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2-11 欠落と渇望

 

 

 

 

 

 

 昼食後、トリシューラが端末の固有アドレスを公開しようと言い出した。

 昨日、俺達に携帯端末を買いに行かせたのはそのためだという。

 

「それで何をするのかって? 決まってるじゃない、アキラくんへのアクセス性を高めるんだよ」

 

「いや、その目的を訊いてるんだけど」

 

「だから、武名を轟かせるんでしょう?」

 

 あー、そういやそんなこと言ってたな。道場だっけ? え、アレ本気だったの?

 

「私は冗談は言わないよ。アキラくん、モーションキャプチャーとインストラクションムービーの撮影、どっち先にやりたい?」

 

 トリシューラはマジだった。顔はいつも通りの微笑みだが目が笑っていない。

 さすがに顔が引きつる。こういうのは向いてないどころか苦手中の苦手分野だ。人にものを教える? 冗談だろう。

 

「面と向かって指導するんじゃないだけ幾らかマシなんじゃないの?」

 

「それはそうだが」

 

「もう公式サイト用意しちゃってるんだけどな」

 

「仕事早いなおい」

 

 退路が塞がれていた。至れり尽くせり過ぎる。俺は敷かれたレールの上を走るだけでいいらしい。楽すぎて駄目人間になりそうだ。

 

「とっくに駄目人間のくせに何を言ってるの?」

 

「トリシューラってけっこう毒吐くよな」

 

 今更だが、こんなんで俺はトリシューラとやっていけるんだろうか。

 なおも渋る俺を半眼で見ながら、トリシューラは仕方なさそうに嘆息して言葉を繋ぐ。

 

「それに、これはアキラくんの願いを叶える為のプロセスでもあるんだから」

 

「あー、それは、居場所的な意味合いで?」

 

 自分で口に出すと恥ずかしい渇望である。内心が全て筒抜けなのだから、トリシューラ相手に取り繕っても仕方が無いのだが。

 

「それもあるけれど、アキラくんの欠乏はまだ他にもあるでしょう」

 

 俺の欠乏?

 何だろうか。この世界に来てから、俺が失ったものといえば左腕と自らの足場、意思疎通の手段に、それから――。

 

「アズーリアとかいう聖騎士に会いたがっていたでしょう。連絡、しなくていいの?」

 

「――それ、トリシューラに話したことあったっけか」

 

 コルセスカに話したのは覚えている。だが、トリシューラにまで半年前のことを話しただろうか。

 視界の隅のちびシューラアイコンを見る。彼女は、俺の思考だけでなく記憶まで読み取ることができるのだろうか。

 

「私に読み取れるのは明確な形として言語化された表層思考だけだよ。けれど、夢は別なの」

 

「夢?」

 

「そ。眠りの中で再配列された記憶の泡が意識の表層に浮かび上がってくる時、それはちびシューラにも把握可能になるの。あれだけ毎日おんなじ夢を見ていたら、何を望んでいるかも分かるようになるよ」

 

 俺はこの世界に来て以来、ずっと同じ夢を見続けている。半年前の石の迷宮を無限に彷徨い、戻らないアズーリアを待ち続ける悪夢を。

 その事を知られていた、という事実にまず羞恥を覚え、続いて自己嫌悪に苛まされた。


 顔が熱い。

 いくらなんでも、これは。

 

「人の夢を、勝手にっ」

 

「思考覗いてる時点で今更じゃない?」

 

 俺が責めても、トリシューラは全く悪びれない。というか自らが邪悪であると開き直った相手には正論が通用しないので、利害をちらつかせるしかないのだが、俺には切れる手札が無いのだった。どうしようもねえ。最悪だこいつ。


 いつものからかいが来ると思って身構えたのだが、意外にもトリシューラはこの件に関しては特に茶化す事をしなかった。

 

「助けてくれた人に報いたい、恩を返したいっていうのは分かるから」

 

 言われて思い出す。トリシューラは、自らを支援してくれた【お姉様】の為に行動しているのだ。俺のアズーリアへの感情の中に、どこか重なる部分があったのかもしれない。

 

「私は指名手配犯だしアキラくんも聖騎士たちを殺しちゃってるから、こちらからアクセスはできないけど。アキラくんがここにいるって示せば、あちらからのアクションが期待できるでしょう。まあ、襲撃されるだけかもしれないけど、その時は返り討ちにするだけだよ」

 

 軽く言うが、結構なリスクを孕んだ行為なのではないだろうか。だというのに、俺の為にあえてしてくれるのだとすれば。

 細く長く息を吐いて、トリシューラの緑の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「ありがとう、トリシューラ」

 

「――私の利益にも繋がることだから」

 

 特段の照れも無く、トリシューラは淡々と呟いた。

 他方、ちびシューラのアイコンが赤面しているのは、あざといのか素なのか単なる社交辞令なのか微妙なとこだなこれ。


 それからしばらく、【サイバーカラテ道場第五階層支部(仮)】の設立作業を二人で行ったのだが。

 結論から言うと、アズーリアから連絡が来ることは無かった。


 通信道場の仕組みそのものは問題が無かった。アドレスの公開と発信後、外世界人というラベルは当然のように衆目を集めた。調査研究や商業広告、果ては殺害予告まで幅広いメールが押し寄せたが、その中に目当ての名前を見つけることはできなかった。


 過度な期待を寄せていたわけでは無いにしろ、少々気が沈む。

 トリシューラにはまだ一日も経過していないというのに何を言っているんだお前はという視線と共にさんざん呆れられた。冷ややかな視線は絶賛継続中である。が、それにもめげず俺は端末の画面にしがみついていた。


 自動生成されたスパムの中に紛れていないかと、フィルタリングされた膨大なジャンクの列を探そうとしたこともあったが、百通に目を通す間に百通増えていく様子を見せられてすぐに諦めた。


 文化人類学者や言語学者、作家や記者らに対して、俺が分かる範囲での回答テンプレートを用意して、細部を調整しながら一括返信する。今回の試行は、どうやらこの世界の異世界研究や文化的創造行為に貢献するだけの結果に終わったようだ。まあ結構な事じゃないか、と多少の慰めを得る。


 それにトリシューラの狙いはそう言うところとは別にある。

 交流が厳しく制限されている外世界からの来訪者というのは、娯楽に飢えた人々にとっての格好のトピックだ。史上初というわけでは無いらしいが、世界槍のど真ん中に出現したこと、第五階層が変質したことが相乗効果を生み、様々な噂や憶測を生んでいるようだ。宣伝の手法次第だが、広告塔に使えなくもない。


 トリシューラは狂喜してそれらに応対していった。スポーツメーカー、アパレル産業、食品関連会社、その他にもこの世界特有の呪術産業が幾つか。


 俺は偶像崇拝を利用したエネルギー産業なんてものがあることにまず驚き、いつのまにか自分が崇拝対象になりかけていることに呆け、最後にトリシューラが肖像権侵害で訴訟することをちらつかせながら法外な金銭を要求している様子を見て絶句した。これはもう俺の手には負えない。

 

「このへんの雑事は私に任せてくれればいいよ。私がきっちりアキラくんをマネジメントしてあげるから」

 

「いや、なんか通信道場という当初のイメージからずれてる気がするんだが」

 

「他と同じことやってたらつまんないでしょ。悪いようにはしないから、まあ任せてよ」

 

 などと言いながら大量の情報を処理していくトリシューラの姿は普段に増して輝くようだ。生き生きとしていると言っていい。


 精力的な彼女の活動――立体的に展開された複数の窓を追う忙しない眼球運動や、音楽的なリズムさえ伴いながら軽やかに打鍵していく細く長い指、時折漏れ聞こえる幽かな鼻歌など――を見ながら、しばし俺はそれらが作り物の振る舞いであるということを忘れた。


 学術的なメールと利益追求のためのメールについてはこのような対応がなされたが、続いては利害調整のメールが届くことになった。


 松明の騎士団からの厳重な警告がそれである。

 この組織に所属しているというアズーリア個人からの連絡が来ないのも、まあ無理はない。


 元々関係性が最悪だったが、ここに来て松明の騎士団は俺を明確に敵視することを決定したようだった。理由はトリシューラの行動にある。

 

「別に私、間違ったことをした覚えはないけど。功績はきちんと評価されるべきじゃない?」

 

 シナモリ・アキラという名前とサイバーカラテ道場をセットで宣伝していくという方針を採用するにあたって、必要なのは箔だ。

 そこでトリシューラは、第五階層の魔将エスフェイルを倒した男という肩書きをでっち上げて喧伝し始めたのである。

 

「でっち上げじゃないよ。事実だもの」

 

「いや、交戦して生き延びただけで、倒したのはアズーリアだ。俺がやったのは時間稼ぎくらいで」

 

「アキラくんは、仕留めたのが後衛だったら前衛の働きは無視するの? こういう時はパーティメンバーの全員を評価するのが正しいやり方じゃないかな?」

 

 トリシューラの言うことは正論に聞こえた。ただ彼女の言い様は余りにも俺を持ち上げるためのバイアスがかかっている。目的を考えれば当然の偏向ではあるが、しかし俺にも譲れない言い分はある。

 

「ならせめてアズーリアたち六人の名前をちゃんと出してくれ」

 

「むー。わかったよ。上からクレーム来ても嫌だしね」

 

 トリシューラの渋々ながらの配慮によって、六人の名前が俺のものと併記される。これによってトラブルは回避される、かと思われたがそんなことは無かった。


 出火は予想だにしていない所から始まった。俺も完全に失念していたが、エスフェイルと戦ったあの場には先に探索者の三人組がいたのである。その情報がどこから出てきたものやら、探索者協会から猛烈なクレームが入ったのだ。彼らを無視するとは何事か、探索者に対する無自覚の軽視、魔将に勝てたのは彼らの犠牲があったからこそ、横殴りで勝利を喧伝するような恥知らず、というような。


 それに松明の騎士団が乗っかる形で、俺と共に魔将を倒した六人の扱いが不当に小さい、と抗議が飛び出してきた。あとはもう炎上一直線だ。俺は他人の功績を掠め取ろうとする詐欺師であるというような風評が流布しつつある。

 

「トリシューラ、これ本当に任せていいのか?」

 

「あ、あれえー?」

 

 間断なく響いていた打鍵の音が途切れ、張り付いた微笑みが若干引きつり気味なトリシューラの反応はどこか鈍い。おい駄目じゃねえかポンコツロボ。

 

「ポンコツって言うな!」

 

 とはいえ何もしていない俺が責めるのも酷というものだった。俺がやったとしても似たような結果になったはずだ。トリシューラは極めて冷静に対応した。指摘されたような意図は無い、という否定の文章を上げたのだが効果は薄く、火はその勢いを増すばかりである。公式な回答としてはごく真っ当なものだが、相手側の動きが速く、そして量が多い。

 

「情報の拡散と循環が速い――」

 

 見るも無惨な地獄インターネットであった。あちこちの掲示板とSNSとニュースサイトに転載され拡散されていく俺の情報。晒されるサイバーカラテ道場。『何がサイバーカラテだよ馬鹿じゃねえの』『腕気持ち悪過ぎだろ』などなど。

 

「ひどいなぁ」

 

「まあ気にしても仕方ないだろう」

 

 どんな異世界にもこういう暇な連中がいるらしい。まあ反応しても仕方が無い。こういうのは気にするだけエネルギーの無駄だ。軽く受け流すに限る。

 

「あ、何か『俺も転生者だからわかるけどこれ空手っつーより中国武術とかじゃね』だって」

 

「言っちゃならねえことを言いやがったなぶち殺すぞクソが!!」

 

「怒るポイントそこなんだ」

 

 サイバーカラテはサイバーカラテなんだよ空手でも中国武術でも無い新時代の純粋外家拳だからそういう安易なカテゴライズは不要なのわかる?! と一気呵成に捲し立てたかったが相手がいない。相手だけ匿名とかクソだな! 名前が分かったら呪殺してるところだ。


 ――そういえば今、なにか看過してはならない情報が含まれていた気がするが、はて。


 気のせいかな。別に転生者が俺以外にもいること自体は大した事じゃないし、気にするような事でも無いからいいんだが。俺がいるんだから他にもいるだろう。管理された下位異世界なら転生者一人が独占することもあるだろうが、ここは俺が元いた世界と同一レベルに存在するらしい異世界だ。事故や違法転生者が密かに、しかし大量に訪れているだろうことは想像に難くない。


 いずれ出会うこともあるかもしれないが、まあどうでもいい。

 既に一度死んだ身だ。元の世界に戻ることなど望むべくもないし、本来希望していた転生先に再転生するのも今更といった感じである。


 なんにせよ、現状ではこれ以上の事はできそうにない。余計な事をして火に油を注いでしまっても本末転倒だ。沈静化を待つしかない。

 トリシューラは珍しく沈み込んでしまっていた。仮面めいた微笑みもどこか力が無く、うつむきがちである。


 掛ける言葉を探して、自分の中に持ち合わせが無いことに気付いて歯噛みする。こういう時、相手に適切な言葉をかける能力を、俺は持っていない。

 誰かが躓いた時に、必要な言葉を必要なタイミングで用意できるどれだけ得難い資質なのか、俺は今更になって痛感していた。


 俺はアズーリアのようにはなれない。

 気付けば逃げるようにその場を後にしていた。

 行くあても無く、巡槍艦を出て、第五階層の喧噪の中にその身を埋めてしまいたかった。

 

 

 

 認知バイアスか乱数の偏りか知らないが、悪いことは続くものである。ひょっとしたら呪術的な世界なので悪運とかが実在しているのかもしれなかった。


 原因が何であれ、気晴らしに街に出てしばらくして、俺はそのことに気がついた。

 

「あの、店員さん、それは?」

 

 串焼きの代金を高価な呪石で支払うという迷惑な事をした俺に対して、昨日もお世話になった美人店員さんがお釣りとして用意したのは見慣れない紙幣だった。

 

「あら、ご存じありませんでした? 今朝から【公社】が発行している新紙幣ですわ。昨日起きた治癒符の価値暴落を受けて、新たに用意された基軸通貨がこれだそうです。昨日までの資産を申告することで一定額まで補填してくれるとかで――」

 

(ありえない! 対応が早すぎる!!)

 

 ちびシューラの声は掛け値無しに切羽詰まったものだった。対応そのものは想定内だったが、その速度が予想を上回っていたらしい。にしたって、そこまで早いか? 事前に用意しておけば翌日から対応するくらい可能なんじゃないだろうか。

 

(紙幣の発行っていうのはそんなに簡単じゃないの! アキラくんのいた国では紙幣ってどんなのだった?)

 

 そりゃあ、日本銀行が発行して政府に認められた――。

 

(そういうのじゃなくて、形とか何が描かれているかとか)

 

 うん? 著名な人物の肖像とかだな。あとは建物とか植物とか。

 

(この世界でもだいたい同じ。つまり、紙幣というのは例外なくその流通範囲に特有の文化的図像を含んでいるわけ)

 

 それがなんだというのだろう。

 塩味の効いた串焼きを囓りながら、店員さんの細い指がつまむ紙幣を眺める。長方形の紙切れには、蓬髪を振り乱した男性の肖像が描かれている。この世界の有名人の顔か何かだろうか。


 気になって店員さんに尋ねてみる。

 すると、店員さんは整った顔を僅かに曇らせて答えた。

 

「グレンデルヒ=ライニンサルという、いわゆる地上の偉人ですわ。現在も存命で、天才と呼ばれて讃えられております。毀誉褒貶の激しい人物で、正直わたくしはあまり好きではありませんが」

 

 ふむ。

 店員さんのような可憐で心の美しい(に決まっている)女性が好きではないということは、この男は底抜けのクズだということだ。よく知らない人物だが俺も嫌いになった。

 

(アキラくん、聞いてる?)

 

 聞いてる聞いてる。で、紙幣に文化的な意味を持つ図柄が描かれていたら何だっていうんだ?

 

(呪力っていうのは文化摸倣子ミームなの。この世界では、文化を媒介するものには全て呪力が宿る。それを国家なんていう呪的権威が承認したら、その呪術的強度は等比級数的に跳ね上がってしまう)

 

 話を聞いていると、【公社】には国家並の信用があるように思える。

 俺は【公社】を単なるインフラヤクザくらいにしか認識していなかったのだが、ひょっとして地上では巨大な勢力だったりするのだろうか。


 その想像は当たらずとも遠からずだった。

 

(地上の巨大複合企業群メガコーポ、その迷宮探索事業部門が【公社】だよ。多国籍を股に掛ける超巨大な産業体だから、下手な国家より遙かに強大な力を持っているし、信用だって国家レベルを超えてる。それだけの力があの紙幣に込められているの)

 

 想像よりも遙かに大きな相手が背後に控えているようだった。ていうかトリシューラ、そんな相手を潰すとか言っていたのか。まあ第五階層から支部を撤退させるとかその程度の意味なんだとは思うが。


 半ば呆れ、半ば感心する。そういう事実を踏まえると、トリシューラの大言壮語がより一層無謀で勇壮に思えてくる。

 

(紙幣っていうのはその在り方が既にして呪符なの。呪符は紙幣であるとも言えるけど)

 

 なるほど、とトリシューラの説明に心の中で膝を打つ。

 現実に呪的なエネルギー源であり実用品でもある呪符は、それ単体で通貨としての価値を保持できる。最悪の場合は物々交換という形に持って行けるからだ。


 治癒符が第五階層で基軸通貨として流通していたのは探索者に必須であり流通が途切れなかったからでもあるが、元々呪符による取引が一般的だったからでもあるらしい。


 店員さんによると、この紙幣は【保全】の呪符であり、使い手を守る護符として使えるとのこと。状態を保ち、維持する呪術が込められているため、紙幣そのものの交換価値を維持し続けられるのだとか。わかるようなわからないような理屈だ。

 

(多分それだけじゃないと思うよ。詳しいことはこっちで解析にかけてみないとわからないけど、魅了とか思想の伝播みたいな洗脳系呪術も込められている)

 

 ぎょっとして思わず身を引いてしまった。

 

(多分そんなに強力なものじゃないし、万が一呪術をかけられてもシューラが解呪するから大丈夫だよ。ただ、すごく手が込んでるのが気になるかな)

 

 ちびシューラは二頭身の身体で腕組みをして、なにやら考え込むような素振りを見せた。

 

(固有の文脈、歴史、文化などを紙幣が反映するのではなく、紙幣から逆に反映させようとする逆説の理論――。多分、【公社】はシューラの攻撃に対抗して第五階層での支配力を強めようとしているんだと思う。流通する紙幣をメディアとして扱い、親【公社】的な情報を伝染させようとしているのかも)

 

 正直、そういう雲の上というか目に見えない感じの争いは俺にはどうしようもないので適当な相槌しか打てない。物理的に打撃可能な敵だったらわかりやすいのだが。

 

(図像に呪術的意味を付与した呪力紙幣の発行は、多大なコストがかかる上に、呪術が破綻した時にその信用を保証する組織全体に大きな反動がもたらされるハイリスクな行為なの。にも関わらず素早く仕掛けてきたということは、あちらに勝算があるということ)

 

 この第五階層の支配権を巡る争いにおいて攻勢に出ているのはトリシューラだとばかり思っていたが、どうやらその構図は一転してしまったらしい。

 ちょっと前まではかなり楽勝ムードだったように記憶しているのだが。

 

(つまりね、紙幣の発行には高位の呪符を大量生産できるレベルの高位呪術師の存在が必要不可欠なの。それが何を意味するかっていえば)

 

 トリシューラと同格以上の高位呪術師が【公社】にいるということになる――?

 彼女の慌てようからすると、そういう相手がいないという前提があったからこそ簡単に『潰す』などと息巻いていられたのだろう。ところが蓋を開けてみればこれだ。

 

(仕方ないじゃない! シューラと並ぶような呪術師なんて、それこそ【星見の塔】の他には世界中探しても数えるほどしか)

 

 それでも数えるほどにはいるんじゃないか。

 完全に油断なのでは。

 

(うぅ~。だってぇ~)

 

 情けない声を出しながら、萎れていくちびシューラ。メンタル弱っ。

 しかし、相手に強敵がいるっていうのは確かに由々しき事態ではある。

 どんなヤツなのか、情報は掴めないのだろうか。

 

(調べてみるけど。でも本当にあり得ないんだよ。トライデントならこないだ追い払ったし、この階層にシューラ以上の呪術師なんて、それこそセスカぐらいしか――あ)

 

 ちびシューラが気付くのと同時に、俺も気がついた。

 そう、コルセスカがいる。

 【公社】の紹介によって俺の前に現れた、高位呪術師が。


 元々彼女はトリシューラの味方というわけではない。競争相手の妨害くらい想定していて当然だし、てっきりトリシューラもそのつもりで正面から自らの手の内を明かしたのだと思い込んでいた。


 わざわざコルセスカにこれからの予定を説明したのは宣戦布告のようなもので、どんな返し手にも対応してみせるという不敵さの表れなのだと。

 だが、実際にはこの態である。

 

(違うの、シューラは、ああやってこっちの思惑を話しておけばセスカも協力してくれるかなーって思って)

 

 意図が良くわからない。基本的に二人は対立している筈だ。

 

(基本的にはね。でも【公社】は有力な探索者を抱えているから、最速で迷宮の制覇を目指しているセスカにとっては競争相手なの。シューラが【公社】と事を構えるなら、セスカも協力してくれるんじゃないかと)

 

 どうやら、どこもかしこも内部は一枚岩ではないらしい。地上は地上で内輪の競争や派閥争いめいたものがあるのだろう。おそらくは、下の方も似たり寄ったりに違いない。

 それでも、コルセスカが地上側の勢力であることは間違い無い。この状況でコルセスカが【公社】に付くとすれば、それは。

 

(シューラと組むより、【公社】と組む方が自分にとって利があると判断したってことだよね)

 

 まだコルセスカが敵に回ったと決まったわけじゃないけどな。

 

(でも、シューラより強力な呪術師の反応なんてセスカ以外には全く感じられないんだもの。よほど強力な隠蔽呪術を使っているか、もしくはよほど特殊な性質の呪術で紙幣の発行を可能としているかのどちらかだよ)

 

 後者の可能性もあるのなら、予断は禁物だと思うが。

 それに、自分でこういうことを言うのも何だが、一応俺はコルセスカへの返事を保留にしたままでちゃんと断っていないわけで、俺と敵対しかねないような行動をとったりはしないんじゃないか、という推測も一応立つ。

 

(本当に自分で言うのも何だね、それ)

 

 ――自分で考えてけっこう死にたくなったので、やっぱり今のは無しで。

 というか、本人に直接尋ねた方が早いだろう。

 

(そう思ったんだけど、なんか朝早くに外に出ちゃったんだよ。安静にしてなきゃなのに)

 

 タイミングが悪い。コルセスカはここ最近は部屋に引きこもっているので、昼食時にいなくても不自然だとは感じなかったのだ。レオはちゃんといたのでてっきりコルセスカもいるものだとばかり思っていた。


 ――そうなると、やはりコルセスカはトリシューラと袂を分かつことに決めたのだろうか。

 いずれにせよ、このまま考えていても埒が明かないことは確かだった。


 まだそう遠くには行ってない筈だ。実際にコルセスカに会ってみないことには始まらない。

 カード型端末を操作して通話を試みるが電源が切られている。仕方なくメールだけ打って送信。

 

「店員さん、これごちそうさまです。それと少々訊ねたいことが」

 

 期待はしていなかったが、コルセスカをこの辺りで見かけた覚えは無いという。その代わりに、店員さんは妙な情報を寄せてくれた。

 

「昨日ご一緒だった、レオ様――でしたか。少し前にこの辺りで見かけましたが」

 

「レオを?」

 

 レオなら今頃は巡槍艦の内部でトリシューラについて研修とかしていると思っていたのだが、なぜこんなところに?

 

(あー、それがねアキラくん。あの子、さっき街に買い出し頼んだんだけど何故か帰ってこなくて。端末に連絡入れてるんだけど、なんか電源切ってるみたいでさー。何のために携帯してるんだろうね)

 

「お前それ早く言えよ!」

 

 思わず肉声で突っ込んでしまった。行方不明者が二人とか一大事だろうが。報告とか連絡とか、仲間ならしておくべきだろう。と脳内で怒鳴りかけたが、直前で思い留まる。


 仲間ならたしかにその通りなのだが、今の俺はトリシューラの正式な仲間とは言い難い立場なのだった。彼女がわざわざ俺に何でもかんでも報告する義務は無い。コルセスカがそうであるように、俺もいつトリシューラの下を離れて敵対するかわからない身なのだから。


 感情の矛先を見失ったため、とりあえず鎮静作用のある視界エフェクトを発生させて気分を落ち着かせる。


 溜息をついて現実に意識を戻すと、俺がいきなり叫び声を上げたせいで店員さんが身を竦ませてしまっていた。驚かせてしまったようだ。罪悪感があるが、楚々とした美女が両手を胸元にあててびくりと震えている様子には大変、なんというかその。

 

(シューラも確かに悪かったけどさー。アキラくんは別方向にサイテーだよね)

 

 はい、すみません。

 内心でトリシューラと店員さん、両方に謝罪する。そんなことは露知らず、店員さんの方も平謝りにこちらへ頭を下げる。

 

「申し訳ありません。わたくしとしたことが、気がつかず――。あの方をお捜しなのですね?」

 

「あ、いや違うんです。今のは店員さんに言ったんじゃなくて」

 

「わたくし、人捜しならいくらか心得がございます。少々お待ち下さい」

 

 店員さんは腰のホルダーからカード型端末を取り出すと、背負っていた杖の先端部に次々と挿入していく。円盤状の杖先から小さな惑星が幾つも浮かぶ小宇宙の立体映像が投影される。すると今度は他のカードを鮮やかな手並みで立体映像内部に配置していく。


 俺とちびシューラから、同時に驚きの声。俺の方は複数のカードが浮遊していることに対しての反応だったが、トリシューラは違った。

 

(在野の占星術師なんて珍しい。塔の外では絶滅したと思ってたよ)

 

 どうやら店員さんは稀少な才能を持っているようだった。さすがである。

 立体映像の星々が巡り、カードが規則的に位置をずらしていく。カードを扱う手付きには淀みが無く、まるで生前に記録映像で見た占い師のようだった。


 十字に配列されたカードと惑星の位置が一致し、中央に配置されたカードが強く光を放つ。繊手がそれを抜き取り、杖先の円盤に置いた。皿状の先端部は中央がわずかに窪んでいて、カードが設置できるようになっているようだった。元々同一規格なのだろう、ぴたりと杖と合わさったカードが、更なる映像と文字情報を虚空に投影する。


 店員さんは、透徹とした表情とどこか虚ろな瞳で静かに言葉を紡いだ。

 

「星の導きが出ました――。四つの月が貴方の行く先を示し、四つの遊星が貴方の足跡を示すでしょう。輝く恒星が照らし出すのは貴方の本質であり、これらを繋ぐ星座の形があるべき姿を映し出します。九つの星々は貴方が辿るであろう過去、現在、未来、全ての生命の流れを暗示するのです」

 

 という所から始まり、およそ数分掛けてもってまわった解説が続く。極めて象徴的で、具体的な意味が取りづらい、幾通りにも解釈できそうな内容であり、一通りの話が終わったところで思わず訊ね返してしまった。

 

「つまり、どういうことなんでしょうか?」

 

「――その、では、地図を描きますね」

 

 気のせいか、店員さんの表情はやや沈んで見えた。

 いや、店員さんの説明が悪かったわけではなくてですね、ちょっと俺の方にそういうオカルト的な説明を受け取るだけの素地が無いと言いますか。

 

(最初からそうすればいいのに、面倒だなー)

 

 せっかく店員さんがレアなスキルを発揮して協力してくれたというのになんてことを言うんだ。失礼だろ。

 

(アキラくんだって同じこと考えてた癖に。いやらしい)

 

 俺は店員さんの厚意に応えたいだけだ。この純粋な気持ちのどこがいやらしいと言うんだ、失礼な。


 端末上で描かれた仮想の地図を転送して貰い、店員さんにいずれお礼をすると約束して目的の場所へ向かう。

 

(サイッテー。お礼にかこつけて食事の約束取り付けるとかこんな時になに考えてるわけ、この万年発情期!)

 

 だんだんと遠慮が無くなってきているちびシューラの罵倒を無視しながら早足で喧噪の中を進む。しかし、確かに妙と言えば妙ではある。俺はここまで異性に対して積極的な性格だっただろうか。


 なんと言えばいいのだろうか、あの店員さんといると、何故かは知らないが頭の中の変な回路に電流が流れるような感覚があるのだ。その理由までは判然としないが、単に好みのタイプとか美人だからとかそういう問題でも無いような気がする。

 

(別に、魅了の呪術とかが使われた形跡は無かったけど? アキラくんが脳の代わりに下半身で思考してるせいじゃないの?)

 

 直球過ぎだろ。下品な勘繰りは止めろ、俺の気持ちは純粋なんだよ。

 

(うわキモ)

 

 脳内で馬鹿な会話を交わしつつ、俺は街のある一画に辿り着いていた。

 昨日も訪れた覚えがある。多くの路上生活者、身体欠損者、社会的弱者が集まる第五階層の貧民街である。


 ここにレオがいるというのだろうか。

 確かに、昨日はやけにこの場所を気にしていた様子だったが――。


 周囲からの胡乱げな視線を感じつつレオを探すが、一向に姿が見えない。地図によるとこのあたりにいるはずなのだが。


 目に入るのは四肢欠損の物乞いや、煌びやかな蝶の翅を露わな背中に生やした街娼たちばかり。あとは少数の樹木のような人々(たしかティリビナ人だったか)や銀色の甲冑姿が散見されるくらいだ。特徴的な猫耳は見当たらない。


 ほんの僅かな、違和感があった。しかし、それが何なのかわからない。自分の認識に何かフィルターがかかっているかのような感覚。

 色とりどりの蝶の翅、その中に混じって、灰色の翅を持った小さな蝶がひらひらと飛行する。


 くすんだ色の蝶はある一点に留まる。

 それは予兆だったのだろうか。

 ふと、視線がその場所に吸い寄せられる。


 外観は、俺の元いた世界で言えば証明写真の自動撮影機に似ていた。縦長の箱で、入り口にはカーテンが引かれていて、駅の構内などによく置いてあるものだ。


 しかし目の前にあるこれは写真を撮影するためのものではなかった。

 

(こんな所に自動礼拝機なんてあったっけ?)

 

 自動礼拝機というのは、その名の通り、迷宮内部で宗教儀式を簡易に済ませるためのサービスである。


 呪術が生活の一部として扱われているこの世界では、宗教の地位は俺の元いた世界よりも遙かに高い。第五階層のような多様な種族が暮らす空間では、こういった機械の需要があるのだろう。


 そして、カーテンが開いた。

 自動礼拝機の屋根に留まっていた蝶が、表れた人物の肩へと舞い降りていく。


 変化は劇的だった。くすんだ灰色に強い金属光沢が加わり、輝くような白銀へと変化していく。

 蝶が新たな止まり木に選んだ白銀の甲冑、その色彩が伝染したかのような現象だった。


 内側から出てきた松明の騎士は、兜をしていなかった。露わな顔立ちは、端的に言って美男子のそれだ。


 同性の俺でさえ息を呑むほどの美貌。レオのようなイノセントさとも、カーインのような精悍さとも異なるタイプ。ギリシャ彫刻のように整った精巧な顔立ちはまるで美術品のようだ。受ける印象としてはトリシューラに近いが、はっきりと違っているのはその表情に【遊び】が無い事。


 美麗な造型が作り出す表情には、硬質な意思が浮かんでいる。

 思わず目を引きつけられるほどに華のある男。敵対している松明の騎士から隠れることも忘れて、俺はぼうっと彼を眺めてしまっていた。


 目があった。

 視線というものに物理的な力があれば、俺は貫かれていただろう。心臓が止まるかと思うほどの威圧感。


 その場に縫い止められたかのように、身体が動かない。いや、身体は動けるはずなのだが、心が動けなくなってしまっている。

 致命的な相手と出会ってしまったという確信だけが脳内を駆け巡り、それでいて全く行動が起こせないというもどかしさが苛立ちを募らせる。


 この状況は危険だ。この上なく。

 無根拠な直感がアラートを鳴り響かせる中、その男は悠然とこちらに近付いてくる。

 嬉々として、そいつは口を開いた。

 

「やあ、シナモリ・アキラ。奇遇だな。良い出会いだ。俺はこの時をずっと待ち焦がれていたんだ。アズーリアから君の事を聞いたその日から、ずっとね」

 

 灰色の瞳が、熱病にかかったかのようにこちらを見つめてくる。

 そして俺は、出会ってしまった。

 運命の、分岐点と。

 

 

 

(嘘。何で、どうしてコイツが生きてるの)

 

 衝撃に思考を停止させていた俺を我に帰らせたのは、脳内に常駐するちびシューラの狼狽する思考だった。

 他人が自分よりパニックになっていると、かえってこちらは落ち着いてしまうものだ。

 

(確かにあの時、シューラが息の根を止めた筈なのに)

 

 気のせいかな。息の根を止めたとか物騒な単語が聞こえた気がしたんだが。ていうかこの男、格好からして松明の騎士だよな? 松明の騎士団と敵対してると聞いたが、それ絡みか?

 

(アキラくん、コイツにシューラのことを絶対に話さないで。お願い)

 

「どういう意味だ」

 

 問いは、ちびシューラと目の前の男、双方に向けたものだった。

 彼は確かに口にした。アズーリアの名を。


 同じ組織に属している以上、それは不思議ではないのかもしれないが、いずれにせよ俺はその名前を聞き逃せない。

 男は、釣り餌に魚がかかったかのような会心の笑みを浮かべた。

 

「そのままの意味だ。俺は半年前、アズーリアから戦いの顛末を聞いたんだよ。銀色の右腕を持つ隻腕の外世界人――転生者と言うべきかな? そう、君の事をね、アキラ」

 

(そのままの意味。コイツはシューラの敵。シューラはコイツを殺して【松明の騎士団】を抜け出してきたの。シューラがあいつらと敵対してるのは主にそのせい)

 

 男は声すらも美麗だった。深く、こちらの耳の奧にまで染み込んでくる、涼しげな低音。

 一方で仮想の魔女は刃の如き敵意を発散させている。

 

「あの魔将エスフェイルには随分と手を焼かされてね。君とアズーリアが力を合わせてあの異獣を倒したと聞いて、思わず感嘆したよ。そして思った。君が欲しい、と」

 

「あー、それはつまり、戦力的な意味でだよな?」

 

「その通りだ。無論、友としての関係を結べるのであればそれに越したことは無いがね」

 

 なんだろうこれ。ついに松明の騎士団からも勧誘されてしまった。

 引く手数多で嬉しい悲鳴が――いやぐうの音も出ない。


 今度のは【公社】の誘いと違って、少々、いやかなり心を揺さぶられた。

 何しろ、彼の誘いに乗れば、恐らく俺はアズーリアと再会できる。

 といって、視界一杯を使って自分の存在をアピールする小さな仮想の魔女を裏切るのも気が引ける。


 一体、俺はどうしたらいい?

 

(駄目! 絶対そいつの誘いに乗ったら駄目! その男はね、アキラくんの天敵なんだから! 絶対に相容れない、相性最悪、不倶戴天の敵なの! できれば今すぐ逃げて欲しいくらいに!)

 

 ちびシューラの警告は今まで聞いた中で最も鬼気迫るものだった。こんなにも切羽詰まった声は、第六階層の戦いの時にさえ出したことが無かった。

 この麗人、それほど危険な男なのだろうか。

 

(有名人だから、視界撮影して画像検索かければ出てくるよ)

 

 名を口にしたくもないのか、嫌悪と共に吐き捨てる。

 このアンドロイドが、これほどまでに感情らしきものを露わにするのも珍しい。

 

「失礼。そういえば、まだ名乗っていなかったな。礼儀も尽くさずに誘いをかけようとしたことを、どうか許して欲しい。だが仕方の無い側面もあるのだ。俺の真名は用意も無しに聞かせるには少々刺激が強すぎてね。だがまあ、耐えられるかどうか試すのも悪くはない」

 

 そこまで言い終えるのと同時に、男の口の端が嗜虐的に吊り上がる。同時に耳朶の中で絶叫が響く。

 

(聞いちゃ駄目っ)

 

 警告は間に合わず、男の喉が震え、その名前を大気に乗せて送り出す。

 瞬間。

 

 世界が、振動した。

 

 ぐらり、と視界が揺れて、見当識を失う。自分が今どこで、何をしているのかも分からなくなり、気がついた時にはその場に膝を着いていた。


 頭部を鈍器で思い切りゆさぶられたかのような衝撃。

 名乗りの音量そのものはごく普通のものだった。しかし、その意味の量、込められた呪的な力が桁違いだったのだ。


 魔将エスフェイルがその名を吠えた時よりも雄々しく、二人の魔女が同時に名乗りを上げた時よりもずっとおぞましく。なによりも、その名前は精神の中に深く入り込んで浸食してくるかのような形状の異質さを感じさせた。もう思い出すことすら心が拒絶している。この男を名前で認識することを、全身が拒否していた。

 

「ほう。意識を保っていられるとは。さすがに強靱な精神構造をしているようだ」

 

 寒気がした。名乗ることが自己強化の呪術となることはこれまでの経験から知っていた。


 だが、名乗るだけで相手に膝を着かせるなど完全に想像の埒外だ。

 元々の実力が図抜けているのか、それとも宣名による強化幅があまりに大きかったのか。

 

(両方だよ。そいつは、アキラくんが今までに見てきた松明の騎士たちとはレベルが違うの。でも、やっぱりおかしい。前はここまでデタラメな呪力じゃなかったし、それにこれほどの呪力を私が感知できないなんて。今まで、自らの呪力を完璧に隠蔽していたというの?)

 

「くそ、初対面の挨拶にしちゃあ強烈過ぎるだろ」

 

「それはすまなかった。しかし俺としても困っているんだよ。大抵の相手はこの名を聞いただけで意識を失ってしまう。ゆえに、普段は通り名を用いることにしている。どうか君もこちらで呼んで欲しい」

 

「できれば、最初からそっちで名乗って欲しかったな」

 

「重ねて謝罪する。試すような真似をしてすまない。改めて穏便に名乗るよ。俺の今の聖名はキロンという」

 

 慇懃な詫びと共に、籠手に包まれた腕が差し出される。

 偶然かどうかは知らないが、俺の元世界からの引用にも聞こえる響き。単純な音だからそうとも限らないが、どうも俺の周囲の人物はそういう傾向がある気がする。


 つまり、俺が異世界から転生したと知った上で俺の元来た世界から名前を引用してくるという、訳の分からない行為をする傾向が。

 そういや、トリシューラたちに名前のおかしさについて訊きそびれたままだな。

 

(そんなのどうでもいいよ! 質問なら後で幾らでも答えてあげるから、今はそこから離れて!)

 

 悪いが、彼女の言うことは聞けない。

 俺の目的は最初から定まっている。せめてもう少しこのキロンとかいう男の話を聞いてみないことには何の判断も下せない。


 ちびシューラの怒号をノイズとして意識の隅に押しやって、立ち上がって目の前の男に相対する。

 どうしてか、手をとることはしなかった。

 いや、できなかったのか。

 

「そもそも、俺はあなた方に敵だと見なされている筈だ。その事はどうなる?」

 

「不幸な行き違いがあったのは事実だろう。確かに俺には君の捕縛命令が出ているよ。場合によっては殺害すら許可されている」

 

「ならやっぱりこの話は!」

 

「だが」

 

 身構える俺を手で制して、キロンは言葉を繋いだ。

 

「――だが、俺はそういう物事をちゃんと見ようとしない上層部に唯々諾々と従うつもりはない。俺はね、君と戦うつもりはないんだ。君は結果として我々と敵対することになっているだけだ。アズーリア・ヘレゼクシュの報告はほとんど黙殺されているが、君が魔将討伐に尽力したという事は我々松明の騎士団では公然の秘密となっている」

 

「そう、それだ、アズーリアだ。どうして、あの時、俺はあの場所に」

 

 その先を言いあぐねたのは、口にしてしまえば事実を認めてしまうようで怖かっただろうか。

 ためらいの先を、キロンが端的に続けてしまう。

 

「その先は、どうして見捨てられたのか、かな」

 

「――ああ。俺は半年前、第五階層に置き去りにされた。アズーリアは確かに戻ってくると言った。だがその約束は果たされなかった。教えてくれ。あの後、何があったんだ?」

 

 ずっと、その事だけが引っかかっていた。

 半年間、理由すらわからずに、ただ待ち続けるだけの悪夢を見続けた。

 過ぎたことはいい。ただ、何が起きているのか、正確な情報が欲しかった。

 

「まず誤解の無いように言っておこう。アズーリアは可能な限り君を助けようとしたそうだ。結果としてその行為は報われなかったわけだが、君の現状はアズーリアの本意では無い」

 

 意識せずに息を吐いて、ふと首をかしげる。

 俺は何か、重い物でも肩に乗せていただろうか。

 自分でも奇妙になってくるほどに、身体が軽く感じた。

 

「そして、俺は更に重ねて謝らなければならない。何故なら、君があの時見捨てられた原因の一つが、俺にあるからだ」

 

「順を追って説明してくれないか。結論だけ話されてもわけがわからない」

 

「勿論そのつもりだ。そうだな、まずは俺の事から話そうか。俺は地上ではそれなりに格式のある家の出でね。騎士団内部でもその肩書きはついて回った。何処にでもある、組織内部の勢力争いさ。少なくない連中が俺を担ぎ上げ、旗印として利用しようとした。その結果、俺には功績を上げられるような重要な任務が優先して回されるようになった」

 

 キロンは忌々しげに言葉を連ねる。

 口にすること全てが下らない、とでも言うかのように。

 

「その重要な任務というのは、他でもない、魔将の討伐だ。笑えることにね、松明の騎士団では誰がどの魔将を討伐するのかが既に内定しているんだよ。功績を誰かが独占しないように、武功は分配される決まりになっているんだ」

 

 キロンは、笑おうとして、それに失敗した。

 その表情が、強すぎる怒りによって歪んでいた為だ。

 ああ、なるほど。それで合点がいった。

 

「話が見えた。つまり俺とアズーリアは、貴方の獲物を横取りしてしまったということか」

 

「その通りだ。俺の支援者達――騎士団の上層部、大神院の老人たちは迷宮攻略が予定通りに進まなかったことが不満だったらしい。だからやり直せばいいと考えた。一度第五階層を異獣共に奪わせて、次こそ俺に第五階層を攻略させようとしたわけだ。掌握者代行である君の命を、異獣の前に投げ出すことすら厭わずに」

 

 しかし、その目論見は失敗したはずだ。

 何故なら、その直後に第三者が第五階層を掌握し、全てをひっくり返してしまったから。


 つまり、下からも上からも死を望まれていた俺は、その第三者によって救われた事になる――のだが、おいちびシューラそのドヤ顔やめろ感謝する気が失せるだろうが。

 

「それにしても、自分の為のお膳立てだっていうのに随分と不満そうだな」

 

「当然だ! 無辜の命を犠牲にして何が正義だ! 貴族として、聖騎士として、異獣から尊き命を守る事こそが我々が抱く至上の使命であるべきなのだ。それを、あの腐った連中はまるで理解していない!」

 

 憤懣やるかたない、という様子でここにはいない誰かに敵意を向けるキロンの姿は、俺の目には「いかにも」という感じに映っていた。


 アレだ。ノブレス・オブリージュ。高貴なる者の義務とか、力ある者の役割とかそんなん。高潔な戦いを行うために理想を追いかけるような、カーインとはまた別の種類の武人タイプだ。


 どうやら、この世界における聖騎士というのはいわゆるパラディンを意味していないようだった。高潔な勇士とか、位の高い騎士とかではなく、文字通りの聖なる騎士。


 俗界でなく聖界に属する騎士修道士たちの事を指す称号。

 ナイトというよりもむしろモンク。

 その意思の根幹にあるのが信仰であるならば、俗世の欲にまみれた人間はさぞ汚らわしく思えるのだろう。


 好感の持てる人物ではあるが、俺自身があんまり褒められた人格をしていないのであまりお近づきにはなりたくないタイプだなあ、と思う。

 

「アズーリア・ヘレゼクシュと君の功績は認められ、讃えられるべきだ。だというのにこの仕打ちは何だ? 俺は今でも納得が行っていない。斥候からの報告で、第五階層の掌握者が強力な呪術師だということはわかっていた。そこで俺は上層部に上申した。対抗呪文と解呪の使い手である、アズーリア・ヘレゼクシュを魔将エスフェイルの討伐に連れて行くべきだと」

 

 熱を込めて語るキロンを見ながら、そういえばこの男はアズーリアとどういう関係なんだろうか、という疑問が湧き上がった。同じ組織に属しているといっても、ただ名前を知っているだけの間柄から親密な関係まで色々幅がある。

 

「だが俺の案は却下された。理由は幾つかある。練度不足なこと、東方出身であること、同期に司教のお気に入りがいてそいつより活躍させるわけにはいかないこと、魔将エスフェイルを討伐する役目に俺が内定していたこと。なにより俺とアズーリア・ヘレゼクシュが所属する派閥が対立していることが大きかった。互いに協力して功績を分け合うなんて絶対にできなかったわけだ。俺としてはそんなものは糞喰らえと言いたいけどね」

 

「貴方は、共に戦うつもりだったのか」

 

「真に地上の勝利を願うならそうするべきじゃないか? 松明の騎士団は一枚の岩のようであるべきだ。残念ながら今はそうじゃない。俺はそのことを大いに恥じているよ。だが俺は悔やみ、怒りに震えるだけで何もしてこなかった。そうして俺が手をこまねいている内に、アズーリア・ヘレゼクシュはあの絶望的な第四階層の防衛戦に駆り出されてしまった。そしてそれは、アズーリア・ヘレゼクシュに活躍の場を与えずに使い潰す為の罠だったんだ。身内が身内を殺す。そういう腐りきった組織なんだよ、松明の騎士団は。そしてその切っ掛けを与えてしまったのは、恐らく俺の推薦だ。それを知った時の絶望は、ちょっと言葉にはしづらいな」

 

 怒りの表情から一転して、自嘲の笑みを見せるキロン。どうやら責任を感じているらしい。クソ真面目だなこの人。


 因果関係と責任の所在は単純には一致しない問題である。アズーリアに言わせれば「背負わなくてもいい責任を背負わないで」といった所だろうが、俺がキロンにそれを言うのも何か違う感じがする。

 

「尤も俺が何かをするまでもなく、当の本人はただ肉の壁として殺されることを良しとせず、仲間と共に第五階層に攻め入り、見事魔将エスフェイルを討ち取ってみせたわけだが。相性が良かったということを差し引いても、その勇猛さには敬服するばかりだよ。勿論アキラ、君の尽力も大きかったはずだ」

 

 彼の言葉が事実なら、俺とアズーリアが出会う間接的な切っ掛けを作ったのは目の前の男だということになる。

 奇縁とでも言うべきだろうか。数奇な巡り合わせに、俺はしばしの間言葉を見失う。


 今、こうしたキロンが俺の目の前にいるのは、そうした事情に負い目を感じていたから、ということだろう。

 俺が自らの存在と居場所を公表した直後にこうして出会ったのは、実際には偶然でもなんでもない筈だ。

 

「君には地上に来るべきだ。失った左腕も、君の上げた武勲を考えれば補うことができる」

 

「それは、どういう?」

 

「【寄生異獣】の技術は、対象を討伐した者に優先して志願する権利が与えられる。望みさえすれば、魔将エスフェイルの力は新たな左腕となって君を助けるだろう――闇と死を掌握する権能と共に」

 

 そうか。地上に向かえば、俺は失った左腕の替わりを見つけられるかもしれないのか。

 それがあの最低最悪の敵というのは複雑な気分だが、選べる義肢が一種類だけではないという事実は、俺にとって新鮮なものだった。

 

「だが」

 

 と、キロンの視線が再び鋭利な空気を帯びる。

 まるでここからが本題だとでも言うかのように。

 

「君はともかくとして、【きぐるみの魔女】を見逃すことまではできない。彼女の居場所を教えて貰いたい」

 

「誰だって?」

 

 とぼけたが、心当たりはある。

 きぐるみの魔女というのは、トリシューラのことだろう。

 

「我々聖騎士は見聞きした情報を記録し、共有するシステムを構築している。先日の第六階層での戦闘記録から、君の傍に【きぐるみの魔女】がいたということは既にわかっている」

 

 稚拙な嘘はすぐにばれる。

 刃のような目が、言葉が、安易な言い逃れを完全にさせないと暗黙の内に告げていた。

 

(やっぱこうなったかー。随分派手に呪術を使っちゃったから、反応を辿られるのも仕方が無いんだけど)

 

 呪術なんて使ってたっけ? 自動二輪で駆けつけて銃ぶっ放したりはしてたが。

 

(銃、というかこの世界では投射武器は何でも【杖】の呪術扱いだよ。スリングショットでも投石機でも弓でも弩でも、使えば呪力が検知されてしまう。とりわけ銃はもの凄く派手に呪力汚染を撒き散らすから、発砲するっていうのは大声で私はここにいますって喧伝しているようなものなの。ついでに言えば、使い手の健康を著しく損なってしまう)

 

 この世界に来てから、技術レベルの割に銃に出くわさないと思ったらそういう事情があったのか。単に呪術で飛び道具が代用できるからだと思ってた。

 

(そういう理由もあるけど、適性が無いと引き金を引くことさえできないんだよ、銃って。そもそも高位の投射武器、それも重火器まで扱える【銃士】級の呪術師なんて、【星見の塔】にだって私含めて五人しかいないんだから)

 

 さらりと解説に見せかけた自慢をするちびシューラさんであった。二頭身のデフォルメ体を大げさに仰け反らせて見せる。はいはいすごいすごい。

 そんな脳内でのどうでもいいやりとりと平行して、真剣な表情で聖騎士は言葉を続けていた。

 

「あれは邪悪な魔女だよ。この世にいてはならない存在だ。俺がこの第五階層に来た最大の目的は【きぐるみの魔女】を殺す為だといっても過言ではない」

 

「何か、殺されるような事をやらかしたんですか、その【きぐるみの魔女】ってのは」

 

「そういえば、君は外世界から来たのだったな。その様子ではあの忌み人共――【キュトスの姉妹】について何も知らないらしい」

 

「忌み人?」

 

 確かに、星見の塔とかいう、呪術師の組織に所属しているってことくらいしか知らないが。

 二人の魔女との会話の中で、何度か出てきた言葉だった。キロンの嫌悪に満ちた口調からすると、よほど敵対的な関係のようだが。

 

「神話の時代、偉大なる槍神は不死の邪神を七十一の肉片に引き裂いたと言われている。キュトス、というのはその邪神の名だ。キュトスの姉妹とは神話の中で槍神を誘惑した悪しき女神の末裔とも、引き裂かれた欠片そのものとも言われる伝説的な魔女たちの事を指している。半神、あるいは生きた女神などと言われ、地上世界にありとあらゆる災厄を撒き散らしてきた邪悪な存在だ」

 

 邪神だの女神だの、またスケールが大きくなったものである。

 正直、トリシューラとかコルセスカを「彼女たちは女神です」といきなり言われても「はあそうですか」としか思えないのだが。

 

「奴らがこの世界に撒き散らしてきた災厄の数は十や二十では到底きかない。およそこの世に生きる全ての者たちにとっての害悪。それこそが【キュトスの姉妹】だ。正体を知らなかったとはいえ、あのような魔女を身の内に招き入れた事は【騎士団】最大の汚点となるだろう」

 

 ただ、キロンが忌み嫌う理由はわかった。

 邪神の末裔。魔女の烙印。神話を参照した排除。

 つまるところは、宗教上の理由、というやつだ。

 

(アキラくん、シューラは)

 

 ――論外、と言って差し支えない。

 俺はその神とやらを知らない。キロンの信じる神がどれだけ綺麗な教義を掲げているのだか知らないが、そんなものを尊重してやる義理は無い。

 

「悪いが、心当たりが」

 

「地上に寄生異獣という技術、いや業をもたらしたのはあの魔女だ」

 

 ――何?

 それだけではない、と続けるキロンの眉尻が、剣呑な角度に吊り上がっていく。

 怒り、というよりも義憤の炎がその瞳の中で燃え上がっていく。

 

「あの魔女は地上のみならず、地獄にもおぞましい術を提供していたのだ。我ら人類の意思を奪い奴隷化する呪術。解体して肉の部品として切り売りするという呪術。更には魂を冒涜するかのように、死人を甦らせ、腐肉の兵隊、骸骨の戦士、実体無き霊魂を使役する邪法をも完成させたという。アキラ、君はそれを見たことがあるのではないか?」

 

 思い出す。

 魔将エスフェイルが行った、カインを生きながらにして変質させる呪術。キール達の意思を奪い、操り人形として使役する呪術。そして今まで犠牲になった者達の屍を集めて、屍肉の巨人と化す呪術。


 アレが全て、トリシューラによってもたらされた技術だというのか?

 

(うん、そうだけど?)

 

 あっさりと。

 あまりにも簡単に、彼女はそれを肯定した。

 

「上と下、双方に邪悪な呪いをばらまき、凄惨な戦いを煽るような魔女の狙いが真っ当な物であるはずがない。かならず危険な企みがあるはずだ。俺はそれをなんとしても阻止しなければならない」

 

 付け加えるなら、今の第五階層、つまり擬似的な中立地帯を形作ったのはトリシューラだ。


 対立する二大勢力の戦力を強化し、戦火を拡大させる。中立地帯を作り上げ、物や人を行き交わせる事で技術の発展を促進させる。事実だけを並べていくと、確かにそのような結論が導き出されるのも無理は無い。


 そして俺は彼女の目的を既に知っている。

 自らを邪悪な魔女であると規定し、己の存在証明の為にどのような非道すらも厭わないというその意思を。


 であれば、トリシューラのコウモリというか、戦争中の両国に武器を売りつける死の商人みたいなやり口は全てその目的の為なのだろう、とは推測できる。


 何も、おかしな事は無い。納得できないことなどひとつもない。

 俺は【異獣憑き】であるアズーリアの力で救われた。

 ならば、間接的にはトリシューラがもたらした技術が俺を救ったと言うこともできるだろう。


 だというのに俺は、視界の隅にいる仮想の少女を直視することができなくなっていた。

 何故なら、トリシューラが地獄側に技術を提供しなければ。


 カイン達は、あんな無残な死に方をすることもなかったのではないか、という最低の思考が消しても消しても次々と湧き上がってくるからだ。

 わかっている。俺は一度トリシューラの邪悪を肯定した。今もそれを肯定し、追認し続けている。


 その事自体はいいのだ。俺もまた邪悪であるのだから。

 問題は、いざその邪悪さが自分の身近な人に向けられた時にだけ、都合良くトリシューラを非難しそうになったというその無責任さそれ自体にある。

 醜悪極まりない選別。


 結局の所、俺もまた人間に値札を付けて回る身勝手で傲慢な輩だったのだと、改めて思い知らされる。

 この程度の覚悟でトリシューラと共に行くなどと決意したつもりになっていたのか、俺は?

 

「魔女の居場所を俺に教えてくれ。そうすれば、俺は君の味方になってやれる。あの大罪人の処刑に貢献したという実績があれば、君が我々の仲間を不幸な行き違いで殺害した件に関して『恩赦』が下るようにするのも不可能ではない」

 

「それは」

 

 都合の良い話など存在しない。これは取引なのだ。

 既に松明の騎士団と敵対してしまった俺が再び地上側に付こうとするには、相応の選択が必要になる。

 その為に、俺はトリシューラを売ることができるだろうか?

 

(アキラくん、あの――)

 

 俺の葛藤を読み取っている為か、小さな仮想の表情は不安げだ。当然だろう、俺は迷いすぎるぐらいに迷っている。今まで俺の内面をずっと読み取ってきた彼女にはそれがよく理解できているのだ。客観的な事実として、俺には決断能力が欠けている。


 こういう時、判断を機械に委ねるのが俺にとっての正しさだが、このような場合に状況判断をするアプリケーションは生憎と手持ちに無い。

 

「少し、時間が欲しい」

 

 またそれか、と自分でも思うが、現状では結論が出せそうにないのも事実だった。


 キロンはしばし目を細め、こちらの表情からその思考を探り出そうとするようにじっと視線を向けてきた。X線で体内を精査されるような、一瞬の緊張。

 

「いいだろう。では明日、同じ時間と場所で待つ」

 

 キロンの背後には目印としてわかりやすい自動礼拝機が設置されている。高度な技術が用いられた精密呪具であるため、インスタントに生成・消去される建造物を目印にするよりもずっとわかりやすい。

 

「ただし、もし刻限までに来なかった場合」

 

「心配せずとも逃亡なんてしない。どうせ俺には逃げ場なんて無いんだからな」

 

「――色よい返事を期待している」

 

 そうして、男は第五階層の雑踏の中に去っていった。後を追って羽ばたく蝶の鱗粉と翅の構造色が、煌めくように軌跡を描いて、やがて消えていった。

 

 

 

 勿論、トリシューラを売る気は無い。

 だが、積極的にキロンと敵対する気があまり起きないのも、彼の誘いに心が動いているのも事実だった。

 

「どうしたもんかな」

 

 深く長く、息を吐く。

 手詰まりだった。


 いつもやかましい仮想の二頭身も、今回ばかりはじっと押し黙っている。何か余計な事を口にして、俺の決断の針が妙な方向にぶれることを恐れているのかもしれなかった。


 実際、今の俺はちょっとしたことで選択を揺らがせてしまいかねない状態にある。

 炎上騒ぎに【公社】の反撃、そしてとどめにキロンの誘い。


 のべつ幕無しに襲来する面倒事。コルセスカではないが、布団にくるまって現実逃避したい気分だった。

 

(あのさ、アキラくん。話は変わるんだけど、レオはどうしようか?)

 

「あ」

 

 そういやそうだった。探している最中にキロンに遭遇したおかげですっかり忘れていたが、レオを見つけなければならない。

 周囲を見回して、それらしい姿が無いかどうか探す。


 このあたりはただでさえ治安が悪い第五階層の中でも特に無法地帯に近い。レオのような小さくか弱い存在が一人で歩いていたら、どんなことになるか。

 

(アキラくん、過保護)

 

 いや、お前は知らないだろうけど、初対面がまさにそういう状況だったんだよ。

 あの少年には、良い悪いを問わず他人を引きつけるような所がある。目を離すと大変な事になりそうで不安なのだ。


 【Doppler】をフル活用して探すこと数分。

 案の定、というべきだろうか。レオは樹木系種族が固まって住んでいるあたりにいた。昨日から気にしていたそぶりは見せていたので、予想はできたことである。

 

(連絡も無しに寄り道されても困るけどね)

 

 まあ、そこは後で注意してもらうとして。

 俺は声をかけようとして、失敗した。


 レオがしていることを見て、完全に思考が停止してしまったのだ。

 彼はひたすら話していた。声を張り上げていた。必死に。夢中になって。明らかに通じていないが、それでも何故か意思疎通に成功しているようだった。


 いや、よく見れば噛み合っていないのだが、それでもジェスチャーなり行動なりを繰り返し、どうにかそれらしいコミュニケーションもどきが成立しているのだった。


 レオが話しかけ、はたらきかける相手は様々だ。傷病者、物乞い、昆虫系種族、幼子を含む街娼。

 その選択基準が、俺には理解できた。


 昨日目にした、施しの手からこぼれ落ちた者達に、何かをしようとしているのだ。あれはなんだろう、食料? 比較的安価な携帯糧食だろうか。糖分を補給できるタイプの、捉えようによっては菓子のようなアレだ。レオはそれを、人々に配っているのだ。つまりは施しのつもりなのだろう。


 明らかに、歓迎されていない空気だった。それはレオ自身も感じていることだろう。だが、そんなことはほとんど表に出さず、濡れそうになる瞳をきっと鋭くさせて、次の行動に移る。


 無視される。これはよくある。悪態を吐かれる。何度も何度も。貰うものを貰って、礼も言わずに去っていく奴はまだ善良な方で、レオに襲いかかって身ぐるみを剥ごうとする者もいた。そういう奴は大抵即座に第五階層住民の権利を剥奪されて、【人狼】になる。そうなるともう、【生きた死体】同然という扱いで、ぼろ雑巾の状態で路地裏に放置される。レオは、そうしたクズにも悲痛な視線を向けて、しばらくうつむいて、それでもまた同じようなことを続けていく。


 最悪なのが、樹木のような種族――【ティリビナの民】だった。

 彼らはその静かなイメージに反してかなり攻撃的で、暴力を振るうことに躊躇いがなかった。おまけに、外皮が硬い。鎧を纏っているかのように硬く重い。彼らはレオの言葉に耳を貸さず(理解できないのだから仕方が無いのだが)、その太い丸太そのものの腕で少年の矮躯を吹っ飛ばした。散らばった糧食に一斉に群がる物乞い達。


 ティリビナ人たちの暴力行為に、創造能力略奪のチャンスを見出した者は多かったが、直後に肩を落とすことになった。彼らは既にそうしたものを持たない最下層民――【人狼】【生きた死体】なのだった。最下層どころか、層の外側、アウトローとでもいうべき存在である。


 が、その硬質の肌と見上げるような巨躯、悠久の時を重ねて来た大木を思わせる重厚な雰囲気に呑まれて、彼らに立ち向かおうとする者はいなかった。


 レオは、猫耳をぴくぴくと震わせながら軽やかに立ち上がる。幸いダメージは小さかったようだ。

 肉体的にも、精神的にも。彼はまったくへこたれていない。


 レオは行動を続けた。邪険にされようが失敗しようが言葉が通じなかろうが、己の信じたやりたいことを必死にやり遂げようとしていた。

 それを見て、なんだか俺は。

 

(お使いサボって何してるんだか。まあ【猫】に勤勉さなんて期待してないから、いいけどねー)

 

 笑いすら含んだ許し――けれど、俺にはとてもじゃないがそんな楽な心境にはなれない。俺はあの光景が怖くて仕方が無い。あれを、これ以上直視していたくない。


 ああ――だって彼は。

 あんな風に誰からも邪険にされて、拒絶されているのに、強く、朗らかに笑っている。


 言葉が通じていない。

 その程度の事実など、何の障害にもなりはしないと、証明するかのように。


 レオが作り出すその表情の、行動の、なんと尊いことだろうか。圧倒的な善性。溢れんばかりのフィランソロピー。人は、見知らぬ誰かに優しくすることができる。


 俺にはない資質だ。

 言葉が通じなかった俺は、彼のような事はできなかった。だからよりわかりやすい暴力に走った。


 だが、もしかしたらああやって、どうにかして真っ当なコミュニケーションで人間関係を構築していくことは、可能だったのではないか?

 俺が未だに居場所を持たないのは、言葉のせいではなくて。


 俺とレオとの、決定的な差異。

 レオにある尊い資質。それを俺は、有していない。ただそれだけなのだ。

 それだけの事が、どうしてかたまらなく苦しくて。


 俺はレオの奮闘を長いこと見つめたまま、呆然とその場所に立ち尽くしていた。

 

「なんか、もう一回死にてー」

 

 口の中で、小さく呟く。

 ただ一人それを聞き咎めたちびシューラが、何かを言おうとして、口を閉ざした。


 なあ、ロドウィ、キロン、トリシューラ、コルセスカ。

 どいつもこいつも、何故か俺を高く見積もっているようだけど。


 多分それは金メッキのトロフィーに価値を仮構するような、偽りの値札なんだよ。ゲーム用のおもちゃの通貨。舞台用のマクガフィン。俺そのものには大した価値が無いんだ。本当はそうだ。


 正しい意味で、求められるだけの価値を持っている人物は、他にいる。

 俺ではない。俺では、あんなことはできなかった。

 できなかったのだ。

 

 

 


 

 

 

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