第八十七話
俺の気配察知で感じられる範囲ということもあり、問題の湖へは直に到着した。
馬達の憩いの場だけあり透き通ったコバルトブルーの湖の周りには、青々と茂る毛足の短い草と色とりどりの花が咲く小さな花畑があり美しい。
その美しい場所に、敵だと思われるその物体はいた。
いたのだが……。
つるんとした表層にぷるんとした質感。
円錐の上部を切り取った見覚えのあるフォルム。
時折吹く風にゆられ、ふるんっと揺れる物体。
透明感ある清涼な水色をしたそれは正に。
「…………きょ、巨大ソーダゼリー」
サイズさえ目を瞑ればとても懐かしいその姿につい声が漏れる。
スライムと思われるそれはあまりに大きく。首が痛くなるほど見上げてようやく最上部が確認できるほどの巨体は圧巻の一言。しかし日に照らされ輝くその見た目、質感、フォルムは何処からどう見ても巨大なソーダゼリーだった。
『ご主人様、「そーだぜりー」って何ですか?』
「何でもない。忘れてくれ」
『?』
「忘れるんだブラン」
『はーい。……それにしても大きなスライムですね。ご主人様』
俺の呟きを拾い聞き返してきたブランに、つい零してしまった言葉を忘れるよう命じる。幸いなことに、ブランも俺の意味のわからない呟きよりも目の前にいるスライムが気になるらしく、それ以上追及されることはなかった。
横でスライムを見上げぱちぱちと瞬きを繰り返すブランに胸を撫で下ろしながら、俺もブランと同様に問題のスライムを再び見上げる。
……何を喰ったらこんなに大きく育つんだ?
というかスライムってこんなんだったか?
俺の記憶違いか? スライムってもっとこう、小さくて物理攻撃には耐性があるけど火魔法には滅茶苦茶弱くて、足も遅い初心者向けの魔獣だった気が……。
記憶の中のスライムとは大分かけ離れた姿をした目の前のそれを、呆然とした気持ちで見上げる。己が培ってきた知識に思わず疑問を抱いてしまうくらい信じがたい光景が、目の前に広がっていた。
我が目を疑いながらふるんと美味しそうに揺れる体の中心をよく観察すれば、僅かに色が濃くなった核の側に鍵らしき金属片が見える。
そしてスライムの巨体の向こう側に透けて見える、雑木林に不釣り合いな扉。
思ったとおりこの主を倒せば外、つまりこの雑木林を模した空間から出られるようだが……。
これを俺が燃やすのか?
火魔法の適性なんてほとんどないのに?
雛達に喰われて残り少ない魔力で?
どうやって?
ありえない巨体とスライムの特性、己の魔法適正と魔力残量を思い浮かべればこめかみにつっと汗が伝う。
別に燃やさずともスライムなのだから中心の核さえ破壊すれば倒せる。幾らスライムが物理攻撃に強かろうとも普通のスライムならばエスパーダで簡単に両断できただろう。目の前の巨大スライムとて、強化したエスパーダの刃ならば余裕で届く。
しかし、今の俺の魔力残量は五分の二といったところ。残りすべての魔力を費やしエスパーダを強化したところでこの巨体を両断できるかは微妙、というか不可能だろう。
…………でも、やるしかないんだよな。
ゴクリと喉を鳴らしながら「本当にやれるのか?」という疑問に蓋をしてエスパーダを握る。
鍵と扉。そして、時間稼ぎを目的としているとしか思えない巨大なスライム。
この三つが示すものは、この状況が人為に的に造られたものであるということ。俺が消された側であることは確定だが、消され閉じ込められているのが俺だけだという保証がない以上、一刻も早くグレイ様やバラドの安否確認が必要だ。
ここに閉じ込めるのは誰でもよかったのか、それとも俺である必要があったのか。前者と後者では、犯人の意図に大きく差がある。前者ならばその辺りの生徒でなく俺でよかったと思えるが、後者ならばこんなところでぐずぐずしている訳にはいかない。一刻も早くこの空間から脱出し、犯人を見つけ真意を問い質さなければ。
――やるか。
このまま見上げていても現状は変わらない、そう己に言い聞かせ威風堂々そびえたつ巨大スライムに挑むべくエスパーダを抜いた。
膝をつき、体に籠る熱を逃がすように息を吐く。熱い息を吐き体が軽くなった瞬間に、足に力を込め立ち上がった。
休息を求める体を誤魔化し立ち上がれば、途端に体に重しを乗せられたような感覚が我が身を襲う。ズシっとくる感覚を歯を食いしばってやり過ごし、縫い付けられたかのように動かない足を渾身の力ではがし歩く。
『ご主人様、大丈夫ですか?』
「――ああ」
『あまり無理はされない方が……』
『ブラン! 右後方に近づく破片があるわよ!』
『あ! 向こうの花畑の中からも出て来ましたよ!』
『はっ!? ちょっと、いってきますねご主人様!』
アインスとツヴァイの声に反応して駆けだしたブランの姿に、俺も荒い息を吐きながら進む。そして再び変わらぬ姿で存在し続ける巨大スライムに斬りかかる。
重たい体に歯を食いしばりなんとか呼吸を整え、スライムの体の一部を本体から斬り離していく。ボテボテと水気を含んだ音を立てながら地に落ちたスライムの断片達はしばらくするとずるずると地を這い本体の元へと戻ろうとするので、その前にぷにっとした感触の断片達を素手で鷲掴み遠くに投げる。段々短くなっていく断片の飛距離に己の体力の限界を感じるが、泣き言を言っている暇はない。本体へ合流しようと地面を這う断片達の処理は雛達とブランに任せ、俺は再びスライムを斬った。
………………不毛だ。
斬っては投げ斬っては投げを黙々と繰り返し、ふと見上げたスライムの堂々とした姿にぼんやり思う。
再生能力に長けたスライムは断片を焼き尽くすか、核を破壊しない限り何度でも戻り再生する。その為、弱点でもある火魔法で体を焼き払い、核を破壊するのが一般的な倒し方だ。
しかし俺には火魔法の適性がほとんどない為、このスライムの巨体を焼き払うことは不可能だった。試しに己が使える火魔法の中で一番威力のあるものを放ってみたが、残り少なかった魔力を更に減らしただけで巨大スライムにほとんど打撃はなく。無情にも俺の適性と今の魔力残量では核に辿り着く前に体力と魔力が尽きてしまうだろうことを早々に悟っただけだった。
ただ、幸いなことにこの巨大スライム、大きさ以外は普通のスライムと変わらず斬り離した断片を遠くに投げ捨てておけば再生までの時間は稼げた。火魔法で焼き払うという選択肢が使えない以上俺に他の選択肢はなく、現在地道に核を目指しスライムの巨体を斬り崩しているところなのだがしかしこれがまた、気が遠くなるほど不毛な戦いだった。
首が痛くなるほど見上げなければならない巨体は伊達ではなく。
斬れども斬れども、まったく核に近づいている気がしない。これならば手伝えると、一生懸命本体に戻ろうとする断片を見つけては器用に咥えて遠くに放り投げてくれているブラン達に悪いが、俺の体力が限界だ。
たかがスライム、されどスライム。
何百どころか何千、何万匹分かというこの巨大スライムは、今の俺にはこれ以上ない難敵だった。
……ジンなら、これくらい一撃で焼き払えるんだろうが。
何ともない顔で俺が苦戦するこのスライムを一撃で焼き払うジンを想像し、感じた悔しさをバネにスライムを斬り投げ捨てる。断片を投げ捨てた拍子にカランと手から滑り落ちたエスパーダを慌てて拾うが、掴み損ねて再び落としてしまった。
ジンやプルハなど、俺が持ちえなかった高い火魔法の適性を持つ者達を思い浮べては自身を奮い立たせスライムを斬り続けてきたが、その方法もそろそろ限界のようだ。しかし体力の限界を感じたからといって、諦め膝を折るような無様な真似はしたくない。
俺だってやれる。万全の状態で挑めばジンに負けることはないのだ。スライムなど簡単に斬れる。俺は負けてなどいない。火魔法の適性などなくとも、俺には他に使える適性が幾らでもある。悔しく思う必要などない。マーナガルムだってあんなに簡単に斬れたじゃないか。唯のスライムなんて敵ではない。戦士科の誰にも負けない強さがある。父上やお爺様にも負けない能力が、俺には確かにあるのだ。俺は戦える!
そう自己暗示をかけエスパーダに再び手を伸ばす。しかし震える腕はエスパーダを握っても持ち上げるに至らず。幾ら呼吸を繰り返そうとも息を整えることができず、荒れたままの呼吸が耳障りなほど煩い。
思うように動かない己の体にちっと舌打ちをして、深呼吸を繰り返す。じれったく思うほどしつこく深呼吸を繰り返し、幾分か呼吸音が静かになったところで再びエスパーダを握る。
気合を込めて握れば、今度はエスパーダを落とすことなく持つことに成功した。
此処から出てグレイ様達の元に向かわなくては。
その一心で気を抜けば落としてしまいそうなエスパーダを握りしめ、巨大スライムと対峙する。エスパーダが重く感じるなど初めてだった。
もっと体を鍛えて体力を付けなきゃな、とぼんやり考えながら酷く重たい腕を振るう。ザクとスライムに刺さった刃を気力で振りぬく。ボテっと地に落ちた断片を開いた手で掴み投げるが、一メートルも飛ばなかった。
ずりずりと本体に戻ろうとする断片を見て、早く遠くに投げなくてはと思う。思うが己の体は思うように動かず、雛達の指示の元忙しそうに走り回るブランを呼ぶか迷っているうちに折角斬り離した断片は本体の元へと戻ってしまった。
ゆっくりと本体に吸収されていく断片を再び斬り離そうと腕を振るが、断片は斬り離されることなく吸収されていく。
右腕を見れば、俺は既にエスパーダを握っていなかった。
――嘘だろう?
エスパーダを落としていたことにさえ気がつけなかった己に愕然とする。
――俺は、スライムごときに負けるのか?
いや、そんな訳にはいかない。だって、此処で諦めてしまったらグレイ様やバラド達が無事なのか確認できないではないか。彼等が無事だとわかっていて、限界を感じるならいい。倒れてもいいし、諦めもつく。しかし誰を狙ったものなのか、犯人が何を目的としているのかもわからず、ましてやグレイ様やバラド、先輩方の安否がわからないこの状況で倒れるなどあり得ない。
ジンをグレイ様の側から離したのは俺だ。限界まで頑張りましたでは駄目なのだ。例え体力も魔力も使い果たし指一本も動かせないほど戦ったとしても、グレイ様達が無事でなければ、それは何もしなかったのと同意義だ。
此処から出てグレイ様達の安否を確認しなければ。
そう思うのだが体は思うように動かなくて。エスパーダを拾おうと踏み出した瞬間、足の力が抜けた。何とか手で体を支え、完全に崩れ落ちることだけは免れたが腕にも足にもそれ以上力が入らない。
――ここが俺の限界なのか。
あらん限りの力で立ち上がろうとしたが立ち上がることができず、そんな言葉が頭を過る。しかし一瞬浮かんだその言葉は即座に振り払い、スライムを見上げる。
大きかろうとなんだろうと目の前の此奴は唯のスライム、最弱に近い存在に負けるなど冗談じゃない。スライムに屈するなど末代までの恥である。俺はあのスライムをさっさと倒して此処を出る。
――でもどうやって?
此処を出るという気持ちに変わりはない。しかし体がついていかない現状に、弱気な己が顔を出す。浮かんでくる悲観的な考えを振りきるように「考えろ。まだ何か方法があるはずだ」と己を奮い立たせて眼前の敵を見た。
己の体力と魔力残量を思い浮べ、必死に考えを巡らす。どうにか現状を打破する方法はないか、この空間から出る方法はないか、今の俺でもできることはないか、何度も何度も考えては今の俺には無理だと歯噛みしながら否定して、また新たな案を考えて。
何も手立てもない己に失望した。
――諦めるの?
「いやだ。諦めたくない」
現状から抜け出したくてたまらないのに、方法がない。何も考えつかず、簡単に限界を迎えた己の体が許し難く、何とか立ち上がろうとするが現状を維持することもままならない自身に苛立ちが募る。
そんな時、近くから聞こえてきた声に思わずそう答え俺はバッと顔を上げた。
「なっ」
気力だけで崩れ落ちないよう必死に耐える俺を、にこにこと笑いながら至近距離で見つめる女性に息を飲む。
少し動いただけでさらさらと零れる艶やかな深緑髪に、喜色が滲む青磁の瞳。薫風のような清爽な雰囲気を持つ女性がそこに居た。
すぐ側で座り込んでいた女性は突然顔を上げた俺に驚いた表情を浮かべ、俺と目が合っていることを確認した次の瞬間、目を輝かせて破顔する。
『私が力を貸してあげるわ!』
「何者だお前!?」
驚きから一転嬉しそうにそう告げた女性と打って変わり、今度は俺が驚きの声をあげる。幾ら疲労困憊とはいえ、ここまで接近されても気付けなかったなど信じられなかった。
こんな息遣いが感じられる距離まで近寄られていながら、声をかけられるまでまったく彼女の存在に気が付かなかったなんてあり得ない。そもそもこの女性は今まで何処にいた? 気配察知ではスライム以外の気配は感じなかった。
そんな疑心と警戒心に満ちた目で女を見れば、女はガーンと効果音が聞こえそうなほどショックを受けた表情を浮かべ、音にならない声で叫んだ。
『――やっと見てくれたと思ったら酷いわ! 今までだって何度も力を貸してあげたのに!』
「…………今まで何度も?」
『そうよ? 遠くの音を届けてあげたり、仲間にも手伝ってもらって逆に貴方の声を広げたりもしてあげたわ。森の中で焚火を消して、魔王が近くにいるわよって教えてあげたのも私なのに!』
『酷いわ、酷いわ!』と俺に迫る彼女の言葉に息をのむ。
言われてみれば、彼女の気配はいつも身近に感じていた気配そのもので。いつも側にいて、遠くの声を届けてくれたり森の中で魔王がいると教えてくれた存在など一つしかない。
前世を思い出した直後やジンとの模擬戦の時、何でも屋の時に無償で声を運んでくれその上、合宿中焚火を突風で吹き消すという荒業で警告をしてくれたその存在は。
「か、風の精霊?」
『――ご名答! 私は貴方が生まれた時からずっと側にいたのよ? 仲間達と一緒に貴方の側で、何度も何度も手助けして呼びかけて。あんなに尽くしてきてあげたのにまったく私を見てくれないんだもの。待ちくたびれちゃったわ。――――ねぇ。はやく私を呼んで。貴方がその瞳に私を映してくれる日を、ずっとずっと待っていたの』
人とは違う温度のない両手で俺の顔をそっと持ち上げ、目を合わせ語る彼女に困惑し、いつもぼんやりとしか感じていなかった精霊の姿がはっきり見えているという事実に戸惑う。
精霊にとって人に名を呼ばれるということは、その精霊がその人間に縛られ使役されるということ。気まぐれで自由を愛する精霊達は縛られることを嫌う。
だというのに、目の前の彼女はそれを待っていたと、早く名を呼んでほしいと幸せそうな笑みを浮かべて俺に言う。
『――力が欲しいんでしょ?』
「……欲しい」
力が欲しい。
ここを出てグレイ様達を探しにいく為の力が。もっと強い、敵との相性なんて吹き飛ばすほどの圧倒的な力が。父上やお爺様、セルリー様のような人々に畏怖を抱かせるような、どんな敵でも退けられる暴力的なまでの力が欲しい。
都合よく強い力を得ることなんてない。父上やお爺様、セルリー様の力だって元々の適性だけでなく長い年月とたゆまぬ努力、生きる為に得ることを強いられたものだと知っている。簡単に手に入る力は所詮借り物でやがて我が身を滅ぼす。力や権力を楽に手に入れようとして破滅した貴族も沢山みてきた。
危機的状況で都合よく現れた彼女を本当に信用してもいいのかという疑問もある。
しかしそれでも俺は。
今、眼前にいる敵を倒す強い力が欲しかった。
突然の展開に戸惑いながらそれでも「力が欲しい」と答えれば、彼女は鮮やかに微笑み優しく俺の頭を撫でながら『それでいいのよ』と囁く。
そして麗しい笑みを浮かべ俺に顔を寄せると、一際甘い声で囁いた。
『――ほら、はやく私の名を呼んで。力を貸してあげるわ私達の愛しい子。私の名は――』
「『ラファール』」
甘やかすような優しい声に導かれ彼女の名を呼んだ瞬間、吹き荒れた圧倒的な風に俺は目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。