2-13 メクセトの神滅具
トリシューラの部屋に向かう途中、レオとすれ違った。
「おはよう。昨日は相当叱られたみたいだったけど、大丈夫か?」
「えっと、あれは僕が悪いので。お使い用に頂いたお金が浮いたからって、勝手に使ったらだめですよね、やっぱり」
「お金が浮いた? あいつ、そんなに沢山渡したの?」
「いえ。なんだか、僕が行くと皆さん色々おまけしてくれたり、安くしてくれたりするみたいなんです。僕は普通にお買い物してるだけなんですけど」
ふしぎですよねー、と首を捻るレオは殺人的に可愛らしい。
この魔性は既にして一つの価値、ということらしい。天然の値切りスキルとか羨ましいことこの上ない。
「で、こんな朝早くからどこに行くんだ?」
「あ、それがですね。先生から昨日の活動を続けるようにって言われまして」
昨日の活動というのは、例の貧民街での慈善活動のことだろうか。
それをトリシューラに指示された? 彼女の狙いが今ひとつ見えない。
「なんでも、いざという時の布石になり得るからって。あと、僕はこの場所以外にも『足場』を作っておいたほうがいいんだそうです」
足場、ときたか。
その言葉で気付く。何も自らの依って立つ場所を、ひとつきりに限定してしまう必要は無いのだと。
「最初に会った時も、レオは誰かの為に動いていたんだよな」
「はあ。そうなんですか? ごめんなさい、よく覚えて無くって」
でも、とレオは一拍おいて続けた。純粋な瞳はしっかりとこちらを見て、優しげに微笑んでいる。
「アキラさんは確かに僕を助けてくれました。だから、僕も誰かの為にできることがしたいなって思ったんです。もちろん、一番はアキラさんや先生たちのお手伝いをすることですけど」
善意や優しさは、強い意志に支えられている。
美しいひとだと、ただ思った。
半年前にも、こんなふうに綺麗な言葉を紡ぐひとを見たことがある。
全てが色褪せて見えた世界で、錯乱した俺は一条の光を見つけた。いいや、あの時俺は、あの人に見つけてもらったのだ。
それだけを、ずっと忘れなかった。それだけを覚えていたくて、それだけを大事にしたくて。それさえ守る事ができれば、俺はどこにだって行けるのだと。
目の前には、幾つかの道が伸びている。そんなのは錯覚だった。
俺の道は、最初から決まっている。
あの色のない左手を差し伸べられたその時から、ずっと。
あとはその想いを追認するだけ。
「ありがとう、レオ。お陰で気持ちが定まった」
「よくわからないけど、アキラさんの力になれたのなら良かったです」
愛らしい微笑みに、心が軽くなっていく。
そうだ。俺に葛藤は似合わない。
悪いがキロン。強制された決断なんざクソ喰らえだ。
今の俺は、戸籍とかその他諸々が無いアウトローだ。あるのは第五階層の住人に与えられる創造能力ひとつ。いわば【生ける死体】で【人狼】の人間未満。引っ越し、就労、その他様々な権利が、【上】に行けば保証されるかもしれない。
「ま、大した事じゃないだろ」
「本当にいいの? そんな適当で」
「地上での安定とやらに心惹かれないわけじゃないが――もう少し面白そうな奴を見つけたからな」
「ふぅん」
俺の気のせいでなければ、気のない風に相槌を打つトリシューラは少しだけ嬉しそうだった。
そんな彼女の本日の服装は、飾り気のない黒いブラウスにアイボリーのロングスカートというシンプルなものだった。編み上げのブーツが「らしい」感じだったが、全体的におとなしめだ。
トリシューラの服装センスはよくわからない。どういう傾向なんだこれ。その日の気分で適当?
「アキラくんの、私を着せ替え人形にしたいっていう無意識の欲求に応えてるだけだよ?」
「そんな馬鹿な」
愕然と震える俺を無視して、トリシューラは椅子から立ち上がってつかつかと歩いていく。
例によってトリシューラの執務室(的な部屋)である。
窓際で「ぴっ」と口でリモコン操作をすると、ブラインドサッシが光量を自動調整していく。
光が強まる。眩しさに眼を細めると、明るさの中で魔女が微笑んでいた。
「ねえ、本当は私がセスカより弱くて、勝ち目が薄そうだからこっちについてくれたんでしょう? 私が負けても死なないように。私を守るために」
おいよせ、言い方ソフトなだけで、俺がすごい上から目線で感じ悪い人みたいだろそれ。
――まあ、思考を覗ける奴を相手に取り繕っても仕方ない。断じて口に出したりはしないが。
「考えすぎだ。下らない事を言うな」
「はあ。まあいいけど。それでも、ひとつだけ聞かせて。もし私が勝ったら、アキラくんはセスカをどうするの?」
「俺はトリシューラの物だ。道具は使い手の意思を最優先する。お前の為すべき事、為し遂げたい事を全て代行してやる。いいか、お前の望む全てをだ」
たとえそれらの望みが、お互いに相反するものであったとしても。
トリシューラは、俺の意思を精確に察して、もう何度目になるかも分からない溜息を吐いた。
俺の方からはトリシューラの意思を精確に読み取ることはできない。それでも、信じられる事はあった。
トリシューラは、勝利を強く望んでいる。
そして同じくらい、コルセスカの生存を望んでいる筈なのだ。
きっとそれは、あちらも同じ事なのだと思う。
「私の望みかあ。そうだね、私は、セスカを」
その先を口に出そうとして、トリシューラは途中で失敗したように音を掠れさせた。消えていった音がどのようなものだったのか、もう本人にしか分からないだろう。だが俺はそこにトリシューラの本心があるのだと確信していた。下らない内心の忖度。予断や勘繰りでしかないのかもしれない。
それでも、トリシューラは敵手であるコルセスカを、愛称で呼ぶのだ。
トリシューラは諦めたように目を伏せて、新たな問いを口に出した。
「勝敗ははっきりさせるけど、生きるか死ぬかの勝負にはさせないってこと? 土台からひっくり返すようなこと思いつくよね」
「押しつけられた選択肢なんざ糞だろ。それが生き死にの問題なら猶更だ。それに」
「それに?」
「どうせ勝つなら、完璧に勝ちたいだろ。勝負事ってのは負ける奴がいないと成立しないし、優越感ってのは負けて悔しがる奴がいないと味わえないんだからな」
「アキラくん性格悪っ」
「お前もだろーが」
棘を含ませた罵声を浴びせ合って、お互いに距離を取り直す。このくらいの間合いが一番心地良い。この魔女は油断ならないが、それゆえに遠慮のないやり取りが気安くできるような気がした。
「それでキロンの方だけど。馬鹿正直に私の味方になるって言って、そのまま殺されるの?」
「まさか」
「なら、このまま知らない振りする? 逃げ回っていればなんとかなるのかな」
「そんな筈ないだろ。アイツは元々トリシューラを追ってきているんだ。俺がどんな道を選んだって必ずトリシューラを付け狙い続けるだろう」
だとすれば、トリシューラを守るためにするべきことは一つだ。
「トリシューラの力になると言っても、実際にそうなれるかどうかはまだわからないわけだろ? その前にテストをするのもいいんじゃないかと思う」
「テスト?」
「ああ。この局面を乗り切って、無事にトリシューラに降りかかる火の粉を払えたら合格、晴れてトリシューラの使い魔に、ってわけだ。つまり――」
聖騎士キロンは、俺が倒す。
はっきりと、自らの決意を打ち明けた俺に、トリシューラは一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに駄目だよ、と否定の言葉を返した。
「あのね、アキラくん。気持ちは嬉しいけど、それは無謀っていうか」
「知ってる。検索したからな」
「ならどうして? アイツは、アキラくんとは最悪の相性なんだよ?」
「別に死を覚悟して戦うとか負けると分かっていても戦わなくちゃならない時があるとか、そういうことを言うつもりは無い。とっておきの対抗策を考えてきた。安心しておけ」
我に秘策あり、とばかりに俺は不敵に笑う。
トリシューラはしばらく沈黙して、やがて一言。
「キモい」
酷い。あんまりだ。こんな扱いは許されざるだろう。
傷ついた心が自然と癒しを求め、いつしか俺はその場所に辿り着いていた。
「あら、お客様。よくお会いしますね」
「こんにちは。奇遇ですね」
(なんか、どこにでもいるよねこの人。っていうか傷ついたとか嘘ついてもわかるんだからね。シューラが何言っても全然心が動いてないクセに)
俺が居て欲しいと思った時に常に現れて荒んだ心を癒してくれる、まさに女神のような人である。
いつもは階層の中心近い場所でバイトしてたように思うのだが、本日の彼女はキロンとの待ち合わせの場所にほど近い場所で露天を開いていた。この辺治安あまり良くないけど大丈夫だろうか。
「今日のこの時間はクレープ屋さんのお仕事なんです。お客様はよくお会いしますから、買って下さったらちょっとおまけしちゃいますよ」
なにそれ超うれしい。
クレープというのがまた女子感に溢れていて可愛らしい。まさに天女である。
ちびシューラが死ねとかはよ行けとか言っているが無視。待ち合わせた時間にはまだ少しあるし、軽く腹ごしらえしても問題は無いだろう。
当然のことであるが、この世界のクレープとは日本で発達したクレープ文化とは来歴が異なる。クレープと訳されているクレープに相当するそれは、主に鶏肉やハム、チーズや野菜、穀類にトマトソースなどをかけた軽食であり、元となったフランスで食べられているクレープに近い。
――はずなのだが、円形のプレートで焼き上がった生地に包まれているのは、生クリームやフルーツなどがふんだんに使われた甘味だった。
少し驚いて、店員さんを見る。
不思議そうに細い小首を傾げている。可愛い。
「何か、至らぬ点がございましたか?」
「いいえ、全てにおいて完璧です。店員さんの仕事に文句をつけられるような人間などこの世に存在しません」
(アキラくんもう本当にキモい)
まあいいか。単に自然発生しただけだろう。発想が一カ所からしか生まれないというわけでもないだろうし、世界が独自に発展していれば似たような文化は遅かれ早かれ必ず誕生するはずだ。
糖分を補給しながら、第五階層の街並みを眺める。
店員さんだけではない。この空間には多様な人種が集い、懸命にその日の糧を得ようと足掻いている。
俺はずっと暴力だけを頼みにしてこの階層の薄暗い面しか見てこなかった。
だが、こうして普通に日々の労働をしている人々もいるのだ。
【公社】にだって後ろ暗い方面とは無関係に、純粋にインフラ関係の仕事に打ち込んでいる人々は居るはずなのだ。
慈悲の心のままに他者に働きかけようとするレオや、寸暇を惜しんで労働に励む店員さんのような懸命に生きようとする人間がいる。
それだけで、この場所で生きてもいいかと思えてくるから不思議なものだ。
(想像力が身近な相手限定なんだね)
仕方ねえだろそれくらいしか知り合いがいねーんだよ。
まあ、これが終わったらそれも少しずつ改善していけばいいだろう。
この場所に足場を定めれば、それはきっとできるはずだ。
「――ごちそうさま。それじゃあ、俺はこれで」
「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしていますね」
微笑む店員さんの表情を目に焼き付けながら、俺はこの場所へ再び帰ってくることを胸に誓うのだった。
(何か釈然としないんだけど!)
人がせっかく決意を新たにしたというのに、この二頭身バーチャル魔女は何が不満だというのだろう。
不思議で仕方が無い。
待ち人を見つけた時、その場所にいたのは彼一人きりではなかった。
キロンの背後に控えるようにして、五つの人影。
背丈はかなり低い。兜を後ろに跳ね上げているおかげでその容姿が露わになっているが、とんでもない美しさだった。いずれも煌めくような紅顔の美少年で、唇をきりりと引き結んで、俺を劇物か何かのようにして睨み付けている。
(データに無いけど、多分キロン隊の構成員だと思う。――どうする、一旦退いて作戦練り直す?)
もう目の前まできてそれは無理だろう。基本的なプランはそのままでいいはずだ、と考えつつ、俺はキロンに声をかける。
「悪いな、少し待たせたか」
「いいや。それより答えを聞こうか。シナモリ・アキラ、君は俺と共に来るつもりはあるか?」
問いに、俺は一拍を置いて答えた。
「ああ。俺は【松明の騎士団】に身を寄せる事に決めた。やっぱり、恩人と――アズーリアと敵対なんて俺にはできない。それに、こんな危険極まりない場所で生活するのもいい加減しんどかったしな」
蓄積した疲労、孤独、不安感、そういった諸々を心底から吐き出すようにして、俺はそう告げた。
それはようやく現れた救い手に縋り付くような、ある意味では情けない答えなのかもしれない。
しかしキロンはそれを聞いて、明らかにほっとしたように息を吐く。
「そうか。――そうか! 安心したよ、アキラ。君は俺を信じてくれるのだな。よしわかった、君が決意してくれたのならば、俺は必ず君を守り抜くと約束――」
「お待ち下さい、お兄様」
こちらに歩み寄り、手を差し伸べようとしていたキロンの脚が、その言葉で停止する。
硬直した彫刻の美貌が、ゆっくりと背後を振り向く。
涼やかな声を上げたのは、背後に控えていた少年達の一人。
こちらの内心を見透かすように、透明な瞳で虚実を暴き立てる。
「策略です。その方は嘘を吐いています」
凍り付いた時間の中で、キロンがふたたびこちらに視線を向ける。
信頼できる仲間の言葉を、自らの中で咀嚼した表情だった。
あ、駄目だこれは。
【E-E】と【七色表情筋トレーニング】を同期させての完璧な演技も、呪術による読心術までは誤魔化せなかったということらしい。【サイバーカラテ道場】と【Doppler】を即座に起動したことによって【七色表情筋トレーニング】が自動終了。戦闘態勢に移行する。
(読心術とかはシューラがシャットアウトしてるから多分違うよ! 多分霊感系、ううん、あれは託宣――? あんなのデータには無かったのに!)
あ、データ偏重過ぎて想定外の事態に弱い人だ。
まあ失敗したものは仕方が無い。第二プランで行こう。
(アキラくんが悪いんだからー! シューラは失敗するからやめようって言ったのにー!)
準備はできるから理論上は可能とも言ったけどな。
一度はキロンに下った振りをして、共にトリシューラと戦い、その中で俺もトリシューラも両方死んだ事にするという完璧な作戦はこれで白紙になってしまったわけだ。
(穴だらけだよ! 確かにシューラなら偽装死体くらい作れるけど!)
なにせ呪術医である。部屋にあった大量の人体部位からも分かるとおり、巡槍船には生体部品の備蓄があるのだという。何に使うのかはまあ、想像がつくのであえて訊ねなかったが。
兎にも角にも、こうなれば正面から戦う他は無い。
最悪の展開だが、どこかでこうなる気はしていたのだ。
戦意を漲らせる俺だが、キロンの方の様子が何かおかしい。
こちら側の敵意を見破り、攻撃を仕掛けてくるかと思いきや、わずかな逡巡が見られる。
まるで、未だに事実を認められず、こちらを信じようとしているかのような。
「アキラ、俺はただ」
キロンが、何かを伝えようとしたその瞬間だった。
それは、久しく感じていなかった、足裏から響く振動。
はじめは小さく、やがては激しく、縦にガタガタと揺れ動くその現象は、この世界に来て初めて体験する地震だった。
(嘘でしょっ、第五階層で地震なんてっ)
階層を事実上掌握している魔女ですら想定外の状況らしい。
そして、事態はそれだけに留まらない。
街路が鳴動し始める。床面からせり上がってくるのは、無数の障壁だ。更に周囲に乱立していた建造物が全て光の粒子となって消滅し、同じような壁となって再構成されていく。建物の中から追い出された人々や道路を歩いていた人々が困惑の声を上げながら周囲を見回していた。
(何これ――信じられない、階層そのものを、局所的にとはいえ改変してるの? そんな、私の支配を上書きしての【迷宮化】なんて!)
不規則に、迂遠に、猥雑に、困難に。無軌道に組み合わさった壁によって形成されるのは、まさしく【迷宮】である。
それは、【世界槍】にとってのあるべき姿であったのかもしれない。
であれば、この光景を作り出した何者かは、第五階層の簒奪者たるトリシューラからあるべき迷宮の姿を取り戻したということになるのだろう。
「状況としては、最初にカーインとかに襲撃された時と同じだが――」
スケールが違いすぎる。これには人目を遮るためとかではなく、もっと攻撃的な意思を感じる。
俺の思考が正解だったのかどうかは定かでないが、曲がりくねった通路の奧から、大挙して黒い影が到来する。
皺の多い矮躯。爛々と光る眼に憎悪を湛えて、仇敵を引き裂かんと唸り声を上げる大集団。
【悪鬼】たちだった。よりにもよってこんな時に。
いや、こんな時だからこそ、なのか?
異獣である悪鬼たちは【下】に属するが、場合によっては【上】と組むこともある。それを、俺は先日の戦闘で身をもって理解させられていた。
「やっぱ最初からこういう手筈か」
対峙していたキロンに鋭く視線を向けて言い放つ。あまり人の事を言えた立場ではないが、結局の所どちらも相手の事など信用していなかったというわけだ。
「誤解だ。俺は君を罠にかけるような真似は――」
銃声が鳴り響く。
街中に待機させていた自走機銃がキロンへと攻撃を仕掛けているのだ。
普段は掃除用機械や監視カメラに偽装しているトリシューラ謹製の呪具達は、四脚で銃身部分を持ち上げて、次々と銃弾を送り込んでいく。
漆黒の異獣が次々と血飛沫を上げて薙ぎ払われる。
一方で、キロンの方はその前に進み出た少年の一人が防御することによって傷一つ無いままだった。少年がかざした手の先に、何か不可視の障壁のようなものが生み出されているようだった。
とりあえずは、先制攻撃が上手く行ったのは悪鬼だけか。確かに俺を執拗に付け狙うあちらを先に片付けた方がいいのだろう。いい判断だった。
(違う! これシューラが指示したんじゃないよ! コントロールを乗っ取られてる!)
「は?」
自走機銃がこちらを向く。
【サイバーカラテ道場】のアラートが鳴り響くよりも速く疾走。全力の回避が辛うじて間に合い、俺の背後を追いかけてくる銃弾の雨。
入り組んだ迷宮の壁面に駆け込んで射線から逃れるが、息を吐く暇も無く次なる脅威が迫る。
「ア~キ~ラァ~」
旋回する打撃力がジェット噴射で加速されてこちらの頭部へと叩き込まれる。
右腕で受けようとするが、衝撃が強烈すぎる。ぎりぎりで受け流して後退。
狂喜しながら旋棍を両手に構えるのは見覚えのある黒服の女。
「アニス! この破壊狂がっ」
「酷い言い草だ。私はこんなにもお前に焦がれているというのに」
恍惚とした表情で、俺の右腕に視線を送る【公社】最悪の四姉妹、その四女が殺意を露わにする。
半年間で何度か共闘したおかげで、人間を壊すことでしか発情できないイカレた女だと知ってはいたのだが、その対象にされると流石にぞっとする。
最悪な事態は続く。
床面を叩く鞭の快音。それに追従するように、くぐもった唸り声と複数の重々しい足音が近付いてくる。
「さあ豚共、ご褒美の時間だっ! あの男を、無茶苦茶にしてやりなっ」
しなる鞭を手に持ち、露出度の高い派手なドレスに身を包んでいるのは、【公社】が経営する娼館の主でロドウィの三女、名前は確かローズマリーとかいったはずだ。以前何度か娼館の用心棒をやった時に顔を合わせた事がある。
鞭でけしかけられているのは、その仕事の時にも見た娼館付きの用心棒達。その数は十数名にも上る。屈強な肉体を全て露わにし、頭部をラバーマスクで覆い隠してボールギャグを口に咥えているという変態的な格好だ。
複数の脅威に挟まれた俺は一瞬対応に迷う。
だが、【Doppler】が微かな音を捉えたことにより【サイバーカラテ道場】が頭上への応戦を迫る。
頭上に構えた右腕に、凄まじい加重。
ここが崖であれば、岩盤の落石かと思っていただろう。それほどまでに重い一撃。
上空から奇襲してきた敵手は身軽にも空中で一回転し、俺から数歩離れた間合いに着地する。
白い少女だった。
フリルがふんだんに用いられた華やかな衣服。大きな鍔が広がる帽子も白なら、パニエで膨らんだスカートも、そこから伸びる脚を包むタイツもまた白。
流れる髪の色素は薄く、輝くような金の色。
冷ややかな瞳が、凄絶な圧力を伴ってこちらを見据えている。
無言のまま、再度の交錯。
相手の身長は俺の腹部のあたりまでしかない。この体格差を生かさない理由は無い。一切の躊躇無しに頭部へと全力の蹴りを浴びせる。
殺す気で仕掛けた。
だというのに、左足は完璧に止められていた。
自分に数倍する質量の岩石を蹴りつけたかのような錯覚。
地を割り砕く威力の蹴りをまともに側頭部に受けて、白い少女は微動だにしていなかった。
ぞっと、鳥肌が立つ。コイツは別格だ。
確信と共に脚を引き、右からの掌底。【サイバーカラテ道場】が「good」を叫ぶ、会心の一撃。
しかし。
「訊くがお前、馬鹿なのか?」
衝撃。
細い、あまりに小さな繊手が、俺の腹部に突き刺さる。
「がっ」
咄嗟に後ろに跳んで衝撃を軽減する。正面から受けて耐えるという選択肢は、直感的に避けていた。
そうでなくても信じがたいほどの打撃力。俺の身体はそのまま宙に浮き、床を転がっていく。
「打撃など無意味だ。誰も、私の世界を傷つける事はできない」
傲岸に、少女が宣告する。
受け身を取りながら腰の収納に手を伸ばす。トポロジー的に圧縮された空間から投げナイフを指先で抜き取り、投擲。鋭利な刃が回転しながら少女の最も脆いと思われる急所に吸い込まれていく。
硬質の音を響かせて、破壊がもたらされる。
俺は愕然と、砕け散った刃を見た。
眼球に命中した刃が砕けるだと?
「馬鹿が。そこは私の最も強固な部位だ」
(最悪っ! このコ、セスカと同じ邪視者だっ)
コルセスカと同じタイプの呪術師。
聞いただけで嫌になる情報だが、ということはもしかして、見ただけで何かの呪術にかけられるとかそういうことがあったりする?
「宣名によりて我が世界の枷を解き放つ――我が魔名はアルテミシア。まことの名を【フレウテリス】。呪祖レストロオセの呼び声を聴き、現世全てに災いを運ぶ者なり」
名乗りと呪文の詠唱。
トリシューラとコルセスカの時のことを思い出し、即座にやばいと思ったが、射線から逃れられそうな通路の先にはアニスやローズマリーの部下、悪鬼たちが立ちはだかっている。
絶体絶命の状況を覆したのは、風のように俺の目の前に立ち塞がった一人の男だった。
「カーイン?」
「何をしている、さっさと逃げろっ!」
いや、何でこの男がここに?
というか俺に味方する理由がわからない。
「邪魔を――」
白い少女、アルテミシアの前に立ちはだかったカーインは俺に向けられるはずだった視線を遮りながら、躊躇無く貫手を繰り出す。
奴の事情はともかく、この隙に包囲された状況から抜け出さなくては。
横合いから迫るアニスの打撃を左右に身体を揺らして回避しつつ、巨体から生み出されるパワーを両拳に乗せて振り下ろしてくるローズマリーの部下の攻撃を右腕で受ける。
(アキラくん、伏せてっ)
銃声が鳴り響き、全裸の巨漢たちが血飛沫を上げて倒れ伏していく。
上空から、巨大な質量が降ってくる。
アニスの真上に飛来したトリシューラの強化外骨格が、黒と赤の胴体を輝かせながら救援に訪れる。
脚部からスラスタを噴射させながら着地、銃弾をばらまいていく。
カード型の端末を取り出して、そのうち四枚から呪符の効果を引き出す。一枚につき一度の使い切り呪術で再使用の為には再ダウンロードが必要になるが、使い勝手は紙の呪符よりもずっと良い。
空中に制止した四枚のカードからアニスに向けて、立て続けに閃光と爆風が放たれる。
咄嗟に両手の旋棍で防御を行うが、衝撃と熱を殺しきる事はできないはずだ。
俺は即座に反転して走り出す。トリシューラが銃撃を停止し、腰から赤熱するナイフを引き抜いて突進。斬殺されていく巨漢たちを回避しつつ、奧のローズマリーに接近していく。俺の動きを察知して、すかさず手に持った鞭でこちらを打ち据えようとする。
「受けてごらんなさい、私の愛を。病みつきになるわよ」
蠱惑的な声から、いい知れないほどの淫蕩さが醸し出される。リビドーを直接かき立てるような凄まじく艶美な声質、そして芳醇な芳香が辺りに漂う。特定周波数の音声を発する魅了呪術だとちびシューラが看破し、続いて生体強化された嗅覚が大気分子に異常な化学物質を検知。恐らく体臭に含まれるフェロモンが呪術的な洗脳効果を発揮しているものと思われる。既にローズマリーの手にする鞭で躾けられたいという欲求が湧き上がっている。一度でも鞭が俺の肉体を掠めれば、即座に従順な奴隷と化してしまうだろう。
聴覚をミュートにしてもいいが、それだと【Doppler】で風を切ってしなる鞭の起動予測を行うことが難しくなる。であれば、やることは一つだ。
「さあおいで、可愛がってあげる!」
「せっかくの美人のお誘いだが」
鞭と男たちの連係攻撃を裁きつつ、最適な攻め時を探し出す。敵集団の連撃の隙間、呼吸の間隙を【Doppler】が探り当てた。
「今の俺に、性的な誘惑は効かない」
目の前の女性を【魅力的だ】と感じる脳のはたらきと、実体として存在する【魅力的な肢体】という五感から入力された情報を結びつけて認識することができない。
【E-E】が感情を分離したことで、相手の客観的な魅力や価値といったものが自分とは関係の無い事のように感じられる。今の俺はあらゆる魅力的な存在を魅力的だと認識できるのだが、それは違う生き物――例えば【魅力的な猿】を見るような感覚に近い。
【サイバーカラテ道場】が腕の動きから鞭の起動を読み切って最適な回避パターンを提示。すぐ傍に護衛として残っていた巨漢の首を右腕で砕きつつ、体幹の動きによって左の簡易義肢を駆動させる。
ものをひっかけるくらいの動作しかできないが、今はそれだけで充分だった。カード型端末が起動し、ローズマリーの眼前で呪術が発動。オレンジ色の火炎が炸裂し、その顔が燃え上がる。
「ああああっ! 顔が、私の顔がぁっ」
絶叫するローズマリー。首を右の貫手で突いて黙らせた。
同時にトリシューラが最後の一人となった巨漢の首を切断する。
いつのまにか、仮想の視界内部でちびシューラが以前見たことのある流体の少女を打ち負かしていた。
(そう何度も不覚はとらないよっ)
「よしっ、これで自動機銃のコントロールが戻るはず!」
強化外骨格の頭部にあるスピーカーから勝ち誇る声が響く。
迷路の奧から走ってくる四脚が、こちらに向けて銃弾をばらまく。
「おいトリシューラてめえ何しやがるっ!」
「ちがっ、アレは私じゃないよっ」
「ならちびシューラてめえ何してやがる、コントロール戻ってねえぞっ!」
(あれー?)
おかしいな別の言語魔術師がいるのかなあ、などと惚けたことをいいながら首を傾げるちびシューラ。
強化外骨格を遮蔽物にして射線から逃れるが、このポンコツいい加減にしろよ。
(ポ、ポンコツって言った! 撤回! 撤回して!)
「して欲しかったらこの状況なんとかしてくれっ!」
「あーもう、自分で作った物を壊すのって気分悪い!」
今度はトリシューラが物理的な銃撃で自動機銃を破壊していく。
しかし妙に引っかかる。自動機銃を乗っ取ったのが先程ちびシューラが倒した流体の少女ではないのなら、一体誰がそれを行ったのだろうか。
俺達にはそういうことができそうな人物に、一人心当たりがあった。
(あーもうセスカは敵なのか味方なのかはっきりしてほしい!)
同感だが、お前この前は基本的に敵とか言ってなかったか?
いずれにせよ、こうも混乱した状況では事実を確かめる余裕など無い。
敵はこちらの都合などまるで考慮してくれないのだ。
今だってほら。
「壊れろぉぉっ!」
ジェット噴射で旋棍を加速させて、衝撃と閃光のダメージから回復したアニスが襲いかかってくる。黒服には耐火加工でもしてあるのか、あれだけの猛火を浴びて焼け焦げた様子ひとつ無い。
回転する暴力が向かう先は俺ではなく、トリシューラの人狼型強化外骨格だった。
「何それ何それ何それ! 硬そう、強そう、すっごい壊し甲斐がありそうな強度! 楽しい楽しい楽しい、ねえそれ私に砕かせてよお願いだからっ」
異常とも言える破壊への執着。俺への興味はどうやらトリシューラの方に移ったようだ。もの凄い勢いで引いているちびシューラを見ながら、俺は呟く。
「な? 別に好かれても嬉しくないだろ?」
(アキラくんウルサイ!)
俺は目の前の相手しか見ていない隙だらけの横顔に右腕を叩き込む。続いてトリシューラが腹部から胸部にかけてまんべんなく銃弾を浴びせると、流石にアニスは動かなくなる。
「アキラくん、あの邪視者はほっといて、一旦この場所から離れよう!」
賛成だった。一度状況を整理して、体勢を立て直さないことにはやっていられない。
悪鬼や自動機銃と戦っているキロン、アルテミシアと交戦しているであろうカーインはここから離れていったのか、今は姿が見えない。
トリシューラの先導に従って進む。途中数体の悪鬼を倒しながら進むと、混乱した第五階層の状況が明らかになっていく。
どうやら、大量の悪鬼があちらこちらで暴れているらしい。
俺を付け狙うだけならばともかく、無関係の住人にまで襲撃を仕掛け、あちこちで戦闘が起きていた。
ほとんどの住人は探索者であり戦闘能力を有しているから、悪鬼程度の雑魚異獣ならどうとでも対処できるのだが、中には例外もいる。
全体としては少数だが、決して無視できない数の弱者。非戦闘員。
「レオ!」
名を呼ぶと、不安げに曇っていた表情がぱっと華やぐ。
レオは一人の少女に寄り添っていた。背中から蝶の翅を生やしていること、服装から娼婦ではないかと思われた。体調を崩しているのだろうか。片方の手で大きな熊のぬいぐるみを綿がはみ出るほどにきつく抱きしめ、もう片方の手で頭痛を堪えるように頭を押さえてうずくまっている。
「怪我は?」
「僕は大丈夫ですけど、この人たちを放っておけなくて」
少年の周囲に、昆虫系の種族や植物系の種族、障害のある者や娼婦、物乞いといった者達が集まっていた。
すぐには動けない者も少なからずいるようだ。文字通り根を張っている者すらいる。
仕方無い、とカード型端末の中から実用系のものを全て抜き取ってレオに押しつける。手元に残しておくのは最低限必要な通話用の端末だけになるが、仕方無い。
「これで自分の身を守れ。あとトリシューラ、この場所でレオを守ってくれ」
「はあ? それでアキラくんはどうするつもりなの?」
「この状況を作り出した奴をぶちのめす。とりあえずキロンとあのアルテミシアとかいう奴だ」
「無茶だよ! アキラくんは上級聖騎士や邪視者の厄介さを分かってない!」
見ただけで呪術を発動させるような怪物、コルセスカじゃなくてもヤバいことくらい理解できる。
それでも、このまま手をこまねいているわけにはいかないだろう。
「お断りだよ。アキラくんが戦うなら当然私も戦う。当たり前でしょ、使い魔の面倒みるのは飼い主の役目なんだから」
勇ましく言い放つが、強化外骨格の動作が一瞬遅延する。
(あれ?)
仮想のちびシューラの周囲に、半透明の壁が出現する。
まるで先程、現実世界で迷宮が構築された光景の再現だった。
実体の無い迷宮がちびシューラを取り囲んだかと思うと、その身体が俺から切り離されていく。
ずっと共にあった存在が、何の前触れもなく消失する。
まるで、主要な骨を抜き取られたような感覚。
「防壁迷路?! まずい、こっちのコントロールも奪われる!」
言葉と共に、トリシューラの強化外骨格が赤熱するナイフを引き抜いて俺に斬りかかる。
制御を奪われた、ということなのだろうが、こういうのってスタンドアロンにできないものなのだろうか。できたらやってるか。呪術って不便だな。そして最悪だ。
ギリギリで回避、仕切れずに左腕の先端が切り落とされる。右には及ばないとはいえ、自らの一部同然であった左の義肢を奪われ、怒りに心が沸く。
「ごめんアキラくん! ここから逃げて! 今強制シャットダウンしてるから!」
火器管制が別系統なのか、強化外骨格はナイフを振り回すだけで射撃をしてこない。彼女の言葉を信じるなら、逃げ回っていればこれ以上の危険は無いのだろう。
次第に勢いを減じていき、その動きを停止させる強化外骨格を横目に見つつ、俺はその場を離れる。
その場に片膝をついた巨大な機械は、もはやただの棺桶である。閉じ込められたトリシューラは中から出てこない。手動で開けられない造りなのだとしたら、改良の余地があるだろう。
この場所も安全では無い。留まってレオを守る事も考えたが、それよりも元凶を取り除くのが先だと考え直す。
トリシューラのバックアップが完全に受けられなくなってしまったが、元々単独で戦うつもりだったのだ。大した事ではない。
――そう思い込もうとしてはみたものの、数日間ずっと間近にいた存在が急に感じられなくなり、妙に不安に駆られているのも事実だった。
感情制御のレベルを変更し、更に冷静な域に降りていく。
ここからは、一瞬の動揺が命取りとなる。
周囲の音を探り、索敵に注力。迷宮内部に反響する多様な音の中から、必要な情報だけを取捨選択していく。
そして気付く。
この辺りは、あまりに静かすぎる。
「中々手強かったな、あの男はお前の何だったんだ? シナモリアキラ」
不遜の響きを宿した、少女の声。
白い裾が翻り、アルテミシアがその姿を現す。
「随分と必死に食らいついて来たぞ? まあ無意味だが」
その周囲に立ち並ぶ、無数のシルエット。
多様な種族、物体、そのいずれもが、彼女の周囲で巌のように動かない。
少女は完全に停止した自動機銃を蹴り飛ばしながら、破滅をもたらす瞳を爛々と輝かせた。
「そら、隠れてないでさっさと出てくるがいい。どうせ私の前では、誰も彼も同じ運命を辿るのだから」
白い少女の周りで、ありとあらゆるものが石化していた。
睨み付けただけで対象を石にする呪術。
まともに相対することすらできない、最悪の攻撃だった。
俺は音でアルテミシアの動きを探りつつ、迷路によってできた壁の陰に隠れている。この状況を作ったのが誰かは知らないが、アルテミシアでは無いような気がする。彼女の能力をフルに活用する為には、視界を遮るものが少ない方がいい筈だからだ。
しかしこのままでは手詰まりだった。どうにかして背後から攻撃できればいいのだが。
――仮に後頭部を強打したとしても、先程のように弾き返されるという恐れもある。
どうしたものかと唇を噛んでいると、新たな動きがあった。
「おや、誰かと思えば、聖騎士様じゃないか」
「何のつもりだ。首領殿には手出しを控えるように申し上げたはずだが」
「そうかそうか。だが私は知らないな。連絡の行き違いがあったらしい。しかしそちらこそ、このような大規模な儀式呪術で街を混乱に陥れるなど、事前に連絡してしかるべきではないかな?」
「何のことだ、この迷宮はそちらの仕業では無いのか」
現れたのはキロンとその配下の少年たちのようだった。
おまけになんだか知らないが、アルテミシア――【公社】側と揉めているようだ。
「聖騎士様は惚けるお顔も優雅だねえ。その面の皮、どれだけ厚いのかちょっと確かめさせてよ」
「ええい、話の通じないっ」
両者が交戦し始めたようだが、どうにも妙だった。
まさか、こいつらの他にもまだ見ぬ敵がいるのだろうか? だとしたら、そいつはどこにいる?
耳を澄ませるが、それらしい音は見つからない。というより、多種多様な音が入り交じっているせいでどれが怪しい音なのかが判別できないのだ。第六階層の時は数種類の心音と呼吸音を聞き分けるだけだったからまだ何とかなったのだが。
その間にも、呪術師と聖騎士の戦いは白熱していく。
「これは驚いた。何年ぶりだろうな。私に傷を負わせた者は」
「おのれ、よくも私の【盾】をっ」
壁際からそっと覗き見ると、両者の戦闘は熾烈を極めていた。
少年の一人が文字通りキロンの盾となって石化の視線を受け止め、他の少年達が背後から火の玉や稲妻の呪術で支援を行っている。いつの間にか漆黒の槍を手にしているキロンは穂先の動きが霞んで見えなくなる程の速度で突きを繰り出す。
奇妙な事に、キロンは払う動作を一切行わない。
松明の騎士に特有の技術なのか、全ての攻撃が突き技のみで構成されているようだった。
そして、驚くべき事にその攻撃の全てがアルテミシアに通っていた。
あの異常な防御能力を誇る少女の柔肌(といって良いのかどうか不明だが)に次々と漆黒の刃が接触したかと思うと、その場所に貫通創が生まれていく。
だが少女はまるで痛みなど感じていないかのように不敵に微笑み、流れる血を指先ですくい取りながら、一瞬だけ傷口に視線を向ける。
すると、瞬く間に傷口が石で塞がれ、血が凝固していく。
「第五階梯――いや第六階梯の邪視者か。厄介な」
「貴様の槍ほどではあるまいよ。私の絶対防御を貫通する呪具など、古今東西の伝承を探してもそう無いはずだがな」
お互いが獰猛な笑みを浮かべ、殺意を込めた視線を交錯させる。火花が散っている、などと形容したくなるが、実際にこの世界では視線と不可視の盾が激突して火花が散るという現象が起きていて、比喩がもはや比喩にならない。
迂闊に両者の間に飛び込めば死は免れないだろう。
これは漁夫の利狙いでどっちかが勝った瞬間を狙うのが一番良さそうだなあ、と思った時、奇妙な音を近くに感じた。
すぐ近くだ。呼吸音、心音、足音、いずれも無いので今まで聞き逃していたが、確かに音が聞こえた。
風が揺らぐ音。
距離がもう少し遠ければ、そしてこの場所が迷宮化して大気の動きが制限されていなければ、きっと聞き逃していただろう。
それは、宙を浮いていた。
拳ほどの大きさの、剥き出しになった眼球。
忘れもしない、第六階層で俺達の前に現れ、巨獣カッサリオを召喚した奇怪な目玉が、迷宮の隅で俺と同じように超人たちの戦いを監視しているのだ。
「気付きましたね。恐らくアレが現在展開されている迷宮結界の基点です。こちらに気付かれてまた魔将クラスの怪物を召喚されても厄介なので、一撃で潰す必要があります」
「なるほど、ということは、この迷宮を作り出したのは前にカッサリオを呼び出したのと同じ奴ってことだな」
「察しが良くて助かります。あれと同じ個体がおよそ八百ほど、分散して迷宮改変を行っていたので対処に手間取りました。個別に潰していくという地道な作業もこれで最後です」
「そうかそうか――で、コルセスカさんは一体そこで何を」
していらっしゃるので、と言いながら振り向いたら意外と距離が近い。感情制御が無ければ危なかった。いや何がとは言わないが。
白い袖無しのワンピース。極端に短いスカートから、黒のタイツに包まれたすらりとした脚が伸びている。いつも通りの白い長手袋は二の腕までを覆い、ノースリーブの肩と首から上だけが白い肌色を晒していた。
そして相変わらず感情表現に乏しい表情と、巨大な氷の右目。
トリシューラと対をなす、冬の魔女がそこにいた。
「今まで一体どこで、というか何を」
「ちょっと色々と。野暮用がありまして」
野暮用って。適当に誤魔化すつもりのようだが、こっちは疑問だらけである。
見れば、荒く息を吐いており随分と疲弊しているようだ。
「少しくらい説明して欲しいんだがな。それともやっぱり、俺達の敵に回ったってことなのか?」
「いえ、そんなことは無いのですが、その」
何故か、コルセスカは恥ずかしそうに言い淀んだ。
口に出すと、何か余計な事を俺に勘ぐられるのではないか、というような疑念があるのだろうか。
だったらそれは考えすぎだ。
「安心しろ。今の俺は極めて無感情に近い状態だからコルセスカがどんなことを考えていても何も思わない」
「それはそれで何かイヤです。――まあいいでしょう。とにかく、私はその、見込み無しといいますか、つまりええと――うぅ、『振られた』わけです。トリシューラはすっかりアキラと共に歩んでいく準備を整えていますし、これ以上近くにいても仕方が無いかな、と思いまして」
「はあ」
心底それを口にするのが嫌というふうに内心を吐露するコルセスカ。
どうやら、この間のトリシューラの自慢が思いの外ダメージになっていたらしい。
「それで、地上に帰ろうかと思っていたら、なんだか不穏な動きが幾つかあるみたいじゃないですか。あのコも曲がりなりにも言語魔術師ですから、大丈夫かなと様子を見ていたらなんだか詰めが甘い、注意が足りない、楽観的過ぎて隙だらけ、挙げ句あっさりトレースを許すほど危なっかしいし、見ていられなかったんです。で、陰ながら支援しようと思っていたら、この事態です」
「普通に姿を見せて協力してくれれば良かったのに」
「私は既に貴方とは無関係ですし、トリシューラとは基本的には敵ですから」
「なのに、今は助けてくれるのか?」
「それはだって、貴方やトリシューラを放ってはおけませんし」
――なんだこいつ超めんどくさい。
下唇を噛んで指先を弄っているその姿を見れば、感情が動きやすい状態の俺ならば何らかの心の揺らぎがあったのかもしれないが、今はらしくないことをしているという事実が記憶の中に蓄積されるだけだ。
「まあいい。助かるよ。ありがとう。それで、どう動く?」
「本当に淡泊な反応ですね――まあ人の事は言えませんけど」
コルセスカは表情を引き締めて、視線を再び浮遊する眼球に向ける。
「いいですか、あれは邪視系の使い魔【アブロニクレス】といって、邪視に強い抵抗力を持っています。消耗した今の私が即座に凍らせるのは無理ですが、アブロニクレスは物理防御能力が低いので打撃が有効。つまり貴方の出番です」
「あそこまで飛び出すと俺はあの超人どもの戦いに巻き込まれて死にそうなんだが」
無論、それしか選択肢が無いならやらない理由は無い。が、別に俺も自殺志願者というわけではないので、代案か対処法を求めて訊き返す。
「そこは私が押さえます。邪視は邪視で拮抗できる――邪視同士の戦闘は防御側の方が有利なんです。今の私でも、投射型の石化邪視なら押し返せます。ついでにあの聖騎士も」
コルセスカの視線が、キロンに留まり、そこで彼女は硬直した。左目が右目に迫るかと思うほどに大きく見開かれ、聖騎士を――正確には聖騎士の周辺を愕然とした表情で凝視する。
だがそれも一瞬の事で、彼女はすぐさま次の行動に移っていた。
「とにかく私が飛び出して両方とも相手にします。その隙に、あの使い魔を一撃で、速やかに潰して下さい。あとは私が全て片付けます」
ほとんどコルセスカ頼みなのが気になるが、まあ実力差を考えたら仕方が無い。
合図もなく白い影が飛び出した。「凍れ」という声が響いて、激しく相争う両者の動きが止まる。
絶好の機会。
俺は勢いよく飛び出して、無防備にふよふよと浮かんでいる眼球型の使い魔に背後から接近していく。
撃ち出された右手は正確にそれを掴み取って、そのまま一気に握り潰す。
これでもう、厄介な怪物を呼びだされる心配はないわけだ。
俺があっけなく終わった一方で、コルセスカは未だに激しく戦い続けている。
灰色の石化現象が縦横無尽に世界を駆け巡ったかと思えば、氷がその上を覆い尽くし、煌めく破片と共に砕け散った後には石化が解除された空間が残される。
視認するだけで世界を書き換える能力を持つ両者が相対した時、その戦いは世界の改変合戦の様相を呈する。一瞬ごとに景色が塗り替えられていく。
膨大なエネルギーが発生し、俺にすら視認可能な程になった呪力が放電現象を引き起こす。
コルセスカが右から左へ視線を巡らせれば世界が端から凍結していき。
アルテミシアが迎え撃つようにして髪を振り乱せば逆側から石化現象が拡大、浸食していく。
左右からぶつかり合う二つの領域。
凍結と石化、共にあらゆる者の生存を許さない停止の世界。その二つが、お互いを食らいつくそうと激しく鬩ぎ合う。空間の境界線がスパークし、閃光と轟音、高熱とイオン臭を撒き散らして火花を散らす。
その瞬間、勝敗が決した。
飛び散った火花が巨大な猛火へと成長し、膨れあがる勢いそのままに石化した領域へと一気に襲いかかったのである。
どのような理由か――コルセスカは氷だけではなく、その真逆とも思える炎にも支配力を働かせているらしい。
赤い奔流が白い少女の身体を飲み込み、続いて灰色の世界が一瞬で凍土と化していく。
「くそがっ」
悪態を吐きながら、片目を押さえてうずくまるアルテミシア。服は焼け焦げ、目から血が滴っており、更にはその手足が霜に覆われて凍傷を負っている。
駄目押しとばかりに、コルセスカの周囲を衛星のように浮遊する氷の宝珠が無数の氷柱を射出、アルテミシアの全身を串刺しにしていく。
「自らへの確信を失った邪視者ほど脆弱な存在もない。格付けは済みました。貴方はどうやっても私に勝てない」
「おのれ、その奇眼、確かに目に焼き付けたぞ! お前はいつか、必ず私が殺すっ」
「逃がしませんよ――凍れ」
その場から逃れようとするアルテミシアの肉体が、足下から凍結していく。
だが、そこでアルテミシアは驚嘆すべき行動に出た。
自らの脚を石化させたかと思うと、それを根本から砕き、へし折ったのだ。
唖然とするコルセスカに向けて投擲された石の脚が、中空で微細な砂塵となって飛散する。
思わぬ目眩ましに凍結の邪視が遮られている間に、アルテミシアはその身体を地面と同化させ、地下へと沈み込んで消えていった。
俺が眼球を握りつぶした結果なのか、周囲から迷宮の壁が消え始める。
以前の第五階層、曲がりなりにも街であった空間に戻っていく。
そんな中で、聖騎士キロンが漆黒の槍を手に、何か言いたげにこちらを向いている。
俺は無言で右半身を前にして身構えた。
「どうしても、戦うしかないのか」
「当然だ。俺と【松明の騎士団】は敵同士。殺し合うのはいつものことだろうが」
俺は半年前からずっと、【松明の騎士】達の振る舞いを見てきた。
エスフェイルを倒し、第五階層が放棄されて以来の、奴らの徹底した俺への敵視。
あの時、俺はトリシューラに助けられていなければ地獄の勢力に殺されているはずだった。それを地上は黙認した――【騎士団】にとって俺は死んでもいい存在だったわけだ。
彼らにとって俺の死は正しいことなわけだ。
仮に俺がトリシューラを裏切り、彼女の身柄を売ったとして、どう考えても俺が快く地上に迎え入れられるとは思えない。
たとえキロンが約束を守ったとしても、彼が所属する組織の方はどうだろうか?
まさに半年前、アズーリアがそのようにして俺を見捨てざるをえない状況に陥ったのではなかったか。
考えて、俺が出した結論は一つだった。
【松明の騎士団】は信用に値しない。
故に、俺が悩んだのはどのようにして彼らを打倒するか、どのようにして騙し、陥れ、裏切り、殺害するかという事だけだ。
悩んでいる最中にプラス材料は見つかったが、それはそれ、これはこれだ。
もしかすると、何かもう一つでもあちらを信じられるような要素があれば結果は少し違っていたかもしれない。
だがまあ、どっちにしてもトリシューラを裏切るような真似はしなかっただろう。
「そうか。俺は理解していなかったんだな――君がアズーリアに対しての信頼を失っていないようだったから、俺達に対してもそうなのだと勝手な希望を」
キロンの表情には悔恨とも憐憫ともつかない感情が入り交じっているかのようだった。もしかすると自嘲や悲哀も含まれていたのかもしれない。
まあ、どうでも良いことだが。
「アキラ、君は我々を――【松明の騎士団】を、憎んでいたのか」
「さあ。生憎と今はそういう判断ができないんだ。ただ、こっちは毎晩夢に見てるんでな。そう簡単に風化するような記憶じゃないのは確かだ」
とは言うものの、感情制御を取り払えば、残るのは怒りと憎しみが大半だろうとは想像できる。無論、それだけの単純な感情ではない。アズーリアやカイン達の事もあるし、リーナとのメールで言ったように、地上の者全てが信用できないというわけでもない。
だが、【松明の騎士団】という組織全体は明らかに俺の敵なのだ。
もし【E-E】が無くなったとしたら、冷静な判断力を失った俺は奴らに対してどんな感情を抱くのか、正直なところ想像もつかない。だが確かなことがひとつだけある。
感情を制御していても、意思は消えない。
敵意は判断だ。
ゆえに、俺はこの状態でもキロンを殺すことを躊躇ったりはしない。それが俺の正しさだからだ。
崩れゆく迷宮の中で、俺とキロンは正面から対峙する。
少し離れた位置にコルセスカ。
生き残っていたのか、しつこく沸いてくる悪鬼の群れ。
「俺は最初の時点でとんだ勘違いを――いや、もうよそう。既にそういう段階では無いらしい」
「納得はしたか? まあしなくてもいい。死ね」
崩れ落ちる迷宮、その最後の障壁が消滅するのと同時に、俺の右足が床面を踏み砕き、全身を風のように疾走させる。【サイバーカラテ道場】が導き出す最適な体重移動、滑り出すようなスタート、肉体を運んでいく脚が体幹へと運動量を伝導し、推進力へと変換する。
対するキロンは、観念したかのように瞑目し、左手をそっと、傍らの少年の頭に置いた。
「――?」
奇妙な動きだった。何の意味があるのか理解できない動作。
つまり呪術だ、という判断よりも速く、閃光が迸った。
高熱と衝撃。
右腕を盾にして咄嗟に後退する。
「な」
何だアレは。
キロンの手の中で、少年が裸身を光り輝かせている。
その全身が黄金の煌めきに満たされたかと思うと、その輪郭が不意に歪み、異なる形状へと変化していく。
曲線を描くシルエット。弧の両端を繋ぐ、燐光を放つ細い弦。
白い、弓?
黒い槍はいつの間にか姿を消し、キロンの手には純白の弓が握られていた。
その現象に呼応してか、右側の籠手が変形していた。親指の部分がより巨大に、人差し指と中指が一体化している。おそらくは弓を使用するのに適した形状なのだろう。
背後から兜のパーツが前に伸張していき、彫刻のような美貌を覆い隠す。
表情と瞳が視界から消えるが、その戦意は十分すぎるほどこちらに伝わってきていた。
「武器の擬人化――私と同じ、メクセトの禁呪に連なるもの」
コルセスカが何か妙な事を言い出した。
視線はキロンの手に握られた白弓に向けられている。普段の冷淡な表情が嘘のように気色ばんで、動揺、あるいは興奮を隠し切れていない。
「貴方、そんなものを何処でっ」
「ほう、やはり同属のことが気になるか、冬の魔女」
言いながらキロンは右手親指の付け根部分に弦を掛ける。矢も番えずに何を、と思う間もなく、下方から急速に弓が持ち上がる。体幹の中心線から斜め前方にスライドした位置で一瞬静止すると、そのまま台形を描くようにして弓と弦とが引き分けられていく。
阻止に動いた俺の前に、三人の少年たちが立ち塞がる。
コルセスカがいつになく鬼気迫る凝視を行うが、残る一人がキロンの目の前に立ち塞がり、彼を守る。
少年の展開した不可視の障壁が凍結を拒み、彼とその背後のキロンを避けるようにして床面が凍結していく。
それでも負荷が大きいのか、盾となっている少年はコルセスカの視線を受け止めながらきつそうに顔を顰めている。見れば、片方の腕が丸ごと灰色の石と化している。アルテミシアとの戦闘が尾を引いているのだ。
弓が完全に引き絞られ、今にも解き放たれそうな状態へ安定する。何も番えられていないことが、かえって呪術的な効果を予想させる。
あれは間違い無く撃たせてはならない。
今頃になって、トリシューラが戦う前に言っていたことを想起する。
(いい、アキラくん。聖騎士キロンは槍術、棍術、騎乗術と武芸一般に秀でた一流の聖騎士だけれど、本当に危険なのは彼の弓術と神働術)
トリシューラ曰く、この世界では【弓】とは扱える者が極めて限られた呪具なのだという。神働術というのは体裁のために呼び名と形式が異なるだけの、聖騎士が用いる呪術らしい。
つまり、キロンが弓を持ち出した時、彼はその最大の力である呪術を発動しようとしているということになる。
槍を構える少年に拳を叩き込み、もうひとりの腕と一体化した方形盾での一撃を回避し、三人目の敏捷な脚捌きに翻弄されてこちらの脚が止められた瞬間、それが起きた。
「射影聖遺物・第七番――翼無きレメスの苦悶」
白き弓から、七色の光――いやそれ以上に多様な煌めきが分散していく。多色のスペクトルは矢となって一度天に昇り、そこから拡散して雨のように大地に降り注ぐ。
「父なる槍神がその穂先で天を突くと、そこからあらゆる災厄が降り注いだ。若きレメスは僅かに残された希望を矢に変えて、その身が災厄に砕かれる事を厭わずに矢を天空の果てへと放ったという――聖人レメスの偉業を再現した宗教画には必ず矢のない弓が描かれる。まさにこのような」
現実感の無いキロンの語り。その周囲で、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開された。
天から次々と襲来する光の柱は、その付近にいた俺やコルセスカ、悪鬼だけでなく、更に離れた場所で様子を窺っていた無関係の住人達までもその標的としていたのだ。
空を睨み付けただけで光の軌道を逸らしたコルセスカや、咄嗟にすぐ傍にいた少年の一人を頭上に掲げて盾にした俺は難を逃れたものの、その他の者は悲惨な末路を迎えた。
光の熱線に包まれた者は例外なく、絶叫を上げてその身を灼かれていく。全身を炭化させた屍がそこら中に発生する。迷宮化が終わって再構成されたはずの建造物が軒並み溶解し、崩壊していった。
広範囲にわたる殲滅呪術。
圧倒的な破壊力と射程を誇る、聖騎士キロンの本領だった。
やがて閃光の雨が止むと、少年の首を絞めていた俺の右手に槍の一撃が繰り出される。手を離して放り出された相手を蹴り飛ばす。
「全員戻れ。君達の防御力をまた利用されてはかなわないからな」
指示に従い、三人の少年がキロンの近くへと戻っていく。
コルセスカの攻撃を防いでいた一人だけが、がくりと膝を着いてしまっているが、無理もない。片腕が完全に凍結してしまっており、既に戦える状態に無い事は明らかだった。
「どうかね、我が聖遺物の力は」
「何が聖遺物ですかっ、忌まわしい力を不用意に振りまいておいて」
コルセスカの鬼気迫る表情。この珍しい表情を見たのは、今日になってからもう何度目だろうか。
いや、一度だけ似た雰囲気になったことがあった。あれは確か、俺に向かって使い魔になれと告げた一幕。
火竜を倒さなくてはならないと、自分の目的を明かした時と同じ雰囲気なのだ。
であれば、【これ】は彼女にとって真に譲れないことなのだ。そう確信した。
まだ、コルセスカという魔女の本質は一欠片も見えない。
しかしその取っ掛かりをようやく見つけた。そんな気がした。
こんな状況だというのに、不意にある欲求が湧き上がる。見極めたい。彼女が戦う理由、その本当のところを。
言葉を交わしている間にも、少年達が負傷した残り一人を回収しようと動き出す。
阻止する為に走り出すが、今度は直接俺に向けて閃光が放たれる。
「アキラっ」
俺の前に立ち塞がったコルセスカが光の矢をねじ曲げるが、まるで意思を持った蛇か長虫のようにくねり、天に昇っていく。
先程の再現。放射状に放たれた光が地上に残った命を焼き尽くさんばかりに大地に叩きつけられていく。
背に翅を生やした娼婦が、逃げ遅れた片腕の獣人が、足の遅い矮小複眼人が、次々とその命を奪われる。
「一匹たりとも逃がさぬよ。穢れた異獣は全て駆逐する」
「関係の無い人々まで巻き込むというのは、いささか趣味が悪過ぎるのでは」
怒りを漲らせたコルセスカの糾弾に、キロンは事も無げに答える。
「異獣は人では無い」
文法の不備を正すように、聖騎士は人とその他を峻別した。
案の定、という回答で面白みの欠片も無い。
ああ、どうせそういう手合いだと思ったよ。
見れば、確かに殺されているのは異獣――【下】の出身種族だけだった。
「もはやこの場所でおとなしくする理由も無いのだ。私は聖騎士の本分を全うするのみ――すなわち、あらゆる異獣の根絶を」
「幾ら何でも滅茶苦茶だろうが。この階層の連中を皆殺しにでもするつもりか?」
「しない理由があるのか?」
心底から不思議そうに、キロンは逆に問い返してくる。
絶句する。そう訊ねられてはじめて、俺には返す言葉が無い事に気付く。
「何を不思議がることがある? 本来これが自然な形なのだ。今までこの場所で大きな戦いが起きなかったのは下らない上層部の思惑がたまたま上手く行っていただけにすぎん」
付け加えれば、この男ほどに圧倒的な力を持つ存在がいなかったから――いたとしても暴力の行使を控えていたからだろう。第五階層は今や相当な規模の経済圏だ。この場所での大規模な戦闘は、大量の権益を損なってしまう。迷宮に於ける争いは、この階層を無視して行えばいいのである。それが一番双方にとって利益が出る。
だが――そうした利益を度外視して戦いに身を投じる戦士にとって、そんな事情は関係が無い。
俺にとってもそれは同じだ。
同じなのだが、しかし。
「俺が言えたことじゃねえけどさ、お前クソだわ」
本当に、俺にだけは言われたくはないだろうが。
とはいえ、殺人鬼が「人殺しはいけないことです」と言ったとして、それに説得力があるかどうかはともかく、発言の確かさが損なわれたりはしないだろう。
クソ野郎がクソ野郎に「クソ野郎」と言ったなら、結論は両方クソ野郎だ、という事になるだけだ。
何がおかしいのか、俺の前でコルセスカがくすりと笑った。
「やはり貴方は、探索者に向いていると思います」
「はあ?」
文脈が繋がってない発言をされて困惑する。多分彼女の中では意味が通っているのだと思うが、言われた方は眉根を寄せるしかない。
「貴方のような前衛が欲しい、ということです!」
こちらを振り向かずに叫ぶ。直後、キロン達の真下から天へと氷柱が突き立つ。迫り上がった氷の槍が鋭く襲いかかり、回避を余儀なくされたキロンの第三射を妨害する。
その言葉を、「前に出ろ」という意味だと解釈した俺はそのまま彼女を追い抜き、負傷の度合いが一番大きい少年を狙う。石化と凍結による腕の壊死という重傷を負った彼は、仲間に肩を借りてかろうじて立っている状態だ。つまり一番潰しやすい。
弱い相手を攻撃して数を減らしていくのが集団戦の鉄則だ。突き出された右拳を、方形盾で一人の少年が防ぐ。
「負傷した者を狙うとは、卑劣なっ」
最適な戦略はそれだと俺は思ったのだが、生憎とコルセスカの方はそうじゃないらしい。
残念だが、狙いはお前だ。
握りしめていた氷の宝珠が青い光を放ち、至近距離で発動した呪術によって少年の全身が氷の檻に閉じ込められる。
盾役が誘い出された挙げ句に無力化され、続けて敵陣のただ中に投擲された氷球が無数の氷柱を乱射していく。
キロンともう一人は素早く動いて回避するのだが、負傷者とそれを助けている少年が逃げ遅れ、鋭利な氷の餌食となる。駄目押しに、コルセスカから直接浴びせられる凍結の視線。
負傷していた少年は最後の力を振り絞ってだろう、仲間を庇うために前に出る。
氷槍が分厚い甲冑を容易く貫通していく。
部下が決死の覚悟で稼いだ時間。キロンが怒りと共に三度目の射撃を行うが、コルセスカはそれを万全の体勢で迎え撃った。
「もう三度目――私に同じ呪術がそう何度も通用すると思わないことです」
解き放たれた輝く矢が、コルセスカの目の前に展開された円形の鏡に吸い込まれ、そのまま逆方向に反射される。跳ね返された極大威力の呪術がキロンに命中、炸裂した。
「【水鏡の盾】はいずれかひとつの対象から与えられるダメージを軽減し、零にする。そして軽減したダメージに等しいダメージを指示した対象に与えます。つまりは【反撃】属性です。いかにその少年達が自らの攻撃で傷つく事が無くとも、この呪術で【攻撃】属性を【反撃】属性に転換してしまえばダメージが通るはず」
分かるような分からないような理屈を捏ね始めるコルセスカ。
しかし、この世界の現実は俺の理解とは関係の無いところで展開される。
光が消えた後、何かが地に落ちたのか、からんと音が響く。
握りの部分が消し飛び、二つになった白い弓が光に包まれ、胴から腹部が丸ごと消し飛んだ少年が血だまりを作った。鎧が融解し、炭化した右腕を押さえながらキロンが絶叫する。
間を置かずに追撃。悲しみに暮れる聖騎士に向かって右の掌底を放つ。更に床から氷の槍が生える。
容赦を知らない同時攻撃に、しかしキロンは完璧に対応した。
俺の拳を左手で受け止め、半歩ずれるだけで氷槍を回避。攻撃直後の俺に蹴りを放って後退させ、素早く残り二人の少年に隣接、順番にその頭に触れる。
――何だ? 今、目に見えて動きが良くなったような。
奇妙な感覚だった。相手は劣勢だ。明らかに格上のコルセスカ相手に力負けして、おまけに仲間も既に三名が戦闘不能。
だというのに、何故かこちらが勝てるような気がしない――しなくなった。
さっきまではいけそうな気がしていたのに、楽勝ムードが薄れていくようなのだ。
コルセスカの視線と氷の球体から放たれる氷槍。面制圧の呪術攻撃と夥しい密度の物理攻撃が同時に襲いかかるが、キロンは慌てることなく悠然と少年達を武器に変化させる。
複数人の同時変化を今までしなかったのは、単に弓を構えている時の時間稼ぎ役が欲しかったからだろう。
もしかすると、こちらの方が厄介かも知れない。そんな予感を抱くと同時、光が収束して新たな武器がその姿を現す。同時に氷の槍が着弾し、キロンがいた空間が凍結していく。
【Doppler】が無ければ、恐らく動くことすらできなかった。
勘で右手側に跳躍すると、その直後に俺がいた空間を何かが横切っていく。
駅のホームを列車が通過していった時のような感覚。轢殺や圧殺を予感させる速度と質量の暴力を、俺は辛うじて回避したのだとわかった。
「今のを躱すとは。音を読んだのか?」
地面の上を、何かが這ったような――というより抉り取ったような痕跡が直線状に走っていた。
振り向くと、穿孔された軌跡の向こうに、絵に描いたような騎士がいた。
キロンは、騎乗していた。
アルテミシアと戦っていた時に用いていた黒い槍に、コールタールを塗りたくったように黒い馬。
おそらくはその二つがあの少年達の変化したものなのだろう。
異様な硬さの呪術師を負傷させる槍は明らかに厄介だし、先程の凄まじい速度での移動はあの馬の力に違いない。険を増した声で、コルセスカが叫ぶ。
「あれらは旧時代の言語支配者である覇王メクセトが遺した神滅具、【自殺の黒槍】に【死出の蹄鉄】です。まさか、あんなものまで持ち出すなんて!」
コルセスカの言葉には強い苛立ちが感じられた。使い手よりもむしろ、その武器のほうに怒りが向いているように思える。
「それは人の手には過ぎた代物。すぐに放棄すれば、まだ間に合う可能性だってあります!」
どこか相手を慮るようなニュアンスすら含む言葉。もしかして、と思いつつ訊ねてみる。
「あれ、使い手に害を為す呪われた武具とかそういうの?」
「使い手だけではなく周囲の環境全てに呪波汚染を撒き散らす、神話時代の産業廃棄物です! 長時間の呪力線被曝は心身に害をもたらし、土地に毒を残す。その上災いが呪術的に感染する為、このまま使い続ければ彼の親類、友人、恋人などにも累が及ぶであろう最悪の兵器です」
「本当に最悪だな」
何でそんなもの使おうと思ったんだアイツは――というか、【松明の騎士団】は?
もしかすると、あの白い弓もかなりろくでもない副作用、反作用があったのかもしれないが今となっては確かめる術は無い。一番厄介な武器はどうにかしたのだから、次もどうにかなると考えたいが。
しかし、どうも俺にはあの弓よりも、そしてキロンが騎乗している馬よりも、奴が左手に持っている槍の方が嫌な感じがしてならない。
というのは、直感とか曖昧なものではなく、視覚的にやばそうなのである。
黒々とした細い柄から曲がりくねった【枝】が無数に生え、樹木のようにキロンの全身鎧に絡みつく。宿り木のようにその周囲を取り囲み、複雑に絡み合っていくと、特に炭化した右手に集中して枝を伸ばして粗悪な形状ながらも腕を外骨格のように補強する。
槍本体もまた無数に枝分かれを始め、非直線的で曲がりくねった形状に変化してしまう。複雑骨折した人体の骨格とか、幹の細い樹木のようにも見えるシルエットだ。
「これを捨てる? とんでもない。この槍は既に、俺そのものだ。捨てさせたいのなら、力尽くで引きはがしてみるがいい!」
その口調からは狂気のような熱が感じられた。槍から伸びた枝が手綱と一体化し、馬上でありながら自由な両手で槍を縦横に旋回させる。
微かな初動を感知する。馬の呼吸、面頬の奧のくぐもった吐息、重心のぶれから突進の位置を予測して、先んじて回避行動に移る。
直後に暴風。当然だが、キロンもセオリー通りに弱い方を狙ってくる。
轟音と共に地面が削り取られていった。しかも今度は、粘着性のある泥のような何かが大量にこびりつき、鼻の曲がるような悪臭を放っている。
あの馬がどうやって移動しているのか不明だが、異様なことにその蹄からは何か不定形の呪術的な物質が分泌されているらしい。
「触らないで、そしてできれば近くで息をしないで下さい。肺を病みます」
「早く何とかしないとやばいんじゃないのか、あれ」
外道ぶりならエスフェイルも大概だったし、グロテスクさならカッサリオと融合体もかなりのものだったが、ここまで文句なしで有害な敵は初めてだった。誰がどう見ても危険としか言いようのない存在である。
ええ、ですから、とコルセスカは続け、強い視線と共に宣言する。
「メクセトの武具は、私が全て封印します」
――気になる。
コルセスカは、キロンが持つ武器と何らかの因縁があるようだった。そのせいか、どうも変な気負いというか、拘りがあるように感じられる。
この意気込みが、悪い方に作用しなければいいのだが。
キロンが再度の突撃を行おうとする。方向を予測しようとして、槍の穂先が既に俺を向いていない事に気付く。
俺が二度回避したことで、攻撃の矛先を変えたのだ。
騎士の姿が霞むようにしてかき消える。
目で終えないほどの速度。一瞬で視界の外へ移動される。
コルセスカに限った話ではないが、邪視という呪術には弱点がある。視認しただけで発動する呪術であり、その速度は圧倒的、且つ効果範囲が広いために本来は弱点とも言えない弱点だが、それを突けるだけの実力があれば話は別だ。
それは、視界の外側が無防備なこと。
というか、ほとんどの生き物にとって視界の外は文字通り死角なわけだが。
キロンはここでもセオリー通りの行動をとった。コルセスカに正面から突撃して凍らされるようなリスクを冒さず、背後に回り込んだのである。
急制動をかけ、そのまま背後から漆黒の槍を突き入れる。
だが、コルセスカほどの呪術師がわかり切った弱点狙いに対処できないわけがない。
その目の前に映し出された、槍を振りかぶるキロンの姿。
彼女は目の前に氷で鏡を作って、背後の光景を視認していた。鏡越しに邪視が発動し、キロンの身体に霜が走っていく。一気に凍結しないのは間接的な発動だったからだろうか。
氷球が追撃の氷柱を放ち、後退時には速度の出せない馬が串刺しにされていく。
とどめとばかりに氷の鏡が高速で回転を始め、皿状のカッターとなって飛翔、コルセスカの指先に操られるようにしてキロンの左腕を黒槍ごと切り落とす。
圧勝だった。
というかコルセスカが強すぎる。彼女さえいればどんな状況でも全部なんとかなる気さえしてきた。少なくとも俺はほとんどいらなかった。
「いにしえの【鏡の魔女】が遺した奥義のひとつ。私の氷はそれをほぼ完全に再現する」
得意げに言うと、彼女の手元に回転する円盤が戻ってくる。見た限りではただの薄い氷の板である。
「それ、何か銀とかで加工してんの?」
「いいえ。ただ氷と鏡は互いに相似の関係にあるので、アナロジーを利用して呪術で反射率を上げているだけです」
またなんか胡乱な事を言い出したな。
まあ勝ったからいいけど。
「とどめ刺さないってことは何かまだ用事があるんだろう? さっさと済ませて息の根を止めておこう。まだ何か隠し球があったら面倒だからな」
言いながら、コルセスカの方に歩いていく。馬は光に包まれて既に少年の姿に戻っているし、腕を切断されたキロンはぴくりとも動かずに仰向けに倒れ伏している。
「ええ、急に宿主を殺して神滅具が暴走してもいけませんので、まずは生きたまま凍結隔離するか解呪をしないとならないのです」
「面倒だな。というか持ち主じゃなくて宿主って」
念を入れたのか、動けないように細い氷柱が胴の中央に突き刺さっている。その姿は少々の哀れみすら誘い、ピンで止められた昆虫標本を思い出させた。
その連想で、ふと思い出す。
初めてキロンと出会った時、彼の周りには、確か灰色の蝶が舞っていた――。
勝利を確信しきった後の、弛緩した空気。
ふと、自分が奈落の蓋を踏み抜いたような錯覚を覚えた。
「ああ、嫌だ、身の毛がよだつ。本当に、本当に嫌だ」
地獄の底から響いてくるような、潰された喉で無理矢理捻りだしたような掠れ声。
俺が立っている足場が、ぞっとするほど脆い薄氷でできていて。
「まずい――これは」
弾かれたようにコルセスカが円盤を倒れたキロンに投擲する。
その間に、灰色の小さなシルエット。
割れてしまった氷の下が、息もできないような底無しの深淵であると、その時になってようやく理解する。
「嫌で嫌で仕方無いが、どうやらこれしか無いらしい」
感情制御の障壁を貫く、それは絶対的な恐怖。死の確信。膨れあがる呪力が物理的な斥力となってコルセスカと俺を吹き飛ばす。
「死んでいった仲間達の為にも、俺はもう一度立ち上がらなくては。たとえ、憎い仇の力を使ってでも――我が価値を問え、【ミエスリヴァ】」
そして世界が、モノクロに染まる。