3-2 言の葉遣いは躊躇わない
日の光を浴びた私は、ぐっと背を反らして伸びをする。外なので流石に手まで伸ばしたりはしないけれど、身体がほぐされていく感覚が心地良い。
久々に儀礼でも式典でも訓練でも防衛でも斥候でも裏面の露払いでもない、自分の自由に使える時間を手に入れたのである。開放的な気分にもなろうというものだ。それも休暇ではない。休暇なんてどうせ申請しても通らない。
そうではなく、個人訓練という名目での事実上の自由行動である。いやできた時間は基本的に訓練に費やすつもりだけれど、それでも自分の裁量で時間を使えるという開放感はちょっと筆舌に尽くしがたい。毎日のように秒単位で行動を決められていると本当に息が詰まるのだ。
もういっそこのまま【騎士団】なんて辞めて自由な探索者にでもなってみようか。そうして最下層を目指すのだ。後ろ盾も足場も無くなって生活は不安定になるだろうけれど、やってみたら案外と気楽で伸び伸びと行動できるかもしれない。色んなしがらみから解放されて自由に生きる人々は、きっと毎日が充実しているのだろうなと思う。
もちろん、つまらない空想だ。左手の金鎖は私に【騎士団】から離れることを許さないだろう。物理的にも霊的にも、私が監視の目から抜け出すことはありえない。
けれど、それは望んだ束縛だから。全ては力を手にして、妹を捜し出す為に。
「師匠捜し、なんとかしないと」
私はこの左手を制御できるだけの高位の呪文使い――言語魔術師という高みに辿り着かなければならないのだ。そうでなければ、迷宮の第九階層、地獄にいるであろう妹を取り戻すことなどできるはずもない。
強くなりたい――その為にはなんでもする。誰かの力を借りてでも。誰かの犠牲を踏み越えてでも。自らとどめを刺した、かつての仲間達のことを、少しだけ思い出す。
街並みに降り注ぐ陽光が不意に途切れた。
一瞬だけ影が差したのは上空を巨大な巡槍艦が飛行していったから。雲や散らばった大地の間を行き交う艦船たちは今日も人や物を運び続けているようだ。
天より降り注ぐ強烈な陽光は複雑な回折を経て最適な光量に調節されていく。見上げると、細く長く張り巡らされた透明な通路が大樹の枝のように放射状に広がっている。
枝の幹となるのは、街の中央を貫く途方もなく巨大な槍。
鋭利な穂先と複雑に枝分かれした区画が効率的に陽光を吸収し、膨大な呪力を蓄えて都市に供給している。
ここは【世界槍】を中心に形成された都市、エルネトモラン。
世界槍――九層からなる迷宮を内包する槍の形をした小世界群。
地獄からこの地上までを貫く天廊にして戦場。
地上に露出した部分だけでも人類が現行技術で積み上げることが可能な高層建築の限界を超えている。神話時代の遺産にして古代文明が遺した超技術の結晶。その恩恵に与るため、人類はその周囲に人造の枝を伸ばして樹状の積層都市を築き上げた。多層構造を成すこの大都市の人口は五百万に届く。
迷宮都市エルネトモランは、その名の通り世界槍の迷宮を中心に発展した街である。地上部分には地獄からの侵攻を防ぐ為に【松明の騎士団】が要塞を築き上げ、幾層もの防壁が重ねられ、内側に向けて防備を固めている。
このアルセミット国の主要な司教座都市の一つにして、世界槍を擁する槍樹都市であり、地獄の侵攻を押し止める要塞都市でもある。
更には数多くの【門】によって各地と繋がる門前都市という側面も有し、交易と軍事の中継点として無数の人と物が行き交う大都市だ。
見渡す限りの人、人、人。遙か空に伸びている透明な枝の中にも、下から内部は窺えないものの、多くの人が暮らしている。
道路とその上の中空を行き交うのは様々な形状の車輌で、光学呪術によって表示された誘導帯に従って規則正しく天地を走っていく。
最近は車輪を用いた車も減ってきて、街を走る乗り物の多くはクロウサー社の製造する大型箒が主流である。四人も積載可能な箒なんて私の故郷では想像すら出来ない代物だったから、都会ではこんな技術の産物が走っているのが当たり前なのか、と驚いた覚えがある。今思えば田舎者丸出しであった。恥ずかしい。
活気に溢れる街を歩いていく。目指すのは宿舎から少し歩いた先にある列車の駅。目的地である第六区は樹状階層の枝の一本を指しており、徒歩で向かうには少々遠い。街を立体的に周回する公共交通機関を用いるのが一番手っ取り早い移動方法だ。
黒衣で全身を隠している私に少々の視線が集まるが、すぐに関心を失って各々の目的地へと足早に歩んでいく。
都会とはそういうものだ。多少奇異な格好をしている者がいてもそう悪目立ちはしない。それに、私は少数派とはいえ一般的に認知された種族であり、この服装もそれなりに許容されている正式なドレスコードである。
のそのそと街中を進む私の横合いで、信心深そうな老女が熱心にこちらに向けて祈りを捧げているのが見えた。
もごもごと、どこかの方言で「ありがたい」というような事をしきりに呟いている。
すぐ傍に付き添っている女性――娘だろうか――が足を止めている老女に困ったような視線を送るが、老女は気が利かない相手を責めるように女性を急かす。
女性は嘆息してこちらに近寄って話しかけてきた。
「あの、これを。どうかお納めくださいませ」
そう言って、手提げ鞄から小さな包装を取り出して差し出してくる。中に入っているのは間違い無く心付け――菓子の類だろう。たまたま購入した帰りなのか、それとも信心深いために持ち歩いているのか。いずれにせよこういう時、私は無言で応えなければならない。それが作法だ。
黒衣の袖に包まれた両手を差し出して、恭しく捧げ物を受け取る。そのまま黒衣のフードの中に仕舞い込み、左手で軽く女性の手に触れた。
びくりと身体を震わせ、一瞬恐れを表情に浮かべる女性だったが、すぐに気を取り直して「ありがとうございます」と礼を述べてその場をそそくさと立ち去っていく。私も同じようにその場を後にした。背後で「良かったねえ」という老女の声が聞こえて、内心で息を吐く。緊張した。
こういう風に道ばたで拝まれたり祈られたり、甘い物の捧げ物をされたりといったことは良くある。とりわけ、【騎士団】の鎧ではなく眷族としての黒衣を身に纏っている時には。
面倒なので鎧を着ていればいいのだが、それだと修道騎士としての立場を表明していることになるので別種の面倒さがある。かといって黒衣を脱いでしまえばもっと悪目立ちしてしまうので、結局この姿が一番無難という結論に落ち着く。
私は地上にあって霊長類と共存することを許された数少ない異種族だ。
地獄にあって地上の敵とされる異獣たちとの違いは、大神院が敵だと定めているか、そうでないか。
槍神という絶対の基準が、その明暗を分けてしまう。
そうした事は表面上受け入れられていて、中には私達のことを御使いのように神聖視する信心深い人達までいる。
けれど、この地上世界もそう一様な考えの人ばかりではない。
こつん、と頭に何かがぶつかる。見ると、小さな石ころだった。
投げたのは小さな子供。就学年齢にも満たないだろう少年が敵意に満ちた表情でこちらを睨み付けている。
「どっか行け、この化け物! お父さんを返せよっ! 異獣なんかみんないなくなればいいんだ!」
――そう珍しいことでもない。
そう自分に言い聞かせるけれど、ああやって小さな子供にまで憎しみをぶつけられるのは、正直言って堪える。
俯いてその場を立ち去ろうとした時、怒りに震える少年を横から叱りつけるものがあった。一つ二つしか違わないであろう、幼い少女だ。小さな手で少年の頭を叩くと、そのままぐいと頭を下げさせる。
「ごめんなさい使徒様、うちの弟が失礼な事をしてしまって」
「なんだよ、止めろよ姉ちゃん」
「馬鹿! いい子にしてないと、マロゾロンド様に嫌われちゃうんだよ! そうしたら、お父さんだって地上で彷徨ったまま、空の上に連れて行ってもらえないんだから。それともあんたはお父さんが悪霊になって人を襲ったり、お父さんの同僚の人達に退治されてもいいっていうの?」
少女が語っているのは、大神院の教義において第二階級の天使とされる黒衣のマロゾロンドについての言い伝えだ。
黒衣を纏った矮躯のマロゾロンドは死者の魂を導き、槍神のおわす天の御殿へと導くと言われている。
天の御殿そのものが意思を持たない第一階級の天使とされているため、マロゾロンドは最も位の高い神の使いだと見なされることが多い。
私のような異種族が地上で生活できているのは、ひとえに種族全体がそのマロゾロンドの加護を受けているためだ。
少女はなおも抗弁しようとする少年をきっと睨み付けて黙らせると、私に向かって不安そうに問いかける。
「ねえ使徒様、この間の大きな戦いで、お父さんはお墓に入ることになってしまったんです。マロゾロンド様は、ちゃんとお父さんを天の御殿に連れて行ってくれますよね? うちの弟にはちゃんと言い聞かせますから、だからどうか――」
無言のまま、左手で少女の頭を撫でる。
夜月の運行方向である左回り、死と不吉、陰や闇を暗示する左手で霊的な象徴でもある頭部を撫でることは、しかし私のような眷族種が行えば『聖なるもの』へとその意味を変える。
死者の魂が安らかに天に召されるということをその仕草で保証すると、少女は安心したように表情を緩めた。
私はなおも不満そうにこちらを睨み付ける少年に、黒衣の内側からお菓子の包装を取り出して渡した。
僅かなおびえを見せたものの、引き下がることを幼い誇りが許さなかったのか、ひったくるように手に取って、中から甘藍のような菓子を取り出す。
ふっくらした皮の空洞にクリームが詰まっており、私達の種族を思わせる黒いチョコレートがかけられた焼き菓子をえいやっと頬張る。
強張った表情が少しだけ緩み、けれどそのまま遠ざかると、こちらを振り向いてべえと菓子のくずが付いた舌を出して見せる。少女がすみません、と謝罪して、少年を怒鳴りながら追いかけて行った。
諫められていたものの、あの少年の態度はまだ社会的に許容されうる性質のものだった。
異獣への敵意は大神院によって奨励されている正義だ。
きっと時間を重ねるにつれて彼も己の中の怒りと憎しみを制御する術を覚えるだろうが、その火が完全に消えることは無いだろうと思える。
それでいいと私は思う。地上では、その方が安全だ。異質なものは選別し切断し、更には序列化して排除と包摂を秩序と定める。それが地上を支配する大神院の掲げる規範だから、地上で生きる以上それに逆らうことは難しい。
逆に自らとは異なる相手への共感を求めてしまった人にとって、地上はとても生きづらい場所だ。たとえば、彼のように。
「【騎士団】の行為は野蛮な侵略戦争でしかない! 修道騎士、そして探索者たちは退治と言ってまるでそれを正義の行いであるかのように喧伝しているが、彼らが敵と信じて殺してきたのは我々と同じ意思と感情を持った人間だ! 姿形、奉じる神は違えど我らは同じ世界に住む人類同士! 知性ある者たちとの融和こそ正しき道である! 下方勢力との対話と共存を!」
私は駅前でプラカードを掲げて一人きりで自らの主張を世間に訴えようとする青年に視線を向ける。言論が一瞬で検閲削除されるネット上ではなく、現実で声を張り上げようと志を高くして立ち上がったのだろう。けれど、この【騎士団】のお膝元でその行為はあまりにも無謀と言えた。
「我々ひとり一人の命が尊いように、彼らの命もまた尊い! 異獣と呼ばれ蔑まれている下方勢力の人類にも愛する家族や大切な友人たちがいるのだ! 我々は敵対以外の道も模索するべきではないだろうか!?」
異獣は実は理解不能な怪物などではなく、地上人類と同じ知性ある『人』である。このような『発見』は天地の間で戦いが始まって以来、幾度となく行われてきた。
たとえ思想や情報が統制されていても、情報化が一定以上進んだ社会でそんな単純な事実を隠蔽しようという方が無茶というものだ。
地上は異獣を殺し、地獄を侵略し、知性ある人を食い物にすることで平和を享受している――そんなことは、誰もがわかっているのだ。
その事を分かっていてなお声を上げずにはいられないどうしようもなさ。
青年の心中を察することなどできないが、せめてあの無謀な真似だけでも止めようと歩み寄る。彼は私に気付くと、気色ばんだ顔に一層の熱を宿した。
「おお、君ならわかってくれるだろう? 異獣であるか、天使の眷族であるかを定めるのは大神院の都合でしかないのだと! 我々は薄汚い神官や政治家たちの操り人形ではないと、共に証明しようではないか!」
危険過ぎる発言だった。ネットでこの程度の事を書き立てるだけならばまだいい。けれど、こんな人目のある場所でこうした『地獄的な思想』を公言するのは――そう危惧して警告しようとした矢先だった。
がしりと青年の腕が両側から掴まれる。いつのまにか彼の左右に立っていたのは、銀色の光沢も眩しい全身鎧の姿。その胸には松明の紋章が刻まれている。
何もかも遅きに失したのだ。こうなってはもう手遅れ。私に出来ることは何も無い。
「よ、よせ、離してくれ! 大神院は私から言論の自由を奪おうと言うのか!」
青年の叫びを意にも介さず、鎧は無機質に駆動し、その決して軽くはない成人男性の身体を引きずっていく。自動的な動きに、青年が気がついた。
「くそっ、こいつら、自動鎧かっ! 話の通じない奴らめ、私は貴様らには屈しないぞ!」
次第に遠ざかっていく青年の声。引っ立てられていくその姿を、ただ見ていることしかできない。
近くで誰かが小さく呟くのが聞こえた。
「あーあ可哀想に。あれは順正化処理だろうな」
――次にあの青年を見た時には、きっと大神院の教えに忠実で、異獣を心から憎む模範的な地上人になっていることだろう。
それがこの地上世界での正しさなのだと、誰もが分かっている。
小さな騒ぎなどあっという間に忘れ、それぞれの日常へと帰って行く。
私もまた、同じように駅の構内へと進んでいった。
この黒衣が人の中を歩く時、私の意思とは関係無しに様々な人が何かを感じ、何かに動かされ、何かを口にする。
そうした色々なものに、どう応えればいいのか、未だによくわからない。
性質も方向性もばらばらな私以外の無数の意思。
言葉という選択肢は膨大で自由自在だけれど、だからこそたった一つの正解を選び取ることは難しい。
だから私は沈黙する。正しく言葉を紡ぐには、私は愚かに過ぎるから。
ふと思い出すのは、あの外世界から来た彼。
その失われた左手のようだと、漠然とした類推が胸に去来する。
必要な言葉は私には重すぎる。
だから、フィリスという言葉の義肢が必要なんだと、そう思った。
自分の魂を捧げなければ必要な言葉も口に出せないだなんて、みっともないことこの上ないけれど。それが、今のアズーリア・ヘレゼクシュにとっての限界だった。
樹状都市の枝と枝のあいだを、立体的に広がって交叉していく葉脈状の路線図。その上を、連なった長方形が這い回る蛇のように進んでいく。
地上を走る車輪列車とは異なり、重力の向きと慣性を制御された浮遊車輌はとても静かに進む。
積載限界の七割ほどの乗客で埋まった車内で、私は乗車口近くの吊革に掴まっていた。少し高い位置にあるので、ちょっとだけ背伸びをしないと届かない。爪先立ちをしてめいっぱい片手を伸ばせばしっかりと掴めるのだけれど、なかなか大変だ。
様々な格好の乗客達の中で、私の黒衣姿はそこそこ浮きつつもほどほどに埋没している。霊長類と眷族種たちが築き上げてきた混淆文化は、私程度の地味な浮き方では逸脱であるとは見なされない。
それでも、その姿が過度に霊長類から乖離していれば異獣として排斥されてしまうけれど――。
ふと、すぐ隣の会話が耳に入ってきた。
「リーナのそれってヴァージネリーの新作? やっぱお嬢様はお金持ってるねー」
「いや、私そんな仕送り多くないって。こないだちょっと第二階層まで足伸ばしたの。それで臨時収入があっただけ。それに実用面を考えるときぐるみ妖精の方が良かったかなってちょっと後悔してたとこ」
年頃の少女が二人。
片方が頭の上に載せている大きな三角帽子が話題になっているようだ。
おしゃれ魔女ヴァージネリーもきぐるみ妖精も迷宮関係者なら誰でも知っているファッションブランドだ。
少女達はいかにもな流行の魔女ルックで、手に提げた透明なケースの中にノートや教科書が見える。第六区行きの列車に乗っているということは大学生だろう。
私が向かおうとしている第六区は書店や呪具店などが並び、大学と探索者協会の本部が存在する区画で、この迷宮都市では最も重要な区画の一つだ。
大学は異獣や世界槍の研究、調査、そして呪術師の育成などを担う国立の機関であり、将来の探索者を育成する為の探索者専攻まである。
知の体系化という学問の機能を思えば、枠組みからの逸脱を扱う呪術は大学の理念と真っ向から反している。ゆえにほとんどの大学は思考を体系化して形にできる杖の呪術を中心に扱っており、今回の呪文の師を探すという目的からは残念ながら外れる。特にエルネトモラン大学の呪文学はあまりランクが高くないことで有名で、よく駅前で学生が奇声のような呪文を唱えて騒いでいるのを見かける。あれはどういう暗号なんだろう?
――杖使いにだって学ぶべき所はあるけれど、私の杖適性はフィリスの底上げが無ければ悲惨なもので、少し前までは端末すら使えない有様だった。
杖使いとしての才能である器用さもほぼ皆無で、石を投げれば真後ろに飛んでいく始末。
斥候の専門職であったカインや、自分にむけて投擲されたものを掴み取って投げ返していたシナモリ・アキラとは比較にすらならない。苦手分野の強化も必要だが、今は得意分野を少しでも伸ばして戦力を強化したかった。
いずれにせよ、第六区は呪術師や探索者が集う区画。師を探すにはうってつけだ。まあ、流石に女子大学生を師にはできないけれど。
若い女性に限らず、呪術に携わる者の関心といえばまずファッションだ。呪力を伝播させる摸倣子は最新の文化や流行を敏感に捉えてよく吸収する。呪術を使うリソースとなるのが呪力だから、服装のデザイン性は呪術師にとって極めて重要である。
一般にデザイン性が低い無骨な鎧を着て前衛で殴り合うような戦士は呪力で後衛に劣り、物理的な防御は薄いがデザイン性に優れた服を身に纏った後衛は高い呪力を誇り強力な呪術を扱えるとされている。しかし何事にも例外はある――というか日々技術は進歩しているもので。
「きぐるみ妖精といえばさ。こないだ第一階層の遺跡潜ってたら周りみんなきぐるみ妖精の装備で固めてて笑えた。ちょっと右に倣い過ぎじゃない?」
「まあ性能いいからね。確か【騎士団】の呪動装甲もきぐるみ妖精ブランドなんでしょ? 頑丈さと呪力量を両立させようとすると、自然とあそこに落ち着くんだよね」
「確かに。でも私はあんまり好みじゃないかも。なんか整ってるんだけど人間味が無いというかさー」
「わかるわかる。でも限定生産の狼皮コートは冬までになんとしてでも確保したい」
「これから寒くなるもんね。てかアウターはほんといいよねあそこ」
漏れ聞こえる会話をぼんやりと聞きながら、私は自らの黒衣に視線を落とす。
飾り気という概念に真っ向から反旗を翻すような姿だが、これはこれで『意味を持たない』という意味を持つ。
平たく言えば私の黒衣は呪力をある程度遮断できる。ゆえに呪術に対する抵抗力はそれなりにあるのだが、物理的な防御力が低いことと種族的特性によって元々の呪術抵抗が高い為に迷宮では全身鎧で戦うのが常である。
私だけではない。【松明の騎士団】の修道騎士はほとんどが性能を優先して呪動装甲を身に纏って戦う。その鎧がきぐるみ妖精ブランド――裏切り者であるきぐるみの魔女がデザインしたものだというのが皮肉ではあるが、さしもの大神院とて「性能の低い装備で戦え」などとは指示できない。旧式のものより精錬されたデザインと機能性、高度な【杖】の技術を組み込んだ呪動装甲は寄生異獣と並んで迷宮で必須である。
誰もが内心に複雑な気持ちを抱えながら、きぐるみ妖精の製品を使い続けているのだった。私にはそこまで隔意は無いけれど、やはり【星見の塔】から来た魔女と言われると身が竦むような気持ちはある。小さな頃、村にやってきた霊長類の大人達に「いい子にしてないとキュトスの魔女に連れて行かれちゃうよ」と脅かされた記憶は未だに鮮明だった。
呪力を蓄える為の文化や流行というなら、服飾と並んで人々にとっての『憧れ』とされるものがある。
フードの内側でイヤフォンを耳に当てて、端末からお気に入りの曲を流す。
プレイリストの【Spear】を選択すると、【エスニック・ポリフォニー】の耳に滑り込むような歌声と、それに追随してくる不可思議なイントロがイヤフォンから響いてくる。
軽やかな打楽器が刻む、どこかの民族音楽風の律動。
列車の振動を上書きするように、胸の中の拍動と音楽とが噛み合っていく。
微かな曲の進行に従って密やかに、それでいて劇的に展開される主旋律。
夢の中に響くほどに心に刻み付けた音だけれど、やっぱり何度聴いても良いと思える。その実感が、身体の中を呪力で充たしていくのだ。
今朝のニュースで活動休止だと聞いたけれど、病気や怪我だったら心配だ。ゆっくりと療養して、また新曲を発表して欲しい。
なんだか勝手な推測を働かせて、有ること無いこと言って誹謗中傷めいたことを書き立てているメディアもあるようで、気分がささくれ立つ。
くだらない、と心底から思う。手当たり次第にファンに手を出しているとか、女性関係で揉めて訴訟を起こされたとか、愛人に平手打ちされている場面を念写しただとか、ふざけたことを面白半分に記事にしている人達が多すぎる。どうして人は目についた相手を悪く言わないと気が済まないのだろう。そんなはずないのに。念写だってどうせ低級呪術師にやらせた捏造だ。
きっと素敵な人なんだろうなあ。
もしもの話だけど。私が彼女に会う機会があったなら――きっとひどく緊張してしまうに違いないけど――罵声や暴力なんて以ての外で、私に尽くせる礼と尊敬を込めて握手とサインを求めるだろう。
あの【Spear】に暴力を振るうだなんて。怪我でもして、あの綺麗な声が聴けなくなったらどうするつもりなんだろう。彼女に暴挙を働いた不届き者に要求したい。本人には勿論、全世界のファンと私に謝罪しろ、と。
たとえ何かの間違いで不行状が事実であったとしても、ステージの上でのパフォーマンスが揺らがないでいてくれればそれでいい――。
その時、がたんと車内が揺れて、思わずふらついた私は隣にいた男性と軽く接触してしまった。音楽を止めて「すみません」と小さく謝罪する。相手の男性はぶつぶつと小さく何かを呟いていたが、私の方を見るとぎょろりとした目で睨め付けて、聞こえよがしに舌打ちをした。
「ち、影喰いかよ」
周囲の空気が一瞬だけ凍り付く。それは私達の種族に対する古くさい迷信で、現代では基本的に公然と口にすることが許されていない言葉だった。
迷宮でもさんざん自覚させられた悪癖だが、私はどうも気が短い。怒りなどの激しい感情を抑制する能力が欠けている――そんなもの無くてもいいと考えてしまう性根なのだ。自尊心を傷つけられたなら、激しい怒りを叩きつけてやるべきだと思うのが私という人格なのだった。
今まさに、黒衣の中では激情が漲っていて、解き放たれるのを待つ猛犬のように唸り声を上げている。フードの内側が覗けたわけでもないだろうが、男は私が怒りを抱いたことを察した様子だった。唾を飛ばしながらなおも言い立てる。
「文句でもあんのか、ああ? 俺が何か間違った事を言ったかよ、影喰いの人外め。俺は騙されないぞ、お前らは生きた人間の影を奪う異獣だ! 隠れて子供の影を盗んで殺す畜生どもめ! お前らみたいな人外が大手を振って歩いていられるのは、既に政府や大神院が異獣どもの言いなりだからだ! 糞が、俺達はお前らの家畜じゃねえぞ! 死ね、出て行け、地上から去れ!」
熱くなった相手の極端な発言で、逆に私の方が頭が冷えた。陰謀論に体制批判、公然たる『正しくない』差別発言の中で一つだけ『正しい』異獣への敵意。ネット中毒者の見本みたいなありふれた手合いだけど、こうした公共の場で『これ』は、かえって彼の方が――。
怒りが焦りに入れ替わろうとしたその時、睨み合う私達の間に入り込む者があった。
長身の女性が二人。背が決して高くない私にとっては勿論、霊長類の平均的身長(シナモリ・アキラと丁度同じくらいだった)だと思われる男よりも背が高い。
二人とも、お揃いのマフラーで首の付近を隠しているのが印象的だった。二人のうち、周囲のどの男性よりも高い背丈のがっしりとした体格の方が口を開く。
「そのへんにしときなよ、お兄さん。それ以上は【騎士団】に通報されちゃうよ」
目を見張るほどに格好のいい女性だった。朗らかに不穏なことを口走った方は、快活そうな表情にその辺の男性の平均身長を上回る長身としっかりとした体格の持ち主だ。赤味かがった短い髪に透き通るような白い肌、陽気でありながらその辺の美形男性が裸足で逃げ出すような勇ましい面差し。
もう一人の方は、肩にかかる程度の栗色の髪を一房綺麗に編み込んで垂らしていて、すらりとした長身は連れの女性ほどではなくとも周囲の男性並はあって、その上でしなやかさと艶やかさを兼ね備えている。その凛とした面差しにうっとりとした視線を送る女性まで散見された。
その上で明らかにそれとわかる体格と格好。腰にはそれぞれ戦棍と短剣が吊り下げられていて、明るい色の活動的な衣類と軽装甲で身を包んでいる。
探索者だ。それも、かなり高ランクの。
男は気圧されたように後退りする。自分よりも体格のいい女性に見下ろされるという状況に萎縮してしまっているのだろう。
一方で、もうひとりの女性が私の方に優しく声をかけてくれる。
「大丈夫?」
「え、あの、はい」
「あまり気にしない方がいいよ」
どちらかというと貴方の良く通る美声と綺麗なお顔のほうが気になります――などとはとても言えず、ばかみたいにこくこくと頷く私。
あらゆる面における劣勢を感じ取ったのか、男は口の中でもごもごと呟きながら隣の車両に移動していった。辺りの空気がようやく穏やかになって、ふうと息を吐き出す。それから、二人に向かってお礼を述べた。
「助けて下さって、どうもありがとうございました」
「お礼を言われるほどの事じゃない」
「いえそうではなく――あの方の安全を考えて下さったでしょう?」
二人が、少しだけ目を見張ったのがわかった。
直前まで、周囲の空気は冷え切っていた。人々の手にはいつでも『通報』が可能な携帯端末があり、ここは【騎士団】のお膝元だ。そして多種多様な眷族種が『異獣ではない』と許されて霊長類と共存する他民族の都市でもある。
この世界には、迫害される者と優遇される者、そして排除される者と絶滅を望まれる者が存在する。地上においては大神院がそれを定め、位階を定められた眷族種たちは槍神の名の下に、霊長類と共存すべしとされている。
列車内のほとんどはごく普通の霊長類だが、その中にも第四位の御使いデーデェイアの眷族である【ウィータスティカの海の民】に特有の魚のような鰓耳や、第六位の御使いラヴァエヤナの眷族である【イルディアンサの耳長の民】の特徴的な兎のような垂れ耳が散見される。
混血が進んだ現代では眷族種は必ずしも絶対的マイノリティとは言えない。マロゾロンドの眷族である私に対して敵意を向けるというのは、他の眷族種たちにも敵意を向けるということ。その不安定な地位に疑いの目を向けて揺さぶろうとすることだ。
あの男に指摘されるまでもなく、私達が異獣であることなんて――異獣が人であることなんて、誰もが理解しているのだ。それでも私達は、自分たちの命を守るためにその既得権益にしがみつかざるを得ない。人か異獣かを決定するのは、常に大いなる槍神――その地上における代弁者である大神院なのだから。
大神院による厳正な序列。そこから転落すればたちまち人類の敵である異獣と見なされて排斥される。そうやって切り捨てられた【ティリビナの民】たちと保護された【黒檀の民】たちの実例を、ここにいる人々は誰もが良く知っている。
「私も少し熱くなりかけていたので――割って入っていただいたお陰で、大事にならずにすみました。ありがとうございます」
「あー。気にしないで。単にうちのお姫様が暴発しないように予防しただけだから」
背の高い方の女性が事も無げに言う。彼女がそう口にすると、本当に大した事ではないように思えてくるから不思議だ。快活な口調と表情から発散される、陽性の魅力がまるで日の光のようで、少しまぶしい。
「誰がお姫様で、誰が暴発ですって?」
と、その陽気を吹き飛ばすようなひどく冷え冷えとした声がした。長身の女性の陰に隠れてしまっていたが、二人の女性にはもう一人の連れがいたらしい。
二人とはタイプが違うが、またしても目を見張るような容姿の持ち主だった。
身長は霊長類の平均的な女性よりやや高い程度で二人よりは低め(それでも私よりはずっと高い)で、白皙の肌色は西北系を思わせるが、どこか非人間的で人種が判然としない。
邪視系ブランドであるセレスティアルゲイズの呪糸刺繍が施された超高級な白チュニックと袖無しのサーコート、そして最高品質の牽牛革のベルトが目を引く美少女だが、それよりも更に特徴的なのは右目を覆う巨大な眼帯。
顔の右側を殆ど覆い隠してしまっている白い布と青い左目のコントラストがどこかアンバランスで、見る者を不思議と惹き付ける。白銀の髪色をした、氷のような無表情。『お姫様』と言われるだけあって、どこか浮世離れした美貌の持ち主だった。
「だってコアちゃん、すっごく苛々してたじゃない。あ、これは口より先に目が出るパターンだな、って思ったから予防をちょっと」
「いくら私でも、人前でそんな危ないことはしません」
「どうかなー。この間も強盗を車ごと氷漬けにしてたよね」
「あの時は他に手段が――」
「はいはい、アルマもコアも、それ以上は周りに迷惑だからやめて」
陽のような長身の女性に食って掛かろうとする氷の少女。落ち着いた雰囲気の女性が諫めると、二人は途端に口を噤む。なんとなく、力関係が察せられた。
驚くほど目を惹く三人組だった。圧倒的な美貌は呪力すら宿す。第五階層での戦いを経て成長したはずの私の霊的知覚が、その探索者たちが有する呪力量を一瞬把握しきれずにいた。下手をすると、あの魔将エスフェイルを上回る呪力かもしれない。
半ば呆然としていると、ちょうど第六区の駅に着いた所だった。三人組が降車していく。長身の女性が小さく視線を送って、朗らかに微笑んでくれたのが印象的だった。
直後、耳に入り込んでくる興奮した声。
「超イケメンだったんですけど! ですけど! なんなのあんなにかっこいい女子がいていいものなの! 私思わず囁いちゃったよ」
「あんたも大概ネットアディクトだよね。まあ気持ちはわかるけど」
女子大生二人はかしましく、床面を滑るようにして車両の外へ出て行く。二人とも両足が僅かに浮遊している――【エルネ=クローザンドの空の民】の証だ。常時宙に浮いている種族の片割れと、ふと目があった。黒い三角帽子、派手めの顔立ち。悩みとは無縁そうなくりくりとした鳶色の瞳に、鮮やかな明るい黄の髪色。
「どしたの、リーナ?」
「ううん、なんでもない。それより次の講義ってさ――」
リーナと呼ばれた学生は小さく会釈してその場を去っていった。
私も慌てて降りる。駅の歩廊の人混みに紛れて、意識に焼き付けられた数人は視界から消えてしまっていた。
区画が変われば足音も変わる。
こつ、こつと木々の素材を踏む音が、小気味よく街路に響いていく。
第六区は樹木の呪力――木造建築を基調としてデザインされている区画である。大樹のようなこの都市のイメージに即した空間だと来るたびに感じる。多種多様な足音が予測不可能なリズムを刻み、人工的に調節された自然の香りが鼻をくすぐる。私はこの区画が好きだった。
のそのそと歩く私が向かうのは探索者協会――企業や個人など、民間の迷宮探索者たちが所属する互助組織の本部だった。
探索者協会に所属していれば傷害・死亡保険などに加入できるし、行方不明になった際には優先して捜索が行われる。
また、迷宮にしかない貴重な素材採取の依頼などは途切れない為、修道騎士の中にも小銭稼ぎ目的で密かに探索者と兼業しているものがいるという。禁止されている行為なので、判明すれば両組織から罰則を受けることは間違い無いが。
――かくいう私も、こっそり探索者ライセンスを持っていたりする。
ラーゼフには駄目だと言われたけれど、やはり力のある呪術師を捜すなら探索者協会が一番手っ取り早い。
有名な所だけでも【四英雄】という傑出した探索者たちが挙げられる。
彼らの名声が高まるたびに修道騎士たちを集めて訓辞を垂れたり訓練量を倍にしたりする上層部のことだから、探索者に師事しただなんて知られたら外聞が悪いとかでさんざん怒られることだろう。
けれど、そんなことは知らない。【騎士団】の体面などよりも私とフィリスを鍛える事の方を優先すべきだ。どうせ【騎士団】の実質的な権威なんて高が知れているのだから。
辿り着いたのは、景観に馴染むような木造の、それでいて巨大な建造物だった。周囲で、新しくこの街に着いたばかりといった雰囲気の若者が「ここが探索者協会か」などと緊張した呟きを漏らしていた。
私は大扉を開いて、建物の中に入っていく。
広間には幾つもの円卓が置かれており探索者たちが地図などを広げて迷宮攻略の計画を練ったり、それとは関係の無い話に花を咲かせたりしている。
そしてなによりも目を引くのは周囲の壁を埋め尽くすような依頼書の数々だ。
企業、国家、各種の非営利団体、個人、果ては【騎士団】まで、素材収集から攻略戦や防衛戦への参加募集まで様々な仕事を斡旋するのがこの探索者協会の役割のひとつだった。
受付で端末の画面に探索者証明を表示させて奧へ進む。
壁だけでなく、設置された掲示板からも依頼は探せる。掲示板の表面を軽く触れて情報を検索。立体投影された仮想の依頼書が次々と切り替わっていく。そうやって張り出されている幾つもの依頼書をざっと眺め、目当ての依頼書群を見つけた。
注目すべきは応募資格だ。高位の言語魔術師であることが応募資格であるような高難易度の依頼に協力者枠の前衛として応募し、在野でかつ優秀な【呪文】系呪術師を探すというのが私の考えだった。断られる可能性も期待はずれの可能性も存在するが、とりあえずものは試しだとばかりに掲示板に手を伸ばす。
見ると、既に『前衛待ち』になっている依頼が一件あった。これだと思い、応募しようとしたその時、広間がざわつき始めた。
何事かと視線を向けると、奧のカウンター前に立っている三人組に注目が集まっているようだった。その姿に見覚えがあった私は、思わず小さく声を上げてしまう。
「さっきの人達――」
ざわめきの原因は一目瞭然だった。一番背の高い女性が明らかに自分よりも数倍は巨大な袋を持ち上げている。床に下ろすとその重量を示すかのようにずしんと音が響いた。よく床が抜けなかったものだと思う。
中央で、氷のような印象の少女が平坦な口調で告げる。
「依頼完了の報告に参りました。第四階層の第一裏面に生息する固有種、凝視水牛は確かに私達が討伐しましたので、ご確認ください」
協会の事務員が恐る恐るといった様子で袋の口を開くと、その中からぎょっとするほどに首が長く、ねじくれた角が恐ろしい巨大な牛が現れる。頭部は完全に凍結しており、その生命の火は完全に消えていた。威圧的な眼球が、氷越しでも恐ろしいほどの呪力を放射しているのが感じられた。
途端、場が騒然となる。当然だろう。凝視水牛といえば攻略が完了してから随分と経過した第四階層において、長く裏面に挑む探索者達を屠ってきた強敵の代名詞である。その邪視は重力を操り、睨み付けられた者の大半が圧殺されたとか。高位呪術師でさえも膝を付くほどの事象干渉力があったというから凄まじい。
そんな怪物を、それもたった三人で倒すだなんて、彼女たちは一体何者なんだろう。
ざわめきの中に、私はその答えを聞きつけた。
「あの眼帯、間違いねえ。【冬の魔女】だ」「四英雄のか」「ってことは両脇の二人は【巨人殺し】と【小鬼殺し】か、おっかねえ」「初めて見た」「えらい別嬪だな。あの眼帯、迷宮でやっちまったのかね」「馬鹿おめえ知らねえのか、あの眼帯の下を見た奴は邪視で氷漬けになっちまうって話だぜ」「俺は生き血を残らず吸い取られちまうって聞いた。血が凍ったような目をしてるんだと」「それで付いた異名がエルネトモランの吸血鬼」「おっかねえ」「しっかしまたアイツかよ。固有種の討伐数どんだけだ? ぶっちぎりで記録更新し続けてるよな」「仕留めた魔将の数でも最多じゃなかったか」「最強の探索者って評判は伊達じゃねえな。おっかねえ」「いや最強はグレンデルヒだろ」「おっ最強論議か俺も混ぜろ」
それで、私にも彼女たちの正体が理解できた。
最強の呼び声も高い探索者、【四英雄】の一角。【冬の魔女】とその仲間たち。
四英雄とは、【騎士団】とは別に、探索者達の中で特にめざましい功績を上げた者、魔将討伐を成し遂げた者に付いた通称である。
【万能の才人】グレンデルヒ=ライニンサル。
【冬の魔女】コルセスカ。
【吟遊詩人】ユガーシャ。
【盗賊王】ゼド。
【言語魔術師】タマラ。
彼ら彼女らはその卓越した、超人的と言っても過言ではない異能、異才によって迷宮攻略を推し進めた英雄である。タマラを除いた四人はそれぞれ探索者集団を率いるリーダーでもある。
またタマラ以外の四人はそれぞれ魔将を討伐しており、魔将を討伐した私が【騎士団】で英雄として扱われようとしているのは、彼らの名声によって【騎士団】不要論の声が高まっているという事情が背景にある。
そうでなくても、タマラ以外の四人は迷宮において大きな貢献をして、地上に多大な利益を生み出しているのだ。人々の期待は【騎士団】よりも【四英雄】にかけられがちであり、上層部が英雄を欲しがっているのも自然な成り行きと言えた。
それにしても、何という圧倒的な呪力だろう。
遠目にもはっきりと分かる。あの三人は紛れもなく最高峰の探索者。
「あれが、たった三人で構成される最高峰の探索者集団――【痕跡神話】」
ここしかない、と直感した。
音に聞く【冬の魔女】の実力が本当なら、迷宮都市随一とも噂される呪術師が目の前にいることになる。この機会を逃してはならない。
応募しかけていた依頼書から手をひっこめて、三人の方に駆け寄ろうとする。が、その直前で私は身体を硬直させた。
「おや、貴方は先程の」
当の三人がこちらに近付いて来ている。報酬の受け取りを済ませて、新たな依頼を探すつもりなのだろう。彼女たちは掲示板の前に立つと、仮想の張り紙に目を通し始めた。リーダーである【冬の魔女】はこちらの風体を見て、なるほどと手を打った。
「ご同業でしたか」
「は――はい」
恐らく彼女の言葉には二通りの意味が込められている。同じ探索者であるという意味。そして、同じ呪術師であるという意味が。事実なので否定はしなかったが、彼女と比較してしまうと『同じ』などとははっきりと言いづらくなってしまう。おそらく実力には天と地ほどの差があるのだ。
とにかく、どうにかして話しかけないと。でもどうすればいいのだろう。まさか、いきなり弟子にして下さい、なんて言ったら驚かれるだろう。そもそも、深く考えずに直感で行動しようとしているけれど、私はあまり見知らぬ人との会話が得意な方では無い。断られたらどうしよう。というか私のような不審人物のよくわからないお願いなんてほぼ確実に断られる。ああしまったもっとよく考えて行動すれば良かった。
「失礼」
冬の魔女は私が表示させていた依頼書群をコピーして目の前にペーストした。それらを眺めながら、彼女はふとこちらを見て問いかけてきた。
「こちらの募集、殆ど第五階層ですが――もしかして、『被り』ますか?」
「え?」
「いえ、先に探していらしたご様子ですし、後から来て『占有』してしまうのも失礼かと思いまして。お邪魔でしたら、私は別の場所を探しますが」
まずい、何を言われているのか分からない。
しばらくあたふたして、相手をきょとんとさせてしまう。恥を忍んで言葉の意味がわからなかったと打ち明けると、彼女は少し意外そうに左目を見開いて、それから「すみません、私が言葉足らずでしたね」と言って説明してくれた。
手袋に包まれた指の先、依頼書には大口の依頼が幾つか表示されている。その大半が第五階層での言語定着業務だ。導入言語は【下】および異世界、古代世界の全く未知の言語。応募資格は国際共通規格における一級言語魔術師資格をお持ちの方。
「この手の大規模言語魔術は広域に影響を及ぼす一種の儀式ですから、複数の言語魔術師が同時に行うと互いに干渉し合って失敗してしまうことがあるのです。ですから、暗黙の了解として同じ場所では『被り』が無いようにする、というのが原則なのです」
「そういうことでしたか――無知ですみません」
「いえ、狭い世界の常識ですから。ただ、言語魔術師向けの依頼書をご覧のようでしたし、ご同業ですか、と訊ねたら――」
「あああ探索者とか一般的な意味での呪術師という意味で言語魔術師の資格はありません紛らわしい真似をしてしまい大変申し訳ありませんでした」
「そんなに慌てずとも」
言語魔術師というのは高位の【呪文】系呪術師を指す称号であり国際資格でもある、とても権威と由緒のある呼び名だ。呪術が四大系統に切り分けられる以前――まだ【呪文】だけが本当の神秘で、唯一の【魔術】であるとされていた時代から存在する最も古い呼称――私などが名乗れる筈も無い。
しかしこちらの迂闊な行動が余計な誤解を招いてしまったようだった。恥ずかしい。消えてしまいたいくらいだ。フードを目深に被って俯く。
「【夜の民】のかたは皆、呪文使いの後衛職だという偏見があったようです。前衛職の方だったのですね。勝手な思い込みをしてしまって、こちらこそすみませんでした」
しかも謝られてしまった。大変に恐縮して「いえそんなこちらこそ」などと切りが無い返しをしてしまう。最低だった。
私達の種族が後衛向きだというのは偏見というかただの事実である。
大神院が定める眷族種の位階は、高位になるほど霊的な性質が強く、逆に物質的な性質が弱くなるので後衛の呪術師に向いている。
逆に位階が低い眷族種は霊的な性質が弱く物質的な性質が強いため、前衛の戦士向きだ。
位階第一位の【空の民】や第二位の私達は【邪視】や【呪文】などの適性は高い傾向にあるが、【杖】の適性や身体能力は軒並み低い。私が前衛もやれているのはひとえに呪動装甲とフィリスによる全能力の底上げがあるからに他ならない。
なんだかみっともない所ばかりを晒してしまっているが、英雄と呼ばれた探索者は冷ややかな美貌とは裏腹にとても穏やかで優しい対応を返してくれる。さすがに本物の英雄は違うなあと妙な感心をしてしまう。
やはり、この人に教えを請うべきではないだろうか。
そんな想いが、再び湧き上がってくる。曲がりなりにも魔将を討伐し、これから英雄として祭り上げられていく身だ。本物の英雄がどんな人物なのか、直に知る絶好の機会ではないか。
師事――いやまずは一緒に依頼を受けませんかという誘いからだ。けれど、彼女には既に優秀な仲間がいるわけで、明らかに実力が劣る私がそこに混ざるのはどう考えても不自然だ。ううん、でも当たって砕けてみるべきか。
迷っていると、特徴的な振動音が小さく響く。冬の魔女は端末を取り出して表示を見ると、左の眉をすこし上げてこう言った。
「おや――指名依頼とは珍しい。しかも随分と急ぎで」
――言語を世界に定着させたいという需要は引きも切らず、専門的な技能を有する言語魔術師の手は幾つあっても足りない。中には優秀な人材に直接打診が行く事もあるのだろう。さすがは四英雄、引く手数多だ。
「場所は第五階層で、仲介は【公社】ですか」
第五階層と聞くと、やはり心がわずかに反応してしまう。
その膨大な依頼者の中に『彼』がいる可能性もあるが、残念ながらこの手の依頼は数限りなくあり、そのほとんどが『外れ』だ。
殆どは過去からやってきた古代人だとか、下からやって来た古代語話者。外世界人だったとしてもそれが無数にあるどの平行プレーンであるかなどわかりはしない。それに依頼元は【公社】とある。複数の依頼者を仲介して言語定着を一括で外注する複合企業体の性質上、そこから個人を辿るのは難しいだろう――それにしても。
「ほ、報酬額すごいことになってますけど」
「そのようですね――これだけあれば、目標額に届くかもしれません」
「なになにー? 第五階層行くの? いいよーいつー?」
離れた場所で依頼を探していたらしい二人の女性が集まってきて、冬の魔女の両脇にぴったりとよりそう。
あまりにも自然な動きだったのでごく当然のように眺めてしまっているが、この三人の距離感ちょっと、凄い。
親密圏とかそういう概念を根刮ぎにするような、全身全霊の信頼感が当たり前の様にそこにあった。
命を預け合う分隊としてはキール隊の結束は盤石だったと思いたいけれど、この三人はちょっと突き抜け過ぎてて別の薫りがしなくもない。どんな薫りかはよく分からないけれど。
氷の少女は端末から依頼書を拡大表示して二人に見せて何事かを説明している。
「それが、私ひとりという指定なのです。そんなに人数が必要な依頼でもありませんし、二人は地上で待機していても構いませんよ」
「なんだそれ。胡散臭いにも程がある。コア、悪いことは言わないからやめときなさい。ただでさえあの場所はきな臭いし」
「ええ、本来なら私もそう考える所なのですが――第五階層には、ちょっと気がかりがありまして」
「ひょっとして、妹さん絡み?」
長身の女性はぱっと表情を華やがせて言った。冬の魔女には妹がいたというのは初耳だった。確か、【星見の塔】では師弟関係を姉妹関係に擬すると聞いたことがあるけれど、そっちの意味だろうか。
「はい。いい機会ですから、様子を見ておこうかと思いまして」
「反対。あいつは信用できない――いや、行くにしてもそれなら尚のこと私達がいる方が安全でしょう」
残ったもう一人の女性は逆の意見であるようだった。鋭い雰囲気で反対意見を口にする。細めた切れ長の目が強烈な威圧感を放っている。
「あー、サリアちゃんはあのコが嫌いなんだったよね――でもさ、せっかく姉妹が再会できるんだし、ここは気を遣って二人きりにしてあげるとか駄目――かな」
「駄目。あんな奴、もうコアには会わせたくないくらい」
「サリア、心配してくれるのはわかりますが、それは――」
三人は口々に言い争いを始めた。何やら込み入った事情がありそうだったし、無関係な私がこれ以上立ち聞きするのも良いことでは無い。
けれど――私は、良識が上げている抗議の声を無視して口を開いた。
余計なお節介。それでも。
「会う機会があるなら、会うべきだと思います。今を逃したら、届かなくなる言葉ってありますから」
横合いからかけられた不躾な発言によって、三人分の視線が一斉にこちらに集まる。緊張と後悔、そして羞恥。ああ、余計な事を言わなければ良かった。絶対変な奴だって思われている。
「すみません差し出がましいことを! でも私ずっと前に、妹に何も言えないまま、それっきり離ればなれになってしまって、とても後悔しているんです。それからずっと妹を捜し続けていて――だから、他人事だと思えなくて。本当に余計なお世話だとわかってはいるんですけど、あの、えっと、なんというか」
「貴方は、妹さんを大事にされているのですね」
雪がやわらかく溶けるように、氷の美貌を微かに緩ませて、冬の魔女はそう言ってくれた。微笑みはどこまでも優しく、私の拙い言葉をしっかりと受け止めてくれた。
「少し羨ましい。そんなふうに屈託無く相手への想いを表現できる貴方は、素敵なかたですね」
そうじゃない――ただ、自分の後悔を他人に押しつけているだけ。
気遣いとかじゃない。それ以上に身勝手な、私の願望。
「自分本位なお願いなんです。ただ、後悔が繰り返されるのが、見たくないから」
「それだって、私は構わないと思いますよ。自分に素直であることは、きっと尊ばれるべきです。私も、もう少しだけ――サリア、やっぱり私、第五階層に行ってきます」
眼帯の少女は強く意思を固めたようだった。弾かれたように栗色の髪を揺らして反対の声を上げるもう一人。
「駄目、行くつもりなら私が止める」
「じゃあ私はサリアちゃんを止めるー♪」
軽やかに言いながら、長身の女性が栗色の頭に顎を乗せた。がくんと膝が曲がり頭が下がる。無理矢理抑え付けられてその場から動けなくなっているようだ。
「ちょ、こらっアルマ、この阿呆、く――この馬鹿力!」
「コアちゃんコアちゃん、お邪魔虫さんは抑えとくから、今のうちに行っちゃえ。折角だから一杯お話しておいでー。あと私からもよろしく伝えておいて」
「わかりました。ありがとうアルマ。そしてすみませんサリア。恨み言は後で聞きます」
「ああもう本当にこいつらは――!」
軽やかに言葉を交わす二人と憤激するあと一人。白銀の髪を煌めかせて、左目に明るい意思の光を宿して、冬の魔女はその場を立ち去ろうとして――最後に、私に視線を送る。透き通った青い色彩。綺麗な人だと、私はもう何度目になるかも分からない感慨を抱いた。
「ありがとう。貴方も、いつか妹さんに会えることを祈っています」
そう言って、冬の魔女は私の前から去っていくのだった。
これで、良かったのだろうか。良かったのだと思いたい。
必要な言葉を、必要な時に。後悔のない選択を。それが私にできるのなら、少なくともそうするべきなのだと信じたかった。そうして、私だけではなく誰かの心からも後悔や苦しみを取り除けたら、それはきっと素敵なことなんだと思うから。
綺麗な青い瞳。まだ、その光が目に焼き付いている。
胸に、なにか大事な物を送ってもらった――そんな気さえしてくるのだった。
長身の女性が、快活な表情をこちらに向けてにこりと笑いかけてくれた。
「きみ、いいひとだね!」
その下で、凛々しい面差しを不機嫌そうに歪めてもう一人が毒づいた。
「自覚のあるお節介――救いようがない」
「すみません――」
「誰かさんにそっくり」
「はい?」
私の疑問にいらえは返ってこなかった。冬の魔女の仲間たち。片方からは好感を持たれたようだけれど、片方からは嫌われてしまったみたいで、ちょっと複雑。
上から乗せられた体重からどうにか抜け出して、栗色の髪の女性は溜息を吐いた。
「やっぱり私、こっそりついていく」
「やめなよー。この間みたいに喧嘩になったらコアちゃん困るだけだと思うよ? 大人しく地上で待ってればいいって。それに――どうせコアちゃんなら何があっても一人で乗り切れるもの」
赤毛の女性は長身に揺るぎない確信を漲らせてそう断言する。自分たちのリーダーである英雄への、圧倒的なまでの信頼がそこにあった。それに関してはもう一人も異論は無いようで、不承不承といった感じでどうにか納得したようだった。
「それじゃあね。あ、そうだ、折角だから名前教えておくね。私はアルマ。こっちでぶすくれてるのがサリアちゃん」
あまりにも軽やかに名前を告げられて、逆に面食らう。異名と共に知れ渡った、最高峰の探索者たちの名前だ。掌握する試みなど馬鹿馬鹿しく思えてくるほどの圧倒的な存在強度が言葉から伝わってくる。それでいて、あまりにもその名前は親しみを込めて差し出されていたから、私も思わず素で返してしまう。
「私は、アズーリア。アズーリア・ヘレゼクシュと言います」
「そっか、じゃあコアちゃん共々、またいつか会おうね。多分私達、どこかで運命が繋がると思うから」
確信めいた言葉と共に、長身の女性――アルマはその場を去っていった。もう一人のサリアという女性はこちらを鋭く一瞥して、そのまま無言でアルマの後を追う。
なんだか不思議な一幕だった気がする。さっきのやり取りが自分にとって、そして彼女たちにとってどんな意味を持つのかはまだよく分からないけれど、それでも何かが繋がったような――曖昧な実感だけが手の中に残っているような気がした。
ぶつり、と掲示板から全ての映像が消失する。依頼を探そうとしていた探索者達が騒然となるが、協会の事務員が説明するところによればシステムの予期せぬ不具合らしく、復旧に時間がかかるとのこと。携帯端末からも協会のページにアクセスできなくなっていた。他の探索者たち同様に困り果てていると、ふと飛び交う声の中に、奇妙な呟きが一言だけ浮かび上がった。
「隙あらば無自覚で人の獲物を横から掻っ攫おうとする泥棒カササギ。略奪が得意な探索者――吸血鬼らしいけれど。こっちだってそんなに甘くない」
掲示板の裏側から、だろうか。どこかで聞き覚えがあるような、囁くような綺麗な呟きだった。幻聴のようにかき消えて、そのままどこかにいなくなる。
役割を果たさなくなった掲示板の反対側を覗くと、そこにはもう誰もいなかった。
辻依頼を探そう。
飛び込みの依頼、入り口募集とも言われているそれは、迷宮の入り口で盛んに行われている迷宮都市の名物だ。
探索者協会での依頼探しはシステムのダウンでしばらくは無理とのことらしい。それならばと呪具店などを一つ一つ回ってみたが、そこそこのレベルの呪術師はいるがいずれも【杖】とか【使い魔】が専門の人ばかり。どちらかといえば【邪視】や【呪文】の才能は稀少なので仕方ないのだが、このまま一日を空費してしまうのはいかにもまずい。気付けば太陽の位置もだいぶ動き、時刻は間もなくお昼時。
それならばと最後の手段に訴えた私の行き先は、この迷宮都市の中心部。
巨大な世界槍――塔のようにも見える大迷宮の入り口であった。
そびえ立つ槍の周囲には内側からの侵攻を押し止めるための障壁が円形に巡らされている。
世界槍の迷宮、第一階層はその内側に広がっている。
第一階層の掌握者は聖女クナータ様だ。比較的安全な階層と言われ、【騎士団】にとっての最後の砦でもある。
地獄の異獣勢力は完全に討伐しているとはいえ、古代の自動人形や凶悪な獣が跳梁跋扈しており、定期的な害獣の掃討が必要になる。
そして階層の半分以上は地上に面しており、空間の掌握率は全ての階層の中で最も低い。
これは聖女様の力量不足というわけではなく、掌握者の支配力が世界に浸透する前に拡散してしまうからであり、むしろ聖女様ほどの力があるからこそ第一階層の掌握が可能となっているのだ。閉鎖された第二階層以降の方が空間を掌握・支配する分には楽なのだという。
掌握者の空間支配が不完全なこの第一階層の特徴は、その分だけ世界槍に閉じ込められた過去の記憶が表面に出てきやすいという点である。
一説には世界槍は神話の時代から存在し、古代人たちが無数の世界をその中に形成し、国や文明を築いてきたのだという。
環境の激変から人類を守るためのシェルター、あるいは移民船であるとも言われる。
そんな世界槍の内部には世界の記憶が数多く残されている。
古代世界の記憶はふとした拍子に実体化し、今ある世界を塗りつぶして現在に甦る。
そうやって出現した古代世界では旧文明の遺産や守護機械、いにしえの異獣などが一緒に甦り、今の世界を生きる人々に害を為す。
この街を訪れる学者や探索者たちは古代の遺産や秘宝を求めてそうした過去の世界に挑もうとする。
先駆者たちの努力によって比較的安全が確保されている場所などは観光名所にもなっており、複数ある大門近くでは観光客やメディア関係者などの姿もちらほらと見られた。
第一階層は地下から天へと伸びる世界槍の周囲に円周上に広がり、大きく五つのエリアに分かれている。
地上に露出した世界槍の穂先部分は聖女様が完全に掌握する【時の尖塔】だ。【松明の騎士団】の総本部であり、人類最後の砦でもある。
槍の穂先に当たるその部分は地獄の魔将ですら掌握できなかった世界槍の核が存在し、聖女様は己の領域の内部でならほぼ全能の力を振るえるという。
しかし、槍の外側までは彼女の支配も及ばない。
内部からの侵攻を押し止めるための壁が槍を取り囲み、その中は四つの区画に分割されている。この内部は空間の縮尺が狂っていて、一つの区画がこのエルネトモラン全体よりも広大だったりするから、古代の超技術というのは凄まじい。
「四つの区画は、それぞれパレルノ山、竜骨の森、獅子王の遺跡、湖中穴という神話にもその名が確認できる古代世界でございます。今回わたくしどもが参りますのは世界九大奇景奇所として知られる湖中穴で――」
旅行会社のガイドが拡声器を持って解説をしている。列を作っている観光客たちはパンフレットを見たり、端末を弄ったり、これから向かう場所への期待を膨らませて歓談したりと楽しんでいる様子だった。
平和そのものといった光景。攻略済み迷宮なんてこんなものだけれど、あの第五階層での酸鼻を極める光景とはまるで繋がらないイメージが、私の現実感を狂わせそうになる。勿論、第一階層だからということもあるのだけれど。
比較的安全なコース、というのが第一階層には存在する。それでも、そこから外れれば途端に死の危険が待ち受けている。松明の騎士団でも、新兵はまずこの第一階層で訓練を重ねることになる。私もその例に漏れず、一通りのエリアで探索は終えている。
「前衛募集してます! 竜骨の森の採集依頼、あと二人です!」「素材交換会してるんで要らないの持ってたら是非来て下さい」「獅子王の遺跡、護衛お願いしまーす。学生なんであんま出せないですけど、収集品は全てお譲りしますのでー。あ、泊まり込みです」「お母さーん、おしっこー」「第一階層名物、湖中穴飴に湖中穴クッキーいかがっすかー! おみやげにぴったり!」「パレルノ山の募集少なくね?」「更新近いからじゃねえの。それにこないだイキュー出て六人死んだって」「まじかよおっかねえ」「いずれ人類には神の天罰が下るであろう! 災いあれ!」「第六階層潜ります。後衛に欠員が出たので一人募集。寄生は容赦なく切るのでそのつもりで」
無数の声に耳を澄ませる。これだけ人がいるのだから、中にはハイレベルな呪文使いがいる可能性はある。それにしても、探索者協会のシステムがダウンしているためか、普段よりも原始的手段での募集が増えている気がする。これだけの数から探し出すのはちょっと骨だな、と思った時だった。
「あのっ、離して下さい!」
悲鳴にも近い叫びが喧噪を切り裂いた。衆目が一斉に集まる。その先で、小柄な少女が大柄な男に腕を掴まれていた。
エルネトモランはそう治安が悪い都市ではないけれど、迷宮の入り口ともなると荒っぽい探索者なんかが言い争ったり喧嘩沙汰を起こしたりはする。けれど、そう言う時は【騎士団】の警邏がすぐに駆けつけて事態を収拾してしまうのが常である。
けれど、運悪くこの近くからは人員が出払ってしまっているようだった。遠くでなにか事故があったらしく、騒ぎになっているのが聞こえる。そちらの応援に向かってしまったようだ。
少女は作業用エプロンに大きな肩掛け鞄というもそっとした格好で精一杯男から身体を離そうとしているのだが、力の差がありすぎてぷるぷると震えていた。
「おいおい、その反応はねえだろ。俺は親切で言ってやってるんだぜ? 今パレルノ山の募集かけても誰もひっかからねえよ。悪いことは言わねえから俺にしとけって、な?」
「嫌っ、触らないでっ、手汗で腕が濡れるじゃないですか気持ち悪い! 臭い、穢れる、男が感染するっ、変態! 強姦魔!」
「てめっ、ふざけんなよ、そこまで言うか普通!」
少女の凄まじい拒絶に、男の顔が引きつる。確かに、そこそこ整ってはいるものの、感染しそうな暑苦しい顔だった。彼女の嫌がりようは理解できなくもない。だがこの場面ではいかにもまずい対応だ。
「貴方みたいに暴力と性欲しか頭に詰まってない野生動物なんてお呼びじゃないんです! なんで私みたいな可愛い女の子に相手してもらえるなんて夢を見ちゃったんですか! 気持ち悪い上に頭まで悪いなんて信じられない! 深く傷ついて巣に帰って下さいよ!」
「この女――マジで犯すぞオラァッ」
最初から怪しかった雲行きが、更に不穏になってきた。男は完全に激怒しており、握りしめたもう片方の拳を今にも振り上げようとしている。その体格と剥き出しの二の腕の太さに誰もが割って入ることを躊躇しているようだった。この場には力自慢の探索者たちも大勢いるはずなのだが、彼らが少女に向ける視線は冷ややかだ。
どうでもいい。余計な面倒を背負い込みたくない。謝礼を要求するにしても、あまり裕福そうに見えないあの少女ではどうにもやる気が出ない。あの大柄な男と一戦交えるのは割に合わないだろう。さてこの後どうなるかな。
そんな、野次馬達の漠然とした感情が、アストラル界を経由して私の影に伝わってくる。人混みの間をのそのそと通り抜けて、私は黒衣の下で過去の自分を想起して、換装を開始する。
「いやーっ! 犯すって言った! 今こいつ身の程も知らずに犯すって言ったー! 誰にも相手してもらえないからって強姦に走るしかないなんて、知能があるとは思えないーっ!」
「殺すぞ」
怒りが頂点に達したのか、冷え切った声と共に男が拳を振り下ろした。少女はぎゅっと目を瞑った。精一杯の虚勢だった罵倒が、逆に彼女を窮地に陥らせる。誰もが息を飲んで、その瞬間を注視する。
「あうううう――な、殴られても屈したりしないんだから、ミルーニャは強い子、ミルーニャは我慢できる子――って、あれ?」
少女――ミルーニャという名前なのだろうか――は恐る恐る目を見開くと、自分が殴られていないことに気がついた。
その顔の手前で停止している、男の拳。
男と少女は、振り上げられた腕に巻き付いて拘束している光の帯を見て、それが伸びている方に視線を向ける。つまり、私の方を見た。
私が黒衣から取り出した杖は既に展開され、花弁の中央の天青呪石は拘束呪術の光を放っていた。
「そこまで。それ以上の乱行は見過ごせないし、やらせない。続ける気なら、少し痛い目を見てもらうけれど?」
「てめえ」
男は少女の手を離すと、空いた手で強引に光の帯を握りしめ、そのまま強引に引き千切った。その瞳に危険な色が宿り出す。
「痛い目を見てもらうだぁ? 黒ちび風情が、舐めた口きいてくれるじゃねえの。ええ? もういっぺん言ってみろや。誰が誰に痛い目見せるって?」
「――私が、貴方を、完璧に叩き伏せて、『許して下さいもうしません』って言わせてやるって言った。耳が悪いの? それとも記憶力が悪い?」
「悪いのは、てめえの口だろうがっ」
全く人の事を言えない荒っぽさで、男が素早く飛びかかってくる。軽装だが、盛り上がった筋肉はいかにもな前衛職の鍛え方だ。特にどの眷族種でもなくごく普通の原キャカール系の霊長類。特殊な能力などもなさそうに見える。ならば私のとるべき行動は――。
「喰らえっ」
繰り出された拳を大きく横に回避しながら、拘束の光を放射する。男は機敏に動いてそれを躱すが、こちらの狙いは最初から相手の拘束ではない。
男の背後、絨毯を広げて迷宮で集めた素材の交換会をしていた場所に光が直進していく。その中で最も大きな物体、竜骨の森でとれる鮮血柘榴の実が詰まった木箱に呪術が命中し、その全体を光で包む。杖に命令を送り込み、一気に引き寄せた。
男の背中を巨大な木箱が襲う。直撃すればただではすまない。
「はっ、くだらねえ」
だが、男は小さく吐き捨てると、その野太い腕を背後に一閃する。
轟音が響き、粉砕された木箱と共に大量の果実が一気に破裂、血のような果汁を周りに飛び散らせていく。盛り上がった筋肉が、鈍器のような凄味を伴ってみしみしと軋みを上げていた。
「気色悪いっ!」
離れた位置でこちらを眺めていた少女、ミルーニャがその毒舌で男の威容を評価する。男の得意げな表情に青筋が浮かんだ。
「くそがっ、二人まとめて足の裏を舐めさせてやるっ」
今度は二本、拘束呪術を放つ。両腕を塞がれた男は、しかし鼻息を荒くして歯を食いしばると、筆舌に尽くしがたい呻き声を上げて強引に拘束を振り払う。
「はっはぁー! 気合い入れりゃあこんなチャチな呪術、屁でもねえぜ!」
脳まで筋繊維で出来ているのだろうか。恐らく、自らの身体能力への確信が呪力を生み出しているのだろうが、それにしても尋常な鍛え方ではない。
戦い方を切り替える。花弁の様に広がった外殻を元に戻し、杖から槌矛の形態に変形させる。黒衣の下で換装した呪動装甲を顕在化させて、大地を重く踏みしめながら前に出る。
「あん? てめえ、そいつは――」
訝しむ相手に、槌矛の先端重量を横から遠心力に任せて叩きつけた。黒衣が翻り、内部の装甲が露わになる。ざわめく声が広がっていく。
戸惑っているのはこちらも同じだった。先程から全く呪術が通用しないばかりか――強化された身体能力で振るった槌矛の打撃までもが効いていない。
私の一撃は、男の腕で完璧に防御されていた。人狼の頭部をかち割るほどの威力があるにも関わらず、男は一歩も動いていない。
「――ああ、どっかで見覚えのある得物だと思ったら。てめえ、ヘレゼクシュのクソガキか」
「なっ」
動揺した隙を突いて、相手はこちらの懐に飛び込むと、そのまま近距離での打撃を加えてくる。鎧越しだというのに、凄まじい衝撃に全身が揺れる。身体が宙に浮く感覚。自分がどこにいるのか分からなくなって、直後激しく地面に叩きつけられた。
「なってねえなあ、全然なってねえよ。おい、その程度で英雄ぶるってのは何かの冗談か?」
男は鼻で私の無様さを笑いながら、唐突に上半身に纏っていた衣服を脱ぎ捨てる。ミルーニャの「目が汚れる!」という叫びが聞こえてくるが、私は驚愕してそれどころではない。裸の胸に、目が釘付けになる。
刺青として彫り込まれた、松明の紋章。
「俺の呪動装甲は特注品でなあ。わかるか? 俺の皮膚そのものが鎧ってわけよ。【きぐるみの魔女】はクソみてーな裏切り者だが、仕事だけは完璧だ。俺の全身は鉄よりも硬く、生半可な呪術は筋力次第でどうにかできる」
「修道騎士――」
「おう、小銭稼ぎに探索者もやってっけどな。つーか探索者上がりなんだけどよ。第四階層帰りでしばらく休暇とってたとこだが、まさかこんな所で英雄様と会っちまうなんてなあ――笑えねえぜ」
男は唾を吐き捨てて、こちらに憎しみの籠もった視線を向ける。その質が、先程までとは明確に異なっていることに気付いた。敵意や怒りとは違う――もっと粘性の、泥のようにしつこくまとわりついてくる――悪意だ。
「たまたま博打が上手く行った程度の事で舞い上がっちまったのか? それで英雄ヅラしてしゃしゃり出て、挙げ句ひっくり返って青空見ながらお昼寝かよ、冗談のセンスが足りてねえんじゃねえのか、ああ? そんなざまじゃあ、てめえの駒になって死んでいった連中も浮かばれねえぜ」
「私は、駒だなんて――」
「違うとは言わせねえぞ仲間殺しが。てめえの為に何人死んだ」
起き上がろうとした私の頭部を、男の足が思い切り踏みつける。フードがはがれて、足蹴にされた兜が露わになった。頭上から、歪んだ表情を浮かべた男が可視化しそうなほどの敵意を振り下ろしてきていた。
「てめえ一人のふざけた功名心のせいで、普通に防衛やってりゃ良かった人員が無謀な攻略に挑んで死んだ。その上てめえ以外は全滅と来た。愉快な結果だなおい? 成功してさぞ嬉しかったろうが。何しろ手柄は全部独り占めだ」
「違う、私は」
「もっとも、そのていたらくじゃあよほどの奇跡が起こったか、他の仲間におんぶだっこだったんだろうけどな。ああ――それともまさかとは思うけどよ。討伐に成功したのはてめえじゃなくて、別の奴なんじゃねえのか? マジに仲間殺して英雄ヅラかよ、救えねえなあクソが」
「違う、違う! そんなことしてない!」
反論にどこか力が無かったのは、シナモリ・アキラの事があるからだ。魔将討伐の栄誉を私一人が受け取ることは、この男が言うとおり間違っている。
私は、弱い。そして実力に見合った評価を受けていない。こうやって踏みつけられているのも、当然の結果だった。
悔しい。恥ずかしい。消えてしまいたい。調子に乗って、それらしい『英雄』の形をなぞろうとして、無様に失敗して。脳裏に、美しい三人組の探索者たちの姿が浮かぶ。私は、鮮やかに誰かを助けることができる、本物の英雄とは違う。
こんなふうに惨めな思いをしたくない――もっと、強くなりたい。
その時だった。
さああっと強く風が吹いて、砂埃が舞い散る。
男が顔を腕で覆い隠しながら一歩下がると、踏みつけられていた私の頭部が自由になる。風の吹く方向から、白い花びらがはらはらと舞い踊っていた。
「梔? もう秋なのに」
夏は疾うに過ぎ去っているというのに、強い芳香が匂い立つと共に純白に彩られた風が空気を塗り替えていくのだ。その幻惑的な光景の中心で、あたかも舞台上の主役の如く、彼女は颯爽と登場した。
「身の丈に合わない人助け――助けられなかったという後悔をしないための独り善がり。自尊心の塊。つまり、ただの馬鹿」
さんざんな言われようだった。けれど、さっき男に言われたのとは違って、今度のは一切反論のしようがないただの事実である。そしてなにより、私は新たに現れたその人影を見て、声も出ないほどに驚愕していた。
フードを被った黒ずくめに絶世の美貌を隠した、それでもクリアな美声だけは覆い隠せない静謐な魔女。
歌を斧槍に変える、私が知る中で最も可憐な言語魔術師。
彼女は――この前のアストラル界で助けてくれた、確か名前は。
「救いようが無いし目も当てられないほど惨め――けど、かろうじて合格」
「何を、言って」
「ハルが、アズーリアを強くしてあげる」
そうだ、名前。
ハル――ハルベルトと、彼女はそう名乗ったのだ。
「喜んで。光栄に思っていい。あなたにはもう勝利しか許さない」
一方的な宣言をして、ハルベルトはぼんやりとした表情を僅かに変化させた。
それは、どこか面白がるような微笑。理不尽でわけのわからない言葉なのに、どうしてか胸が高鳴るような、そんな美しさ。
「そこの人。アズーリアと勝負をして。このへっぽこはハルが今から鍛え上げる。今日中にあなたなんかぼっこぼこだから」
「ああ? なんだてめえ、いきなり出てきてわけのわからねえことを――」
「ハルの弟子――妹に手を出すということの愚かさを、教えてあげると言っているの」
弟子と言いかけて、妹と言い直す。その二つは、文脈上同じ意味を持っていた。
白い花弁が舞う中で。
私はいつの間にか、新たな師を得ていたのだった。