第八十二話 グレイ・フォン・マジェスタ
ドイルに手合せを願うジンとワルドを戦わせ、その激闘ぶりに慌てて止めに来た教師達に二人を差し出すことで場を収めた俺はクレアと共に夕食を済ませ、約束通り談話室でドイルの到着を待った。
そして現われたドイルの姿に、不覚にもソファに沈んだのが数刻前。
話のキリもよく、頃合いだろうとクレアを連れ出した俺は、ドイルを談話室で待たせていることもあり、少し急ぎ足で女子寮の入口に向かっていた。
このように兄妹揃って歩くのは久方振りなのだが、俺の横を歩くクレアは無言。卒業後にはこうして俺のエスコートで歩くことは無くなるというのにつれない妹だ。
……あからさま過ぎたか?
見るからに不満そうなクレアに、先ほどの談話室での一幕を思い出す。
俺の目の前で堂々とドイルを誘惑する姿に驚き、思わずドイルに釘を刺してしまった。クレアはそれが大変お気に召さなかったようだ。
ドイルの手前、大人しく俺にエスコートされて退出してきたが「コッコッコッ!」と淑女にはおおよそ似つかわしくない足音を鳴らして歩く我が妹はご立腹だ。
「……言いたいことがあるなら、言ったらどうだ。あと足音をたてるな、みっともない」
クレアの不機嫌な理由は薄々感づいていたが、俺は敢えてクレアに問いかける。
体全体で「怒っています!」と主張するクレアにそう告げれば、「コツンッ!」と一際大きな音をたてて足を止める。そしてキッと俺を見上げると、ご機嫌斜めな妹はようやく口を開く。
「そう仰るのなら言わせていただきますわ、お兄様。私とドイル様の時間を邪魔しないでください!」
「なっ! お前、仮にも兄に向って邪魔だと!?」
「邪魔です。ものすっごく邪魔ですわ! 折角ドイル様といい雰囲気でしたのに! お兄様が邪魔されるから、すっかりドイル様が畏縮してしまわれたではありませんか! ドイル様が人目を忘れて私に手を伸ばしてくださることなど、滅多にありませんのに!」
「婚姻前の娘が馬鹿なことを言うんじゃない! ドイルの立場も考えろ!」
「ドイル様は謙虚でご自分に厳しい方なのです。そこが良いところの一つでもありますが、人の好意に甘えないドイル様は押し付けるくらいでないと、いつまで経ってもこちらの好意を受け取ってくださりませんわ!」
言いたいことがあるなら言えと言った途端、クレアにもの凄い剣幕で捲し立てられ言葉に詰まる。
可愛がっていた妹に、はっきり『邪魔』と言われた衝撃は計り知れないものがあった。
…………いらぬお節介だったか?
息巻くクレアに僅かな不安が頭を過る。
俺が邪魔した時、ドイルも少し残念そうではあった。
それにクレアの主張も理解できなくはない。俺と異なり、クレアはドイルがどのような態度を取ろうとも見限ることなく慕い続けた。ようやく大手を振って側に居られるようになったのだ。
一刻も早く、離れていた分を埋めたいのだろう。
クレアは己だけ一つ歳が離れていることを気にしている。そのことでいらぬ不安を抱いていることも知っている。離れていたこの一年、ドイルに近づく女の影がないかうんざりするほど聞かれたからな。
ドイルに限っては見当違いも甚だしく、必要の無い不安だがクレアは真剣だ。それは理解している。
しかしクレアがどれほどドイルを慕っていたとしても、それとこれとは話が別ではなかろうか。
嫁入り前の女性が自ら男を誘うなどふしだらだし、ドイルが正道を行くというのなら幼馴染で両家ともに親しく婚姻が決定していようともけじめはつけるべきだ。
醜聞はドイルの邪魔にしかならない。クレアだってそのくらい理解しているだろう。
――――そうだ。
俺は何も悪いことはしていない!
いくら婚約者とはいえ、婚姻前の男女が人目を憚らずいちゃつくのはよくない!
ドイルとて、場の勢いに任せてクレアに手を出したら後悔するはずだ!
クレアも今はよくとも、後々揚げ足をとる輩が現れたら後悔するに決まっている!
クレアの気持ちとドイルの立場と目指すもの。
それらを加味した結果「俺は正しいことをした」という結論に至った俺は、改めてクレアに向き合う。
元々、クレアの不安はただの杞憂。その不安を取り除いてやれば、クレアとてもう少し慎みある行動を取るはずである。
先ほどはクレアの剣幕に揺らいでしまったが、ここで思い留まらせるのが兄として正しい行動だ。
そしてそれはクレアとドイルの幸せにも繋がる。
しばらくの間逡巡し、己の正当性を見いだした俺は、大事な幼馴染と可愛い妹の将来を想い、心を鬼にしてクレアを諭す為の言葉を口にする。
「けじめは大事だろう? そう焦らずともドイルは他の女になど靡かない」
「ドイル様を疑ったことはございません! しかしドイル様ご自身にその気がなくとも、引く手数多なのです。中には手段を選ばない方もいらっしゃるかもしれません。そのような方々に、ドイル様には私が居るのだと見せつけねばならないのです! これは女の戦いですわ!」
「いや。むしろ引く手数多過ぎて、女が近寄る隙なんてないから安心しろ。ドイルは見ていて可哀想になるくらい、男にもてる。ジンやワルドを筆頭に、戦士科の連中が虎視眈々と手合せの機会を窺っているし、セルリー殿に目を付けられたようだからな。フェニーチェの雛達のこともある。この学園に居る限りドイルにそのような隙は、まずない」
きっぱりとそう断言してやれば、クレアの瞳が揺れる。
俺の言葉の真意をはかるクレアにもう一度「心配する必要はない」と言い切ってやれば、「でも……」と呟いてクレアは沈黙した。
ドイルのことは信頼しているが、抑えきれない不安があるらしいクレアの頭を、宥めるように撫でる。複雑な乙女心を抱えている妹の姿に苦笑いが浮かぶ。
……あの光景をクレアにも見せてやればよかったな。
放課後の戦士科での一幕を思い出しそんなことを思う。
ドイルに暇など無い。それだけは自信を持って言える。
ドイルの元々の性格もあるが、今日の戦士科での出来事はアラン殿やゼノ殿を前にした騎士団を彷彿とさせる光景だった。あの様子を見る限り当分の間、ドイルに暇な放課後は訪れないだろう。
俺がドイルを退出させた後、先生主導でドイルに手合せをして貰う順番決めが行われた。これ以上揉めて、いつか鍛錬場を破壊されては困るという先生方の処置である。
先生方の中で唯一ダス先生が「アギニスの許可なく、勝手に決めるのはどうかと!」と止めようとしていたが、結局最後はサウラ先生に丸め込まれていた。
サウラ先生主導で行われた順番決めはドイルが居ないのをいいことに結構な人数が参加しており、普段は遠慮してしまい声をかけられない連中も参加していた為、相当な人数が順番を決めてドイルを待っている。
……男にもてるのは、血筋だろうな。
己の番がくるのを指折り数えて心待ちにする彼等の姿は、アラン殿やゼノ殿が鍛錬場に顔を出す度にそわそわと落ち着きを無くす騎士達の姿を俺に思い出させた。二人にいいところ見せ、あわよくば向こうから声をかけて貰えないかと目で訴える男共は恋する乙女のようで。その立派な体躯と相まって気色悪いなと度々感じていたのだが、今日の戦士科の光景はその時の騎士達の様子とピタリと重なった。
戦士科を選択したことを、少し後悔した瞬間だった。
…………ドイルが居たら、問答無用で意識を刈り取られていただろうな。
ドイルがあの光景を目にしていたら取るだろう行動を思い浮べる。
俺達の想像よりもずっと強いドイルがあの光景を目にしていたのなら、力づくで黙らせていたことだろう。そういった実力行使が、戦士科の脳筋達の憧れと尊敬をさらに強めているのだとドイルは気付いていないからな。
害もないことだし、ここで尊敬を集める事は将来役立つだろうと俺は敢えて教えてやらない。今回の件に関してもそうだ。ドイルは大変だろうが、戦士科の連中を従えるいい機会だと思っている。
そもそも、中途半端に手加減しながら相手してやるから何度も挑まれるのだ。
よくも悪くも単純明快な奴らだから一度本気で相手をし、完膚なきまでに沈めてやればドイルの言うことをよく聞くようになる。
マーナガルムを両断できるドイルが、生徒程度に苦戦するなどあり得ない。精々、ジンかワルド辺りがちょっと本気を見せて貰える程度だ。さっさと全員下してしまえば煩わされることも無い。
俺を頼りに、あの場を任せてくれたドイルには悪いことをしたが、これもドイルの今後の為。使える者達を野放しにする必要は無い。全てドイルの手元に置いてしまえばいい。
クレアの救出に向かう際、ドイルがリュートを連れて行くと言ったのを聞いて思ったのだ。ドイルが俺の手は取らないというのなら、取れる手を増やしておけばいいと。
そしてドイルを慕う者達が手となり足となり、いざという時はドイルを守ってくれることを願う。
それが王になる身である俺が、ドイルしてやれる最大限だ。優秀な人材をドイルの周りに集めるくらいならば何の問題も無い。ドイルの力となるかどうかはその者の判断に委ねればいい。俺は切っ掛けづくりをするだけだ。
……口惜しいが、それ以上の手助けは逆にドイルを窮地に追いやることになる。
俺とてドイルを失うのは二度とごめんだ。
ならばドイルの醜聞になりそうなことは全て排除しておかねばならん。俺自身の言動は勿論、それが例え可愛い妹の恋心故の行動であっても。
「取りあえず、これからしばらくの間ドイルにそんな暇は無い。俺が保証する。だからお前ももう少し控えろ。ドイルの邪魔をしたい訳ではないだろう?」
「…………そのような言い方はずるいですわ、お兄様」
「お前ならこれで引くと承知の上で言っているからな。取りあえず、また折を見て場を用意してやるから、他国に向けた婚約式が終わるまでは大人しくしていろ。今は間が悪い。――――そう心配しなくともドイルはお前を大切にしているし、浮気するような男じゃない。それともお前は、ドイルが勢いで他の女と浮気するような軟派な男だ、とでもいうつもりか?」
俺の言葉を非難するクレアに、さらに畳み掛けるように告げる。
クレアの気持ちは理解しているが、今は間が悪い。他国に向けた婚約式さえ終わってしまえば、二人の婚約に物申す者もいなくなる。他国にお披露目までした二人が破局なんてことになったら国のメンツに関わるからな。……逆を言えば、二人に手を出すなら今しかない。
みすみす二人に手を出させる気はないが、付け入る隙は無い方がいい。
可哀想だがクレアの幸せはドイルあってのもの。こう言っておけば、クレアはこれ以上何も言わずに引くだろう。クレアのドイルに対する愛情は、何があってもどのような状況であっても揺らがない。
「なんてことを仰るのですか!? ドイル様は誰よりも素敵で誠実な方ですわ!」
「なら、心配ないだろう?」
「そ、それはそうですが。でも!」
思った通り即座に俺の言葉を否定したクレアに立て続けに心配ないと告げる。
揚げ足を取る俺をクレアは睨むが、己の言葉を撤回することもドイルを疑うような言葉も絶対口にしない妹の想いは驚くほど強い。
「ドイルを信じろ。――――ほら、着いたぞ。寄り道せずに、真っ直ぐ自室に戻れ。良い夢を」
何があってもドイルを否定しないクレアを心の中で褒めながら、別れの挨拶を告げる。
クレア以上に一途に誰かを想える女を俺は知らない。
そんなクレアだからこそドイルに相応しいと思うし、可愛い妹だと思っているからこそドイル以外には任せたくない。
「……………………お休みなさいませ、お兄様。付き添いありがとうございました」
クレアに手を振り、自室に戻るよう促す。
そんな俺にこれ以上問答をする気が無いことを悟ったのか、クレアは不満そうな雰囲気を押し出しながらスカートの裾を掴み、ちょこんと頭を下げるとそのまま女子寮の中へ歩き出す。
「……流石お兄様。手強いですわ」と呟くクレアに苦笑いを浮かべながら、その姿が女子寮の中に消えていくのを最後まで見送り、俺も踵を返す。
……まったく。誰に似たんだか。
普段は大人しい癖にドイルに関してだけは情熱的なクレアに、ドイルよりもクレアの行動に目を光らせた方がよさそうだなと考えながら、俺はドイルの待つ談話室へと足を進めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。