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1-2 死者を代弁する者

 

 

 

 

 その場所に辿り着いたのは、全てが終わった後だった。

 私が着せてやったマントに黒髪黒瞳。空白の左手と鎧の右腕を持つシナモリ・アキラとかいうあの変態は、倒れた木を前にして、ぼうっと立ち尽くしていた。


 私は『心話』を起動する。

 魔導書を完全に使用可能にするにはまだ時間がかかるが、段階的に使用可能なページが増えている。少しでも状況が改善するようにという『金鎖のフラベウファ』の気遣いだろう。正直助かる。丁度、役に立ちそうな状況に遭遇した。

 

「えっと、私の言うことが理解できる? もし出来ていたら、貴方の母語で返事をしてください」

 

 『心話』を使用しながら話しかける。これで、どのような言語で話していても意思が伝わるはずだ。私もこうした術を使うのははじめてなので、成功するかどうかわからない。

 

「人を殺したんだ。俺は人殺しだ。俺は犯罪者なんだ」

 

「は?」

 

 何を言っているのだろう。

 というか、この人、私を見ていない?

 

「そうじゃない、いいか、俺はこの世界だけじゃない、元の世界でも、生前にも人を殺しているんだよ! 俺は人殺しだ、この世界に来ても何も変わってない! 死んでも馬鹿は治らなかったよ!」

 

 強い、怒りとも嘆きともつかない叫び声。何を言っているのか全く分からないが――元の世界?


 いわゆる実力や文化、価値観の隔たった相手に用いる『世界が違う』とは違うニュアンスだった。『心話』は正確な言葉のニュアンスを捉え、伝えてくる。


 私たちは大きな勘違いをしていた。

 あの男は外国人では無い。

 外世界人だ。

 

「まさか、次元移動者?」

 

 それは多元宇宙を渡り歩く存在の総称だ。有史以前よりその存在は確認されており、この世界に災いと恵みの両方をもたらしてきた。

 この男がそうだとしたら、いったいどのような意図を持って私たちに近付いてきたというのだろう。


 いや、そもそも私たちと同じような姿をしているが、知性のあり方が同じものなのかも全くわからない。

 宇宙人の存在はかなり昔に否定されて、異種知性体との接近遭遇と言えば異次元からやってくる来訪者に限られるようになった。


 その中には全く話の通じない怪物もいれば、一見会話が成立しているようだが思考の形態が違いすぎて最終的に対立するというケースもあったと言う。


 このシナモリ・アキラという男はどういう性質の次元移動者なのだろう。

 そしてその最初の遭遇は、できれば私ではなく学者や外交官のような専門家に任せたいところだった。


 しばらく前に騒動になった異世界からの特使も、最初は世界各国から識者を集めて会見を行っていたという。現在は世界各地を飛び回っているらしいけど、一時期対応が悪くて諍いになりかけたこともあるらしい。


 責任が重大すぎる。

 しかし、どうやら彼には私の言葉が届いていないようだ。もっと近くに移動した方がいいだろうか。


 と、そこでようやく彼がこちらを見た。

 怯えられた。

 なんだそれ。怖いのはこっちだ。


 怒り出したい気分だったが、すぐ思い直す。

 そうか、私にとって異質ってことは、あちらにとっても私は異質なのか。

 

「そうだよ、証明してやる! 俺は最初からこういう人間性なんだよ! 俺は自分で望んで人を殺してるんだ、殺しが楽しいんだよ! この世界の連中に近付いたのも沢山殺す為だ、油断させてあとから殺す為だ! そうだ、だから俺がカインを殺した!」

 

 ――うーん?

 錯乱している彼の言葉は、ものすごく意味が分裂していてわかりづらいが、しかし同時にわかりやすくもあった。『心話』という術は、実際身も蓋もない。


 そしてその言葉でようやく気付いた。

 倒れた木に潰された狼の死骸と、血に塗れた『鎧の腕』を振り回して叫ぶ外世界人。

 私はおおまかな状況を理解した。


 『エスフェイルに』殺されたのはカインだ。

 ゾンビ化のことを外世界人が知るはずもないし、ゾンビになる前に手を下して欲しいと、カイン本人が頼んだのだろう。


 ゾンビ化する前に人間として始末をつける。

 口で言うのは簡単だが、親しい相手にこれを行って精神を病む者も多い。目の前のあれは、言ってみればこの世界でもよくある錯乱の一例だ。


 何だ、似てるじゃないか、精神構造。

 しかし、無関係な外世界人だから仕方ないけど、あの様子だときっと勘違いしているな。

 筋違いの責任や罪悪感を背負わせるのは、本意ではない。それは本来私たちに返ってくるものだ。

 

「そうだ、はじめからこうすれば良かったんだ、俺は、殺してやる、殺してやるぞ!」

 

 錯乱した男が、此方へ走り出す。

 みっともない走り方だった。異獣と戦っていた時に見せたあの風のような速度や鋭さが無い。


 右手を振りかぶり、こちらを殴ろうとする。

 見事な体重移動と正確な打撃で人狼を倒してきた男とは思えない、ひどい攻撃だ。

 だから私は、躱そうと思えば躱せるその攻撃を、あえて受けた。

 軽い衝撃と共に、兜が弾き飛ばされる。


 そのへんの地面に転がっていくが、私はちょっとだけ擦ったおでこをさすりながら彼に言ってやった。

 

「背負わなくていいものを、背負わないで」

 

 『左手』を差し出す。怖がられるだろうと思ったが、構わなかった。

 呆然とこちらを見る彼の右手を、上からかぶせるようにしてそっと握った。

 金属の硬さと冷たさを感じた。

 残りふたつ。

 愚かな事をしているという自覚はある。自分たちの首を絞める行為で、今こんな事をするメリットはどこにもない。


 だけど、こんなふうに苦しみを露わにしている人をそのままにするのは、私の心に優しくない。

 私は自分にだけ優しい酷い人間なので、これからすることにためらいは無かった。

 

「それは、本来私たちがやるべきだったはずのこと。そしてそうさせたのはエスフェイルというあの異獣。恨むなら私たち、憎むならエスフェイル。間違っても、貴方が自分を責める必要は無い。それは筋違い」

 

 息をのんで、悲しみに表情を歪める。

 彼はカインと一番親しくしていた。筋違いと言われるのは、それを否定されたように感じるだろうか。それでも言わなくてはならなかった。

 

「『ゾンビ』になった者は、完全に意識を奪われる前に殺すのが私たちの決まり。カインもそれを覚悟して任務に臨んでいた。私たちがしなければならない義務を、貴方にさせてしまったことは深く謝罪する。それから感謝も。カインを送ってくれて、ありがとう」

 

 どれだけ彼がカインに親しみを抱いていたとしても、責任も仲間であるという事実も、私たちのものだ。


 だから、筋違いの責任と罪悪感を抱えてしまったシナモリ・アキラのその苦痛を。

 私が解体する。

 

「遡って、『フィリス』」

 

 『左手』への命令と共に、手首の金鎖が砕け散る。残りひとつ。

 それと同時に、否、そこから『遡って』、彼を縛る呪いに左手が辿り着く。

 物事を認識する世界観、事実の側面を切り分けて意味を作り出す言葉、人をとりまく関係性、そして自己を動かしていく実体。

 世界を構成する四元素を形ある存在として認識し、掌握する。


 シナモリ・アキラの内的宇宙は、ぞっとするほど『実体』の属性色が濃い。どんな世界で生きてきたら、こんなに悲劇のように即物的な人間性が構築されるのだろう。


 『言葉』を掌握する。言葉は呪いだ。

 あらゆるものを切り分ける、魔法の呪文。

 

「聞いて。カインは生前こう言っていた。『化け物になって仲間を憎むようになるくらいなら、死んだ方がマシだ』って。貴方は彼の人間性を守った。仲間として、彼の意思を尊重した。それを後悔すれば、彼の意思を軽んじることになる」

 

 私の言葉は、アキラが感じている苦痛とは関係が無い。

 空虚な欺瞞だ。それでも、この相手には飛躍が必要なのだと思う。


 これでいいのだろうか。もっと適切な『物語』が必要ではないだろうか。だが私の技量ではこれが限界だ。私は言葉を紡ぐ。騙り続けることで、呪文を確かにするために。

 

「貴方の苦しみは、きっとカインを傷つける」

 

 生者を慰めるために、私は霊魂を仮構する。

 呪文が完成していく。『死者を代弁すること』。それこそが呪文の本質。呪いの頌歌オード

 フィリスを解放した今の私になら、できるはず。

 

「彼はきっとこう言うでしょう。『ありがとう、気にするなよ』と」

 

 それを聞いた瞬間、くしゃりと顔を歪めて膝から崩れ落ちたアキラは、私の目を憚ることなく、声を上げて泣き始めた。

 まるで憑きものが落ちたように。


 ――どちらかと言えば、古い憑きものを別の憑きもので上書きしただけなのだけれど。

 いずれにせよ、呪いは取り払われた。そのやり方は、新たな呪いで彼を縛るというものであるにせよ。


 結局の所、これは私の利己的な行為に過ぎない。

 

 

 

 私が死者に祈りを捧げている間、彼は誰かと話をしていた。

 ひとしきり泣いた後、落ち着いた彼は、こちらに背を向けて呟き始めたのだ。

 

「はい、なので現地の法に従って、ええ、それに関しても追って説明します。はい、生前の事も、そういうことです。すみません、お騒がせして、迷惑をおかけしました。今は立て込んでいるので、生き延びることが出来たらまた連絡を。それでは」

 

 話が終わったのか、こちらを見て何かを言いたげな素振りを見せて迷った挙げ句、頭を下げてきた。

 何のつもりだろう?

 

「暴言を吐き、その上殴ってしまって申し訳ありません。そして、さっきのこと、ありがとうございました」

 

「そう。ところで今の、遠隔地にいる誰かとの通話? ひょっとして異世界との通信技術があるの?」

 

「えっ、そこ?」

 

「他にどこを気にするの。戦場で死んだ人間のことを考えるのは、仇を討つという動機付け以外ではすべきではない。墓は地上に作るし、弔いも生還してから。私の目下の関心は、貴方の異世界人としての戦術的価値」

 

 長く喋るのは苦手だ。一度息を吐いて、やるべきことをはっきりさせる。

 

「知りたいのは、貴方がどんな目的を持ってこの世界にやってきたのか。そしてどんな力を持っているのか。もし貴方が次元侵略者なら私は貴方と戦わなくてはならないし、あなたがエスフェイルと戦ってくれるなら私も力を合わせることができると思う。あなたは本来この世界の争いとは関わりのない人だから、戦いを望まないのなら、私は貴方を保護して、地上に帰れるように努力する」

 

 その後のことまではわからないけど、と付け加える。さっきから喋りっぱなしだ。しんどすぎる。


 カインは言葉の分からない相手に話しかけ続けるとかやっていたけど、私には絶対に真似できない。

 アキラは少し戸惑っていたようだが、やがてたどたどしく説明してきた。

 

「俺は、元々別の世界に行くはずだったのが、原因不明の事故があって間違ってこの世界に来てしまったんです。異世界に移動するのは元の世界の技術と機械で、俺にそういう能力は無い。俺は見ての通りの右腕が義肢ってだけの一般人。だから当面の目的はとりあえず生き延びること、つまりキールや、その」

 

 そこでちょっと言いよどんで。

 

「貴方と協力して、エスフェイルを倒すのが、俺の目的です」

 

「『敬意』とかいいよべつに」

 

「あっはい」

 

 『心話』による会話特有の、文法的な敬語表現と関係しない敬意を込めた言葉を私は拒絶した。


 なんか鬱陶しい。どうも彼はこちらとの距離感を掴みかねているらしい。カインとはあんなに素早く仲良くなったというのに、よく分からない奴だ。頬にかかる髪を払い、落ちていた兜を拾う。

 

「あ」

 

「何?」

 

 兜をつけ直してから尋ねると、「何でもない」という答えが返ってきた。変なの。


 まあいい。彼の話を要約すると、今までとあまり変わらないということだ。彼を利用することになるが、罪悪感を抱いても仕方ない。

 

「分かった。地上に生還できたら、私たちは貴方の協力に正当な報酬を支払うことを約束する。それまでは、よろしく」

 

 右の拳を握って、差し出す。

 アキラは目を見開いて、すぐに頷いて、右手の甲を私のそれとぶつけた。

 

「ああ、よろしく」

 

 

 

 そのあと、彼と情報交換をした。私は簡単に状況を説明する。

 私が魔導書を託されたこと。

 その魔導書を使えば、エスフェイルを倒せること。

 魔導書を使えるまで、しばらく時間がかかること。

 そして、時間稼ぎの為にバラバラに逃げたこと。

 

「私は、仲間の命を捨て石にしたの。だからカインが死んだことで責められるべきは私」

 

 正確に言えば、私が発案しキールが承認した。アキラ以外の全員が納得済みだ。部隊行動の責任者であるキールの方がこういう時には責任が重く、更に言えばその上位者である『松明の騎士団』総団長ソルダ・アーニスタ卿が責任を持って遺族に対応する、というのが我々のやり方だ。


 だから実を言えば、アキラは私に怒っていい。

 捨て石の中に、私は彼を含めた。しかも何の説明もないまま。

 殴られる程度は当然だし、殺されたってまあ文句は言えないだろう。


 私にはやるべきことがあるから、おとなしく殺されてやる気はない。

 ただそれでも、生きて帰れたら。その時は、彼が望むできるかぎりの事をしようと思う。


 それを今口に出さないのは私の卑劣さだが、お前は死んでもいい、と正直に言って気分を良くする人間はいない。協力を取り消されても困るし、生きて帰れたらありったけ罵ってもらうとしよう。


 今、考えるべきことがあるとしたら、それはカインを殺したのはエスフェイルだということ。

 これだけは絶対にはき違えてはならない。


 カインは騎士として戦い、敵を追い詰めたが、呪術によって敗北した。

 戦って殺された者の悲しみは、怒りに換えて敵にぶつけるものだ。


 仇は討つ。

 エスフェイルを殺し、カインの墓前でそれを報告する。

 それだけが、私達にできる唯一のことだ。

 

「悲しみではなく、怒りを抱くこと。そして怒りは闘志に変えること。怒りや憎しみをそうして使ってやれば、遺された者は感情に溺れること無く戦い続けられる」

 

 説教じみた私の語りを、アキラは神妙な表情で受け止めていた。じみたというか実際に説教である。私達が掲げる神は荒ぶる戦神としての側面を有する。松明の騎士団は、怒りと憎しみを否定しない。それは乗りこなし、制御すべき友なのだから。


 しかし、自分の死亡に際して加害者を転移させ、自分の肉体に同化させるというのは確かに恐るべき呪術だ。類感呪術の一種だろうが、相似の適応範囲が広すぎて万能にすら思える。


 だがそれはあり得ない。

 それが呪術である以上、術者の世界観に適応した論理が必ず存在する。脚だけが無かった、というアキラの報告は、その裏付けになる。

 奴のルールを暴き、確実に存在ごと解体してやる。

 

「ところで、俺と話をする術が使えるのはその本の力なんだよな?」

 

「ええ。簡単に説明するとね、こういうこと」

 

 魔導書は半自律的に術を使用し、利用者のサポートをする外部機器だ。利用するには上位の管理者である私(つまりホストOS)がゲストOSである魔導書をエミュレーションすればいい。


 私の体を動かしてるOS(つまり脳や脊髄、神経を含む肉体の制御系といった物理的実体上で動作する、『私』を管理する命令の記述など)はやや特殊なので、魔導書をまず手動でマウントしてからじゃないと使えない。3600秒も必要なのは、魔導書内部の情報を全て取り込むのに時間がかかっているとかそう言うことではない(でなければ周辺機器に外部化する必要が無い)。


 問題はこの魔導書が違法に製造されていたことに起因する。導入するのにセキュリティが難色を示したのだ。


 我々が使用するセキュリティ『金鎖』は、これ自体が私自身より上位の管理者権限を有している。『金鎖』がネットワーク経由でサーバにアクセスして、より上位の管理者である『金鎖のフラベウファ』が違法製造された魔導書を使用可能かどうか、チェックしているのだ。


 私自身が導入するのに私以外の承認が必要なのは、『アズーリア』というハードウェアにおける『私』という存在は標準ユーザーに過ぎないことと、もし悪質なウィルスなどに感染した場合、組織内のネットワークにばらまかれて組織全体に被害をもたらすことが原因だ。ならスタンドアロンの状態で導入すればいいのではないか。しかしそうすることが出来ない事情がある。


 私は既に『左手』を下位のホストOSとして動作させているのだが、これは自己を複製し続け私を乗っ取ろうとするウィルスのようなものだ。乗っ取られてしまったが最後、私は敵に利用される『ゾンビ』と化す。


 しかし私たち人類にとっては有用なウィルスなので、対症療法的に害をせき止めつつ活用しなければならないというのが現状である。


 人類にとって最重要の機密である『金鎖』はネットワークとの接続を切られれば私と『左手』を道連れに自壊するように設定されている。『左手』の害を食い止め続ける為にはこのプライベートなネットワークとの接続が必須なのだ。ネットワークとの接続を切ってしまえば私はゾンビ化する前に爆散し、今までの全てが水の泡となる。


 だから『金鎖のフラベウファ』がこの魔導書を利用可能にするためのシステム更新作業を行う必要があり、その為の3600秒なのである。

 

「――というわけ。わかった?」

 

「お、おう」

 

 何故か顔がひきつっていた。どうしたんだろう。小さく「そっかーそう言う世界だったかー」と呟いている。どんな世界だと思っていたんだろうか。

 しかしいっぱい喋って喉が渇いた。


 こういうとき、私の口はそれなりに回る。人間と会話するのは得意じゃないのだが、事実を羅列するだけなら気楽なので結構平気なのだ。

 

「いや、うん。セキュリティソフトとの相性が悪い事ってよくあるよね。俺も覚えがあるよ」

 

 納得したように頷くアキラ。そこでふと真剣な顔になって、

 

「ていうか今、わりと聞き逃せないことを言っていたんだけど、アズーリアの管理者権限はアズーリアのものじゃないのか? つまりその社内ネットワーク、じゃなかった、えっと、その『金鎖のフラベウファ』だっけ? それがアドミニストレータなわけ?」

 

「ええ。他のみんなは違うけど、私は寄生異獣を宿しているから、ゾンビ化しないように厳重に管理されてる」

 

「寄生異獣?」

 

「これ」

 

 『左手』を示す。そういえば、彼には教えていなかった。

 

「我々人類の敵、地獄の住人である異獣グロソラリア。その強大な力に対抗する為に、『松明の騎士団』は異獣の細胞を人間に移植して、異獣の力によって異獣を滅ぼすことを思いついた。それが寄生異獣。キール隊には私だけしかいないけど、他にも異獣を移植されたひとは沢山いる」

 

「細胞を移植するだけで力が使えるようになるのか?」

 

「肉体の部位をそのまま生体義肢として使っている人もいる。けど、基本的には感染呪術の応用」

 

 正確には四肢の替わりにする擬態型の他にも、小型の異獣をそのまま再現する使役型、異獣のアストラル体の寄り代となる憑依型があるのだが、今は関係無い。


 彼の失われた左手に視線をやって、

 

「一応言っておく。寄生異獣を左腕の義肢にしようとか思わない方が良い。非常に危険だから」

 

「わ、わかってる」

 

 忠告してみたが、私が言っても説得力が無いだろうか。

 

「あと失礼なこと訊くけど、その左手ってなんかエスフェイルの脚と印象が似てるんだけど、何か関係あったりするのか?」

 

 彼の疑問はもっともだろう。エスフェイルの闇色の、というか闇そのものの脚と、同じように漆黒の闇そのものな私の『左手』には、私も共通するものを感じる。

 

「今のところ不明。ただ私の『左手』は呪術を司るものだから、呪術師であるエスフェイルと近しいのかも」

 

 実際、私にとってもこの左手はわからないことだらけなのだ。

 最初期に発見されたにも関わらず、私以前に適合した者は一人もいなかったという、極めて強力な寄生異獣。

 

「異獣の中でも強力な固体を魔将と呼ぶ。魔将は異獣の統率者で、奴らには迷宮の階層を掌握、支配するほどの力がある。あのエスフェイルは我々が確認した中では十五番目の魔将で、この第五階層の掌握者。私のこの『左手』も魔将級の寄生異獣。同等かそれ以上のポテンシャルを持ってるから、奴にも対抗できる」

 

 その力を完全に引き出せないのは私の未熟さゆえだ。だから魔導書や仲間が必要になる。


 過去最強だった第十二魔将との戦いにより、『松明の騎士団』は甚大な被害を受けた。主力部隊は長期の治療と調整が必要であり、部隊の再編成などもあって迷宮攻略は長く停滞していた。


 私のような新兵がこんな前線まで来ているのはそういった背景もあるが、同時に第一魔将の適合者として、その力を測られているというのが大きい。

 結果で私の有用性を証明しなくては、私は地上でも生き残れない。


 第十五魔将エスフェイルは私が倒す。

 あれだけ強力な個体だ、核を奪って寄生異獣にすれば、さぞ我々の役に立ってくれるだろう。

 そうして私たちは、また一歩勝利へと近付くのだ。

 

 

 

 

『二人目、そして三人目も仕留めたぞ。次は誰だ?』

 

 残り時間が900秒を切った時、エスフェイルの無慈悲な宣告が夜の森に響いた。

 いや、残り時間は四分の一だ。むしろよく三人で済んだと言えるかも知れない。


 黒い棘を投げ放つ呪術を私が解体したことで、エスフェイルの力が大きく削がれていることは間違いない。

 それに加えて、他の皆がうまく逃げているのも有利に働いたのだろう。


 しかしエスフェイルはまだいくつも得体の知れない呪術を隠し持っている。油断することはできない。

 

「くそ、誰がやられたんだ?」

 

 苛ついたようにアキラが言う。私にはその予想が立てられたが、あえてそれは口に出さず、代わりにこう言った。

 

「貴方の憤りや焦りはもっともだけれど、できればここにいて」

 

「エスフェイルが襲ってきたとき、アズーリアを守れるように?」

 

「察しが良くて助かる。いざとなったら私は戦っている貴方を置いて逃げるから、そのつもりでいて」

 

 我ながらひどいことを言っている自覚はあって、うしろめたさに視線を合わせづらい。

 そうした私の心境を知ってか知らずか、彼は無言で頷いた。

 

「でも、魔導書が使えるようになったらどうするんだ? エスフェイルを探しに行くとして、その手段は?」

 

「探さない。待ち構える」

 

 怪訝そうな表情をするアキラに、私は自分の考えを整理する意味も込めて説明した。

 

「準備が終わったら、上に術で狼煙を打ち上げて、そのあとさっきのエスフェイルみたいに広範囲に向かって『心話』で私はここにいる、と叫んで挑発する。それでエスフェイルをおびき出せるし、仲間にも居場所を伝えられる」

 

「そんな露骨な罠、警戒されないか?」

 

「されるだろうけど、エスフェイルは自分が圧倒的に格上だという自負があるから、来る。どのみち私たちを皆殺しにするつもりだろうし、厄介な私に挑発されたら、どんな作戦があってもそれごとねじ伏せようとする」

 

 それともう一つ。視線を異獣と化したカインの死体に向けて心の中で呟く。あのエスフェイルの抜け殻が、何かの役に立つかも知れない。アキラの心情を考えて、口には出さないが。


 それきり言葉が途切れて、沈黙が辺りを包み込んだ。

 私は必要が無ければ喋らないので、誰かといるとこういう瞬間がよく訪れる。私はこういう時間を苦とは思わないのだが、人によっては長い沈黙はストレスになるらしい。


 アキラはというと、意外と言うべきか、沈黙を苦痛とは感じていないようだった。

 静かに目を瞑り、呼吸を整えている。来るべき戦いに備えているのだろう。


 カインと積極的に話していたのは彼の外向的な性格によるものかとも思ったが、あれはむしろ必要に迫られての情報収集に近かったのかも知れない。彼と接したのはわずかな時間だけだが、そんな印象を受けた。


 だしぬけに、違和感を覚える。

 あらゆる事態が、私にとって上手く行き過ぎている気がする。

 

「いくらなんでも、静かすぎる」

 

 私の言葉に、アキラもはっと目を見開いた。カインがエスフェイルと戦っていた時には、木が倒れる音がはっきりと森の中に響いていた。

 他の皆が上手く逃げ隠れできているとしても、何の音もしないのは不自然なのではないか?


 膨れあがる嫌な予感に、たまらず狼の死骸の前に跪く。予定より少し早いが、呪術をかける準備をしておくべきだ。

 背後で、アキラが小さく呟くのが聞こえた

 

「音響処理アプリ、『Doppler』起動」

 

 『心話』でもちょっと意味が分かりづらい。体内に集音器と演算装置でも積んでいるのか?

 疑問に思った直後、彼が私の方を向いて叫んだ。

 

「下だ!」

 

 足元の地面から、漆黒の棘が私の喉元目掛けて伸び上がって来る。

 

 

 

 

 

 聴勁。

 サイバーカラテには皮膚感覚によって接触した相手から力の変化を読むという技術がある(俺の場合なら義肢の人工皮膚や装甲の感覚となる)。


 強化した聴力と音響処理アプリを併用することで、その精度は何倍にも高まる。

 独特な発声によるアクティブソナーと、サイバネ技術をフル活用したパッシブソナー。


 サイバーカラテの聴勁は、五感を研ぎ澄ませることによって周囲に潜む敵の動きを捉えることすら可能なのである。


 音響処理アプリ『Doppler』は本来は脳内音楽用に開発されたものだ。しかし吹奏楽やDTMなどに親しんでいた家族の中で俺一人だけが音楽的素養が無かったせいで、幼少期にインストールしたまま無用の長物と化していた。


 アンインストールしても良かったのだが、『ある事』に使用していたら、聴覚の補助に使うことによって索敵の精度を上げることが出来ることを偶然発見し、それから俺はこのアプリに何度も助けられてきた。


 今回もその世話になりそうだった。

 反響する風、虫、小動物、さまざまなものが発する音が木々に反響して複雑な流れとなって聞こえてくる。


 その中から、『攻撃の意思』だけを抽出して反応する。

 耳と足裏が、間一髪でそれを察知した。

 

「下だ!」

 

 アズーリアの足下から伸びる黒い棘。今から駆けだしても間に合わない。石を拾って投げつける動作は時間がかかりすぎる。

 ゆえに俺は、ただ体重を急速に移動させる事にした。


 胴体を縦方向に四分割するイメージ。続けて、八、十六、三十二まで体を割る。それを横でも、そして時間においても繰り返す。


 細かなマス目の中を力の流れが伝わって行く。分割された時間の隙間にねじ込むようにひたすら速く、そして強く。0,1秒すら永遠に感じる瞬間の中、右脚に全てを集約させる。


 前へではない。

 ただ下へ。大地を踏みしめた。

 アプリによって聴覚を強化している俺にさえ、一切の音が聞こえなかった。運動量のロスを完全に排し、速さと重さだけを足裏に浸透させていく。


 震脚。

 サイバーカラテにおいては、義足の運用を前提に組み立てられている技術体系だが、俺はそれを生身の脚で実践した。運足だけは誰にも負けたくないと決意した小学校四年生の時から毎日、無駄な音が一切しなくなるまで、音響処理アプリまで使用して『無音の震脚』を完成させたのだ。


 脚は腕よりも強い。達人が専用に調整された義足で蹴りを放てば、衝撃波で遠くの物体すら破壊するという。

 生前の俺はその域に、半分は生体の脚で近付きつつあった。


 森の乾いた地面が衝撃に震え、周囲の木々の根が一斉に千切れていく。轟音と共に次々と横倒しになっていく木と、狙いを大きく外してあさっての方向へ飛んでいく黒い棘。


 成功した。

 サイバーカラテ道場が、滅多に出ない「Excellent!!」を表示している。

 さすがに蹴りで遠当てなんて芸当は無理だが、周囲の大地を揺らして割り砕く程度なら環境次第では造作もない。


 そのままの勢いで疾走し、木に押しつぶされる寸前のアズーリアを連れてその場を離脱する。

 

「なんて無茶苦茶な――っていうか、ちょっと、手、腕!」

 

「悪い、少し我慢してくれ」

 

 アズーリアの体を、腹を下にして肩に担ぎ直す。乱暴だが、軽いのとアズーリアに後方を警戒してもらえるのでこれがいいはずだ。


 というか、本当に軽い。小柄なのもあるが、甲冑に重さが全くない。魔法っぽい重さのない金属とかだろうか。

 

「言っておくけれど、速度を上げるために体重を軽くする呪術を使っているだけだから。骨密度も筋肉もちゃんと意識して鍛えてる。私は本来もっと重いから――!」

 

 注意されてしまったが、まあ気持ちは分かる。軽い、とか細い、とか俺も結構言われたが、訓練を怠けてると思われてるみたいでちょっと焦るのだ。


 いや、俺は真っ当な訓練とかは一流の格闘家や軍人に比べると全くしていないのだが。

 

「後ろから二本、まっすぐ!」

 

 アズーリアの声と同時に、俺の耳も風を切って迫り来る攻撃を捉えていた。横に飛んで回避。正面の木に大穴が空くのを見届けて、ジグザグに木々の間を縫って走る。

 

「あの黒い棘、まだ使えたのか?!」

 

「使えないはず! だから似ているだけの別物。最初みたいにれんしゃぎゃっ」

 

 あっ。

 ――走りながら話しかけた俺が悪いのだが、しかし切迫した状況下での質問なのでこれは不可抗力というものだろう。


 何も言わずに待つ。恨みがましい視線を後頭部に感じたが多分気のせいだ。

 

「――最初みたいに連射が、できないはず。推測だけど、あれはエスフェイルの脚そのもの。立ち上がった時、両手を剣みたいにしていたでしょう?」

 

「なるほど。つまり最大でも同時に攻撃できるのは四本までか」

 

 普通に会話が続く。何も起こらなかったので当然である。

 視界の隅にセットしたタイマーを見て、アズーリアに確認を取る。

 

「残り時間、あと700秒だよな?!」

 

「合ってる! それまで持ちそう?!」

 

 若干厳しい。

 が、本心をそのまま口にはしない。その代わり、希望がありそうな意見を口に出す。

 

「このまま一番最初の広場に向かう! 四本程度なら、手で掴み取って投げ返せない事もない!」

 

「嘘?! 最初の時も思ったけど、どんな動体視力と反射神経してるの、貴方?」

 

 単に専用のアプリを使っているのと人工的に肉体を強化されているからなのだが、まあそれは後で説明すればいい。


 上空に飛ばされたときにマッピングアプリと方位計アプリを使って森の全体像を把握しておいたのだ。カインを見付けた時もこれらに『Doppler』を組み合わせて森を移動していたのだ。


 広い場所、視界の良い場所の方が戦いやすい。

 俺一人で、なんとか時間を稼げるだけ稼ぐ。

 走りながら、現在起動中のアプリを確認する。地図や方位計アプリは重くはないのでいいのだが、『サイバーカラテ道場』と『Doppler』はそれなりにメモリを食う。


 そしてこれからエスフェイルと戦うには、『弾道予報』の力が必要になるだろう。

 しかし、俺も無制限にアプリを起動させられるわけではない。やってやれないこともないが、重い。


 並列して四つ以上の動作制御系アプリを起動すると処理が遅くなり、義肢の動きに遅延が生じてしまう為、一つを選んで終了させる必要がある。


 戦闘時に俺が使うのは主に五つ。格闘動作制御アプリ『サイバーカラテ道場』。弾道予測計算アプリ『弾道予報Ver2.0』。遅延動作設定アプリ『残心プリセット』はその性質上、優先度が低いので除外。そして感覚・感情制御アプリ『E-E』。


 そこに、奇襲を仕掛けてくるエスフェイルを察知するのに必須となる『Doppler』を加えると計五つ。どれかを捨てなければならない。

 少し悩む。が、答えは既に出ている。この中に、あきらかに必要のないものがある。


 取捨選択の結果。

 俺が選んだのは、『サイバーカラテ道場』だった。


 こういうとき、心の成長とか精神の強さとかを礼賛するタイプの人間は、感覚・感情制御アプリの使用を停止するのだろう。痛みは耐えればいい、恐怖は克服すればいい、という理屈によって。


 それが物理的に可能で、且つそれに対する継続的な訓練をしているのならそういう選択肢もありなのだろう。 強靱な精神力の持ち主、強い意志によって未来を切り開いていくような人物ならばそうするのだろう。


 だが、それは弱い人間、折れてしまった人間が戦うということを、最初から度外視した思考だ。


 恐怖を、不安を、苦痛を、耐え難いことを耐えられなかった人間は、心の強い人間に蹂躙されるしかない。彼らは勝利の後こう言い放つのだ。心が弱かったためにお前は負けたのだ、と。


 そういう連中の肉体を破壊して、身体が脆かったためにお前は負けたのだ、と言ってやることが、この俺の最大の楽しみである。


 足りない右腕を、俺はツールによって補っている。

 足りない精神力をツールによって補うのは、サイバーカラテの本質に適うことだ。


 これがサイバーカラテというものだ。サイバーカラテ道場を終了させたとしても、俺がその教えを忘れることは絶対に無い。

 ああ、全く。


 この感覚はそう、自転車の乗り方を覚えたあの時。補助輪を外して、自分がちゃんと走れているのか不安になった、あの瞬間にそっくりだ。

 最初の広場に辿り着く。あの手品師の痕跡らしき血痕が飛び散っているが、今は関係無い。


 アズーリアを下ろして、すぐ傍で待機してもらう。

 『サイバーカラテ道場』無しでの実戦は、実は初めてだ。他の格闘支援系アプリを試してみた時は例外だが、結局『サイバーカラテ道場』に戻ってきた。


 狂気じみた博打。

 感情を制御していなければ確実に恐怖に耐えきれずに逃げ出している。

 しかし――身体能力が低下するわけではない。そして、今までの戦闘経験が俺の脳内から消え去ってしまうわけでもない。


 集合知からなる最適な動作――そのパターンを参照できなくなるがゆえに、確実に俺の戦闘能力は低下し、最も合理的な行動からは遠ざかっていく。


 それでも、今までになぞったことのある『型』ならば再現できる。そして俺の肉体にできることならば、理論上は『サイバーカラテ道場』がなくともなぞることが可能だ。


 あくまでも、理論上は。

 本当に上手くいくだろうか。

 だがそれに対する不安や恐怖はなかった。


 情動は完璧に制御されている。座禅無しでゼン・スピリット。誰でも明鏡止水。サイバーカラテの教えは今も俺と共にある。

 実の所、サイバーカラテにおいて最も重要なのは『サイバーカラテ道場』ではなく感覚・感情制御アプリである『E-E』の方なのだ。


 心の『E-E』、技の『サイバーカラテ道場』、体のサイバネ義肢と生体マイクロマシン。

 三つが揃わねば完璧なサイバーカラテは成立しない。

 だが土台となる心が崩れれば他の二つも成り立たぬ。


 ゆえに、俺は冷静に合理的に技を切り捨てる。

 『Doppler』が攻撃の前兆であるかすかな音を捉え、続いて『弾道予報Ver2.0』が作動。俺に向かって複数の赤いラインが伸びる。


 周囲の木陰から一斉に黒い棘。三方向からの同時攻撃は予想通り。

 最後の一本は俺とアズーリアの影が交差する地点からまっすぐにアズーリアへと伸びていく。この攻撃を誘うために、あえて二人の影が重なるように立っていたのだ。


 下から飛び上がってくる黒棘に、すくい上げるような動きで右手を沿え、掴み取る。

 これがエスフェイルの脚だというのなら、生えている無数の棘は体毛が硬質化したものだろう。


 盾や鎧を容易く貫く鋭利な棘だ、おそらく俺の握力では破壊できないほどに硬い。

 ゆえに、それ自体の力を利用する。

 聴勁。棘の中にはたらく力の流れ、筋骨の動きを感じ取る。脚であることを確信した俺は、その流れを『化かして』いく。


 指と手の平、手首の関節の繊細な動きによって力の向きを化かされた黒棘は、勢いはそのままに、三方向から飛来するうちの一本に向けて再度射出される。


 棘と棘が激突。肉と骨がひしゃげる音と、犬のような悲鳴。

 残りの二つの棘を、一本を回避、もう一本を同じように掴み取り、あさっての方向に飛んでいく一本に後ろから投げつける。


 瞬きの間に四本の黒棘を片付けた俺は、油断せず身構える。手傷は負わせたが、これで終わりとも思えない。

 案の定、四本の棘は血を流しながらもゆっくりと中空に浮かび上がり、俺から距離を置いたところで着陸する。

 

『貴様、今のは一体何だ』

 

「人類の英知と親の金の結晶」

 

 口などないエスフェイルだが、『心話』という術は使えるようだ。エスフェイルが初めて俺を認識した瞬間でもあっただろう。

 黒い四本の棘が、俺を警戒してか知らないが小刻みに震える。

 

「まあ実を言えばまぐれだよ。もう一度同じ事をできる自信は無い」


『――嘘だな。貴様は嘘をついている。それは私を誘う罠だろう?』


 引っかからないか。懲りずに同じ事をもう一度試してくれたなら、次はもうちょっと盛大に破壊してやれたのだが。そうそう都合良くはいかない。

 

『癪だが、貴様には本気で当たらせてもらうとしようか。もっとも戦うのは私では無いがね』

 

「上を!」

 

 アズーリアの忠告に、咄嗟に飛び退いてそれを回避する。

 巨大な質量攻撃。巨大な岩のようなものが、まっすぐに落下してきたのだ。


 それじたいが淡い光を放つ、人ひとりがすっぽりと入れそうなほど大きな岩。というかこれは。

 

「月が、落ちてきた?」

 

 空に浮かぶ月が消えていた。いや、月だと思っていたものが、だ。

 縮尺も高度も本来の月のものではなかった。これはエスフェイルが操る『何か』だ。

 

『古来より知性あるものを狂気に駆り立てる魔の象徴、この私とも深い関係を持つ夜天の満月。今までの単調な攻撃と同じだと思わぬことだ』

 

 エスフェイルの言うとおり、目の前の月はなにか得体の知れない感じがする。その大きさを活かして体当たりでも仕掛けてくるかと思ったが、そうでもないらしい。


 そして俺は、エスフェイルという狼の悪辣さを思い出す。

 月から、人の腕が生えてくる。

 甲冑に包まれた腕。槍を、盾を、槌矛を持った腕が。


 見覚えのあるものだった。背後でアズーリアが息をのむ。

 そうだ。エスフェイルがカインにしたことを、どうして他の皆にしていないと思えた?


 そして、およそ50分近い時間を、どうして皆が逃げ切れたなんて信じられた?

 エスフェイルの「まずは一人目」なんて言葉を、馬鹿正直に信じる根拠は何処にあった?


 既に俺とアズーリア以外は全滅していて、それをエスフェイルが黙っているだけという可能性を、なぜ考慮しなかったのか。

 その愚かさのツケを、今になって支払うことになった。


 輝く球形、その全面に、虚ろな目の人面が浮かび上がる。

 キール、テール、トッド、マフス。

 浮遊する小型の月から四人分の顔と腕が生え、節足動物の脚のように蠢いていた。

 

「一応訊いておくけど、彼らを助ける方法は」

 

「ゾンビ化した人類は物理的に破壊するしかない」

 

 殺すしか無い、ということだ。

 直接攻撃がきかないと分かったら精神攻撃とは、なるほどろくでもない。

 動揺や良心の呵責は当然無いが、少しだけ気が重い。短い間だったし、言葉が通じないから、意味の多いやりとりはなかった。ただ共闘したという事実があるだけ。


 いくら感情を制御していても、こういう記憶に由来する気の重さは簡単に消せない。

 だが不思議なことに、カインのことを考えると、ここで矛を収める気にはならなかった。


 右手に重ねられた、黒い左手の感触を思い出す。

 光すら飲み込んでしまいそうな闇をたたえていたにも関わらず、確かな熱を宿していた、あの奇妙な左手が、俺の右手に気力を注ぎ込んでくれているような気がした。


 どうやってあの『月』を殺そうか。

 兜もかぶっていない顔を潰すのは岩を砕くより簡単そうだ。

 拳を構えた俺の横を一陣の風が抜き去っていく。

 テールの盾とアズーリアの槌矛が、轟音を立てて激突する。

 

「これは私の役割。下がっていて!」

 

 胸を打たれて、足が止まる。アズーリアはカインの時もこんなふうにして、ほぼ初対面の俺に対して手をさしのべて――いや、違うか。


 アズーリアは、俺のように感情を抑制しているわけじゃない。

 あんな姿になった四人の仲間を見て、何も感じていないわけがない。

 苦痛と悲しみ、そして怒り。

 

「あああああああっ!!」

 

 アズーリアの中のそうした感情が、一斉に爆発した。

 振り回された鈍器が縦横無尽に空間を制圧し、盾を、槍を、槌矛を打ち払っていく。その小柄さが錯覚であるかのように、野獣めいた激しさで攻め立てる。


 四人を同時に相手にしているに等しいというのに、手数の不足を速度で補っている。

 感情の昂ぶりを力に換えるあのような戦い方はサイバーカラテの理念とは反するが、有効であることは認めざるを得ない。


 ストレスを低減させ、心身を常に一定の状態に保つのがサイバーカラテの方法論だ。しかし生体強化系のバイオカラテなどではアドレナリンの分泌によって痛覚を麻痺させ、興奮状態を維持することで逆に心身を安定させるのだという。


 アズーリアの激昂状態は、まさしくその境地。

 見事と言う他無い。仲間の始末を己の手でつけようというその意思も、筋の通ったものだ。


 俺の出る幕は本来無い。

 だが俺はあえて前へ出た。

 アズーリアの左脇へ突き出された槍の一撃を、右手で打ち払う。


 何故、という視線が向けられるが、構わずに前進、肘による一撃をマフスの脳天に叩き込む。衝撃に『月』の全体が退いていく。

 

「一緒に戦っている時から思っていたんだ。こいつらと戦ってみたいってな。身勝手な理由とは承知だが、参戦させてもらう」

 

「そう、嘘じゃなくて本心なんだ――戦闘狂?」

 

「否定はしない。悪いがこのまま前を頼む」

 

「わかった。エスフェイルの方に気をつけて」

 

 もう何を言っても俺が引き下がらないと判断したのだろう、アズーリアは目の前の敵に集中する。

 俺はそのまま『月』の側面に移動、地を這うように敵下段に向けて右肘を打ち出す。


 腕の防御が薄い箇所を狙ったのだが、異形の『月』の表面を滑って腕の一本が移動する。盾による防御。傷だらけだが、未だに原形をとどめているそれは正確に俺の一撃を跳ね返した。この正確な防御には覚えがある。

 

「テール、お前か」

 

 浮き上がった顔は、最前線で敵の攻撃を防ぎ続けてきた男のもの。

 この守りをどう崩すか、俺は横目でその戦いぶりを見ながら考えてきた。

 左腕があればいくらかやりようがあったのだが、今は無い腕のことを考えても仕方ない。蹴り技を嫌う俺に残されている選択肢は一つ。


 低く踏み込む。右半身を前にしての、馬鹿の一つ覚えじみた肘打ちを繰り出す。

 盾と肘が激突する。


 一般的に盾は防具だと思われている。

 その認識は実際正しい。

 しかし殴打すれば鈍器としても使えるし、受けた武器を弾くことで敵の体勢を崩すことも可能だ。


 防ぐ、弾く、殴る、あるいは押さえ込む。

 そして、それ以外にもう一つ。

 開く。攻撃を外側へ受け流す事で隙を作り出し、反撃へと繋げる動き。


 テールの盾が俺の右腕を外側に押し流し、俺の真正面ががら空きとなる。左腕が無いという明白な弱点。右半身を前に出さざるを得ないということは、その体勢を崩してしまえば一気に不利になるということ。


 完全に予想と違わぬテールの応手に、俺は逆らわず、その力を利用しつつ身体を回転させていく。


 このまま、足技が苦手だと判断している相手の膝裏に蹴りを叩き込んで体勢を崩したり、あるいは前に出て左膝を脇腹にぶち込んでやるのも良いのだが、あいにくこの『月』には脚が無い。蹴りは悪手だ。


 左方から迫るテールの槌矛はカインやアズーリアのものより打撃力に秀でているから、身体のどの部位で受けても致命打となる。

 しかし俺は更に加速し、独楽のような回転運動を行う。ギリギリまで視線を正面に引きつけた後での、超高速の首の反転。振り向く俺の後頭部を槌矛が掠めていく。


 盾の防御と槌矛の反撃を潜り抜けた、肘打ちの二連打。槌矛の攻撃を完全に見切った上で、前に出ることで攻撃と回避を同時に行ったのだ。

 肘の向こうに、頭部を砕かれたテールの残骸がある。


 脳裏を過ぎるいくつかの記憶。

 頼りになる前衛。それでいて、親しい者の死に調子を崩すような、ごく当たり前の弱さを抱えた人間。


 感傷めいた何かは、確かに俺の気を緩ませていたのだろう。

 わずかな気息の乱れを見逃さない、絶妙な一撃。テールの盾に隠れるようにして潜ませていた槍が、無防備な俺の胸を突く。

 

「トッド」

 

 ふっくらとした印象の顔が、月の表面に浮かぶ。空ろな目には、何の意思も表れていない。

 敵の呼吸を読み、それを外した攻撃を行う。味方の時はこの上なく頼りになるが、敵に回したときの厄介さもまた大きい。


 しかし。

 

「なあ、覚えているか」

 

 まともに言葉をかわしたことは無かったが。

 その人となりは、きっと穏やかで善良であったのだと思える。なぜなら、

 

「この胸当ては、あんたにもらったんだ」

 

 トッドには、人狼から奪った胸当てをつけてもらったことがあった。それが今、防具としての役割を果たしていた。


 右腕が閃き、トッドの顔が存在した場所から鮮血が流れていく。

 同時に、アズーリアの方でも決着がついていた。

 槌矛が『月』にめり込み、甲冑を返り血が染めていた。

 

「ごめんね。さよなら」

 

 幼い子供に詫びるかのような哀切を含んだ口調だった。生命力を失ったかのように力を失い、大地に落下する『月』。無数の亀裂が走り、大量の血液を流しながら砕け散った。

 

「墓前には、テールと同じ花を供えます。それでいいんでしたよね」

 

 小さく呟いたアズーリアの内心は、兜に包まれて分からない。

 六人の間には、俺の知らない積み重ねがあったのだろうと想像するだけだ。


 そう、あの六人の中で、今や生き残っているのはアズーリアひとりだけなのだ。

 流れた血の多さを思えば、その心中を想像することは憚られた。

 

『同胞をその手にかけた今、貴様らはどんな気持ちなのだろうなぁ? ん? 苦しいか? 悲しいか? それとも私が憎いのか?』

 

 ことさらに人の神経を逆撫でしようという意図が透けて見える、悪意の込められた言葉。

 四本の黒棘が小さく飛び跳ねながら嘲笑っていた。


 憤りがわき上がるが、寸前で霧散する。

 わかりやすすぎる程に単純な精神攻撃だ。しかし、俺にはもうそれは通用しない。


 カインの死に際の言葉と、アズーリアの囁きが耳の奧でリフレインする。

 ――大丈夫だ。俺は今、ちゃんとこのエスフェイルをぶち殺したいと冷静に考えている。


 挑発だと分かっていて、感情を制御できる俺ですらこれだ。

 アズーリアは俺が待てと言うより遙かに速く飛び出して行く。

 待っていたというようにエスフェイルの四本の棘が牙を剥こうとする。


 しかし。

 

「挑発に、引っかかったと、思ったか?」

 

 その動きが、アズーリアに向いたまま虚空で停止する。

 四つに分かれた光の帯が、それぞれエスフェイルを拘束しているのだ。

 アズーリアの槌矛が、展開している。


 俺は見誤っていた。あれはカインのものとも微妙にその形態が異なる。先端部が花弁のように複雑に広がり、柄が伸張していく。花弁の中央には、空のような青い輝きを放つ瑠璃のような宝石がある。


 そこを基点にして伸びる、四条の光。

 

「私を固有の邪視も呪文も使い魔も持たない、未熟な呪術使いだと侮ったのがお前の敗因だ。私にも、杖の用意くらいはある。たった四回しか使えない杖だが、今ここで四回分使ってお前を捕まえるのに何の支障も無い!」

 

 見事な奇襲だった。エスフェイルはこれで完全に動きを封じられた。

 しかし、と俺は浮き足立つ内心を戒めた。勝利が決まったわけではない。

 残り、100秒。

 それだけの時間、あの四本の黒棘を捕縛し続けることが、アズーリアにできるのか?


 そのことは本人が一番良く分かっているはずだ。

 だんだんと光の帯の輪郭が薄くなっていく。このままだと、術の効力が解けてしまうのではないか?

 同じ事をエスフェイルも考えたのだろう。愉快そうな声音が辺りに響く。

 

『どうやら、時間は私に味方したようだな!』

 

「そういう言葉が出てくるってことは、やっぱり私たちの会話を、あの死んだ抜け殻から聞いていたわけか」

 

「何?」

 

 それは、俺にとっても未知の情報だった。確かに、エスフェイルが魔導書を使えるようになるまでの残り時間を知っているのはおかしい。


 続く言葉を問いただす暇も無く、光の帯が消滅してしまう。

 黒い棘が歓喜に打ち震えるように飛び上がり、射出される。

 

「それで? どうして四回しか使えないという私の言葉を素直に信じた?」

 

『馬鹿な』

 

 しかし、再び杖から伸びた光の帯によってその行く手を阻まれる黒棘たち。

 杖の先に輝く宝石には、未だ翳りすら見られない。

 

「私もお前も呪術使い。言葉を弄して呪文を手繰るのがその本領の筈。私が盗聴を警戒して残り時間を偽るのも、仲間の死に冷静さを欠いてしまう激情家である振りをするのも、杖の使用回数を過少に申告するのも、当然予想してしかるべき。それを怠ったお前は、呪術使いとしては三流以下――いいや、こうやって隠し技に対応し損なうのは二度目だったな。訂正しよう、エスフェイル。お前は『手品師』以下だ」

 

 もしかしたら、とひとつの予想が浮かぶ。

 アズーリアが常に兜を被っているのは、防具としてというのもあるが、その表情を隠し、本心を欺くためなのだろうか。


 そうだとしたらアズーリアは予想以上に、感情と言葉を『操る』側の人間なのかもしれなかった。

 

『おのれ、おのれおのれおのれ狂信者ごときがっ』

 

「さて、私はあと何回杖を使えると思う?」

 

 その言葉に、違和感を覚える。

 というか、残り時間を偽っていたのなら、杖で何度も足止めする必要は無いような。アズーリアの言動が食い違っているような気がしてならない。


 まさか、杖の使用回数以外は全部はったりでただの時間稼ぎか?!

 視界の隅を確認すると、残り45秒。もし杖の使用回数がこれで打ち止めなら、そろそろやばい。

 考える前に走り出す。


 40秒でいい、俺が奴の攻撃を受け流して先へ繋ぐ。

 しかし実際のところ、アズーリアの言葉が本当だったのか嘘だったのか。

 それを確かめる術の無いまま、俺は窮地に立たされる。


 アズーリアではなく、俺がだ。

 がくりと、全身から力が抜ける。前のめりに倒れて、そのまま身動きがとれなくなった。

 

『く、くはははは! そうだ、ようやく効力を発揮したようだな、シナモリ・アキラ!』

 

 哄笑が響き渡る。エスフェイルは、なぜ俺の名を? 会話を盗み聞きしていたから? この森に入ってからフルネームを口にする機会があっただろうか。ずっと前から監視されていたのか?


 疑問はすぐに解消された。

 本人が得意げに真相を話したからだ。

 

『貴様の名前を掌握させて貰った。すでにシナモリ・アキラの命運は我が手の中よ。いや、少し痛めつけたらあっさりと喋ったよ、あの剣士。奴が貴様の名前だけ知っていたのは僥倖であった。月と同化させた四人は精神が破壊されるまで拷問を重ねても何も喋らなかったがね。やはり同じ地上の者でも仲間意識に差はあるのか』

 

 一瞬だれのことか考えて、すぐに例の三人組のリーダー格、巨大な剣を使う青年のことだと納得した。

 そうだ。あの青年には、名前を教えていたのだった。


 責め苦に屈した事を誰が責められるだろう。少なくとも、痛覚を遮断できる俺には彼を責めることなどとてもできない。

 

『お前の名をもらったぞ! さあどう料理してやろうか! おっと、動くなよ呪術使い。そいつの命が惜しいのなら私の拘束を解除して貰うぞ』

 

 一気に逆転した形勢に気を良くして、俺に注意を払うのも忘れている。

 自由になったその身を宙に躍らせると、四つの黒棘が一つに融け合わさり、新たな姿を現していく。


 それは肉塊だった。

 広場の木々に吊り下げられていた死体。今までエスフェイルの犠牲になった人々の肉体が浮き上がり、一カ所に集結していく。黒棘は針となり糸となり、それらを繋ぎあわせる。


 そうして完成した、死体を組み合わせて作られたいびつな人型。

 巨大なフレッシュゴーレムの体長は3メートルほどで、アズーリアの倍以上はあった。その腕が無防備な身体に叩き込まれそうになる寸前、俺の肩からの体当たりがエスフェイルを吹き飛ばした。


 双方から驚愕する気配。

 

『待て、お前、なぜ動ける?! なぜ呪いにかからない?!』

 

 よろよろと体勢を立て直しながら、エスフェイルが叫ぶ。完全に無力化できたと思い込んでいた俺が動き出したことが、心底から不思議だったらしい。

 

『まさか、偽名かっ』

 

「ハンドルネームだよ。俺のもう一つの名前だ」

 

 実際、半分以上は本名として使っている。自分自身も、それから俺を知る人物の大半が俺のことを品森晶/Akira Shinamoriだと認識している。ネット上の俺も、世界の中に位置づけられているという意味で、間違いなく俺なのだ。


 だから正確には奴の呪縛は半分ほど効いていた。体が鉛のように重く、風邪で体調を崩したときのようにだるい。だが、それでも全く動けないというわけじゃない。


 そして。40秒ならもう過ぎていた。

 

「嘘でも本当でも、もう準備は良いだろう! いい加減、決着の着け時だ!」

 

 最後の時間稼ぎの為、残る力を振り絞ってエスフェイルに挑みかかる俺の背後で、アズーリアが黒い装丁の本を手に取ったのがはっきり確信できた。

 

 

 

 

 

 

 対抗呪文。その名は【静謐】。

 あらゆる呪術に対抗する、万能の呪術。


 それはどのような呪術的効果であろうと打ち消すことが可能な秘術。世界に根を下ろした確固たる存在物であっても、過去に遡って発生原因を打ち消せば死を与えることができるという。


 使用回数は五回のみ。現存する唯一の『紀生型異獣』、最古の魔将である『呪祖フィリス』はそれが呪術に関係するものであるならば、どんなものであってもその来歴と構造を解き明かせる――呪術そのものをバラバラに解体してしまうのだ。


 私は、前方でアキラとぶつかり合う肉の巨人を見据え、左手を向けた。

 完全に掌握下におかれた魔導書が、私の呪術使いとしての技量を強制的に引き上げていく。


 今度こそ終わりだ、エスフェイル。

 原初の呪いの理に従い、その構造を詳らかにする。

 

『遡って、エル・ア・フィリス』

 

 完全な名を告げると共に、異獣が活性化する。手首の金鎖、その最後の一つが砕け散った。

 世界の深層に、意識の一部が落下していく。落ちて、落ちて、底に近い暗闇の中で、私はそれを見付けた。


 エスフェイル、闇の脚。その名の本質を掴み取る。

 格上の呪術師が格下の呪術使いに名を明かすということは、呪いを返すことが出来ればという条件付きで威嚇や防御にもなる。あの狼は確かに強大な呪術師だ。しかしその驕りが時に命取りに繋がることを、私が教えてやろう。私は、呪文を構成する最初の起句を口にした。

 

「言理の妖精語りて曰く」

 

 視野が、一気に拡大していく。

 ああ、世界はこんなにも、私に切り分けられたがっている――。


 さあ、神話の獣を零落させよう。

 私の語りで貶めてやろう。

 

「エスフェイルの本体は狼の体ではない。闇の脚という名が示す通り、脚と、そこに繋がった影こそが本体」

 

 私の言葉によって肉巨人の脚が崩れ、体勢を崩す。しかし、崩壊した肉が再び盛り上がり再生していく。

 

「――けれど、それらはわかりやすい記号同士の関係性を表したものに過ぎない。人狼、そして夜の影。それらを生み出す大本、その両方を生み出す原因とも言える、空に浮かぶ満月」

 

 胴体を構成する丸い盛り上がりが弾けて、肉を飛散させる。しかしそれでも完全に動きが止まることは無い。

 

『おのれ、止めろ、私を暴くのは止めろ! 私を殺した者は私に代わって死ぬのだぞ!』

 

「けれど、目に見える光景もまた虚像でしかない。その本性は、あるいは死。死者は夜に起き上がる。狼は家畜や人に死をもたらす。月は死を暴露する。死後、呪術師は人狼になる」

 

 死を支配する者を、ただ殺しては返り討ちにあうだけだろう。

 だから意味を解体し、存在をその死ごと否定する。

 

「けれど、肉体の死、物質的な死が呪術師にとって一体何になるのだろう。それらは、もっともらしい理由を後付けしただけのこじつけの正体、まやかしの本体だ。エスフェイルの本質はそんなところにはない。あるときは狼、あるときは影、あるときは月、あるときは死。千変万化する性質と移り変わる姿。不確かな虚言で幻惑するそのやり口こそが森の王の本質」

 

 自壊していく肉体を強引に動かし、私を阻止しようと動くエスフェイル。

 だがその前に立ちふさがるのは、『鎧の腕』を持つ外世界からの来訪者。

 

「その『紀源』は『幻』。うつろい、不確かで、形のない、そして本当はなにものでもない、それこそがエスフェイル。闇には脚など無い。闇とは無。何も無い場所で、地に足を付けることはできない」

 

 『闇の脚』。その名を掌握することはすなわちこういうことだ。

 呪文は完成した。肉体を呪術で構成、維持しているような高位の呪術師であるからこそ、この対抗呪文は致命的な一撃となる。


 宣告する。

 

『お前は、存在しない』

 

 まやかしを暴くための言葉が放たれるのと共に、重く大地を踏みしめた『鎧の腕』の一撃が魔将の胴体に叩きつけられる。エスフェイルの脚、胴、腕、肩、頭部、肉体のありとあらゆる箇所に亀裂が走り、拉げ、抉れ、砕け、流血し、最後には力を失ってゆっくりと仰向けに倒れた。


 頭部から光を内部に閉じ込めたかのように黒い玉石が姿を現し、呪術的な力によって浮遊して私の手元に辿り着く。

 エスフェイルの核だ。


 左手で握りしめ、軽く力を込める。それだけで石はあっけなく砕けた。

 それはあまりにもあっけない狼王の死であり、私たちの勝利の証明でもあった。


 世界が、砕け散る。

 夜が、森が、大地が、空気が、かすかな虫や小動物の息吹といった一切合切が、幻であったかの如く雲散霧消する。


 気がつけば、私とアキラが立っているのはただ広大な部屋。

 そして、床に積み重なった夥しい数の死体。

 勝利はした。私にとっての目的、その最初の段階も達成された。それなのに、どこか空虚な気持ちだった。


 地上に戻って、合同葬儀に出席しよう。

 今はそれだけしか考えられない。


 自分の思考が、曖昧なまま形にならないことを、もどかしく思う。

 言葉にしてしまえば、この感情も切り分けて整理できるだろうか。

 それに、他にもするべきことはあった。

 

「終わったのか――これで、本当に?」

 

「ええ、お疲れ様。貴方のおかげで奴を倒せた。奴に殺された人々もきっと報われる――皆を代表してお礼を言わせて貰う。本当にありがとう」

 

 死者達の言葉を代弁する資格が私にあるかどうかはともかく、この言葉は、彼にいくらかの救いをもたらしたようだった。


 それならきっと、言う価値はあったのだろう。わずかな後ろめたさから目をそらし、彼に語りかける。

 

「できればすぐにでもここを脱出して地上に向かいたい所だけど、やらなければいけない作業があるから、少しの間待っていて」

 

 物わかり良く頷くアキラ。彼も疲労困憊しているはずだ。手早く済ませて、休ませてあげないと。

 砕けたエスフェイルの核、その欠片を握りしめて、高らかに勝利を叫ぶ。

 

「『松明の騎士団』アズーリア・ヘレゼクシュが、ここに第五階層の掌握を宣言する」

 

 再び、世界が砕け散る。

 今度の崩壊は先程のとは規模が違う。石造りの天井が、壁が、床が粉々に砕けていく。


 遠くで、生き残っていた異獣たちが怨嗟の声を上げ、別の場所で探索を続けていた人々が快哉を叫ぶ。

 この場所にいる二人以外は、それぞれ自分の勢力圏である下と上の階層に強制移動させられたはずだ。


 死者の骸も、全てが地上へ転送されていく。

 しかるべき役目の者が全て回収し、検査の後で埋葬される手はずになっている。

 変化する環境に戸惑い、慌て出すアキラに少し待つように手で示す。崩れた天井に潰される心配はいらない。


 実際、瓦礫が落下してくることは無かった。崩れた天井は幻のごとく消えて無くなり、床も同様に消失していく。しかし、私たちがそのまま落下すると言うことは無い。


 私たち二人は、虚空に静止していた。

 驚きの連続で感覚が麻痺しているといった風なアキラに、私は口で説明するよりも、目で理解して貰った方が速いと判断する。

 

「見て。あれが、私たちが今までいた迷宮」

 

 私の指先が示す方を見て、アキラが今まででもっとも大きな困惑を表す。確かに初めて見る者にとっては異様としか言いようのない光景だろう。

 

「あれは、塔なのか? それとも、槍?」

 

「『世界槍』と私たちは呼んでいる」

 

 広大な空間を縦断する、天地を貫く巨大な槍。それが、無数に林立していた。

 空と太陽に近い天には巨大な円盤が槍に支えられるように浮遊し、光の届かない大地にはいくつもの小型地上太陽が輝き、豊富な水、森林などの資源となる地形が広がっている。

 

「私たちから見て上に円形の天蓋が見えるでしょう? あれが『地上』。私の所属する勢力圏。そして下に見える広大な大地が、『地獄』。今まで私たちが戦ってきた異獣たちの勢力圏」

 

「じゃあ、あの槍は、その二つを繋ぐ通路?」

 

「そう。『世界槍』は内側に広大な空間を折り畳んでいる。外から見た以上に内部は広い。そして、その空間の具体的な広さや構造は、各階層の掌握者がイメージによって決定する。こうやってね」

 

 私が言い終わるのと同時、周囲の風景が移り変わっていく。

 世界を上下に貫く槍の群れは姿を消して、そこに広がるのは一面の青。空の色をした造花が咲き乱れる屋外の庭園。透き通るような青い空、綺麗に整えられた芝生、庭園の区画を迷路のように複雑に区切る生垣がその空間の妖しさを増す。


 生垣は硬質の呪宝石を削りだして造形した造花でできており、迷路を正しく通らずに生垣を乗り越えようとすると、造花が呪力によって不正者を捕らえ、生垣の中に取り込んでしまう。


 愚か者の血を啜って迷路はその呪力と複雑さを増していく。

 侵入者を幻惑する、美しくもおぞましい蒼穹の庭園。


 うん。

 我ながら完璧だ。

 趣味が前面に出すぎている気がするが、どうせ私のような末端構成員の構築した階層など後任がすぐに書き換えてしまうだろう。今のうちに少しくらい趣味に走ってたとしても誰からも文句は出ないはずだ。


 ああ、でも本当に綺麗。

 自分で言うのもなんだけれど、作り手の気品が滲み出るかのような趣味の良さ。上品な美意識がそこかしこからあふれ出るようだ。無味乾燥な石の迷宮とは雲泥の差。


 まあ、こういう鼻持ちならないことは、決して口には出さない。

 庭園の中心、私たちがいる場所は円形の広場になっていて、お茶を楽しむための白塗りのテーブルと椅子が用意されている。

 座りたいのを我慢して、私はアキラに解説を続ける。

 

「さっきまでは私が設定していなかったから第五階層は未定義領域だった。だからどこにもいないはずの私たちが第五階層にいる、という矛盾を解消するために、世界槍の第五階層に相当する高さの外側に固定された。世界槍の内部は物理的には人が通れるような隙間や通路があるわけじゃないから」

 

「五割くらいしかわからないけど、矛盾ってのはそのまんまの意味で通るんだなあ。故事成語の収斂進化か」

 

「まあ、同系統の知性が別々に歴史を重ねていればそういうこともあるでしょう」

 

 私が共通語で口にした語彙の成立過程が、彼の世界で同位置を占める単語と同じであったらしい。

 もっとも私の母国語では矛盾は槍と沼で表現される。が、似たようなものなので黙っておいた。


 彼は周囲を興味深そうに観察しているようだ。

 庭園の美しさに感心しているのだったら、わりと嬉しいかもしれない。

 私も、人並みに褒められたいという欲はあるので。


 自己顕示欲と自制心とがぶつかり合い、どうにか自制心が勝利した時、その場所に第三者の声が響いた。

 

『第五階層は上方勢力に掌握されました。86,400秒以内に階層掌握者の設定、迷宮の再構成、防衛側戦力の配置を行ってください。終了後、防衛戦が開始されます』

 

「審判気取りで、好き勝手に言ってくれる」

 

 睨み付ける。テーブルの上に、いつの間に表れたのか黒と白のまだら模様をした四つ脚の獣が座り込んでいた。


 赤と青の翼を誇示するように広げ、ねじくれた角をつんと突き出す様子は傲岸不遜な性質をよく表現している。

 身構えるアキラに、敵ではないことを説明して警戒を解かせる。

 

「これは翼猫のヲルヲーラといって、戦いの審判役みたいな連中の一匹。猫っていう、貴方と同じく外世界からの来訪者。アキラとは違って鬱陶しい上に厄介な存在だけど」

 

『心外な。私はあなた方の戦いが円滑に進むように管理しているだけです』

 

 私のものより遙かに精度の高い『心話』が、慇懃に告げる。この上から目線の態度が気にくわないのだが、この奇怪な生物はいかなる目的によってか、人類と異獣の戦いに介入し、その審判役となって状況を管理し続けている。


 複数の理由から人類も異獣もこの審判役の介入を容認している。しかし、味方だと思っている者は皆無だ。

 

「とにかく、見ての通り階層の設定は済んでる。ただ防衛戦の為の戦力も下層攻略の為の戦力も足りないから、出入り口はまだ未設定。一度地上に戻って現状の報告をしたいから、私はもうここを出る」

 

 ある理由から、私は直上の第四階層とこの階層とを繋げられない。が、そのへんはぼかした。


 第四階層は、たった今エスフェイルを倒すまで、異獣の侵攻を食い止めるための防衛戦を行っていた筈だ。私を含むキール隊もそこに配置されていたのだが、それを放り出して第五階層の攻略に参加していた、などと聞けば、アキラも私に対する視線を仲間から犯罪者へ向けるそれへと変えるかも知れない。


 事実上の背信者であり軍規違反者でもある私は、エスフェイルを倒したという功績を持ち帰って地上で英雄となり、自らの身を守るしか道が残されていないのだ。


 エスフェイルの残した黒い『呪力核』も、重要な取引材料になる。

 処刑確定級の重罪を犯した自覚はあるが、私たち六人にもそれなりに言い分があり、成果はこうして出している。おそらくあの時、六人で第五階層の攻略を決断しなければ、全員が第四階層で無残な屍を曝し、異獣の侵攻を堰き止められず人類の版図は第三階層まで後退していただろう。


 しかし長いので説明するのはやめた。私達キール隊に起こった様々な出来事を、未だに上手く整理できていなかったのもある。

 結局、生き残ったのは私一人だ。

 

「ちょっと待った、出入り口がないのにどうやって地上に行くんだ? あと、俺はどうすればいい?」

 

 それと、もう一人。置いて行かれる不安に曇る彼を安心させるようにわずかに微笑んで、安心させるように言う(後から表情を作っても兜に遮られて見えないことに気付いた)。

 

「心配しなくても、ちゃんと貴方も連れて行く。今の私は階層掌握者だから、地上直通の転移権限を持っている。要するに念じるだけで地上にたどり着けるということ」

 

「そうか、なら、早速頼む」

 

 頷いて、アキラの手を取ろうとしたその時、邪魔が入った。

 

『お待ちください。階層を無人にすることは規則上望ましくありません。最低一人以上の責任者を滞在させてください』

 

 審判役であるヲルヲーラの淡々とした忠告。苛ついたが、どうにか激発するのを抑えて反論する。

 

「その責任をとれる立場の人間がいないから、一度上に戻って連れてこようとしている。そんなに時間はとらない」

 

『規則は規則ですので。破った場合、上方勢力への罰則が科せられます』

 

「融通の利かないっ!」

 

 アキラを一人だけ地上に戻したとして、地上の言葉を喋れない彼が『心話』無しで状況を正確に説明できるとは思えない。言語解析の設備が本部にあることはあるが、そこまでたどり着けるかどうか。


 やはり私が地上に行かなくてはならない。しかしそうなると、彼を残していかなければならなくなる。

 これまで戦い続けてきてくれた、本来無関係の彼を迷宮内に一人で残していく? そんなのは論外だ。


 端末から地上へ呼びかけることもできるが、その場合この階層の掌握権限を私が保持することは難しくなるだろう。できれば、この階層の掌握者として交渉の席に着きたい。


 掌握者としての立場は、こちらに有利な条件で交渉を進めるための重要な取引材料になるはずだ。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、アキラが察しの良さを発揮してこう言ってきた。

 

「それなら、しばらくの間でいいなら俺がここに残るよ。ただ、なるべく早く迎えに来てくれると助かる」

 

 第一印象は最悪に近かったけれど、今の彼はなんというか、とても感じが良い。

 まあ、単に弱いところを見てしまったので心理的な優位を感じているだけかもしれないけれど。


 ――駄目だ。アキラを前にすると、自分の醜さに直面させられてしまう。

 

「――本当にごめんなさい。今は貴方の厚意に甘えさせて貰います。この感謝は必ず形にして返すから」

 

 また、すぐに会いましょう。

 再会の約束を交わし、独特の手を左右に振る仕草(おそらく別れの挨拶だろう)で送り出してくれたアキラに同様の仕草を返し、私は地上へと転移した。

 

 

 

 しかし。

 私たちの再会は、その後訪れた激流のような運命に引き裂かれ、遠い先の出来事になってしまう。


 この約束が果たされるのは、約31,536,000秒も経過した時のこと。

 夏季と冬季がそれぞれ一度ずつ過ぎゆく間、私はふとした瞬間に、あの奇妙な外世界人を気にかけている自分に気がついては、巨大な未解決のタスクを抱えていることをうしろめたく感じ続けることになる。

 

 

 

「あー、ヲルヲーラさんには、俺の言うことが伝わるんですよね」

 

『その通りです、×××-××××世界の方』

 

 聞き覚えのある番号。

 出身地を正確に言い当てられて、俺は驚いた。親近感が湧く。


 羽根と角の生えた異形の猫だが、よくみれば中々可愛らしいじゃないか。

 期待を込めて尋ねてみる。

 

「ひょっとして、俺の元いた世界のことをご存じなんですか」

 

『個人的な知己が、合衆国におります。私、これでも合衆国の国籍を有しておりまして。尊敬する地球の偉人はエイブラハム・リンカーンです』

 

 後半は流石に何かの冗談だと思ったが、見た目通りのただの猫ではなく、異世界の知性体であるのならそれも無いとは言い切れない。

 しかしそれよりも俺は気になっていた事を尋ねた。

 

「あの、この世界は、やはり地球と交流がある管理世界の一つなんでしょうか」

 

『いいえ』

 

 答えは俺の予想とは異なっていた。だが、ヲルヲーラはこう続けた。

 

「当世界が地球圏の管理下におかれるのか、交戦状態に入るのか、それとも何らかの協定を結び交流を続けるのか、あるいは逆に交流を断ち切るのか――全て、まだ決定していません」

 

 それは、つまり。

 

『二つの世界は一年ほど前に初めてお互いを『発見』しました。両者の関係がどのように推移していくか、それは今後の展開次第、ということになります。が、現在世界を二つに割った戦争状態にある『ここ』に、そのような余裕はありません』

 

 文明規模の巨大な世界同士が接触した場合、様々な事態が懸念される。それは発展であり、災厄であり、戦争であり、従属であり、そして破滅である。


 相手側異世界に統一された意思決定機関が存在しない場合、複数の勢力が地球側に接触し、内部の争いを一層加速させたり誘発させたりと大概ろくな事にならないという。


 場合によっては、地球の別々の大国が複数の勢力に肩入れし、その世界の争いが地球の大国同士の代理戦争にすり替わることもあり得る。


 異世界技術の発展以降、戦争の形態もそれに合わせて微妙な変化を見せているのだ(と、大抵の歴史の教科書に書いてある)。

 

『私たちはまさにそのような事態を危惧しているのです。ゆえに、私たちはこの世界における戦争の早期終結を促し、統一された世界政府の樹立を目指すべく審判役を行っているのです』

 

「そうか、貴方は多世界連合の」

 

『多世界連合、安全保障理事会より任命された調査使節団の代表を務めております。我々の仲間には地球出身の方もおりますよ』

 

 おそらく、合衆国人だろう。

 多世界連合は、つまり世界を国に見立てた時の国連に相当する、複数世界をまたいだ機関だ。


 しかしそうだとすると、小規模な下位レイヤーの異世界をなかば植民地的に転生先として利用している日本人に対して、良い感情は持っていなさそうだなあ。


 異世界転生は合衆国でも盛んだというが、反動も極めて大きいらしい。

 いつだったかハリウッドの巨匠が異世界転生を批判的に描いた大作映画を発表し、それがメガヒットして日本でも公開されたこともあった。反対運動もしきりに行われているという。


 合衆国的正義と多世界連合的な平和への志向、大変結構だと思うが、しかしそれでやることが審判か。

 まあ、そんなスケールの大きい話は俺には一生縁がないだろう。


 それよりも、二つの世界は一年ほど前に初めてお互いを発見したという。

 その事実から、俺の直面した事故について、ある推測が成り立つ。


 通常、異世界転生は死亡後すぐに行われるわけではない。その人が死亡したと確認され、諸々の手続きなどで転生が死亡から一年後になることなどざらだ。


 世界と世界が接触した時の物理的、あるいは情報的な衝撃や混乱によって、俺が本来希望していた異世界に転生できないという事故が発生したのかもしれなかった。


 異世界同士の接触による衝撃とその余波の影響で、俺はこの世界に『誤転生』した可能性が出てきた。

 もっとも、これに関してはちゃんとした調査を行わないとわからない。しかし、それがどれだけ理不尽であっても、説明可能な現象によって今の自分がここにいるのだと判明したことは、俺にそれなりの安心感を与えてくれた。


 こうなると、色々と現状を把握したいという欲望が湧いてくる。俺は猫に向かって質問を重ねていった。

 この世界はどうして上と下に分かれているのか? 何故二つの勢力は争っているのか? それから呪術とはどのような技術体系なのか? 疑問は尽きない。


 が、ヲルヲーラは目を細めてじっと俺を眺め、首を静かに横に振る。

 

『申し訳ありませんが、その質問に答えるのはやめておきましょう。私は第三者からの視点でこの世界を捉えていますが、それ故に主観によるバイアスが貴方の認識を歪める可能性があります』

 

「俺がこの世界の人に話を聞いた場合、それこそ一方的な視点でしか物事を見られないような」

 

『それはそれで正しいのですよ。距離が近い分、そのほうが正確であるとも言えます』

 

 そういうものだろうか、と思ったが、立場上ヲルヲーラが自分の言動に対して慎重になるのは当然ではある。


 この世界については、次にアズーリアと再会したら尋ねるとしよう。

 俺はそうしてアズーリアがまたこの場所を訪れるのを待ちわびた。

 

 だが、いつまで待っても、アズーリアが俺を迎えに来ることは無かった。

 

 

 

 そして。

 

『当階層が上方勢力に掌握されてから86,400秒が経過しました。規定により、防衛戦が開始されます。繰り返します。防衛戦が開始されます。各人員は――いえ』

 

 ヲルヲーラは、疲労と飢えにあえぐ俺を見て、どこか哀れむようにそう言った。

 

『この階層を放棄することを、上方勢力は決定したようです。今から下方勢力がこの階層を掌握するため、貴方を殺害するために襲ってきますが、規則により私は介入できません』

 

「俺は本来無関係なんですが、それでも?」

 

『規則ですので』

 

 問いただす前に、ヲルヲーラの身体がその場から消え失せる。

 立体映像だったのか、それともどこかに移動したのか。

 理解が追いつかないまま、俺は高速で接近する敵の足音を察知して構えを取る。しかし。

 

「消えた――?!」

 

 俺の知覚内から、敵の気配が消失する。

 動かないと死ぬ、ということだけを確信し、直感だけで真後ろへ回し蹴りを繰り出す。


 手応え。腕で受けられた。

 短慮な攻撃が致命的な隙を生んでしまったことを後悔するが、もう遅い。

 相手の姿を視認する間もない。反撃の一撃が俺の全身に激しい衝撃をもたらし、それきり俺の意識は闇に包まれた。

 

 

 

 

 


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