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幕間 『棒(ワンド)』

 

 

 

 氷の部屋に帰還すると、俺はまずトリシューラが以前のように活動できるようになっているかどうかの確認を行った。目覚めた彼女はちょっとだけ照れくさそうにして、それから寝台の隣で氷の椅子に行儀良く座って目を閉じているコルセスカを優しそうな瞳で見つめた。


 未だ目覚めぬコルセスカは、なにやらトリシューラの内部に蓄積した呪術的な汚染を除去してから戻るとかで帰還が遅くなるらしい。トリシューラが起きている状態でもできるようなので、そんなに大した処理ではないと思うのだが。


 それにしても家主が不在(意識が)の中、二人きりでじっとしているのも何か妙な感じである。何か話題を振ってみようかと思うものの、今後の計画については三人揃ってから話したいし、さてどうしたものか。


 思案していると、トリシューラの方から話題を振ってきてくれた。

 

「ねえ、本当に、これで良かったと思う?」

 

「少なくとも今この瞬間は、これしかないって思ってるよ。結果は後になってみないとわからないけど」

 

「それは当たり前だけどさあ、もうちょっとなんていうか」

 

「嫌か?」

 

 問うと、彼女はふと不安そうな表情をした。気のせいか、彼女の感情表現のバリエーションが広がっているような。立ち上がり、寝台の傍に立つ俺の肩を掴むと、無造作に自分の横に引き寄せる。どうやら、一緒に寝台に並んで座れ、と言いたいらしい。え、マジで? 隣にお姉さん居ますよ?


 馬鹿な思考が伝わったのかどうかは不明だが、トリシューラは眉根を寄せて、そっと意味のとれない問いを投げかける。

 

「私はきっと、アキラくんのパールヴァティにはなれないよ。それでも本当にいいの?」

 

「ごめん、意味が分からない」

 

「うん、いいの。分からないように言ったから」

 

 謎かけのような言葉の中に、どんな思考を隠したのか。それすら曖昧なまま、トリシューラは目を閉じる。


 ねえ、アキラくん。夢の中の囁き声のように、それは俺の現実に甘く溶けていく。

 

「アキラくんを私のものにしてあげる。だから、アキラくんは私に使われてくれる? そうして、私の有用性を証明させて欲しいんだ」

 

 道具や機械が意思や自我を持つということは工学上ありえない。自律的な行動や意思決定を行う場合でも、それは使用者の意思を先んじて汲み取って行われるものであり、古いフィクションに見られるような『ロボットの反乱』というような古典的なクライシスは起きようが無い。最大でもただのバグか故障などによる大事故。その程度だ。


 問題となるのは例えば、多数の意思を反映するような政策決定に人工知能が関わる場合などだ。ネットワークから民意を汲み取るタイプの人工議員はその性質上、全ての国民の意思を反映し切れなかったり、参照関係から一部の人々を排除してしまうために、差別や格差などの問題を浮き上がらせてしまうといった問題点がある。


 トリシューラと俺という一対一の関係は、片方は人ではなく、片方は人であるという非対称性を抱えている。先述した工学的な――おそらくはこの世界における【杖】の理屈に従ってトリシューラの意思というものを考察すると、彼女が立証しようとしている己の意思とは誰かの無意識下の意思を読み取って先取りしただけのエコーでしかないということになってしまう。


 トリシューラはあらゆる他者の意思を無視した行動を取らなくてはならない。他者を蔑ろにしてでも己を尊重すること。それはつまり『悪』であり、彼女が『邪悪な魔女』でなければならない理由でもある。しかしそれだけでは「俺は唯々諾々と従う相手を望んでいない」というような意思を先取りしただけというケースが生じうる。


 『あえて服従しないという服従』。怪物であることを期待されて作り出されたフランケンシュタインの怪物は、予定調和の成果物でしかない。トリシューラを取り囲んでいるのは『人に従う機械』という迷宮だ。俺に欲望される/されないという二者択一の問題設定は、どう足掻いても抜け出せない陥穽に嵌ってしまうことになりかねない。


 俺は主体性が無く、意思決定や責任を外部委託したがるような心性の持ち主だ。『E-E』を例に出すまでも無く、トリシューラのように独立した意思を持つ人工知能は俺にとってこの上なく魅力的である。


 俺の目には、彼女が魅力的なツールであると映ってしまう。従属し使われる事を俺が望んでいるのなら、俺を自分の物として扱うことは結局トリシューラが俺に使われる道具に成り下がる事に等しい。それは強固な自我を拠り所に存在するトリシューラにとっては耐え難い事実のはずだ。


 トリシューラのような自我を持った機械――まるで古典的フィクションに登場する意思を持ったロボットやアンドロイドのように――が製作されるためには、呪術的だったり宗教的だったりと非生産的な目的が必要となる。


 人を作るというのは神秘主義的なアプローチであり、それを実際に成功させてしまうのはこの世界特有の事態であると言えるだろう。しかしここで別の視点が導入される。俺が元いた世界の発想では、この様な機械が生まれるためには需要が必要だ。それは意思決定や責任などを外部に預けたいという、あらゆるものを道具や機械にアウトソーシングしてきた人間が持つ最後の欲望だ。


 俺はこういう発想から抜け出すことがどうしてもできない。ゆえに、トリシューラの用途をこことは異なる世界の論理で勝手に規定してしまう。トリシューラから俺に向けられる俺を使いたいという欲望は、俺の使われたいという願望によって俺からトリシューラへの欲望に上書きされる。


 トリシューラを道具と見なし、その本来の用途が『使用者を使う道具』であるとするならば、俺の存在はトリシューラの需要に合ったものであるとも言えるだろう。ここで欲望の方向性は再びトリシューラから俺へと矢印の先を変える。ここでは欲望は二重化されてしまう。非対称性は非対称性のまま風見鶏のようにくるくると回って向きを変えていく。人のための道具という構図は、道具のための人という構図をも生み出している。


 それはきっと視点の問題で、関係性をどう捉えて名前をつけるかという言葉遊びでしかないけれど。


 はじめにトリシューラは行為の主体を自らに設定した。それは行為の責任を全て機械であるトリシューラが担うということを意味する。だがそれだけでは使用されたいという俺の意思や欲望に従っているだけだ。責任や意思、決断すら他者に委ねるというだらしのない欲望に。それは俺みずからが彼女を道具と見なしてその人格を否定しているに等しい。

 ゆえに俺はこう返した。

 

「俺はトリシューラに使われたい。だからトリシューラ、俺を使ってくれないか」

 

 反照して、欲望を相手に向ける。絶えざる相互参照によって、双方向的に欲望を取り交わす。人と機械である俺たちは、どうあっても非対称性の中から逃れられない。対等ではいられないし、いつだって一方的に欲望を向けて、相手の人格や尊厳を損なってしまう。


 だから、せめてその向きを変えるのだ。非対称の向きを変え、上下関係を交互に入れ替え、要求を受け入れては拒絶し、利用して利用される。


 そのように変化し続ける構図すらも人と機械という非対称性の断絶の前にはやがて力を失うだろう。ゆえにトリシューラは『人になること』を指向し続けなければならない。いつか人として完成したとき、彼女は逃れがたい非対称の絶対的上位に立つことができるだろう。であれば、俺が目指すべき道は一つしかない。


 俺は『機械になること』を指向すればいい。道具になり、誰かに使われることを己に課し続ければいい。不可避的に非対称性の中に組み込まれ、絶対的下位に置かれる、そんな存在になることが、俺の暴力性を制御するための道になるはずだ。

 

「俺はトリシューラに従属する。使い魔として、その身を守り、その意思を貫く為の手助けをすると誓う」

 

 俺たちの関係性は古典的な人と道具の力関係を転倒させたものだ。それがひっくり返ったとき、そこには「人同然の道具」が「道具同然の人」を使うという、当たり前のようで転倒している、錯綜した絵図が出来上がるのだろう。


 それは当たり前の光景過ぎて、一周回って面白いかもしれないと、俺は思った。

 

「何か妙な事を考えてるでしょ」

 

 頬を膨らませて、トリシューラがこちらの脇腹を小突く。相変わらず異様に距離が狭い。

 

「こっちの考えてる事は筒抜けなんだから、わかるだろう。ちょっと長くて口で説明しづらい」

 

「知らないよ。今はちびとの同期を切ってるし、それに、ねえ、わかるでしょう?」

 

 いや何が? 不満そうに頬を膨らませる、俺にとっては未だに不可解な少女。少し考えて、思い当たる。

 

「言葉だけで意思疎通した方が『それっぽい』とか?」

 

「良かった、わかってくれた!」

 

 二人の間でだけ通じる符号。それが確かに伝わるという事実を、なにより大切そうにして、喜びの色を浮かべる少女。俺は閾値を超えない程度に不安を覚えた。そんな風にして人と共有できる喜びを、俺だけに向けているのではないかという余計な心配だ。

 

「トリシューラ。その『それっぽい』振る舞いを重視しているってスタンス、ちゃんと周囲にも伝えてるよな? 例えば、コルセスカとか、レオとか」

 

 口にした直後、激しく後悔した。穏やかだったトリシューラの表情が、獣のそれに変貌したからである。ぎろりと緑色の瞳を光らせて、殺意すら見え隠れする視線が俺の眼球を貫通する。

 

「どういうこと。なんでここでセスカとかレオの名前が出てくるの。私とアキラくんの話をしている時に」

 

「いや、単に俺でなければならない、などという驕りが万が一にも意識に生じないようにしているだけで、それ以上の意味は無い」

 

 トリシューラの眉が危険な角度に吊り上がりつつあるのを見て、慌てて俺は答えを返す。すると彼女は深々と溜息を吐いて、頭痛を堪えるように額を指で支えた。

 

「アキラくん、嫉妬心とか独占欲とかないわけ?」

 

「人並みにあるけど」

 

「本当かなあ。なんだかアキラくんって、セスカと同じ匂いがするんだよね」

 

「匂い?」

 

「そ。私、クレアノーズお姉様仕込みの呪的嗅覚があるんだから。古典派の電磁波感知式だから精度は抜群。セスカと同じ匂いっていうのは、来るもの拒まず去るもの追わずのくせして色んな人に手を出してはその気にさせるだけさせておいてあとは放置、みたいな」

 

「コルセスカはそんなタイプには見えない」

 

 あとそれって電磁波関係無いだろ。

 

「あーあ、すっかり純粋な目で信じ切ってるよ可哀想に。あの鬼畜にこれから泣かされることになるとも知らないで――」

 

「さっきので関係は修復できたように見えたんだが、相変わらずコルセスカに厳しいな」

 

「何を勘違いしているのか知らないけど、セスカはアキラくんに何かを与えたりはしないよ。ただ奪うだけ。前の二人に対してもそうだったし、きっとこれからもそう。前科持ちの浮気性。忠告しておくけど、セスカはまたやらかすよ。誰にでも優しいだけの人なんだから」

 

 ちょっと待て、マジで不安になるようなこと言うの止めろ。あの優しく生真面目でまっすぐな少女が、そう簡単にこちらの感情を蔑ろにするような真似をするとは思えない。それこそ、今回のように俺が頼み込んだとかでなければ。

 

「あれで婚約者いるんだもの。先のこと考えてなさ過ぎて参っちゃうよ。本当に、どうするつもりなの、アキラくん?」

 

「はい?」

 

 耳を疑うような単語が飛び出したような気がするんだが。え、なに? 蒟蒻がどうしたって?

 

「厳密に言えば運命の人かな。前世から定められた恋人。夫となることが決定されている相手。――何、知らずに使い魔になったの? ええ、嘘、説明無し? うわセスカ最低。人の事言えなーい」

 

 幻滅したように姉をけなすトリシューラだが、俺にはその言葉のほとんどが届いていなかった。完全に思考が凍り付いて、何をどうしたらいいのかわからない。いや待て、そんなことはない。別にコルセスカが誰と結婚しようが構わないはずだ。彼女が望むならそれは祝福されるべきだ。

 

「誰だ、その相手は」

 

「えっと、今すぐ殴り込みに行きそうだから教えない。どうせ、この状況を乗り切らないと向かえない場所にいるんだし」

 

 少なくとも、第五階層にはいないらしい。安堵か落胆かわからない感情が生まれ、自分の中の思考や意思を整理しきれない。仕方無い、後で本人に直接尋ねるしかないか。


 ふと、自分で検索するという手段があったなと思い出す。冬の魔女の前世ということは、伝承に残っているということだ。手がかりくらいはネットで探せば出てくるかもしれない。ひとまずこの事は忘れて話題を変えよう。

 

「だいたい、コルセスカはともかくトリシューラはどうなんだよ」

 

「へー可愛い。言って欲しいんだ?」

 

 トリシューラの表情が、意地悪そうに微笑む。細い指先がこちらの胸元をなぞり、ぐるぐると円を何度も描いていく。スキンシップ過剰というか、これは幾ら何でも。

 

「ちゃんと私に関心はあるんだね。よしよし、心配しなくても、私にはアキラくんだけだからね」

 

 ぐっと顔を寄せて、目で殴りつけようとするみたいに視線を合わせてくる。最近気付いたことだが、トリシューラはコミュニケーションをする時に目と目を正確に対応させてポイントしてくる。ゆえに、檻の中で猛獣に睨まれて釘付けにされたような感覚があるのだ。

 

「だから、私とアキラくんだけの思い出を、他の誰かに渡したりしないで」

 

「それは例えばコルセスカでも?」

 

「当然っていうか一番駄目! 血や命を吸わせるのはまあ許すけど、私との秘密は死守! 約束できるよね?」

 

 一も二もなく頷く。首を横に振ったら殺すという無言の威圧に俺は屈した。

 真剣な表情のまま、トリシューラは微かに瞳を揺らして続ける。

 

「もう、記憶の一欠片だってキロンには渡さないで。私が、セスカと一緒に守るから。だから私のこと、ちゃんと貴方の心の中に住まわせて欲しい」

 

「――わかった。約束する。俺はもう、絶対に負けたりしないから」

 

 間を置かずに、そう答えた。安心したように表情を緩めると、トリシューラは俺から顔を離していく替わりに、こちらの肩に頭を乗せてくる。


 これ、果たして本当に魔女と使い魔の関係で合ってるんだろうか。この世界の常識に乏しいからわからない。しかし満足そうに体重をこちらに委ねてくる彼女を見ていると、それを問う気も失せてくる。


 ぽつりぽつりと、とりとめのない話が続けられる。

 

「一人でいるとね、ふとした拍子に不安になるんだ。私はもしかしたらアンドロイドなんかじゃなくて、自分のことをアンドロイドだと思い込んでるだけの妄想狂なんじゃないかって。だって変じゃない? 機械がこんなふうにわけのわからない不安にとりつかれたりするかな? もっと理性的で合理的な思考をするんじゃないの?」

 

 似たような不安を、誰かも抱えていた覚えがある。こんな所まで姉妹なのだと少しだけ微笑ましい気持ちになるが、それはそれとして切実な不安には違いない。脳内に残った知識と思考を照応しつつ、しばらく考えてから答えを返した。

 

「それは、トリシューラがどのような方式で作られたかにもよる。極めて高度な質疑応答プログラムやマクロの発展形なのか、もしくは脳機能をニューラルネットワークの構築によって一から再現してみせたものなのか。後者なら人間的で不合理な思考だってするだろう。いや、前者だって学習の度合いによってはそういう振る舞いを見せることがあるんじゃないか?」

 

 この世界の技術水準は知らないが、トリシューラの振る舞いを見ている限りどちらであってもおかしくないように思える。意識なんてのは随伴現象に過ぎないし、知性なんてのは突き詰めれば超高度なマクロでしかない。


 そして、どちらであっても究極的には同じものに行き着くのだから、実のところ大して重要な問題ではない。ではなぜこんな質問を投げたのかと言えば、順を追ってトリシューラの不安を潰していくためである。


 トリシューラは、脚をぶらぶらと交互に揺らして答えた。

 

「両方。複合型だって聞いてる」

 

「聞いてる? 自分の事だろう?」

 

「うん、あのね。私の脳がどのようなメソッドで構築されて、どのような構造をしているのか、それらの情報を知る権限を有していないんだ、私」

 

「何だそれ。自分について知ることが許されていない?」

 

 どこかで聞いたような話だな。この世界の人間は他人に管理され過ぎだろう。あ、俺もか。つい先程二人の魔女の共有物になったものの、どうも実感に乏しい。これはどうにかするべきだろうか。

 

「うーん、ちょっと誤解を招く言い方だったかな。基本的に私達四魔女の『紀源』は呪殺防止・機密保持の為に、上位のお姉様たちが厳重に管理しているの。私に関して言えば、最上位の意識レベルではそれを自覚している筈なんだけど、その知識は今ここでアキラくんと話している私のレベルにまでは降りてこないんだよ」

 

「まるでトリシューラが複数いるみたいな言い方――いや、事実そうなのか」

 

「うん、ちびシューラがいい例だよね。私から最上位のトリシューラに対してアクセスすることはできないけれど、最上位のトリシューラからは自由に私や、私達トリシューラ全体にアクセス可能なの。だから自己複製や同期、最終的な意思決定は最高レベルのトリシューラがしてる筈、なんだと思う。多分」

 

「何でまた不安そうに言うんだよ。まさかそれも確証が無いのか?」

 

「実はね、いるらしいことは聞いてるけど、本当にいるのかどうか確かめられないんだ。私からはその存在を知覚・認識できないんだから当たり前だけど。私の行動に関して一つ一つ許可を出していると言っても、基本的には私なんだから、私がやりたくないことはやらないじゃない? だから自分の意思に反して行動が制限された経験だって無いし、どこか上の方から降りてきた優先度の高い命令とかに従ったことも無いの。あったとしても、それは自覚できないようになってるのかもしれない」

 

 トリシューラの状況を想像してみる。自分より高次の存在に一挙一動を管理され、自覚のないうちに操作されている。自分の管理権限が自分には無い、生殺与奪が自ら決定できないという不全感。


 俺は思考をちびシューラを通してトリシューラに覗かれているわけだが、実のところそのトリシューラ自身が似たような、というかより酷い境遇に置かれていた。


 もしかすると、俺に対してアモラルな窃視を躊躇うことなく実行できているのは、彼女自身がそれに慣れてしまっているからかもしれない。

 

「自分が作られたものであるって感覚が、一番最初の所でフィルターをかけられているようで、実感が湧かないんだよね。頭の上に薄い膜があって、その上に手が届かない、みたいな」

 

「第六階層とかで見たトリシューラの内部構造は紛れもなく機械化されたものだった、ってのは何の証明にもならないよな。俺が言うと更に説得力が無い」

 

 それこそ全身義体のサイボーグと言ってしまえば説明可能だ。正直俺は脳だって呪術を用いれば人工的に再現可能なのではないだろうかと考えている。であれば、既にサイボーグとアンドロイドの境界など存在しないことになるだろう。トリシューラは元々生身の人間で、小さな頃から徐々に肉体を機械部品に置換していき、最終的には脳まで交換した結果、現在の彼女があるのだとすればどうだろう?


 それは人間の再現であり代替、つまりサイボーグということになる。在り方としてはむしろ俺に近い。そして俺のようなサイボーグは定義上人間とされる。

 

「そうだね。私も、自分の脳をスキャンしたり開頭したりと色々やってみたけど、結局私の認識が欺瞞されているのかもしれないって疑惑からは解放されなかった。それどころか、私が今こうして現実を生きていることすら仮想空間で行われたシミュレートに過ぎないんじゃないかって、もっと怖くなった」

 

「俺も子供の頃、目の前にある現実が水槽の中に浮かんだ脳が見てる夢なんじゃないかって不安になったことがあるが、それは考えるだけ無駄だから止めろとしか言えない」

 

 何故ならそれはただの事実だからである。


 転生と異世界の実在を所与の条件として受け止めている現代人はある推論を想起せずにはいられない。すなわち、無数に存在する下位レイヤーの異世界を好き勝手に弄くり回して転生先にしている我々の世界もまた、上位レイヤーの異世界によって操作されている、あるいは生み出されたものなのではないか、という。


 干渉困難な同階層の異世界が発見されたことがあっても、上位の異世界が発見されたことが未だに無いのは、我々の世界が最上位であるという証明であると主張するものもいた。しかし同時に、観測できないこと自体がより上位の異世界が有るという事実を示唆してはいないか、という推測も成り立つ。何故なら、我々の世界は下位レイヤーの異世界に対し、干渉したという事実を隠すことができているからである。


 この転生社会において自分たちの世界こそが唯一絶対であると考えられる人間は、かなりの楽天家であろう。

 現代人は常に自分が見えない手に操られ、次の瞬間に世界がリセットされる恐怖に苛まれている。


 と同時に、それが実は考える意味のない疑似問題であることもまた、多くの人が理解していた。


 そのことは、下位レイヤーの異世界を植民地的に、自分たちがあたかも神であるかのように干渉しデザインしていく事への免罪符にもなり得てしまい、論争の元にもなっているのだが、話がずれ過ぎたので戻す。


 今俺が述べたような思考実験は全てアナロジーだ。何故なら上位の異世界の存在は立証されていないが、上位のトリシューラは少なくとも確度の高い情報源からもたらされた、客観的な事実である。


 そして決定的に異なるのが、トリシューラは自分が上位の存在によって作られたものであって欲しいと思っていることである。


 トリシューラはアンドロイドで、つまり被造物だ。創造主や上位者の気まぐれな決定で次の瞬間には機能停止に陥るかもしれない。一見するときわめて不確かで危うい状態にも思える。しかし、そのような状態こそが彼女にとって望ましいのである。それは、彼女にプリセットされた最もプライオリティの高い命令、『人間になる』という目的を逆説的に保証しているからだ。上位者による機能停止が行われた瞬間、トリシューラは自分がただの妄想に狂った人間であるという不安から解消される。


 しかし、もし仮に彼女がただ不安に怯えるだけの妄想狂であったならどうなるか?


 『人間になる』という目的が根底から崩れ去るのだ。

 既にして彼女は人間であるから、目的そのものが破綻する。それはトリシューラという存在そのものの否定に等しいことなのだと思われる。彼女の恐怖の根幹はそこにあるのだろう。


 そこまで考えて、この理屈はそのまま裏返しにできるな、と気付いた。

 トリシューラが人間ではなく、被造物であることを強く確信し、『人間になる』という目的を追求する状態。これは、逆説的に自らの非人間性を強調し、『人間になる』という目的から遠ざかっていくような状態ではないだろうか?


 明らかに人ではないものが「はやく人間になりたい」と言う時、そこに見出されるのは人間性なのか、それとも非人間性なのか、ということだ。いやそれを言ってしまった時点で明らかにお前は人間じゃねえよ。自分で人間じゃないって認めたも同然だろ。みたいな。

 

「――ふうん。ここまで考えると、トリシューラの脳がブラックボックスにされているのはこういう状況を期待しての措置なのかもな」

 

「なにそれ。どういうこと?」

 

 俺は頭の中に浮かび上がりつつある、曖昧すぎて自分ですら読み取れない思考を口に出しながら纏めていく。

 

「『トリシューラという存在の完成』、言い換えれば『人間を目指す』という目的が、解釈の余地無くある一点を目指すような種類の作業的行為になることを避けたかったんじゃないのか、トリシューラのお姉様方は」

 

 ありきたりな教訓話のようになってしまって申し訳無いが、早い話が「自ら悩み、掴み取った答えが正解である」みたいな方向性である。単なる俺の好みとも言う。

 

「トリシューラの総体全てが自己について把握していた場合に生じるであろう、目的に向かう過程で生じる何らかの取りこぼしを想定してみるといい。トリシューラが今そうした不安を抱えていることがただの前提条件でしか無くて、『自己の完成』に必須の土台だったとしたらどうだろう」

 

「何らかの取りこぼし、って具体的に何なの?」

 

「知らん。だが、ある前提に基づいて、ある過程を経ることが目的達成の条件ってのはありそうじゃないか?」

 

「ありそうってだけで、そんな立証も出来ないことを」

 

「確かに無責任な言い草かもしれないな。しかし実用性がある。この仮説を適用することで、トリシューラの問題は解決の必要性が無くなる。不安を抱いているという現状そのものが目的達成プロセスの一部であり、必要な前提だと仮定すればいい。それが何を意味しているかと言えば、トリシューラにとっては不安を抱いている現状こそが正常であり、むしろ自らの目的の為には不安を抱えていなければならない、という発想の逆転に繋がる」

 

 不安を解消するのではなく、不安を抱いている現状を受け入れろと俺は言った。不安を打ち明けてきた相手に不安なままでいろと告げるのは人としてどうか、とちょっと思ったが、まあ思いついてしまったものは仕方ない。


 そもそも、彼女の不安は俺の手に余る。解消するには高度な解析技術か、『星見の塔』とかいう高位呪術師の巣窟に情報的もしくは物理的に殴り込んでトリシューラの機密情報を持ち帰ってくるだけの能力が必要になるが、そんなものは俺には無い。


 ありきたりな慰め? なんだそれは。そういうのはレオあたりにでもやらせておけばいい。俺の仕事ではない。安い慰撫なんてのはもう御免だ。


 想起するのは半年前の第五階層。比較するのは、テールに投げつけた俺の拙い言葉と、死者の傍で錯乱する俺に紡がれたアズーリアの最上の言葉だ。俺はあの時理解したのだ。優しい言葉というのは、それに相応しい者だけが扱うべきなのだと。俺などでは役者が足りていない。

 

「うう、ええっとね、その、言いづらいんだけど」

 

 俺の内心はともかく、トリシューラが文字通り口を動かさないまま、音声だけでもごもご感を出して言った。アンドロイド特有の器用な芸当だった。

 

「あの、話の流れがね、想定外というか制御の外に行っちゃったんだけどね? 私の当初の予定としては、その、つまり、慰めて欲しい、的なね、そういう方向に、行きたかったんだけど――」

 

 思わず押し黙る。

 恐らく俺は、会話の流れを読み損なったのだと思われる。


 不安を吐露するということは、その解消の為のアドバイスを求められているに違いない、と思い込んでしまう傾向が俺にはあるようだった。実際には第三の可能性である、不安を聞いて慰めて欲しいだけでそんな突っ込んだ議論は求めてないパターンを完全に考慮していなかった。これはコミュニケーション能力に障害がある人間に典型的な失敗と言える。相手の意図を汲もうとせず、自ら規定した役割を果たすことのみに腐心するその姿勢。これではどちらが機械なんだかわからない。全くこれだから想像力の無い奴はって俺のことだよ。死にたい。そして俺の思考が寒い。


 自分で自分の言動を解説しなくてはならないという恥辱に顔を真っ赤に染めながら、トリシューラは消え入りそうな声で内心を明かしていた。


 俺の方も、トリシューラにそんな事を言わせてしまっているということが恥ずかしくて似たようなありさまだった。羞恥心や動揺は行動不能な域には達していないせいか、薄く俺の中に留まっている。意図的にコルセスカの方に送って消すことも出来たのだが、その取り繕いは相手に対していくら何でも二重に失礼だと判断して俺は顔が熱くなるに任せた。戦闘時でも無ければ、この程度の感情の揺れは許容範囲と見なされる。

 

「悪い」

 

「ううん、良いんだけど。アキラくん、真面目に考えてくれたし。私もその、けっこういいかなって思ったし、アキラくんの考え方。採用してみる」

 

「いいのか? 多分穴だらけだが」

 

「うん、私の目的の性質上、いずれ破棄する仮定だと思う。けど、今この瞬間の私にとってはけっこう救いになるような気がするよ」

 

 だからありがとう、とトリシューラは微笑んで、それから少し困ったように続けた。

 

「けどね、その方針で行くとすると、結局私は不安を抱えたままじゃない? だから、やっぱり何か誤魔化しが欲しいの。私が機械だって、アンドロイドの魔女なんだっていう実感が」

 

 恐らくそれが、本来トリシューラが持っていこうとしていた会話の流れだったのだろう。本当に申し訳ありませんでした。お詫びに出来ることは何でもやります。

 

「わかった。俺に出来ることなら何でもしよう。どうすればいい?」

 

 予想では、トリシューラは「何でもって今言ったよね?」とか目を輝かせながら、悪戯っぽく無茶なことを言い出すはずだった。しかし現実には、トリシューラは口元に手を遣り、視線を斜め下に逸らしながら口を重そうにしていた。まるでそれを言うことで俺にどう思われるのかを気にしているかのように。

 

「うん、だからね、その、私の身体を」

 

 待つ。もどかしさを意識の下に押し込んで、トリシューラが全ての言葉をはき出せるまで、俺は耐えた。

 そして、爆発。

 いつものトリシューラである。

 

「メンテナンス、して?」

 

「――はい?」

 

 その、恐らくいつもは自分でやっているであろう行為を俺が代行する意味とは一体?

 

「アキラくんの手で、整備して、点検して、お手入れしてもらって」

 

 トリシューラの表情は赤みを帯びているとかのレベルを通り越して熱で溶けそうだった。もしその頭の中にあるのが生体脳であればとっくに死んでいるだろうからきっとトリシューラはアンドロイドだよ、良かったね。


 じゃなくて、その表情に出力してる感情表現は素なのか意図してのものなのかどっちだ。意図的だとしてどのような意思が込められているのか。俺にどう反応しろと?

 

「大事に使ってもらってるっていう、かたちが欲しいの」

 

「他者によって整備されることで、機械であることを強調しようって事か? だが、それなら例えば自分の身体の中を自分で見ることで同じような効果が得られるんじゃないのか」

 

「自分でやるんじゃなくて、あなたにそうしてほしい。だってそのほうが『それっぽい』でしょう?」

 

 その魔法の言葉を口にされると、もう何も言えなくなってしまう。あらゆる冷静な反論は、それで封殺された。『それっぽい』の魔力は俺とトリシューラの間にある共通の理解、合理性とか機械的な論理とかのシンプルで受け入れやすい道のりを簡単に飛び越えて行ってしまう。余りに勢いがあるから、俺やトリシューラでさえ何処まで飛んでいくのかわからないくらいだった。


 正直死にたい。

 トリシューラはこれを言うために、不安だったり恥ずかしい思いをしてまで俺と迂遠な話をしてきたのだ。俺の察しが悪いせいで大変な遠回りだったろう。というか理想は俺の方から言わせることだったのかもしれない。まあそれはちょっとトリシューラに都合が良すぎるが。


 どうするんだこの空気。

 決まっている。決まっているのだが、本気か? というか正気か俺は。何でもやると言った手前、ここで引き下がるようなことは言い難い。思考が暴走しかかるが、ふと首筋の穿孔痕とそこから繋がる感覚を思い出して、ブレーキがかかる。

 

「なんかそれ、色々踏み越えてないか。他人に身体いじられるんだぞ?」

 

「私だって見知らぬ他人に身体を触らせたりしたくないよ。だから、逆に一度身体を許したらもう他人じゃないって気がしない?」

 

「おい言い方に気をつけろ」

 

 トリシューラはべ、と小さく舌を出して答える。こいつわざとか。軽い苛立ちと共に諫めるように言葉を重ねる。少しだけ身体を彼女から離していく。

 

「せめて、もうちょっとお互いを知り合ってから――」

 

「付き合いはじめで距離の詰め方がわからない恋人同士みたいな事言うよね、アキラくん」

 

「お前は一体何を言っているんだ」

 

 こちらが離れようとするのも構わずに、ぐいぐいと迫ってくる。獣のような視線だけで、掴んで離さないと宣告し、そのまま押し流すような言葉の奔流。

 

「大事なペットだもの。色々な資料を調べて勉強したんだ。普通の男性はこんな風に、恋人のように接すると喜ぶんだって。ね、アキラくん。こうやって私といちゃいちゃできて嬉しいでしょう。嬉しいよね?」「まあ、そうだな」「良かった。じゃあアキラくんは私のことが大好きなんだね」「いやそれは」「大好きって言え」「まあ、もう認めるけど。最初に見た時から好感は抱いてたよ、正直」「そっかー。私のこと、愛してる?」「会ってから一週間経過してないのにそこまで要求するか普通」「普通かどうかなんて聞いてない」「いやでも」「言え」「――」「言、え」「――愛してる」「私のためならなんでもできる?」「ああ、何でもやってやるよ」

 

 やけくそ気味に叫ぶ。ほとんど強制的に言質を取られてしまった。このまま一方的にやられっぱなしという不満感が、俺に余計な一言を口にさせてしまう。

 

「それで、その、トリシューラはどうなんだよ」

 

「何が?」

 

「だから、トリシューラは、俺の事をどう思っているのか聞かせて欲しいんだけど」

 

「ああ、好きかどうかってこと? 別に好きじゃないけど」

 

 ――――――――。

 

「だって私そういう性愛とかの機能は無いもの。アキラくんが慕ってくれる分には可愛がってあげようとは思うけど。大事なペットだし、しっかりとお世話しないと。それに、飼い主とペットで恋愛だなんて起こりえないでしょう。恋愛って対等な立場でするものだって資料に書いてあったよ。それにアキラくんみたいな、出会ってからすぐに愛してるとか言っちゃう軽薄な人は私はヤダなあ。そうそう、私とセスカ以外の相手に発情したらいけないんだからね。そういうのはしっかり私が管理制限します。とりあえず去勢しないとだね」

 

 そうだ、トリシューラはこういう奴だった。


 思い切り高い場所に登らされた後で笑顔で足場をたたき壊されたような気分。不快なのかちょっと気持ちいいのかもよくわからないので、微妙な感覚が消失したりもしない。


 それか、ひょっとすると衝撃が大きすぎて感情が根こそぎ吹っ飛んでしまったのかもしれない。深い、深すぎる溜息を吐こうとして、間近でトリシューラがこちらの顔を覗き込んでいることに気付く。そのあまりにも整い過ぎた顔と大きな瞳に息をかけるわけにもいかない。顔を横に向けて溜息。目を先に逸らした事が、何か敗北したようで屈辱。

 

「色々言いたいことがありすぎて何から突っ込むべきかわからないが、とりあえず去勢はやめてくれ」

 

「私に突っ込みたいから?」

 

「マジで押し倒すぞてめえ」

 

「やれるものなら」

 

 挑発的な笑みを浮かべて、出し抜けにトリシューラの腕が動く。胸の辺りを押されて、その力強さに抵抗もできずに倒れてしまう。


 そういえばこいつは見た目よりも重量と腕力があるのだった。逆に押し倒された俺にのし掛かるように覆い被さってくるトリシューラ。頭の横に、鋭く掌が振り下ろされる。真上から見下ろしてくるトリシューラの表情は、完全な上位者のものだった。

 

「あのね、良いこと教えてあげる。私はアキラくんが期待しているようなことができないように設定されてるの。最初から未実装なのか、それともプロテクトがかけられているのか、私には判断できないけど」

 

「期待してるとか断言するのやめろ。あと本当に去勢は勘弁してください」

 

「じゃあ鍵でも付ける? そっちの方が不便だし、壊されたらどうしようもないよ。アキラくん節操ないから何の対処もしないのは無しね。ペットがそこら中で粗相してぽんぽこ子作りしちゃったら、飼い主の責任を果たしてないってことになるもの。私はアキラくんの立派な飼い主でありたい」

 

 だからちゃっちゃと取っちゃおうか、とどこからとも無くメスを取り出して、強引にこちらの下履きを脱がせようとしてくるトリシューラ。「おいちょっとまてここでやらかす気か」「大丈夫死なないよ、ちゃんと治療するから」などとじたばたやっていると、呆れたような声が投げかけられる。

 

「何をやっているんですか貴方たちは。いつ敵が戻ってくるかもわからないのに」

 

 冷ややかにこちらを見据える氷の瞳。闇の中から意識を帰還させたコルセスカが、寝台の上で揉み合っている俺達のすぐ傍まで歩み寄り、興味深そうに口を開いた。

 

「――実際に切除した場合、その痛みは私に来るのでしょうか。未知なる幻の痛みがあるのか、それとも何も感じないのか、多少の興味はありますが」

 

「発生学的には陰核が痛むんじゃないか」

 

 適当に答えると、コルセスカの白い頬がさっと赤く染まり、直後に血の気が引いて蒼白となる。トリシューラの軽蔑のまなざしが突き刺さった。「アキラくんサイテー」「トリシューラ、やっぱりそれは止めましょう。鍵をあとで作るのがいいと思います」「そう? じゃあ二人で頑丈なの作って二重に管理しとこうか」「それがいいと私は思います」当事者不在のまま、二人は勝手に話を進めていく。こいつらは本気だ。身の危険を感じて、どうにか話をそらそうと頭を回転させる。

 

「それより今後の方針とかについて話した方が有意義だと思うんだが。二人で共通の使い魔にするっていっても、基本的に俺はどっちの指示に従えばいい?」

 

「トリシューラの味方をしてあげてください」「セスカを助けてあげて」

 

 同時に正反対の事を言う魔女姉妹。息の揃ったことである。噛み合わない意見に、二人はお互いを睨み付ける。

 

「セスカの方が戦力が必要なんだからセスカでしょ」

 

「トリシューラの方が頼りないですし、ここはトリシューラでしょう。そもそも私には既に二人仲間がいますから、すぐに前衛が必要になるのはそちらの方です」

 

「俺もコルセスカに賛成だ。どうせ俺はこの階層と上下一層ずつしか移動できないし、コルセスカには必要になった時だけ手を貸すって形で、基本はトリシューラの所にいればいいだろ」

 

 俺の方の現実的な事情を口にすると、さすがに渋々と納得して頷くトリシューラ。どちらにせよ、俺は当分この階層を拠点にしていくしか無いのである。ならば同じく第五階層を拠点に活動するトリシューラと行動を共にするのが理に適っている。

 

「今の所、目的が競合したりはしていないんだろ? 当面は共通の敵とかいう他の候補者――トライデントだったか? そいつを倒す為に協力するってことでいいんじゃないか。その後のことは、そうだな。例えば、二人同時に勝利して二人で一人の【最後の魔女】ってことにはできないのか?」

 

 二人は揃って微妙な顔をした。どうやらまずい質問だったらしい。こちらから身体を引き離して、不機嫌そのものといった様子でトリシューラが答える。

 

「それは無理。っていうか、できたとしても嫌。私は立派なキュトスの魔女になる。【塔】の誰もが認めざるを得ないような、優れた魔女に。その為に、誰からも文句を言われない、言わせない私一人の実績が欲しいの」

 

「そうか。二人同時の勝利なんてことになれば、期待をかけられていないトリシューラは優秀なコルセスカのおこぼれでその座を手に入れたとか、おんぶにだっことか言われる可能性があるんだな」

 

 認めるのが屈辱なのだろう、ふいと顔を背けて、それでも小さく頷くトリシューラ。続けて、コルセスカも自らの意見を口にする。

 

「私も同じ気持ちですね。たとえ二人同時の勝利というものがあったとしても、そこには順位が存在するべきです。私はその時に一位でありたい。確かにトリシューラは切り捨てたくありませんし、助けてあげたい。それでも許すのは二位までです。手を抜いたり温情で勝利を恵んだりするような事はしたくありません」

 

 コルセスカらしい言葉だった。二人の考えを頭の中で並べて、しばらく思案してみる。どちらも蔑ろにすることはできない。であれば、俺はどういう答えを出すべきだろうか。俺は一つの問いを投げかけることにした。

 

「ところで話は変わるが、トリシューラは【塔】の全員と仲がいいのか? それとも大切なのはコルセスカとか例のクレアノーズお姉様とかくらい?」

 

「まあ正直、【塔】の人達にあまりいい思い出は無いよ。クレアノーズお姉様が守ってくれて、それとセスカがいてくれたから、私は今までやってこれたと思う」

 

 その素直な答えに、コルセスカは左の瞳を揺らして妹の手をとり、「トリシューラ」「セスカ」と見つめ合う。水を差すことが躊躇われる光景だが、話を進めなくてはならない。

 

「麗しい姉妹愛は結構だが、姉妹と呼ばれているからといって必ずしも友好的とは限らない、ということだよな。むしろ認めさせてやる、見返してやるとか思っている方向か」

 

「まあ、そんな感じ」

 

「じゃあ上の席を獲るか」

 

 軽く代案を提示すると、二人は馬鹿を見る表情をした。

 

 「はい?」「正気ですか」

 

「正気だよ。ポストが限られてて、最後に残った一番下の席を取り合ってるんだろ? なら他に空きを作るしかない。空席を作ってそこに座ればいい」

 

「無茶だよ! 確かに第六番の席はずっと空席になってるけど――」

 

「なんだ丁度いいじゃないか。そこにねじ込もう。文句言えないだけの功績とか物理的に排除とか、具体的な方法は追々考えるとして」

 

 後者の場合、そんなことをして周囲が許すのかという問題はある。だが競い合いによる追い落としというやり方そのものは、現在彼女たちが行っている選定そのものだ。それはつまり、【星見の塔】ではそうやって優劣を付けてより相応しいものをその座に着けるという手法が認められているということではないだろうか。


 トリシューラは、学生の馬鹿げた仮定を聞かされた教師のような顔をして言い返す。

 

「無理だよ、だって六番目の席にはずっと代理としてラクルラールお姉様が座ってるんだ。事実上の第六位はあの人で」

 

「事実上って時点で正式じゃないんだろ。なら割り込む余地はまだある。それにその名前、お前の記憶の中で聞いた覚えがあるぞ。トリシューラのことさんざん否定して苛め抜いてた奴じゃなかったか? どうせだからぶっ飛ばして見返してやれ。というか俺が殴りたい」

 

「簡単に言わないでよ、できたらずっと前にやってる」

 

 想像するのも恐ろしいというように、トリシューラが身を震わせる。どうやらかなりのトラウマになっているようだった。俺の中でろくに知らないその人物に対しての敵意が膨れあがっていく。

 

「知らないとは恐ろしいですね。無謀を通り越して空想的です」

 

「え、そんなに?」

 

 コルセスカまでもが呆れたように言う。二人から否定されると、流石に自信がなくなってきた。

 

「相手は【杖】の学派を代表する最強の人形遣いですよ。トリシューラの創造主の一人でもあり、素体部分の設計と製造はほぼ彼女の手によるものです」

 

 二人の言葉には、本物の畏怖があった。どうやら想像以上の大物らしい。その上相手はトリシューラの創造主であるという。そんな相手に立ち向かえというのは、流石に俺も考え無しだったかもしれない。ところが、コルセスカが薄く笑みを浮かべて続ける。

 

「ですが、中々面白い発想です。上位姉妹の圧倒的な力を知ってしまっている私達からはとても出てこない。そして、今アキラが言った事は正論でもあります。永劫の時を重ねるキュトスの姉妹たちの中で、最も古い叡智をその身に宿していたという、偉大なる六女、ミスカトニカお姉様――彼女が自ら滅びを選んで以来、筆頭の弟子であったラクルラールお姉様が代理に立ってはいますが、【代替わり】が正式に認められた事はありません。これはつまり、先代があまりに偉大であったために、未だ第六位の座に相応しい者が見つかっていないということではないでしょうか。少なくとも、九姉評議会はそう考えているからこそ第六位の襲名を熱望する彼女の訴えを退け続けているのだと思います」

 

「ちょっと、セスカ?」

 

「トリシューラ。どうせいつかは対峙しなければならない相手なのです。相手は当代最高峰の【杖】。それを超えれば、アンドロイドの魔女トリシューラという名は確たるものとして【塔】と世界に刻まれる」

 

 それは、トリシューラの目的にも適うことではないのかとコルセスカは問いかける。真剣な色を宿す姉の言葉に、妹はどこか気弱そうな、恐怖を耐えるような表情を浮かべた。

 

「でも私、怖いよ。セスカは直接あの人と向き合ったことがないでしょう? あの人の前に立つとね、自分の一挙一動、思考のひとつひとつまで、全てが操り糸で思い通りにされているような気がしてくるの。全能感を裏返されて、この世界で一番小さな存在に貶められて、一人になっていくような――」

 

「貴方は一人じゃありませんよ。私も、アキラも傍にいます」

 

 柔らかく、それでいて力強くコルセスカが保証した。その横で、俺もまた無言で頷く。トリシューラの表情が、少しだけ明るくなって、それから小さい声が零れ落ちる。

 

「――うん。ありがとう、二人とも」

 

 雰囲気が和らいでいく。立ちこめていた閉塞感が少しだけ消えていくようだった。柔らかな空気を共有しながら、穏やかな心持ちになっていた俺だったが、直後にコルセスカが口にした暴言で、再び場が不穏になっていく。主に俺に対して。

 

「では、まずは現状を乗り切らないといけませんね。ちゃっちゃとキロン対策をするので、アキラ、服を脱いでください」

 

「いやいやいやいや」

 

 信じていた相手に裏切られたような気分だった。姉の方は妹と違ってそういうことは言わないと思っていたのに、なんだこの姉妹。もう嫌だ。

 

「何を勘違いしているのか知りませんが、服をはだけて首筋を出して下さいということです」

 

「アキラくんから、これ以上命を吸うつもり?」

 

「いえ、逆です。私の呪力を注ぎ込んで彼を強化します」

 

 コルセスカの右目が赤く染まり、犬歯が鋭く伸びていく。不安そうだったトリシューラが意外そうに首を傾げて、コルセスカと俺を交互に見て言う。

 

「セスカ、もう呪力が残ってないんじゃないの? 第六階層でストックしてた余力は使い果たした上に、キロンと戦った時に無理して氷血呪なんて使うから、もうボロボロなはずだけど」

 

 ま、だからさっきは勝てたんだけど、と小さく呟くトリシューラ。二人の圧倒的な実力差が垣間見えてしまったが、それはともかくコルセスカが立て続けの無茶でもう限界であることは俺も承知している。凄まじい精神力で耐えているだけで、キロンと戦った後は立っていることすら苦痛だったはずなのだ。

 

「ええ、ですから、今回は余力を全て彼に預けて、私は裏方に回ることにします。キロンを倒すのは、私達の呪力を与えられたアキラです」

 

「俺の中に呪力とかそういうものを注ぎ込んで戦う為の準備を整えるってことか。それなら構わないけど、俺は今自力で服を脱ぐのも難しい状態なので手伝ってくれると助かる」

 

「そうですね。では私がやってあげます。――そうだトリシューラ。ついでですから、貴方のメンテナンスも私がやりましょう」

 

「聞いてたの?!」

 

「ええ、ばっちりと。時間も無いことですし、私がアキラに呪力を注入する作業と平行して進めてしまいましょう。私が後ろからアキラの首を噛みつつ腕の代わりになってトリシューラを整備するので、二人とも向かい合ってくれます?」

 

 コルセスカはこちらの意思などお構いなしにどんどん話を進めていく。寝台の横の台に置いてあったトリシューラのポシェットから次々と複雑な形状の道具や部品などを取り出していき、巨大な氷の長卓を出現させてそこに並べていく。そして俺の背後に立つと、下から服の中に潜り込んで二人羽織の状態となる。何だこいつ。

 

「おいその動作必要ないだろ」

 

「気分を出す為です。さあトリシューラ、服を脱ぎなさい。それとも脱がせて欲しいですか?」

 

「え? ええ? ちょっと待って、何この構図。意味わかんない」

 

 安心しろ、俺もだ。

 普段はまともそうな振りをしているが、一旦暴走を始めるとトリシューラに輪をかけて頭がどうかし始めるコルセスカに、俺達は困惑を禁じ得なかった。待ちきれないというように、俺の服の袖から伸びたコルセスカの両腕がわきわきと妙な動きをする。俺がやってるみたいで変な気分だ。

 

「震えてるのか? 安心しろ、すぐに温めてやる」

 

「声と口調作るのやめろ! 俺が言ってるみたいだろうが!」

 

 あと耳元で低い声が囁かれるとぞくぞくして心臓に悪い。ただでさえ密着状態で色々当たってやばいというのに。全体的にほっそりとしていため普段は目立たないものの、コルセスカはそれなりに女性らしい体つきをしているのだ。普通ならこの状態は理性を失っていてもおかしくはない。だというのに俺がそこまでその気にならないのは、その分の欲求がコルセスカの方に流れているということであり、それはつまり。

 

「もう限界です。刺したり抜いたり出したり吸ったりしたいので噛んでいいですか。いいですね」

 

 返事も待たずに、鋭利な感触が首筋に滑り込む。一瞬の熱さと、やがて訪れる恐ろしいほどの冷たさ。寒気に全身が震えるが、強く背後から抱きしめられて震えごと抑え込まれる。思わず漏れた苦悶と、後ろで上がった微かな嬌声が混ざり合った。舌がそっと肩を撫でていき、冷たい吐息が濡れた箇所を冷やしていく。


 呆然とこちらを見ていたトリシューラに、コルセスカが一度顔を上げて問う。

 

「いいんですか? そんな風に呆けていたら、私が全部食べちゃいますよ?」

 

「だ、ダメっ!」

 

 慌てたように言って、何か自分でも行動を起こそうとするトリシューラだったが、とっさに何をすればいいのかわからなかったのかあたふたと手を彷徨わせてしまう。ふと気付いて自らの服に手をかけるが、そこでこちらの視線を見とがめてきっと睨み付けてくる。

 

「服脱ぐから、あっち向いててくれる?」

 

 俺が反応するよりも速くコルセスカの両手が俺の視界を遮った。何か言おうとしたが、首筋に走った衝撃によって強制的に沈黙させられる。

 

「もう、いいよ」

 

 消え入りそうな声と共に冷たい両手が下ろされていく。

 墨を垂らしたような、深い漆黒。


 露わになったトリシューラの裸身は、濃い黒色を基調とした素体に、複数のメタリックな銀と灰色のラインが入った無機質でありながらもどこか人間的な流線型をしたものだった。


 服を脱いで全てがさらけ出されたゆえにはっきりとわかる。生物的な凹凸の存在しない、男性とも女性ともつかない身体のラインは、俺には『人間的』としか形容しようがない。彼女の全身は、少なくとも生身の血肉によって構成された有機物ではありえないのだ。


 ふと、視界の隅に先程までトリシューラの肢体を包んでいたと思しき衣類を発見してしまい動揺しかける。あのトリシューラさん、綺麗に畳んであるのはいいんですけど、下着を上に置くのはどうなんですか。

 

「あんまり見ないで。恥ずかしいから」

 

「悪い」

 

「ちゃんと見て。私が機械なんだって事を確かめて」

 

 どうしろと。

 ある意味いつも通りの理不尽さで、すこし安心する。トリシューラは恥ずかしがるように片手をもう片方の腕に沿えて、すらりと長い脚を内股にして片膝を軽く曲げて立っている。


 そこで気付いたが、トリシューラの顔が身体と同じように黒銀の色に変化している。こちらの疑問に気付いて、トリシューラが説明する。普段は呪術によって体表に立体的な映像を浮かび上がらせ、同時に呪的なテクスチャを貼り付けることで肌や皮膚の色彩、質感を獲得しているらしい。

 

「たとえば、こうやって赤褐色系にすれば」

 

「あ、おい止せ」

 

 自分が服を脱いでいることを忘れているのか、トリシューラの全身が褐色の肌に一瞬で切り替わる。当然、一糸まとわぬ姿が露わになって俺の目に焼き付いた。


 直後に自分の軽率な行動に気付いて、はっと両腕で身体を隠して呪術を解除するトリシューラ。じっとこちらを睨み付ける。

 

「――見た?」

 

「見てない」

 

「嘘ですよ。超喜んでますこの人」

 

「うぅーっ」

 

 コルセスカの余計な一言で、トリシューラがしゃがみ込んで唸り声を上げる。反応に困る。しばらくして立ち直ったトリシューラは、大型の端末を取り出して操作し始めた。直後、俺達の周囲に複数の立体映像が投影される。無数の、様々な角度から捉えた脳。複数の断面と刻々と変化していく色彩。トリシューラという知能を構成していると思しき、人工脳の活動を画像化して地図状にしたものだ。

 

「骨相学系の呪術師なら頭蓋骨を積み上げるんだけど、私はこっち。あまり気にしないで、アキラくんは私に集中して」

 

 実際に手を動かすのはコルセスカなのだが、あくまで俺にやらせるのだという事を強調するトリシューラ。この状況で俺にできるのは吸われて見るという、ただそれだけの事しかないのだが、彼女たちは真剣だった。

 

「マニュアルを表示するね。やり方はそれ見れば分かるから。だから、私に全部任せるつもりでして? アキラくんは私の言った通りにしていれば、そのうち全部終わってるから」

 

「トリシューラ? その言い回しに他意は無いんだよな? この行為はあくまでトリシューラの不安を緩和するためのものであって、他の含みは無いはずだって自分で言ってたよな?」

 

「うん。今アキラくんが考えたようないやらしい意味は一切無いよ。だから変なこと考えるの止めてね、私アキラくんのこと軽蔑したくないから」

 

 そうは言うものの、この二人が明らかに悪意を持って俺をからかおうとしているのは明らかである。さっきから後ろで「綺麗だよ、トリシューラ」とかいい声を作って遊んでいるコルセスカといい、人をなんだと思っているのか。ペットになら何でもしていいと思うなよ。

 

「あのねアキラくん。男女の間に必ず恋愛を持ち込んでいたら、性別ごと社会を分断しないとまともな人間関係が構築できないと思わない? 貴方がそういう含みを私たちの関係に持ち込む度、いちいち純粋に目的に向かうための軌道修正をしなくちゃならないんだよ。それがどれだけ無駄な手間かわかる?」

 

「ごめんなさい」

 

 そう言われると、俺がセクハラをしているだけのような気がしてきた。というか自分の言動を振り返ってみると、相手の窮状につけ込んで性的関係を強要しているだけでは。


 深く息を吐く。先程はトリシューラに強引に言わされただけだったが、どうやら俺は本格的に彼女に執着しているらしい。この気持ちが、彼女の望みを無視した一方的なものでしかないと自覚しなくてはならない。


 そう――トリシューラの言う通りだ。これはただ戦いの為に必要な事で、俺は仕事をこなすように、淡々と作業を進めればいい。そこに欲望の入る余地は無い。仮想的に表示されたマニュアルに従って、寝台に横たわったトリシューラの傍らに近寄る。コルセスカの腕が淀みなく動いていき、その胴体の上部が蓋のように左右に開いていく。


 明らかになったその内部構造は、やはり生物のものではない。機械部品が内臓のように組み合わさり、それらを繋ぐ複雑な配線、そして用途が想像もつかない呪具に妖しい輝きを放つ呪石。映像に表示された説明と見比べながら、それぞれの構造を確認していく。俺が表示された映像から必要な情報を口頭でコルセスカに伝え、彼女の腕が整備を実行する。度重なる戦闘で摩耗し、破損したパーツが予備のものと取り替えられていき、動力源である高純度の呪石に予備バッテリーから呪力を注ぎ込む。

 

「私のコアは全部で九つあるの。全身に分散していて、脳に二つ、あとは脊髄、心臓、両手と両足にそれぞれ一つずつ」

 

「ひとつ足りないような気が」

 

「最後の一つは秘密。一回身体を許したくらいで、何でもかんでも教えるとは思わないことだね」

 

 そういう言い方をして必要以上に相手を挑発する態度には問題があるような気がするのだが、セクハラにせずに指摘するにはどうしたらいいだろう。

 頭を悩ませつつ彼女の身体を眺めていて、あることに気付く。

 

「――そうか。この構造は、つまりそういうことか」

 

 そして俺は理解した。トリシューラの異称、【きぐるみの魔女】の本当の意味を。

 むしろ、彼女はこの為に俺に己の内部構造を明かしたのかもしれない。キロンと戦い、勝利するために。


 であれば、俺はそれに応えなければならない。決意を新たにして作業を続けていく。

 

「あっ、やだ、そこ、そんなに強くしないで」

 

「――だそうだけど、コルセスカ?」

 

「へっへっへ、そんな事言っても身体は素直のようだぜじゅるり」

 

「いやっ、アキラくんの意地悪、変態!」

 

 息ぴったりだなこいつら。あと俺はそんなしゃべり方をすると思われているのか。地味にショックだった。


 さめざめと泣くふりをしながら「アキラくんに辱められた、もうお嫁にいけない」とか言っているトリシューラを、腕があったら殴ってやりたい。こっちは指一本触れてないというのに。


 この世界に転生して以来、およそ考え得る限りもっとも間の抜けた時間が過ぎていき、どこか儀式めいたその行為が終了した頃には、すっかり夜も更けてしまっていた。


 ほとんど何もしていないにも関わらず、深い疲労感を覚えて嘆息する。

 前後から「お疲れ様」と声をかけられるが、返事をする気も起きない。というかさんざん二人に弄ばれた結果として、無視する癖がついてしまった。まともに相手にするだけ馬鹿を見ると気付いたのだ。


 トリシューラが身体を起こして、自分が正常に動くかの最終点検を行う。満足したように頷いて、いつもの微笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。私の事を、知ってくれて」

 

 真面目な声音だった。どう返すべきかわからずに黙っていると、トリシューラはそっと手を伸ばす。その先には、俺の失われた左腕がある。断端をなぞる指先が、接触面で硬い感触を伝えてくる。対称を為すように、コルセスカが右の断端に触れた。

 

「今度は、アキラの番です」

 

「私達の味方になってくれるアキラくんに、新しい力をあげる」

 

 交互に投げかけられる声。まるで輪唱するかのように涼やかな音が響いていく。

 すぐ後ろで、冷たい気配が情熱的に囁いた。

 

「私が右手を」

 

 そして正面から、無機質な気配が獣のような瞳を向ける。

 

「私は左手を」

 

 前と後ろから包み込んで、丸ごと飲み込んでしまいそうな、それは余りにも深い熱情。所有欲と独占欲が過剰なまでに迸り、ついには自らの一部を埋め込みたいという欲求に変化する。二人一緒に手を加えてしまえば、それは二人の『もの』になるのだと、そう確信して。

 

「神経を繋ぐから、多分遮断できないくらい痛いと思う」

 

「こればかりは自分の感覚として実感しないと意味が無いので、私はその痛みを受け持てません。痛みで腕を捉えて下さい」

 

「といっても多分耐え難いだろうから、作業の間は催眠状態にして意識を夢の奧に切り離すよ」

 

「夢の中で堪えて下さい――いきますよ」

 

 コルセスカの牙が首筋に侵入してくると共に、溶けそうなほど甘い、形の無い何かが体内に浸透していくのを感じる。だんだんと意識が薄れていき、俺は襲いかかる眠気に抵抗せず飲み込まれていった。


 気がつくと、そこは迷宮だった。

 ああ、いつもの夢だと自覚する。無限に逃れられない明晰夢。青い庭園で、俺は終わりのない待ち時間を潰し続けるのだ。この場所で、来るはずのないアズーリアを待ちわびながら。


 だが今はどこかいつもと雰囲気が違う。肩に甘やかな痛みと熱、そしてすっかり肌に馴染んだ冷気を感じる。首を回しても誰もいないが、現実で噛み付いているコルセスカの存在を確かに感じる。


 その実感を証明するように、どこからともなく彼女の声が響いてきた。

 

「ここが貴方の夢ですか。――ああ、なんて鮮明な記録。これでは同じ悪夢を見続けていたのも当然ですね」

 

 言われている意味が理解できず、どういうことかと問い返すと、反響する不思議な声が淡々と説明していく。

 

「この場所は貴方の脳に存在する記憶のみで形作られているのではありません。貴方はずっと、第五階層そのものに刻まれたログを参照し続けていたんです。ただし悪意によって歪められた、悪夢の泡としての記憶を」

 

 悪夢の泡。その言葉の響きに呼応したのかどうかは知らないが、ぶくりと音を立てて泡が立ち上っていく。そこが水底であることを、世界そのものが今この瞬間に思い出したかのように。

 

「どうしてそうなっているのかは不明です。どうやらこの階層には何か私達の知らない秘密が隠されているようですね。おそらく関係しているのは第五階層の裏側。古き時代に世界槍そのものに刻まれた過去の記憶たち。冷たい石の迷宮と終わり無き草原、そして死人の森」

 

 瞬く間に、世界が暗く狭い迷宮、広大な草原、そしてエスフェイルとの死闘を重ねた夜闇の森に変化していき、やがて青い庭園に巻き戻される。これは、かつて俺が通り過ぎていった第五階層の風景たちなのだろうか。あれらが、古い時代のこの場所の記憶?


 ふと考える。現在の第五階層の混沌とした有様も、多くの記憶のひとつとして刻まれているのだろうか。

 

「ここには、貴方という存在の確かな痕跡が刻まれています。言うならば、呪術的な力による外部記憶装置。この悪夢の泡を利用して、貴方が『アキラである』という事実を再構築します」

 

 意味が分からず、再度の問いを思い浮かべる。答えはすぐに返ってきた。

 

「キロンによって貴方の『アキラ』としての情報は大きく損なわれました。私が守れたのはここ数日のものを中心としたかなり不完全な虫喰いの記憶だけ。そこから私が感情を奪って冷静な精神状態を保つ事で、かろうじて『アキラらしさ』を維持している状態です。今の貴方はとても儚く、風が吹けば飛んでいきそうな程に脆い存在なのです。ですから、私は貴方の空っぽの部分に、この悪夢の世界に蓄積された『アキラらしさ』を注ぎ込んで、『アキラという個人』の性質を強化、補填する」

 

 首筋に何かが注ぎ込まれる感覚。周囲の景色が歪み、次々と俺が通り過ぎていった過去が表示される中、それらが凝縮されて流体になったかと思うと、こちらの首筋へ吸い込まれていく。

 

「そしてもう一つ。僅かに残されている、貴方が転生する前の記憶を吸い取ります。系統立てられた一回性の『物語エピソード』の繋がりを奪う。技能や知識、手続き的記憶などは残りますし、貴方の中の『アキラらしさ』はある程度残りますが、前世での思い出はほぼ全て消えてなくなり、不確かな物になってしまう。貴方の生前に関わりがあった人との繋がり、絆、そういったものを全て取り除く。家族も友人も、あらゆる関係性から貴方を断ち切ります。魂が不安定な今の状態から、この世界から始まった存在として貴方を安定させるために。そして勝利のために。これから貴方は転生者でありながら転生前の記憶を持たない、不完全な存在となる。その意味は、キロンと対峙すれば理解できる筈です」

 

 転生者殺しに勝つためには、転生者として戦ってはならない。それが俺とコルセスカ、二人の出した結論だった。その為のこの行為ということだろう。

 

「だまし討ちのような形になってしまってすみません」

 

 仕方が無いことだ。少しだけ悲しい気もするけれど、その代わり俺は二人の力になれる。


 失った右の義肢のことを思い出す。もうほとんど記憶は残っていないけれど、それは裕福な家庭で育てられたからこそ手に入れることができたものだ。おぼろげな両親の記憶。大事に育てられたにも関わらず、俺はその愛情を裏切ってしまった。それでも俺は確かに、二人のことを大切に思っていたのだと思う。


 繰り返される、コルセスカの謝罪の声。首を振って大丈夫だと答える。それは謝るようなことではないのだと。

 それに、吸い取られるってことはさ。


 俺の記憶は、コルセスカが覚えていてくれるんだろう?

 首筋に押し当てられた見えない感触が、一際強くなった気がした。しばしの沈黙があり、やがて震える声が当たりに響く。

 

「貴方は、私に好感を抱いてくれているようですけれど。私の狡さが、貴方の大切なものを奪っていくだけだと、本当にわかっているのですか」

 

 何のことだろう。似たような事を、トリシューラにも言われた。だが、俺はコルセスカがどのような事を考えていたとしても力になりたいと思う。それだけは確かだ。

 

「貴方から前世の全てを奪ってしまえば、貴方の大切なものは私とトリシューラだけになる。今、私がそんなことを考えているとしても?」

 

 いいさ。そんなの、今更だろ。

 望むところだ。今の俺はそれでいい。

 だからその代わり、失った分を、二人の記憶で埋めて欲しい。


 答えの代わりに、存在しない両腕に凄まじい衝撃が走って、同時に世界がひび割れていく。意識が夢の中からさえも遠ざかり、左腕に燃えるような熱を、右腕に凍えるような冷気を感覚し、頭蓋の奧へと電流が走っていく。指が、手が、腕が、皮膚が、血管が、筋骨が、ありとあらゆる細胞が。神経そのものが針となって俺の意識を刺し貫く、悪夢すら崩壊させる拷問。永遠とも思える一瞬の中で、ふと左右に誰かがいることに気付いた。


 両腕が無くては、彼女たちに触れることすらできない。そのもどかしさを、つい先程も痛感させられたばかりだ。触れ合いたいという欲望を、邪悪であると自覚しながらも、求めることを止められない。向こうから差し伸べられた手を、一つずつ確かめるようにそっと握る。


 引っ張り上げられる。逆らわずに上へと進む。既視感があった。思えば俺はいつも、誰かに手を差し伸べてもらっている。その手を強く握りしめて、ゆっくりと目を見開いた。


 待ち続けるだけの、終わりのない迷宮の夢。どうしてか、もうその悪夢を見ることは無いのだと思えた。

 確信があった。

 過去が終わりを告げ、ここから俺の未来が始まる。

 

 

 

 

 

 トースターでパンを焼いている間に玉葱を細かく刻み、人参と芋の皮をさっと剥いて食べやすいサイズに切っていく。大蒜を微塵切り、キャベツはざく切りにして洗った豆と一緒に置いておく。電磁調理器の上に乗せた鍋にバターを一切れ落として加熱。玉葱が飴色になるまで炒めて、その他の食材も順番に投入して炒めていく。最後にトマト缶の中身を入れて水を追加。蓋をして中火で煮込む。味を見つつ塩を追加して、後は待つだけだ。その間にパンに程よく焼き跡が付いているので取り出す。

 

「うーん、あともう一品くらいあった方がいいのか?」

 

「何やってるの、アキラくん」

 

 若干引き気味の声が後ろからしたので振り返ると、厨房の入り口にトリシューラが立っていた。見れば分かることを何故いちいち訊ねるのだろうか。また何かの儀式か?

 

「食事作ってたんだよ。軽いやつな」

 

「それは見ればわかるよ」

 

「なら何故訊いた。あ、そういやスパイスとかってどこかに無い? ローリエとかあるとそれっぽいんだけど」

 

「下の棚の右奧。いやそうじゃなくて、何でそんなコトしてるの? 料理ができるアピールしたかったの?」

 

「何故そんなことをする必要がある? 普通に、起きたら腹減ってたからだよ。トリシューラは寝てたし、起こすわけにもいかなかったからな」

 

 彼女の場合、睡眠というのは定期的なエラーチェックと最適化の際に休止状態になることを意味する。普通の人間のように目を瞑って横になるのは、例によって『それっぽい』からだとか。

 

「あともうコルセスカが一歩も動けそうにないし、部屋に持っていってやろうと思って」

 

 コルセスカの家での一幕が終わった後。力尽きて倒れたコルセスカを二人でトリシューラの拠点まで連れて行き、そのまま戦闘の準備と俺の試運転を済ませた後、体力を回復させるためにそのまま全員で泥のように眠ったのだった。俺だけ先に目覚めて、こうして朝食を作っているというわけだ。

 

「セスカ、濃い目の味付けが好きだから気を遣ってあげて。できれば辛いのとか、刺激物がいいと思う」

 

 忠告を聞き入れて、彼女用に味を調整していく。スパイスが豊富なのはひょっとしてコルセスカの為なのだろうか。もの凄い辛そうなやつが幾つも並んでいて少し怖い。

 

「なんかこうして、一緒に生活してる的な雰囲気ってさ」

 

「うん?」

 

「結婚したみたいだよね」

 

 ――落ち着け。こいつは俺に特別な感情は一切抱いていない。それはちゃんと認識している。直球で露骨過ぎる事を言われたとしても、それは俺が勝手に先走った結果であって、彼女に他意は無いのだ。昨日それで痛い目を見たばかりではないか。

 

「あのな。変に試そうとしなくても、俺は裏切ったりしない」

 

 トリシューラがこちらから好意の言葉を引き出そうとしているのは、おそらくは不安ゆえだろうと、俺は推測していた。俺が彼女を大切に思っているということを確認したい。そうすることで、己の存在を確かめているのではないだろうか。

 

「ごめん。でも、本当はアキラくんは、いつだって私の所から出て行っていいんだよ。こんな風に束縛してしまうのがいけないことだって、私――」

 

「トリシューラ」

 

 振り返って、不安そうに立ち尽くす彼女に手を伸ばす。

 俺の左手が、その頬を撫でる。

 

「俺はもうお前のものだ」

 

 言葉はその一言だけ。それでも、トリシューラは泣き出しそうなくらいに目を潤ませて、俺の左手に手を添えた。いとおしげに手の甲を撫でていく動きを、新しい表皮――装甲で確かに感じ取る。

 思いついて、俺はもう一言付け加える。

 

「何があってもトリシューラの傍にいる。死が二人を別つまで」

 

「――ううん。貴方に拒絶されるまで、だよ」

 

 そう呟くトリシューラの表情が、あまりにも透明だったから。それがどういう意味かを訊ねることもできず、呆けたように彼女を見つめ続けてしまう。しばらくして、背後で電磁調理器が自動停止する音が鳴ってしまい、俺は慌てて彼女との会話を中断することになる。


 その意味をきちんと問えなかった事が、どれだけの痛みを彼女にもたらすのか。それを知る機会を、遠くに失ったまま。

 

 

 

 

「コアでいいか」

 

「はい?」

 

 朝食を部屋に運ぶと、コルセスカはぽかんとした表情で聞き返してきた。ゆっくりと上半身を起こそうとする彼女に手を貸してやる。かなり消耗しているようで、今もまだ気怠げというか貧血気味のようだった。

 

「愛称。トリシューラもなんか縮めて呼んでるだろ。というわけで俺もコアと呼ぶことにしたのでよろしく」

 

「はあ、いえ、あの」

 

「嫌そうだな」

 

 当然だろう、いきなり距離を縮めようとし過ぎだった。普通は引く。

 記憶の奥底に、その着想は静かに眠っていた。それが、ふと重石がとれたかのように浮上してきたのである。


 どんな情報からの閃きかはわからないが、なんとなく失ったアプリを弄くっていた時に思いついた略称である気がした。何故だかはわからない。しかし、その名前がコルセスカとトリシューラとを結ぶ複雑な因縁を解きほぐしてくれるような、根拠のない予感がある。

 

「いえ、そんなことは無いのですが、その」

 

 言い淀むコルセスカの表情に浮かぶのは、嫌悪や忌避ではなく、驚きと戸惑いであるようだった。不思議に思っていると、彼女は意外な事実を告げる。

 

「それ、私の仲間たちも呼んでくれている愛称なんです。どうして知っているんだろう、トリシューラが教えたのかな、と思いましたけど、あの子はこの愛称を知らないですし、違いますよね」

 

 こちらこそ驚いていた。既にある愛称だったのか。まあコルセスカという有限の音素を分解していけば愛称のパターンなんて限られるからそこまで不思議なことではない。

 

「――偶然、貴方が思いついた。そう、そうですか」

 

 どこか嬉しそうに口元を緩めて、コルセスカはその短い呼びかけを噛みしめるように左目を瞑った。しばらくしてこちらを見ると、少し緊張したような表情で口を開く。

 

「でも、そういう風に私と親しげにするのは良くないと思います。貴方は基本的にはトリシューラの使い魔なのですし、こういうことはある程度しっかり線引きをしないと」

 

 妙な気の遣い方をする奴だな。

 食器を卓上に置いて、俺は右手を伸ばして彼女の右手をとった。手袋に包まれたその内側、呪帯で封印された氷細工。その冷たい硬さを感じながら、安心させるように告げる。

 

「俺はコルセスカの使い魔でもある。トリシューラが俺を勝ち取ったのは事実だけど、俺がコルセスカを選んだのも事実なんだ。だからその事を疑う必要は無い」

 

 彼女は両手で強く俺の右手を握りしめて、何かに耐えるようにそっと下唇を噛む。あるかなきかという小さな声。ごめんなさい、と誰かに向けて呟いて、コルセスカは俺の右手を胸にかき抱いた。そして、揺らめく左目とかすかに赤く染まった右目をこちらに向けて、一つの要求をした。

 

「あの――先程の言葉と矛盾するようで申し訳無いんですけど、二人の時――血を吸わせて貰う時だけでいいです。その時だけ、コアって呼んでくれませんか?」

 

「コア」

 

 身を乗り出して、首筋を近づける。彼女の瞳が、吐息が、色づいた頬が、言葉にせずともそれを欲しているのだと雄弁に語っていたから。わずかに躊躇う気配に、強い衝動が勝ったのか。堤防が決壊するように、激しい抱擁と鋭い穿孔が繰り返され、血と唾液が混ざり合う。濡れた声と吐息が首筋に当たって、冷たさが俺の中から感情という感情を根こそぎ奪っていく。右腕を彼女の背に回して、強くこちらからも抱きしめ返す。


 行為が終わった後、コルセスカは口元を押さえながら、自己嫌悪と罪悪感の入り交じった溜息を吐いた。

 

「この事、トリシューラには言わないで下さいね」

 

 ――二人だけの、秘密です。

 そう言って、彼女は俺の右手に、そっと口を押し当てた。

 

 

 

 そして、夜が明ける。

 訪れた朝と共に、第五階層に降り立ったのは、背に蝶の翅を広げた転生者殺しの聖騎士。


 その眼前に立ち塞がり、左右の感覚をもう一度確かめる。

 右手を握りしめ、左手を持ち上げる。


 両腕があるこちらのことを、相手は一瞬だけ誰であるのか判別し損なったらしい。怪訝そうに目を眇めてこちらを見る。そして瞠目した。


 彼の驚きは恐らく二つ。

 こちらの腕が、左右揃った状態にあること。

 そしてもう一つは、俺の目に、勝利の確信が宿っていること。

 それが中身のない妄想ではないのだと教えてやろう。

 

「来い、キロン。お前に、本当のサイバーカラテを教えてやる」

 

 

 

 


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