第八十四話
青々と草が茂る牧場の一角。
高めに設置された柵の中には数匹の馬と数人の生徒達がおり、柵の中の一角には簡単な障害が並べられていた。出入り口には馬牧場の職員や教師が水や干し草、ブラシといった馬の手入れ道具を持って待機している。
柵の向こう側には同じように数匹の馬と生徒達を囲った別の柵があり、生徒達の大半は初めて触れ合う馬達におっかなびっくりしながらも、それなりに和やかな空気の中で馬術の基礎を指導係の先輩に教わっていた。
そんな中、一通り馬の危険性や暴れた時、落馬した時の対処法を伝え終えた俺も、後輩達に馬術の基本姿勢を教えにはいる。ブランに跨りながら、緊張した面持ちで馬に跨り手綱を握る後輩を怯えさせないようなるべく優しくにこやかな笑顔を心がけ指導していく。
しかしなるべく和やかに進めようという俺の努力虚しく、担当している後輩達は息切れしそうなほど重苦しい空気の中、凄まじい緊張感をもって俺の指導を受けていた。
「そのまま、頭の天辺を真上に引っ張られるように、真っ直ぐ背伸びした姿勢で。緊張しなくていいからな」
「こ、こうでしょうか?」
「……そう。そのまま胸を張って、真っ直ぐ前を見る。太ももの付け根は鞍に添えて、脹脛を馬腹に軽く添える。足ではなく腰回りで体を支えるといい。腹筋と背筋にもう少し力を入れて。――そうそう。足の力をもう少し抜いて、踵を下げれば完璧だ。今とっている体勢が乗馬の基本姿勢といわれるものになる」
「はい!」
「…………そんな緊張しなくていい。乗り手がガチガチだと馬に緊張が移ってしまうからな? 危なくなったら俺が助けるから、安心して乗るといい」
「はい! ありがとうございます!」
「…………」
訓練中の騎士団のような、緊張を漲らせた返事をする後輩にどうしたものか考える。
割り当てられた数名の後輩達に乗馬の基本姿勢を教える始める事、数十分。
口で言ってもわからないだろうと実際に乗せながら説明していたのだが、馬に乗るのが初めてだという後輩達はガチガチに緊張していた。
初めての乗馬で彼等が緊張しているのは重々承知している。馬を軽んじ怪我をされても困るので、ある程度緊張感をもって慎重に行動してくれるのはありがたい。しかし、緊張しすぎはよくない。
実際、生徒を乗せている馬も乗り手の緊張っぷりに戸惑っている。初心者用として選ばれた馬だけあって、今のところは大人しく乗せてくれているがこのままでは暴れ出すのも時間の問題だ。
初心者ばかりのこの場所で、五百キロ近くある馬に暴れられては非常に危険である。
……まぁ、教えているのが俺だしな。
目の前で体を強張らせる後輩の一人と、少し離れた場所で緊張した面持ちで順番待ちをしている後輩達に内心で同情する。
これは、この可能性を考慮しなかった俺の責任だな。
幾らヘングスト先生の御指名でも、断ればよかったと今更ながらに思う。それか初心者ではなく別の仕事をもらうべきだったと、緊張に身を固くする後輩達の姿に激しく後悔する。
ここ最近ルツェ達や薬学科の先輩方、ワルド達など平民でも図太い部類の人間達とばかり接していたから俺が畏れられるという可能性を完全に失念していた。
元々、馬の初心者は裕福層でない平民達が大半を占める。
幾ら緊張するなといわれても、アギニスの名を持つ俺に指導を受けていては無理な話だろう。これが貴族だったら公爵家と繋がりを持つ切っ掛けとして喜べるのだろうが、高等部に進学したばかりで色々と不慣れな平民には荷が重すぎる。
彼等からしてみれば貴族出の先輩に教わるだけでも緊張なのに、公爵家継嗣だなんて無茶振りもいいところだろう。しかも交代してもらいたくとも替わってくれる者も居なければ、俺が嫌だから場所を移動したいなど彼等の立場では口が裂けても言えない。彼等には大変申し訳ないことをしてしまった。
唯でさえ初めての乗馬で緊張しているのに公爵家継嗣に教わるという状況に置かれ、粗相があってはいけないと青ざめる後輩達がとても哀れである。
…………といっても、乗れるようになってもらわなければ困るんだよな。
しかし引き受けた以上、任された彼等が馬術を習得できなければ俺の評価にかかわる訳で。彼等の緊張の原因が己にあるのも知っているし、同情もしているがここのままという訳にはいかない。ましてや指導できず、指導役を交代などあってはならない。そんなみっともない姿をさらすのはごめんだ。
となれば、どうにかして彼等に緊張を解いてもらうしかない。
「ブラン。あの馬に寄ってくれ。あの馬を、驚かせないようにな」
『? はーい』
少し刺激したら倒れそうなほど緊張している後輩達の耳に入らないよう、ブランの耳元でそっと囁く。
不思議そうに首を傾げながら、指示通りそっと馬に近づいたブランが足を止めたのを見計らい俺は持っていた手綱を離した。
「――――背に乗るぞ」
『……はい』
「え?」
ブランがゆっくりと近づいたことで俺を見ていた馬にそう語りかけた後、ガチガチに固まっている後輩の後ろに飛び移る。そしてギュッと手綱を握りしめている後輩の手から手綱を奪い、もう片手を後輩の腹に回した。
そして、
「しっかりつかまってろよ?」
「へっ?――――――う、うわぁぁぁ!」
『ご主人様!?』
馬を歩かせた。
急に馬を飛び移ったことでブランが俺を呼んでいたが、彼奴のフォローは後でいい。
とりあえず、突然動き出した馬に声をあげる後輩に「大丈夫だ」と声をかけながら腕に力を込め、しっかりと体を支えてやる。そして馬を走らせるべく、馬腹を蹴った。
勿論、急にトップスピードとはいかないので常足、速歩、駈足、襲歩と段階を踏んで少しずつスピードを上げていく。
学園の馬は唯でさえ立派なものばかりだ。馬を走らせたことのない人間に、怯えるなというのは酷だろう。更に他の要因で緊張させられては、折角の指導も耳に入る訳がない。
ここは余計な心労をかけさせてしまった責任をとり、俺が彼等の緊張や畏怖を吹き飛ばしてやるべきだろう。
折角いい馬がいるのだ。
少々荒治療ではあるが、走る馬に乗せてやれば彼等の緊張も吹き飛ぶだろう。
流れる景色と体中を撫でる心地いい風。
そして常ならば体感できないこのスピード感。
一度乗馬の楽しさを知れば、馬に恐怖を抱くことなどない。
柵内を数周周り、前に座らせた後輩の表情が恐怖と緊張から驚きと興奮に変わっていく様子を確認しながら少しずつ速度を上げいく。速すぎて恐怖心を植え付けないよう、慎重に少しずつ。
そして後輩の顔から怯えが消え、気持ちよさそうに景色を眺め出したところで最後の仕上げとばかりに奥に置かれている障害の元に馬を向かわせる。
「飛ぶぞ!」
「っ!」
速度を落とすことなく、がばぁっと跳躍した馬の高さと迫る青空に後輩は息のむ。一瞬の浮遊感の後、結構な衝撃と共に着地した馬の手綱を片手で捌ききった俺は、ゆっくりと馬の速度を落とした。
その間、後輩の表情が恐怖に歪むことは無かった。
「気持ちよかっただろう?」
「はい!」
「練習すれば、あの程度はすぐにできるようになる」
「本当ですか!?」
「ああ。この合宿中にあの障害も一人で飛べる」
「頑張ります!」
「その意気だ」
俺の問いかけに元気よく答えた後輩にもはや緊張の色は無い。馬車馬では体感できない軍馬の速度と跳躍力にいたく感動したらしく「お前、凄いんだなぁ。滅茶苦茶格好良かったぞ!」としきりに馬を褒めている。
手放しで褒められた馬の方の満更ではないらしく、ご機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
……此奴らはこれで、大丈夫だな。
恐らく、この後輩はこの馬を選ぶだろう。
そして馬の方も。
いいパートナーになれそうな後輩と馬を眺め、俺は胸を撫で下ろした。
「お前はこのままこの馬で練習するといい。一度乗ったからもう怖くないだろう?」
「――いいんですか!?」
「ああ。この馬も満更じゃなさそうだしな。きっといいパートナーになれる。――――ついたぞ。降りて馬に水を与えてブラシをかけてやるといい。落ちるなよ?」
「はい!」
俺の言葉に急いで降りようとした後輩に手を貸してやり、次いで俺も降りる。降りるなり見守っていた馬牧場の職員の元へブラシと水を受け取りに走った彼はもう大丈夫。
「――――さて。次に乗りたい者は?」
「「「「はい!」」」」
「全員乗せてやるから、順番にくるといい」
「「「「はい」」」」
そういって順番待ちしていた後輩達を振り返れば、我先にと手をあげる少年少女達に目を細める。後輩達の青ざめていた顔は興奮しているのか僅かに紅潮している。期待に目を輝かせる少年少女達にこれなら何とかなりそうだと、俺はひっそりと安堵の息を零した。
初めからこうすればよかった。
先ほどまでの緊張は何処へやら。
馬牧場の職員に教えてもらい馬にブラシをかける後輩を羨ましそうな目でみながら、順番決めに励む彼等にそんな感想を抱きながら俺はブランの元へ向かう。
理由がわかっていても俺が他の馬に乗ったことが不満なのか、がりがりと前足で穴を掘るブランはご機嫌斜めだ。
「ブラン。お前ならその辺の馬と違って、この人数を一人ずつ乗せて走ってやっても問題ないよな?」
『勿論! 俺ならご主人様以外に二、三人乗せたって、さっきの奴よりもずっと速く走ってみせますよっ! 何しろご主人様の愛馬ですからねっ!』
「ブランが本気で走ると速過ぎて怯えさせてしまうだろうから、ほどほどにな。全員乗せ終わったら最後に全力をみせてやろう。彼等も学園一の良馬というのは、どういう馬なのか見ておいて損はない」
『っ! 喜んでー!』
文句こそ言わなかったが棘のある話し方をするブランをそれとなく褒める。直球で褒めるとあからさま過ぎる気がしたので、あくまで遠回しに。
流石にそんな簡単にはいかないか? とも思ったが、俺の言葉を聞くにつれピン! と耳を立て、目を輝かせたブランは俺が思った以上に単純だった。
…………こんなので本当にいいのか、ブラン。
褒め言葉一つでここまで機嫌を直すブランは、単純なのか健気なのか。ヒヒーン! と高らかに嘶くブランに複雑な感情を抱きながら、その背に跨り手綱を握った。
今日は丁寧に手入れしてやろうと己に誓ったところで、順番を決め終え俺を待つ後輩達へと意識を切り替える。
順番を決め終え、期待と興奮を滲ませる後輩達を馬上から見下ろす。見下ろしたことで後輩が緊張を滲ませたので、リラックスして貰う為に極上の笑みを意識的に浮かべ、優しく手を差し伸べる。
「こい。俺が馬の素晴らしさを教えてやる」
「――――は、はい」
その際、笑顔が効きすぎたのか白馬に乗っている所為で相乗効果があったのかはさだかではないが、ふらふらっとした足取りで後輩の一人が歩み出る。己を見上げる少女に「やり過ぎたか?」と不安になりながら後輩の手を握り馬の上に引き上げた。
「いくぞ?」
「――――はい」
声をかけても何処か夢見心地な目を向けてくる後輩に、人にものを教える難しさを噛みしめながら俺はブランの腹を蹴った。
『それでは、本日はこれにて解散となります! まだまだ訓練は続くので、今日は早く休むことをお勧めしますよ。ゆっくり体を休めて、明日から馬術向上に努めてください。では、解散してください!』
――――長かった。
馬牧場の職員の声に今日一日を振り返る。
一先ず馬に乗せ、乗馬の楽しさを体感させることで後輩達の緊張を拭うことができた俺は、どうにか任せられた後輩達にそれぞれ馬をあてがい、常歩とその次の速歩まで習得させることに成功した。一時はどうなるかと思ったが、何名か駈歩の練習までしていたので成果は上々である。
緊張の解れた後輩達とは雑談できるまで親しくなれたし、初日にしては十分過ぎる結果だろう。
「お疲れ様でございます、ドイル様」
「ありがとう」
「「「「「アギニス先輩! 本日はありがとうございました!」」」」」
「――ああ。早く休めよ」
「「「「「はい!」」」」」
バラドから差し出されたお茶をすすりながら、無事に終えることができた充足感に息を吐く。
職員の話が終わった途端駆け寄ってきた後輩に、軽く手を上げ返事をした。充実感に満ちた表情で挨拶して立ち去る後輩達は、馬に乗れるようになった喜びからか楽しそうだ。
「ドイル様!」
「ん?」
「――――碌に馬に乗ったこともない者達を僅か一日であそこまで乗れるようにするとは流石ドイル様でございます! 後輩達の為にお心を砕き指導してさしあげる様は慈愛深く、分け隔てないドイル様の優しさにバラドは大変感動いたしました! 彼等も今頃ドイル様のご指導を受けられた栄誉を噛みしめていることでしょう! ……ドイル様に対して少々気安すぎる気もいたしますが、それもドイル様の親しみやすさ故であり――――!」
じ、時間差か!!
静かに差し出されたお茶に今日は暴走しないんだなと胸を撫で下ろしていたのもつかの間。後輩達の姿が見えなくなった途端始まったバラドの称賛タイムに、危うくお茶を吹き出しそうになって何とか堪える。
後輩達の指導中もずっと静かにサポートしてくれていたので完全に油断していた。
後輩達以上に頬を紅潮させ何かを思い浮べながらうっとりしているバラドは、完全に別世界へと旅立ってしまったようだ。
……しまった。帰りそびれた。
「――――白馬に跨り、草原を縦横無尽に駆けるお姿……素敵でございました。何より、白馬に跨り手を差し伸べた瞬間などもうっ! あの時のお姿は筆舌に尽くし難く! 彼等の緊張を解かす為にドイル様がお浮かべになられた笑みに、私は呼吸が止まるかと思いました! あの瞬間、バラドはドイル様の背に後光を」
「どうしたバラド?」
朗々と語られる一日分の称賛の言葉にこれは長くなるなと、遠い目をしたところで不意にバラドが口を噤む。ピタリと止んだ称賛の言葉にバラドを見れば、既に身なりを整え、表情を引き締めていた。
そんなバラドに周囲を探れば、こちらに駆け寄ってくる気配がある。第三者の来訪を感じ取り、身なりを整えたバラドに倣い俺も身なりを整え、飲んでいたお茶をバラドに返す。
バラドは受け取った茶器を片付けると、スッと一歩下がり俺の後ろに控えた。
語らずとも察して動くバラドは有能だ。別世界へと足を踏み入れていた名残を微塵も感じさせない鮮やかな切り替えも見事。しかし、その鮮やかさが少し怖いと思うのは俺だけなのだろうか?
……切り替えが上手いというか、変わり身が早いというか。
何とも言えないバラドに過った言葉を飲みこみ、俺も人の気配がした方角を振り返る。薄暗い中、こちらに走り寄ってくる人影は小さかった。
「――――アギニスいるかぁ?」
「ヘングスト先生?」
「……よかった。まだ、いたかぁ」
此方に駆け寄ってくる小さい人影に目を凝らせば、その影は少し離れた場所から俺の名を呼ぶ。
聞き覚えのある声にその名を呼べば、ヘングスト先生は近寄るなり俺と後ろに控えるバラドを見てほっとしたように相好を崩した。
「疲れてるとこ悪いんだがなぁ。少し話を聞いてもらえるかぁ?」
眉を下げそう告げるヘングストはとても申し訳なさなそうだった。その上、困っている雰囲気を滲ませているというのに「疲れているだろうに、呼び止めて悪いなぁ」と気遣ってくれるヘングスト先生は人が良い。
人の良さが滲み出ているヘングスト先生の『いいおじいちゃん』っぷりに、俺も相好を崩す。
「いいえ。問題ありません。お話お聞かせ願えますか? ヘングスト先生」
「……悪いなぁ」
「いえいえ。ヘングスト先生にはお世話になりましたから。私でよければお力にならせてください」
個人的に好ましく、ましてやヘングスト先生にはクレア救出の際に見逃してもらった恩がある。そんなヘングスト先生の頼みを断る理由など俺にはない。
慣れない指導で疲れていようとも、ヘングスト先生の『頼みごと』を二つ返事で快諾したのは、ごくごく当然のことであった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。