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2-8 その視座の名はゆらぎの神話

 

 

 

 実に、3,600秒程度の出来事だったという。

 第六階層に降下してから、トリシューラの拠点へ戻ってくるまでにかかった時間である。


 体感ではもっと長かったような気がしたのだが。

 トリシューラとの超圧縮された情報伝達のせいで主観的な時間と客観的な時間との間にズレが生じているようだった。


 トリシューラの持つ技術は、この世界に来てから最も驚かされるものの一つだ。この呪術の世界にあって、彼女の存在は少々異質な印象を受ける。

 その感覚は、トリシューラの拠点を改めて訪れると同時に膨れあがった。


 それを拠点、と場所のように呼ぶのも少々不正確かもしれない。

 第五階層に戻る手前で、俺たちは脇道に逸れた。


 階層間を繋ぐ階段は一種の亜空間なのだという。その都度、外界から隔離された移動用の亜空間が一時的に生成される。階層と階層の間の何も無い空間を浮かぶ『泡』のようなもので、一度使えばその後は弾けて消えてしまう。


 視覚的には階段だが、実際には昇降機とか、渡し船とか表現した方が実態に即している。

 その泡の中を進んでいると、トリシューラは唐突に進路とは別方向、真横に穴を空けてそちらへ向かおうと言い出した。


 第五階層の階段付近には松明の騎士たちが自分を待ち構えているだろうから、自分はこの先には行けない、とのことだった。

 彼女は『上』にとっての賞金首で、俺を助けにきたことによってその居場所が露見してしまった。


 そして半ば成り行きとはいえ、『上』と敵対してしまったのは俺も同じなのだった。あちらから仕掛けてきたとは言え、そういう言い訳が通用する相手ではないだろう。


 俺達としてはそのまま上に行くわけにも行かないわけで、トリシューラの誘いには頷く他無かったのだが。

 ただひとり、カーインは馴れ合うことを好まず、再戦を仄めかしつつ第五階層へ去っていった。


 一時的に共闘したとはいえ、本来は敵同士であるから当然ではあるのだが――俺は正直な所、奴の存在自体をかなり怪しいと感じていた。

 あのロウ・カーインとかいう男、あまりに駒めいてはいなかっただろうか?


 あの状況では仕方が無かったとはいえ、敵から即座に味方に転じるという展開はあまりに都合が良すぎる。

 誰にとって都合がいいのか――それは敵という目的を得て、窮地で共闘相手を見出した俺にとってに他ならない。


 それだけではない。

 俺と並んで歩く白銀の髪をした少女を横目に眺める。負傷の苦痛が表情に出ないのは耐えているのか、それとも俺のように痛覚を制御しているのか。

 いずれにせよ、氷のような美貌からその内心を読み取るのは至難だった。


 次いで、前方を軽やかに進む赤色の髪の少女に視線を移す。

 俺の元いた世界ではまずお目にかかれないであろうほどの彩度の高さ。鮮血のような不吉さと、陽の明かりのような朗らかさの両方を連想させる赤い少女。彼女の変わらぬ微笑みの裏もまた、俺にはまるで読めない。


 俺の窮地に颯爽と現れ、救いの手をもたらした二人の魔女。

 彼女たちは、どういうわけか俺を配下もしくは仲間に加えたいらしい。

 とすると、こういう疑いが浮かび上がってくる。

 今回の一件は、全て彼女たちが俺の信頼を勝ち取る為の仕込みだったのではないか?


 もし俺の勘繰り過ぎだったとすれば恩知らずに恥知らずを重ねるような思考だが、そうやって考えるとロウ・カーインが俺を終始圧倒しながらも何故かトドメを刺さなかったり、急に味方をし出した事にもある程度納得が行く。俺が納得できるというだけなので、全くの見当違いということも充分あり得るが。


 断定できるような材料に乏しく、現段階では考えても仕方が無い事ではある。

 それに、俺は既にこの二人の魔女にかなりの恩義を感じていた。ある程度、利用されてもいいかと思えるほどに。


 こういうことを考えている時点で、彼女たちの思惑――そんなものがあったとして――に嵌ってしまっているのだろう。


 俺はどうも『修羅場を共に乗り越えた』的な経験に弱い傾向がある。たとえ仕込みの可能性があっても、事実としての記憶と体感が、経験を共有した相手にシンパシーじみたものを抱かせてしまうようなのだ。


 ――まあ、しばらくは様子を見るか。

 ともあれ俺たちはそのままトリシューラが空けた横道へと進み、それを目の当たりにする。


 思えば最初に担ぎ込まれた時は意識が無く、目覚めてからそのまま第六階層へ落とされた為に、その外観を目にするのは初めてなのだった。

 ぽかんとしてしまったと思う。


 この世界に転生して以来、巨大なものはいくつか目にしてきた。

 見上げるように巨大な狼、エスフェイルが最後に見せた死肉の巨人形態、王獣カッサリオ、さらには迷宮を埋め尽くす融合体――。


 しかし、それらは所詮、『生物』というカテゴリの中の巨大さだったのだと思い知らされた。


 呪術医院、という表現は俺に先入観を植え付けていた。

 俺は目覚めた場所が、てっきり第五階層で多く見られるようなシンプルな形状の建造物だとばかり思っていたのだ。


 大きい。

 あまりにも巨大な、それは船だった。艦船である。繰り返すが極めて大型であった。


 艦首から艦尾まで、首を百八十度回さなければ見渡すことができない。高さに関しても、恐らくは三、四階建ての建物に相当する。

 

「基本的な排『情報』量だけで16ゼタバイトはあるからねー。まあちょっとしたもんだよ。これだけ構築するのに半年かかっちゃった」

 

「なんだそのでかいデータ」

 

 何の情報を処理してるんだよそれで、と思わないでもなかったが、なにしろ空間と空間の狭間を往く船だ。俺の想像を絶するテクノロジーが使われているのだろう。


 フォルムはどこか鋭角的で、別に水上を進むわけではないせいか、上下がほぼ対称的だった。

 ディティールが多めの魚雷型潜水艦、というのが最も近いイメージだろうか。


 色彩は深い赤がベースで、所々に黒という派手なものだ。これはトリシューラの趣味か、そうでなかったら病院を示すカラーなのだろう。何となく前者である気がした。


 病院船、という用語が頭に浮かぶ。

 

「病院船ではないかなあ。法的に認可されたわけじゃないし、武装してるからねこれ」

 

「武装してるとそう名乗っちゃダメって、考えてみれば当たり前か。正式にはなんていうんだ?」

 

「名前? 巡槍艦マツヤ」

 

「なんだその名前」

 

「うっわーこれだから男の子ってめんどくさいなーもう。あーじゃあいいよ、えっとーなんか神話的に対応するのは――ノアズアーク、とか。あ、目がキラキラし出した。うん返事はいいよ、これでいいんだよね。はい決定」

 

「まだ何も言ってねえだろ」

 

 いや、それでいいけどさ。

 というわけで拠点名は呪術医院にして巡槍艦ノアズアークという事に決定した。


 『世界槍』の中や周辺を洋上を進むようにして巡洋するので巡槍艦、ということらしい。

 階層の狭間に潜行するというイメージからは、どちらかというと潜水艦を連想するが、トリシューラ曰く「そういう作りにしてない」とか。


 桟橋を通って艦内へ入った俺たちは、まずトリシューラから治療を受けることになった。

 治療用の呪符などで応急処置は済ませてあるものの、医師にちゃんと見てもらった方がいいに決まっている。


 満身創痍で体力も限界に近い状態だったコルセスカ、融合体に締め上げられて身体の各所に痣ができてしまっていた少年、そして腹に穴があいていた俺。


 自分もぼろぼろだというのに、トリシューラは見事な手際で治療を行う。

 

「トリシューラ、身体はもう平気なのか?」

 

 彼女もまた先刻の戦いで随分と負傷、というか破損していたはずだ。

 身体を眺めても、特に異常があるようには見えなかった。


 服を着替えただけで、内側は傷だらけなのかもしれないが――黒いニットのワンピースはシンプルなデザインで、服越しにわかる身体のラインに、特に目につくようなへこみなどは見当たらない。至ってフラットである。

 

「アキラくん、今いやらしいことを考えたね?」

 

「え? いや、そんなことは」

 

「はー。ほんと男子ってサイテー」

 

 濡れ衣だ。

 緩く微笑んだまま軽蔑の視線を向けるという器用な芸当をこなしつつ、トリシューラは手の平をくるりと回して見せた。

 

「この身体はスペア。取っ替えたの。全部」

 

「ああなるほど、そういうことが出来るんだな、アンドロイドは」

 

「そういうこと。私の『不死』は『再現性』だからね。材料と環境さえ整ってればそうそう死なないよ」

 

 不死――確か、コルセスカもそうであるらしいことを言っていた。

 呪術がある世界なら不死があってもおかしくはない。

 とはいえ、トリシューラの言う不死は少々俺がイメージする不死性とは異なっていたが。

 

「それならいいんだが、さっきは随分と無茶をしているように見えたからな。何度か庇ってくれたし」

 

 トリシューラは何でもないことのように平気平気と繰り返す。

 不意に、声から力が失われる。

 

「そう、私は、シューラは平気。平気だよ。だって私は私で、だから」

 

「トリシューラ?」

 

 中空に視線を固定させたトリシューラの様子に、どこか不穏なものを感じて問いかける。

 もともと生気が薄く、人形のように白い肌色が、今は亡霊じみた色彩を帯びていた。


 尋常な様子ではない。緑色の目もどこか虚ろだ。

 何かを察したのか、近くで話を聞いていたコルセスカが寄ってきてトリシューラの肩に手を置いて声をかけた。

 

「トリシューラ、大丈夫です。貴方は確かにそこにいます」

 

 その言葉に、トリシューラははっと目が覚めたように身を震わせた。

 次の瞬間には、何事もなかったかのように快活な笑みと明るい声に戻っている。


 問いただそうとしたが、その前に有無を言わさず診察室を追い出される。

 俺たちは三人まとめてひとつの病室に叩き込まれた。

 結構広そうなのに別室じゃないのだろうか?


 カーテンがあるだけで、男女を同じ病室にというのはちょっと俺の持つ常識とはずれている。

 

「今は他の病室が一杯なの。さっき色々回収してきたから、ね」

 

「うん?」

 

 含みのありそうな言い回しだった。

 が、詳しく問い質すより前にトリシューラはコルセスカの方に話しかける。

 

「セスカはしばらくここで安静にしててね。仲間の人たちにも休暇延長するって連絡しときなよ」

 

「ですが、私がいなければ探索が滞ります。三人だけで回している現状、一人でも欠けたら迷宮攻略が難しくなってしまいますし」

 

 なるほど、コルセスカが仲間を増やしたがっているのはその辺の事情もあるのだろう。

 人数が多くなれば交代で探索に赴くこともできるようになるわけだ。

 

「怪我なんだって説明すればわかってもらえるでしょ。そもそも、そんな体調で探索なんてぜったいダメ。呪術医として認められません。セスカたちの今の探索域って第四階層の『裏』でしょ? あんな邪視耐性持ちが多いフロア、今のセスカが行っても足手まといになるだけだよ」

 

 ぐうの音も出ない、とでもいうような、何とも味のある表情をした後、不承不承ながらもコルセスカは頷いた。その後端末を取り出して何事か入力し始める。きっと仲間へのメールだろう。

 

「本来後衛のセスカに無理に前衛任せちゃったのは申し訳無いと思ってるよ。セスカってなまじ何でも出来ちゃうから、ついつい頼りがちになっちゃうんだよね。そういうの、基本断らないし」

 

「褒めても何も出ませんよ」

 

「褒めなくてもわりと何でもしてくれるもんね」

 

「貴方は、本当に」

 

 二人のやりとりは、相変わらずよく分からない。

 険悪でありながらもどこか距離が近い。決定的な喧嘩の一歩手前、ギリギリの緊張感を保ったまま会話が続く感じだ。


 付き合いの長さ、深さを感じる所から考えると、いわゆる腐れ縁、というような見方が結構的確かもしれない。

 あるいは、そこまで仲が良くない姉妹というのは、この位の関係性だったりするのかもしれない。

 

「なあ、二人はキュトスの姉妹とか七十一番目とか言ってたけど、もしかして姉妹だったりするのか?」

 

 問いに、二人の魔女は何とも神妙な表情で答えた。

 この話題は地雷だったのだと言ってから気付く。後悔先に立たずである。

 

「姉妹。そうだね、まあ現状だとそういう言い方もできなくはない、かな」

 

「そうですね、ですがその忌々しい状況も今だけのこと。いずれはその称号に相応しい一人が選ばれ、他は赤の他人になるわけですから」

 

「確かに。七十一番が二人も三人も四人もいたらおかしいもんね。やっぱり『一番下の妹』は一人に決められなくちゃいけない」

 

「ええ、全くの同感です。その点においてだけ、私達は合意可能。つまり」

 

「私達は、絶対にいつか姉妹でなくなってみせる、ってことだよ」

 

 場の空気は完全に凍り付いていた。

 闘争心を剥き出しにして決然と言葉を紡ぐ二人の表情は真剣そのものだ。

 察するに、キュトスの姉妹とかいうのは彼女たちが所属する組織、星見の塔の役職名みたいなものなのだろう。


 その座を争っている二人はライバル同士なのだ。

 彼女たちは、それぞれの目的を達成することでその座を得ようとしている。

 そしてその他のライバルの存在が、一時的な協力態勢をとらせている。ただそれだけのことに過ぎない。


 俺はこの二人に命の危機を救われた。

 できれば、その行動に報いたいと、そう思っている。

 だが、その際に俺は選択を迫られることになるだろう。


 なぜならば彼女たちは本質的には別々の道を行く存在であり、どちらか一方を助けると言うことは、どちらか一方を助けないということだからだ。

 コルセスカは俺に使い魔となって火竜を倒す手伝いをして欲しいと言った。


 それが彼女の目的で、つまりその目的を達成することでキュトスの姉妹の七十一番という座が手に入るのだろう。

 目的そのものが衝突しないかぎり、途中で協力し合うことは可能だ。コルセスカとトリシューラのように。


 しかし、最終的には誰が目的を早く達成するか、という話になるのだろう。

 そのポストはたった一つで、他の競争相手は座れないのだ。

 今は共に戦う仲間でも、いずれは敵同士。


 二人に感じる、気安さと険悪さ、そのアンバランスでぎこちない、まるでそうあろうとしているかのような関係性。二人の魔女に課せられた宿命の過酷さに、少しだけ同情しそうになって、即座にその想いは『E-E』の中に消えていった。

 

「だいたいセスカは妹弟子のくせに生意気ー! クレアノーズお姉様のところで一緒に学んでいた頃はあんなに素直だったのに」

 

「それを言ったら魔女としてのキャリアと年齢では私の方が姉です」

 

「あ、自分の方がお婆ちゃんだって認めたー! やーい若作り!」

 

「凍れ」

 

「ちょっ、うぎゃー! 今本気で殺しに来たよね?! ねえ?!」

 

 やっぱりこいつら、実は結構仲良しだよなあ。

 形としては、この二人が行っているのは相手を排除するような戦いではなく『競争』だ。


 であれば、勝者と敗者が生まれるのは自然なことで、二人の間の険悪さというのはそう悪いものでもないのかもしれない。


 前方の寝台でやかましく言い合いを続けている二人の魔女を眺めながら、多様な関係性の在り方について思いをはせていると、ふと左手側の静かな寝息が気になった。


 入り口から一番離れた位置の寝台に横たわっているのは、猫耳の少年である。

 記憶を失ったばかりで不安なこともあったのだろう。診察と治療を終え、ここに来た後はすぐに寝入ってしまった。


 彼をこれからどうするべきなのか、それも今後の重要な課題だった。まさか第五階層に放り出すわけにもいかない。


 以前ためらいなくそれを実行したのは俺だが、そのせいで彼はトラブルに巻き込まれ、記憶を失うことになってしまった。ここで放り出すのは無責任というものだろうし、彼の失った記憶にも興味がある。


 記憶が戻るかどうかは全くわからないとトリシューラは言っていた。

 こういうケースはふとした拍子に簡単に思い出すこともあれば、じっくりと長い時間をかけないとダメなこともあるという。当然、一生思い出さないということも。


 俺は当面はここで面倒を見るべきだという主張をした。

 それも、トリシューラが少々驚くほどに、強く。

 彼には記憶が無い。


 つまり、それまでの世界が無いと言うことだ。

 俺と似た境遇に置かれていると、そう思った。

 彼は俺の文字しか読めない。彼の書いた文字も基本的には俺にしか読めなかった。


 二人の魔女はその該博な知識のおかげか、少年の書いた文字を読むことができた。何でも極めて古い時代の言語らしく、近代以降のあらゆる言語が登録されているというデータベースにすら存在していないらしい。


 この二人は極めて特殊なケースであり、この世界のほとんどの人には彼の話し言葉すら理解できない。

 会話が可能なのは、何故か俺(と古代語を習得している一部の例外)だけなのだ。


 何故そんな古代語を話しているのかは全く分からない。

 だが俺は、この少年に居場所を作らなければならないと強く思った。

 理由は投影か共感か、もしくは成り行きか。


 コルセスカの体調が戻ったら、少年の言語をこの世界に定着させてもらうよう依頼しようと思っている。

 当然、対価は払わなくてはならないだろうが、それも覚悟の上だ。


 トリシューラの話では言語の定着作業(コルセスカとの対話)は必要が無い、ということだった。

 ところが後で聞いてみるとそれは嘘らしい。


 より正確にはトリシューラが話した言語のデータをそのまま移管する方法も、コルセスカとひたすら話し続ける方法も、両方有効とのこと。

 コルセスカにトリシューラの言った方法をとらないのは何故かと訊いたところ、コストが嵩むから、という答えが返ってきた。


 あの時点ではトリシューラはコルセスカを出し抜いて俺を奪い取ろうと思っていた。ゆえに、コルセスカに対する俺の不信感を煽ろうとしていたらしい。


 本来は競争相手だというのは分かっているのだが、やることがいちいち陰険な女だった。

 俺と少年の身柄は、これからこの魔女に委ねられるわけで、先行きが少々不安だ。


 それでも、この少年を見捨てることは出来ない。

 俺と似た境遇にある彼に、俺は手を差し伸べなくてはならないと思う。


 これまでの俺が、アズーリアや、二人の魔女にそうしてもらったように。

 そして、手を差し伸べてくれた人たちに、何かを返さなくてはならないと、強く決意を新たにする。


 遠からず俺は、決定的な選択を迫られるだろう。

 そして、その先を目指すことにもなるはずだ。

 アズーリア。

 いつか必ず、俺はあの恩人に会わなくてはならない。

 

 

 

 どうにも目が冴えてしまって、夜だというのに眠れない。

 巡槍艦の窓から見える外の世界は、次元の狭間とは言うものの、見た感じでは超高度の空中である。


 無数の槍が天地を貫き、鋼鉄の天蓋は無数の照射光を放ち、広大な地表ではそこかしこに小型の地上太陽が輝くという、現実離れした異世界の光景が広がっている。


 夜になれば四つの月が妖しい光を放ちながら、空の彼方、天蓋に覆われていない部分に見え隠れする。

 静かに部屋から廊下へ抜け出すと、冷えた空気が肌を刺す。


 艦内の全ての場所に空調が効いているわけではない。大した考えも無く部屋を出てきてしまったことをはやくも後悔しながら、そのまま歩いていく。

 艦内の地図情報を参照しているので、迷うことは無かった。


 頭をいじられて以来、トリシューラは必要に応じてこうしてデータを送信してくる。思考を覗かれる事のデメリットは置くとして、相手がこちらのしたいことを察してくれるのは話が早くて助かると言えば助かる。


 通り過ぎる部屋、施設は何に使うのかよく分からないものばかりで、さすがに魔女の根城なだけはあった。

 無機質な鋼鉄と狭い廊下は空気の冷たさも相まってどこか不気味だ。


 床と言わず天井と言わず這い回る配線と管、用途の不明な機器類など、色々と剥き出しにしているのは実用重視なのか、それとも実用重視っぽい無骨さを表に出すという見た目重視なのか、判断しかねる。


 しばらく歩くと、目的の場所に辿り着いた。

 大きめの扉の前に立つと、センサーが俺を認識して自動的に横にスライドする。

 そこは広大でありながら手狭でもあるという、端的に言えば物が多すぎる空間だった。


 とはいえ散らかっているという風でも無い。必要なものをありったけ置いてみた、という感じなのだが、置かれている物がどのように必要なのかがよく分からないので奇妙な圧迫感を感じてしまう。


 まず目につくのは入って左側の壁沿いに並ぶ何かの機器類、配線、そして無数の書物が収納された本棚。壁にはずらりと様々な形状の杖が並び、部屋の隅には色とりどりの宝珠が台座の上に積み上がっている。入ってすぐのところにある大型の機械はコピー機なのか、先程から駆動音を立てながら治癒系の呪符を複製し続けている。その脇には大量の呪符や巻物、書類などが整理されて並んでいた。


 その反対側、入って右手側の壁に沿って部屋の奧まで延々と続く長方形の机には、それまでの無機質な印象からは外れた有機的なものが所狭しと並ぶ。円筒形の水槽と、その中に浮かぶ様々な人体の部位。ホルマリン漬けなのかとも思ったが、それにしては水槽内の色が不自然なまでに赤い。


 赤い液体の中に浮かぶ部位のバリエーションは腕、眼球、脚といった人体の各部のみならず、各種臓器や脳まで網羅している。上のものばかりではなく、下の種族のものも数多く含まれている。岩肌の人体、植物のような腕、昆虫の脚とおぼしき部位。


 狼の頭部が丸ごと浮かんでいるのを見て、かつての記憶が甦りやや身が固くなる。開いた目がこちらを見ているような気がして、寒さが増したような錯覚を覚えた。

 

「あ、ごめん、寒かった? いま室温上げるから」

 

 部屋の奥、つまり入り口の真正面でそう言った声が、続けて「ぴっ」と擬音を口にする。

 天井の空調が作動して、温風を吐き出していく。急速に俺にとって快適な温度となっていく部屋の中央を歩いて、奧のデスクに腰掛ける相手に話しかける。

 

「悪いな、気を遣わせて」

 

「んー? べつに」

 

 空調が機能しているのは病室だけだった。つまり、普段この艦内で過ごすトリシューラには空調が必要ないのだ。彼女に必要なのは身体を冷却するクーラーやファンなのだろう。


 寒々とした艦内の空気や室内の温度が、それを改めて思い出させてくれた。

 一見して、生身の少女にしか見えないトリシューラは、機械の身体を持つアンドロイドなのだ。

 

「念のため訊いておくけど、アンドロイドでいいんだよな?」

 

「いいんじゃないの、私だれかといやらしいことをする予定は無いし。それに、アキラくんは『man』を男性だけじゃなくてヒト一般に対しても使うでしょう。『彼女』って言葉からわざわざ『彼』を抜いて『女』だけで使ったりはしない。だからアンドロイドでいいんだよ」

 

 どこか気のない返事だった。しょうもない質問だったせいかもしれないが。

 窓にはブラインドが下りており、照明がついていない部屋は薄暗い。


 デスクの上にある広い三つのモニタが放つ光だけが、仄かに彼女の顔を照らしていた。

 改めて見ると、ぞっとするほど美しい造形をしている。


 初対面ではビスクドールに喩えたが、均整のとれた顔の部位を見ていると、むしろ彫像やコンピューターグラフィックスを眺めているような気分さえしてくる。


 三次元的なアクチュアルさを有しながらも、どこか現実と乖離しているような、不思議な画がそこにあった。

 

「あぁ、そっか、明かりもつけないとだよね。私、気がつかないね」

 

 何かを操作した様子もないが、「ぴぴっ」の一言と共に照明が点灯する。

 ふと疑問に思って問いかける。

 

「なあ、机の上の据え置き機とか端末とか、物理的なインターフェースを介して操作する必要ってあるのか?」

 

 言葉を交わす最中にも、打鍵の音が小刻みに、無線マウスのクリック音が間隔を置いて響いている。

 

「無いけど、でもそれっぽいでしょ?」

 

 ――誰も見ていないのに?

 言いかけて止める。

 トリシューラ自身が、自分の行動を見ているのだ。ならばそれは彼女にとって必要な行動なのだろう。

 

「まあ、クレアノーズお姉様にそうしろって言われてるからなんだけどね。表面的な行為にこそ人間性が宿るんだって、口癖みたいに言ってた。形式を定めてなぞらえることが呪術の真髄なんだって」

 

「ふうん。よくわからないが、上に姉妹がいるのか」

 

「ううん。正確にはまだそうじゃないよ。クレアノーズお姉様は星見の塔で私の後ろ盾になってくれている人で、呪術のお師匠様でもある。私はまだ正式な『末妹』になれていないけれど、塔では慣例的に師弟関係を姉妹になぞらえるの。それと、必ず他の三人に勝つという意思表示でもあるかな」

 

 明るくなった部屋の中で、トリシューラの表情が華やぐ。親しい人物のことを話す彼女は、魔女やアンドロイドといった目立つ属性から切り離された普通の少女のようだった。

 

「これも、お姉様に勧められて始めた趣味なんだけどね。結構それなりの形になってると思わない?」

 

 トリシューラは、モニタとPCに占有された事務机の上で異彩を放つそれを指し示した。実用一点張りらしき室内で唯一の遊び――それはアンドロイドであるという彼女が意図的に演出している人間味だった。

 

「模型、それもガレージキットって奴か。随分と手が込んでるな」

 

「正確にはレジンキャストキットかな。私は射出成型の方が効率的だし手っ取り早いって言ったんだけど、お姉様はこっちの方が趣味的だし庶民的だからやるならこっちにしなさいって」

 

「よくわからんが、金持ちの道楽っぽい」

 

「あっ、今馬鹿にしたでしょ!」

 

「いや別に。結構お嬢様なんだなーって思っただけ」

 

 この世界の技術水準なら当然と言うべきだろうが、合成樹脂、プラスチックは当たり前の様に存在するらしい。

 デスク上の模型はメカニカルなデザインの甲冑、つまりは強化外骨格で、昼に第六階層で見たものだった。


 トリシューラが身に纏い、巨大な異獣を大火力で圧倒した超呪術の産物。縮尺は手の平サイズになっているものの、特徴的な狼型頭部や重装甲、各種兵装は細密に再現されておりその質感は本物さながらだ。

 

「昼間使ったのならこれだから、本物だよ?」

 

「は?」

 

「模型は本物に似ているでしょう? 私の鮮血呪は類似品を本物に置き換える事ができるの。強化外骨格なんてコストかかりすぎて使ってられないからねー。模型で代用してるわけ」

 

 さすが呪術、なんでも有りだった。

 戦闘が終わった後、光に包まれて頭上に飛翔して消えていったと思ったが、こんな所にあったのか。


 だとすると、あの時トリシューラはポリウレタンか何かに包まれて戦っていた事になるのでは。装甲が紙同然じゃないか。よく無事だったな。

 

「なんか勘違いしてるみたいだけど、原寸化する際にスペックも本物同然になるから。あとウレタン樹脂じゃなくてエポキシ樹脂ね。アキラくんは馬鹿にするけど、カーボンファイバーと組み合わせて複合材料として使えばかなり高い耐久性を発揮するんだから」

 

 かく言う私にも使用されています、と胸を張るトリシューラ。軽く腐食しにくい為、車両や船舶、兵器などにも用いられるとか力説された。

 プラスチックの有用性はともかく、トリシューラの趣味は実益も兼ねているということらしい。


 机の上には他にも幾つかのバリエーションの異なる強化外骨格や兵器、重装甲の各種ビークルなどが並んでおり、別の部屋には更に数多くの模型が仕舞われているのとのことだった。


 それにしても、人を模して作られたアンドロイドが模型製作を趣味とする、という構図には寓意めいた何かを感じる。このような趣味を勧めたらしいクレアノーズとかいう人物の作為を感じるのだが、それがどういったものなのかまでは流石に分からなかった。


 それにしても、改めて実感する。

 自分は、この相手について何も知らない。

 随分と沢山会話をしたように感じるが、それは頭の中だけのことだ。

 実際にこうして面と向かって話した回数は、コルセスカよりも遙かに少ない。

 

「そのお姉様? だかは結構いいことを言うな。『それっぽい』ってのは大事だ。錯覚であっても実感は欲しいし、視覚的な要素は重要だ。表面的な行為、結構なことじゃないか」

 

「うん」

 

「だから、そうだな、つまり」

 

「お話、しに来たの?」

 

「まあ、そうだな」

 

 どうやって言葉を繋いでいくべきか迷っていた所に、直裁的な物言いが返ってくる。

 そう、俺は眠れなくて、何故か不合理にもトリシューラと話をしようと思い立ってしまったのだった。


 艦内図を確認したらトリシューラがこの部屋で活動中だということが分かったので、あきらかに非常識な行為と知りつつも押しかけた。

 

「こんな夜中に? ここまでわざわざ足を運んで来て? 欲しい情報があるならちびシューラに話しかけるとか、あのコ経由でこっちに通信繋ぐとかすれば話は早いのに」

 

「まあその通りだが、それは」

 

「実際に面と向かって話をするって形式が必要なんだよね。いいよ、わかってる。自分で言ったことだし。ただ、なんというか、実感が湧かないだけ」

 

 トリシューラは言いつけられたからこうして物理端末を操作しているのだという。

 だが、その行為はどこか生気が無いというか、身が入っていない。言われるがままやっているという風で、行為の意義や理屈はわかるが体感的に理解できないとでも言うかのようである。


 人間に擬するというのなら、必要のない照明や空調も点けるまで徹底する方がそれらしい。

 それをしないということは、トリシューラ自身がその行為を噛み砕いて理解していないということではないだろうか。


 言葉にせずとも、その思考は伝わってしまったようだった。

 絶え間なく続いていた打鍵の音が静止する。

 

「やっぱダメかなあ、私」

 

 快活で朗らかな昼間の印象からはかけ離れた、沈んだ声音。

 ゆるぎない微笑みも、どこか精彩を欠いている。

 

「こうやって人と接すると色々ボロが出るね。分かってはいるんだ、色々変だってこと。不自然だよね、私。実はね、四人の候補者で、一番見込みが無いって言われてるの」

 

 それは、第六階層でした話の続きだった。

 たしか、組織のあるポストを巡る競争の話だったか。

 トリシューラの目的。行動の理由となるものだ。

 

「私もセスカも、【最後の魔女】になるために生み出された人造の魔女。方法はそれぞれの派閥によって違うけど、基本的な目的は一緒。星見の塔を運営するキュトスの姉妹、その最後の一人【未知なる末妹】は長らく空席だった。ある時、何人かの魔女たちがこう考えたの。『いないなら作ってしまえばいい』ってね」

 

「クリエイティブかつ意欲的だな」

 

「それ茶化してるのそれとも馬鹿にしてるの? まあとにかく、そうして幾つかの派閥が協力し合って、最終的に四つのメソッドで人造の魔女を作るという決定を【九姉評議会】は下した」

 

 またなんか知らない用語が出てきたが、語感から察するに星見の塔とやらのトップ、意思決定機関のことだろう。

 

「四つのメソッドとはすなわち『邪視』『呪文』『使い魔』『杖』からなる呪術の四大系統のこと。世間の人に向けては『魔女っぽい』用語で秘め隠しているけれど、実際にはこれ、そんなに大仰なものじゃないんだよ。人間の知的営みを四通りに切り分けたこの区分は、正確には『世界観の拡張』『言語の拡張』『関係性の拡張』『身体性の拡張』と定義される呪術なの」

 

 そう言われてもさっぱりイメージできないが、一つだけ理解できそうなものがあった。

 

「身体性の拡張? それはつまり、道具とか乗り物とか?」

 

「あるいは、アキラくんの義肢とか、『私』とかだね」

 

 杖のメソッド。四つの派閥の一画は、そうしてアンドロイドの魔女を作り上げたということなのだろう。

 それは見たところ成功を収めているように見える。


 だが、それだけでは駄目なのだ。コルセスカは迷宮を攻略し、異獣たちの王である竜を退治すると言っていた。

 それがコルセスカの目的だというのなら、その達成によって最後の魔女の座が手に入るのだろう。


 だとすれば、トリシューラにも『竜退治』に相当するだけの困難な課題が設定されている筈だ。

 

「さっき、見込みが無いって言ったな。それはコルセスカが竜を退治することよりもか」

 

「うん、ほぼ不可能だろうって。一応付け加えておくと、亜竜ならともかく本物の竜を倒すのなんて、神殺しにも等しい困難だよ。それこそ世界中の軍隊を相手に戦う方が楽なくらいに」

 

「そんなにか。コルセスカも大変だな。なら、それよりも困難な目的って一体どんな物なんだ?」

 

「私という存在の完成」

 

 簡潔にそれだけを口にしたトリシューラは、どこか投げやりにも見えた。

 まるでそれが絶望的なことであるかのような口ぶりだった。

 

「お姉様たちは、人間になることが私の模倣ミミクリーなんだって言ってた。竜退治の英雄譚、神話をなぞろうとするのがセスカの模倣ミミクリーであるように、私たちは模倣することによって競争アゴンをしなければならないんだって」

 

 言っていることが意味不明だ。

 なにかしらの前提知識や文脈を把握していないと分からない説明であるように思われた。これだけ聞いても抽象的過ぎて狙いがよく分からない。


 しかし、彼女が俺の「ポンコツ」という思考にあれだけ激しい反応を見せた理由はなんとなくだがわかったような気がした。

 すると更なる疑問が浮上する。


 あの時トリシューラが拘っていた、自身の有用性とは何だ?

 トリシューラは何を目的として生み出され、何をもって確かな有用性を持った存在であると証明される?

 

「トリシューラは、完成してないのか」

 

「わかんない」

 

「何をもって完成とするんだ」

 

「それもわかんない」

 

「何で勝利条件が明確なコルセスカと違ってトリシューラのはそんなに曖昧なんだよ」

 

「何でだろう」

 

 それで、ようやくトリシューラを投げやりにさせる絶望感の一端が理解できた。

 最終的に辿り着くべき目的地が、ひどく曖昧なのだ。

 どこに行くべきかわからないし、どこに立っていればいいのかも定かでない。


 どうすれば目的を達成したことになるのか、その基準すら示されていない。それでは確かに見込みが無いと言われるのも仕方がない。悪いのはトリシューラではなく勝利条件の方だが。


 不確かな足場。

 何も感じないわけではない。

 だが俺は安易な共感を即座に遮断した。何も知らないくせに。俺なんかと一緒にするな。


 トリシューラは、俺の内心についてなにも言及することは無かった。

 

「いちおうこれでも方針はあるんだよ。身体を外部から拡張するために色々な物を作ってきた。強化外骨格とかこの艦とかもその一環。当然私自身の改良も平行してやってきたよ。それと、これはこれからだけど、私という自我と知性を世界に証明し続けること」

 

 どっちかっていうと最後のがメインかな、とトリシューラは言う。

 具体的にどうやるのかは不明だが、それが極めて難しいということは俺にもわかる。


 だいたい、何をもって自我とするのか。知性の定義は? それをどうやって証明する?

 そして、その目的に俺はどう必要だというのか。

 

「有効かどうかはわからないけど、とりあえず試そうとしてることがあるんだ。それには、異質さの度合いが高い他者が必要、らしいの」

 

「らしい?」

 

「って、クレアノーズお姉様が言ってたから」

 

 またクレアノーズお姉様か。

 随分と頼りにしているようだが、その辺の方針丸投げで自我や知性の証明ってのは、何というか結構危うくないか、と思う。漠然とした不安なので明確な指摘が出来ないのがもどかしい。


 しかし、それでようやく話が繋がった。

 コルセスカが竜退治の仲間として俺を欲しているように、トリシューラは自我と知性の証明の為に俺を欲しているらしい。

 

「外世界からの来訪者。この世界とは異なる常識を内面化しているゼノグラシア――前世の記憶を持つ人」

 

「コルセスカにもされたな、そのゼノグラシアとか言う呼び方。俺が異獣とかなんとか」

 

「どちらかと言えば、転生者としたほうが意味が正しく伝わりやすいかな」

 

 転生者と書いてゼノグラシアと読む、みたいな感じだろうか。

 

「アキラくんは、こことは違う場所で育ってきたでしょう? 歴史も価値観も常識も技術体系も、どこか似ているけれど決定的に異なる世界。そういう場所で育まれてきた貴方の視座は、視野は、視点は、確実に私達のそれとは異なっているはず。それが、私は欲しいんだ」

 

 物珍しさ、というわけではなく、単純な必要性からトリシューラは俺を欲した。

 俺という個人はごくありふれた、交換可能な人材に過ぎない。しかし場所が変われば価値は変動する。需要と供給の問題だった。

 

「それは、たとえば外国人とかじゃ駄目なのか? それにこの世界なら、それこそ敵対するほど異質な価値観の相手がいるだろう」

 

 地上と地獄。上と下の争いは、それこそ決定的な断絶であるように感じる。

 他者というならこの上ない他者だろう。協力が可能かどうかはまた別の問題だが。

 

「どんな国に住んでても、上にいても下にいても、この世界にいる以上は、呪術的な世界観を内面化しているでしょう? 私は、そうじゃない人が欲しいの」

 

「合理的な世界観の持ち主がいいってことか。なら俺は失格だ。こんな時間に押しかけて、顔を見て話がしたいとか言い出す頭がおかしい非合理性の塊だぞ?」

 

 自分で言葉にしてみると、非合理的というよりただの非常識な人だった。

 変質者と言っても過言ではない。

 何やってんだ俺。

 

「でもそれが非合理的だって認識はあるんだよね。こんなことは合理的じゃないって思いながら、非合理的な行動をしてしまう。昼間だってそう。アキラくん、人質になったコを助けるって決めてから理由を探したでしょう。理性で自分の決定を否定して、その決定が最初から無いんだって、自分を誤魔化した」

 

「違う、そんなことは」

 

「あるんだよ。私はアキラくんの思考の流れを正確にトレースできるから、アキラくんが自分の記憶を都合の良いように事後的に改竄しても本当の事がわかる。実際に起こった事もそれを裏付けてる。私はアキラくんよりアキラくんの事を知っているの。貴方は、まず直観としての判断があって、それを行動の基準にしてる。そのくせ自分に対して懐疑的だから理性でそれを押さえつけて、表に出さないようにしてるんだ。極端に即物的で利己主義者っぽいの、それポーズだよね?」

 

「お前の判断は間違っている。利他行為は情緒的な意味づけが安易になされがちだが、社会的な動物として、また脳が認識する自己という定義が」

 

「そうそう、そういうところ。自分のことを完全に説明可能で制御可能なものにしようとしてるよね。自分の呪術的思考を解体しようという意識があるんだ。結果として非合理的な行動に出てしまったとしても、それに無理な理屈をくっつけたりしてるじゃない」

 

「聞けよ」

 

 トリシューラが長々と語るシナモリ・アキラ像はある一定期間、彼女から見た俺というごく限定された像でしかない。いくらなんでも、それだけで俺というパーソナリティを全て説明されたくは無い。

 

「貴方はこの世界の人と同じように呪術的で非合理的な思考を持っている。これはアキラくんが今言おうとしたように、人間の脳が持つ器質的で構造的な欠陥であり仕様だと私も思う。二つの世界の人間は、基本的な脳の構造なんかはほとんど一緒なんだよ。それでも、初期条件が同じでありながら、その初期条件に対する姿勢や捉え方は異なっている。それが視点が違うってことなんだ。私達がアキラくんをゼノグラシアと呼ぶのは、その『世界観』が異質だからだよ」

 

「本当に、俺みたいな人間が皆無か? 絶対にありえない?」

 

「絶対とは言わないよ。稀にいるかな。でも、今ここにアキラくんがいるという機会だって稀なんだよ」

 

 もちろん、この世界に元からいる『特異な存在』を見つけたら協力を仰ぐつもりだと、そういうことらしい。

 なるほど。細かい部分はともかく、コルセスカとトリシューラ、二人の事情は大方わかった。

 わかってしまった。

 

「訊くが、トリシューラに協力しつつコルセスカに手を貸す、というのはできないのか」

 

「できるかできないかで言えば、決めるのはアキラくんだからできるんじゃないの。ただ、私は困るしセスカも困ると思うよ?」

 

 当然だった。二人は競争相手だ。どちらが先んじて目的を達成するかを競い合っているのだから、自分だけに味方してくれる方が良いに決まっている。


 今日一日の出来事を通じて、俺にはこれからの身の振り方に関してある思考が生まれてしまっていた。

 それに対しての解釈は今は置くとして、『どちら』にしたいのかというのは頭が痛い問題だった。


 恩義。借り。負債。

 どう考えてもトリシューラに治療費諸々を返済しなくてはならない都合上、選択肢は無いように思える。


 が、昼間の戦いを終えてこの艦に帰ってきてから、彼女が俺にそのことを強く言ってきたことはない。

 というか、先程も決めるのは俺だとはっきり言っていた。


 傷だらけになりながら、敵の攻撃をその身に受ける少女たちの姿を思い出す。

 行き場もなく第五階層の猥雑に流されるだけだった俺に、降って湧いたような分かれ道。


 どちらの分岐路にも途方もない困難、そして美しくも異形の少女が立っている。

 二つのうちどちらが良い、どちらの方が好ましい、というようなことは思わなかった。


 しいて言うならばどちらも良い。

 困難の度合いという点で単純な比較が出来ないため、双方共に優劣をつけられない。


 『ゆえに』俺はどちらかを選びたいと、初めてはっきりと意識した。

 トリシューラが言うところの呪術的な思考だが、このような選ぶことの困難さそのものが俺の中の選びたいという意思をかき立てている。


 らしくないことに。

 俺は完全に乗せられてしまっているようだ。

 

「できれば、またこうやって私と話して、私の人間っぽくないところを指摘して欲しい。合理性と非合理性、両方を併せ持っているアキラくんの視点から、意見が欲しい」

 

「少し、時間が欲しい。そうだな、三日くらい。そうしたら、答えを出す」

 

「うん、分かった。フェアに行こうってことだよね。これから三日間は後攻である私の手番」

 

 トリシューラはこちらの要求の意図を正確に汲んで言葉を返してくれる。

 思考を覗くという行為の是非はともかく、こちらの意図が伝わるという事実に、少しの心安さを感じた。


 しばらく、そうして雑談を続けた。

 主に、トリシューラと出会う前の話だ。

 一人で何をしていたのか、コルセスカと過ごした三日間はどうだったのか。


 特にどうということのない話で、それこそトリシューラにとっては既知の情報であったに違いない。

 逆に、こちらからトリシューラの事を訊くと、自然と共通の知人であるコルセスカとの関わりに話が移っていった。

 

「――でね、選定が始まる前の準備期間、私とセスカは二人でクレアノーズお姉様の教えを受けていたことがあるの。だから四人いる候補者の中では、一番気心が知れてるのがセスカなんだよ」

 

「そうじゃないかとは思っていたが、二人は結構付き合いが長いんだな」

 

 しかし二人の師匠だというクレアノーズなる人は一体どんな人なのだろうか。ちょっと想像できない。

 尋ねてみると、トリシューラは少しだけ声を弾ませて答えてくれた。

 

「お姉様はね、すごく優しい人だよ。見込みが無さ過ぎて杖の派閥にすら見捨てられた私のことを拾い上げて、後ろ盾になってくださったの。本来どの派閥にも所属せず、姉妹全体の事を考えて中立を守らなければならない立場の方なんだけど、周囲の糾弾にも構わず私を保護してくれて――そのせいで立場が悪くなって、杖の派閥の盟主であるラクルラールお姉様に幽閉されてしまっているんだけど」

 

 えらく深刻な状況に置かれていた。

 というか、トリシューラが自分の派閥に見捨てられているというのがまず驚くべき事実だった。


 つまり、彼女は自らを生み出した親、創造主とでも言うべき相手の庇護を受けられずにいる。

 親の庇護のもと、不自由なく義肢を与えられて生きてきた俺とは、全く異なる境遇。


 何か、言葉に出来ない疼きが胸の奥に浮かび上がり、すぐに沈んだ。

 それでも、救いはあった。

 トリシューラの語りぶりから俺はそのクレアノーズなる人を聖人君子のようなイメージで捉えた。


 恩人で師であるということを考えても、彼女にとって重要な人物であることは間違いない。

 

「創造主である杖の派閥にすら見捨てられた今となっては、星見の塔における私の味方はクレアノーズお姉様と、私と似た境遇のアーザノエルお姉様くらいなんだ。だから私は、いつか最後の魔女になって囚われたクレアノーズお姉様を解放して差し上げたい。あの人の優しさに報いたいんだ」

 

 それが願いなのだと、トリシューラは語った。

 誰かのためであり、同時に自分自身の為でもある願い。

 彼女の願いを、誰が否定できるだろう。


 俺は、ただ尊いと思った。

 言葉にはしない。ただ、右手を握りしめた。

 そうして、彼女の昔語りは続いていく。


 おそらくそれは、儀式のようなものだったのだろう。

 ふと眠気を感じて欠伸を噛み殺す。

 いつしか、夜は随分と深くなっていた。

 

 

 

「なるほど、それで朝帰りですか。それはそれは」

 

「ああ。というわけで眠いから日中は寝ることにしようと思う」

 

「良いご身分ですね、全く呆れたものです」

 

 本気で呆れ果てたのだろう、コルセスカはそれ以上声をかけてくることをしない。

 その代わり、例の猫耳の少年に話かけて、面倒見の良さを発揮している。

 その様子をみながら、思わずなるほど、と声に出して呟いてしまう。

 

「何が『なるほど』なのですか?」

 

 怪訝そうに訊いてくるコルセスカ。俺は横になったまま昨晩トリシューラから得た知識を引き出した。

 

「いや、トリシューラから『第二次厨房襲撃事件』について聞いてさ。世話焼きも極まると戦争に発展するんだな、と感心したんだ」

 

「なっ、ぁぁあの口の軽い家電娘、あることないこと無責任に! 一体それを何処まで聞いたんです?!」

 

「第四次まで」

 

 コルセスカは左の眉尻を吊り上げて無言で病室を出て行った。怪我なんて無かったかのような、風のような身のこなし。しばらくして、「トリシューラッ、貴方という人は!」「きゃー! ごめんなさいごめんなさい!」という怒声とやや楽しそうな悲鳴が響く。

 

「あの、あんまりからかったら可哀想じゃないですか?」

 

「ああ、悪い。けど、多分トリシューラはああやって追い回されることを織り込み済みで俺にコルセスカのことを話したんだと思うから、あれはあれでいいんだよ」

 

「それならまあ、いいのかな」

 

 やや不安そうに一応の納得を見せるのは、昨日保護した猫耳の少年である。

 一切の記憶を持たない彼をこの艦内で一時預かるという方針はトリシューラにも受け入れられたが、今後どのようにするのかというビジョンは全く無いに等しい。


 とりあえずは記憶の回復が最優先事項だろうか。

 それと、彼の素性を調べて、知り合いに引き合わせることができればそれが理想だ。


 が、肝心の彼がどこから来たのか、どういう来歴を持つ人物なのかがいまいち判然としない。

 持ち物には素性を示すようなものが全く無い。


 第五階層の出入層記録は主に『公社』が管理しているらしいが、今首領と接触するのが正しいのかどうか。

 

「君は、何かこうしたい、というような要望はあるか?」

 

 問われると、少年は困ったように眉根を寄せて、軽く首をかしげる。

 猫耳がこころなしかへなりとしていた。

 細く小さな背丈も相まって、同性とは思えないほどに愛らしい。

 

「うーん。よくわからないです。でも、このまま皆さんの厚意に甘え続けるのも申し訳無いとも思ってます。アキラさんやコルセスカさん、トリシューラ先生は親切で、僕のことを助けてくれています。だから、もし良ければここで皆さんのお手伝いをさせてほしいと思ってます」

 

「そうか。確かにそれは悪くないな。トリシューラ次第だが」

 

 昨日の治療で外傷はほぼ無くなっているとはいえ、彼は記憶障害を持つ患者だ。その立場のままここに居続けることは道理に適っているが、本人が何かしたいという意思を持っているのなら話は別だった。


 アルバイト、もしくは臨時雇いの職員として、この施設でトリシューラに雇われるというのはいいアイデアに思えた。


 というわけで早速ちびシューラ経由でトリシューラ(物理)を呼び出す。

 しばらくして、病室の扉から赤い髪を振り乱してトリシューラが飛び込んでくる――おい、何で着衣が乱れてるんだ?

 

「ううっ、セスカが、セスカがっ。聞いてアキラくん、ひどいんだよ」

 

「ここにいましたか逃げ足の速い! いい加減観念しなさい、服の中を雪だらけにしてやりま――」

 

 続いてやってきたコルセスカが世にも恐ろしい拷問方法を口にしかけるが、俺と少年の視線に気付くと「こほん」という咳払いをしてつり上がった眉を平らに戻す。

 

「どうぞ、続けて下さい」

 

 何も無かった、いいですね? という無言の圧力を受けて、そのまま話を続けることにする。トリシューラはさめざめと泣いた。ニットのワンピースは中に雪を詰め込まれた為かひどく湿っている。色が黒で本当に良かったと思う。


 少年がここで働くという案を伝えると、トリシューラは彼を正面から見た。

 

「雇うっていっても、貴方は何ができるのかな?」

 

「わかりません! でも、できる事ならなんでもやります!」

 

 まあ記憶が無いのだから当たり前の答えだった。

 トリシューラは少しのあいだ困ったような素振りを見せたが、それも一瞬の事だった。ちらりと俺に視線を投げると、微笑みを深くして答えを出す。

 

「ま、いいよ。治療費も払って貰ってないし、ここで働いて返すのが手っ取り早いよね。清掃員でも事務員でも看護師でも、私が一から仕込んであげる」

 

「ほんとですか! やったあ!」

 

 色よい返事に、喜びの声が上がった。

 仮とはいえ、自分の依って立つ場所が出来たのだ。それは喜ぶに値する出来事だろう。


 少年の先行きはひとまず決定した。

 次は、俺の番だろう。

 あと三日。

 カウントして、俺は決意を新たにする。

 

 

 

 といっても何かやることがあるわけではない。

 腹の貫通創はトリシューラの治癒呪術であらかた直っているが、最低一日は安静にしているようにとのこと。


 寝台にだらしなく寝転んで、久々に何もしないという楽しみを満喫してみる俺だった。


 猫耳の少年は、さっそく研修だと張り切ったトリシューラに連れられてどこかへ行ってしまった。肉体的には三人の中でもっとも健常なので、もう病室を出ても問題は無いそうだ。

 

「退屈です」

 

 コルセスカが寝台の上で呟いた。いや、俺より重傷なんだからもうちょっと安静にしてろよ、と先程も思ったが、口に出したりはしない。


 走り回ったりしているコルセスカは、身体的な負傷は全て治癒しているらしい。しかし禁呪とかいう大技を使用した為に、代償として呪術的な力が大きく削がれてしまっており、しばらくは回復に努める必要があるとトリシューラが口にしていた。


 ふと、同じように戦っていたトリシューラが何の代償も支払わずに済んでいるのは何故だろうという疑問が湧く。あの強化外骨格を呼び出して戦ったのはその禁呪とやらではないのだろうか。


 コルセスカにそれを訊ねようとすると、向こうから声がかかってきた。寝台を隔てるカーテンが開く。

 

「暇ですから何か遊びに付き合ってください」

 

 言い終わるより早く、両者の間に氷の台が瞬時に出現する。盤面は細かいマス目になっており、その上に幾つもの駒が乗っていた。


 この世界におけるチェスや将棋のようなものだろうか。駒の動きさえ覚えれば俺にもできそうだが、しかし。

 

「いや、安静にしてなくていいのか? 呪術的な力が低下してるとか聞いたんだけど、そんなしょうもないことに呪術使って大丈夫なのか」

 

「この程度は大した労力ではありません。それよりルールを説明しますからやりましょう。貴方も暇そうにしているじゃないですか」

 

「構わないが、言っておくと俺は強いぞ?」

 

「やったこともないゲームなのに既に強者気取りとは一体」

 

 何故か戦慄しながらも俺にルールを説明し始めるコルセスカ。

 別に俺は無根拠に自信を抱いているわけではない。たとえルールを知らなくても、この盤面を見れば二人零和有限確定完全情報ゲームだということは明らかである。


 つまり、これの出番というわけだ。

 ゲーミングアプリ『盤外の夜』起動。


 このアプリはプレイヤー及びゲーム全体の制約条件、取り得る行動の集合、各プレイヤーの行動の関数となる利得集合を入力することで、最適な戦略を提示してゲームの補助を行ってくれる。


 視界隅でちびシューラが何か言っているような気がするが聞こえない。サイバーカラテの理念に基づいて使える手段は何でも使うのが俺の主義だ。サイバーカラテに卑怯の二文字は無い。


 そういえば、昔からこの手のゲームは人工知能の能力を測る為に用いられてきた。


 ルールを覚えたら、トリシューラと一局勝負してみるのもいいかもしれない。まああのレベルで対話が成立するアンドロイドだから、流石の俺でも勝てないとは思うが。

 

「ではまず二十面ダイスを振ります」

 

「えっ」

 

 ロールする氷の賽子を眺めたまま、唖然とした表情のまま硬直してしまう。

 俺は三連敗した。

 

「構わないが、言っておくと俺は強いぞ?」

 

「くっ」

 

 トリシューラといいコルセスカといい、なぜ魔女と呼ばれる人種は過去の発言を繰り返して辱めようとするのか。慈悲は世界から失われたというのか。

 というかコルセスカが豪運すぎる。イカサマを疑ったくらいだ。

 

「大げさな。今の私は呪力が低下していますから、むしろそこまでの流れは来ないはずです」

 

 なんだそれ、万全だったらもっと運が良くなるとでも言うのか。

 ふと、不埒な妄想が頭の中で膨れあがる。第五階層の賭博場にコルセスカを連れて行けば大儲けできるのでは?

 

「何を考えているのか大体分かりますが、大抵の賭場は呪術師立ち入り禁止ですよ」

 

「そりゃそうか」

 

 しかし、零和かと思ったら非零和とは。

 最初は四人の魔女が一つのポストを競い合うと聞いて、勝者が一人しかいない競争――いわゆるゼロサムゲームをイメージしていた。もしくは着順を競う麻雀のような形式を。


 しかし話を聞く限り、コルセスカ達プレイヤーは単純に資源や利得を分配しあう関係には無いようだ。


 基本的にコルセスカの利益はトリシューラの利益とは独立している。そこに協力関係が生まれる余地があるのだが、一方で他のプレイヤー(たしかトライデントとか言っていた)とは利益の競合があるようなことも言っていた。


 コルセスカの事情、そしてトリシューラの事情と、少しずつではあるが情報は開示されつつある。

 しかし全てでは無い。


 俺は未だに、自分の立っている足場、自分の放り込まれた状況、そうした一切のアウトラインが掴めずにいる。泥を踏んでいるような感覚。いや、綿か雲かもしれない。


 硬い大地を踏みたい。

 これは甘え、もしくはホームシックの類だろうか。

 豊かさに飽かせて転生などしておいてこの態とは笑わせる。


 そして、寒気がした。

 俺は今、誰かに自分を預けようとしている。いや、もっとはっきり言おう。

 誰かに寄生する算段を立てている。


 生前と同じように、他人が用意した足場に乗ろうとしている。

 なんて邪悪さだろう。

 感情の制御も、右の義肢も、それを卑劣だと咎められれば俺には返す言葉が無い。


 死ねと言われれば黙るか縮こまるか、あるいは去るか。

 だから俺は、生前ずっと怯えていた。

 罪が露見することを怯えて生き続ける逃亡者のように。


 生きながらにして処刑台の前に立たされているかのような心持ちで。

 踏みしめていた足場は、さしずめ処刑台へ続く十三階段といった所だ。

 

「どうしました? 貴方の手番ですよ?」

 

「ああ、悪い」

 

 賽子を振ると、出目は最悪。

 皮肉なものだ。この世界での俺は豊かとは言い難い。


 裕福さとは相対的なものだから、この世界の全容を知らない俺がそう判断するのは傲慢かもしれないが、少なくともこの階層では、ごくありふれた貧しいごろつきでしかない。

 前世との帳尻は、ここで合わせられているのかもしれなかった。

 

「私の勝ちです」

 

「俺の負けだ。本当、負けっぱなしだな。参ったよ」

 

 それはひょっとしたら、とても気が楽なことなのかもしれないと、ふと思った。


 何も持たず、どこにも立たず、勝ち負けを強いられるゲームから降りて、気楽な生を送る。それもいい。許されるならそういう風に生きるのも楽しそうだ。

 だが、それでも。

 

「悔しいな。次は勝ちたい」

 

 勝ち負けのあるゲームをしていれば、話の流れとして誰であろうと言っても不思議ではない台詞。そこに俺の本心を見出すのは考えすぎと言うものだ。


 けれどコルセスカは、吐き出された言葉の隅々までも照らし出そうとするかのようにその大きな氷の瞳を輝かせる。透明な光をその内側に湛えて、ただ俺の事を見つめている。


 彼女が見透かそうとしているのは俺の内心では無い。俺の発した言葉、一挙一動、そうした外側で起こる目に見えることだけだ。

 出会って以来、コルセスカは俺を見続けてきた。俺を見定めようとしていた。


 知らず、指先に震えが走る。

 彼女の瞳に、俺はどう映っているのだろう。

 

「アキラ。勝つために必要なのは運だけではありませんよ。大事なのは押し引きです」

 

「押し引きね。つまり心理戦? 相手を知れってことか」

 

「ええ。ある種のゲームではプレイヤー同士の駆け引きが重要です。ですから」

 

 透明な視線を向けたまま、コルセスカは意外な表情を浮かべた。

 出会って数日だが、目にする機会はそうそう無い。

 あるかなきかの、それは儚い微笑みだった。

 

「貴方の事を、もっと教えて下さい」

 

 氷で出来た賽子と駒が、俺達の間を行き交った。

 そんな風にして時間を潰していると、不意に病室の扉が開いてトリシューラと少年が戻ってくる。


 二人とも何故かエプロンを着けていて、少年の方は台車を押していた。上に乗っているのは複数の皿。そして彩りも鮮やかな料理の数々だった。

 そういえばそろそろ昼時だ。

 

「はーいおいしい病院食の時間だよー」

 

「あのっ、僕もお手伝いしましたっ」

 

 彼はさっそく仕事を任されたらしい。良かったな、と言うと喜びを露わにする。トリシューラとは別の方向性で朗らかな少年である。


 トリシューラといえば、彼女が調理できるというのは意外だった。

 アンドロイドということもあるが、あまり料理とかしなさそうなイメージがある。


 昨日も、パンと栄養剤と水という味気ないにも程がある夕食を出されたので、てっきりそういう方針なのかと思っていたのだが。

 

「うん、昨夜アキラくんと話して、こういう豊かな食生活を演出してみせるのは『それっぽい』かなーって思ったんだ。備蓄の食材でもそれらしいものは作れたと思うんだけど、どうかな」

 

「ああ、これは確かに『それっぽい』な」

 

「ほんと? やった!」

 

 無邪気に喜んでみせるトリシューラ。

 お互いにだけ通じる符丁に敏感に反応したのはコルセスカである。やりとりの意味が分からずとも、そういうやりとりがあったことは伝わってしまう。


 視線が冷たい。

 比喩ではなく実際にコルセスカの右眼と俺との間にある一帯が何らかの呪術によって冷え切っているのだ。クーラー要らずなので夏には重宝しそうな技能だ。


 無言の非難を無いものとして扱いつつ、俺は食事に注意を向ける。

 まず赤と白の明るい色で食卓を彩っているのは人参や玉葱を使ったポテトサラダ。隣には湯気を立てるコーンスープと黒いパン。切り分けられたチーズと薄くスライスされたベーコン、クラッカーなどが丁寧に並べられ、レーズン、プルーン、アプリコットなどのドライフルーツの盛り合わせがカラフルだった。


 そして主役と思われる、クロッシュでその内側を隠された大皿。トリシューラが金属製の覆いを持ち上げると、現れたのは焼き目も美しいステーキ肉だった。


 肉汁がソースと溶け合い何とも言えない芳香を漂わせている。仄かに混じる香りはクローブか何かのスパイスだろうか。

 正直、想像以上である。

 

「トリシューラ、すごいなこれ」

 

「厨房のトリシューラ先生、凄かったですよ! 解体の手際とか、もう豪快かつ鮮やかって感じで! 僕は盛りつけとかサラダとか、簡単なものしかお手伝いできませんでしたけど」

 

「いや、それでも最初なら充分だろ。ご苦労様」

 

「そんな」

 

 労いの言葉にはにかむ少年はちょっとびっくりするくらい可憐だった。

 ていうか、解体?

 ――何の?

 

「さあ、誰かさんの所為で冷めないうちに食べて食べて!」

 

「ああ。頂くよ」

 

「別に、そんな嫌がらせはしません」

 

 そんなわけで口を付け始める。

 隠さずに言う。

 感動した。

 

「なんか、久しぶりに食べたな、こういうご馳走」

 

 というかこの世界に来てから、こんなに美味い料理を食べたのは初めてだった。

 もしかすると、前世まで含めても一番かもしれない。

 メニュー自体は比較的素朴な、ありふれたものだ。作ろうと思えば俺にも作れるだろう。


 それでも、口にしてみれば丁寧で几帳面な仕上がりに舌を巻く。

 匙でスープを掬い、口に運ぶ。程よいとろみと共に、コーンの甘みと塩味が絶妙なバランスで舌の上で溶ける。


 サラダなどの副菜にしても、まず見た目の彩りや食べやすさを考えているのがよく分かる。

 メインの肉にとりかかる前に、添えられた人参とアスパラガスをいただく。サラダのものとは違ってかなり甘めに煮込んだ人参と、程よい歯応えのアスパラガスが舌を楽しませてくれる。


 そうして、やっとナイフで肉を切り分ける。

 茶色いステーキに食い込んだ刃が、じわりと肉汁を溢れ出させた。驚いたのは、肉は刃を立てた瞬間は強い抵抗を見せたにも関わらず、一度滑り込ませると豆腐かプディングのようにするりと切れてしまった事だ。外側は硬く、内側は軟らかい。これはいったいどのような肉を、どう調理したのだろう。


 期待に胸を躍らせながら、フォークで口の中へ運んでいく。

 確かな歯応えが俺の歯に抗うが、それも一瞬のことだった。固形物とは思えないほどの軟らかさ。


 こんな質の良い肉が味わえるという事実もだが、それよりも俺の心を振るわせたのはソースだった。

 

「玉葱、大蒜、生姜に酢、そして酸味を和らげる為の適量の砂糖。それにこの味、まさか」

 

「おや、何でしょうこれ。あまり食べ慣れない感じのソースですが」

 

 コルセスカの不思議そうな表情。だが俺は呼吸すら忘れて更に次の一欠片を口に運ぶ。間違いない。


 この、どこか懐かしい濃い目のコク。塩辛さと甘みがミックスされ、うまみ成分が味蕾の上で躍る。微粒子のテクスチャがその記憶を呼び覚ます。日本人の郷愁をかき立てずにはいられない、この味物質は。

 

「醤油ベース、だと――!」

 

 そのステーキには、和風ソースがかけられていたのだ。

 あまりの懐かしさに身体が震える。


 この世界に醤油が存在するとは思ってもみなかった。醸造とかどうやっているんだろうか。第五階層では見たことが無いが、そもそも一般的に流通しているのか? トリシューラは何故、どうしてこんなものを?

 

「どうかな、アキラくんの口には合うんじゃないかと思ったんだけど」

 

「この上なく。正直、どうやって賞賛すればいいのかわからないくらいだ」

 

「ぃよっし勝った!」

 

 ぐっと拳を握るトリシューラ。彼女が何と戦っているのかはともかく、深い感謝を捧げる。

 俺は美食家とか料理評論家とかではないので、この料理が実際どの程度美味いのか、正確には判断できない。


 それでも俺にとって、この味付けは最高のものだった。

 美味しかったという以上に、その心遣いが嬉しかったのだ。

 

「負けました。というか随分と腕を上げましたね、トリシューラ」

 

「修業時代、私がセスカに勝ってた数少ない分野だしね。それはもう磨きをかけるよ」

 

 得意げなトリシューラは笑顔のままドライフルーツをつまむ。

 これだけのものが作れるのだから当然味見が可能なだけの味覚があることは予想していたが、実際に食べることもできるんだなあ、トリシューラ。

 アンドロイドとはいうが、実際にはかなり人間に近い存在なのかもしれない。

 

「本当に美味しいお肉ですね。これがまだあんなに沢山あるなんて、僕ちょっと今からわくわくしてきました」

 

 少年の言葉に、ふと疑問が浮かび上がる。そういえば、さっき訊き損ねたんだった。

 

「なあトリシューラ、これって一体何の肉なんだ?」

 

「うん? ああ言ってなかったっけ? アキラくんが仕留めた獲物だし、知ってたほうがむしろ達成感も相まって美味しさが増しそうなのに、私ったらうっかりしてたよ」

 

 俺が仕留めた獲物? 狩りなんかした覚えは無いんだが、はて。

 トリシューラはにこりと微笑むと、ステーキ肉を指差して、衝撃の発言。

 

「これなるは世にも稀な古代の王獣、カッサリオステーキにございまーす♪」

 

 俺とコルセスカは、同時にフォークとナイフを皿に打ち付けた。硬い金属音が病室に響く。

 脳裏に甦る記憶。迷宮を蹂躙する衝撃波、鳴り響く地響き、獣とは思えぬほどの戦闘センス。


 激闘の末、俺とコルセスカが仕留めた古代の生物兵器とかいう怪物の遺体を、トリシューラはしっかり回収していたらしい。

 そうか、あれを喰うという発想は無かったな。迷宮探索者としてはアリなのか。戦いを狩りに置き換えれば割とアリだな。


 告げられた瞬間は少々ショッキングだったが、実際美味いので俺はすぐに受け入れた。

 あの巨体だから、きっとまだ喰える部位は残っているだろう。これからしばらくこの味を楽しめるのか。食卓に期待が持てそうだ。


 一方で、何度か肉体をバラバラにされたコルセスカはやや顔色が青い。普段から色が白い女性だが、なんというか今は目が虚ろだった。何があっても平然としているイメージがあったが、こんな弱点があったのかこの人。

 

「――私はこのくらいにしておきます」

 

「いいの? じゃあ私が貰っちゃうね?」

 

 トリシューラは逆にそのへん図太そうである。

 

「まあそう気を落とさないで。あの時は調子悪かっただけで、いつものセスカならカッサリオ相手でも遅れを取ることは無かっただろうし。運が悪かったよね」

 

「そうなのか?」

 

「うん。よりにもよって戦わなきゃならない時に来ちゃうなんてセスカもついてないよねー。私には分からない苦しみだけど、昔から初日が一番重いって辛そうだったし。邪視使いは体調とか精神状態次第で能力の揺れ幅大きいって聞くし、本来の実力なんて全然出せてなかったんじゃない?」

 

「トリシューラ? ちょっとお話があるのでそこまで一緒に来て下さい」

 

 コルセスカは真顔でトリシューラの服の襟を掴むと、猫か何かを扱うように引き上げる。

 いいですか男性のいる前で、そもそも食事中にする話では、料理ではあれだけ心配りができるのにどうして私にだけ、などと言いながらトリシューラを部屋の外に引きずっていくコルセスカ。

 

「何だ? 今の」

 

「さあ、何でしょう?」

 

 残された者同士、不思議そうに顔を見合わせる。

 視界の片隅で、ちびシューラが頬を膨らませて憤慨していた。

 

『アキラくん、セスカは見たとおり説教魔だからね。選ぶにあたって参考にしてね』

 

 怒られたからといって、競争相手のネガティブキャンペーンを行うちびシューラさんであった。

 料理のおかげで上がっていた株が暴落していく。

 一瞬でコルセスカの方に気持ちが傾きそうになるほどの格好悪さだった。

 

『大体、セスカの使い魔になるのは修羅の道だからね? 八人まで増える予定のあるハーレムの一員になって、セスカの寵愛を他のメンバーと競い合うってことだよ、分かってる? あーもうやだやだ、爛れてる、汚らわしい!』

 

 何それ、初耳なんだけど。

 

『え、言ったじゃない、セスカは仲間を八人集めて竜退治するのが目的なの。いわばハーレム構築の真っ最中』

 

 ああ、そう言う意味か。変な喩え方をするから一瞬意味が分からなかった。

 というか、いくら何でも露悪的に表現しすぎだ。コルセスカのイメージにそぐわないにも程がある。大体あれが、ハーレムに君臨するスルタンって柄か?

 

『アキラくん、絶対セスカに幻想抱いてるよ。あれはそんな良いものじゃないよ。いわば天然たらし。惚れさせて放置する魔性のダメ女なんだよ』

 

 何を馬鹿な。

 そもそも、別に俺は色恋とかの感情でどちらかを選ぼうというわけじゃない。

 要らぬ心配だ。二人だってそういう方向から誘いをかけてきてはいないだろうに。

 

『大丈夫かなあ。そういう態度、余計心配になるんだけどなあ』

 

 何を心配しているんだか。

 俺はわけのわからないことを危ぶんでいるちびシューラを気にすることなく、食事を再開した。

 

 

 

 食事も終わり、猫耳の少年が片付けを申し出て部屋から食器を運び出していくと、トリシューラがミーティングをしよう、と言い出した。

 

「というと?」

 

「今後の私達の方針を決めるんだよ。セスカはひとまず入院して療養、あのコは研修とか家事手伝いとかやってもらうとして、私とアキラくんがこれからどうするか。とりあえず三日間の予定だね」

 

 確かにそれは必要なことだった。もとより自分で言い出した事だ。彼女を見極める為に、彼女の行動を見なくてはならない。ならば、話を聞くのもやぶさかでない。


 同意すると、コルセスカもまた異論は無いようで、話が進む。

 

「それじゃあ、まず最初に言っておくね、セスカ。私は、【公社】をぶっ潰します」

 

 爆弾のような女だった。

 その上衝撃の度合いはカッサリオステーキの比では無い。食事中であれば食器が割れていたかもしれない。

 

「トリシューラ、それは」

 

「言っておくけど、二人の意見がどうであれ私個人の方針としてこれは実行します。競争相手であるセスカとの対立は当然織り込み済みのことだし、アキラくんが私の誘いを蹴ったとしても構わない。これは『私』がやると決めたことだから、誰にも邪魔はさせない」

 

 こいつの自我を証明する必要なんて、本当にあるのか?

 それとも逆なのだろうか。証明するために、トリシューラはこんなにも強引に我を通そうとしている?


 であれば、トリシューラの驚くほどの意思の苛烈さは理屈の上では納得が行く。

 むしろ、その行動理念を考えれば腑に落ちる。


 それに関してはコルセスカも同じだったのだろう。だが、具体的にどういう意図があるのかまでは読めない。

 

「訊きますが、何故そんなことをする必要があるのです?」

 

「邪魔だから」

 

 さらりと、まるで路上に石が置いてあるから、みたいな口ぶりで言う。

 絶えることがない微笑みは、この場面では威圧感に近いものを放っている。

 

「結論から言うとね、私はこの第五階層を私とアキラくんの居場所にしようと思ってる。その為に、他の強権を振るっている組織はいなくなってほしいんだ」

 

 それか、無視できるくらい弱体化して欲しい、とトリシューラは語る。

 しかしそんなことをすれば、この第五階層はかなり混乱するのではないか。


 この階層のインフラのほとんどを牛耳っている【公社】は良くも悪くも必要不可欠な存在だ。トリシューラはそれに代わる基盤を階層に提供できるのだろうか。


 それとも、己の利益の為に大多数の住人を犠牲にするのだろうか。まあそれはそれでありだが、多数の敵を作ることは覚悟しなければならない。

 

「トリシューラ、具体的にはどうするつもりですか。相手は強大です。背後には『上』もついている」

 

「私は松明の騎士団に指名手配されてる重罪人だよ? 最初から敵なんだし、へいきへいき」

 

 そう言うトリシューラの声には気負いなどが感じられない。

 彼女が優れた呪術医であることを考えれば、そう無茶な話でもないことに気付く。これほど大規模で高度な設備も保有している。やり方次第では、第五階層で実権を握ることも不可能ではないかもしれない。

 

「具体的な方法っていうと、既存の医療機関を襲撃して、俺たちが治癒符のシェアを独占して大儲けとか?」

 

「アキラくん、暴力的過ぎ短絡的過ぎ浅はか過ぎ」

 

 呆れられた。

 馬鹿なことを口走ってしまったらしい。いや自覚はある。思いつかなかったからつい言ってしまっただけで。

 

「そんなことしたら【公社】だけじゃなくて第五階層の医療機関を必要としている人全てを敵に回すよね。治癒符は生活必需品なんだよ。特に迷宮では毎日人が怪我をして帰ってくるんだから、この場所の性質上絶対に需要は安定し続ける」

 

「ならどうする、逆に大量に刷ってみるとか? 紙資源を押さえられたら終わりじゃないか?」

 

「治癒符の本質は文字情報だよ。私がその気になれば何に書いたって作り出せる。それこそ皮膚でも服でもね。端末にメールを送っても構わない。使えば文字情報が消費される」

 

 そういうものだったのか、アレ。

 多分素人が文字を真似して書いただけじゃ複製できないんだろうが、えらく簡単に作れるんだなあ。それとも素人目には簡単に見えるだけで実際は大変なのだろうか。

 

「大量に治癒符を刷れば、それだけ治癒符の価値は紙切れに近付いていく。そうするとより信用度の高い生活必需品、たとえば携行糧食なんかが基軸通貨になっていく」

 

「ああ、だから事前に治癒符を糧食に換えておけば儲かるってことか?」

 

「ううん、そういうことはしないよ。ていうかそんなことして糧食を独占したら反感を集めちゃうよ。それも生活必需品だよ? 足りなくなったら暴動が起きる。管理している人、蓄財している人に憎しみが向けられるんだよ」

 

 そこまで言われて、ようやく俺もピンときた。

 

「管理して、蓄財しているのは首領の【公社】だよな。物流も、『上』から来るものに関してはほぼ牛耳っているはずだ。そこに憎しみや反感を向けさせるのが狙いか」

 

「正解。あっちも新しい通貨を発行したり、配給を始めたり、色々手を打ってくるだろうけど、とりあえず相手側の医療機関の価値を下げられる」

 

「【公社】への攻撃にはなるってことだな。ある程度優位に立てれば交渉もできるわけだ。しかし、それだとトリシューラの呪術医院も儲からなくなるんじゃないのか?」

 

「もとから私は呪術医として利益を生むつもりはないよ。どうせ個人で診ることが可能な人数には限りがある。技術や設備で負けているつもりはないけど、数の面で私は【公社】に負けてるから、はじめから競おうとは思ってない」

 

「なら、どうやって生活するつもりだ、トリシューラ?」

 

「私達は情報を売るんだよ、アキラくん」

 

 微笑みが深くなり、どちらかといえば邪悪な色合いを帯び始める。

 魔女の顔だった。

 

「アキラくんの【サイバーカラテ道場】に門下生を募ってお金とればいいんだよ」

 

「はぁ?」

 

 何を言っているのか、すぐには飲み込めなかった。

 だってそうだろう、なんだそれは。

 

「技術と【鎧の腕】っていうブランドに値札を付けるの。アプリを完全にコピーさせるのはアレだから、まず型の動画とか流して、もっと詳しく知りたい人は入会・送金、みたいなノリでやれば結構いけそうじゃない?」

 

「いや、そんな上手くはいかないだろう」

 

 少々呆れながら反論する。画に描いた餅、取らぬ狸の皮算用というやつだ。

 それは、確かにここは迷宮で、強さを貪欲に求める探索者たちが大勢いるわけだから理屈の上では需要はあるのかもしれないが。

 

「そうでもないよ? アキラくんの悪名、もとい名声は第五階層ではかなりのものだもの。半年間負け知らずのアキラくんの技を盗みたいって人は沢山いると思う。まあロウ・カーインに負けたのは痛かったけど、まだ知られてないし大丈夫だよ。個人的には、ちゃんと勝って欲しいけど」

 

 あのプライドの高そうな男のことだから、もう一度戦うまでは初戦の勝利を喧伝したりはしなさそうではある。

 それよりも、トリシューラの言うことには問題が多すぎる。

 

「それって権利的にアウトというか、犯罪だろ。そもそも俺個人に帰属しているモノじゃないし」

 

「なにそればっかみたい! 殴ったり蹴ったりすることに権利が発生するの? そんなの最適な動きを追求していったら自然と収斂して似たようなのになるでしょ普通。それにいちいち起源や権利を主張して回るの? よしんばそれが認められたとしても、ちょっとアレンジ加えて『サイバーカラテ改・アキラ流』とか銘打っておけばいいんだよ!」

 

 いや、個別の動作ではなく、体系化された思想にならば固有の権利を認めることは可能だと思うんだが。


 俺が感じている抵抗は、サイバーカラテが俺が考案したものでも研鑚を重ね改良したものでもないことに由来している。サイバーカラテは数多くのユーザーの使用データをフィードバックして最適化され続けた『集合知の武術』だ。だから誰のものでもないとも言えるし、誰かのものであるとも言える。


 勿論、俺のデータもフィードバックされてはいるのだが、全体で言えば微々たるものである。

 それを勝手に異世界で切り売りするのは、なんというかどうも、気が咎める。

 

「アキラくんはさ、そんなこと言ってる余裕、あるの? お金借りてるの忘れてない?」

 

 それを言われると何も言えなくなる。

 トリシューラは見るものに恐怖を喚起する例の微笑みを浮かべたまま嘆息して、言葉を繋いだ。

 

「あのね、これはアキラくんにとっての『居場所』を作るプロセスなんだよ」

 

「それは、どういう?」

 

「アキラくんには暴力しかない。半年間、ずっと暴力に依存して生きてきたよね。今更それを変えられる? 無理でしょう? 変化とか成長とか適応とか大嫌いなタイプでしょう?」

 

「他人に決めつけられるのは不本意だが、まあその通りだ」

 

「うん駄目人間だね。で、そういうアキラくんはこれから先もずっと暴力に縋って生きていくしか無いと思うの。だからいっそ、徹底的に依存すればいい。その具体案が『道場』なんだよ」

 

「他にも警備とか、格闘技とか、軍隊とか色々あるだろ。この世界なら探索者とか」

 

「この世界、特に第五階層でそれらは死に直結する仕事だよ」

 

 返事に窮する。それは半年間ここで生きてきて充分に実感させられたことだった。確かに継続的な生活には適さない職業だ。

 それを踏まえると、確かにトリシューラの提案は理に適っていた。

 

「といっても、アキラくんっていう個人の強さがブランドの信用度に直結しているからね。これからは名前を売って、ちょっと派手に荒っぽいこともしつつ勝ち続けないと駄目」

 

 今までのように、ただ生き残ることを考えた戦い方では通用しないということだ。

 それは、もしかしてよりハードな生活になるということでは。

 

「最大の変化はね、これからアキラくんが振るう暴力は、すべて明確に利益を指向するようになるということ。生活の為に暴力があるんだよ。そこには方向性が生まれる」

 

 大義名分の存在を示唆しているのだろうか。

 あるいは、彼女自ら口にはしていないが、借金の存在もある。

 トリシューラへの負債を考えれば、その為の暴力と考えることもできる。あまりに責任転嫁が過ぎて口に出すのは憚られるが。

 

「加えて言うなら、治癒符を過剰に供給することで、迷宮攻略を促進させようって狙いもあるんだ。治癒符が沢山あれば探索者たちはある程度継続して探索が続けられる。すると無茶ができるから、より深く進んでいける」

 

「ああ、成る程。そういうことですか」

 

 探索者であるコルセスカは、トリシューラの狙いを即座に理解したようだった。

 俺にもなんとなく想像はできた。


 探索者の動きが活発になるということは、探索が成功するにしろ失敗するにしろ、その試行回数が増加するということ。

 探索の試行回数が増えるということは、第五階層におけるあらゆる消費が増えるということでもある。ここは迷宮の中にある市場なのだ。経済が活性化する。


 商機も増えてくるだろう。新規参入の好機が生まれやすい。そこに【サイバーカラテ道場】の入り込む隙間がある。

 

「だけど、後のことを考えて逆に貯蓄に走ったりしないか?」

 

「治癒符は過剰に在庫を抱えて価値が下がるんだよ。そしてそれはずっと変わらない。私がその価値を最低のまま維持させ続ける。だから抱えているよりは使った方が良い。ついでに、迷宮の攻略情報をばらまいて探索という行為にインセンティブを与える」

 

「情報の確度はどうなのですか?」

 

「【冬の魔女】コルセスカのネームバリューを使えば信用はされるかなって」

 

 トリシューラは言いながら、手に持った端末機に迷宮の地図と思われるデータを表示する。

 それにコルセスカが激しく反応した。

 

「貴方はっ、いつの間に私の地図を!」

 

「治療費として頂きました」

 

「それならちゃんと他のもので支払います! 探索者の攻略情報を勝手にっ! それがどれだけ重要なものか、わかっているのですか!」

 

「当然分かってるよ。だからこうして奪ってるんじゃない」

 

 トリシューラは、『奪う』と強い言葉を口にして、微笑んだまま氷の魔女を威圧する。

 追い回されて引きずられる、そんな光景が嘘であったかのように。

 どんなに明るいじゃれ合いをしていても、二人は互いを出し抜き、裏をかき合う競争相手なのだ。


 今更データを奪い返す意味は無いだろう。トリシューラならバックアップを取っているはずだ。

 それを理解しているのか、コルセスカはかろうじて自分を抑え込んだようだった。

 

「活発化するようにシステムも整備するよ。ソロの探索者や少数の集団同士が簡単に協力できるマッチングシステムを構築しようと思ってるんだ。探索者用のソーシャルネットワーキングサービスで、探索者の情報を登録して、希望する条件に合致する相手が簡単に見つかるようになるの。こういうの、セスカも欲しいんじゃない?」

 

「それは――ですが、トラブルが起きたり、実際に組んでみたら上手く成果が出なかったりするのでは」

 

「そうだね。だからデータを取って、フィードバックを重ねて改善し続けられるようにするつもり。そこの仕切りは私が完璧にやってみせる。そうやって集めた攻略情報や個人情報は私の武器にもなる」

 

 えげつないことを考える女だった。

 この世界の情報リテラシーがそう低いとも思えないが、そのSNSが有用であれば必要な個人情報を提供する探索者はいくらでもいるだろう。フィードバックが正常に行われているというサービスへの信頼があれば、情報は幾らでも集まるはずだ。


 トリシューラの言動を支えているのは、不遜なまでの自分の能力への自信だった。

 

「そして更にこれを利用する! 第五階層のみんなが持ってて、誰にでも利用可能な、共通した財産」

 

 流石にぴんと来た。

 

「物質創造能力?」

 

「正解でーす! これに関するノウハウをネット上で切り売りします。まずはプラットホームやインフラストラクチャを利用できる程度の基本的な知識を無料で公開して、発展的な構築技術に関してはライセンス料とかぼったくります! 愚民どもから搾取しまくってボロ儲けだよ!」

 

 いい笑顔で超ゲスいことを言ってのけるトリシューラ。

 が、確かにこの巡槍艦を創造する技術には価値があるだろう。知識や力があるのなら存分に振るい、弱者を食い物にするのがこの迷宮のならいだ。現状とさして変化は無い。第五階層に君臨するのが【公社】からトリシューラに換わるだけだ。


 しかもトリシューラの発言からは、物質創造能力を強制的に奪われてしまう住人がいることが意図的に無視されているように感じた。

 多分、それも折り込み済みなのだろう。


 トリシューラは博愛主義者ではない。俺を助けるときにも、一貫して対価や報酬が支払われることを前提とした話しぶりをしていた。

 おそらく彼女は、自分にとっての利得を計算して動くタイプなのだろう。純粋に、迷宮というゲーム盤に向き合っている。

 

「私なんかは技術的なポイントを売りにできるけど、例えばセスカだったらビジュアル面、デザインで利益を生めるよね」

 

「そんなことに価値を見出す人が、果たしているものでしょうか? ここは迷宮ですよ?」

 

「迷宮だからこそ付加価値になるんだよ。すぐに真似して競合する相手が出てくるだろうけど、そういうアピールポイントがあれば優位に立てる」

 

 言い回しからすると、トリシューラは自分の技術を独占する気が無いようだ。

 というかむしろ、第五階層の技術水準を引き上げようとしている?

 

「この巡槍艦はね、ほぼ完全な循環を為す一つの系――すなわち単独で完結している世界なんだよ。私達は補給無しでもこの中で一年は生活できる」

 

 本日何度目になるかわからない衝撃的な発言だった。

 確かに、シャワーもトイレも各種家電も完備した高度な設備だと思っていたが、それほどとは。


 そしてこの艦は第五階層の創造能力で構築が可能だという。

 ということはつまり。

 

「第五階層って、もしかしてあらゆるインフラが個人レベルで賄えるのか?」

 

「ある程度、生活物資の補給は必要だけどね。設備投資は実はいらないんだよ」

 

「ということは【公社】が握っている利権というのは」

 

「うん、ゴミ♪」

 

 実際には、清掃や治安維持、違法な出入国の幇助や輸送、通信にエネルギーといった様々なものを握っている【公社】がそれだけで潰れたりはしないだろう。それに行政だって――そういえば、この第五階層には行政機関に相当するものが無い。当たり前と言えば当たり前だが。


 トリシューラはそれすらも覆すプランを持っているのだろうか。

 というより、第五階層の住人に与えられるこの能力は、俺が思っていたより遙かに途方もない可能性が秘められていたのではないか?


 半年の間、誰も気付いていなかったその事実に、トリシューラだけは気付いていた。

 そして、密かに技術の研鑚を続けていたのだ。

 魔女は、今こそ研ぎすました牙で獲物に喰いつこうとしている。

 

「私は杖の呪術師。大量生産と大量消費、技術の発展と知識の蓄積がその本分。だから、私はこのやり方で人間を『拡張』する」

 

 呪術は人間の知的営みを拡張することなのだと、トリシューラは言っていた。

 杖の呪術は身体性の拡張だという話だ。

 呪術師で杖というと、なにか象徴的な意味を想起してしまうが、この場合はどうやら歩行の補助、第三の脚として扱われているようだった。


 道具や技術は、身体的な機能を拡張するためにある。

 それは道具の作成や義肢、強化外骨格、ロボット工学といった分野から、医術まで網羅し、更には人の住環境、生活にまで及ぶらしい。

 

「当初のプランだと、第五階層はもっと勝手に、自律的に発展拡大する予定だったんだよね。掌握権限だって個々人で自由に弄って、すぐに言語魔術師レベルに到達する人が出てくる筈だったんだ。けど放置してたらいつの間にか犯罪組織がのさばり出して、基幹技術を秘匿して独占しちゃったの。序列は固定化されちゃうし【公社】は既得権益を貪るばっかりで技術の研鑽もしないし、もう色々台無しだよ」


「待てトリシューラ、その言い回しは、どういうことだ」


「つまり、ある程度の介入をしないと停滞しちゃうってこと。介入しすぎて独裁になるのは自律的な発展を妨げるかなって思って控えてたんだけど、結果的に失敗だったね」


「いや俺が訊いたのはそういうことじゃなくて」


 その言い方だと、まるで。


「ううん、アキラくんの思っているような事実は無いよ。私は別に第五階層の掌握者じゃない。ただ、第五階層の秩序が崩壊したって事を一番最初に知り得ていただけ」


「どういう意味だ?」


 俺の問いに、先に答えたのはトリシューラではなかった。


「当然でしょうね。秩序を崩壊させ、混沌をもたらした張本人が状況を把握していない筈が無い。アキラの話を聞いてもしやとは思っていましたが、やはり貴方でしたか、トリシューラ」


 コルセスカは相手の罪を糾弾するように、鋭くトリシューラを睨み付けた。氷の視線を向けられた当人はどこ吹く風といったように平然としている。


「私は元々この世界槍にあった秩序を取り戻しただけだよ。秩序を破壊して生まれた混沌は別の秩序でしかない」


「詭弁を。貴方の所為でこの階層にどれだけの混乱が引き起こされ、どれほどの人々が苦境に置かれることになったと思っているのですか。自分の目的の為ならどれほどの犠牲でも許容すると?」


「ヒロイックだね、セスカは。けどそうだね、その通り。私は邪悪な魔女だもの。試行の過程で人命を弄ぶくらい、むしろ当然じゃない? それに、その件に関しては人のことを言えないでしょ、セスカ。私なんて比較にならないくらい殺してるくせに」


 返す言葉を失い、視線をついと逸らすコルセスカ。

 二人のやりとりには所々意味が分からない部分があったが、それでも確かな事が一つ。

 上下どちらの勢力にも染まらない、中立地帯となった第五階層。

 この奇妙な状況を作りだしたのは、トリシューラなのだ。


「あのねアキラくん。元々この【世界槍】っていうのは誰のものでも無いんだよ。古の言語魔術師たちがオリジナルである【紀元槍】のコピーとして生み出して、位相の異なる世界同士を無理やりに繋げるために幾つも地面に突き刺したのが全てのはじまり。所有権が放棄された【世界槍】の中では無秩序なドメインの占有が行われ、絶え間なくコピーアンドペースト、改変、アップデートが繰り返された。空間構造や創造物は複雑化の一途を辿り、無数の小宇宙や文明が勃興しては衰退していった。あとは皆が勝手に住んだり乗り物にしたり武器にしたりして、色々な衝突とか発展とか衰退とかがあって、最終的には地上と地獄の戦争の舞台として使われるようになった」

 

 よくある歴史ってやつだよ、とトリシューラは言う。

 それは俺が知らない、この世界の姿だった。

 

「現在の階層掌握者を倒して階層ごとの掌握権限を奪い合うっていうルールは、後からやってきて勝手に審判を名乗ってるヲルヲーラが作ったものなの。好き勝手に振舞ってルールを押し付けるのがありなら、好き勝手に振舞ってルールを破壊するのもありだと思わない?」

 

 確かに、理屈ではある。屁理屈だと怒る人もいるだろうが、俺にとってはそう受け入れがたい発想ではない。

 

「元々ここでは、無秩序な空間掌握合戦を繰り返す陣取りゲームが行われていたんだよ。それをあいつが勝手に、ええとそうだな、チェスとか将棋? にしちゃったわけ」

 

 上下から迷宮を攻略するという現在の戦争の形は、むしろスポーツとかゲームに近い。迷宮を作り上げて待ち構える方が防御側、攻略する方が攻撃側。

 この迷宮攻略は、双方向的に行われている。

 異獣と呼ばれている下方勢力にとって、地上の人類は迷宮で待ち構える怪物たちである。

 

「そもそも掌握権限は本来誰のものでもない。言語魔術師たちはこの【世界槍】を作るときに一つの理念を示した。それは『あらゆる呪術はオープンソースであるべき』ということ。呪術を秘匿することを良しとするような呪文の呪術師たちもいるけど、私は杖の呪術師として彼らの理念に賛同する。従うべき法や秩序があるのなら私はこれに従うよ」

 

「待ってくれ、トリシューラ。少し混乱しているんだが、情報を整理させて欲しい」

 

 俺の内心を読めるトリシューラはこちらの言葉など無視するかのように言葉を続けていく。次々と出てくる新情報に感情が追いつかない。

 

「第五階層の掌握者は、誰でもないよ。別の言い方をしようか。ここにいる全ての人が掌握者なの。私も、アキラくんも、もちろんセスカも、そして外にいる全ての人々が」

 

「そうじゃない! いやそれも知りたかったが、俺が訊きたいのはそこじゃなくて」

 

「半年前のこと? 魔将に殺されかかっていたアキラくんを助けたのなら私だよ。その後で代理の掌握者権限を取り出して消去したのも私。第五階層の掌握者権限を奪い合うっていうルールを壊したのも私」

 

「何ですぐに言わなかった。いやそれより」

 

「その後、誰もいない第五階層に放置して見捨てたのも私だから。幾ら私の面の皮が厚いからと言っても、命の恩人みたいな顔してアキラくんは私が救ってあげたんだよー、とか言えないじゃない?」

 

「俺が聞いてる『何で』はどうして放置したのか、って事の方だ。いや、それ以上に、何で俺を助けた? そしてどうして半年も放っておいて、今さら俺の前に現れたんだ?」

 

「助けた理由は前も今も同じだよ。利用価値があるから。あんな所で死なせるわけにはいかなかったの。放置したのは、ちょっと個人的な理由。大したことじゃないよ」

 

 トリシューラは情報を開示するようで所々出し渋る。それでは、こちらは心情的に納得できない。いや、それは確かに、言いたくないことなら言わなくてもいいとは言ったが。


 それでも不満は残る。

 知らず歯を強く噛み締めて、感情を身体の奥底に沈殿させていく。

 その瞬間、うかつにも最も見られたくない思考を意識に浮上させてしまう。


 しまったと思ったときには遅かった。

 

「ああ、そうなんだ。寂しかったの? ふぅん。一人きりで知らない場所に放置されて、半年間ずっと孤独で辛かった? 私やっぱり、そういうところに気が回らないね。そういうクレームは想定してなかったな」

 

 感情を窺わせない表情のまま、トリシューラはこちらを眺めている。実験動物の反応を高みから観察する科学者のような冷徹な瞳。

 トリシューラは、ごめんねと一言謝罪して、こう続けた。

 

「でもねアキラくん。別に私、貴方のママじゃないんだよ?」

 

 内心でずっと押し隠してきた甘えを暴き立てられて、死にたいほどの羞恥に打ちのめされる。穴があったら入りたかった。

 命を救われただけでも、感謝してしかるべきだというのに。あれもこれもと要求するのは赤子と同じだ。しかも彼女は俺の保護者でもなんでもない。無関係な他人だ。

 

「ていうか、ここまで孤立しちゃうとは思ってなかったんだよね実際。私としては、第五階層に放り出されたアキラくんは、その傑出した格闘能力と異世界から持ち込んだ異質な知識や特有の視野を用いて大活躍。言語の壁なんてすぐに乗り越え、信頼できる仲間を増やしていつしか【世界槍】の中に名を轟かせる、みたいな展開を予想してたんだけど」

 

 轟いたのは狂犬の悪名だけだ。言語の壁は乗り越えられなかったし、仲間なんていない。知識なんて生かせる場面は訪れず、暴力を頼りにかろうじて生きながらえているというのが現実の俺だった。

  

「私があれこれ手伝って、教えたりするとそういうアキラくんの活躍の過程を邪魔しちゃうかなって思って、介入は控えてたんだ。なんか私、手出しを控えた結果として失敗することが多いね? ごめんねアキラくん、貴方がここまでダメだとは思ってなくて」

 

 あるいは、彼女には俺に対する期待があったのだろう。試練に近いものだったのかもしれない。

 俺が、トリシューラの目的に利する存在になり得るかどうかのテスト期間。


 余裕で落第していた。いや、今があるということは、かろうじて合格だったのだろうか。もしかしたら、今も試されているのかもしれない。そう思うと、背筋が冷たくなる。

 

「まあダメならダメでいいか、っていうのが今のところの結論。アキラくんができないことは私がやってあげるよ。つらくて寂しかっただろうけど、これからは私が傍にいてなんでもしてあげるから。安心して甘えてくれていいよ?」

 

「え、えぇ? 何だそれ」

 

「なあに? 私変なこと言った?」

 

 分からない。このトリシューラという女が俺には全然、さっぱり理解できない。

 つまり俺は彼女の期待に応えられず、見放されはしなかったものの、諦められたということなのか?


 視界の隅で、ちびシューラが『ママになってあげようか』とか言っているのを全力で聞こえない振りをしながら『聞こえない振りをしているのはちょっと心惹かれてる自分の弱い心の声を直視しないためだよねーやーいマザコン寂しがりやー』やっぱうぜえこの女!

 いいから話を続けて欲しい。

 

「私は失敗から学んだの。自由に放任するだけじゃダメだね。悪い奴に付け入られちゃうんだ。最低限、そういう奴らの手から守ってあげないと」

 

「そういう奴ら?」

 

「【公社】のこと。アキラくん、あいつらに飼い殺しにされてたでしょう。今のアキラくんがダメダメなの、ほとんどあいつらのせいだよ。分かってないみたいだけど」

 

「いや、けど首領にはそれなりに世話になって――」

 

「それが既に搾取なんだって。実際は奴隷としていいように使われてるだけ。【公社】は基本的にあらゆることに対してそう。あいつらが権益を独占しているせいで、いろんな人が下層階級としてこの場所で苦しんでる。私が放置した責任もあるけど。ま、だからこそ私がなんとかしなきゃってのもあるよね」

 

 邪悪な魔女とか自称していた割にはそれなりに良識的な感覚も持ち合わせているらしい。

 ますますこの女の性格がわからなくなってくる。本当に一貫した人格を持っているのだろか?


 いや、むしろよく分からないほうが人格を有した人間っぽいと言えなくも無い。

 

「とりあえず、最低限みんながまともな生活ができるくらいには積極的に介入していくつもり。そうしないと発展が阻害されるってわかったし。だから、搾取はしまくるけど、基本的に知識は全部公開するつもり。有償だけど、私だって何の苦労も無しに手にした技術や知識じゃないしね。その後は誰が死のうが生きようが知らない。私は聖人じゃなくて邪悪な魔女だから」

 

 あくまでも、トリシューラはその自称を続けるらしい。そこに彼女のアイデンティティがあるのだろうか、とぼんやりと思った。

 

「まずは【公社】とかの犯罪組織の一掃かな。ここに法があるとすれば、知識の隠匿と独占こそが最大の罪だよ。誰も裁かないなら私がやる」

 

 トリシューラの価値観も信念も不明だ。目的こそ分かってはいるが、それにしたって不明瞭だ。


 『ポンコツ』という呼び方――機械や道具として欠陥があると見なされることに対して怒り、自分の有用性を示すと言い放つわりに、強固な自我や自由意志を持とうとしているかのような言動をする。


 機械でありたいのか、それとも人間でありたいのか。

 トリシューラは何がしたいのか。

 その問いが、ふたたび意識に上ってくる。

 

「何でもだよ、アキラくん。ありとあらゆる事を、私はここで可能にしたいの。この場所はね、本当はもっと自由なんだよ」

 

 トリシューラは続けて列挙する。オンラインマーケットの管理と運営。ホスティングサービス。生活の質の下限を引き上げて、全員がより創造的な発展に集中できるような環境を構築するようにすること。単純労働を代行するドローンの貸し出し。

 

「あと趣味的に絶対外せないのがウェブマガジンね! テーマはファッション! 身体性を語る上で服飾を疎かにするわけには行かないよねっ」

 

 生き生きと語るトリシューラは、これまで見てきた中で一番楽しそうな表情をしていた。


 そして、俺は初めて彼女がそんなふうに着飾るのが好きで、ファッションに関心があるのだと言うことを知った。普段はあまり意識に昇らせないようにしている感想だが、それでもこう思った。


 トリシューラは、女性的だ。

 コケットというよりフェミニン。クールではなくキュート。

 くるりと回って、女性としてはそれなりに高い身長、すらりとしたプロポーションを誇示するように立つ。


 たしかにスタイルはこの上なくいい。

 そしてちょっと引くくらいの自己顕示欲を感じる。

 

「私、ファッションリーダーっていうのになりたいの!」

 

 自我の証明。自己の完成。

 目立ちたい、脚光を浴びたい、世界に自分を認めさせたい。

 このような自分でありたい。


 自己を能動的に規定するための、強烈な意思。

 あれもやりたい、これもやりたいと夢を持ちきれないほどに抱えて片っ端から試そうとするエネルギーは、思春期の少女のようで、その圧倒的な勢いに息が止まりそうになる。

 

「私を中心に、ありとあらゆるミームを撒き散らす。伝染させる。感染させる。私の視座で、この階層を浸食して支配して翻弄する。それは波紋を広げて、人と人とを繋げて、そうやって広がった視座が、視野が、視点がそれぞれ重なり合い、異なる形に変わっていく」

 

 トリシューラは、自分が始めた動きを自分だけで終わらせる気が無い。

 この階層の住人全てを巻き込んで、更なるうねりへと拡大しようと目論んでいる。

 

「本当に、それは上手くいくのか? そんなに都合良く、数多くの人間が動かされるものなのか?」

 

「ううん、上手く行かなかったよ」

 

 トリシューラは奇妙な言い回しをした。

 コルセスカが何かに気付いて、トリシューラを凝視する。

 

「トリシューラ、貴方は、まさか」

 

「これは過去に頓挫した試みなんだ。だけどもう一度、この閉鎖・限定された第五階層で試そうと思ってる」

 

 空気が張り詰めていくようだった。

 二人の間で、俺の知らない何らかの積み重ねが動いている。

 トリシューラは、何かをやろうとしていた。

 

「複数の視座を重ねてなにか創発的な活力を生み出そうとするこういう試みを、私たちはこう呼んでいた」

 

 そして、その名を口にする。

 

「【ゆらぎの神話】と」

 

 それは。

 

「人の数だけ、世界を解体する。無数の秩序で混沌を生み出して、その混沌を無限に秩序立てていく」

 

 あまりにも荒唐無稽で、馬鹿げたスケールの。

 

「そうやって私の、私達の神話をここから始めるんだ」

 

 俺の運命だった。

 

 ようやく俺は、『トリシューラ』と出会った。

 俺は見た。その鮮やかな緑の瞳を、ビスクドールのようなかんばせを、深い赤色の髪を、細く長い手足を、その身を包む黒い衣服を、編み上げのブーツを、重心の安定した美しい立ち姿を、微笑みの中に揺るぎない自尊心を秘め隠しているその表情を、機械の身体でありながら人になる為に世界にぶつかっていこうとするその躍動を。


 俺は、トリシューラを見た。

 言葉が選べない。拙い言葉が、何かを壊してしまいそうで怖かった。

 壊したくないと、思ってしまった。


 荒々しい静寂が辺りを包み込み、耐えきれなくなったコルセスカがかろうじて、という態で言葉を紡ぐ。

 

「よく知っていましたね。あんな古い儀式呪術、もう省みる者などだれもいないものと思っていました」

 

「ふふん。お姉様たちの書庫をちょっとねー」

 

「貴方まさか、禁書に手を出したのですか」

 

 呆れたようにトリシューラを見るコルセスカ。

 どうやらトリシューラが行おうとしていることは、随分と古い発想らしい。

 温故知新とはよくいったもので、トリシューラは先人の知恵を最大限活用するつもりなのだろう。

 

「といっても私はその頃にはまだ生まれてなかったんだけどね。【大断絶】以前の時代を知っているのは四魔女ではセスカだけだし」

 

「つまり、事実上トリシューラが個人で、ゼロから始めるってことでいいんだな?」

 

「うん。そう思ってもらって構わない。もちろん、発想を生み出してくれた人たちに敬意は示すけれどね」

 

 古い着想を基にこれからを語るトリシューラは、輝くようなまぶしさで俺の目を眩ませる。

 その姿を、

 

「もっと見ていたい」

 

 と、思うより先に口が動いていた。

 止まらない。

 

「続きが知りたい。その先を見せて欲しい」

 

「いいよ。まずは三日、私を見ていてよ」

 

 俺が口にして、トリシューラが了承したフェアネスの精神。

 しかし既にそれすらもどかしかった。

 次を見たら更にその次。先に行ったら更にその先。


 トリシューラが次にどんな衝撃的な発言をぶつけてくるのか、もうそれを待ち構えている自分がいた。

 そんな俺の内心を知りながら、トリシューラはあえて何も言わず、ただ微笑むだけだ。


 やはりトリシューラは魔女だ。

 意地悪で性悪。そして最も質が悪いことに、一度魅入られたが最後、目が離せない。

 気がつけば、胸の動悸が止まらない。

 負傷のせいでは、無さそうだった。

 

 

 

 その後、コルセスカは絶対零度の声で要求した。

 

「トリシューラ、今更ですが男女を同じ病室に入れる貴方の思考回路は狂っています。私を別の部屋に移してください――移せ」

 

 

 

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