第九十二話
「――もっと涼しいほうがいいかしら?」
冷気を着ているような涼しさに顔を上げれば、風で踊った深緑の髪が頬をくすぐる。同時にラファールの声が頭に響くのでなく、空気を震わせ耳に届いた。
フィア同様誰の目にも映り、触れることのできる実体を持ったラファールは人外な美貌と宙に浮いているところさえ目を瞑れば人と何らかわりない。
セルリー様曰く、精霊とはその精霊が司る属性の力が凝縮したものだそうで。
だから精霊は気付けばそこにあり、いつの間にか消えていく。力の塊である彼等が力のたまる場所を好むのは当然で、だから水属性ならば滝などの水場、火属性ならば火山などに精霊達は集まるのではないか。
そう考えたセルリー様は、魔石が石を媒体に魔力をその場にとどめるように、精霊達も器があれば誰の目にも見えるようになるのではないかと思ったそうだ。
そして試行錯誤した結果がフィアと目の前のラファールである。
目に見えないはずの精霊に、己の血と魔力でつくった器を与えたのだ。血と魔力を使っているのは契約者と精霊の間には繋がりができる為馴染みやすいとの理由だけ。別にラファールという力を受け止めるだけの強度があれば何でもよく、理論上は魔石でも神樹でも可能らしい。
しかし彼等の力を受け止めることができる巨大な魔石、しかも魔力を使い果たした空の状態の物や神樹がみつかることは滅多にないので、魔力と血が一番現実的である。
何故精霊に体を与えてみようという考えに至ったのかは知らないが、この器づくりはいい修行になったとだけいっておこう。
ラファールの器づくりは、俺の魔力量をもってしても一か月近くかかったのだ。長期間魔力を限界まで使い続けていた所為か、魔力の総量も増えた気がする。
そして魔力が空になってから始まる戦闘訓練。
例の巨大スライムから始まり、セルリー様がつくったゴーレム兵などなど。
何度セルリー様にエスパーダを向けそうになる己を律したことか。
魔力も体力も限界まで削られていたことが不幸中の幸いである。
――濃かったな。
入学式での『ああ、でも覚悟は済ませてから来てくださいね? 生半可な覚悟で聞きに来て苦労するのは貴方達ですよ』との言葉に嘘はなかったといえよう。
セルリー様と過ごした一ヶ月間を振り返り、そんなことを考えながらラファールを見れば、彼女は生徒達の視線を独り占めしていた。普段気配しか感じ取れない精霊の姿を見ることができるというのが珍しいのだろう。
だというのに、とうの彼女は自身に集まる視線など気にとめず、俺と目が合うと嬉しそうに側に寄ってくる。流石精霊、自由だ。
「もっと涼しくしなくて大丈夫? 愛しい子」
「――いや、大丈夫。というかこれはこういう授業なんだ。折角気遣ってくれたのに悪いが、君の力は借りられない。解いてくれ」
「そうなの?」
「ああ。気遣ってくれてありがとう」
俺の顔をのぞき込み、さらに気温を下げるか聞いてきたラファールに断りの言葉を告げる。
俺を気遣ったのか周囲の気温を調節してくれたラファールには悪いが、一人だけ快適に過ごすのもどうかと思ったからだ。頼めばラファールは全員に同様の風魔法を施してくれるだろうが、極寒地や砂漠ならまだしもこの程度の暑さなら耐えた方がいい。常に快適な状態で戦えることなど滅多にないし、この程度でまいる騎士など話にならないだろう。
しかしラファールの場合、俺に対する好意故の気遣いなのでお礼はきちんと告げておく。
「いいのよ。私がやりたくてやっているのだから気にしないで? 人の子には色々あると知っているもの。ほらちゃんとお水も飲んで? 沢山汲んできたの――何かあったらいってね、愛しい子。疲れたのなら私が王都まで運んであげるから!」
「ありがとう……もしもの時は頼む。残りの水は他の者達に配ってくれ」
「貴方がそう望むのなら」
人を理解しているのかいないのかよくわからない言葉を告げながら、ラファールは俺の言葉に破顔した。そして俺の汗を拭った後、何処から汲んできたらしい水が差し出される。
ラファールから受け取った水は何故か俺の手を濡らすことなく球状を保ったまま手の上に在る。口をつければコップの水を飲むように飲める水は、冷たく美味しい。どういった仕組みの魔法なのかわからないが、便利といえば便利な魔法である。
後で暇な時にラファールに聞きながら再現可能か試してみよう。
折角ラファールがいるのだ。彼女が使う風魔法を真似てみて、新たなスキルが得られればもうけものである。
美しい精霊から水を手渡され恐縮するナディとレオーネと後輩達の姿を横目に、そんなことを考えながら俺は手にあった水を飲み干した。
そしてなんとなく、先ほどから静かなバラドに目を向ける。
「飲まないのか?」
「いただきますが……」
眉間にしわを寄せ、水を眺めるどころか睨み付けているバラドに首を傾げながら、そう問いかける。
何やら訳知り顔のルツェが達が苦笑いを浮かべているが、俺にはバラドが何に不満を抱いているのか、何故ラファールが渡した水を親の仇のごとく睨むのかさっぱりわからなかった。
「……ラファールが俺を害することはないから、安全な水だぞ?」
「承知しておりますとも!」
バラドの心情を察しきれずそう告げた言葉にそう叫び、ガバッと顔を上げたバラドに思わず肩が跳ねる。
赤い顔でプルプルと手を震わせるバラドは、何故か涙目であった。
「ば、バラド?」
「何故、何故ですかドイル様!? 精霊魔法には陣を描くものや、貢物を用意する手法もあるではございませんか! 一体何処に精霊様を実体化させる必要があったのです!? 実体がなくとも精霊様は十二分にお強いでしょう? 気配察知だって、風精霊様の方がずっと正確です! バラドにはドイル様の身の回りのお世話以外、自信をもってお役にたてる場所はございませんのに、それを奪われてしまわれたらバラドがお側にいる理由がなくってしまいますっ! それともドイル様はもうバラドなど必要ないと、そう仰るのですか!?」
……そうきたか。
名を呼べば、堰を切ったように叫びだしたバラドの言い分に、どうしたものかと心の中で頭を抱える。同時にルツェ達から向けられた生暖かい視線に「勘弁してくれ!」と思った俺は悪くないだろう。
修行の一環でラファールに実体を与えて以来、俺や物に触れられるのが楽しいのか彼女は周囲を飛び回ってはあれこれ世話を焼いてくれていた。
フィアも初めはそうであったとセルリー様もいっていたし、その内飽きるだろうと放っておいたのだがその所為でバラド的には大変面白くない状況だったようだ。
まぁ、バラドは俺の世話を生きがいにしている節があるので、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。きっと俺が気付かなかっただけで、ルツェ達が察するくらいには世話を焼くラファールを見て、バラドは苦い表情を浮かべていたのだろう。
気が付いてやれなかった俺の落ち度である。
しかしな、ルツェ、ジェフ、ソルシエ。
知っていたのなら、是非バラドが限界を迎える前に教えてほしかった!
穏やかな表情で俺達を見守っているルツェと、「相変わらずドイル様は愛されてるよな」「……バラド様はドイル様命だから」といった会話をコソコソ交わしているジェフとソルシエに心の中でそう叫ぶ。
誰でもいいからちょっと助けてくれと視線を送るが、三人がそんな俺の視線に気付くよりも早く、ブランにアマロを寄せたバラドが口を開く。
「ドイル様のお目覚めに合わせ窓かけをお開けするのも! お声掛けするのも! 汗を拭う布を手渡すのも! ドイル様のお加減を察しお水を差し出すのも! ドイル様のお世話はすべて私の御役目ですのに、最近では精霊様がおやりになられてしまわれるっ――バラドは、バラドは今後どのようにドイル様のお役にたてばよろしいのですか!?」
「……ラファールのあれはどうせ今だけだ。精霊が気まぐれなのはお前だって知っているだろう? すぐに飽きる」
「ですがドイル様!」
馬上だというのに器用に俺の間横に並び、言い募るバラドを宥めながら「早く王都につかないかな……」と心から思った。
平常運転なバラドと、ルツェ達。ご機嫌なラファールに、この状況をどうするべきか悩むナディとレオーネ。そして大して親しくない所為か、俺が怒りださないかハラハラした面持ちで見つめる一年生達。
賑やかな俺の周囲は、今日も今日とて平和である。
長い年月をかけ人の手によって整えられてきた王都の道を、隊列を組んで進む。
集まる人々からの視線に久方ぶりに【上流貴族の気品】を意識して発動させながらブランを歩かせれば、道行く人々からは感嘆の声が零れた。
そんな町人達の声に視線だけ動かし周囲を観察すれば、道に面した家々の窓下には花が飾られており、さらにその窓からは家の住人だろう子供達が、頬を紅潮させ俺達を覗き見ている。
道すがら、たまたま目が合った少年少女に微笑みかけてやれば、前をとおり過ぎた直後に嬉しそうな悲鳴が聞こえた。
まるで祭り気分だな。
流石に大人達は仕事の手を止めたりはしていないが、それでも目が俺達を追っている。祭りの時と同じように、華やかな花で飾られた窓などを見る限り、どうやら俺達エピス学園の生徒達は町の人達に歓迎されているらしい。
そこはかとなく浮足立った周囲の空気を肌で感じながら、ちらりとブランをみれば滅多に見ないきりっとした顔つきで歩いてくれている。
白馬、しかも他の馬よりも一回り大きい体を持つブランが、こうやって堂々と歩くととても栄えるので嬉しい限りだ。
直接交流する機会が少ない町民には、こういった時の印象が大事だからな。
勿論、ブランでさえ察している俺の思惑を、バラドやルツェ達が察せないわけがなく。
右後方をバラドとソルシエ、左後方をルツェとジェフが固め、堂々たる面持ちでついてきている。白馬を先頭に隊列を組む俺達は、人々の目にはそれなりに見えていることだろう。
王都までの道中、興奮気味に将来の展望を語るルツェや、不満を言い募りながら縋るバラドと、そんなバラドを必死に宥める俺を見ていた同じ班の一年達や、ナディ達ががらりと空気を変えた俺達に戸惑いをみせているが、公の場では人目を気にするのが貴族とその部下である。悪いが慣れてもらうしかない。
そんなこんなで人目を気にしながら優雅に、しかし雄々しく指示された経路を辿れば、王都騎士団の建物が徐々に姿を現す。
いざという時は避難所としても使われる騎士団の建物は、一切の装飾を排除した石造りとなっており、なめらかに整えられた壁には、窓の代わりに弓狭間や魔法を放つ為のスペースが設けてある。賑やかな王都には異質な雰囲気だ。
厳めしい雰囲気の建物の前には、騎士達が隊列を組みやすいよう小さな広場がある。そこには俺達と交代で学園に帰る生徒達と一小隊分の騎士達が隊列をなして俺達の到着を待っていた。
「――――全体、止まれ!」
俺の号令に合わせ、ザッと全員が足を止める。
乱れることなくぴたりと止まった俺達を、面白くなさそうな顔で見る小隊の隊長と思われる先頭の騎士は、見覚えのある顔だった。
――王城の訓練所で、何かと父上の側によってきていた騎士だ。
幼い頃手合せしたこともある騎士だ。その他の騎士達の中にも、ちらほらと見覚えのある顔があるが、彼等が俺を見る目は一様に厳しかった。
嫌悪や嫌忌、不信に懐疑など様々な感情の籠った視線が俺に向けられる。先頭にいる男など「見定めてやるから覚悟しろ」といった感情をありありと感じさせる目で、俺を見据えていた。
セルリー様並みに感情を隠せとはいわないが、俺のような若造に感情を悟られるなどまだまだである。まぁ、わざとわかり易く威嚇し、こちらの反応を見ているという可能性もある。しかし生憎だが、セルリー様に心身ともに鍛えられている俺に、この程度の威圧など効かない。
――よく、見ておくがいいさ。
騎士達と過ごす二週間に胸を躍らせながら、ブランの背から音もなく降り、騎士の正面に立つ。
背筋を伸ばし、堂々と胸を張って。
わかり易い態度を見せる騎士を真っ直ぐ見つめ返し、笑む。
「エピス学園高等部戦士科所属ドイル・フォン・アギニス以下六名、及び薬学科所属ナディ・フォン・トレボル以下五名。これより王都警備の任につかせていただきます。――どうぞご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いいたします」
指先から髪の一筋まで気合を入れて礼をとった俺の耳に、誰かが息をのんだ音が聞こえた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。