幕間 『もうひとつの悪夢』
繰り返し繰り返し。私はまた、幼い頃の夢を見る。
こんなことを言うと奇妙に思われるかもしれないが、私は妹を妹だと感じたことが一度もない。今度は私が薄情な性格をしているかのようだが、それについてははっきりと否定できる。私はあの子を家族として、姉妹として大切だと思っていた。ただ、庇護すべき『妹』として可愛がったり手を引いてあげたりといったことができなかっただけ。
もっとも私に限らず、妹を知る誰もがそんな不遜なことを思いつきもしなかっただろうけれど。幼い私が妹に対して抱いていた認識というのは、「年下の姉」とか「自分より小さなお姉さん」というようなものだったのだ。
妹は神童だった。
そのあまりに特異な生まれから、両親のどちらかが不義を働いたのではないかと騒ぎになったが、生まれたばかりの妹はしわくちゃでなめらかな顔に落ち着き払った表情を浮かべると、慌てふためく大人達に向かって理路整然と対立遺伝子だとか隔世遺伝だとかの『メンデル』なる司祭が築き上げた遺伝学の基礎について説き、場を見事に収めて見せたという。
生後数十秒のことである。
大人たちは口々に妹を褒めそやし、同時に畏れ崇めた。
神に――私達の村ではそれは槍神ではなく黒衣のマロゾロンド神のことだったけれど――愛された子供だから、失礼があってはいけない。
妹は村の中心に、そして最も高みに祭り上げられた。その特別扱いを、誰もが当然のこととして受け止めた。それが最善であると納得させられてしまうだけの圧倒的な呪力がその赤ん坊の内側には充溢していたのだ。
【猫に名付けられた子供達】の例に倣って、妹はベアトリーチェと名付けられた。というより、妹が自分自身で決めたのである。妹は生まれた瞬間から何もかも完璧で、村の誰よりも優れた存在だった。大人達と対等に話すことが可能なほどに賢く、貪欲に様々な知識を学び、そして急激な速度で成長していった。
誰よりも傑出していながら、彼女は誰かを蔑んだり偉ぶったりするような事も無く、むしろ多くの難事をその卓越した才覚で解決していったことから、村の誰からも尊敬されるようになっていた。
妹と比較すると出来の悪い私は周囲の子供たちから馬鹿にされたけれど、妹が私に彼らを見返すための方法を教えてくれたおかげで私は苛められなくなった。妹は私をどんな時でも守ってくれた。そうと分からないように私を立てながら、いつでも優しく手を引いて、背中を押して、見守っていてくれたのだった。
あの頃の私はどんなときでも妹の後ろをとことこ付いて回るような懐きっぷりで、二人でおつかいを任されて人里に下りて行った時などは私があまりにぴったりと妹に寄り添っていたために、妹の影かなにかのように思われてしまったほどだ。
一般的に想定されている役割というものは、私たち二人の間ではきれいに逆転していたと思っていい。その姿が見えなくなると「ビーチェ」と妹の愛称を呼んで、返事がないとすぐにぐずり出すような子供が私で、たびたび迷子になる私を見つけ出して叱りつけたあと、優しく頭を撫でてあやしてくれるような子供が妹だった。
私は『お姉ちゃんっ子』ならぬ『妹ちゃんっ子』というわけだ。そのことを周囲に揶揄された私の、素晴らしい褒め言葉を送られたと勝手に勘違いしてわざわざそのことを妹に報告しにいくような、圧倒的な馬鹿さ加減は今考えても頭を抱えたくなるけれど――幼い頃の私にとって、妹は世界の中心だった。きっと、今でもまだ。
時が経ち、私達は幼い子供と言える年頃から抜け出そうとしていた。
たった二つ――村の外だと一つしか歳が違わない妹は美しく成長し、村の誰よりも聡明な少女になっていた。
誰からも尊敬され、褒めそやされる完璧な少女。
けれど、ずっと近くで彼女を見ていた私には分かった。
妹は心に何か鬱屈としたものを抱えている。
隠し事は誰にも共有できないもので、彼女はその完璧さゆえにそれを一人きりで胸にしまい込んでいくことしかできないのだ。
その事を理由も無く直感して、私はその悲しさを想って泣いた。
妹は「どうしたのですか、幾つになってもアズは泣き虫さんですね」と言って、優しく頭を撫でてくれたけれど、本当は私の方があの子の頭を撫でてあげたかったのだと、今になって思う。
幼い時間は飛ぶような速度で流れていく。
忘れることのできない瞬間が、やがて訪れた。
そのとき私たち二人は村の外れの小高い丘でのんびりと月光浴をしていた。
そうやって夜の月明かりから呪力を浴びるのが私達の日課だったのだ。
大きくなったら長老様みたいな立派な呪術師になろうと、私達はよく話していたものだった。
妹の方は既に村一番の呪術師である長老の技量を超えつつあったのだけれど、その事にはあえて二人とも言及せず、ただ仲睦まじく寄りそう時間を愛おしんでいた。
それがどんな会話の流れから展開された話題なのか、未だに詳細が思い出せない。けれど、確かその奇妙な問いを投げかけてきたのは妹の方からだったと記憶している。
「本来なら誰かが送るはずだった人生があるとして――死ぬ筈だった者が横からその席を奪い取り、新たな人生を送るということは、果たして正しいことなのでしょうか」
その質問が人の魂を乗っ取って甦る転生者についての言及であることを――そして人が人を押しのけて安住の地を奪い合う椅子取りゲームのアナロジーであることを、今ならば理解できる。
妹がその問いを口にした真意についても、確信に近い推測は組み立てられている。
だけど、それをどうしてあの時、そして私なんかに訊ねたのか、それだけがわからない。
どうして私でなければならなかったんだろう。愚かで未熟で、ものの道理などまるでわからない私なんかに。
私があの時、あんな答えを口にしなければ、もしかしたら今とは違う未来があったのかもしれない。全ては「かもしれない」だけの後悔だ。
これは夢。失った過去の虚しい残響。
だから私の愚かさは、ずっと取り返しがつかないまま。
「誰かの人生を犠牲にしてまで生きるなんて、私だったら耐えられない」
今の私では口が裂けても言えないようなことを、あの頃の愚かで想像力のかけらもない私は平然と、臆面もなく口にした。
そのときに妹が見せた反応は、思い返すたびに可哀想になるほどだった。今にも倒れてしまいそうなほど青ざめて、それからは何を話しかけても気もそぞろに何事かを真剣に考え続けるばかり。彼女が私には理解できない難しい物事を考えているのはいつものことだったけれど、あのときの妹は、傍目から見ても明らかなほどに思いつめていた。
その後に決定的な出来事が訪れるのだと私は知っていたから、目を閉じて耳を塞いで、早くその時間が終わり、夢が覚めて欲しいと必死に願う。それでもその光景は記憶の中から私の意識の表側に手を伸ばし、こちらの目を強引にこじ開けようとしてくるのだ。目を逸らすことなど、決して許されないのだと教えるように。
早回しで流れていく、断片的な最悪の記憶。
打ち棄てられた古代文明の遺跡。探検しようと子供の思いつきで妹を連れ出す愚かな私。そこで出会ってしまった、致命的な運命。
雲が流れ、一時隠れていた月がその光を地上へと差し込ませる。
遺跡の表面で凍り付いた分厚い氷に月光が反射して、幻惑的な光の回廊が私達の目の前に現れ出でる。感じたことを何でもかんでも妹に伝えなければ気が済まない私が、あの時ばかりは言葉を失ったことを覚えている。天青石を散りばめたような、という妹の喩えを、色彩を知らなかったあの頃の私は理解できなかったけれど、その一帯が絢爛で荘厳な光の城塞であるという事実の幾ばくかはその未成熟な情緒でも感じられたものだった。
氷の封印。内側に封じ込められた九体の異形たち。
そしてその中心で眠る、形の無い、何か曖昧な光の偏り。
魅入られたように『それ』を見上げる妹。
月光に照らされて輝くその横顔が――美しく成熟し、少女へと開花しようとしているその姿があまりに儚くて、私は今でもその瞬間を忘れることができないでいる。
永遠の少女。
あまりに容易く失われ、奪われた、私の宝物。
私の犯してしまった、取り返しのつかない過ち。
『それ』は不可視の手を伸ばし、感応の呪力でより自分が乗り移るのに適した器を探しているようだった。おぞましい何かがいることを理解して、私は怯え、妹に縋った。縋ってしまった。そして、私は愚かにもその時になってようやく気付いたのだ――妹もまた、目の前の脅威に対して恐怖していることに。
私が妹を妹として守ってあげられる最後の瞬間はそうして失われ、ベアトリーチェは私の代わりに犠牲になった。怯える私を守るために。
目に見えない手に絡め取られ、呪力を宿した月光が散乱して妹の像を歪ませていくその光景をただ呆然と見ているだけだった私は、最後にかき消えそうなほどか細い呟きを耳にした。
「――どうせ、誰かを踏みつけにして手に入れた人生だもの」
その言葉が、耳からずっと離れない。
あの表情が、目に焼き付いて今もまだ鮮やかなまま。
当時の私には意味の分からなかった独白。
今なら分かる。妹は神童で、天才で、あまりに傑出しすぎていた。異端でありすぎた。きっと彼女は、転生者だったのだ。外世界から来たのか、過去から来たのか、それとも未来から来たのか。詳しくはわからないけれど、きっと妹は転生者。それも、誰かの魂を上書きしてこの世に生まれるタイプの憑依転生者だった。
とても優しい心の持ち主だった彼女は、そのことをとても気に病んでいて――ある時、それとわからないように、身近な人物に悩みを相談したに違いない。
当時の妹に教えてあげたかった。相談相手の人選を間違っていると。その相談相手はあまりに愚かで、相談するに値しないのだと。
誰かの人生を犠牲にして生き延びる事を否定した幼い私は、無自覚のうちに妹に対して犠牲を強いていた。そして、妹の犠牲の上で今もなお生きながらえている。
なんて愚かな私。
そして、なんて愚かな妹だろう。
その命が誰かの犠牲の上に成り立っているとしても、今ある命が否定されていいなんてことにはならないのに。
死者は尊いけれど――同じように、生者だって尊い。
犠牲になった命を想って胸を痛くさせるほど優しいのに、どうしてあの子は自分の命を大切にしてくれなかったのだろう。
決まっている。あの子が優しく強いから。
私が、愚かで、弱くて――想像力が、優しくないから。
軋みを上げて、氷の封印が砕けていく。
過去の英雄が封じた九体の異形。それらを従える最悪の魔女。
いにしえの地獄が地上に再び顕現し、目を覆いたくなるような災厄が溢れ出る。
異変に気付いた大人達が集まってくるが、虚ろな瞳で立ち尽くす魔女――妹の身体を乗っ取った古代世界の魂は、その手を一振りして、背後の怪物たちに命じる。
薙ぎ払え。たったそれだけ。
巨獣がその長い角を震わせて目に見えない衝撃を放つと、大地が抉り取られながら甚大な破壊がもたらされた。
続いて漆黒の巨岩があらゆるものをその途方もない質量で押しつぶしていく。
有機物とも無機物ともつかない、見たこともないような奇怪な形態のなにかが、ただ何もせずに浮遊している。
赤と黒の十字架が幾何学的なフォルムの表面に無数の光を走らせながら、金属が悲鳴を上げるような音と共に死の熱線を放射していく。
無数の眼球が空を埋め尽くしていく下で、虹色の兎が本を開き、その周囲に無数の文字列を浮かばせる。
途方もなく巨大な蛇が大口を開けてあらゆるものを丸呑みにしていくが、周りの大人たちだってやられてばかりではない。長老を始めとした高位呪術師たちが反撃の呪術を放つ。巨大な爆炎が九体の獣たちを焼き滅ぼすために虚空を走った。
しかし、不定形の青白い魚が周囲に霧を発生させて全ての攻撃を減衰させていき、弱々しくなった炎が標的に到達する頃には大した損害を与える程ではなくなっていた。
最後の一体、優美な姿の一角獣が嘶くと、怪物たちの軽傷が瞬く間に癒えていく。
村で一番の――もしかしたら、国で一番ではないかとさえ言われていた長老でも、怪物たちの振るう暴虐を押し止めることは適わない。
理不尽な破壊が撒き散らされて、私たちの故郷は無残な姿に変わっていった。
それをもたらしているのが他ならぬ妹の身体なのだという事実に私は耐えられず、泣きながら叫ぶ。
――お願いだから止めて欲しい。元のビーチェに戻って欲しい。
――もう迷惑をかけないから。もう構って欲しいと我が侭を言ったりしないから。
――だから、私を嫌いになってもいいから、優しいビーチェに戻って。
妹は虚ろな目でこちらを見た。
それから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
一瞬だったような気もするし、永遠にも近い時間が流れたような気もした。
気がつけば、妹は怪物たちを周囲に集め、破壊を振りまくことを止めていた。
静けさを取り戻した夜、月明かりに照らされて、生まれ変わった魔女は無言のまま踵を返した。無数の眼球が薄く広がり、形を変えて【扉】を作り出す。こことは違う世界、より深い地獄に繋がる転移の門。
その向こうへ姿を消していく怪物たちを見て、私は何かを言わなければならないと直感した。
このままだと、妹はいなくなる。わけのわからないものに連れ去られて、永遠に手の届かない場所に行ってしまう。
けれど、あの頃の私は変わり果てた妹の恐ろしい雰囲気に呑まれて何も言うことが出来ず。口をただ開けたり閉じたりするだけで、口にするべき言葉を選ぶことさえ満足にできないまま、去っていくその後ろ姿を見送るだけ。
言わなくてもいい時に余計な事を口にして。
言わなければならない時に必要な言葉を選べなくて。
私の口は、一体何のためについているのだろう。
呆然と、夜闇の中に取り残されて。
集まってくる大人たちは、人形のようになった私から事情を尋ねようとして、その事実に気がついていく。
何もかもを、自らの愚かさのせいで失ったその夜。
私は、言葉を失った。
暖かな日差しが窓から差し込んで、光と熱の感触に起こされたのだと気付く。
朝だ。そして、最悪の夢を見ていたことを自覚する。ひどい寝覚めだった。
色のない左手をゆっくりと開閉する。
「お、は、よ、う」
口が動く――言葉を紡ぐことができる。
左手に宿る寄生異獣――フィリスが果たす役割は、擬態型の典型である生体義肢の類ではない。フィリスが埋めている私の欠落、それは言葉。心因性の失声症になった私を助け、その意思を代弁してくれるのがフィリスという『心の声』だ。左手に宿っているのは、利き手を基点にして操作をしやすくしているだけ。
フィリスはその他にも沢山の恩恵を与えてくれたけれど、やはり発声ができるということが一番の利点だと思う。フィリスがいなければ私は呪文を唱えられない。誰かを助けることも――必要な時に、必要な言葉を紡ぐことすらできない。
必要な言葉――それが、誰かに届くことがあるのだろうか。
あると思いたい。
第五階層――あの死人の森で、悲嘆に暮れて暴力に狂おうとしていた彼に、私はちゃんと言うべき事を言えたのだろうか。
間に合ったのだとしたら――それはきっと救いだ。
彼にとってではなく、私にとっての。
今度こそ間に合ったと安堵するための、自分の為だけの利他。
誰かを救える私でありたい。誰かを守れる力が欲しい。
なんて傲慢で、思い上がった英雄願望。
私の行いが誰かの救いになるだなんて、そんな都合のいい夢は一人だけで見ていれば良かったのに。
色んな人を巻き込んで、身勝手に踏みつけて、大量の屍を積み重ねて。
一体何処に向かおうというのだろう。
誰かを犠牲にし続けながら誰かを救いたいだなんて、なんて欺瞞だろう。
それでも私は止まれない。手の届かなかった、あの後ろ姿を小さな頃のように追い求める。選べなかった、必要な言葉を今度こそ紡ぎ出す為に。
身の内の決意を確かめて、気を引き締めながらのそりと寝台から起きようとして――失敗する。気怠い。眠い。だるい。悪夢のせいで休んだ気がしない。
「今日のニュース――新種が発見されました。おふとんごろごろ目おふとんからでたくない科の生き物――」
誰もいないのをいいことに、あんまりな妄言が口から漏れる。喋れるようになってからこの方、独り言が激しい人になっている自覚がある。
眠れなかったのは悪夢の所為だけではない。恨めしい視線を壁の向こう、隣の部屋に向ける。この部屋は【騎士団】が用意した宿舎の一室だけれど――どうやら昨晩、遅い時間帯にも関わらず、大荷物が大量に運び入れられていたようなのだ。
つまり昨夜、隣の二人部屋に誰かが引っ越してきた、ということ。
挨拶をするべきかとも思ったが、夜も遅いので自重した。朝になったからには顔を出すべきか。時計をちらりと見て、まだ早い時間帯だから止めておこうと思い直す。あちらが寝ていた場合、起こすのも悪いだろう。
それに、こちらの眠りの質が悪くなった責任のいくらかは新しい隣人にもあるに違いない。まだ見も知らない人物だが、第零印象ははっきり言ってよろしくない。
「起きよ」
苛つきの要因について考えを巡らせても精神が悪くなるだけだ。ストレスは貯め込まないに限る。顔を洗って気を引き締めよう。
与えられた部屋はそれなりに広く、お手洗いの横に洗面所、そして浴室が完備されている。
真鍮の蛇の頭をこつんと突くと、呪力に反応して口が開かれ、冷たい水が流れ出す。
洗顔用の薬用石鹸を適量手に取って顔を洗っていく。
洗面所に姿見は無い。
高位の呪術師にとって、鏡は格好の入り口になる。侵入の経路をわざわざ増やしてセキュリティを緩める理由は無かった。
なので、私は傍にいる相手に自分の状態を訊いた。
「泡とか残ってない?」
「目に見えるだけのものは残っておりません。けれど悪夢の残滓はぽつぽつと、まるで蛙と珊瑚の国の深みから浮かび上がる泡のように心の中に現れては消え、消えては現れ――ああ、あの悪夢の泡が全て弾けて消えた時、ワタクシの命もまた儚く無に帰す定めなのです!」
「最初の一言だけでいいよ」
今日も今日とて元気よく訳の分からないことを並べ立てるのは、白と黒の二色が特徴的な小動物だった。
小さな帽子と片眼鏡をしてちょっとお洒落を気取っているのが間抜けとお茶目の中間点、滑らかな女性の声で喋り倒すそいつは、兎だった。
ウサギ――カラスと並んで聖なる獣とされ、ゼオーティア教圏ではペットとして広く飼われている。そして、呪術師が使い魔にする際に最も無難だと言われている獣でもある。
なにより可愛い。
第五階層の戦い以来、呪術の適性が軒並み上昇した私は、使い魔を使役する能力も新たに獲得していた。そこで使い魔系のペットショップで役に立ちそうな使い魔を見繕ってみたのだが――
「一番いい兎だって聞いてたのに。このおしゃべり」
「ピーチクパーチクお喋りするのはワタクシ? それともそれを無言で欲するご主人様ですかしら」
「おまけに生意気――タマ、いいから顔チェックして」
命令にはしっかり従うから、その点では文句の付けようがない優れた使い魔なのだけれど――少々付き合いづらい性格をしているのが玉に瑕だ。かといって知性が無いようなタイプだと複雑な指示を理解できないから、これはこれで仕方が無い。
白黒兎は二足で直立すると、前足で片眼鏡の端をいじる。するとそこから立体映像が投射され、私の顔だと思われる頭部が表示される。
多分。おそらく。私の顔、なんだと思う。
「どんな顔なんだろ」
「起き抜けお間抜け、しまりとだらしの無いお顔ですわよ、このねぼすけさん」
見えている筈なのに、私は私の顔がどういうモノなのか認識できない――記憶できない。どんな輪郭で、個別にどんなパーツがあって、どんな状態をしているか――そういうことは知覚できるけれど、どんな顔にどんな表情を浮かべているのかがさっぱりわからなかった。
フィリスでも埋められなかった、もう一つの欠落。
声、顔、色彩、光、形、厚み。私の欠落はたくさんある――というよりも、私は元々こういう魂の輪郭をしているだけなのだと思う。これは心に空いた穴などではなくて、私の種族的な性質のせいでもあるのだから。
簡単に洗顔を済ませ、立体映像を見ながら化粧水をぱちゃぱちゃと適当に顔の表面になじませる。保湿はこの位で多分大丈夫。続いて乾燥対策用らしい美容液の瓶に手を伸ばし、その後で油分の混じった乳液をちょっと顔につけていく。最後にクリームを塗って顔に蓋をする。最後に映像を確認し、兎からもお墨付きを頂いたら肌の手入れは終わりだ。
ラーゼフに言われて始めただけで、本当はこういう行為がどういう意味を持つのかよくわかっていないのだけれど。私の場合、滅多な事で顔を他人に見せたりはしないのだし。霊長類の振る舞いを真似するのは中々難しい。それでも彼らの中で生活する以上、文化や風習に慣れていくための努力は避けられない。
「都会って難しい」
村ではこんな事を考える必要は無かったし、迷宮ではただ必死でその余裕すら無かった。洗面所から出て、ゼリー状の栄養食をチューブから吸い込みつつ、野菜ジュースをコップに注いでいく。私の朝食はいつもこんなものだけど、他の人とは大いに違う点がひとつある。
「タマ、今日はクッキーがいい」
「おやおや、では飴玉を投げつけようと振りかぶったこの手はどうすれば」
「知らない。朝食済ませたいから、早く」
兎がぽんと前足を打ち合わせると、虚空から焼き菓子が次から次へと出現し、用意していたお皿の上に乗せられていく。
卓上に置いて、揃いの椅子に腰掛けて口に運んでいく。香辛料の混じった刺激的な甘味が口の中に溶けていった。素敵だ。
一日を始めるために必要なもの。それは毎朝のお菓子。
端末をいじって表示された情報を読み取っていく。
天気予報によれば今日は晴れ後雨。天気占いによれば今日はずっと快晴。
占いの方をタップして『支持』を表明すると、表示された数字が一つ増える。
この都市に住む人々の過半数が占いを支持すれば、事象が改変されて晴れる蓋然性が高まる。天気予報とセットで『望まれる逆張り』をする天気占いは今日も正常に機能しているようだった。逆に雨が降って欲しい時期にはそうなるように調整がされるシステムになっているので、大神院が構築した気象管理システムはおおむね市民に受け入れられている。
ニュースにチャンネルを合わせると、複数の見出しが簡単な概要と共に宙に並んだ。浮遊する文字列を眺めていく。
『クロウサー社、環境に配慮した新型車両の開発を発表』『大神院が再三の改宗要求に応じないオアシス国家群に対する経済制裁を決議。武力行使も視野に』『国庫から松明の騎士団への寄進増額が決定。ファナハード議員の金を火にくべる発言に賛否両論』『北ドラトリアと本国との間で緊張高まる。聖大公は病死との噂も』『テリス川に小さなイッカクの赤ん坊が出現』『歌姫Spearが突如として活動の一時休止を宣言。再開時期は不明』『第十五魔将を討伐した若き英雄と聖女様の合同祭儀。予定にない託宣は瑞兆か』――以下略。
溢れて止まらない情報の海。その奧にはもしかしたら第五階層の断片的な情報も混じっているのかもしれない。
けれど、大神院に検閲管理された正規ネット上ではそうした地下の情報は得られない。ただでさえ監視されているから妙な動きをしないようにとラーゼフから釘を刺された直後だ。
私のアストラル界での位階が上がれば、よりアンダーグラウンドな情報も閲覧できるようになると思うのだけれど。
その為にも、私は呪術師として強く賢くならなくては。
「師匠、探さないと」
よし、と気合いを入れて、焼き菓子の最後の一欠片を飲み込んだ。ジュースの残りを飲み干して、手早く歯磨きを済ませる。
とん、と床を踏みならして、影から漆黒の衣を呼び出すと、ばさりと羽織る。内側で衣類の状態を寝間着から外出用に変更。
「行くよ、タマ」
戯れ言は慎んで、黒衣の内側に潜り込む白黒兎。こうすると外側からはその存在が全く分からなくなる。
忘れ物が無いかをもう一度確認して、私は一日を始めるために部屋の外へ一歩を踏み出すのだった。