オリンピック開会式批判を見て思う事
あのオリンピック開会式は”クソ”だ。だが、それに対する批判を見るに”日本オワタ”的な代物が多いのには大いに疑問符を感じる。まぁ確かに、緊縮オリンピックとかやりだした時点で、どう足掻いても限界点は低くなるだろうなって感じだが。多くの人が感じた”なんか変じゃね?”という感覚の正体は、舞台裏を見りゃ”そうなって当たり前だろ”と言うより他にない。日本オワタというのは、日本にはもうコンテンツも何も無いんだぁ~的なアレでは無い。オリンピック、オリンピック言いながら、こ~んな連中に開幕式のプログラムを任せてしまうような自己決定意思の無さ、それこそが日本オワタの正体である。
まず、あの演出を見て日本は何も無いんだ論を述べる人たちは完全に誤った前提を基に思考している。即ち、国威発揚だとか、”日本スゴイ”という事を演出する為にあの開会式がプログラムされたのだろうという事である。全く誤った前提だ。
そもそも、IOCからしてしょっちゅう”Imagine”流すような感性してんだから、基本的に脱国家主義で、自力救済世界でも他者を踏みつけながら自分は生きられるとか思ってるアレな感性の持主なのである。そんな連中が”日本らしさ”なんて、構築する気が端から無い事など考えるまでも無い事なのだ。
JOCの連中がどういう意識でプログラムを考えたか? そのことを端的に表わす記事が存在する。日刊スポーツの《五輪パラ開閉会式統括、組織委日置貴之氏が共通コンセプトに込めた思いとは》というインタビュー記事がそれだ。開会式前7/14のこの記事を見りゃあ、あのような開会式になったことは不思議でも何でもないと判る。あの開会式は”日本下げ”と”日本ワースト”の精神をコンセプトにして構築された代物なのだ。
インタビュー記事は、50億を100億を200億に見せる良い物を作りました~という如何にも軽薄なデフレマインド剥き出しの自画自賛から始めり、この大会のコンセプトについて述べるところから始まる。この大会のコンセプトは”Diversity and Inclusion”だ。多様性と調和では無い。ダイバーシティ&インクルージョンですら無い。Diversity and Inclusionである。お判りだろうか? 英語である。その他にも”Moving Forward”だの”United Emotion”なんだの英語でコンセプトを構築している。
このことについて、この統括はなんと述べているか?
国民なんて概念は”完全に”時代遅れだと述べ、ちゃんと『dɪvˈɚːsəṭi』と皆が発音できるようにする理解する開閉会式にするとか言っちゃっているのである。皆さんも、ちゃんとdɪvˈɚːsəṭiと発音してくださいね。”ダイバーシティ”とかそんな日本語発音では世界に通用しませんよ~、という訳だ。
この人物は「受け手の気持ちになって考えることが唯一、コミュニケーションの今後のあり方だ」
な~んて言っているが、インタビュアーが「高齢者の方も読むし、日本の新聞なので日本語表記がほしい」と述べると「コンセプトの日本語は用意していない。世界に分かってもらいたいということで英語のみになった」なんて答えている。お判りだろう。彼の言う世界に日本は含まれていない。ついでに非英語圏も世界では無いという事だ。帝国主義時代もかくやという白人至上主義ぶり。まったく、ご立派な名誉白人様である。
というか、マジでこの記事は開会式の鏡である。グローバルマンセー、日本下げや”Diversity and Inclusion”とかはつらつらと述べる一方。日本の都合に対しては一言以上の労力を投入していない。
-東京五輪招致の起源だった「復興五輪」という言葉をコンセプトに盛り込まなかった意図は?
「省いたつもりはない。たまたま書いてないだけ。」
―どのように岩手、宮城、福島の方々にメッセージを届けるのか?
「見てもらえば分かる」
-医療従事者への感謝を表す内容はあるか?
この問いに至っては、質問には答えずにグローバルマンセー、日本下げや”Diversity and Inclusion”とかをつらつらと喋り出始末である。「まあ、皆さんは日本人しか読まないメディアかもしれないけど(笑)。僕自身、海外でずっと生活してるので、やっぱりすごく不思議に思うところも日本にはある(笑)」
「演出には復興の観点もあり、1ミリも忘れていない」そうだが、まぁ、この人物にとってはアレで、復興五輪のコンセプトは見てもらえば分かるぐらい十分盛り込んだのだろう。日本的なモノに興味が無い、いやそればかりか破壊するとキモチイが良い位の感性の持主に、日本的なモノを作れると、作ってくれると、どうして思えるのだろうか? 脱構築主義でもを気取って、ジャズで歌舞伎やらせたりと軽薄極まる感性で描かれた”形無し”の世界。あんな気色の悪い代物を「美しいと言え」と迫られる。コレがグローバリズム。コレが”多様性と調和”だ。まさしく、”犯されている”と言うより他に無いだろう。
常識的な日本人の感性というヤツを侮辱され蹂躙され凌辱されているのだ。恐らく、明治時代の人たちはこのような気持ちを味わったのだろう。いや、現代人の苦行はそれ以上か? 当時の人達は欧米の姿を見て”違い”に驚愕した事だろう。現代日本人が欧米に行けば彼らとは逆方向に驚愕する事になる。”多様性と調和”運動の果ては、950$以下の窃盗ならば警察が介入しないという狂った世界なのだから。
サンフランシスコは2014年にそういう条例を制定した。交通違反の切符よろしく、出頭せよと通知が来るだけ、逮捕されても翌日釈放。今では完全に放任状態だ。カートに商品満載する”万引き”、BLM運動との兼ね合いで警備員がこの凶行を止めようとすると、なんと逆に解雇される。この盗人どもは完全に道徳心が何処かに行ってしまっており、パチッた商品を”返品”して来るそうだ。『返す』という意味じゃないよ。クーリングオフ。何処まで狂ってんだろうね?
まぁサンフランシスコのように公式に放任宣言をするような例は確かに少数であろうが、無制限に移民を受け入れた結果、無秩序にホームレスが増大し、スラムが拡大して治外法権が生まれるというのは欧米では普遍的に起きている事なのだ。そして”多様性と調和”を盾に犯罪者が大手を振って現地の人々に好き放題やらかし、犯罪を告発されたならば多様性と調和の敵だと騒ぎたてて相手を潰すというのも、グローバリズムが根付いた世界では見慣れた風景である。