2-20 その名はアズーリア
騒乱の後のこと。これはその後日談。
第五階層の復興は早い。誰もがその一瞬を生き抜くために、ただあくせくと動き出す。立ち上がることすらできない者に、小さな猫耳の少年と長身の男、くまのぬいぐるみを抱えた少女たちが手を差し伸べているのが以前とは違う点だろうか。救いのない世界も、僅かではあるが変化を始めていた。
俺とトリシューラの二人は、高層建造物の屋上からその様子を眺めていた。
隣で、眼下の惨状を作り出した張本人が時刻を確認する。そして、始まりを告げた。
第五階層を埋め尽くす箱形の建造物群。立体ライフゲームの途中経過のような無機質な景色の上を光の波が通り過ぎていく。輝くクリアな波濤が階層全体を通り過ぎていく。
階層の風景は一変していた。
ドーム上の天蓋と外壁が透明になり、世界槍の外側、広大な空間が遙か彼方まで広がっていくのが明らかになる。彼方に見える幾本もの別の世界槍は地上と地獄とを繋ぐ架け橋のようにも、お互いを支える柱のようにも見える。天と地、それぞれの大地に固定された半球状の地上太陽が皓々とした光を放っていた。
箱形の建造物群はそのディティールを微妙に変化させていく。全体的なイメージはそのままだが、まるでその解像度が上がったかのように感じられる、細かな変化だった。物質の組成そのものが根本から変わってしまったかのような感覚。
突然の変化に人々は困惑し、そして最大の変貌に気付いて次々と驚愕の声を上げていった。
失われた四肢、感覚器などが戻っている。
何度も確認し、そうしてそれが夢や幻では無いと気付いて快哉を上げる。全てを諦めた探索者達は再び立ち上がり、希望を見出す。
「すげー勢いで喜んでるけど、あれ第五階層外では短時間しか維持できないって告知しなくていいのか?」
「もう情報は拡散させたけど、浸透するまではもうちょいかかるだろうね。じきに落ち着くと思う。探索者稼業だって、第五階層内の『裏』に挑めばいいわけだし」
「裏面とかあるのか。コルセスカが聞いたら喜びそうだな」
「草原と森だったかな。怪我が治ったら地上から仲間呼んで挑戦するって言ってたよ」
取り留めなく会話を交わしながら、移り変わっていく第五階層の猥雑な街並みを眺め続ける。トリシューラが儀式呪術によって形成した仮想の義肢は、所詮かりそめのものに過ぎない。実体が無く、吹けば飛ぶような儚い幻想だ。一人一人の幻肢に対応させるという性質の為か、手足が実体から遊離している者、義肢が断端の中に埋まっている者、手指だけが断端から生えている者、中間の腕を省略して手足の部位だけが生えている者、そもそも義肢が生成されていない者なども確認できた。
「うわあ。予想していた事だけど、実際に運用すると結構不具合が見つかるものだね。修正パッチ当てないと。作業今晩中に終わるかなあ」
「何か、俺に手伝えることはあるか」
「うん、義肢生成のテストがあるから、手伝って欲しい。疲れてるだろうけど、ごめんね」
「別にいい。貸せる手があるんだ。幾らだって貸すよ」
しばらく、二人の間に沈黙が横たわった。その場を離れる機会は幾らでもあった筈だが、どうしてかそれを名残惜しいと思ってしまったのだ。
不意に、トリシューラが口を開いた。
「不死なる女神キュトスと、その分身たる七十一の魔女姉妹――キュトスの姉妹っていう神話はね、大神院が古き地母神たちをまつろわせる為にでっち上げた話だっていう説があるんだよ。戦と征服を司る槍神によって貫かれ、引き裂かれ、従属させられる女神たち。でもね、本当は槍神は一なるキュトスを愛していたんだって。だから彼は愛する者を引き裂いた後、嘆き悲しみながらこの世の全てまでも引き裂いてしまった。大地は引き裂かれて無数の大島――大陸となった。絶対言語は打ち砕かれ、人々がわかりあえる日は遠い彼方へと遠ざかってしまった。自分さえも傷つけて、彼は世界を滅ぼす為に跛行したんだ」
彼女が脈絡のない事を唐突に喋り出すのは今に始まったことではない。しかし、今回はまた一段とよくわからない――というより、話をどこに持っていこうとしているのかいまいち掴みづらい話だった。
緑色の瞳が見ているのは、眼下の第五階層ではなく、ここではないどこか遠くなのではないか。訳もなくそんなことを思う。つくりものの横顔はどこまでも穏やかで、その姿はまるで女神のようだと、俺には思えた。
「地上で崇拝されている槍神はね、破壊神なんだよ。そしてね、アキラくん。似た神話が貴方の世界にも存在することを知っている?」
「いや――残ってる知識には無いな。アーキタイプとか収斂進化とか、そういう知識は浮かんでくるんだけど」
「そっか。まあ細部は違うんだけどね。サティは夫のために焼身自殺するし、その遺体を引き裂いたのもブラフマーだし。でも破壊神が愛する者の死を嘆いたことと、引き裂かれた無数の遺体が新たに女神として新生したっていうモチーフは共通している。それが、より大きくて強い神話で、小さな神話たちを併合し、飲み込んでいく後付のエピソードだっていう点もね」
「ブラフマーは知ってる。インド神話とかヒンドゥー教だよな。そういやトリシューラってのもその辺由来か。前から訊こうと思ってたんだが、何でお前ら俺の前世から名前をとってるんだ?」
「異界の神話からイメージを借用するって呪術っぽくない? この世界に存在しないはずの幻想を引用するという、知らない人には意味が通じない衒学的なイリュージョン。貴方からすれば間抜けな響きにも聞こえるかもしれないけれど、槍というこの世界の根本原理と三相女神というモチーフを体現するこの名前は、呪術的にとても強力な性質を有しているの。三叉の槍とは、陰陽を相克し調和する完全者のアレゴリーでもある」
「悪い。自分から説明を要求しといて何だが、全く意味がわからない」
「あはは。だと思った。だって本当はただの格好つけだもの」
「おい」
「異世界の単語って響きがもう既に格好良いよね! 私アキラくんの名前も好きだよ。形から揃えようとするセンスとか。すっごく頭悪い! もう大好き!」
そう言って大笑いするトリシューラ。ようやく視覚的な表現として理解してくれる相手が現れたと思ったら馬鹿にされた。くそ、いいと思うんだけどなあ。品森晶。覚えやすいだろ。
ひとしきり俺を馬鹿にしまくった後で、トリシューラはふと真顔になって話を続けた。
「破壊神は創造神と表裏一体の存在。不可逆の破壊によって新しいものが生まれる――唯一絶対なる不死の女神キュトスは、矮小な小女神、七十一の魔女姉妹に零落してしまった。ねえ、この構図に見覚えはない?」
「鮮血呪の事を言っているのか? 聖性を堕落させる価値操作の呪術――」
「そう。鮮血呪っていうのは、キュトスが引き裂かれた時に流された血の象徴でもあるの。破壊――喪失から再生へと繋げるための願い、祈り、そして呪い。もしかしたら、それは諦めなのかもしれないけれど」
「だとしても」
俺は何かに急き立てられるように口を開いていた。流れた血そのものに意味などない。それでも、そこから何かを感じ取って意味を与えてしまうのが人の性だ。それこそが呪術性なのだろうし、この世界ではそれは力を持つのだ。であれば、その枠組みを都合良く利用するダブルスタンダードも一種の合理性ではないか。
「――だとしても、それでもう一度前に進めるなら、俺はそれを肯定したい。失われたものがどれだけ尊かったとしても。それと比べて今がどんなに惨めで、どうしようもないものだとしても。未来がもっとよくなるかなんてわからない。そうだとしても、今ここに、自分がちゃんと立ってるって確認できるのは救いだと思うから」
自分でも、何を言っているのか、何が言いたいのかがわからなくなって、ぐるぐると巡る頭の中の言葉をどうにかまとめ上げて、かろうじて並べていく。拙くとも、それが今ここにいる俺が感じている全てだった。トリシューラは何を思ったのだろう、いつもの微笑みをほんの少しだけ深くして、ゆっくりと目を瞑った。もう彼女の思考が流れてくることはない。双方向の関係だと思えたのは一瞬の錯覚のようで、俺達は当たり前のように非対称的にしか相対できない。
「地上の大神院――そして【松明の騎士団】が異端の魔女集団である【星見の塔】と表面上は友好的な関係を結んでいるのには理由があるの。それは、両者の目的がある段階までは一致しているから」
「目的?」
「大統一。大神院は槍神の名においてあらゆる異獣を駆逐し、この世界を槍神教と大神院が定める秩序の下にまつろわせることを目的としている。そして【星見の塔】は、【最後の魔女】を作り出すことで七十一姉妹を全て揃え、一なるキュトスを復活させようとしているの」
「つまり、姉妹が全員揃うと、バラバラになった欠片が元に戻るってことか? そうなると、トリシューラやコルセスカはどうなる?」
「消える――というか、大いなるキュトスの一部になるんだと思う。【塔】でも見解が一致していなくて、現状維持か統一かっていうのは各派閥で方針が異なるんだけど。ちなみに私やクレアノーズお姉様は統一なんて断固拒否って姿勢だよ。当然じゃない?」
「――まあ、トリシューラならそう言うよな」
ちょっと安心した。目的を達成したら潔く消滅するつもりだ、とか言われたらかなり動揺していたことだろう。止めたくても本人が望んでいるのなら手伝わざるを得ない。
「この世の全ての混沌と猥雑は、もとは一つのものから生まれている。同一の起源に根ざしている。まあ、大変結構なことだと思うけれど。私は、そういう過去のあれこれよりも、今、この時点でのごちゃごちゃした状態が大事だと思うんだ。私はこの光景、このどうしようも無さを受け入れて、変えていきたい」
第五階層の混沌とした街並みを真っ直ぐに見据えて、彼女は静かに決意を固めているように見えた。それはきっと、いつも通りの碌でもない決意なのだろうけれど。
「一度生まれた混沌と猥雑を綺麗にするのって難しいんじゃないかなあ。それが悪くても、もうそこにあるものはどうしようもないんだと思う。だからね、私はこの第五階層という空間を、もっとぐっちゃぐちゃにかき乱してやろうと思うんだ」
「具体的には?」
「ここに私の王国を築く」
この女は底抜けの馬鹿だと、改めて確信する。口の端に笑みが浮かぶのを抑えきれない。まず『王国』という言い回しが果てしなく頭が悪い。己の為だけに自らの居場所を作り上げたい。己の存在を確固としたものにしたい。世界を己のほしいままにしたいという、それは卑俗で低劣な欲望だ。欲得のためだけに自らの意思によって他者の意思を踏みつけるという、それは純粋悪の宣言だった。
この醜さを、俺は尊いと感じる。
「それって、名前とか決めてあるのか?」
「うん。古い古い、多種族他民族混成国家から引用するつもり。【杖】の呪術を運用し、あらゆる知的生命体の能力を技術で底上げして平等を達成しようとした――その果てに理想ごと破綻して滅びた古代の王国。その名も【ガロアンディアン】」
耳慣れない響きだった。しかし、その理念には少々思うところがある。当然トリシューラも理解した上で言っているのだろう。愉快さを堪え切れず、笑いながら言葉を返す。
「それ、言うほど理想的な社会じゃないぞ? むしろ問題が増えて前の方が良かったってことになりかねない。それだけで平等なんてものが達成できた試しは無いわけだし」
そしてこの上なく傲慢な思想だ。人に近付こうとする彼女は、自分からだけではなく人からも自分の方へと歩み寄らせようとしているのだった。
トリシューラの目的、自己の完成はイコールで人になることだ。その条件は、人がトリシューラに近付く事で緩めることができるのではないか? 俺がサイボーグとして肉体を機械に置き換えていく度に彼女に近付くように。目標が遠いのであれば、相対的な距離を縮めればいい。高みにある目標を低く卑しく貶めて、自分の所にまで引きずり下ろすという邪道を歩む彼女は、紛れもなく魔女だった。
歪な微笑みと共に、トリシューラは緑色の目を軽く眇めて言う。
「だろうね。だからさ、そういう現実を良く知ってるアキラくんが傍にいて、私に助言をしてよ。隣に立って、私を助けて。そうやって、私に貴方を頼らせてよ。私がこれから生み出す破壊とその後に生まれる混沌を、一緒にかき混ぜて欲しい」
俺を射貫く、獰猛な瞳。嫌とは言わせないという獣の意志。その甘えは捕食と同じだ。牙を立てられたが最後、もう離さない――離れられない。
俺は最初から、彼女に噛み付かれていたのかもしれない。
「やっぱり俺、トリシューラの事が好きだ」
「そう。なんか素直だね。どうしたの?」
「別に。ただの好意の表明と、自分の意思の確認だ。いいよ、覚悟は決まってる。地獄の果てだろうと天の向こうだろうと、好きなだけ俺を連れ回して使い倒せ――俺はトリシューラの使い魔だからな」
先に帰るからレオを回収してきてくれる、と言い残してトリシューラは去った。言われたとおりに猫耳の少年を探しに行く途中で、ふと見覚えのある顔と出会う。
「あら、またお会いしましたね、お客様」
店員さんは今日も麗しい。珍しく勤務中ではないのか、少々浮ついた雰囲気で街を歩いているようだった。
「こんにちは。随分と色々ありましたが、ご無事なようでなによりです」
「ええまあ。それなりに腕に覚えはありますから。それに、この護符が守って下さいましたし」
そう言って、既に呪力が失われた紙幣を取り出す。一人の聖騎士がいたという証。特定の一人に神の如き力を与える為だけに広がったその通貨は、皮肉にも護符としての有用性が証明されたことで、主無き後もその信用を保ち続けていた。以前ほどの絶対的な価値は保証されないにしても、しばらくは交換価値を有し続けるだろう。
「それは良かった。ところで、今日はこれからお暇ですか?」
「いえ、単に入り用の物を買い出しに。今、ペットショップで働いているのです。色々な珍しい生き物のお世話ができてとてもやりがいがあるお仕事なんですよ。最近お世話したのは、睨んだ相手を石にしてしまう下半身が蛇の少女、とか。ちょっぴり面食い屋さんで、目が大きくて綺麗な人を見るとすぐに石化させたがるのがまた可愛らしいのです」
ニガヨモギが大好物なんですよ、とにこやかに語る店員さんこそ可愛らしい。それなら仕方無い、と潔く身を引いて、小さく頭を下げる。
「もしよければ食事でもどうかなと思ったんですけど。実はつい最近、とても美味しいお肉を手に入れる機会がありまして。何しろ量だけは沢山あるので、知り合いにも振る舞おうと思っていたんですが、残念です。これに懲りずに、またお誘いしてもいいですか?」
穏やかな笑みを保っていた表情が、一瞬だけ硬直したような気がした。すうと目を細めて、薄く笑みを漏らす。その奧に深い深い情念を込めて。
「くすくす――面白いくらいに積極的な方。ええ、きっとこの先、幾らでもその機会はあると思いますわ」
喧噪の中、俺と彼女の間に奇妙な質の沈黙が横たわった。
巨大な杖で軽く地を突いて、彼女は俺の横を通り過ぎていく。
「それではまたいずれ――なんだかわたくし、貴方とは長い付き合いになるような気がします」
「奇遇ですね、俺もです――そうだ。良かったら、お名前を教えていただけませんか。俺は、シナモリ・アキラといいます」
「構いませんよ。わたくしはラズリ。ラズリ・ジャッフハリムと申します。以後、お見知りおき下さい」
「店員さんらしい、素敵なお名前だ。さようなら、次にお会いする時には、もっと魅力的な食材を用意できると思いますよ」
それはそれは、楽しみなことです。
静かな声が背後に響く。振り返った時には既にその姿は雑踏の中に消えて、もう影も形も見えなくなっていた。
着信音。流れるメロディーは【歌姫Spear】の【冬色モジュール】。走り出す軽快なメロディーをカード型端末を操作して停止させて、耳元に近づける。
「もしもし?」
「――独特ですよね、その『もしもし』という日本語の応答。なんというか、ちょっと間が抜けていて可愛らしいような気がします」
「そういやそうだな。由来とかは知らないが――で、わざわざどうしたコルセスカ。寝てなくていいのか」
通話の相手はコルセスカだ。トリシューラの用意した地下拠点から修復作業が終わった巡槍艦に移動して、今は療養して体力と呪力の回復に専念している筈なのだが。
「トリシューラに『堕落するから没収』とか言われてゲームをとりあげられてしまってから暇で仕方無いのです。話し相手になって下さい」
「知るか」
なんか話す度に駄目な人間になっていっているような気がする。草葉の陰で元ネタの冬の魔女は頭を抱えているのではないだろうか。絶対こんなアレな人じゃなかっただろこれ。
「知っていますか、今この階層ではこの前の戦闘の影響で大幅なルールの変更が起きていることを」
「何だそれ、初耳だが」
俺の内心など知ったことではないと嬉々として益体もない話を始めるコルセスカ。最近気付いたが、彼女はわりと無駄話が好きらしい。どうでもいい話題を振って、特にオチも盛り上がりも無くてもごく自然に楽しんでしまえる性質のようだ。その辺はまあ、悪いことではないとは思うのだが、実際に付き合うとなると少々疲れると感じる瞬間がある。
「サイバーカラテの力があの戦いで証明され、大評判になってしまったでしょう? その所為で、強者の打倒こそが価値である、というルールが生まれてしまったのです」
コルセスカによれば。現在の第五階層では敵、つまり強いと認められている者の打倒こそが価値に繋がり、それによって通貨が自然発生するシステムになっているのだという。敵を倒すと呪力によって何らかの価値あるものが生成される――つまり文字通り金が湧いて出てくるのだとか。戦って勝利すれば自他の相対的な実力差と、相手の絶対的な強さの評価に応じてリターンがあり、格下に挑むと逆にレートが下がってデメリットになる。そのルールによって、『同格以上に挑むのが最善』という判断がなされて一定の秩序が生まれつつあるという。
「格下狩りをするとがくんと価値が下がって、そこから犯罪が露見するみたいなんですよね。夜警団とかが喜び勇んで検挙しまくってるみたいです」
まあ誤認逮捕もあるでしょうけど、と付け加えるコルセスカ。知らないうちに生まれていたこのルールが、良いものなのかイマイチ判断ができない。っていうか割と最悪なルールなのでは? 何故かって、それはつまり。
「ですから、現状では第五階層で最も強者であると認識されているアキラは、これから様々な人から挑戦を受けるでしょうね。周囲に挑戦者としての己の強さを認めさせないといけないので、ルールに乗っ取った堂々たる決闘という形式になるのが救いと言えば救いでしょうか。これからは暗殺とかに気を揉む必要は無くなると思いますよ、良かったですね」
「ああ、うん。それは安心したけど、もうちょっと早く言って欲しかったな――」
目の前に立ちはだかる、屈強な肉体の探索者達を見ながら、深々と嘆息する。我こそはなんとか流でなんとかいう名前、人呼んでなんたらかんたらと名乗りを上げている連中の目に、少なくとも暗い欲望やどす黒い殺意は無い。あるのは自らの武名を上げ、力を証明しようという野心。迸る闘志。
「なんかのゲームっぽい単純明快な世界で、私けっこう好きですよ。がんばって下さいね。あ、ちなみに右手の力は余程差し迫った状況で無ければ使わないで下さい。私も結構消耗するので」
「まあ、あれさえあれば大抵の状況はどうにでもなるからな。了解だ、どうにか自力で乗り切ってみせるよ。主の手前、格好悪いところ見せられないし――それに、俺だってこういうのは嫌いじゃない――上等だ、まとめてかかってきやがれ!」
吠えるのと同時に、挑戦者たちが飛びかかって行く。ぶつかり合う拳と拳。結局の所、俺はいつまで経ってもこの場所で暴力に明け暮れる――そう簡単に進歩なんてできはしない。成長期なんてものはとっくの昔に終わってしまっている。前向きな変化なんて望むべくもない。けれど、救いがあるとすれば、それは俺以外の変化なのだろう。大地を蹴り、風を切って疾走する。世界の感触が、今までとは少しだけ違うような気がした。
レオの目の前で、カーインとくまのぬいぐるみを抱えた少女、そして見覚えのある老人が跪いている。
何事だ一体。
「あ、アキラさん。助けて下さい! よくわかんないですけど、僕に【公社】で仕事をしろってこの人達が」
「はあ?」
困惑していると、ちびシューラが現れて状況を解説し始めた。
(あのね、考え方を変えたんだよね。ぶっ潰すんじゃなくて、そのまま乗っ取って利用しちゃうほうが手っ取り早いかなーって。元々いた協力者にも頼んで、そういう方向に切り替えたの。とりあえずレオを事実上のトップに据えることに決定しました。ロドウィは逆らったら地上の本社に贈賄とか裏帳簿のデータとかばらして、敵対派閥の奴らに追い落とさせるぞって脅しといたから)
それは巨大組織ゆえの弊害なのだろう。【公社】が秘匿したい情報を地上でそれを欲している誰かに明かせば、ロドウィの地上に於ける立場は悪化する。いかに法の無いこの第五階層で支配者として君臨できても、彼は本質的に地上の人間だ。そのしがらみから自由になれない。適当に脅して飼い慣らすことで、【公社】そのものを利用するというのはまあ真っ当な手だと言えるだろう。
「えっと、じゃあセージさんにやらせてる偽造旅券と滞在許可証の製造、やめてもらっていいですか? あと働いてる人にはちゃんとお給金あげてくださいね」
「はいもちろんでございます、全てレオ様の仰るとおりに――おのれ今に見ておれ、あの方が帰ってくれば貴様らなぞ物の数では」
「何か言いました?」
「いえいえいえ滅相もございません」
老人はすっかりと媚びへつらう様が板に付いている。相手はあどけなさを残す少年だというのに、すっかり上下関係が構築されてしまっていた。
それにしても【公社】の内部にトリシューラの味方がいるのか。初耳である。
(うーん、というか、対外的には私の味方だけど、実質的には敵みたいな。【星見の塔】で呪術医の研修受けてた時の同期で、同じラクルラール派――杖の派閥では有力な魔女って言われてる)
それが敵ということは、彼女たちもまた内輪で争ってるということだろう。どこもかしこも、組織人というのは面倒くさいものだ。
(うん。今は大規模複合企業体内部の、とある製薬会社の顧問呪術師をやっているの。そいつ――【白のメートリアン】は今回の【選定】では私に続く【杖の座】の第二候補で、まあライバルみたいなものだよ。気を抜いてると追い落とされちゃうから、借りを作るのはまずいんだけど)
協力者で潜在的な敵――いずれ会うこともあるのだろうか。
いずれにせよ、これから俺達が行く道は前途多難のようだった。立ちはだかる障害は数限りなく複雑に増え続け、利害関係も絶えず変容し入り乱れる。
けれどこの魔女は、それこそが面白いのだと笑うのだった。
(敵になり得るのはこの世界の全て。地獄の異獣、地上の聖騎士、あらゆる経済圏に手を伸ばす大規模複合企業体、多種多様な国家民族思想を束ねる【連帯】に、【騎士団】に代わって迷宮を踏破しようとしている探索者協会。他の三人の候補者はもちろん、私を追い落とそうとする【星見の塔】の魔女達。そして私の創造主、ラクルラールお姉様。どれも一筋縄では行かない、恐ろしい強敵達)
目の前に広がるのは、果ての無い混沌とした未来。その先にあるのは一筋の光も差さない常闇か、あるいは網膜を焼き尽くすほどのまばゆい光か。
ここが全ての出発点。入り口を目の前にして、鮮血の魔女とその使い魔は敷居を跨いでいく。
その日、その瞬間。俺達は新たな門出を迎えたのだった。
簡単に状況を整理すればこういうことだ。
現在、この世界は上の世界と下の世界に分かれて戦争をしている。地上と呼ばれる世界には俺と似たような姿の人類が住み、地獄と呼ばれる世界には異形の人類、つまり異獣たちが住んでいる。
地上は全ての異獣を絶滅させることが目的。地獄は地上から聖女を奪い生贄に捧げる事によって、異獣たちの帝王である火竜を復活させることが目的。火竜が復活すれば地上世界は消えない炎に包まれて、九日九晩の後に滅びる――と地上の様々な伝承や聖典にそう記されているらしい。
その上、トリシューラの解説では火竜とは寿命で死ぬ寸前の世界の心臓なので、復活すると世界が終わりを迎えるとのこと。二つの勢力はお互いの存亡を賭けて争っているが、多世界連合の介入によってそこには迷宮の階層を奪い合うという一定のルールが設けられた。
そんな状況に介入して来たのが【星見の塔】という呪術師の組織。【キュトスの姉妹】の最後の一人となる席を賭けての競争、あるいは試練を、こともあろうに天地を分かつ決戦の舞台で行おうなんて暴挙に出た理由は不明だが、とにかく四人の魔女が【世界槍】に解き放たれた。
魔女の一人、氷血のコルセスカは地獄の火竜を討つために探索者として戦いの中に身を投じた。
もう一人の魔女、鮮血のトリシューラは自らの存在を世に知らしめる為、第三勢力として戦場に己の王国を築き上げた。
その二人と敵対する魔女、融血のトライデントは――正直よく分からないが、その部下らしいベアトリーチェとかいう女性が地獄の総大将をやっているってことは多分地獄側なんだろう。目的はよく分からないが他の魔女を取り込んで全員イコール自分一人が最後の魔女になることらしい。
つまり四人のうち三人は身の置き場を上、中、下と定め、勢力ごとに分かれたわけである。
さてそうなると自然と浮かび上がってくる疑問がある。
四人いるゲームのプレイヤー、その最後の一人は一体どこで何をしている?
とりあえずレオを連れて巡槍艦へと帰ろうとする俺の頭上で、高層ビルに据え付けられたディスプレイが新しい光景を映し出そうとしていた。
それは俺の与り知らぬ所で進行していた、もう一つの物語。
ふと見上げる。それはもしかすると、聖騎士との戦いの余波でこぼれ落ちた、運命と呼ばれる呪力の残滓が作用した結果だったのかも知れない。
少なくとも、その瞬間。
俺は、確かに運命と再会したのだと確信していた。
「それでは改めてご紹介しましょう、【歌姫Spear】の新たなるパートナー、そして【松明の騎士団】が誇る若き英雄! その名は、アズーリア・ヘレゼクシュ!」
それは遙か遠い地上で起きていた、魔女とその使い魔の、もう一つの物語。
かたちの無い左手の、もう片方の始まりだった。