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【ぼくらのアルコール戦争(中編)】

 群青の夜空には銀の砂を散りばめたような星が煌めき、ふんわりと丸い月が雲の合間から見え隠れする。

 足を止めてうっとりと見上げたくなるような美しい夜空だが、黒ずくめの服に身を包んだルイスは夜空になど目もくれず、真っ直ぐにミネルヴァの校舎へ向かった。

 風の無い静かな夜は、校舎に忍び込もうとしているルイスには少々都合が悪い。どうせなら少し風が強いぐらいの方が足音を隠せて良いのにと密かに思いつつ、ルイスは校門の前で足を止める。

 当然だが校門には鍵がかかっていた。よじ登れない高さではないが、門の上部は侵入者対策で槍状に尖っている。おまけに刺さったら簡単には抜けない「かえし」付きだ。

 ルイスは短い髪に留めていたピンを外すと、最近覚えたばかりの短縮詠唱で小さな火を起こした。そうして火の明かりを頼りに、錠前の鍵穴にピンを突っ込む。

 小さな火は鍵穴の奥まで照らしてはくれないが、こういうのは指先の感覚で案外どうにでもなるものだ。

 数分ほど鍵穴と向き合っていると、やがてカチリと音を立てて錠は外れた。

 ちょろいちょろいとニンマリ笑い、ルイスは門を細く開けて中に滑りこむ。

 さて問題はここからだ。一階は見回りの教師が徘徊していることは確認済み。

 ならば、壁をよじ登って窓から侵入するのが手っ取り早い。幸い、お目当ての部屋──三階にあるギディオン・ラザフォード教授の研究室は窓が開いている。

 あの老教授は煙管を愛用しているので、換気のために窓を開けっぱなしにしていることが多いのだ。

 ルイスは手近な木によじ登ると、そこから枝をつたって二階バルコニーの装飾にしがみついた。飛び移った時に、腰にぶら下げた瓶がカチャカチャと音を立てる。

(……ちっ、瓶を布で包んどくんだったな)

 没収された酒瓶と同じ瓶には、下剤入りの水が詰めてある。これを没収された酒瓶とすり替えるのが目的なのだ。途中で割ってしまう訳にはいかない。

 今、ルイスはバルコニーに両手で掴まり、ぶら下がっている状態だ。

 できれば体を大きく振って、反動でよじ登りたいところだが、体を大きく振ると、瓶が割れてしまう。だから、ルイスは腕の力だけで慎重にバルコニーをよじ登った。

 ルイスは細身の少年だが、腕力や握力で大人に負けたことがない。

 上級生に喧嘩を売られたルイスが、相手の顔面を鷲掴んで窓から放り投げた事件は、ミネルヴァで知らない者はいないほど有名である。

(こういう時、飛行魔術があるといいんだがな)

 飛行魔術は非常に便利だが、繊細な魔力操作技術とバランス感覚が必要なので、ミネルヴァの上級生でも使える者はそう多くない。

 だが、絶対に在学中に会得しようとルイスは心に決めていた。

 空を飛べれば、自分を見下す連中を高いところから見下ろせるのだ。爽快に決まっている。

 教室を抜け出して、退屈な式典をサボる時にも良さそうだ。その時は優等生のロザリーとライオネルを巻き込んで、一緒に空でサボりをするのも悪くない。

(……いや、やっぱライオネルは無しだな。野郎の巨体を抱えて、空飛ぶ趣味はねぇし)

 そんなことを考えながら壁をよじ登っていると、ふと頭上で声が聞こえた。

 ルイスは今、目的地であるラザフォードの研究室の真下にいる。声はその研究室から聞こえてくるのだ。

(嘘だろ、この時間、あのジジイは別室にいるはず……)

 動揺するルイスの頭に、ロザリーの言葉がよぎった。


 ──精々痛い目にあうといいわ。ミネルヴァの悪童さん。


(ロザリーのやつ……ラザフォードのジジイが研究室にいるって、知ってたな)

 ロザリーは、ルイスの悪巧みをラザフォード教授に告げ口してはいないのだろう。

 それでいて、ラザフォードが研究室にいることをルイスに黙っていた。

 ルイスを恐れるでもなく、肩を持つわけでもなく、淡々と一定の距離を保ち続ける……ロザリー・ヴェルデはそういう人間だ。

 ミネルヴァの悪童と呼ばれ、学園中から恐れられているルイス・ミラーにそんな態度を貫ける人間なんて、ロザリーぐらいのものだろう。

(あぁ、まったく……ほんっと、たいした女だな!)

 さてどうしたものかと、ルイスは壁にしがみついたまま聞き耳を立てる。

 どうやら研究室内ではラザフォード教授と、実践魔術担当のマクレガン教授の二人が話しこんでいるらしい。


「……あれ、そのお酒どうしたの? チミ、下戸でしょ?」

「クソガキから没収した」

「ふぅん、捨てないんだ?」

「あいつが素直に反省文を提出したら、返してやらんでもない」


 どこかとぼけた喋り方の老人がマクレガン。

 偏屈さと頑固さを隠そうともしない方がラザフォードだ。

 二人のやりとりを聞いたルイスは、誰が反省文なんて書くかよクソジジイ、と声に出さず悪態をついた。

(しかし、まいったな……ジジイとジジイが同じ空間にいたら、クソほど話が長くなるって相場が決まってる)

 一度出直すべきだろうか? だが、それだとロザリーに「徒労だったわね」と言われるのが目に見えている。

 ルイスは取り返した酒瓶をロザリーに見せびらかして「楽勝だったぜ」とふんぞり返りたいのだ。

 さっさと立ち去れジジイども……と、ルイスは壁にしがみついたまま念を送る。

 耳をすませば、ラザフォードがふぅっと息を吐く音が聞こえた。おおかた煙管でも吸っているのだろう。窓の外に甘い香りの煙が流れてくる。

「まったく、面倒なクソガキで嫌になるぜ」

「チミ、ミラー君に甘いよネ」

「あぁ? ボケたか、マクレガン」

 ルイスも概ねラザフォードに同意見である。

 少なくとも入学してから今日に至るまで、ルイスは堅物ジジイのギディオン・ラザフォードに散々いびられてきたのだ。

 人の後頭部を煙管でどつくジジイの、どこが甘いというのか。

 ルイスが鼻の頭に皺を寄せている間も、二人の老教授の会話は続く。

「でも、目にかけてるデショ?」

「…………確かにあいつは傑物だ。いずれ、歴史に名を残す魔術師になるだろうよ」

 ラザフォードの苦々しげな呟きに、ルイスはうっかり壁から滑り落ちそうになった。

 まじかよジジイ。どうしたジジイ。血迷ったか? 明日死ぬのか? ──と、ルイスは失礼極まりないことを胸の内で呟く。

 語る間も、ラザフォードは煙管を吸い続けているのだろう。紫煙が窓の外に流れて、夜の闇に溶けるように消えていく。

 やがてラザフォードは、噛み締めるような口調で「だがな」と言葉の続きを口にした。


「あいつは周りの人間の好意に、あまりにも無頓着すぎる」


 壁を掴むルイスの指が、ピクリと震える。

 ミネルヴァに来てこの方、他人に親切にされたことなんてねぇよ……と、入学当初のルイスなら言いきれただろう。

 だが、今のルイスは頭の中に思い浮かべてしまった。ロザリーとライオネルの姿を。

「ルイスは他人の悪意には恐ろしく敏感だが、好意に気づかない。あいつが問題起こすたびに、ライオネル殿下とロザリーが、こっそり俺んところに事情を説明しに来てることも、あいつは気づいてないんだろ」

(……なんだそれ)

 ルイスは歯噛みした。

 ライオネルとロザリーが裏で事情を説明してたなんて、ルイスは知らない。知らなかった。

 当然だ。だってあの二人は、そんなことルイスには一言も言わなかった。

 ……無茶はやめろ、少しは落ち着け、と口うるさく言うばかりで。


「他人の好意を蔑ろにする人間は、上には行けねぇよ。いずれ孤立する」


 ルイスは自分の才能と能力に自信を持っている。

 だからこそ弱い物同士で群れたり、強者に媚びを売ったりする連中を見下してきた。

 俺はお前達とは違う。群れなくても、媚びなくとも、一人で生きていけるのだと。

 それなのに、ラザフォードの言葉がグサリと胸に刺さったのは何故だろう。

 その理由を自身の胸に問いかけていると、不意に鼻がムズムズした。


「はくしゅっ! ………………………………あ」


 鼻を啜ったルイスは、ゆっくりと視線を上に向けた。

 見上げた窓に肘をつき、煙管を燻らせているのは、年の割には鋭すぎる眼光の、極太眉毛の性悪ジジイ──ギディオン・ラザフォード。

 ラザフォードは煙管を咥えた唇の片端をニヤリと持ち上げた。


「よぅ、クソガキ。良い夜だな」


 今になって、ルイスは自分の体の異変に気がついた。どういうわけか、酷く鼻がムズムズする。

 ギディオン・ラザフォードの二つ名は〈紫煙の魔術師〉

 彼は己の煙管から吐いた煙に、麻痺や睡眠などの効果を付与する、稀有な魔術の使い手である。

 おそらく、先ほどからふかしていた煙管の煙に、クシャミを誘発する効果を付与していたのだろう。

 更に面倒なことに、この特殊効果を付与された紫煙、どういうわけか防御結界をすり抜けるのだ。

 防御結界は魔法攻撃や物理攻撃を弾くことができるが、空気を完全に遮断してしまっては呼吸ができなくなってしまう。だから、大抵の防御術式は空気を通せるようにできている。

 そして、ギディオンの紫煙は空気に溶け込んで、防御結界をすり抜けてくるのだ。

 紫煙を防ぐためには専用の特殊な防御術式が必要なのだが、その術式をルイスはまだ開発できずにいた。

 壁にしがみついたルイスは、クシュンクシュンとクシャミを繰り返しながら、涙目でラザフォードを睨む。

「ジジイ……てめっ……くしゅんっ! ……気づいてやがったな!? ……はくしゅっ!」

 クシャミをしながら悪態をつくルイスに、ギディオンは呆れの目を向けた。

「女みてぇなクシャミだな、お前」

「今すぐその老体を棺桶に叩き込んで、教会に直送してやる……っ……くしゅんっ! ………………げっ!?」

 クシャミをした拍子にバランスを崩したルイスは、咄嗟に壁の窪みに右手をかけた。

 だが、片手で己の体を支え続けるのは、流石に無理がある。

 ラザフォードはニヤニヤ笑いながら、美味そうに煙管を吸った。

「『ラザフォード先生、ごめんなさい』って素直に謝れば、反省文三十枚で手を打ってやるぜ」

「誰が言うか! ……っくしゅっ!」

 頭の血管がちぎれそうなほど怒り狂いつつ、ルイスはこの場を打開する方法を考えた。

 ルイスは飛行魔術は使えないが、風の魔術ならある程度使える。ならば、この場を飛び降りて着地の瞬間に風を起こしてダメージを相殺すればいい。

 ……だが、ルイスの詠唱はクシャミで呆気なく途切れてしまった。

 もう一回、と詠唱を繰り返すが、やはりクシャミで詠唱が続けられない。

「ジジイ……このやろ……くちゅんっ!」

「悪態ついても『くちゅんっ』なんて、可愛いクシャミをしてるようじゃあ、迫力に欠けるぜ、悪童」

 ラザフォードは手の中で煙管をクルリと回すと、プカリ、プカリと煙を燻らせる。



 ルイスは驚異的な握力と意地と執念で、片手で壁にぶら下がり続けた。だが一時間後、力尽きて地面に落下。

 ボロボロになって痙攣していたところをラザフォード老人に引きずられ、椅子に縛りつけられて、徹夜で反省文百枚を書くはめになるのだった。

ルイスが書いた反省文は、後にとある少年が起こした事件で研究室ごと爆破されました。

その報せを聞いたルイスは、拳を突き上げ、喝采をあげたそうです。

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