次へ >>  更新
1/239

1-1 無彩色の左手、鎧の右手

 

 

 

「出来るだけキツイ異世界がいい。とびっきり悲惨で、とびっきりハードなやつが」

 

 転生保険に加入するとき、こんな注文をする人の割合はそれなりらしい。

 およそ七割が安全や安心を求める一方で、残り三割は「ほどよくバランス調整された人生の厳しさ」を欲するのだという。

 理由は、何もかも安全では生活に張り合いが無いからとのことだ。


 見栄やプライド、今までの成功体験から来る将来への自信。

 「多少の危険がある方が人生は楽しめる」などと、先進国で豊かな暮らしを享受しながら言ってのける。

 不慮の死という危険に対しては保険をかけておきながら、そういう事を言える余裕が、異世界ビジネスによって隆盛した現代日本にはあった。


 けれどそうした人々の大半は、保険会社の安全調査部や転生後生活の支援活動課などのたゆまぬ努力によって転生後を楽しめているだけであって、実際に「悲惨でハード」な異世界に放り込まれた場合はまず間違いなく掌をくるっとかえして「帰りたい」とか泣き言を言うに決まっている。


 ――俺がそうだ。

 

「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」

 

 おわかりいただけると思うが、死を目前にした人間というのは変な脳内物質をどばどば出してでもいない限り、ほとんどが混乱するか萎縮するかだ。第三者から見て「さっさと逃げろ」という状況でも、体が竦んで動けないということがよくある。訓練されていなければなおさらだ。


 屈強な兵士でも死の直前は母親を呼ぶという話だし、平凡な市民であった俺が命の危機に直面して、へたり込んで失禁どころか脱糞し泣きわめいているのも仕方のないことだ。ほら徳川家康も三方原の戦いで脱糞したっていうし歴史的に見れば多分そんなに恥ずかしくない、大丈夫。


 なんとなれば。

 左腕が肘半ばで千切り取られ、盛大に血が噴き出している状況なのだから。


 大量の体液が石造りの床に血だまりを作り、流れていく。天井の低い通路であるため、血の臭いはしつこくたちこめていく。

 失血死が目前なのに、恥や外聞など気にしてはいられない。いや、当座生き残れたら雑菌とか衛生面のことも考えないといけないから綺麗にしなければならないけれど。

 それはともかく、死ぬ寸前である。

 

「たすけ、誰か、誰かたすけて――!」

 

 断端部を右手で押さえながら、必死に叫ぶ。適切な治療を受けねばというのもそうだが、状況をより差し迫ったものにしているのは、朱塗りの武具に身を包んだ山県昌景――ではなく、目の前で左腕をむしゃむしゃと咀嚼している怪物だ。


 いわゆる人狼というのか、直立二足歩行で人のような手を持つ狼が、俺の腕を生のまま喰らっていた。

 剣のように鋭利で長大な爪から血が滴り落ちる。体毛があるためか、身につけているのは鉄の胸当てや要所を覆う具足のみだ。


 野蛮と知性とを兼ね備えた、地球上では考えられなかった異形の生物。

 それはいい。モンスターとか異種族とか、取り寄せた資料にも載っていたし今日び異世界の情報なんて幾らでもネットで仕入れられる。契約する際に口頭で説明もされた。


 危険がある異世界を選んだのも俺自身だ。サインをして印鑑も捺した。

 だが、こんなにキツイなんて知らなかった。こんなに恐ろしいなんて聞いていなかった。


 俺はあのときに間違えたのだ。

 オプションにあった異能も、魔法も、強靱な肉体も、頼れる仲間やペットなども一切インストールしなかった。 こんなに早く死んで転生するだなんて本当は考えてすらいなかったから、「どうせ後で変更できる」とか「オプションとか高すぎるし貯金に回した方がいいや」とか考えて、保険会社の再三に渡る勧めを「がめつい連中だな」とか思いながら突っぱねた結果がこれだ。


 思えば「本当によろしいのですか?」「もし不測の事態が発生したとしても、それに関して弊社は一切責任を負いかねますので、あらかじめご了承ください」「シンプル・最低限プランのお客様は転生後のトラブルが多く、あまりおすすめできないのが現状です」などと懇切丁寧に説明されていたのだ。


 とにかくまずい。

 なにせ、一度転生したらその後が無い。転生先で死んだらそこでアウトだ。

 いや、超高額の、ループ+異世界転生のプランもあるらしいのだが、そこまでの金を用意できるのは一握りの富裕層だけだ。


 このままだと死ぬ。

 だから、俺はこの窮地を自力で脱出しなければならない。

 

 「くそっ、来るな、来るなぁっ」

 

 腕をしゃぶり尽くしたのか、血まみれの左腕を咥えたままこちらへにじり寄る人狼に対してできる事など何もない。俺の左腕を切断した剣の切っ先が、ぎらりと輝く。


 俺に許された悪あがきと言ったら、せいぜいが傷口を押さえていた右手をむちゃくちゃに振り回す程度――その瞬間だった。

 

『非常用回線をお繋ぎします。異世界転生に関するトラブルなどに関してはAを、ご契約内容の――』

 

 一瞬で思考が冷えた。

 

「え、Aを! 急いで!」

 

『ただいま回線が大変混み合っておりますので、少々お待ち下さい』

 

「待てない! 早く、早く!」

 

 無情にも脳内に響く待ち時間専用ジングル。

 そう、『脳内』に直接響く音だ。

 たった今繋がったのは、まず間違いなく転生後のトラブルに対応する為のサポートセンターだ。間世界通信がこちらから通じている。

 

「何で」

 

 本来は通じるはずが無いものだ。だからこそ生存を絶望し、恥も外聞もなく泣き喚いていた。

 疑問の答えは、宙に突き出した右腕だった。

 

「そうか、ハンドジェスチャー」

 

 脳内にインプラントされたマイクロマシンは思考制御や外付けのハードウェア以外にも、肉体のしぐさを読み取って動作させることが可能だ。

 標準機能ではないが、据え置き機のマウスジェスチャのように好みや使いやすさで使用する者もいる。


 俺がそうだ。

 たった今、人狼を遠ざけるためにしゃにむに手を振り回したときに、偶然『緊急時の連絡先』にコールする操作を行ってしまったのた。

 しかしこれはおかしい。


 元世界の技術は、原則として異世界に持ち込んではならない。国内法でガッチガチに規制されてるし国際法でも禁止されてるし間世界条約でも絶対に禁止だ。


 転生の際、こうした技術の持ち込みが無いように厳重にチェックされ(その代わり転生先の世界に適した特殊能力などが与えられる)、現地で肉体を再構成される。


 それが、何の手違いなのか、技術を異世界に持ち込んでしまっている?

 振り下ろされた爪の斬撃を右手で受け止めながら、俺は事態の重大さを把握しつつあった。


 俺の右腕の肘から先は、現在の地球における最先端の電子制御技術によって作られたサイバネ義肢だ。表皮は特注のチタン合金製。恥ずかしいことに、たった今存在に気付いた。さっきまで生身の腕が再構成されていたと勘違いしていたのだ。


 衝撃を外側に逃がしつつ、状況のまずさに顔を顰める。

 たとえ自分の体同然の義肢であっても、これは異世界への元世界技術の持ち込みに当たる。


 普通、俺のような義肢を用いている者が死亡した場合、転生先で新しい腕が再構成される。

 転生先の異世界が、元世界の下位レイヤーに位置しているが故の、ほぼ万能の創造。上位世界である地球に住まう人々は、下位の異世界に対して、法を犯さない範囲で全能に近い力を行使できる。

 

「やばい」

 

 重罪を犯した可能性がある。

 というか俺個人だけの問題にとどまらず、この異世界転生保険会社の管理責任とか社会的責任などが問われることになるはずだ。


 最悪の予感に身を震わせるが、それはそれとして急場は凌がなくてはならない。

 待ち時間のジングルはまだ鳴り響いている。サポートセンターは今日も忙しいようだ。


 思考制御で痛覚レベルを落とす。冷静になってみたら泣き喚くほど痛くは無かった。びっくりしたので過剰に痛いような錯覚に陥っただけで、自動的に耐えられる痛覚レベルになっていたようである。

 左腕の止血を体内のマイクロマシン群に命令するが、既にマイクロマシンが自己修復を始めていたのであまり意味が無かった。


 痛覚レベルを低下させたことによって神経伝達の感度や運動の正確性が低下。脳内で起動させたアプリケーション群に運動系機能をアウトソーシング。

 痛みが他人事になる。肉体から意識が切り離され、俺ではなく規定のプログラムが運動を制御する。

 

 ――格闘動作制御アプリ【サイバーカラテ道場】を起動、網膜にデフォルメされたAR人体が投影され、図像の足部分が赤く発光する。

 

 勢いよく立ち上がると同時に右腕を払い、人狼の爪を弾く。「GOOD!」の文字が視界を踊る。ボトム内でうごめく大便が気持ち悪いが今は無視。

 『左腕が無い状態での最適な格闘術』をサイバーカラテ道場独自の見解(国際サイバーカラテ連盟審査済)に従って算出、図像の左足部分が赤く光る。不均等になった左右の重量バランスを調整。


 俺が左足に体重をかけると、「GOOD!」の文字が輝き、赤い光は膝、大腿部、腰から右肩、肘へと移動。それに合わせて重心を移動させることで交叉する「GOOD!」と「CHAIN!」の文字。


「発勁用意」


 の漢字が胸部分に表示されたら攻撃のタイミングだ。


「NOKOTTA!」


 という怪しげな発音の日本語めいた脳内サウンドを合図に、体重の乗った肘打ちが人狼に直撃。表示される「HIT!」の文字。

 続けてローキックの追撃。更に右のチョップ。踊る「COMBO!」。

 動作アシストに従って動けば、俺のような一般人でも簡単にサイバーカラテの達人になれる。ちなみにサイバーカラテはネオアメリカ発祥の機械化人体を前提とした格闘術である。


 まさかいきなり反撃されるとは思っていなかったのだろう、混乱した人狼は俺の繰り出す打撃に退き、たたらを踏み、みぞおちに突き刺さった肘の一撃に息を吐き、咥えていた俺の左腕を宙に放ってしまう。


 いや。

 その直後、かっと目を見開いて、放られた左腕をまるで俺に渡すまいとするかのように素早く掴み取ると、その場から大きく後ろへと跳躍する。

 不可解な動きだった。そんなにも俺の左腕のしゃぶり心地が良かったのだろうか。犬っぽい行動といえばそうだが。


 これが転生後のオプションによって、俺の左腕に世界を左右するような神秘的・魔術的な力が与えられてるとかだったら、それを巡って物語が展開したりもするのだろう。費用をケチったせいでそういうことは一切無い。


 困惑するこちらをよそに、あちらはあちらで警戒を強めているようだった。無力なだけの獲物が急に反撃してきたのだから当然の反応だが、腕を奪われたままなのも困る。


 この世界の医療技術がどの程度のレベルなのかは不明だが、もし左腕が繋がる見込みがあるのなら取り返しておくのが望ましい。

 だが怪物とこれ以上戦い、勝利することが(あるいは腕を奪った上で逃走することが)できるかどうかはわからない。


 さっきは不意をついたから攻撃が命中したが、次も通用する保証は無いのだ。サイバーカラテ道場があるとはいえ、俺は一般人である。格闘家とか軍人とかと違い、まともな訓練を受けたことがないのだ。

 逆に、あの人狼がそこまでの強さではないパターンもあるので、見極めが難しいところだ。


 逡巡する俺の目の前で、人狼はじりじりと後退していたかと思うと、だしぬけに反転して走り去る。

 あまりにも素早く、潔い逃走であったために一瞬呆けてしまったが、慌てて追いかける。


 尿と血が混ざった床で転ばないように気をつけながら通路を走り出す(流れた血の量にぞっとした。幸い致死量には達していなかったようだ)。

 細く狭い石造りの通路はそう長くない。前方、人狼が丁字路を右折したのを見て、右手で着ていたシャツのボタンを外しながら、通路の左側に寄りながら走る。


 曲がり角で待ち構えていた人狼に反撃される可能性を考慮しての事だ。

 血を吸って重くなったシャツを、曲がる直前に立ち止まって投げる。

 シャツを飛び出してきた俺だと誤認して、反撃が来るかも知れない。

 果たして血に濡れた衣服は重力に従って床に落ちた。

 どうやら、飛び道具での奇襲は無いようだ。


 右腕で顔をかばいつつ、慎重に様子を窺う。誰もいない。

 どうやら俺が転生した場所は迷宮のようになっているらしく、道が複雑に分岐していて人狼の逃げた先はわからなくなってしまっていた。

 慎重になったのは結果的には間違いで、全力で追いかけた方が良かったというわけだ。


 左腕をもっていかれるという失敗をしたものの、あまり後悔は無い。

 あの時点では俺はそう行動するしかなかった。そういう性分なのだから仕方がない。俺は左腕を一旦諦めた。

 さてどうしようか。脳内では未だに待ち時間を示すジングルが鳴り響いている。


 考えながらも、俺の右腕はよどみなく動く。服を脱いでいるのだ。

 ポケットに入っていたティッシュで尿と血を拭いていく。下着にこびりついた大便はやや軟らかく、動いたせいでぐちょぐちょになっており、残り少ないティッシュで拭き取ってまた履き直すのは困難なように見えた。あと臭いが残るので生理的に嫌だった。


 汚れたティッシュと下着、ズボンをまとめて通路の隅へ放る。

 臀部や脚に付いた汚れは綺麗に拭き取ると、ティッシュが尽きた。

 血に汚れた左腕の断端を見る。生体マイクロマシン群の働きによってほぼ血は止まり、早回し映像のように急速にかさぶたで覆われつつあるが、一応ハンカチで縛っておく。あまり清潔とはいえないが、やらないよりマシだろう。

 右手と口を使ってハンカチを縛るのは中々骨が折れた。

 

「なにしろ骨ごと食いちぎられたからなあ」

 

 呟いてみたが、想像以上につまらなかった。

 悪戦苦闘の後、どうにか左腕の処置は終わった。痛みを感じないからこそ可能な芸当だが、あまり手荒に扱うのも良くない。

 

「よし」

 

 小走りに移動して、角を何回か曲がる。周囲を見回しても、背後に捨てたものはもう視界に入らない。

 

「よし」

 

 独りで頷く。

 と言う所で、丁度ジングルが鳴り止んだ。

 

「大変お待たせいたしました。異世界転生生活サポートセンターでございます」

 

「実は服が再構成されてないみたいなんですけど、なんとかならないでしょうか」

 

 全裸になったのは俺なりの計算というか保身、あるいは羞恥心の為だ。

 つまり、転生時のトラブルで全裸になってしまったということにすれば、全裸の俺という犯罪的な状態の責任を俺の脱糞ではなく保険会社ないしは転生業者、システムや機器に押しつけられるのではないかという意図である。あっこれちゃんと調べられたらバレるんじゃね? と短絡的な行動を一瞬悔やんだがもう遅い。

 

「申し訳ございません、異世界でのトラブルに関しましては、基本的にはお客様ご本人が独力で何とかしていただく、ということになっておりまして」

 

「ええと、見てわかるとおり、全裸で更に左腕を負傷しているという状況なんですけど、このまま死んだりしても関知しないってことですか」

 

「はい。そのようになります」

 

 こちらからは見えないが相手は女性のようだ。異性に冷たい声で貴方が死のうが生きようが知った事じゃない、とか言われると興奮するな。全裸を晒しているというのもポイント高い。露出に目覚めそうだ。

 ――つくづく、俺は冗談のセンスが無い。

 

「それと、申し訳ございませんがお客様、現在、音声通信は繋がっているのですが、どうも映像が繋がらないようです。『遠い』異世界ですとまれにこういったトラブルが起きてしまう例がございまして、よろしければお客様が転生されている異世界の登録管理番号を教えていただけないでしょうか」

 

 こちらからの要求は通らないのに、あちらからの要求は一方的にされる。なんだか釈然としないものがあるが、決まりなので仕方がない。

 しかし、映像が繋がらないというのはやはりおかしい。義肢や脳内インプラント、体内のマイクロマシンなどが全てそのまま再構築されていることも含めて、何かトラブルがあったのだろう。


 一瞬、迷いが生じた。理性は正直に状況を打ち明けるべきだと告げている。異世界転生に関する法律をきちんと学んだことが無い為、こういうケースで自分が罪に問われたりするのかどうかはわからない。


 普通に考えたら無いはずだし、こういうのはむしろ保険会社や転生技術機器の製造や管理会社の責任になるのではないだろうか。

 だとしたら俺の現状を話すことに問題は無いはずだ。


 色々と俺のことについて調べられて、義肢やマイクロマシンは回収、欠損した右腕部分は再構成、ということになって終わりの筈だ。


 ――俺が犯罪者でさえなければ。

 通常、被保険者が犯罪行為を犯して死亡した場合、また契約から一定期間以内に自殺した場合、もしくは噴火、地震、津波、戦争などにより死亡した場合には転生は行われない。その為、強盗殺人や事故に偽装して転生を手助けする殺し屋という違法な職種が存在するくらいだ。


 というか、俺のことなのだが。

 前世紀までに流布していたイメージとはやや異なり、殺し屋は荒事屋というよりも詐欺師などに近い。暴力沙汰が皆無とは言わないが、自殺ではないと見せかけるための偽装工作が主な仕事だ。


 付け加えると、依頼人と殺害対象がイコールで結ばれるのがほとんどである。

 そうでない場合は、安楽死認定が難しいにも関わらず本人や親族が死亡と転生を望んでいるようなケースで殺害対象の周囲から依頼が舞い込む。


 どこそこの組のだれそれの首をとってこい、というような依頼は、まあ無くもないが本業ではない。そういうのは歩く兵器そのものであるスモーレスラーだとか、全身を義体化したブシドー、生体強化したニンジャとかの役目だ。


 俺の義体化レベルは右腕を中心とした右半身及びマイクロマシンによる生体強化だけ。

 これは一般人の範疇だ。

 軍人や格闘家が行う正規の訓練――遺伝子レベルで完璧にデザインされ、分刻みで管理された超人育成プログラムなどは受けたことがないし受けたくもない。


 サイバーカラテ道場を適切に運用する為に必要最低限のトレーニングくらいはしていたが、それだって日々ジムに通ったり公園を走ったり道場に足を運んだりするようなものだ。そんなことは誰しもが日常的にやっていることである。


 俺はあくまでも一般人なので、地味な転生目的の自殺幇助とそれを事故や他殺に偽装するのが主な仕事だ。

 そんな俺のようなけちな殺し屋を【トラック運転手】などと呼ぶ者もいた。


 交通事故に偽装して転生を手伝う時、重量のあるトラックを用いる手口が多い為だ。

 転生技術が確立されて以来、このような殺し屋の需要は少しずつ高まっていった。


 俺はその隙間に入り込んでちまちまと稼いでいたわけだが――。

 基本的に、犯罪者の転生は法律で禁止されている。

 異世界転生技術は日本の死刑廃止を決定的なものにしたが、同時に闇転生業者の増加と犯罪者の転生逃亡が問題となるであろうことが予見されていた。


 転生後に有罪が認められた場合、転生者は元世界の法によって裁かれる。世界間通信によって裁判が行われ、判決に応じた刑罰が与えられる。これは強制である。


 罰金は異世界では意味が無い為、労役か禁固刑が主であり、自主的な『ひきこもり』もしくは異世界での調査活動や研究報告などを求められる。この間は厳しい監視が付き、行動も大幅に制限される。労役義務を放棄すると四肢や五感を情報凍結されるというから、必死にならざるを得ない。


 転生技術の黎明期に異世界を逃亡先に選んだ不運な、そして愚かな重犯罪者たちが全情報を凍結され、生きたまま異世界で停止し続けている様子は、異世界ライブ映像で今もなお全世界に晒され続けている。


 受刑した後に死んで異世界転生したのならともかく、俺の罪はおそらくまだ裁かれていないはずだ。というか犯罪そのものが露見していない。

 俺が犯罪者だと知っているのは俺と被害者、依頼人や仲介人などの関係者だけだ。俺が異世界にいるということは、被害者が転生した後で俺の犯行を証言したりすることもなく、俺は犯罪歴の無い普通の死者と判断されて転生したのだろう。


 しかし、詳しく調査が行われた場合、前世での犯罪が露見する可能性がある。

 前世との通信を、やめるべきだろうか。

 脳裏を全世界に配信される凍結犯罪者の映像がよぎった。なにもない空間に固定された裸体、情報の入出力だけが行われ、緩慢な脳死の後ぷつりと映像が途切れ、俺という存在が情報的にも意味的にも消失する。

 迷いながらも、口が動く。

 

「すみません、なんだか繋がりづらいみたいで、あー、あー、聞こえてますか? なんだかノイズが凄くて、よく聞き取れないんですが」

 

「お客様? こちらからはなん――せんが――――様? 聞こえ」

 

 その場しのぎの言葉のつもりだったが、どういうわけか現実になってしまったようだ。音が途切れ途切れになったかと思うと、そのままぷつりと消えてしまった。

 何かしらのトラブルが起きていることは間違いないらしい。


 こうやって誤魔化していても、トラブルが起きていることが明らかな以上あちらからも調査が入るだろうし、いずれはボロが出ることは避けられない。当面は保険会社の調査部かサポートセンターからの再度の連絡が試みられるだろう。このまま知らぬ振りを続けられるというのは楽観的過ぎる思考だ。かといって覚悟を決められるかというと。

 

「うーん」

 

 唸ってしまう。どうもすぐには結論が出そうにない。

 思考を保留にする。まず異世界での身の振り方を決めよう。もし仮に犯罪が露見したとしても、即座に第二の人生が終了することはない。冤罪を防ぐために、それなりの期間、調査や裁判が行われるはずで、その間も俺は異世界で生活し続けなければならないのだ。


 生活するとは、寝て起きて、食事をして排泄をして、あと服を着たり脱いだりすることだ。

 そう、差し迫った問題として、俺は全裸である。

 石造りの通路の中はそう寒くはないが、このまま全裸でいて良いという理由にはならない。


 転生のパターンの中では赤ん坊から生まれるものも人気らしいが、俺のように成年期の肉体で異世界に降り立つ場合、普通は服を着ているものだ。確か俺は元世界の衣服ではなく現地の一般的な衣服を希望していたはずだが、残念ながら何らかのトラブルにより俺は全裸のままこの世界に転生してしまった(ということにする)。


 汚れたから捨てた? 何のことか分からないな。

 現地の服が再構成されていないのはどう考えても俺の責任ではないので、俺が全裸で迷宮を歩いているのも仕方がない。


 迷宮と言えば、俺が高難度の異世界を希望したことは既に述べたが、その時に希望したスタート地点は確か迷宮だった。この点に関してだけは問題なく成功したわけだ。左腕を失った今となっては嬉しくも何ともない。


 灰色の通路が延々と続く、無味乾燥な風景。両脇の壁に等間隔に配置された燭台が皓々とあたりを照らし、かすかな足音が響いていく。

 今気付いたけど服は着ていないが靴と靴下だけ履いている状態って、ただの全裸よりやばい人のようだな。


 脳内にインプラントされたマイクロコンピュータによって偏桃核の情動制御に割り込みをかけられる俺だからこそ不安や恐怖、羞恥に押しつぶされずにいるが、素のままの俺だったら最初にあの人狼に襲われた時点で動けなくなって死んでいたのではないだろうか。


 今考えると何の能力も無しに異世界に転生とか無謀も良いところだった。せめて痛覚遮断が無いと動けなくて死ぬ。

 幸い、現在は精神状態が非常に安定している。


 迷宮を歩きつつ視界の端に地図を描き、周囲を警戒するということが問題なく行えるのも、感情を制御し、左腕を失った痛みを遮断しているからだ。

 だから、自分の足音以外の物音が聞こえたとき、即座にそちらへ向かうという決断を下すことができた。


 不安定な精神状態のままだったら逃げていたかもしれないが、このまま裸でうろついて餓死や凍死をするのも馬鹿らしい(とはいえ、三日くらいなら飲まず食わずでも何とかなるし、たとえ全裸でも雪山にでも放り出されない限り死んだりはしない。俺の体は非常に燃費が良く、寒さに強い)。


 音を頼りに迷宮を進んでいくが、なかなか上手くいかない。迷宮がやたら入り組んでいるため音が複雑に反響し、発生源がわかりづらくなっているのだ。


 何度も角を曲がっては耳をすまし、また歩き出す。似たような通路ばかりで気が滅入りそうになるが、情動制御アプリによって強制的に気分が浮き上がり、むしろこの先に何が待っているのだろうと期待に胸をふくらませる。人類は憂鬱さを克服した。先進国の、そして自然主義者以外の、という但し書きが付くにせよ。


 徐々にはっきりと聞こえるようになってくる物音は、向かう先の状況が不穏なものであることを告げていた。

 硬い金属同士がぶつかり合うような音が断続的に響き、獣の呻きや咆哮、叫ぶような耳慣れない音の連なり。


 異音だけでなく、異臭が強く立ちこめるようになって、一瞬足を止める。

 音が明瞭に、そして異臭が、生ぬるい風と共にこちらへと漂ってくる。

 空気の流れをはっきりと感じる。ということは、この先は異変の発生源であると同時に、どこかへ繋がっている可能性が高いのではないだろうか。

 耳と鼻は共に危険を知らせているが、ここで引き返す気にはならなかった。


 とりあえず様子見だけでもしようと、空気が流れ込んでくる方向へと進んでいく。

 何回か行き止まりにぶつかったが、マッピングアプリが機能しているので同じ迷い方はしないで済む。だいぶ時間がかかったが、ようやくそれらしい場所に辿り着いた。


 曲がりくねった通路の果てに、俺がこの迷宮を彷徨い出してから初めて見る、部屋と言える空間が開けていた。

 これまでの通路は横幅が狭く、天井も身長170センチメートルほどの俺が手を伸ばせば届きそうなほど低いものだったが、この部屋はそれよりかなり広く、背の低い草に覆われた大地はどこまでも続き地平線や遠い山々の稜線が窺えるほどで、天井は透き通るような青で、輝く太陽と白い雲がまぶしいほどに高い。


 っていうか外だこれ。

 

「あれ?」

 

 おかしいな、どうして俺はここに着いた瞬間、直感的に『部屋』だと思ってしまったのだろう。見るからにここは迷宮の外だ。風の流れから判断しても、出口を見つけて外に出たと考えるのが普通だ。


 不可解さに戸惑う思考は、しかし一時中断しなくてはならないようだった。

 外に出たという衝撃が大きかったために意識が逸れてしまったが、本来注目すべきは目の前で繰り広げられる酸鼻極まる光景である。

 強烈な異臭。吹き抜ける風が運んでくるのは、紛れもない血の臭い。


 既に二人、地面に倒れ伏している。意識がないのか既に死んでいるのかは不明だが、全身を鎧で固めているのにも関わらず、大量の血を流している。鎧の隙間を狙われたのか、ここからだと見えない部分を破損しているのか。いずれにせよここは危険だと一発で分かる光景だ。


 未だに両足で立っているのは四人。揃いの全身鎧に身を包み、二人が槍、二人が槌矛と方形盾を手に戦っているが、それもそろそろ限界のようだ。

 相手が悪すぎる。


 見上げるような大きさの、それは狼だった。

 いやひょっとしたら犬かもしれないが、人間らしき四人に幾度も吠え、飛びかかり、爪を立てるその獰猛さと巨大さを見ると、人間に家畜化された動物だとはちょっと思えない。


 俺の左腕を奪った人狼は俺とほぼ同じ体格だったが、この巨大狼は高さだけでその二倍以上はあるだろう。全身を金属製の鎧で覆っている。二つの前足には鋭利な三枚の刃が爪のように取り付けられており、巧みな爪捌きで迫り来る槍や槌矛を打ち払い、攻撃を行っている。


 四足歩行の獣にも関わらず、巨大狼は鎧と刃で武装していた。

 人狼が装甲で武装していたことから考えても、この世界の獣、というか怪物、あるいは異種族には金属加工が可能なだけの高い知性があり、道具を利用することが可能なのだろう。


 巨大狼は四足歩行で、とても道具が使えるようには見えないが、もしかしたら近縁の種族である人狼が作って着せているのかもしれない(あの人狼が飼っている軍用犬というパターンもあり得る)。


 四人の戦士は果敢に巨大狼に挑むが、機敏な動きと爪による攻撃、硬い鎧に阻まれて有効な打撃を与えられていない。

 一方、巨大狼は突進し、飛びかかり、その鋭利な爪で四人の盾や武器を傷つけており、遠目に見ても優勢なのはこちらのほうだ。


 全身鎧の人間っぽいほうが優勢なら後の展開を考えて助けに入るのも考えただろうが、今は無視して通り過ぎるのが無難だろう。


 戦っている連中に気付かれない内に、出口からすぐ左に曲がって進んでいく。向かう先は見渡す限りの草原で、遠くに山脈が見える。人里などがあるかどうかも分からないが、とりあえずあてもなく進んでいくしかない。


 と、妙なことに気付いた。迷宮から出てきたはずなのに、左の方向には何も無かったのだ。

 何かしら巨大な建造物があると思ったのだが、俺の出てきた出口がただ何も無い草原に浮かんでいるだけで、その上にも横にも何も無い。


 まさかこの草原も大空も絵なのか、と思って見ればそうでもない。草はそよいでいるし、風も感じる。雲の動きや太陽の輝きも確かだ。

 海底都市や宇宙ステーションでは拡張現実技術を使って人工的に地上の環境を再現したりするというが、俺はひょっとして感覚を欺瞞されているのだろうか。


 そこまで考えた時、俺は更なる衝撃に目を疑う。

 まばたきの間に、出口が消失していた。

 そこに迷宮への出入り口があったという痕跡は無い。まるではじめからここは何も存在しない草原だったと言わんばかりの光景だった。


 そして立て続けに、甲高い叫び。三音節ほどの高めの声。何かの言語のようにも聞こえるが、あいにく俺の知るどんな言語にも該当しないようだった。

 ただ、意味の見当は付く。

 右方向から危険が迫っている。


 回転しながら飛来した爪の一枚を右手で弾き飛ばして、右半身を前に、巨大狼の方に向けて構えをとる。俺に気付いた巨大狼が前足の爪のギミックを作動させて刃を投擲し、四人のうち誰かがそれに気付いて声を上げた、という状況である。尤も俺の方はこんな事もあるだろうと、右手で防御出来るように備えてはいた。流石に爪が飛んでくるとは思わなかったが。


 敵意の込められた眼光と咆哮が俺に向けられている。関わるつもりは無かったが、文字通り退路は無い。

 武装した六人を劣勢に追い込むような怪物が相手だ。俺一人が加わった所で勝てるとは思えないが、さて。


 そもそも、あの全身鎧の四人が味方であるとするのもおかしな前提だ。兜で面相が見えないので実は人間かどうかも分からない。

 かといって四人と巨大狼、全員を相手に三つ巴の戦いなど無謀すぎる。巨大狼に味方しても四人が殺された後で俺が餌食になるだけだろう。


 この状況。俺が生き延びるための最善手は何か。

 俺は自ら望んで危険な異世界に転生したが、それは何も極限状態とか戦いの高揚感を楽しみたいというような意図があってのことではない。

 俺は戦いたいのではなく、勝ちたいのだ。


 こんなことならやっぱり何か特殊能力とか付けてもらえばよかったな。義肢は生身より頑丈ではあるが、それだけだ。中から銃が飛び出したり刃物が仕込んであったり高圧電流が流れたりはしない。機敏に動き、槍や槌矛を防ぎきるあの巨大狼を相手にするのはいかにも分が悪い。鎧の継ぎ目、関節や目、鼻部分など露出している箇所を狙えばいいのだが、そこは巨大狼も警戒しているので上手くいっていない。四人もさっきから攻めあぐねている。


 うーん。まあいいや。動きながら考えよう。

 走り出す。

 草を踏みつぶし、土を割り砕いて、風を裂いて疾走する。戦っている連中を左に迂回するように弧を描く。巨大狼の背後をとるための動きだ。


 当然そんなことを簡単に許す敵ではない。背後をとるとか包囲しようとするとかは四人がさっきから散々試していることだ。それでもあの四人が数の優位を生かし切れていないのは、ひとえに巨大狼が極めて機敏だからだ。端的に言えば後退が巧い。戦闘時のポジショニングが絶妙なのだ。今も、爪の一閃で四人を牽制しつつ、俺が視界に入るように体の角度を調整している。


 薙ぎ払われた前足がこちらを向く。射程内だ、と思った瞬間には右手が防御行動をとっていた。刃の投擲。衝撃が右腕から肩に走っていく。正確に胴体を照準していた。武装して飛び道具まで使える獣って人間と比べて強すぎないか。


 風を頬に受けながら黙考する。刃は左右合わせて六枚だから、このまま俺が背後をとろうと巨大狼のまわりをぐるぐると走り続けていたら、いずれ弾切れになるのでは。あと四枚だし。


 浅はかな考えだった。

 俺の右腕に弾かれた刃は上空に浮き上がったと思うと、不自然な軌道を描いて巨大狼の手元に戻り、また元の三枚刃の状態に収まったのだ。どうやら最初の一撃もそうだったらしく、巨大狼の両前足にはきちんと三枚の刃が揃っている。


 なんだあれ? ブーメラン的な原理? ブーメランって実戦で使えるの? それとも俺の目に見えないほどの細いワイヤーで巻き取っているのか?

 どちらにせよ高度な技量か技術力が必要になるため、危険性はより高く見積もる必要がある。それとも、ひょっとして何か『魔法』みたいな俺の理解の及ばない不思議な力が働いているのだろうか?


 俺が生前希望していた異世界はいわゆる『剣と魔法のローファンタジー』で、暴力で成り上がれるようなわかりやすい戦国乱世だった。

 しかし、どうもこの世界は俺が希望していた世界とは違うらしい。


 自分だけの特殊能力なんてものはいらない、困難は自分で乗り越えたいのさ、とか真顔で考えていた当時の俺は、しかし強大な怪物をちぎっては投げちぎっては投げ、というような来世を好まなかった。ネットで動物画像を見るのが結構好きだった俺は、たとえおどろおどろしい怪物でも動物を殺したりするのはあまり楽しそうではないなーと思ってしまったのだ。だから、契約時にそこだけはきちんと希望を出したのだ。人間同士で戦う異世界がいい。怪物や異種族などはいない世界を望む、と。


 殺すなら断然人間だろう。

 意思を持ち、その一人一人が固有の人生を歩み、泣き、笑い、多様な関係性を築き上げ、豊かな文化を創り上げる、生きた人格。

 それを、俺というただの一個人の都合、勝利の快楽のためだけに使い潰すという最高の浪費。


 殺人は満ち足りた者の贅沢だ。貧者が生きるために人を殺すのは、略奪の手段か結果に過ぎない。そこに殺人の本質は無い。純粋な殺人は、殺すことが目的と化している。


 あの巨大狼は、武装していること、戦闘の技術を持っていることから考えても、高い知性があるようだ。高い知能を持った獣、というだけなら元の世界にも数多くいた。それだけでは殺人とは見なせないだろう。だが、最初に俺を殺そうとした人狼。あれは『知性』があるように見えた。この世界の怪物に皆知性が備わっているのだとしたら。

 

「お前に、知性があればいいんだけどな!」

 

 叫ぶ。どちらにせよ、日本語などあの巨大狼には理解できなかっただろうけれど。それでも俺の言葉に敵意を感じ取ったのか、三度刃が投擲される。走っている的を正確に狙う能力は賞賛に値するが、三度目ともなると学習する。


 誰が?

 俺が、ではない。俺にそんな能力は無い。

 学習するのは弾道予測計算アプリ『弾道予報Ver2.0』だ。

 予想されうる刃の軌道が赤い線となって俺の視界に投影される。


 その中から最も蓋然性の高い箇所を選んで右手を伸ばす。といっても、最終的な到達地点が俺であることには変わらないので、強化された反応速度があれば防御することは容易だ。だがそれでは先ほどまでと同じ。このアプリが優れているのは、着弾の位置と正確なタイミングを予想するのは勿論、義肢制御プログラムと同期することによって防御に必要な動作を自動的に行ってくれること。欠点はセキュリティソフトとの相性が悪くて導入が面倒なこと、対応していない義肢の機種が多い事などだ。幸いそうした欠点はVer2.0で改善され、俺も長く愛用している。


 このアプリには、クロスボウから発射された矢や手榴弾を弾いたり、火炎瓶を割らずに掴み取って投げ返すといった実績が数多くある。PMCや警備会社、あるいは紛争地帯の反政府勢力にまで広く利用されている。その機能を使えば、たとえばこういう芸当も可能になる。

 

「真剣白刃取り」

 

 真顔で言ってみたが多分伝わっていないだろう。それでも驚愕の気配は感じ取れる。


 俺の右手が、投げられた刃を掴み取っていた。ワイヤーなどは付いておらず、刃はシンプルな直角の線で形作られている。自転するための揚力を発生させられるようには見えない。だとすると、本当に魔法みたいな力があるのか。思った瞬間、巨大狼が吠えた。


 すると掴んでいた刃がまるで巨大狼に引っ張られるかのように俺の手に逆らって動き出す。


 磁力という線も考えないでも無かったが、義手に握られた刃がまるで意思を持っているかのように上下左右に動き回るので、それは無さそうだ。元の世界の神話や伝説に、持ち主の手から離れて敵を倒し、自動的に手元に戻ってくる槍や剣、というのがあった。これもそういうものの仲間かもしれない。


 いいだろう。持ち主の元に戻りたいのなら返してやる。

 ただし、向きは反対だ。


 受け止めて、投げ返すまでがこのアプリの機能である。弾道予測線は未だ俺の視界から消えていない。赤いラインに沿うように右腕がしなり、刃が逆向きに投げ放たれる。戻ってくる刃を受け止めようと前足を準備していた巨大狼が、絶叫する。予想以上の速度で戻ってきた刃が、収納用のスリットに逆向きに侵入してきたからだ。鋭利な先端が生身の前足に突き刺さったはずだ。


 うん、予想以上に上手くいった。

 正直、内部にもう一層装甲があるとか、直前で刃が反転するとか、そもそもちゃんと戻らないとか失敗の可能性が高いと思っていただけに、これは上出来といっていいだろう。


 ただ、その後が良くなかった。

 飛び道具が通用しないと判断したためかどうかは知らないが、巨大狼は俺を優先的に狙うことにしたようだ。

 残る五枚の刃を一斉に四人へ投擲して後退させたかと思うと、素早く距離をとって俺の方へと向かってきたのだ。


 四人を相手取るよりも孤立した俺を先に倒した方が効率が良いというのもあるだろう。ただでさえ背後をとろうとしたり、飛び道具を防いだりと面倒くささをアピールしているのだ。それは敵意を煽りもする。


 『サイバーカラテ道場』であの怪物相手にどこまで対抗できるかはわからないが、やるだけやってみるとしよう。時間ぐらいは稼げるだろう。

 デフォルメ人体が視界隅に表示され、接近する巨大狼の各所に赤い『狙え』マーカーが点灯。


 全身鎧に覆われている以上、打撃が有効とは思えないが、運動エネルギーが十全に通れば衝撃で脳を揺らすくらいは出来るかもしれない。右半身を前にした構えをとり、重心を低く、腰を後ろ足で支え、いつでも前に打ち出せるよう膝に弛みを作る。「ready」の文字が踊り、人体図の下半身が発光する。


 気息を整えたのと同じタイミングで、巨大狼が俺に飛びかかってきた。

 

「浸透勁用意」

 

 の文字が視界を流れていく。

 地を踏み抜き、正確に俺の体を下から上に貫いていく運動エネルギ-。その全てが腰から胴、胴から肩、肩から断端部の生体ソケット、そしてチタンの肘へと伝達される。

 

「NOKOTTA!」

 

 衝撃、そして金属音。

 俺の数倍以上ある巨大狼の体重で押しつぶされればひとたまりもない。しかしそれを逆に利用することもできるはずだ。前足の間に滑り込んで、狙いは中央、巨大狼の頭部。顎下を打ち抜いてダウンさせる――。

 発光する青い文字。

 

「bad!」

 

 打撃は命中した。外れると「fail」と表示されるのだが、有効打でない場合は「bad」になる。


 サイバーカラテ道場のアシストに従って放たれた打撃は確かに巨大狼の顎下に吸い込まれたのだが、俺のパワーが足りなかったのか、装甲に阻まれて効いていない。いや、これは単純に浸透勁の熟練度が低いせいか。


 サイバーカラテ道場は道場と銘打っているだけあってか普段の鍛錬を推奨しており、その習熟度はレベルと熟練度という数値によって表現されている。


 俺はこの浸透勁というやつがあまり得意では無い。サイバーカラテ道場における浸透勁の定義は、相手が腹筋などを固めて防御しづらい箇所の一点狙いだとか、いや無数のジャブで防御を分散させて本命をぶち込むことだとか、鎧や装甲の構造的弱所を狙うことだとか、鎧全体に大きな衝撃を与えて内部の人体を揺らし、脳や内蔵にダメージを与えることだとか、かなり曖昧になっている。


 というのもこのアプリ、エンドユーザーの意見を集めてアプリの動作にフィードバックするということを売りの一つとしているので(わりと普通の事だが)、浸透勁のような諸説入り乱れる技術はその概要すら定まらないことがわりと多いのだ。公式の浸透勁トピックは常に大荒れで最終的な結論は「あなたがそうだと思うものが浸透勁です。自分のやりやすい方法で体得してください」になる。こういうダメさがこのアプリの欠点の一つだ。対機械化人体を想定した場合は、相手の義肢の制御に割り込んで神経系を破壊してしまうクラッキング技術を浸透勁と呼ぶらしいが、俺の義肢にそんな高度な機能は無い。


 何にせよ、俺は攻撃に失敗した。代償は、危険過ぎるこの密着状態だ。このままだとのし掛かられる。

 『詰む』気配が背筋をひやりと撫でていく。


 低い唸り声と共に凄まじい重さが腕に加わり、盤石の姿勢で体を支えているはずの脚が負けそうになる。体重の差はやはり近接戦闘では圧倒的優位を生む。それに加えて遠距離からの投擲攻撃。六人がかりでも劣勢になるわけだ。


 ふと疑問が浮かぶ。

 二人が倒れていたのは、果たしてあの刃によるものだろうか。不意打ちで遠距離攻撃を受けたとはいえ、盾と全身鎧で防備は完璧だったはずだ。鎧の継ぎ目に正確に刺さったとしても、二人もやられるものだろうか?


 寒気。

 嫌な予感とか第六感とかそういう曖昧なものではない。

 物理的に寒い。これは冷気だ。


 いつの間にか、頭上の巨大狼の口が大きく開かれていた。青く発光する何かが、口腔内に充填されつつある。

 咆哮と共に頭が振り下ろされ、ついに競り負けた右腕が下がり、無防備になった俺に向かって開いた口が向けられた。


 良く知った死の臭い。

 まさか異世界でこんな感覚を味わうことになるとは思っても見なかったそれは、銃口を前にした時のような肌の粟立ち。


 回避は無理だ。半身に構えての攻撃は失敗だった。右腕を下方にした今の体勢は横から見れば四股を踏んでいる力士のように見えないこともない。避けるとすれば体を前方向に倒すことだが、巨大狼の懐に深く入り込んでいる今、前足が邪魔をしている。こいつ脚が思ったより長いな、羨ましい。


 手詰まりだ。

 こういうとき、常識外の奇策がぽんと飛び出してくるほど俺は傑出した人物ではない。だから、マニュアル通りの行動をとるしかなかった。

 肘の一撃を防がれたら、次は肩。基本である。右腕は完全に死んだが、幸い脚はまだ生きている。


 「発勁用意」の文字を待たずに全力で突進する。

 ほとんど頭から突っ込んでいるので自殺行為にも見える。というかほとんど博打じみた捨て身の一撃だが、体重を乗せた体当たりを巨大狼の口にぶちかます。肩に凄まじい衝撃。凍傷に似た痛みを即座に遮断、無数のアラートが鳴り響くが無視。肩を無理矢理押し込むことで、被害を最小限に押し止める。


 青い光が弾けて、巨大な氷柱が俺の肩をずたずたに引き裂いていった。

 外から刺さったのではない。光が触れた部分の内側から弾けるようにして氷柱が飛び出したのだ。


 おそらくこの攻撃であの全身鎧の防御を突破したのだろう。二人しかやられていなかったのは連射出来ないからだと思われる。

 光が収まると同時に氷柱も消えていった。不可解な現象だが、これも魔法ということか。


 流れ出す血と奪われた体温を体内のマイクロマシンが全力でカバーしようとするが、正直かなり危険な状態だった。アラートは鳴りっぱなし、予備エネルギーまでが枯渇寸前、何より最大の武器である右腕がもう動きそうに無い。


 これで俺は両腕が使えなくなった。あとはもう背中を使うか、蹴り技だけでどうにかするしかない。

 ふらつく体を持ち上げて、決死の覚悟で相手を見据える。


 だが、ここに来てようやく運が向いてきたらしい。

 血を吐きながら、巨大狼が弱々しく吠える。

 その目から氷柱が生えていた。おそらく脳にまで達していると思われる。口の中を血で一杯にして、先程の攻撃で自滅した巨大狼がゆっくりと倒れ伏した。

 

 

 

 しばし時間が経過して。

 俺は『未知の言語解析アプリ』的なものをインストールしておけばよかったと激しく後悔していた。


 英語をはじめとした多言語辞書や簡易の翻訳アプリならあるのだが、地球上に存在しない言語を解析してリアルタイムで翻訳してくれるほど高性能なアプリは持ち合わせがない。


 異世界転生全盛の時代、そういう技術自体はあっても良さそうだが、普通は異世界に転生する時に業者によってプリセットされているものなので、わざわざ導入していなかったのである。


 外国に行くときはその国の言葉を使えばいいわけで、少数言語の調査に行く研究者ぐらいにしか需要の無さそうなアプリケーションを、言語畑に縁の無い俺が持っているはずもなかった。


 というわけで、コミュニケーションに難航している。

 幸いなことに、巨大狼を倒して満身創痍の俺に襲いかかる更なる四人の強敵、という展開にはならなかった。万全の状態ならそれも面白いのだが、満足に戦えないぼろぼろの俺では槍と槌矛で一方的に殺されるだけだろう。それは面白くない。俺は戦いが好きなのではなく、戦って勝つことが好きなのだから。


 四人はどうやら突如現れて巨大狼を捨て身の攻撃で倒した全裸で隻腕で義手の男を敵ではないと判断したらしい。俺なら放置する所だが、随分とフィランソロピーに溢れた人たちのようだ。あるいは、不審者をそのままにできない事情があるのかもしれない。


 いずれにせよ、詳しいことまではわからない。なにしろ彼らが何を喋っているのか全く理解不能なのだ。日本語、英語、中国語、韓国語、ドイツ語オランダ語イタリア語フランス語スペイン語、およそ脳内にちょっとでも語彙の心当たりがある言語のどれでもない。まあ聞き取れてないだけでこのうちのどれかである可能性もあるのだが、とりあえずは全く未知の言語と考えて差し支えないだろう。


 あちらでもどうにかして意思の疎通を図ろうと身振り手振りを使って色々やっているのだが、どうにも上手くいかない。

 しかし彼らは武器を地面に置く事で俺に敵意が無いことを示し、一人が背嚢にしまっていた包帯や軟膏などで手当を申し出てくれた。


 幸い倒れていた二人も致命傷には至らなかったようで、今は治療を受けながら休んでいる。その二人から弱々しい声で何かを言われたが、意味まではとれなかった。


 今、右肩に包帯を巻いてくれているのは六人の中で一番大柄な人物だ。彼は戦闘の後、兜を外して顔を見せてくれていた。最初は兜を被ったままだったが、こうした方が意思疎通を図りやすいと判断したのだろう。


 負傷者の二人も治療のため鎧を脱いでいたが、いずれもごく普通の成人男性の顔だった。黒髪が二人に金髪が一人。モンゴロイドのようでもありコーカソイドのようでもある。どちらでもないのだろう。残りの三人の中にネグロイドに相当する人種もいるかもしれない。何にせよ、元世界の人類に似ていた。


 残りは二人がそれぞれ負傷者の治療に当たり、汗をかいた為か途中で兜を外した。同じくごく普通の男性だ。一人は俺よりも若そうに見えた。少年と言ってもいいかもしれない。


 最後の一人は兜をつけたままだ。槌矛を構えてせわしなく周囲を見回している。見張りなのだろう。武装をとかずにいるのは敵が襲ってきたときにいち早く応戦できるようにだろうか。警戒しているのが態度からよくわかる。勤勉な気配も感じ取れる。全身鎧のせいで細かい体型は不明だが、六人の中で一番小柄なのがこの人物だった。おそらく身長は150センチメートルより小さいのではないだろうか。俺との差は頭一つぶん以上である。それにしても、あの体格で武器が打撃武器である槌矛というのは良くない。どちらかと言えば槍がいいのではないかと思ったが、伝える方法がないしそもそも俺が口を挟むようなことでもない。

 そんな益体もないことを考えているうちに右肩の治療が終わった。

 

「ありがとうございます」

 

 と言うと何となく謝意は伝わったのか男性はにっと破顔した。美形というわけではないが、笑うと愛嬌のある顔だった。俺よりも一回り以上年上、おそらく中年にさしかかる頃だろうが、溢れんばかりのエネルギーに若さを感じる。続けて、俺の左手を指さして、包帯を掲げている。こちらにも巻いてくれるということだろう。お願いすることにして、左腕の断端を差し出した。異様なまでに再生の速い傷口にやや驚いている様子だったが、すぐに処置にとりかかってくれた。


 というか、それ以上の不可思議な治癒の技術を彼らは保有していた。

 粘着性のある札、というかシール。それを、籠手を付けたまま器用に鋏で切り取り、左腕の断端を覆うように貼り付ける。


 じわりと熱が冷やされていくのを感じた。もしかしたら痛みを和らげる効果もあるのかもしれない。右肩や、他の負傷者にもこのシールは使われていた。どうやら止血や冷却、治癒力の促進効果があるようだ。表面には複雑な模様が描かれており(この世界の文字かもしれない)、それが淡く発光している。確証があるわけではないが、これも魔法的な力を持った道具なのかもしれない。


 武装し、刃を飛び回らせ、氷柱を体内から弾けさせる光をはき出す巨大狼がいる世界だ。何が起きても驚きはない。左腕を失った時とは違って、現在は情動制御アプリを常駐させている。規定値以上の驚愕で行動不能になったりはしないから安心だ。


 相変わらず男性が何か語りかけてくれるのだが、全く意味はわからない。友好的なのは表情から何となくわかるのだが。

 正直な所、騙しているような意識は少々ある。彼らの態度は、俺が自らの身を省みず敵を倒し、窮地を救ったように見えるからでしかない。


 実際は見捨てるつもりで、なし崩し的に戦闘に突入し運良く勝ってしまっただけなのだが、まあ言わなければいい事である。言っても伝わらないだろうし、好人物だと思われていた方が色々と都合がいい。


 ところで、ほとんど意味の伝わらないやりとりにもそれなりに収獲はあった。それはお互いの呼称だ。指さしと一単語だけの連呼でかろうじて成功した、数少ないコミュニケーションの成功ケース。


 俺を治療してくれている大柄な男性は『キール』という名前らしい。ひょっとしたら音が微妙に違うかもしれないが俺にはそう聞こえた。試しに

 

「キール」

 

 と呼びかけると、笑顔で頷いていた。笑顔や頷きが否定的な意味を持っているのでなければ、これであっているはずだ。首を横に振るのが肯定を意味する文化圏もあるらしいが、まあ人体の構造的に半々の確率だろう。とりあえず正解だと考えておく。続けて俺も名乗る。

 

「アキラ。シナモリ、アキラ」

 

 口頭だと『品森晶』というユーモラスな図像的センスがわかっていただけないのが残念である。


 ちなみにハンドルネームだ。渾身の出来だと自負している。犇とか蟲とか姦とかも候補だったのだが、ちょっと見栄えが悪いようなしたのでこうなった。名前が蟲犇姦とか字面だけで全方位から嫌がられそうだし。


 というわけで、一人一人の紹介が行われた。

 負傷した二人はそれぞれカイン、テール。二人の治療をしているのがトッド、マフス。見張りに立っているのがアズーリアというらしい。

 キールとかカインなんかは地球上にも存在する名前だが、音素が有限な以上、偶然の一致だろう。


 顔と名前を覚えるのが面倒だったのでARネームタグに登録しておいた。テクノロジーは顔と名前を記憶し、一致させてくれる。元々は相貌失認の人のために作られたらしいが、それ以外でも何かと役に立つ便利アプリである。

 キールは俺の治療を終えると、何かを告げながら俺から離れていった。向かう先は巨大狼の死体だ。


 何をするのかと思えば、鎧をはぎ取っている。トッドとマフスも治療が終わったのか、次々に巨大狼にとりついて作業を始める。

 なるほど、そもそも彼らがどういう集団なのかもよくわかっていなかったが、これは狩りめいた行為なのだろうか?


 統一された全身鎧は軍隊を思わせるが、狩人のような職業に就いているのかもしれない。いや、仮に軍人であったとしても、勝利者の略奪、戦利品の分配はして当然という気もする。鋸やナイフのような道具で手際よく解体作業は進められていった。あの恐るべき爪状の刃は勿論取り出され、長く鋭い牙はペンチとハンマーで抜かれていく。感心しながら眺めていると、横合いから布のようなものが投げつけられた。首と、前のあわせに留め具が付いている厚手のマントだった。


 マントが飛んできた方を見ると、見張りに立っていたアズーリアという一番小柄な人物が首の所で何かを留めるような仕草をしている。これを着ろということだろう。確かに全裸のままというのも危険だろう。鎧を着込んだ人が六人もいるとそれが一層際立つ。ありがたく厚意に甘えようとしたが、まだ右手が上手く動かない。


 顔の動きと視線で肩や右腕を示してそのことを伝えると、仕方なさそうにこちらに近づいて、マントを留めてくれる。籠手はかなり可動部位が多く、指先にフィットしていて、細かい動きを可能にしている様だった。その分防御力が犠牲になっているのではないかと思ったが、手の甲と指は素材が違うようで、見るからに厚みがあり、硬そうだった。


 アズーリアはキールと違って、伝わらないとわかっている言葉をかけようとはしなかった。無言のまま簡単な着付けが終わった。

 そのまま持ち場へ戻ろうとするアズーリアに、俺は、

 

「どうもありがとうございました」


 と声をかけた。

 アズーリアは一瞬だけこちらを向いて、そのまま去っていった。

 樽型兜の奥に隠された表情は想像もつかない。


 しばらくすると巨大狼の解体作業が終わったようで、キールがこちらへやってきた。手に巨大な牙を二つ持って差し出してきたが、俺の両腕が使えないことを思い出したのだろう、牙を俺とキールとの間で行き来させるジェスチャーをし始めた。戦利品として、この牙を俺にくれるようだが、俺は今物を持てないので一時的にキールが預かる、というようなことだろうか?


 全く違うのかも知れないが、とにかく俺は頷くことで返答とした。

 キールは牙やはぎ取った毛皮や骨、武装などを手際よくトッドの背嚢に詰め込んでいく。どうやら六人のうちトッドが戦利品持ちの役目を担っているらしい。解体道具や治療道具はマフスの背嚢から出てきたので、この二人が荷物持ちなのだろう。他の四人は鎧に盾と槌矛だけ、あとは腰に革製の収納らしきものがあるだけだ。


 そういえば荷物持ちの二人の武器は槍で、あとの四人は槌矛のようだ。重い荷物を背負っているため、他の四人のように接近して戦うのではなく後方から支援する、という方針なのかもしれない。刃物ではなく鈍器を用いているのも、鎧で武装した敵が多いからなのかもしれない。違うかもしれない。『かもしれない』ばかりだ。言葉が通じれば質問できるのだが。

 

「アキラ!」

 

 キールが呼んでいる。手招きして、こちらに来るように示していた。手の指が上でも下でも無く横向きだったのが興味深かった。


 マフスが、鎧と皮を剥がれ、肉の塊となった巨大狼の胸付近をまさぐっている。心臓でも抜き出すのかと思ったら、中から宝石が出てきたので驚いた。なめらかな楕円形の、それは美しい青色の石だった。淡く発光している。


 既視感を覚えた。巨大狼が吐き出した、氷柱を弾けさせる青い光と似ていたのだ。もしかしたらあれの発生源なのかもしれない。貴重な魔法の宝石、とかだろうか。


 興味は尽きなかったが、なんとマフスはそれを地面に叩きつけた。続いてアズーリアが槌矛でそれを打ち据える。おもわず「あっ」と声を漏らしてしまったが、同時に宝石が強く輝き、耳に長く残る高音が響いてそれはかき消された。


 すると周囲の景色が一瞬だけぶれ、次の瞬間には無機質な灰色の大部屋に変化していた。

 空は石の天井に、四方は壁に、太陽の光は燭台のささやかな明かりに。

 そして出入り口が二つ、部屋の両側に開いている。風はもう感じない。屋外から唐突に屋内へ。困惑する俺だったが、かろうじて事情は飲み込めた。


 つまり、さっきまでの空間は中に入った者を閉じ込めるための仕掛けで、あの巨大狼を倒さなければ外に出られない、ということなのだろう。部屋に入ると入り口が消えたことや、巨大狼の体内から取り出した宝石を破壊したら出口が現れたことから、そう推測するのが妥当と思われた。


 どうして草原になるのか、そもそもなぜ風や太陽の光を感じるのかなど疑問はあるが、今気にしても仕方のないことだ。そういうものだと納得して、ひとまず数々の疑問は放置しておくとしよう。


 アズーリアが砕けた宝石を拾っていた。砕けたとはいえ価値は残されているのだろう。わずかな燐光を帯びている。

 六人は俺が入ってきたのとは反対側の出入り口へ向かうようだった。


 キールは俺を呼び、しきりに手招きしている。ついて来い、と言いたいのだろう。彼らが何処へ向かっているのかもわからないが、とりあえずあても無いし、彼らについていく他はない。


 先程からしきりに鳴り続ける元世界からの着信を無視して、俺は彼らの後を追った。

 拒否はやりすぎなので、切断。


 対策を考えつかないままあちらと連絡を取るのは無しだ。もうちょっと引き延ばしても多分現場レベルでの対応になるはずだ。多分。きっと。楽観的かもしれないけど。

 

 

 

 六人プラス一人の迷宮行は静かに続いていた。

 負傷者であるカインとテール、俺を挟むようにして、先頭がリーダーらしきキール、その後ろにアズーリア、最後尾が荷物持ちで槍で武装したトッドとマフスという隊列だ。


 キールが手に巻物を広げていて、なんだろうと後ろからのぞき込むと、どうやらそれは地図のようだ。

 それも事前にこの迷宮を探索した者が作ったのではない。白紙の巻物の上に自動的に線が描かれ、キールが歩いたとおりに地図が出来上がっている。


 俺の使っているマッピングアプリのようなことが、魔法(?)の道具で再現可能らしい。指でタップしたりフリックしたりして端末っぽい扱いのようだった。ピンチイン、アウトで縮小拡大までできるらしい。まさか情報の検索とかできるんじゃないだろうな。電話に相当する通信機能くらいはついてそうだった。実際、キールが歩きながら鎧の胸部分に手を触れて独り言を喋っていることがあった。あれは遠くにいる誰かと会話していたのかもしれない。


 そしてこう言っては彼らに失礼なのだが、意外と彼らは頼りになった。

 最初に劣勢の所を見てしまったためかあまり彼らに強いイメージを抱いていなかったのだが、それはあの巨大狼が強敵だったせいなのだろう。


 途中、数回の戦闘があった。人狼に遭遇したのだ。一体で現れることもあれば二体から三体のこともあった。彼らは俺に対してそうだったようにキールたちにも敵対的で、出会った瞬間に戦闘が始まった。


 が、俺の出番は無かった。

 素早く飛び出したアズーリアが槌矛を激しく人狼の爪や籠手にぶつけ、火花を散らす。トッドとマフスが槍で牽制する。その間にキールは巻物を腰の収納袋に入れ、左腕に括り付けられた方形盾の内側から槌矛を引き抜き、一気呵成に人狼に打ちかかる。


 息のあった連携によって、大抵の人狼は数合打ち合わせただけで爪を砕かれ、あるいは装甲をへこませ、ついには槍で貫かれるか脳天を潰されるかして決着する。


 状態の良い爪や装甲は戦利品としてトッドの大きな背嚢に放り込まれていく。人狼の牙や皮は剥ぎ取らないので、価値が低いのだと知れた。

 こうしてみると、彼らはそれなりに練度の高い戦士らしい。カインとテールは負傷したばかりのためか戦闘に参加していないが、連携がとれているのがよくわかる。


 彼らを同時に相手取ったとき、俺はどう立ち回れば勝てるだろうか。暇なのでそんなことばかり考えていると、それがわかったわけでもないだろうに、アズーリアが兜越しにこちらを睨み付けていた。


 いや、見ていた、程度の視線だったのかもしれないが、なんとなくそんな気がしたのだ。心にやましい所があったからかもしれない。

 しばらく進んでいくと、開けた部屋に出た。巨大狼のような強敵がいるかもしれないと身構えたが、どうもそういう様子ではない。


 部屋の中央には噴水があり、泉が湧いている。

 キールが全員に号令をかけると、全員が肩の力を抜くのがわかった。

 皆、床に腰を下ろしたり、水を水筒に入れたりしていた。休憩、ということなのだろうか。


 この噴水と泉が給水地点を示しているらしい。汲んだ水を普通に飲んでいるので、きっとそうだ。

 キールが俺の名を呼んでいる。革製の水筒を差し出される。


 礼を言って、いただくことにした。一瞬腹を壊すかも知れない、とか考えたが、喉の渇きが勝った。思えば随分久しぶりに水を飲んだ気がする。喉を潤す感触がひたすら心地よい。


 部屋が安全地帯らしいとわかったのは、一体の人狼が現れた時だった。

 その人狼は俺たちを発見すると襲いかかってきたのだが、部屋の入り口で何かに阻まれたかのように立ち止まり、じりじりと後退ったかと思うと、そのまま引き返していった。この部屋に彼らは入れないらしい。一体どういう理屈でそうなっているのかは全く不明だが、とにかくそういうことなのだと俺は納得した。これは覚えておくと便利かも知れない。いざというときこういう噴水のある部屋に逃げ込めば助かる可能性が生じる。


 部屋にあったのは噴水だけではない。

 泉の横には台座があった。その上部には複雑な模様が走り、石が幾つかはめこまれている。


 キールがそれに触れると誰かの声が聞こえ出した。キールはしばらくその声と会話していたが、その中に何回か「アキラ」という言葉が含まれていたのを俺の耳は聞き逃さなかった(それ以外は一切わからなかったとも言う)。おそらく、誰かに俺のことを報告しているのだと思う。


 キールたち六人は、なにかの大きな組織に所属しているのだろう。統一された武装に訓練された動き。

 どういった性格の組織なのかまではわからない。連れられていった先でいきなり処刑されたりしなければいいのだが。


 手持ちぶさたにしていると、トッドが近づいてくる。

 何かと思えば、人狼から奪った胸当てを手に持って何かを説明しようとしている。

 というか、俺にこれを着せようとしているのだった。身につけているのはマントのみという無防備な俺を気遣ってのことだろう。この厚意にもありがたく縋らせてもらう。


 マントを一旦脱いで、上からかぶせてもらう。裏地はゴムのような柔らかい素材があてられていて、肌にこすれないようになっている。予想外に軽い。どんな金属で出来ているのだろうか。


 お礼を言うと、トッドは深く頷いてその場にどっしりと腰を下ろし、置いた荷物をチェックし始めた。

 彼は茶色のくせっ毛が特徴的な、ちょっとふんわりした頬の穏やかそうな男性だった。もう一人の荷物持ち、マフスがまだあどけなさの抜けきらない少年であるのもそうだが、荷物持ちの二人はあまり荒事に向かなさそうな印象がある。外見で人を判断するのは愚かだが、もしかしたらそういう適性なども見て役割分担が行われているのかもしれないなと思った。


 適性と言えば、休憩中にも関わらず兜を被ったまま、出口に厳しく目を光らせているアズーリアは兵士の鑑、といった風情だ。姿勢も良い。小柄だが、体力もありそうだ。人狼との戦いでも先陣を任されていた。勤勉で意欲があり、将来有望な若手の戦士――そんなイメージが俺の中で出来上がっていた。それでいて、マントのことなど、他人へ対する気遣いも持っている。殺し合いが楽しいのはこういう相手だ。


 まあ俺も誰彼構わず殺しにいく頭のおかしいシリアルキラーというわけではない。そうだったらまともな社会生活が送れない。だからまあ、成り行き次第では敵対もするし、もう二度と関わり合いにならないかも知れないし、友人になるかもしれない。結果は神のみぞ知る。


 舌なめずりをした覚えは無かったが、アズーリアには動物的な直感が備わっているのかも知れない。鋭くふり向くと、じっと睨まれてしまった。六人はおおむね友好的だが、アズーリアは不審過ぎる俺にそれなりの警戒心を抱いてはいるらしい。健全なことである。


 まあリーダーのキールにしても、俺のことをしっかりと報告している。俺が実は人間に化けた人狼の仲間で彼らを騙している可能性くらいは考慮しているだろう。

 実際は敵でも味方でも無いのだが。今のところは。


 負傷も大分良くなったのか、カインとテールの二人の顔色はかなり良くなっていた。マフスと三人で親しげに話している。カインがコインを取り出して、軽く上に弾いて、戻ってきたところで手の中に隠す。裏か表かを当てるゲームだろう。シンプルな仕組みのものは、異なる文化でも同じようなものになりやすい。


 ふと思いついたことがあって、彼らに近づいていく。

 テールが何かを言うが聞き取れなかった。マフスが「キー」と聞こえる単語を喋ったので、後ろから俺も復誦してみる。


 三人はやや驚いたようだったが、カインはにやりと笑って手を開いてくれた。そこにはシンプルな線の模様が描かれていた。テールがぐっと手を持ち上げ、マフスが目に見えてがっかりする。


 カインは腰の収納から小さな丸薬のような粒を取り出すと、テールに渡す。満足げに口へ放り込んで、上機嫌になっているので、糧食か嗜好品のたぐいだろう。


 次はテールが、その次はマフスがコインを弾いた。その度にコインを弾いた者が、勝者に食料を渡す決まりのようだった。ギャンブルというほどのことではなく、簡単なレクリエーションと言った所だろう。食料も必ず一つずつやりとりされ、相手が困るほどには取らないようだ。連続で勝ったカインが、負け続けのマフスに食料を返していることがあったので、そうわかった。


 ついでに、俺の目論見(と言うほどの物でもないが)も達成された。名前以外の単語を覚えたのだ。コインの、十字のような模様が描いてある方が「ィー」で(聞き取りづらかったがおそらく『Y』音だ)松明の絵が描いてある方が「キー」だ。どちらが裏か表かはわからないが、それだけはわかった。


 それをきっかけに、いくつかの単語を、指差しによって確認することが出来た。片っ端から録音し、カタカナに直してネームタグを付け、メモ帳と同期させて記憶した。音声と文字、映像を関連付けしていけば、アナログな手法でも辞書もどきができる。


 今は少しでも情報が欲しい。単語レベルでも知っておくことで、今後何かの役に立つかも知れない。

 というか、この世界の言語を習得することも視野に入れておいた方がいい。元世界のサポートを半ば以上放棄している現在、言語を脳内にインストールしてはい解決、ということにはならないだろうからだ。


 俺は鎧や武器、服、人体の部位、一人称や二人称といった指差しで確認できるレベルの単語を次々と収集していったが、それでもやはり抽象的なレベルで意思疎通をすることは不可能で、彼らがどういった存在で何を目的とした集団なのかは不明なままだった。それは同時に俺自身のことを説明することができない、ということでもあり、彼らもどこか不安さ、不審さのようなものを感じているようだった。特にマフスには本人の年齢が明らかに俺よりも下であることも関係してか、ややおびえたような雰囲気があった。

 

 

 

 暫くして、俺たちは噴水の部屋を後にした。

 再び迷宮を進んでいく一行だが、一つだけ先ほどとは異なる点がある。

 カインと俺がしきりに会話、というかカインの言葉を俺が復誦する、というやりとりを繰り返している点だ。


 迷宮の壁や、燭台。そこから伸びる影。天井、床ときて、曲がり角。十字路に行き止まり。人狼との戦闘後には、その死体や血を指さして、俺に言葉を教えてくれる。


 カインははきはきとよく喋り、発音が俺にも聞き取りやすい。人と話したりするのも得意なようで、リーダーのキールにも俺の教育係を任されたようだった。


 休憩と治癒のシールがもたらした効果は絶大で、カインとテール、そして俺も戦闘に参加出来るようになっていた。二人とも怪我が無かったかのように槌矛を振り回し、特にテールは盾で殴りつける攻撃が抜群に上手く、攻防一体の戦闘スタイルで皆の盾役を務めていた。きっと巨大狼との戦いでも真っ先に前に出て、あの氷柱の魔法にやられたのだろう。


 俺はと言えば、右肩を動かせるようになったことでサイバーカラテの技を遺憾なく発揮し、複数の人狼が現れた際は勝利に貢献した。

 義肢の制御系は肘から上、肩や肩胛骨にまで侵襲しているので、そこが破損していないか少々、いやかなり不安だったのだが、なんとか無事だったらしい。ダメージが皆無だったわけではないのだが、マイクロマシンによる自己修復が不可能なほどではなかったのだ。


 傷ついた生身の部分を治癒のシールが担当してくれた分、マイクロマシンが義肢の修復に集中できたのではないかと思うが、俺も専門家ではないので詳しくはわからない。とにかく、右腕が問題なく動くようになったということだけは確かだった。


 こうなると、最初に奪われた左腕も見つけたくなる。

 この治癒のシールがあれば、切断された腕を付け直すことも不可能ではないかも知れない。あれから何度も人狼に遭遇しているが、俺の腕を奪って逃げた最初の人狼は見あたらない。あるいはとっくに見つけて殺しているのだが、腕はどこか別の場所にあるのかもしれない。


 カインに説明を試みた。倒した人狼の口に左腕の断端を沿え、苦痛に呻くような素振りをする。その後、存在しない左腕を持って軽く走り去ろうとする。これだけで伝わるだろうか?


 カインは得心がいったという風に頷いてくれた。キールも俺の行動を見ていたようで、俺の左腕を見て、何事かを言っていた。左腕、人狼、そして今覚えた、取る、あるいは掴むという動詞。取り返してくれる、というような意味だったら嬉しい。

 

「ありがとうございます」

 

 早合点かもしれないが、俺を言う。キールは頷きを返してくれた。コミュニケーションが成立しているのかどうかはわからないが、前よりも手応えがあった。

 

 

 

 その後、この迷宮には彼ら以外の集団もいるのだと知った。人と人が集まると、ちょっとしたトラブルが発生することもだ。

 その三人組とは、とある大きな部屋で遭遇した。


 部屋の中央には巨大狼の死骸。それだけで、その三人の実力のほどが知れた。

 こちらの半分にも満たない数だが、質では上なのかもしれない。

 それぞればばらばらの服装で、統一感が無い。それでキールたちと同じ組織に所属していないと分かった。キール達の態度も、敵対的ではないもののどこか張り詰めている。


 中央に立つ男性が、何事かキールに話しかけた。

 身の丈ほどもある恐ろしく巨大な剣を軽々と持っている。俺と同じくらいの体格なのに、とんでもない馬鹿力だと思ったが、男が巨大な剣をくるっと振り子のようにして回すと一瞬にして縮んでいき、果物ナイフ程度の大きさになってしまった。魔法のようだ、というか魔法なのだろう。見た目通りの重さでは無いのかも知れない。


 左に立つのは深い黒肌の巨漢で、上半身はほぼ裸で、胸や肩などに赤い染料で模様を描いているのが印象的だった。


 右側には黒一色の貫頭衣を着た、白髪の壮年男性。そう歳がいっているようには見えないが、若白髪だろうか。

 その手に杖の先にクロスボウが取り付けられた見慣れない道具を持っているのが目立つ。キールが持っているような巻物を持っているのも彼だ。更にはベルトから黒い装丁の本を一冊吊り下げていた。

 予想していたことだが、文字や印刷技術なども発達しているらしい。この世界の文明発展段階は俺が当初希望していた異世界の水準よりもずっと発達しているようだ。


 キールと中央の青年が何を話しているのかは全く分からなかったが、どうも会話の雲行きが怪しい気配がする。

 お互いの表情や口調が、徐々にヒートアップしているのが傍目にも明らかだった。


 会話から口論へと移行するかと思われたその時、何かがその逆鱗に触れてしまったのか、唐突にアズーリアが前に飛び出した。薄々感じてはいたが喧嘩っ早いというか猪突猛進というか。


 先陣を切って突撃する戦士としては優秀かもしれないが、この場合には短所にしかならない。流石に槌矛は抜かず、籠手で殴りかかるつもりのようだ。が、両集団の中間でその脚は止まる。


 壮年男性が杖の先に取り付けられたクロスボウを発射したからだ。

 かろうじて盾で防いだアズーリアだが、衝撃と轟音、閃光にやられてか膝を着いてしまう。


 射出されたのは矢では無い。拳大の弾丸で、盾に接触すると同時に音と光を放つ、小規模なスタングレネードめいた代物だった。

 ゆったりとした服の内側から次弾を弓に番え、ぎりぎりと引き絞っている。更にこれも魔法の道具なのか、勝手に腰の本が浮遊したかと思うと、ぱらぱらと開いてページから光を放ち始める。何かの模様(おそらく文字だ)が宙に浮かび上がり、それらは火の玉になって彼の周りを浮遊し始める。

 まるでフィクションの中の魔法使いだ。


 巨漢が無言で前に一歩進み出て、中央の青年もナイフを旋回させて再び巨大化させた。

 一触即発。

 キール達も武器を構えようかというその時、ぱちん、というコインを弾く音が響いた。

 

「さあ、裏か表、どっちだ」

 

 カインの言葉をそっくりそのまま真似た、俺の発言だった。これには三人組も意表を突かれたのか、しばしの沈黙がその場を支配する。やがて中央の青年がおもしろがるようにして、「キー」と言う。俺が手を広げると結果は松明の絵。

 

「あんたの勝ちだ!」

 

 俺はカインに糧食を三つ要求した。カインは即座に俺の意を汲んでくれた。この中で一番多くコミュニケーションをとってきただけある。


 貰った糧食を、俺は『弾道予報Ver2.0』を立ち上げて三人に正確に投擲した。大きく放物線を描いてそれぞれの手に収まったそれらは、どうやら和解のきっかけくらいにはなったようだ。


 両集団の間にあった緊張感がわずかにほぐれ、キールと青年が何事かを話し、その場は収まったようだった。

 

「なあ、あんた、名前はなんて言うんだ?」

 

 実際には二人称と名前の二単語しか聞き取れなかったのだが、多分そんなことを青年が訊いてきた。

 なので俺は、


「アキラ。シナモリ・アキラ」


 とだけ叫んだ。それで十分だったのだろう、彼は何事かを言うと、そのまま二人の仲間を連れてその場から立ち去っていった。


 場の空気が弛緩していった。カインが俺の背を軽く叩き、笑いながら話しかけてくる。よくわからないままに肯定の言葉を繰り返した。キールも何か言葉をかけてくれている。


 すぐに出発して三人組と鉢合わせるのも気まずいのだろう、そこで周囲を警戒しながら小休止することになった。当然だが巨大狼の死骸からは価値のあるものは全て無くなっていた。なので水を飲んで座ると、カインと巨大狼の死骸のあちこちを指差しながらの言葉の勉強が始まる。


 何事もなく小休止が終わり、その場を立ち去ろうと言うとき、背後からマントを引かれた。アズーリアだ。言葉はない。が、腰の収納から糧食を三つ取り出して、差し出してくる。


 一度も言葉をかけてきたことがない相手。カインとは逆だ。言葉を重ねることの無意味さを知っている。


 物品の贈与に意味を見出す事は、どのような文化においても見られることなのだという。俺がそういった概念を有していることを、先ほどの一幕でアズーリアも知ったのだ。


 『贈与』は俺とアズーリアの共通言語なのだと、互いが理解した。

 

「ありがとう」

 

 礼と共に、三つの糧食を受け取り、口にする。じんわりとした甘みが口の中に広がる。

 

「甘くておいしい。糖分が補給できて助かる」

 

 日本語なので意味が伝わるはずも無かったが、アズーリアは一度頷いて、キール達の方へ駆けていった。

 

 

 

 ――しかし、首尾良く場の空気を和らげることに成功したから結果的には良いものの、あの張り詰めた状況であんなことをするのは我ながら愚策としか思えない。


 賽の目が良い方に出たから平和な結果に終わったが、あの行為を挑発や策略、何らかの攻撃だと判断されたらそこで戦いが始まっていただろう。

 それを責める者がいなかったのは、まあ結果が全てであるのと、思っていても口に出さないというのと、俺に複雑な言葉の連なりを理解するだけの語学力が無いことが原因だろう。


 実際の所、俺は半分以上戦闘になっても構わないと思っていたと知ったら、キール達は何を思うだろうか?

 あの2メートルを超す巨漢、プロレスラーじみた太い腕に、俺のサイバーカラテが何処まで通用するのか。


 魔法使いめいたクロスボウの男、あの射撃や火の玉をかいくぐって懐に飛び込むにはどうすべきか。ひょっとして、接近されたときの為の奥の手くらいは隠しているかもしれない。


 そしてリーダー格らしき巨大な剣の青年。巨大狼の死骸には深く大きな刃物で切り裂かれたとおぼしき傷跡があった。あの青年の攻撃は、巨大狼を鎧ごと斬り裂けるほどに強烈なのだ。どう立ち回れば、あの男を殺せるだろうか?


 そんなことを考えながら、あのコインを投げたのだと知ったら。

 言う必要が無いこともある。

 アズーリアは、それを良く分かっているようだった。

 行動と、その結果が全てだ。

 

 

 

 こんな出来事にも遭遇した。

 迷宮ではしばしば行き止まりに辿り着く。その度に地図が正確なものになっていくので無駄ではないわけだが、その場所はただの行き止まりでは無かった。


 一抱えほどもある大きな箱が壁の前に鎮座していた。箱は厳重に鎖で封印され、幾つもの錠前が重なっていた。


 カインが機嫌良く口笛を吹く。槌矛で地面を慎重に叩きながら、彼は箱に近づいていく。箱の前に着くと腰の袋から何かの器具を取り出す。大きな金属の環に幾つもの棒状の道具が吊り下げられていて、それらを器用に使い分けて、解錠を始めた。他の面々は何かを警戒するように盾を構えて近づかない。カインは調子良く手を動かしていたが、だしぬけに機敏な動きで仰け反り、回避行動をとる。前に出ていたテールの盾が硬い音を立てて何かを弾いた。床に転がったそれは細くて見えにくいが、針だった。


 カインが謝り、テールが何事かを返す。かなり危険な瞬間だったように思えたが、なにやらいつものこと、といった雰囲気がある。

 しばらくして作業が終了し、ついに箱の中身が明らかになる。


 出てきたのは金銀財宝、ではなく刀や剣といった武具だった。いずれもあやしげな光を放っており、尋常の物ではないと知れた。迷宮の奥に眠る、魔法の力が宿った武具。いかにもといった感じだ。


 早速手に入れた武具で装備を更新するのかと思ったらどうやらそうではないらしい。全てトッドの背嚢行きだ。

 何故だろうと不思議に思っていると、カインとキールが揃ってそれらの武具を掴む振りをする。すると、お互いに架空の武器を握って戦いを始める。加えて「アレをとるのはダメだ」というようなことを言われた。


 どうやら、手に取るとお互いに殺し合ってしまう呪いがかけられているようだ。怖すぎる。針のトラップだけに留まらずそんな罠まで仕掛けてあるとは、この箱は確実に侵入者を殺しにきている。


 考えて見ればこんな何でも無さそうな行き止まりに財宝を隠すはずもない。財宝は迷宮の一番奥で強大な番人に守られているというのが定番だろう。


 しかしわざわざ解錠して武具を持ち帰る所を見ると、使えないだけで無価値というわけでも無さそうだ。何らかの利用方法があるか、呪いを解く手段が存在するが、ここではできない、ということなのだろう。


 トッドが最後の剣を箱から取り出した瞬間、けたたましい音が鳴り響いた。何事かと驚いたが、キール達は慌てず騒がずおのおの武器を構えている。元来た道から次々と人狼が現れる。一本道の行き止まりなので、退路は無い。戦うしかないわけだ。慣れたもので、俺はサイバーカラテ道場を立ち上げる。

 

 

 

 探索が進むにつれ、このような罠に頻繁に遭遇するようになった。

 宝箱の罠だけではない。何気ない分かれ道の床を踏むと壁から針が発射されたり(刺さる寸前で掴み取った)、刃がせり出してきたり(腹を叩いてへし折った)、複数の槍が飛び出してきたり(これは流石に飛び退くしか無かった)、危険な罠が次々と俺たちを襲った。


 こうした通路上に仕掛けられた罠の探知は主にキールの傍らに立つアズーリアの担当だったが、数が多くなってくるにつれ探知の失敗も増えてくる。

 これは俺に言葉を教えている場合ではないということで、カインも前方に立って罠の探知を行うことになった。


 キールが地図を手に先頭を歩き、その両脇でカインとアズーリアの二人が槌矛で壁や床、時には天井を叩きながらの道行きとなった。自然、歩みは前よりも遅くなる。


 背が高いため天井や壁の高い位置を探ることが出来るというのもあるだろうが、カインのほうが罠を発見し、解除したり回避したりする技術は優れているように見えた。アズーリアは己の担当は下方だと決めてか寡黙に床を探っている。


 こういう作業はむしろ槍のほうが向くのではと思い、荷物と槍を持つトッドとマフスのほうを振り返る。すると二人は交互に後方の警戒に当たっているようだった。


 カインとアズーリアの二人が罠の探知に気を取られている分、いつでも敵に対応できるように背後を警戒するということらしい。それに、注意深く見てみるとカインとアズーリアの槌矛は、キールとテールのものとは仕様が違うことが見て取れた。先端の柄頭部分が球形なのは四人とも同じなのだが、カインとアズーリアのものは柄が長めで先端が槍のように細く尖っており、柄部分を回す事で長さを調節できるらしい。


 槍ほどの長さに伸ばして杖のように前方を探ったり、逆にすぐ近くを探るときは短くしたりと罠探知用の機能が備わっているようだった。キールとテールのものは柄の先に球を取り付けたシンプルな形だが、球のサイズがより大きく、殴打に特化しているようだ。


 細かい所に目が届くようになると、画一的に見えていたキール達にもさまざまな違いがあることがわかってきた。

 まず、全身を覆う甲冑は一人一人微妙に形が異なっている。高い運動性と防御力を両立させつつ、意匠を統一するというのはかなり大変な事なのではないだろうか。複数のサイズのものを量産しているのか、個人に合わせて受注しているのか、この世界の金属加工の技術が極めて高度であることは間違いなさそうだった。


 全員胸の中央に同じ文様と赤い玉石を嵌め込んでいるのが目に見える特徴だ。

 文様は赤い放射状の曲線が不規則な軌道を描いて上方へ昇り、その下を黒い縦の棒が支えるというものになっている。これはカインとの会話から推測すると、炎、あるいは燭台、もしくは松明を意味しているようだった。通路の明かりを指さして、手に何かを持つ仕草をしていたので多分松明で合っている。松明が彼らにとって何か象徴的な意味を持つことは間違い無いように思われた。実際に松明を持っている者はいないし、何かを照らしたり探したりする行為の比喩なのだろう。彼らが迷宮を探索していることと関係がありそうな感じだった。


 それから、それぞれ籠手のつくりがまったく違う。全員、右手は可動域が大きく、指先にフィットして細かい作業がしやすいようになっているのだが、左手はそれぞれ異なっていた。キールとカイン、アズーリアは右手と同じく繊細な造りだが、トッドとマフスは手の甲の部分がやけに分厚く、小型の盾のようにも見えた。テールに関してはなんと盾と籠手の部分が一体化しており、そもそも指先が存在しなかった。他の五人が腕と平行に、手の甲を守るようにして盾を取り付けているのに対して、テールだけは腕と垂直に、拳を守るように盾が取り付けられているのだ。これは彼の盾で殴りつける戦法と関係しているのかもしれない。樽型の兜も、視界の確保と防御力の兼ね合いの為か、スリットの広さがそれぞれ異なる。かしゃり、かしゃりと足音がするたびに新たな発見があるようだ。


 マフスの、緊張とおびえの混じった、だがしっかりとした声が上がる。

 敵襲の声だ。

 彼はとにかく敵に気付くのが早い。兜の目のスリットが広く、横に耳を澄ませるための細かな穴が開いているのは、彼の目の良さ、耳の良さを活かすためだろう。


 後方からの敵に、俺とテールが素早く対応し、背後からトッドの適切な支援が差し挟まれる。槍は薙ぎ払うことが本領の一つだが、このような狭い通路でそれを活用するのは難しい。そのため正確な突きの技術が活きることになる。トッドは前衛が押され気味な時や攻め込みたい時、後ろから牽制の一撃を加えてくれることが多い。前衛をよく観察して、次にどう動くのかを正しく予想しているからできることだろう。


 俺と共に最前線に出て、人狼の攻撃を完璧に防ぎきっているのはテールだ。盾で防ぎながら殴り、槌矛で相手の盾を強引に弾く。豪快な腕力で守りながら攻める。普段はあまり口数が多くないが、戦いとなれば大声で敵を威嚇し、注意を自分に集めている。


 彼の甲冑は他と比べてやや大仰なつくりで、肩が尖っていて兜にも一人だけ二本の角が生えている。全体的には銀色なのだが、各所に金粉が散りばめられていてかなり派手に映る。悪目立ちして攻撃を引き受ける役目を担っていることは、戦闘時の彼の行動からも明らかだった。


 と、後ろで更なる敵襲の声。

 挟撃された形になる。俺もテールも振り向きかけたが、キールの号令が響くとすぐに目の前の敵に集中し始めた。背後はキールに任せて良いと瞬時に判断したのだ。


 キールの戦いぶりは数回見ただけだが、とりたてて特徴の無いものだった。ごくごく普通で、それゆえに安定している。押すべき時に押し、引くべき時に引く。周囲を見て助けが必要そうな者に助勢し、間に合わなければ仲間に指示を出して助けに行かせる。


 冷静なリーダーを体現した存在。仮に俺が彼らと敵対したならば、一番手強そうなのが彼だ。

 俺の足払いが最後の人狼の体勢を崩し、テールの一撃がその頭蓋をかち割った時、背後の戦いも趨勢が決していた。


 人狼が断末魔の声を上げている。キールが相手をしていた人狼ではない。その相手は声も出せずに即死させられていた。


 絶叫を上げているのは、カインが仕留めた獲物だった。

 人狼が、壁から飛び出した槍に串刺しにされている。探知した罠をわざと発動させ、攻撃に転用したのだ。こういうトリッキーな戦法は彼の得意とする所だ。機敏に走り回って敵を翻弄したり、テールが引きつけた敵を横から奇襲したりと右へ左へ自在に動き回るその様子はさながら遊撃手といったところである。


 敵も残るは一体となった。

 俺たちからかなり離れたところで孤立した戦いをしているのはアズーリアだ。


 前々からこういう傾向はあったが、アズーリアは威勢良く飛び出すのは良いが、そのせいで突出し、孤立しがちになる。その度にキールやカインのフォローが入っていた。


 また最初の爆発力は凄まじく、あるときは三体の人狼を一息で撲殺してしまうほどだったが、持久力の問題なのか長期戦になると徐々に勢いが衰え、攻め手が目に見えて雑に、拙くなっていく。そうなると次は一気に劣勢になってしまうようで、今もそのパターンに陥っている。


 相手の人狼もなかなかの強敵のようで、他の個体よりも大柄で、両手の爪が一回り長い。

 爪が槌矛と正面から打ち合う。

 鈍器と激突して罅すら入らない硬度。

 勢いのある一撃を押し返すほどの膂力。


 大柄な人狼は長大な爪を縦横無尽に振り回して苛烈に攻めてきている。

 これは助けに行く必要がありそうだと思ったのだが、キール達には慌てた様子がない。皆泰然と構えているというか、危なっかしいアズーリアの様子を安心しきったように見ている。


 奇妙な事だが、アズーリアはこの中で最も危なっかしいように思えるのに、全員から「あいつが負けるはずがない」というような揺るぎない信頼を集めているようなのだ。


 確かにテールを六人の盾と喩えるならアズーリアは矛、攻める時の爆発力は随一だ。

 同時に守りは最も薄そうに見える。他の前衛に比べると安定感にも欠ける。


 正直なところ、俺の抱く所感は「若い」というものであり、実際メンバーの中で最も若く見えるマフスより小柄なのだから、彼より更に若い可能性もある。


 これは直感でしかないのだが、アズーリアにはあの爆発力以外にも何かある気がする。他の五人が信頼するに値する、何かが。


 思い返せば巨大狼との戦闘の時、俺が走り回る反対側で、四人のうち一人が後ろに下がって何かをしていたような気がする。あの時は誰が誰なのかも分からなかったのだが――。


 俺はアズーリアの戦いを見守ることにした。

 人狼と打ち合い、体格の差ゆえ当然のように後退するアズーリア。

 しかし、よろけながらも左手が動く。


 いつの間にか外されていた盾が投擲され、床に激突する。壁から槍が飛び出し、両者の間に柵を作る。カインのような芸当だが、アズーリアも罠探知の役目を担う以上、こういった技術も会得しているということだろう。

 ただ突っ込むだけが能ではないと俺もようやく納得した。だが、アズーリアの反撃はそこから始まる。


 ――そして、俺が理解できないまま終わった。

 

「何だ?」

 

 困惑。

 頭の中を占めるのはただそれだけだった。

 気がついたら決着が付いていた。


 槍の罠は飛び出して三秒ほど経過すると元に戻るようになっている。両者の間を遮る槍の柵が元に戻った瞬間が戦いが再開する合図だと思い固唾をのんで見守っていたのだが、拍子抜けに終わった。槍が戻ると同時に、人狼の体が脱力し、倒れ伏したのだ。


 わずかに痙攣する人狼に歩み寄り、アズーリアは槌矛を振り下ろして止めを刺す。意味が分からなかった。

 何が起きたのかさえ理解不能だ。状況からしてアズーリアが何かをしたのだろうが、人狼が倒れる前にやったことと言えば盾を外したことくらい――いや、よく見ると盾だけではなく籠手も外している。


 剥き出しになった左手は、遠目にも華奢と分かる。

 だがそれ以上に気になるのは、あまりにもその色が黒いことだった。

 肌の色が黒い、というのなら驚くような事ではない。


 そうではなく、あらゆる光を飲み込むかのように色が無く、手そのものが深い闇のようだと感じて、思わず息をのんでしまった。


 目の錯覚に違いない。先程出会った三人組のうちの一人よりもさらに肌の色が黒めであるというだけの話だ。そうした事にことさらに拘るのはレイシズムを露呈させるようで、自分にとっても周囲にとっても望ましくない。


 だが。

 一瞬だけ――きっと目の錯覚だろうが、アズーリアの左手が濃い影に隠れたとき、まるでそこに何も存在していないかのように見えたのがやけに気になった。


 そのあと、何事もなかったかのように籠手が装着され、その中身は俺の視界から消えた。

 

 

 

 俺たちの往くところ、人狼の死骸が積み上がるという具合で快進撃が続く一方、人狼以外の死体も目に付くようになってきた。

 人間の遺体である。


 それは例の三人組のようにばらばらの服装をした集団や個人であったり、あるいはキール達の仲間らしき甲冑に身を包んだ戦士たちでもあった。

 遺体に遭遇すると、トッドとマフスが前に出て槍で床を音楽的なリズムで叩きながら何かを唱え出す。


 祈祷のたぐいだと思われた。彼ら二人は荷物持ちと後方支援だけでなく、従軍神官でもあるのだろうか。

 祈祷が終わると、小さく謝罪の言葉をつぶやいて遺体から使えそうな持ち物をとり、身なりを簡単に整えて通路の脇に安置していた。


 遺体を外に運び出すような余裕は彼らにも無いらしい。しかし衛生面の問題を考慮しないわけにもいかない。

 対処したのはアズーリアだった。一纏めにした遺体の上に数枚の札を置いて左手を振ると、勢いよく火の手が上がる。炎は瞬く間に遺体を覆い尽くす。


 薄暗い迷宮に、仄かな熱と明かりが広がって、暫くして消えていった。

 一度、キールとテールがある遺体を見て激しく動揺した事があった。


 共通の知り合いだったのだろう。二人は兄弟、ないしは親族関係にあるのだと、カインが説明していた。その遺体もやはり親族なのだと。残念ながら死に顔から二人との類似点を見付けることは難しかった。首を串刺しにされて絶命した最期の表情が、あまりにも壮絶だったためだ。


 キールは沈痛な表情で瞑目し、テールは一度だけ激しく怒鳴りながら床を踏みならし、それきり黙り込んだ。

 祈祷が終わると、持ち物をトッドが手に取る。破損が大きく装備は回収できなかったが、腰の収納に小さな装具のようなものが入っていた。トッドはそれを背嚢に入れるのではなくキールに手渡した。


 キールは小さく「ありがとう」と呟いた。俺は彼らのやりとりを眺めながら、自分が謝罪や感謝の単語を覚えていることに気がつく。彼らの意思や感情が切れ切れに伝わってくるようだった。

 

 

 

 テールの戦い方が、どこか精彩を欠いている。

 やはり親しい者の死は彼に衝撃を与えているのだろう。そのせいか、疲労と共に不安定になっていくアズーリアと合わせて前線がやや崩れがちになってきた。


 キールに小休止を進言すべきではないだろうか。

 俺はなんと言えばいいのか分からず、頼るようにカインを見た。目が合う。意を汲んでくれたようで、カインがキールに働きかけた結果、通路の中だが小休止をすることになった。


 長い迷宮の探索は、全員に確実に疲労を蓄積させていた。

 そろそろ彼らに行き先や目的を訊ねるべきだろうか。問題は、どうやって質問するか、ということだが。


 俺の考えを理解しての事かどうかはわからないが、カインが俺に「少ない」という単語を何度も言い続ける。


 こちらに都合の良い考え方をするならば、これは「あと少しで目的地に着くはずだ」という意味だろう。俺は了解の意思を告げ、力強く右手を握って見せた。俺の義肢をカインは『鎧の腕』と呼んでいる。きまぐれに『鎧の腕を持つ男』とか呼称を変化させているせいか、キールやトッドなんかも戦闘の後に俺をそう呼ぶことがある。どうもあだ名を付けてもらったようだ。


 ――ひょっとしたら『鉄の腕』『装甲の腕』みたいな意味なのかもしれないが、まあ大意としては間違っていないはずだ。多分。翻訳の誤差レベルだ。


 カインが拳を握り、俺と右手の甲同士を打ち合わせる。正確な意味は不明だが、なにかポジティブな意味の符丁、挨拶なのだろうと思う。

 唐突に、またくだらない思いつきが頭をもたげてきた。


 こんな時にやる意味は全くない。関係の悪化をも誘発しかねないハイリスクな上にリターン不明な行動。

 だが俺は実行した。感情をある程度制御できるということは、慎重さのレベルを調整できるということだ。


 生前よりも無謀になっている自覚がある。いざとなれば暴力で片を付けようという短絡的な思考が根幹にあると思われた。

 元世界では社会に帰属しているという意識が邪魔をしたが、この世界ではまだそれがない。


 いざとなれば周囲を敵に回しても、まあなんとかやってやるさという捨て鉢な、あるいは獰猛な意識。

 それはつまり、俺は転生したにも関わらず、未だにこの世界を自分の世界だと認識できていないということだった。


 記憶や人格を保持したまま異世界へ転生するというのは、外国に移住するようなものだと気付く。同化や帰化は元世界に置いても困難を極める。俺は余所者でしかないのだ。


 座り込んだテールの前に立つ。うつむいていた視線がこちらを向く。

 差し出された拳に、困惑する気配が感じられる。俺は短く、

 

「あと少しだ」

 

 とだけ言って、スリットの奥に隠れた彼の目を見た。

 しばらくして、テールは軽く俺の手の甲に触れて、兜を外して水筒の中身を一気に喉に流し込んだ。大きく息を吐いて、目を深く瞑ると、次の瞬間には彼の表情にはわずかに張りが戻っている、ような気がした。


 賽の目はまた良い方に出たようだ。いまギャンブルをやったら多分俺は大勝ちする。

 

 

 

 あと少し。

 その言葉に偽りは無かった。

 小休止からは罠に引っかかることも敵に遭遇することも無く、俺たちは順調に迷宮を進むことができた。やがて道の分岐が少なくなり、ついにはこれまでよりも広い一本道が続くのみとなった。


 この迷宮の奥に何があるのかは分からないが、きっとこれまでの苦労に見合う何かがあるはずだ。そんな思いが俺たちを突き動かしていたような気がする。

 カインが床を探りながら、

 

「あと少しだ」


 と自分を鼓舞するように呟く。

 そのとき、マフスが何かを知らせた。

 敵襲かとも思ったが、少し違うようだ。彼は進行方向を指さして何かを言っている。


 遅れて俺も気付いた。

 通路の奥から、激しく金属がぶつかり合う音、狼の唸り声や咆哮が響いてきているのだ。誰かがこの先で戦っている。

 

 

 

 予感はあった。

 俺たちより先行していたはずの例の三人組の死体は見つからなかった。ということはすれ違ったか追い越したか、あるいは俺たちよりも奥へ進んでいるということになる。


 果たして、早足で迷宮の最奥へと辿り着いた俺たちを待っていたのは、三人と怪物との死闘の光景だった。

 小さい。

 というのが、その狼に対する俺の印象だった。


 実際には大型犬並、というか前世にも存在していた狼と同じくらいの大きさだ。

 しかし、さきほど戦った見上げるような巨大狼に比べるとあまりにも小さすぎる。


 三人組も少なくとも一度は同種の巨大狼を倒しているのだ。この程度の大きさの狼に苦戦する理由は見あたらないはずだ。

 にもかかわらず、その戦いはあまりにも一方的だった。

 一方的すぎて、戦いと呼ぶのがはばかられるほどに。


 壮年の魔法使いは虫の息だった。杖にすがりついて辛うじて立っているが、軽く押してしまえばそのまま倒れて、もう二度と立ち上がることができなくなるのではないかと思われた。


 大量の血液を口から垂れ流し、片目と鼻が完全に潰されていた。意識すら定かではないだろうに、それでも立ち続けているのはいかなる意思と訓練の結果だろうか。

 浮遊する黒い装丁の本だけが勢いよく項をはためかせ、解き放たれた文字が火の玉を射出し続ける。


 黒い肌の巨漢は、負傷した二人を庇うように前に出て、攻撃を一身に受け止めていた。

 雄叫びに呼応するかのように上半身の赤いペイントが淡く発光し、筋肉が盛り上がり、肌は鋼鉄のように輝く。


 だがそれも長くは続くまい。腹部を貫通する無数の棘は明らかに内蔵を傷つけているし、袴にも似た下履きは血を吸ってなお雫を床にこぼし続けており、足元の血は明らかに手遅れな量に達している。

 あれはもう何かの間違いで動き続けているだけの死体だ。


 巨大な剣の青年には、両足が無かった。

 今は小さくなった剣を咥えながら、取り出した治癒のシールを必死に両足の付け根に貼り付けて止血を試みているが、あれではどう考えてもこれ以上戦うのは無理だ。意識が一番しっかりしているようにも見えるが、移動能力を失うことは戦場においては死に限りなく等しい。


 そして、その三人と相対する狼。茶色の毛皮、人間より低い体高、ぴんと立った耳。

 異様だったのは、その四本の脚が、闇のように濃い黒色だったこと。

 その黒い闇が、脚の下に伸びる影と完全に同化して見えたこと。


 更にはその影がうねうねと蠢き、広大な部屋の床下を浸食するかのように拡大していき、ついには壁、天井に至るまで完全に覆い尽くし、闇に覆われた天地から漆黒の棘が次々と生じ、伸びては天へ、落ちては地へ行き来するようになるともはや事態は何が異様かというよりも何が異様でないのかを確かめる段階へと移行する。


 気がつけば退路が消えていた。

 一面の闇の中、空にはかすかな光を放つたったひとつの巨大な満月と、緑色を揺らす広葉樹の枝。

 そこは深い森の空白地帯。


 ここは王が用意した処刑場だ。

 高くそびえる木々の枝に、朽ち果てた『なにか』が百舌鳥の早贄のように串刺しにされていた。地獄に辿り着いてしまった哀れな戦士たちの、それが末路だった。

 

 闇色の脚を蠢かせて、狼の王が遠吠えをあげた。

 

 あれがお前達の末路だ。

 そう宣告するかのような咆哮に、だが瀕死の三人は屈しなかった。

 止血が終わった瞬間、咥えていたナイフが地面に叩きつけられる。


 剣が巨大化し、それに伴って青年の体が上空に持ち上げられる。最高点に達した瞬間、剣が縮小する。ぐるりと反転しながら大きく振りかぶり、弧を描きながら狼へ落下していく。頭上には再び巨大化させた剣。剣を地面に叩きつける衝撃によって高く跳躍したのだ。脚がないぶんだけ軽いとはいえ、なんたる絶技か。


 だが狼の闇色の脚が不気味に蠢く。

 地面から鎌首をもたげ、青年を迎撃する構えの十数の黒い棘。

 青年が、背後の仲間に何かを叫ぶ。

 返事はなかったが、魔法使いは確かに行動した。


 クロスボウから射出された弾丸が閃光を放ち、狼の影と繋がった漆黒の棘を一瞬怯ませた。続けて浮遊する本が無数の火の玉を放ち、棘を焼き払う。光と熱が弱点だったのか、魔法使いの攻撃は確かに通用していた。

 しかし、それならばこうまで彼らが追い込まれることは無いはず。


 頭上からの強襲。

 それに対して狼は回避するでもなく、泰然として動かないままだ。剣が狼に振り下ろされようとした瞬間、その動きが停止する。小さくなった剣が力なく取り落とされ、手や顔など、体の至る所から血を吹き出して、青年はそのまま狼の真正面に落下した。


 辛うじて受け身は取ったようだが、おそらく全身の骨が折れているだろう。

 あの狼が影を自在に操り棘と化すことができるというのなら、ある推測が成り立つ。


 人間には顔にも、手にも、およそ全身に凹凸が存在する。わずかな高低があればそこには陰影が生じるのだ。

 その影を操り、他者を害することができるのだとしたら?

 正面から挑んで勝てるはずがない。敵対した者はその命運をあの狼に握られているに等しい。


 しかし、だとすると黒い棘など使わずに目の前に現れた瞬間に相手を即死させてしまえば良いはずだ。そういう結果になっていないということは、三人を嬲って楽しんでいるか、あるいは何か使えない理由があるか、二つに一つだ。


 大量の光源を一斉に照射し続ければ有利な状況には持ち込めるかも知れないが、準備不足。

 圧倒的な大質量か急所狙いの一撃で一か八か殺される前に殺す、という戦法は無謀過ぎるので却下。


 影すら消える夜闇に紛れて暗殺、というのはまず相手の前に姿をさらしている時点で無理だし、闇の中は影がない、というのが予断の可能性が高いので否定される。影の中にも影はできるし、闇を全て操れる、という能力だったら自殺同然だ。


 巨大狼の時より状況は差し迫っている。

 さて、あの怪物をどう殺したものか。

 逃げられる状況ならあの三人を見捨てているのだが、うっかり部屋の中に入ってしまって退路が消えてしまった。学習しろよ。


 とりあえず、ここで棒立ちは悪手だ。

 見れば、狼の前に放り出された仲間を救うため、巨漢が狼へと決死の突進を敢行している。無数の棘に阻まれてはいるものの、自らの傷を省みないが故に着実に前に進んでいる。


 俺も行動すべきだろう。目指すのは壮年の魔法使い。キール達には悪いが独断で行動させてもらう。これでも相談したかったのだが、なんと声をかければいいのか分からなかったのだ。


 まだ浮遊する本とクロスボウは生きている。あれは勝利に必要だ。

 動き出した俺に反応してか、三本の棘が矢のように飛んでくる。


 『弾道予報Ver2.0』は起動済みだ。棘の危険性が分からないので迂闊に触るのは躊躇われた。回避に専念する。明確な敵がいない状況下では『サイバーカラテ道場』よりも回避用アプリの方が役に立つ。それでも効率的な足運びのアシスト機能を作動させ、拡張現実に表示されたとおりに体を動かして、少しでも速く進もうとする。


 やや荒っぽいが、肩を貸すようにして魔法使いを抱え、キール達の方へ誘導する。

 まず彼を治療しなければ。

 漆黒の棘が矢のように飛来する。


 怪我人を抱えて動けないが、回避の必要は感じなかった。俺が動き出したのと同時に、背後で動きがあったのをしっかりと知覚していたからだ。


 前に出たテールが盾をかざして棘を受ける。俺の反対側にカインが回り込み、二人がかりで負傷者を運ぶ。キール達も駆けつけてきている。察しの良いことに既にマフスが治癒のシールを用意していた。


 マフスに魔法使いの治療を任せるやいなや、俺はクロスボウ、未だに浮遊して持ち主の後をついてくる黒い本、そして壮年の魔法使いを順番に指差していった。


 最後に、黒い棘の向こう、ついに動きを止めた巨漢を串刺しにしている狼を指し示す。

 それで伝わったようだった。

 まあ細かい作戦とかは全く考えていないのだが、それはこれから考えればいい。まずは選択肢を増やすことが重要だ。


 さて、どう反撃していくか、とそこまで考えたとき、俺の頬ギリギリを黒いものが掠めていった。無数の棘が放射状に生えているため、掠めただけでも肉が削ぎ落とされる。

 恐怖を強制的に遮断。


 そこで、俺の考えが甘かったことを知った。

 黒棘の投射を盾で防いでいたはずのテールが盾を持つ手を押さえながらうずくまっている。


 盾には隙間無く黒い棘が突き刺さっており、深く内部に侵入しているようだ。貫通した棘はテールの腕を引き裂いていることだろう。痛みに耐えながらも棘を受け続けて、遂に限界がきたようだ。


 最悪だった。

 テールの盾は全員の中で最も分厚い装甲板を重ねて作られているらしい。それが貫かれたと言うことは、キール達の盾は勿論、甲冑の防御も貫けるということになる。


 当然、俺の右腕で防げるなんて甘い考えは捨てた方が良い。あれは回避するしか無い。無いのだが、あの量の攻撃を避け続けるのは相当しんどい。そもそも俺一人避けられたところで、動けない怪我人を守れなければどうしようもない。


 そうやって考えている間にも、狼の周囲の大地から次々に黒棘が出現し、その全身を撓めるようにして運動エネルギーを蓄えている。弓に番えられた矢さながらだ。


 取捨選択。

 負傷者を見捨てて回避に専念するか、弾道予報をフル活用して黒棘を横から掴んで投げ捨てる、という防御を試してみるか。


 十分な数のサンプルを視認済みなので、予測の精度は極めて高い。問題は、投擲される棘の数が多すぎることだ。一つか二つならやってやれないこともない。しかし十を超える矢を一度に掴みとるなど、それこそマスタークラスの実力が必要になる。


 俺はサイバーカラテ道場で黒帯認定を受けているが、その遙か上の段位、赤帯を締める資格のある者の、さらにほんの一握りだけが、サイバーカラテマスターを名乗ることが許される。現在地球上にマスタークラスの達人は数えるほどしかいない。今代のサイバーカラテマスターは日本産だが、だからといって教えを請うておけば良かったとか後悔しても仕方がない。


 益体もない思考が脳内を駆け巡り、時間だけが無為に過ぎていく。

 一度逃げて俺が生きながらえることを確実にするのもいいように思えるし、死中に活を求めるつもりで負傷者を守るのも悪くない気がする。成功すれば勝つための手段が増えるから、短期的にはハイリスクでも長期的にはリターンが大きいわけだ。しかし失敗すれば死ぬわけだから、死んでしまえば未来のリターンも意味が無いわけで――。


 ぐるぐると考えて結論が出せないうちに、黒棘が発射されてしまった。

 弧を描いて雨あられとこちらへ降り注いでくる。ああ、もう今から回避するのは間に合いそうも無い。


 仕方がない、一か八か、後ろの負傷者を守ってみるか――。

 俺が堕落した思考で決断を時間に委ねようとしたその時、視界の隅でアズーリアが動くのが見えた。


 左手の盾と籠手が外されている。

 何を、と驚く間もなく、漆黒の左手がその姿を明らかにする。

 高く掲げられた左手、その手首の内側から金色の鎖が伸びていた。環は四つ。そのうちの一つが、音もなく砕け散った。

 かすかな囁きが、風に紛れて消える。


 ――そして、何も起こらなかった。

 静謐。

 月は変わらず森を皓々と照らし、木々は夜風にかさかさと揺れ、狼の足元には細い影が伸びるだけ。

 ただそれだけ。


 まるで何事もなかったかのように、全ての黒棘が忽然と消え失せていた。

 低い唸り声が沈黙を破る。

 今まで一歩も動かずに俺たちを追い詰めてきた狼が、ここにきてゆっくりと距離を縮めてきたのだ。


 はっきりとアズーリアだけを敵だと認識している。

 この場においてはあの奇妙な左手だけが狼にとっての脅威なのだ。

 狼はアズーリアに真正面から相対すると、口を開いてこう言った。

 

『我が名はエスフェイル(闇の脚)。四つ脚の同胞と二つ脚の同胞を束ねる長にして、この階層を掌握する王である。愚神を崇める狂信者よ、汝が名はなんぞや?』

 

 唖然とする。

 狼が喋った。というか、意味が直接頭の中に響いてきた。しかもエスフェイルという名前が彼らの古い言葉で『闇の脚』を意味すること、そして彼らが現在使用している言語においては意味のない音の連なりにしか聞こえないので自分の名前って古語でこういう意味なんだって、一応括弧付けて補足しておくよ、みたいな微妙なニュアンスまで完璧に伝わってきた!


 いやそれはどうでもいい。名は体を表すとか思ったけどそれもどうでもいい。

 こういう、テレパシーっぽい魔法が俺も使えれば意思疎通にこんなにも苦労することはないのに! どうにかしてやり方を盗めないものだろうか。


 くだらないことを考えている俺とは関係無く、状況は進行していく。

 狼の王エスフェイルの問いかけは俺にはなんでもないように聞こえたが、どうやらアズーリア当人にとってはそうではないらしい。目眩でもしたかのように体をふらつかせ、頭痛を堪えるように頭を押さえている。


『どうした? 名を問うているだけだぞ。さぁ、答えよ、答えよ、答えよ』


「答えてはいけない! 名前を奪われるぞ!」


 エスフェイルの煽りにかぶせるようにして、治療のおかげかなんとか意識を取り戻したらしい壮年の魔法使いが叫んだ。ちなみに後者の台詞は俺の想像や補完を多く含んでいますが多分これであってるんじゃないかと思います。


 魔法使いの声に正気を取り戻したのか、右手に持った槌矛の柄尻で思いっきり兜の横っ面を叩き、自分に活を入れるアズーリア。催眠術にでもかけられていたのだろうか。


 アズーリアが黒い左手を前に突き出すと、エスフェイルもその瞳を爛々と輝かせる。

 両者はにらみ合ったまま動かず、時間だけが過ぎていく。長い、あまりにも長い沈黙。え、なにこの空気。


 背後で壮年の魔法使いが、「何という凄まじい戦いなのだ――」とか震えながら呟いている気がしたが、あくまで想像である。


 きっとなにか目に見えない魔法的な術比べが行われているのだろうなーということは何となく想像できるのだが、傍目から見るとただにらみ合っているだけなので大変地味である。魔法使いの目にはまた違う景色が映っているのかも知れない。


 見ているだけの状態に焦れたのか、壮年の魔法使いが黒い本を手にして、なにごとかぶつぶつと呟き始める。

 魔法の呪文だろうか。

 暫くして虚空に何かの文字が書かれると、朗々とした叫び声が響き渡る。


「エスフェイルよ、我のものとなれ! 貴様の名は既に我が手の中にある!」


 実際はもっと長ったらしいセンテンスを捲し立てていたのだが、聞き取れた範囲を意訳するとこんな感じではないかと思われた。

 黒い本から文字が飛び出し、矢のようにエスフェイルへ向かっていく。が、狼がひと睨みすると文字の矢はあっけなく霧散してしまった。

 

「馬鹿な、何故」

 

『愚か者め。我が名はいにしえの力ある言葉で編まれておる。それ自体が一つの呪いであるぞ。呪術の本質を理解せず、形ばかりを真似ている貴様ごとき手品師に掌握できるものではないわ!』

 

 エスフェイルが一喝すると、壮年の手品師は稲妻に撃たれたかのように背筋を仰け反らせ、吐血して倒れてしまう。息はあるようだが、ダメージは深そうだ。肉体的にも精神的にも。


 しかしさっきから話を聞いていると、名前というのは魔法使いにとって随分と大事な物のようだ。


 名前を知られるなとか奪うとか掌握するとか、俺にはいまひとつぴんと来ない話ではあるが、知られてしまったが最後、致命的な事態が訪れるであろう事は想像がつく。戦闘中に互いに名前を呼び合ったりするのも危険ってことだし、うっかり持ち物に名前を書いたりしていると落とし物をしたせいで敵に命運を握られる、ということも十分あり得る。怖い。


 一方エスフェイルは名前を堂々と名乗っても全く問題なしときた。これはちょっとあちらに有利すぎるのではないだろうか。狡い。


 戦いの序盤は無数の黒棘の威力と物量に押されて圧倒的にこちらに不利だった。その窮地は脱したものの、こちらに不利な状況であるのは変わっていないのでは?


 更にそれを裏付けるかのように、キール達が焦り始める。視線の先は、アズーリアの左手首から下がっている金鎖だ。いつの間にか、環の数がふたつになっている。


 おや、数が減っている。

 もしかしなくてもアズーリアの奇妙な力は、回数制限とか、時間制限とかがあるんじゃないだろうか。あの鎖が無くなってしまったとき、一体アズーリアはどうなってしまうのだろう?


 カインにそのことをジェスチャー混じりに尋ねてみる。すると、

 

「アズーリアが死ぬ」

 

 というある意味予想通りの答えが返ってきた。

 当然アズーリアの次は我々である。


 このままではまずい。加勢に行くべきかとも思うが、下手に突っ込んでいって手品師みたいに返り討ちに遭うのは御免こうむる。カインも、

 

「今行くとアズーリアの集中を乱すから止めろ」

 

 というような事を伝えてきた(多分)。やはり今の俺は足手まといなのか。

 アズーリアの金鎖に焦点を合わせると、亀裂が入っているのが見えた。本人も肩で息をして、かなり消耗しているのが見て取れる。


 最初に動いたのは、またしても手品師だった。

 顔面に治癒のシールをべたべたと貼り付けて、目もほとんど見えていないはずだというのに、ふらふらとした危なっかしい足取りでエスフェイルへと挑もうとする。何がこの男をここまで駆り立てるのだろう。


 自らの体重を支える杖の先端、そこに固定されたクロスボウを、無造作に外して捨てる。杖の先端が明らかになる。赤い玉石があやしく輝き、それが魔法に関係する道具であることをあらわしていた。


 徐に進みながら、手品師はなにごとかを叫び続けている。全く意味は分からなかったが、呪文とかではなくて、誰かに向けた言葉なのだろうと感じた。


 アズーリアが、手品師の方を向く。

 手品師の傍で浮遊し続けていた黒い本がゆっくりと移動していき、アズーリアの目の前で静止する。二人の間で、何かのやりとりがあったらしい。俺にはその内容は全く分からなかったが、アズーリアは小さく頷いて、左手で黒い本を手に取った。

 

『させるものかっ』

 

 エスフェイルの咆哮と共に両目の光が更に強くなる。

 同時に、疾風のごとき勢いで手品師が駆け出した。どこにこんな体力が残されていたのか、いや、というよりも今までの不安定な歩みはエスフェイルを油断させるための演技だったのか。瞬く間にエスフェイルに接近すると、疾走の勢いもそのままに手にした刃を一閃させる。


 彼の杖が、剣に化けていた。剣杖、いわゆる仕込み杖だ。

 突然の加速と、剣杖という奇襲の二つが功を奏した。

 エスフェイルの左目ごとその顔に斬撃を喰らわせることができたのだ。事実上、それはエスフェイルに対しての最初の戦果となった。


 怒りの唸り声と共に残った右眼が爛々と輝く。エスフェイルの体が異様に盛り上がり、後ろ足だけで立ち上がると、その骨格が音を立てて変化していく。二足歩行の人狼に変身する能力まで持っているようだ。しかしその両手は手ではなく、黒い棘が無数に生えた剣と化している。


 手痛い一撃を食らわせた不遜な手品師に制裁を加えようと、両手の剣が猛然と振るわれる。

 袈裟懸けに入った黒棘の剣は仕込み杖の刃を両断しながら手品師の胴体を引き裂き、続く刺突がその胸の中央を完全に貫通していた。


 致命傷だ。今度こそ死んだ。

 と、そこで見ているだけの俺の手が引かれた。

 見ると、そこにいるのはカインだ。


 アズーリアを中心に、負傷者二人を含む全員が集められている。

 何か作戦があるのだろう。手品師に渡された黒い本の最後のページを開いて何かをしようとしていた。


 本のページから文字が飛び上がり、俺たちの周囲をぐるぐると回転し始める。奇妙な浮遊感が俺の体を襲った。重力が弱くなったというか、エレベーターで下の階に移動しているかのような感覚だ。

 

『逃がさんっ』

 

 エスフェイルが叫ぶ。えっ、俺たち逃げるの?

 しかし、致命傷を負ったはずの手品師が胸を貫いたままのエスフェイルの腕をしっかりと抱え込んでいる為、身動きがとれない。手品師が未だにしっかりと握った杖に嵌め込まれた宝石が一際強く輝いた。

 

『まさか貴様、自爆する気か?!』

 

 状況について行けてない俺だったが、エスフェイルが説明台詞を入れてくれているおかげでなんとか話の流れは掴めた。手品師は自爆して自分諸共エスフェイルを葬り去るつもりなのだろう。そして爆発に巻き込まれないように俺たちを遠くに逃がす。この黒い本が、俺たちをまとめてどこかに移動させてくれるんだろうか。それともワープ的な便利魔法があるの?


 答えはすぐに明らかになった。

 手品師がエスフェイルを道連れに自爆する。閃光が走り、熱や爆風が伝わる寸前、俺たちを包む文字が高速で回転を始め――。


 まずキールが超高速で空へ射出された。

 いや原始的過ぎるだろう。

 脳内で突っ込んだときには既にテール、トッド、マフスが空に向かって吹っ飛んでいる。手品師の仲間の二人はほとんど瀕死なのにこんな勢いよく打ち出されて死なないのだろうか。


 そして次がカインで、直後に俺。

 大砲に詰め込まれた砲弾の気持ちを、俺たちは集団で理解していた。

 しかもその後はノーロープバンジージャンプ。眼下では凄まじい爆発が巻き起こっているが、こっちはこっちで落下して死ぬんじゃねえの?


 とか思っていたら落下が始まった。意外と緩やか、というかとてもゆっくりとした落下だった。

 高速で空に打ち出て、降りるときは重力か落下速度か何かを制御してゆっくり着地する、というような魔法らしい。


 射出された勢いや方向は全員ばらばらで、同じ場所に落ちたりはしないようだ。なんでわざわざそんなことを、と思ったが、全員ばらばらに逃げることで全体の生存率を上げる狙いがあるのだろうか?

 だとすれば、あの自爆ではエスフェイルは倒せていないということになる。

 案の定、と言うべきだろうか。

 

『狩りだ、狩りの時間だ。今から貴様らを一人ずつ殺してやるぞ。この夜の森は我が庭、休める場所など無いと知るがいい!』

 

 当たり前の様に生きていた。

 全員バラバラに逃げたことによって一気に全滅という最悪のケースは無くなるが、個々の戦闘能力がエスフェイルより低い以上、逃げ回っていてもじり貧になるだけじゃないだろうか。


 そもそもアズーリアが何を考えてこんな作戦を実行したのか分からない。手品師となにか話していたようだったし、それなりに勝算はあると信じたいのだが。


 多分、俺以外の全員が状況をちゃんと把握しているんだろうな。カインとかキールが何かを言っていた気がするが正直よく分からなかったし。

 とにかくエスフェイルに対抗できるのは、現状あの黒い左手と黒い本を持ったアズーリアだけだ。


 薄暗い森の中に降り立つと、俺は次の方針を固めた。

 まずはアズーリアと合流する。そしてエスフェイル対策を訊きだして(どうやってそれを理解するかは未定)、キールやカインたちを集めてそれを実行、完全勝利。途中でエスフェイルに遭遇したら迎撃しつつ上手いこと逃走する。あわよくば殺しちゃう。俺の勝利。よし、完璧な方針だ。何もおかしいところは無い。


 アズーリアを捜索するために、俺は新たなアプリケーションを脳内で起動した。

 走り出す。

 

 

 

 

 

 

 あと、3600秒。

 それまで逃げ切れば、私の、私たちの勝利となる。

 その時の『私たち』というのが何人になっているかはわからないけれど。

 

 私、アズーリア・ヘレゼクシュは夜の森を疾走していた。

 

 ただでさえ兜のおかげで視界が狭いから、森の暗闇は私の走る速度を制限してしまっている。転ばないように慎重に走ると、一定時間逃げ回るということが絶望的に思えてくる。


 甲冑に重さは感じない。カシャカシャと音を立てるのがうるさいだけで、軽量化の祝福を施された『松明の騎士団』の甲冑は私に負担をかけることが無い。


 普段の訓練でも、山中や森林での活動はそれほど苦手では無かった。しかし、キール隊の中では体力・持久力共に最も下だという自覚はある。生来の小柄さ、身体能力の低さはどう訓練しても完全には克服できなかった。

 例の探索者三人組、そして突如として私たちの目の前に現れたあの奇妙な変態と比較しても下だろう。


 果たして最後まで走り通せるだろうか。

 どこかで隠れながら休むことも考慮に入れた方がいいのかもしれない。

 そこまで考えて、ちょっとした疑問が浮かび上がる。

 キールやカインは、果たしてあの全裸に状況を伝えられているのだろうか?


 二人はあれに向かってこれからやることを必死に説明していたが、どうもあれに状況が理解できていたとは思えない。あれに言葉を学ぶ意欲があったこと、それからカインはカインであれの用いていた言語を多少なりとも理解し始めていたことから、意思の疎通はそれなりに上手くいっていたはずだが、複雑な会話まではまだ無理だろう。きっと今頃森の中に放り出されて困惑しているのではないだろうか。


 素性の知れない変態で、全裸で、しかもその上、ええと、とにかく変態だが、共に戦ってくれた事実は揺るがない。私はともかく、カインはあれに対してかなりの仲間意識を覚えているはずだ。


 多分、あれは遠い異国から一攫千金を狙って迷宮に挑みにきた未登録探索者なのだろう。一人だけだったのは最初から一人だったのか、仲間が全員死んだのか。前者だったら愚かとしかいいようがない。


 未登録で、しかも私たちの知らない言語を使用しているということは確実に不法入国者だ。私たちの立場なら本来は拘束して地上に送り返すのが正しい手続きのはずだが、その高い格闘能力を見込んで利用しようと決めたのはキールだ。


 彼のああした冷たい一面を悪いとは思わないし、それが私たちの生存率の向上に繋がるなら、と思うけれど、右も左も分かっていない相手を何の説明も無しに一方的に利用することに、罪悪感がないわけでは――いや。


 あれを利用している時点で、私にキールを責める資格などありはしない。

 前衛として危険な役回りを受け持たせることが後ろめたかったから、少しでも早く敵を殲滅しようと焦って、何度も醜態を晒した。


 こんなのは自己満足だ。

 『悪い』と理解している行為を看過して、あまつさえその恩恵にあずかっておきながら、自らの心的負荷を緩和したいがために行う、二重に自分本位な行動。


 利己的であることは我々の社会にとって、教会にとって、最も尊ばれる行為だ。

 父なる槍神も、そうした思考を推奨しておられる。

 

『殺せ、奪え、勝ち取れ』

 

 それがゼオーティアにおける、唯一絶対の真理。

 地獄に住まう異獣、『社会福祉の充実による共生と幸福』などという脳内がお花畑としか思えない題目を掲げるあの怪物たちを殲滅し、その資源を根こそぎ奪い尽くすことが我々『松明の騎士団』の使命だ。


 信心深いキールやテール、司祭であるトッドや将来の司教候補であるマフス、普段は飄々としているカインでさえも、この思想を内面化しているだろう。


 それどころか、地上のどこへ行っても、この考え方が浸透していない場所は無いという。

 でもそれは、なんというか、私にはしっくりとこない。


 私の居場所はここじゃない、なんて、そんな考えはもう卒業するべきだとわかっている。それでも。

 ふと、あれはどうなんだろう、と思った。


 あの全裸の行動は、自分の生存率を高めるために私たちという集団に依存し、寄生するという目的に沿うものだと解釈できる。

 初対面時の捨て身の行動は、短期的には危険性が高くても長期的に見れば私たちという味方を得る期待が持てる。利他的な行動は見返りの為の先行投資であるとされる。私たちの社会が暴力を推奨しつつも社会を維持できているのはひとえにそういう共通理解があるからだ。


 あれも、やはりそういうことを考えていたのだろうか。

 きっとそうなのだろう。

 異邦人だから、私とは、私たちとは異なる価値観や世界観を持っているのではないか。そんな期待は、ずっと前に母国を離れて迷宮都市を訪れたときに捨てたはずだ。


 さっきからあれのことばかり考えてしまう。

 それにしてもなんであれは服を着ていなかったのだろう? そういう文化圏の出身なんだろうか。社会の構成員が皆全裸だとすると、温暖な地域の出身なのかもしれない。


 思い出すと頭が痛くなってくる。あの変態、いやあれの常識の中では変態じゃないのかもしれないけどそんなことは関係無い、とにかく全裸は変態だ。


 今ごろ、あの変態はわけもわからず森の中で右往左往しているはずだ。もし出会ってしまったら、状況を説明してやるのが道理だろう。何も分からないままに余計なことをされないためであって、別にあれの為にやるわけじゃない。全ては私と、私たちに利するための行動だ。


 走っている私の左側に浮遊しながら併走する黒い魔導書。その中程の項が開き、術を作動させる。

 動作確認は問題なし。


 『心話』の術は極めて高度で、私程度の術者では専用の魔導書などの道具を使わなければ使用できない。あのエスフェイルとかいう異獣は簡単に使っていたが、あれは大を付けて差し支えない階梯の呪術師だ。私とは比較にならない。


 魔導書に『心話』の術がインストールされていたのは僥倖と言うほか無い。もしあれに出会ったらこれを使って色々説明しよう。

 だが、それは今はまだできない。


 この魔導書は強力で、私の『左手』と組み合わせればエスフェイルを倒す事もきっと可能になる。しかし真の意味で魔導書が使用可能になるには、今しばらくの時間がかかるのだ。


 そのための時間稼ぎ。

 そのために、仲間を捨て石にする。

 魔導書の管理者権限を全て私に委譲して、私の呪術使いとしての階梯を強引に上げるという荒技。


 私はこれから、エスフェイルを倒すための『呪文』を構築しなくてはならない。

 それが、あの呪術使いの最後の遺志だったのだ。

 私は死者の思いに応えなくてはならない。

 そう決意を新たにしたその時。

 森に『心話』を使用した声が響き渡った。

 

『まずは一人だ。さあ、次に狩られたいのは誰だ?』

 

 

 

 

 俺がその場所に駆けつけたとき、既に狼は倒されていた。

 森にエスフェイルの声が響く直前、木が倒れるような大きな音が聞こえた。誰かがエスフェイルと遭遇し、戦闘に入ったのだと知って、俺はその方向に全力で走った。


 そこで見たのは、倒れた樹木の下敷きになった狼の姿。

 綿密に計算されたのだろう、一本ではなく二本、お互いに重ならないよう、それでいて逃げ場が無いように倒れて獲物を仕留めるように仕掛けられている。


 俺は、無言で狼のもとに近付いた。

 大質量に押しつぶされ、骨も内臓も大きなダメージを負っているのだろう、苦痛の声が暗い森に響いている。

 

「どうしてだ」


 俺は疑問の声を上げる。どうして。なぜこんなことになっている?

 ここで一体なにがあった?

 

「どうして、お前はそんなことになってるんだよ」


 弱々しい声が、狼の口からもれる。その命の火は今にも燃え尽きんばかりだ。

 木々をどけることは出来そうもない。根本から倒されているため、その重量は個人ではいかんともしがたい。

 

「なあ、どうしてなんだ」


 日本語などわかるはずもないが、それでも。

 狼の胴体に浮かんだカインの人面が、力ない笑顔を浮かべた。

 木の下敷きになったエスフェイルの体から、あの闇色の脚だけが消失している。


 狼の胴体からは甲冑の手足や胴の各部位がバラバラの方向に飛び出していて、肩に近い部分にカインの顔が浮き出している。地面に兜が落ちているので、顔が分からない、ということも無かった。


 本当に、これは何なのだろう。

 エスフェイルは「まずは一人」と言った。だからきっと誰かが犠牲になったのだ。それはわかる。そしてそれはきっとカインだったのだろう。それも、わかる。わかるとしか言えない。


 だが、なぜこんな、おぞましいことになっているのか、それがわからない。

 落ち着け、考えろ。きっとなにか俺の知らない魔法とか、呪術とかの力に決まっているのだ。

 想像だが、まずエスフェイルが最初に遭遇したのはカイン、これは間違いない。


 そしてカインはきっと、遭遇した時の事を考えて、即席の罠を仕掛けていたのだ。

 おそらく何か特殊な道具や技術があったのだろう、それで木を倒せるようにしておき、エスフェイルをおびき寄せて、下敷きにすることに成功した。


 きっとそうだ。あのカインが、自分で自分の仕掛けた罠にはまるとはちょっと思えない。短いつきあいだが、この世界で最も多く接した相手でもある。


 狼の脚が、俺の左手のように途中で消失している。

 エスフェイルは、自分の名前を『闇の脚』という意味だと言っていた。

 これはかなり突飛な発想になるが、奴の本体はあの脚なのではないだろうか。


 木に押しつぶされる直前に脚だけがその場を脱出し、何らかの魔法的な力でカインを胴体の中に押し込み、一体化させ、返り討ちにしたのだ。

 これは極めて恐ろしい想像だった。つまり不用意にあの狼の体に致命傷を与えようとすると、脚だけがその場から逃げ去って、それを与えた相手は自分が致命傷を受けてしまうのだ。


 迂闊に奴を攻撃することは自殺行為に等しい。

 もしかしたら、あの手品師の自爆攻撃が通用しなかったのもこのせいだろうか。


 この情報を知らないで奴に立ち向かうのは、危険すぎる。

 その意味で、それを教えてくれたカインの行動には価値があった。しかし。


 その代償が、あまりにも大きすぎる。

 弱く、小さく、カインの顔がつぶやきを繰り返す。

 俺はその言葉の意味を知っていた。他ならぬ、カインに教えてもらったのだ。


 いいか、戦闘中に危なくなったら、俺たちに向かってこう叫べ。

 

「助けてくれ」

 

 俺は。

 

「痛い」

 

 息が、ひどく苦しい。

 

「死にたくない」

 

 狼の体に浮かぶ人面が、悲痛に歪む。その切実さを、俺は良く知っていた。苦痛と恐怖と絶望の中で、必死に絞り出される叫び声。

 

「アキラ、俺たちの『鎧の腕』。その右手で、これをとってくれ」

 

 右手を、硬く握りしめる。

 

「頼む」

 

 俺の知る言葉、カインが俺に伝えてきた語彙の全てを使って、彼は俺に助けを求めていた。


 倒木は俺の全体重をもってしても動かすことはできそうにない。梃子の要領で木を持ち上げるとして、そのための道具が無い。

 

「苦しい」

 

 誰かの助けを求めるべきだろう。俺には無理でもアズーリアや、あの巨大な剣を持つ男の助けを得られればなんとかなるかもしれない。

 俺はその場を離れようとしたが、すがるような声に引き戻される。

 

「行かないでくれ、待ってくれ、俺は味方だ」

 

「分かってる、大丈夫だ、味方を呼んでくる!」

 

 かろうじて意味のある文章を作れた。しかし、カインの顔に浮かぶのは変わらない苦痛と恐怖、そして不安だ。

 断腸の思いでその場を去ろうとした俺の思考は、次の瞬間完全に凍り付いた。

 

「殺してやる」

 

「え?」

 

 耳を疑う。今、カインはなんと言った?

 

「腹が減った。喰いたい。殺す。お前を喰う。キールを喰う。テールを喰う。トッドを、マフスを、アズーリアを、喰う」

 

 カインと同化した狼の頭部が、低い唸り声を上げている。獰猛な眼光が俺を貫く。

 

「エスフェイル、エスフェイルは、味方。違う、敵、殺すのはエスフェイル、キール、アキラ、違う、違う、喰いたい、喰いたい、殺すのは――カイン」

 

 呆然と佇む俺の目の前で、カインの人面が絶叫していた。目を血走らせ、なにかを堪えるように、必死の形相で俺に告げる。

 

「殺してくれ。アキラ、俺を殺してくれ」

 

 涙を流しながら、振り絞るようにそう言った後は、俺を殺す、喰うと憎々しげに叫んだり、逆に痛い、死にたくない、助けてくれと嘆いたり、全く正反対のことを言い続ける。精神が不安定になっているのか、感情の揺れ幅がかなり大きいようだった。


 狼の頭部には、まだ意思がある。

 カインの意識は、この狼に乗っ取られようとしているのだろうか。

 そして不安をかき立てるのは、カインの意思を反映しているらしき痛い、助けて、というような言葉がどんどん少なくなり、逆に俺に敵意を向けるような言葉が多くなっていること。


 そして、狼の体に浮かび上がっているカインの人面や手足が、徐々に内部に埋まって消えていこうとしている。

 もし木をどけて彼を助けたとして、その後どうすればいい?


 こんな風になってしまったカインを助ける方法があるのだろうか?

 あるとして、その手段は利用可能なのか?

 確実に元に戻せるとしたらエスフェイル本人で、それにはまずアズーリアと合流して勝利しなくてはならない。


 駄目だ、そんな時間が残されているようには思えない。

 何をするべきなのか、何が最善なのか、俺は迷い続けた。

 行動すべきだ。


 アズーリアを探す、エスフェイルを倒してカインを助けさせる。それが最善に決まっている。

 だが、理性が囁いてしまう。


 もう手遅れだって、分かっているだろう?

 人が死ぬ瞬間を、お前は見てきたはずだ。

 この異世界で、多くの死体を見た。迷宮の道半ばで斃れた数多くの戦士達。


 だが、それを見て俺が取り乱すというようなことは無かった。

 元の世界でも、死はありふれていたからだ。

 多くの死の瞬間を見届けてきた。


 俺が殺した。

 だからわかる。カインは確実に死ぬ。

 今この瞬間に木をどかしても無駄だ。圧死するとは肉体を面で破壊されるということだ。


 治癒のシールでは回復が追いつかないだろう。

 助からないのなら、今ここで、意識が完全に狼のものになってしまう前に、止めを刺してやるべきではないのか。死ぬよりは意識が別のものに変質してしまうほうが先だろう。


 生きたまま怪物に作り替えられる恐怖とはどれほどのものだろうか。

 人間のまま死なせて――殺してやるのが情けではないのか。

 カインの顔は悲痛に歪んでいる。俺と話し、笑い、真剣に罠を探していたかつての面影はどこにもない。


 その人となりをちゃんと知っているとは言えない。だがその人間性が失われることを、俺は許して良いのか。

 カインは確かに、「殺してくれ」と俺に言ったのだ。


 死にたくない。助けてくれ。殺してくれ。

 これらの懇願は、彼の中で矛盾していない。

 死にたくないのも、助けて欲しいのも、生きたまま怪物になるくらいなら殺して欲しいというのも、全て自分を保ちたいという意思の表れだ。


 全てを叶えることは、俺にはできない。

 なら俺は。

 右手を、ゆっくりと持ち上げる。


 本当にいいか? 他に方法は無いか? 安易な考えに飛びついているだけではないか?

 短絡的な手段が自分にとって楽だから、困難を避けているだけじゃないのか?


 自問する。

 これは正答なのかどうか。その間にも時間は過ぎていく。

 多分これは、間違っている。


 最適解が、どこかにある。

 けどそれを知っているのも、思いついて実行できるのも、俺じゃない。

 

『神に祈りたくなる気分ってのは、こういう時になるものなんだねえ』

 

 あのひとの声が、頭の奥で響いた。

 尊敬する人。自らの力であらゆる困難を切り開いていける人。だからそんなことを言って欲しくなくて、あの時の俺はなんて言ったんだっけ?


 俺の言葉を聞いて、あの人は君らしいねと苦笑していたが。

 そうだ。俺はこう返したんだ。

 

「どうしようもない理不尽に直面したら、神に祈るより行動するべきです、か」

 

 呟きは日本語で、だからカインには理解できなかったはずだ。

 だが、俺の表情を見て、どこか安心したように、苦しみに引きつった顔に笑みを浮かべて見せた。


 俺は神に祈らない。

 ただ、愚かな行動を積み重ねる。


 ――介錯支援アプリ『ノーペイン』を起動。


 現代日本において、安楽死は社会的に人を殺すことを許可するという性質上、それを執り行う個人が責任やストレスで苦しむことがないように、複数人で同時に、誰がやったのかわからないように行われる。


 だがそれでも自らの行いに苦しんでしまうケースは多く、そういった人々のマインドセットの為のアプリがこの『ノーペイン』だ。

 精神的な痛みを消してくれる思想・情動管理型のアプリで、自責や罪悪感といった感情を抑制してくれる。


 自分の行為の正当性を保証し、思考を安心へと誘導する。

 利害の絡んだ殺人にも使用可能であり、暴力団や強盗殺人犯、なにより殺し屋が利用していたことから、情動管理型アプリケーションの洗脳効果について、社会問題にもなった曰く付きのアプリでもある。


 人間は、決断すら技術に預けてしまえる。

 拡張された現実の中で、戯画化された天使が微笑んだ。

 

『貴方は、正しいおこないをしているのです』

 

 右手を振りかぶる。

 俺の右腕の重量、硬度、そして十分な加速があれば、動かない相手を殺すことは、実は容易い。この義肢は、使い方によっては十分に凶器となり得る。人狼の頭部を潰した瞬間を、カインも見ていたはずだ。


 『ノーペイン』が俺の思考に干渉しているのを感じる。

 何度も何度も使ってきた、お馴染みのツール。

 仕事道具。


 これが無ければやっていけなかった。これが有ったからどうしようもなくなった。嫌になるほど起動して、使い終わる度にもう一つの情動管理アプリを立ち上げた。


 これは、決して『許された』行為だ。

 俺は『正しい』行為をしている。

 ためらいは無い。『ノーペイン』は完璧だ。俺は右腕を振り下ろした。

 拳がカインの顔に迫る寸前、それは聞こえた。

 

「ありが」

 

 骨と肉が潰れる音でかき消えたそれは、紛れもなく日本語の感謝の言葉だった。俺が彼から多くの言葉を受け取ったように。彼もまた、俺の言葉を受け取ってくれていたのだ。

 

『貴方は許されています。貴方は許されています。貴方は許されています。貴方は』

 

 何度も繰り返してきた事だ。

 殺し屋は犯罪者だが、苦痛に満ちた現代社会から希望に満ちた来世へと送ってくれる相手のことを、依頼者は邪険に扱ったりしない。


 自分を殺そうとしている相手に、信頼と感謝の言葉を贈る。

 殺してくれてありがとう。

 これで、苦しみから解放される。

 来世で幸せになれる。


 ――けれど、それはひどく歪だ。

 それは果たして『殺し』と呼べるのか。


 望まれてある殺人などでは無く、不条理で無造作な死。殺される相手は俺を憎み、絶命の瞬間には苦しむ。怨嗟と呪詛を吐き出し、無慈悲な運命を嘆き、絶望する。死とは、殺人とはそうあるべきだ。決して殺人者に感謝などしてはならない。そうであるなら、与えられるべき罰は、殺人者の邪悪さは、一体どこに行けばいい?


 誰もが俺にありがとうと言う。

 人殺しの俺を、来世へと導いてくれる天使か何かのように優しい瞳で見つめてくる。


 生きていくのが息苦しいと、ずっと感じていた。

 転生してあの苦役からは解放されたと思っていた。その安心が、少しだけ間違っていたというだけのこと。


 慣れたものじゃないか。

 これは俺にとって日常的な行為でしかない。

 依頼者の人となりを知ってしまうという最大のタブーを、知らずに冒してしまったけれど。


 視界を、脳内を、大量の言葉が埋め尽くす。

 カインが教えてくれた、体の部位、道具、ごく基本的な動詞、人間同士の関係を示す表現、人称代名詞、味方、仲間、助ける、コイン、「お前にやるよ」、貴方は許されています。


 その全てを、夥しい数の『許し』が上書きしていく。

 この手で一つの人格を終わらせたという圧倒的快楽。

 殺しは楽しい。感情はそのように調整される。


 殺し屋は殺人鬼がやるべき仕事だ。

 たとえ生まれついてのシリアルキラーでなくても、技術は感情を制御して、殺人鬼を生み出せる。


 俺は、殺人鬼でありたい。

 そもそも俺は、それこそを望んでいた筈ではなかったか。戦いと競い合いの果ての殺人ではない? 命をベットしての駆け引きが無い? 些細な問題だ。だって今の俺は幸福だ。味方殺しと敵を打ち倒すことの間には『全く違いが無い』。


 俺は『正しい』。

 だから、『何も感じない』し『気分が高揚すらしている』。

 心を満たす充実感の裏側で、『鎧の腕』という言葉が俺を震えさせる。


 俺は。

 『ノーペイン』を、停止させた。

 着信を示すジングルが鳴り響いている。


 もう何度目になるかもわからない、元世界からの通信だ。

 ためらわずに通話に出る。

 

「人を殺したんだ。俺は人殺しだ。俺は犯罪者なんだ」

 

『お客様? 落ち着いてください、異世界における殺人は、その世界にもよりますが、基本的には当該世界の法律で』

 

「そうじゃない、いいか、俺はこの世界だけじゃない、元の世界でも、生前にも人を殺しているんだよ! 俺は人殺しだ、この世界に来ても何も変わってない! 死んでも馬鹿は治らなかったよ!」

 

 そうして俺は、致命的な言葉を、口にしてしまった。

 

 

 


次へ >>目次  更新