第七十三話 クレア・フォン・マジェスタ
――――――。
己の背よりも高い生垣の中を、音にならない声に導かれて進みます。白い花をつけた生垣は私の視界を遮り行く手を阻みますが、そんな妨害などなんてことありませんわ。
――――――こっちよ。
だってほら。愛しい人の姿を思い浮べれば、音にならない声が「こっちよ」と導いてくださいます。
声に導かれるまま生垣の隙間をぬって進めば、朧げだった声は徐々にはっきり聞こえてきます。これは、ドイル様の元へ近づいている証拠です!
「姫! 本日のドイル様はアラン様の元で鍛錬しているとお聞きしましたが!?」
「――――いいえ。 ドイル様はこちらですわ!」
「クレア姫!」
学習の時間が終わり、一目散に飛び出した私の後を追う護衛騎士が、本日のドイル様のご予定を後ろで叫びます。そんな護衛騎士に振り返って告げたあと、彼がついてきてくれていることを確認して、くるりと身を翻して声のするままに進みます。
体が大きい分、生垣に苦戦しながら必死に私の後をついてくる護衛騎士の姿をじれったく思いますが、彼を撒いてしまってはドイル様に叱られてしまいます。
なんだかんだといいながらも、お優しい方ですもの。
ドイル様の元に一目散に向かうあまり護衛騎士を撒いてしまい、ドイル様に叱咤された時を思い出せば自然と笑みが零れます。
未だ恋愛事には興味が湧かないらしく、私を持て余しているのをありありと感じますが、それでも私の身を案じ、叱ってくださる優しい方です。積極的に構ってはくださらないものの、乱雑に扱われたこともありません。
時折、鍛錬に勤しむドイル様を見学していると、それとなく日陰を勧めてくださったり、早めに切り上げて送ってくださったりします。そんなさりげないドイル様の思いやりに、私はますますお慕い申し上げるのですが、ご指摘すれば「男なら当然」と言われてお仕舞です。
…………つれない方。
でも、私はそんなことではめげませんわ!
素っ気ないけどお優しいドイル様を想い、胸を高鳴らせます。いつかドイル様が、私の名を呼んで抱きしめてくださる日がくると信じていますわ。
その時は、ドイル様も今の私のように【愛の女神様】のお声を聞くのでしょう。
――――――貴方の運命はすぐそこよ。
はっきりと頭に響いた声に、ドイル様を思い浮べます。
私がお慕いするドイル様は、努力を決して人に見せ無い方ですから、きっと今日もどこか人目につかない場所で、お一人でひっそりと槍を振るっていらっしゃるはずです。お兄様はそんなドイル様を『強がりの格好つけ』なんてよく仰いますが、クレアはそんな風には思いません。
だってドイル様は、誰よりも美しくて、誰よりもかっこよくて、誰よりも聡明で、誰よりも強くて、誰よりも優しい、この世で最も素敵な私の運命の方ですもの!
誰よりも素敵な人を思い浮べる度に降り積もる、やさしい気持ちをそっと胸にしまいながら進みます。
そして、花弁が幾重にも重なった生垣の花が放つふくよかな甘い香りに、さらに気分を高揚させながら、声に従い生垣の隙間をすり抜ければ、ほら。
「ドイル様!」
「――――――――――クレア」
誰よりも愛しい人が振り向き、その瞳に私を映して名前を呼んでくれるの。
それは、とてもとても幸せな、遠い日の思い出。あの頃は、ドイル様がいらっしゃるだけで胸が高鳴り、世界が輝いて見えました。紫色の瞳を向けられて、名を呼ばれるだけで私はたまらなく幸せだったのです。
でも、そんな幸せな日々は長くは続かなくて。
年を重ねるにつれてそのお姿が徐々に見えなくなって、気が付けば私の周囲の人々はそのお名前さえも口にしなくなりました。そしてドイル様ご本人も私とお兄様に背を向けて遠くに行ってしまわれました。
「………………クレア様」
「――――大丈夫よ。セレジェイラ」
小奇麗なテントの中、不安からか僅かに震えた声で私の名を呼ぶセレジェイラの手を握り、そう告げます。そして背筋を伸ばし、胸を張ってやってきたエーデルシュタインの侯爵家と縁があるという、男と向き合います。
不安に怯えたりはいたしません。私はマジェスタ国第三王女、クレア・フォン・マジェスタですもの。この程度の事で、泣き喚くような教育は受けておりません。例え誘拐犯を目の前にしようとも、王女らしく悠然と微笑んで見せますわ。
「クレア王女の仰る通りです。ブルーム侯爵令嬢様。そのように不安げにされずとも、我々が祖国まで安全にお送りいたします」
「ならば、今すぐ使いの者を。今から出していただければ、夜が明ける前には王都から迎えがきます。わざわざ手を煩わせるのは心苦しいですわ」
「そのお気遣いは無用ですよ、クレア王女。我々はとある高貴なお方々から、お二人を安全に我らが祖国、エーデルシュタインまでお送りするよう命じられておりますから。心苦しく思われる必要はございません。どうぞゆるりと御寛ぎください」
「――――高貴なお方、ですか」
「ええ。どちらの御仁もお二人の無事の到着を心よりお待ちしておりますよ」
それまで淡々と話していたその男は、そう告げると私とセレジェイラを交互に見比べ、クッと口元上げ、笑う。嫌らしい笑みを浮かべ、私達を見る男にセレジェイラの手に力が籠ります。普通の御令嬢でしたら取り乱し、泣き出しても可笑しくない状況ですのに、流石私の侍女ですわ。そこら辺の甘やかされて育った御令嬢とは違います。
不安を必死に押し込めるセレジェイラを安心させてあげる為に、微笑みます。
笑みを浮かべた私に、セレジェイラが手の力を僅かに抜くと同時に、男が面白くなさそうな表情を浮かべました。不安に怯える女性を面白がるなど悪趣味な男です。
帰宅途中で襲われて、騎士達と引き離され、この場に連れてこられてから数時間。外はすっかり暗闇に閉ざされ、月が冷たく輝いています。
目の前の方が仰る「とある高貴なお方々」というのは、エーデルシュタインの王太子殿下と、侯爵子息様の事でしょう。あれほどはっきりとお断りしたというのに、このような暴挙。目の前の躾のなっていない男といい、主従揃ってドイル様とは大違いな方達ですわ。
「――――お言葉ですが、私達がエーデルに足を踏み入れる事はございませんわ」
ドイル様と比べるにも値しない男を見据え、そうはっきりと告げます。母上や側妃様方に教わった様に、毅然した態度で明確に。しつこい男性をお断りする時の基本だそうです。決して甘い顔や優しさを見せてはいけません。
そんな私の態度に男が表情を険しくすると同時に、再びセレジェイラが私の手を握ったので、握られた手と反対の手をそっと重ねてあげます。そして男を小さく笑ってやりました。
「っ!」
拳を握り何かに耐える男を、真っ直ぐに見据えます。私の態度が面白く無いのか顔を赤らめ睨み付けてきますが、目の前の男がどのような態度を取ろうとも、私が心乱すことはありません。
力づくでこられては敵いませんが、どのような態度を取ったところでこの男が私達を傷つけることは無いでしょう。「とある高貴なお方々」が望んでいる以上、私達に何かあれば首を飛ばすのは目の前の男のほうですわ。
それに何より、この方達は大きな思い違いをしています。
彼等はこの誘拐が上手くいくと信じ切っているようですが、そのようなことはあり得ません。だって、ほら。
――――――。
【愛の女神様】のお声が聞こえますもの。
先ほどから聞こえ始めたそのお声は、私に向けられたものではありません。ならば女神様はどなたに語りかけていらっしゃるのか。そんなの考えなくても分かりますわ。
だから何も怖がる必要はございません。胸にある紙薔薇の飾りと共に交わされたお約束が、破られることはありませんもの。きっと、ドイル様が迎えに来てくださいます。
「私の運命はエーデルではなく、ここマジェスタにございます。勿論、セレジェイラの運命も。ですから、貴方の主人達が望む形でエーデルシュタインに足を踏み入れることは、未来永劫ございませんわ」
「…………」
「そう、あのお方にもお伝え下さいませ」
胸に湧く喜びのまま笑みを浮かべ、ドレスの胸元を飾る紙薔薇のブローチを撫でます。そんな私に目の前の男が息をのむと同時に、テントの入り口で様子を窺っていた男性が口笛を吹き囃し立てます。
「――――もうすぐ、迎えもまいりますわ。貴方方も、お帰りのご準備をされた方がよろしいのでは?」
「言うじゃねぇか、姫さん! 強気な女は嫌いじゃねぇぜ?」
「ありがとうございます」
「………………何故、そこまで」
私の言葉に愉快そうに答えた男性は、男達に雇われた傭兵だそうです。アイスブルーの瞳を細め楽しそうに笑う彼に笑顔でお礼を言えば、エーデルの男は理解し難いといった表情で忌々しそうにそう呟かれました。
「あら? 攫われたお姫様を、王子様が助けにきてくださるのは物語の定石ですわ」
「くだらん。かの御方に望まれたのだ! 貴方方は大人しくエーデルに来ればいい!」
わざと首を傾げて、さも当然といった様子で言い切ってさし上げれば、ついに耐えかねたのか目の前の男が声を荒げます。その声に、びくりと身を強張らせたセレジェイラの手を握り返していると、男は一つにまとめられた藍色の髪を翻し「不愉快だ!」と言い捨ててテントを出て行ってしまわれました。あれでは、女性にはおもてになりそうにはありませんわ。
「なぁ、姫さん」
「なんでしょう?」
「あいつら、あれで相当準備してたみたいだし、それなりに使える魔術師を連れてきてる。実際この数ヶ月間、一度もこの国の連中に見つからなかった。俺達も、この場所もな。それでも迎えは来ると姫さんは言うのか?」
肩を怒らせ出て行った男にそんな評価を下しながら見送れば、雇われた傭兵が静かに私を見つめながらそう仰いました。お金で雇われれば、雇い主の為に働くのが傭兵の仕事です。その仕事を糧に生きていらっしゃる方を非難する気など私にはございませんでしたので、その何処か期待の籠ったアイスブルーの瞳を見つめ返し、微笑みます。
「――――必ず、いらっしゃいますわ」
「…………そいつは強いのか?」
「マジェスタ国一、いいえ、世界一素敵な方です。貴方方など足元にも及びませんわ!」
「はははははははっ! 大きく出たな、姫さん!」
尋ねられた質問に胸を張ってお答え差し上げれば、傭兵は体を揺らしそう仰られます。
「本当のことですわ」
「――――そりゃ、楽しみだ」
可笑しそうに笑う傭兵に、私も自信満々にそう答えます。わざとツンした態度で告げれば、傭兵はそう呟き唇を舐めると大きな斧刃のついたハルバートを担ぎテントを出て行かれました。
「…………迎えは来るのでしょうか?」
――――――運命がお迎えに来たわよ。
男達を見送ったあと、静まり返ったテントの中でセレジェイラがそう呟くのと、女神様が私に語りかけてくださったのはほぼ同時でした。
「大丈夫よ」
女神様のお言葉にとくとくとく、と鼓動が速まります。こんな状況だというのに高鳴る己の胸を感じながら、はっきり聞こえた女神様のお声に笑みを深めます。
そして、不安を滲ませた声で呟いたセレジェイラに言い聞かせます。
「約束を違える方じゃないわ」
「……でも」
「心配いらないわ。――――――、」
もう、いらっしゃったから。
テント内の会話が聞かれている可能性を考慮して、唇の動きだけでセレジェイラにそう伝えます。
音の無い言葉を確かに受け取り、目を丸くさせたセレジェイラに微笑みかけて足元を指させば、彼女は驚いた表情を浮かべたものの直ぐに切り替え、心得たとばかりに何処からか取り出した携帯用の裁縫箱で私のドレスの裾を走りやすいようあげてくれました。次いで、自身のドレスの裾も。
そして無言で逃亡準備を終えた私達は手を取り合い、テントの入り口を見つめながら静かにその時を待ちます。
――――ドイル様。
胸元にある紙薔薇をもう片方の手で撫でながら、お兄様の入学式に見たドイル様のお姿を思い浮べます。一緒に居た頃よりも、背が伸びずっと逞しくなったお姿。
あの日、紫色の瞳に真っ直ぐ見つめられたお父様に、嫉妬してしまったのは私だけの秘密ですわ。
――――――早く来てくださいな。
そして、幼い頃のようにその瞳に私を映して、名前を呼んで欲しいの。
それだけで、私は世界一幸せな女の子になれるから。
記憶の中にある白い花の甘く優しい香りと、愛しい人の姿を思い浮かべ胸を高鳴らせる私を、白馬に乗った王子様が力強く抱きしめてくれるのは、それからすぐのお話。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。