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6 烏道士は皇帝の寝所に侍りたい

◇◆

 本来、内廷の深奥にある皇帝の寝宮は、立ち入り禁止だ。

 後継を生み出す為の後宮とは違う。

 神にも等しい皇帝の聖なる寝所に、余人が入ることは出来ないのが掟だった。

 本来であれば、晨玲も掟を遵守する立場だ。

 理由があるから、そういう規則が出来たのだ。それを覆して、強行すれば、歪が生じてしまう。

 ……けれど。

 皇帝の寝所が立ち入り禁止になった理由は分かっている。

 過去の皇帝が至る場所に、女性を連れ込み、淫蕩に溺れて、政務を怠った為だ。


(それ以前は、大丈夫だったんだから、今回のことだって、大目に見て貰えるはず)


 他でもない、霄風が「晨玲が寝所に侍ること」を許可したのだ。


「あの……陛下。私、説明不足だった感が否めないのですが、先程の説明で、お分かり頂けましたか?」


 ようやく寝所で落ち着いたところで、晨玲は恐る恐る尋ねてみた。

 だが、心配するまでもなく、霄風は普通で……。

 むしろ、はしゃいでいるようにも見えた。


「勿論だよ。晨玲、君は凄いな。神画の鑑定まで出来るんだね。あの神画が盛んに描かれた時代、使用している絵の具が、今では余り使用しない、此丹(したん)石を砕いたもので、有毒な成分が含まれているんでしょう?」

「ええ。そうなんです。当時は騒ぎになったらしく、多くの神画家が命を落としたと聞きました。あの神画は、祀る場所に要注意なんです」


 神画鑑賞をしていると、画材や歴史に詳しくなる。

 此丹石は、神画好きにとっては有名な鉱石だった。


「君は夕李の死因は、病ではないと?」

「今となっては分かりません。ですが、徐々に御身体が弱っていったのは、事実。此丹石の粉末は、精神にも影響を与えるというので、朱瑛様もおそらく……」

「成程。それで、君は裏があると思って、直接、夕李と対峙するべく、私の寝所に来たんだね?」

「ええ。文淑妃様の御魂は、陛下が眠る時でないと出て来ないようなので。それに、お妃様の性格も何となく分かりましたし、今の私と陛下の関係なら、或いは……と思い」

「それ、どういう意味?」

「つまり……」


 言えない。

 「浄霊するにしても、今までは信頼関係がなさすぎた」なんて。

 晨玲は逡巡の挙句、すべてをすっ飛ばして結論だけ述べた。


「私には、疾しい気持ちは一切なく、陛下にも、きっと信じて頂けているということです」

「はっ?」

「断じて、陛下の御寝所を、見学したいという下心など、ないのです」

「正直だよね、君」


 霄風が寝台の上で胡坐を掻いたまま、屈託なく笑った。


(気まずい)


 下ろし髪に、寝間着姿の皇帝という、多分、残りの生涯かけても、お目に掛かれないだろう、寛いだ御姿を前に、晨玲の緊張感は膨れ上がっていた。


(私、早まった?)


 また勢いで、事を進めてしまった。

 晨玲は霄風から離れた場所で、小さく正座をしていた。

 未泉は廊下で待機をしているが、今、この空間は完全に二人きりなのだ。


(何だか陛下の寝所、狭いし)


 もう少し、広かったら、こんなに意識せずに済んだだろうに……。

 霄風の寝室は、明蘭の仁霞殿の一室より狭かった。

 多分、皇帝の寝牀が巨大すぎるからだろう。

 外国から伝わったとされる天蓋付きの寝台。

 柱の龍の意匠と、枕辺の聖地な鳳凰の彫刻は見るからに、芸術的価値が高そうだった。

 仄暗い、燭台の灯の下ではなく、出来ることなら、昼間見たかった。

 ……いやいや。

 下心はないと、霄風に宣言したばかりではないか……。


「そういうことなので、普段の怨霊除けとは逆に、文淑妃……夕李様の御魂が来訪しやすい、場を作りました。霊は常の条件を好むということなので、陛下には、是非お休みになって頂きたく……」

「しかし、寝ろと言われて、眠れるほど、私も寝つきは良くないしね」

「では、眠ったふりで、構いませんので。ひとまず……」

「君との貴重な時間を寝て過ごすのは、勿体ないよ」

「まったく、勿体なくないです」


 困った。

 霄風が、駄々を捏ねているようにしか思えなくなってしまった。


「陛下。私、とても気になっていたのですが、この機に訊いても宜しいですか?」

「どうぞ」

「陛下は、あまり浄霊に積極的ではないですよね?」


(ああ、訊いてしまった)


 けれど、晨玲は霄風の真意を、明らかにしておきたかったのだ。

 予想通り、霄風はあっさり首肯した。


「そうだね。別に、祓うまでもないかなって」

「どうしてですか?」

「私は死神皇帝の異名通り、今まで、大勢の人を手に掛けてきた。それなのに、殺した相手は化けて来ないで、一回会った程度の妃が私の首を絞めにやって来る。……なかなか、面白いじゃないか」

「それは、おそらく、お妃様が特別で、何らかの要因が発動しているせいかと」

「まあ、仮に呪いというものがあって、夕李の霊が利用されているとしても、それに殺されるとしたら、私の悪運もそこまでということではないか……とか」


(何。それ?)


 どこまで、悲観的なのだろう。

 未泉と良い勝負ではないか?


「駄目ですよ。そんなこと仰ったら、明蘭様が悲しみます」

「君はアレを見て、分からない? 彼女と私は兄弟みたいなもの。私がヘマをしたら、嘲笑されるだけさ」

「そうでしょうか?」


 とても、仲良さそうに見えたのだが……。

 けれど、霄風は眉間に皺を寄せて頭を横に振り続けている。心底嫌そうだった。


「君に誤解されたくないから、言っておくけど、明蘭の想い人は、私の弟なんだよ」

「えっ? 今、地方にいらっしゃる……弟君?」

「巷では、私が半殺しにしたとか、言われているらしいけど」


 死神陛下の逆鱗に触れて、地方に左遷されたと言われている皇子。

 殺されなかっただけマシだと、皆が噂していた。


(真実は、違っていたのね)


「便宜上は、弟を左遷したということにしている。何より、皇太后が死んだ兄と瓜二つの弟を溺愛していてね。このまま私の傍に居続けたら、おかしな勢力に担ぎ出されるだろうって心配して、地方に飛ばしたんだ。もう少し都が落ち着いたら、呼び戻すつもりでいる」

「……私、思ったのですけど」

「何?」

「もしや、陛下は、いずれ皇位を弟君に譲ろうとお考えになっている……とかじゃないですよね? だから、後宮にも、無関心で?」

「………」

「あっ」


 瞬間、霄風の眉が吊りあがったので、晨玲は人生の終わりを感じ取っていた。


(ああ、さっき大丈夫だったから、今度もイケるだろうって、甘い考えだった)


 ――殺られる。


 自分に対する葬礼のつもりで、両手を合わせたら、怪訝な表情の霄風に見咎められた。


「晨玲。間違っても、私は君を処刑なんてしないからね」

「失礼しました。私、調子に乗って踏込みすぎました」

「いいよ。まだ、どうなるか分からないし、それが事実でも、君は言い触らさないだろうから」

「当然ですよ」


 晨玲が断言すると、霄風はまた声を上げて笑った。


(ああ、どうして)


 この人が笑ってくれると、晨玲は嬉しいのだ。

 それは、皇帝だからという訳ではなくて……。

 やはり、天女様のような御顔をしているからなのだろうか?


「陛下。先日、私が話したこと覚えていますか?」

「えっ?」

「たとえ、他人から罵られたり、殺されそうになって、呪われたりしても、自分なりに、こつこつやっていれば、必ず道は開ける。私も未熟ですが、長くやっていけば、大勢の人に認めてもらえる日が来ると……信じて……信じたいです。だって、それしかないんですから」

「晨玲?」

「万民が陛下の治世で良かったと、心の底からひれ伏す日が訪れるはずですよ」

「何? 私、君に励まされているのかな?」

「いや、そこまで、私は何も考えていませんけど」

「だろうね。実に君らしい。でも、私は励まされたよ。有難う、晨玲。悔しいけど、明蘭が君を推挙してくれて良かったと思う」


 そう言って、霄風は懐から、ぼろぼろの四角い小さな巾着を取り出した。


「えっ? 嘘!?」


 思いがけない事態に、晨玲は不敬と知りつつ、寝台にいる霄風のもとに、走り寄ってしまった。


「私が作った……御守り」


 奇跡? 因縁? こんな現実があって良いのか?

 廃棄寸前の古布を繋ぎ合わせて、家計のために大量生産した「それ」を、この国で一番偉い人が持っている。

 神降ろしの儀もしたし、御守りとしての体裁は為しているが、だからといって、皇帝に渡るように作ったものではなかった。


「晨玲はずっと疑問だったでしょう。何で自分が今回の件で推挙されたのかって。理由はこれ。私が地方にいた頃、争いがあってね、私を庇って死んだ者が首からぶら下げていたんだよ。これを……」

「それって「御守り」になっていませんよね?」


 守るためのものなのに、持ち主が死んでしまっては意味がない。

 だが、霄風は御守りの中身に入っていた神体を取り出して、晨玲に披露した。


「良縁成就」


 蚯蚓が走る様な頼りない字で書かれている。

 文字を覚えたばかりの晨玲が書いたもので、相違なかった。


「良縁守りだからね。身体を守るのに特化していなかったのかもしれないし、あの者も、長く持ち歩いていたらしいから。御守りの有効期間が過ぎていたのかもしれない」

「一応、効果は一年を謳っていますし、その字からして、私が子供の頃、作った物でしょうから、効力も消えていたかもしれませんが、何か複雑な心境です」

「まあ、でも、結果的に私は救われたんだ。これを作った君を、明蘭が後宮に招きたいと言い出した時、私は抵抗したけれど、でも、君は初めて話した時、どんな存在にもあの世という「救い」はあるのだと言った。私はその言葉にも、救われたんだ」

「陛下」


 じんと、心の奥が震えた。

 救われたと、感謝してくれているということは、刹那的な考えを改めてくれるということか?

 それなら、良かった。本当に……。

 ――だから。


「有難うございます。でも、陛下。近過ぎます」

「バレたか」


 霄風が舌打ちしたのは、晨玲をからかっているからだ。


(こういうところ、陛下は悪趣味なのよね)


 もう少しで、顔と顔がくっつきそうだった。


「話し過ぎてしまいました。こんな状態では、お妃様が出て来られません。どうか、陛下は私に構わず、早くお休みに……」

「いっそのこと、二人で寝る? そしたら、夕李も驚いて出て来るかもしれない……なんて」


 霄風は、ぽつり呟いてから、直ぐ様、自分で言葉を打ち消した。


「いや、そんなはずないよね。妃にも君にも失礼な物言いだった。申し訳ない」


 爽やかな謝罪をして、綺麗に流そうとしている。……けど。


(そうよね)


 その一言が、晨玲に火をつけた。


(お妃様を誘き寄せるには、むしろ、刺激があった方が良いかも?)


 晨玲という異物に、夕李が警戒しているのなら、いっそ、非日常的な光景を盛り立てた方が、姿も現しやすいかもしれない。

 ――夕李を煽るのだ。


「陛下。それ、良いかもしれません。是非、御一緒させて下さい」

「はっ?」


 目を白黒させながら、石のように硬直してしまった霄風を置き去りにして、晨玲は「失礼します」と、寝台に乗った。


「あれ? ご就寝なさらないのですか?」

「目が冴えすぎて、どうしようと思っているところだよ」

「それは、困りましたね」


 ――刺激。

 駄目だ。この程度では。

 晨玲が何をしたら、夕李の霊が出てきてくれるだろう?


「……でしたら、ご無礼かとは思いますが、暫し我慢を」


 晨玲は中腰になると、突如、霄風に飛びかかった。


「うわっ」

「さあ、文淑妃……夕李様! 早く現れて下さい。さもないと、陛下が私に、とんでもないことをされてしまいますよ!」


 霄風から漂う、ふわりと良い香りに、酩酊しそうになってしまったが、変に意識をしてはいけない。これは仕事なのだ。


「ここまでしても、駄目……か」


 晨玲は周囲の様子を慎重に窺うが、一切変化がなかった。


「手強いですね」

「ねえ、晨玲、とんでもないことって?」

「そうですね。陛下からも、私を抱きしめて下さい。こう、ぎゅっーと……です」

「ぎゅっー……と?」

「ぐわっ」


 突然、力強く抱きしめられて、晨玲は目を回した。

 男性の力を侮っていた。これでは痛いくらいだ。


「ま、待って下さい。苦し……。もう少しお手柔らかに」

「酷いな。煽るだけ煽って、それはないよね?」


 一体、霄風は何を言っているのだろう。

 意味が分からないまま、晨玲は霄風から首筋から耳を撫でられ、流れるように、寝台へと押し倒されてしまった。


「何をされているのです? 陛下」

「君が私と、とんでもないことをするって、宣言したんじゃないか?」


 晨玲の髪を一房取って、霄風が艶っぽく微笑む。

 とんでもない色気だ。

 だけど、違う。

 今、そんなものに見惚れている暇はないのだ。


「それどころじゃないんです。陛下。感じませんか? 多分、後ろです」

「後ろ?」

「晨玲、来たぞ!」

「なっ?」


 霄風が振り返るのと、未泉が衛兵と共に、飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。


「……夕李」


 霄風が目を剥いている。

 夕李の姿が、しっかり霄風には視えているのだ。

 やはり、神の血を引く皇帝。元々、霊感が強いのだ。


「文淑妃……夕李様。どうか、話して下さい。今、この瞬間に陛下を盗られたと、私を恨んだのなら、それても良いのです。貴方の気持ちを、私にぶつけて下さい!」


 晨玲は懐から数珠を取り出して、彼女のいる方向に突き出した。


『……るしい。ここから……出して!』


 晨玲がその姿を視ることは出来なかったが、確かに、若い女性の啜り泣く声と、そんな言葉が聞こえたような気がした。

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