第三十五話
『始まりますね。ご主人様』
「…………そうだな」
リュートについて考えているうちに準備が整ったようだ。リュートは既にスタート地点に立ち、ヘングスト先生が旗を振り上げている。
リュートの腕前ならば80秒前後で終わってしまうというのに、ブランに声をかけられなかったら見逃すところだった。真剣勝負だと言うのに相手の番を見ていないなど失礼過ぎるだろう。
それに俺が負ける可能性だってある。
あの馬がブランより良馬だとは思わないが、リュートがどんなスキルを持っているのかは分からない。リュートの持っているスキルが調教系でなく、馬の能力を補正するものばかりだった場合、俺はきっと負けるだろう。
この世界のスキルには、決して埋めることが出来ない壁がある。俺がどうあがいても【槍の勇者】にはなれないように。
ブランの声を切欠に全神経をリュートに向けた瞬間、ヘングスト先生が旗を振り下ろした。同時に、リュートが操る栗毛の馬が飛び出す。
速い!
リュートの馬のスピードはブランより少し劣るか、同等程度に見えた。馬自体の能力はブランが圧倒的に上だが、やはりリュートは俺よりも有用な馬に関するスキルを複数持っているのだろう。
1つ、2つ、3つと垂直障害を飛び越え勢いを殺すことなくリュートは4、5番目のオクサー障害も飛び越えていく。障害の合間の道も最短の距離で駆けるリュートは速い。野次馬達もリュートの手綱さばきを、息をのんで見守っている。
その後の障害も軽々飛び越え、リュートはラスト3つのオクサーのコンビネーションに差し掛かった。ここまでノーミスできたリュートは8、9のオクサー障害も問題無く飛び越え、ラストのオクサー障害に差し掛かる。
そして、ラストのオクサー障害の助走に馬が入った瞬間、リュートの手が僅かに動いたように見えた。
気の所為といえば気の所為のような些細な動きだったが、俺には確かにリュートの持つ手綱が引かれたように見えたのだ。
残念なことにその真偽は確かめようがなく、そうこうしているうちにリュートの馬は見事な弧を描いて最後のオクサーを飛んでいた。そしてそのままゴールするかのように見えた。
しかし着地の瞬間。
リュートの馬の後ろ脚がバーに掠った。そしてその衝撃を受けてバーはたわみ、両脇の棒の上で弾んでいる。
どっちだ!?
多くの人間が見守る中、バーはグラグラと両脇の棒の間で揺れている。その間にゴールしたリュートは慌てて方向転換した所為で嘶き前足で空をかいている馬を宥めながら、最後のオクサー障害に向き直った。そしてリュートの馬が地に四本脚を付けた瞬間、揺れていたバーが、カランッと乾いた音を立てて落ちた。
辺りにカラカラカラカラとバーが転がる乾いた音が響く。
多くの者が口を噤み転がり落ちたバーを見る中、審判をしていた職員の一人が先ほど同様、拡声器代わりの魔道具を取り出した。そのまま職員は周囲の者達が固唾をのんで結果を待つ中、はっきりとした声で告げる。
「タイム、78・07! 加算タイム1秒! よって、リュート・シュタープのタイムは79・07!―――――――よって、この勝負はドイル・フォン・アギニスの勝ちです!」
職員がリュートのタイムを叫んだ瞬間、ドッと地鳴りのように周囲が沸いた。
歓声に沸く周囲とは裏腹に俺は冷や汗をかく。俺のタイムは75・08、リュートがバーを落とさなかった場合、その差は僅か2・99。3秒にも満たない差しかなかったのだ。それでも結果的には勝っていると言えば勝っているが、極僅差である。
わずかなミス一つで逆転していた勝敗に、先行してプレッシャーをかけておいてよかったと心底思う。
そしてそんな僅差で負けたリュートは、唖然とした表情で地面に転がったバーを見つめていた。唖然とするリュートを心配そうに栗毛の馬が様子を窺っているが、リュートは己の馬に声をかけることも忘れ、馬に力無く凭れかった。その瞬間僅かにリュートが口を開いたのが見えたので、俺は反射的に【風の囁き】を使いリュートの呟きを拾う。
「…………そんな、………こんなはずじゃ、…………すまない、セレジェイラ!」
周囲の騒ぎが凄すぎて途切れ途切れにしか聞こえなかったが、確かにリュートは『セレジェイラ』という女性の名を呟いた。
何処かで聞いたことのあるその名に、首を傾げながら俺はブランの手綱を持ってリュートの元へ向かう。
『セレジェイラ』とはこの辺りでは珍しい女性の名だ。記憶に引っかかるその名を必死に呼び起こそうとしたが、結局思い出すまでには至らずリュートの元についてしまった。
己の背で項垂れるリュートを窺う栗毛の馬は、心配そうな空気を纏っている。本来ならばそんな馬を慰めるのは主人であるリュートの仕事なのだが、それどころではないリュートにヘングスト先生は仕方がないと言った様子で、しょげる馬を慰めてやっている。
「…………落ち込むより先に、己の馬を労ってやるのが先ではないですか、リュート殿。己の馬をないがしろにするなどシュタープ家の名が泣きますよ」
散々アギニスの名に泥を塗った俺が言える立場ではないが、それしか声をかける切欠が見つからなかったので許して欲しい。思わず声をかけるのが躊躇われるほど、リュートの空気が重かったのだ。
俺の言葉にヘングスト先生が何か言いたそうな様子を見せたが、何か思う所があったのかしばらく悩む素振りを見せたが結局口を噤んだ。
そして一方のリュートはというと、俺の声に肩をピクリと跳ねさせた後、のろのろと顔を上げ俺を見た。その表情は苦々しく、僅かに後悔が滲んでいる。
「…………お前に言われずとも分かっている!」
「ならば、結構です。それよりも、お約束は守っていただきますよ?」
慰めも同情も俺がするべきものでは無いだろう。模擬戦同様俺は正々堂々戦ったのだから。だから、俺はリュートに近づき、彼にだけ聞こえるように告げる。
「殿下には、二度と近寄らないで下さい。殿下の隣は決して出世の道具じゃない」
「わかっている! それでも俺は――――!」
「『セレジェイラ』という女性の為ですか?」
「っ!」
「リュート殿にどんな理由があろうとも、殿下を利用する事だけは許せません。―――――― しかし、同時に私は貴方に借りがある。私でお力になれるのでしたら、お力になりますよ?」
「元はと言えばお前が不甲斐ないから!」
「俺が?」
「~~! お前には関係ない! 約束は守る! もう殿下には近づかない! これでいいだろう!?――――――行くぞ、チェスナット!」
俺が口にした『セレジェイラ』という名に過剰に反応したリュートは、約束は守ると叫びそのまま馬を走らせて行ってしまった。
野次馬達が囲んでいた方向とは反対側の柵を軽々飛び越えそのまま、草原の中を駆けて行ってしまった彼の馬を追いかけようにも馬に乗っていなかった俺には一歩遅く、俺がブランに跨りリュートを追って柵を越えた頃には草原の何処にもリュートの姿は無かった。
近くには雑木林も見えるので多分あの中に逃げ込んだのであろう。多くの馬を放牧する為に、近くの雑木林をも取り込んで設計されている馬牧場の広さに、思わず舌打ちをする。あの雑木林の先は崖のはずだが、不慣れな雑木林を抜け無ければいけない上に、この広い馬牧場で馬の扱いに長けたリュートを追うのは難しい。
まさかリュートが言い逃げするとは思わなかったが、約束は守ると言ったのだ、多分今後リュートが己から殿下に近づくことは無いだろう。それにこれだけ大々的に勝負をしたのだから、周囲の目もあって今後一切殿下に近づけない。
そうは思うものの、今一すっきりしない結末にもやもやしたものを抱えながら、俺はヘングスト先生達の元に戻った。
そして、同時にリュートの言葉を思い返す。
『元はと言えばお前が不甲斐ないから!』
俺が不甲斐ない所為で、『セレジェイラ』という女性とリュートの間に何かあったと言うことだろうか? 『セレジェイラ』という女性が誰なのか思い出せれば何か分りそうな気もするのだが、生憎その姿を思い浮かべるまでにはいかなかった。
リュートと『セレジェイラ』という女性の関係を調べてみないと何とも言えないが、あの口ぶりからするに中等部時代かそれ以前の馬鹿息子だった俺が関係しているのだろう。
立ち去ったリュートを思い、改めて正道を行くと言うのは難しいと思う。父上や御爺様達の期待に応えたかった。流石アギニス家の息子だと言って貰える息子でいたかった。この国を背負う幼馴染が頼れる人間になりたかった。
高いスペックがあろうとも、いい生まれであろうとも、誰に対しても胸を張れる生き方をすると言うのはこんなにも難しい。【勇者】のように全てを守るのではなく、どちらかしか選べない己はなんと不甲斐ない。
カポカポとブランを歩かせながら、俺は己の手を見る。
俺の手は小さい。両親や御爺様が伝説と謳われる人間であろうとも、彼らから受け継いだ素晴らしいスペックがあろうとも、俺がこの手で掴みとれるものはごく僅かだ。母上や父上や御爺様のような全てを守る【英雄】には程遠い。
彼らが俺にそうしてくれた様に、俺も周囲を、この国を大切にしていきたいと思う。しかし、未熟な俺はどうしても何かを傷つける。
それでもいつか【英雄】達に並び立ち、その背を越えていきたいと思う。今はまだ近しい人達にしか手を伸ばすことが出来ないけれども、いつかこの国を救える男になりたい。いや、なろうと思う。どれだけの時間を費やしたとしても必ず、俺を愛してくれたこの世界が俺も好きだから。
「ドイル様!」
戻ってきた俺の姿に気が付いたバラドが嬉しそうに俺の名を呼ぶ。その周りにはルツェ達やレオ先輩達薬学科の方々にエレオノーラ先輩達や、ヘングスト先生達馬牧場の職員方が障害飛越の周りに集まっていた。
その中に殿下とジンの姿は無く、二人は先ほど同じ柵の向こう側にいた。ジンがしきりに殿下に何かを訴えているが殿下は聞く気が無いらしく、首を振っている。
俺を待っていてくれているらしいバラド達にはもうちょっと待っていて貰うことにして、俺は先に殿下の元に向かう。バラド達の元に向っていたブランの足を止めさせ、殿下達の方向に向おうとした瞬間、殿下がそんな俺に気が付いた。
パチと俺と目が合った殿下は口を開こうとしていたが、結局何を言うでもなく口を噤むとそのまま方向転換して野次馬達を掻き分けて歩き出す。そんな殿下をジンが慌てて止めようとしていたが止めきれず、殿下ともども野次馬達の中に姿を消してしまった。
俺はというとそんな二人を唖然と見送っていた。
に、逃げられた!?
何時もならば怒ってくれる殿下が何も言わずに、立ち去ったことに底知れぬ怒りを感じた。この場に来てくれていたと言うことは見捨てる気は無いのだろうが、何も言わない殿下など初めてである。
…………あれは、謝った所で許してくれない気がする。
今まで見たことのない反応を見せた殿下に、どうやって謝罪すべきか、果たして謝罪は受け入れられるのか、などなど様々な考えが脳内で浮かんでは消えを繰り返していた俺は、固まった動かない俺を不審に思ったバラドが声をかけるまでその場で固まったままだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。