソルダの冷酷な宣言に、竜神信教の信徒たちは様々な反応を見せた。怯え、困惑、敵意、思索――もはや地上に彼らの生きる場所は無い。最後に逃げ込んだこの場所にまで槍神教の追撃は及んだのである。
「どうした、それとも戦ってここで死に花を咲かせるのが望みか! いいだろう、それならばこの松明の騎士が相手となろう。戦士の本懐を遂げるがいい。戦えぬ者を巻き添えにしながら!」
ソルダの言葉に、大機竜に搭乗していた少年が何かを言い返そうとした。しかし、すぐ傍で自分を支えている少女を見て、決意を固めたように唇を引き結ぶ。一度だけ強くソルダを睨み付けて、それから少女と共に集団の方へ向かう。一つの意思を抱えて。
「地獄へ堕ちていけ! そしてジャッフハリムの帝都を目指すんだ! セレクティフィレクティとレストロオセなら難民を無下にはしないだろう。さあ行け、走れ! 振り返らずに、地上の事を忘れて生きろ!」
ソルダの言葉はどこまでも残酷で――しかし彼に許された範囲の中での、精一杯の慈悲なのだと思えた。
やがて、短い話し合いを終えた竜神信教の信徒たちは走り去っていった。ソルダの言葉通りに、振り返らず。
「偽善、欺瞞、自己満足――わかってはいるんだけどね」
「わかっているならしなければいいのです。ばかなあるじさま」
毒づきながらも、フラベウファの口調はどこか明るい。己のあるじを心底から誇り、敬愛するような声の調子が、外見上の年相応に可愛らしく感じられる。
「地獄で彼らは上手くやっていけるんでしょうか」
「さて、どうだろうね。竜神を崇める彼らは火竜メルトバーズのことも良く敬うだろう。その点では大丈夫だろうけれど――」
「結果は、神のみぞ知る、ということですか」
私にとっては何とはなしに口にした言葉でも、他の誰かには滑稽に感じられることがあるらしい。
まさにその時、ソルダとフラベウファの二人がもの凄い勢いで吹き出して、揃って肩を揺らしていた。私は何がそんなに可笑しいのかわからずに狼狽する。
「あの、一体どうしたんでしょうか」
「いや、いいんだ。こっちのことだから、気にしないで――」
「くすくす、クナータ様から聞いていた通り、中々面白い方ですね」
わけがわからなかった。兜の内側で目を白黒させる私をちらちらと窺いながら、二人は盛大に笑い転げた。
「もう、何なんですか、一体!」
流石に憤慨してそっぽを向いた私に、謝罪の声と共に一輪の花が差し出される。
「ごめんよ、あんまりにも気の利いた冗談に聞こえてしまったものだから。僕たちだけの間で通じる符丁みたいなものなんだ。気を悪くしたよね。お詫びに、これを進呈するよ」
ソルダが私に差し出したのは青と白が綺麗に調和した小さな花。
随分と目的から離れてしまったけれど、これこそが今回の私の目的だった。
これを受け取れば私は試験の合格となる。けれど。
私は花を受け取る際に籠手に包まれた右手を胸に当て、敬礼をしようとした。気付かなかったとは言え、礼を失する行為は修道騎士としては許されない。
けれどソルダ・アーニスタ卿は柔らかい声のままで私の行為を制止した。
「ああ、いいよ。僕が自分で隠していたんだからね。名前の一部だから嘘は吐いていないけれど――ソルダ=ルセス・アルスタ=アーニスタだなんて長いだろう? 普段はソルダ・アーニスタで通してる。いっそソルダと呼び捨てにしてくれても構わないよ」
「そのようなこと――!」
「じゃあ団長とか総会長かな」
「では、団長殿。数々のご無礼――」
「いや、君は礼儀正しかったよ」
「気付かなかったとはいえ――」
「わざと隠してたんだって。実は君の噂は聞いてたんだよ。あの第一魔将の適合者が現れたってね。それで、実際に見てみたくなったんだ。そしたら竜骨の森で竜神信教に動きがあるって言うじゃないか。なら任務と一緒に君を試してしまえと考えたんだ」
「では、これまでのことは」
「ほとんど仕込み――流石に大機竜が出てくるとは想定外だったけれど。それと、探索者っていうのは本当だよ。内緒だけど、これでも正式な探索者資格を持っているんだ。かなり前に姉さんと一緒に試験を受けてね」
私はぽかんとしてしまった。この少年は、一体何なんだろう。
ソルダは私の左手に摘まれた花を見ながら言った。
「君には青がよく似合うね。青は素敵な色だ。そして白も。それらのイメージを呼び起こしてくれる、冬の季節が待ち遠しいよ」
ソルダはどこか遠くを見つめているようだった。
有名な話だ。エルネトモランを始めとした各地に伝わるおとぎ話。
松明の騎士フォグラントと冬の魔女コルセスカ。
火竜メルトバーズを地獄の奥底に氷漬けにして封印した二人の英雄譚。
そして、悲恋の物語でもある。
届かなかったてのひらが、強く引き合う魂を求めて現代に甦った。
転生――時を超えて、いずれ二人は巡り会う。
絶対なる聖女の予言で、運命の恋人たちは聖なる結婚を約束されている。
「早く、会えるといいですね」
「――ありがとう。そうだね。僕も、彼女に恥じない英雄にならなければ」
溢れ出した想いが、堪え切れずに瞳からわずかにこぼれ落ちた。少年は悲しみと切なさを無理矢理に抑え付けて、服の袖で目を擦る。顔を上げた時、ソルダの表情には快活な雰囲気が戻っていた。
「予言にある試練を全て乗り越えて、僕は必ず彼女に巡り会う。だから僕は戦い続ける。英雄として、松明の騎士として」
「試練、ですか」
「幾つかあって、大体は怪物退治だよ。ほとんど終わってるんだけど、最大の難関が残っててね」
彼ほどの勇士が言う難関とは、一体どんな試練だというのだろう。
私の疑問に、ソルダは端的に答えた。
「異界の悪魔――まことの名を持たないという異質さの塊。いかなる伝承にも登場したことのない名無しの怪物。僕はいつかその最強の悪魔と対決し、勝利しなければならない」
強い戦意を漲らせる少年の純粋な想いを感じ取って、私は改めて思った。
彼を応援したい。
最弱の聖騎士が最強の悪魔に立ち向かう。その英雄譚の結末が、華々しいものになればいい。私はそんなことを考えながら、少し気安いかなと危ぶみながらも言葉を紡いだ。
「良かったら、結婚式には呼んで下さい」
「ああ、もちろんだよ。きっとこの上なく壮大で、幸福な式を挙げてみせる」
誓いの言葉は、まるで少年の胸に燃える恋情のようだった。
それが私、アズーリア・ヘレゼクシュとソルダ・アーニスタの出会い。
修道騎士として一歩を踏み出す直前の一幕。
残っている確かな記憶。
追想する私の意識はしっかりとしている。闇の中を往く私の足取りは確かだ。
その後に繰り返される訓練、実戦、防衛戦に斥候としての強行偵察、キール隊のみんなとの出会い、六人での訓練と実戦、積み重ねられた信頼――そしてあの悪夢のような第四階層の防衛戦。決意と叛逆。第七位の命令に逆らっての第五階層への突入。そして、そして――。
そう。この時点から未来の記憶は確かだ。
松明の騎士団の修道騎士として戦ってきた記憶は確かにある。
私の動機の根源、意思の源泉である幼い頃の記憶、妹との思い出も存在する。
さて。
妹を失い、声を無くした私のそれから。寄生異獣フィリスを宿し、修道騎士としての第一歩を踏みだし始めた私のそれ以前。
その間、一体私は何をしていたのだろう――?
確かだったはずの記憶が、揺らいでいく。
疑問に思う事すら無かった、空白の期間。
何故か不自然な思い出とも認識ともつかない『この期間は空白ではなく何らかの思い出が存在する』という何だ、これは、文字列――違う、これは呪文だ。
私の脳に、心に、アストラル体に書き込まれた呪文の羅列。極めて複雑で高度な記憶の捏造と認識の操作。
私はこんなにも不確かだ。
そもそも私はどうして声が出せるのだろう。
どうして色がわかるのだろう。
どうしてこんなにも実体がはっきりとしているのだろう。
おかしな事は幾らでもある。フィリスのお陰だと思考停止してその切っ掛けを忘れていた。考えないようにしていた。認識できないということすら認識できなかった。
そもそも。
この左手に宿った【フィリス】とは一体何なのだ――?
疑問、疑問、疑問。
深い闇の中に落ちていく。
悪夢の泡が浮かんでいく暗闇の底に、誰かがいるような気がした。
それは少年。フラベウファのような三角の耳は白く、その美貌は輝かんばかり。
しかし、どうしようもなくその少年はおぞましかった。
私にとって、彼は避けられない運命そのものだと見ただけでわかってしまったから。
運命――それは美しいばかりではなく、抗いがたいほどに強引に人の意思や感情をねじ曲げる恐ろしい怪物なのだと、その時になってはじめて私は知った。
「ああ、そこにいたんだね、フィリス。そして大切なアズーリア」
少年にはまるで雄々しい所が無い。線の細い、ソルダに輪を掛けて女性的ですらある美貌の少年。
けれど私には、彼を取り巻くアストラルの鬣が見えた。
ああ、彼はどうしようもなく獰猛だ。
少年は、獅子だった。
「ずっと昔、君は僕に会いに来てくれた――これから会いに来てくれる。運命が僕たちを引き合わせようとしているのが感じられるよ。いつか、僕たちは巡り会う」
嫌、嫌、嫌だ!
怖かった。自分の意思が、自分の運命が強引にねじ曲げられてしまうなんて嫌だ。
私は私だけのものだ。
記憶も、感情も、この想いも。
けれどそれは空虚な嘘でしかないと私は知っている。地上においては全てのものが槍神教と大神院によって管理されている。この地上に自由は無い。あるのはかりそめの自由。箱庭の楽園。人柱たちの悲鳴を聞かなかったことにして笑い合う、おぞましい理想郷。けれど真の自由は私達には過酷すぎて、この心地良い幸福を抜け出すことがどうしてもできないでいる。
「大丈夫――待ってるから。最も自由で残酷な、世界の真ん中で会おう。君のもう一つの運命と一緒に、再会の喜びを分かち合おう」
少年の柔らかな声は、私にとっては恐怖でしかない。私はこの少年に出会ってはならなかった。あの全てを見透かす瞳と耳で、あの雄々しい鬣と荒々しい牙で、私は存在ごと食い尽くされて解体される。
「君は少し深いところまで潜りすぎたみたいだ。大丈夫、送ってあげる。君の居場所に帰るといい」
少年はそういうと、すうっと息を吸い込んだ。この闇の中で、一体どれほど吸い込める大気があるというのか。それとも彼が吸ったのは物質的なものではなく――もっと抽象的な。
「遡って、【オー】」
同じ呼び声、異なる名前。
その聞いたこともないたった一つの音が、フィリスの対極なのだとどうしてか理解できてしまって、私は恐怖に震えた。
少年の左手が吸い込まれそうな闇に、右手が眩いほどの光に変貌していく。
闇の左手と光の右手から凄まじい呪力が湧き上がり、私の左手が何かを求めるように暴れ出そうとする。柔らかい闇と光が私ごとフィリスを包み込んで、そのまま上へ、上へと運んでいく。
そうして私の意識はゆっくりと薄れ、浮上し、そして覚醒した。
全ては暗い追想と闇の中。
曖昧な意識は、微睡みと目覚めの狭間に消えていった。