彼の者
「”盗賊たちの何割か”が既に死亡している可能性が高い」
その話題が出たのは、砦攻略の作戦会議の最中だった。部屋に持ち込んだ大量の書類を睨みつけていたディズが唐突にそう告げた。
「死亡、している、ですか?では盗賊たちは死霊兵であると?」
「そうだね。
骨だけの死霊兵たちと違い、肉を持っている。腐る前の死体を、あるいは腐り落ちた血肉を他の動物の血と肉で補って作り出された人形だ。
血肉が残っている分、動きは死霊兵と比べ力強い。また、術師は細かく分けた自分の魂ではなく、もともとの死体の魂を利用する場合もある。
だから、蘇死体は自分の意思である程度動くし、”死んでいると気づかない”事もある
「しかし根拠は?」
「はいこれ、冒険者ギルドからもらってきた過去の【
「こんなもんまで……」
冒険者ギルドからこういう情報収集も出来るのだ、とウルは記憶しながらその中身を確認する。パラパラと眺めていくと、二年前に発生した都市外の強奪事件の件だった。
「犯人は数年前に追放処分を受けたアルト国出身の犯罪者、何件かの小規模の強奪被害が発生し、商人ギルドが冒険者ギルドに討伐以来、カナンの砦周辺で犯人と同特徴の追放者発見、襲撃、相手に5人の死傷者を確認後、魔物の襲撃が重なったため撤退……」
読み進める、そしてディズが指摘したいであろう場所を見つけた。
「
成功、つまり冒険者ギルドは盗賊たちの討伐は成った、と考えたわけだ。だが、今回島喰亀の被害が発生した。では冒険者ギルドの判断が誤っていた?無論そういうこともあるだろう。しかし、仮にも現在の世界で最大規模のギルドの判断だ。そこには一定の信頼がある。
この討伐成功とは、
「少数だったという事でしょうか?」
「それもあるし、5人の死傷者が出た程度でほぼ間違いなく崩壊しうる程度の集団だったという事だろう。なにせ都市の外だ。ウル、君は都市の外で何年も生き残ることは出来るかい?」
「無理だ」
ウルは即答した。そう、ムリだ。準備をし、食料を確保し、都市と都市の間を移動する事なら出来る。だが、生活を築くのは不可能だ。日々魔物に襲われ夜も眠れず、食料の確保もままならない。早々に疲れ果て、魔物に食われるのがオチだ。
10人20人集まろうと、都市の外で【太陽の結界】なく暮らしていくのは困難だ。だからこの世界のヒトは城壁を作り、結界を張り、その狭い土地の中で暮らしている。
「少数の追放者たちで構成された盗賊。多分盗賊行為自体、生き残るための苦肉の策だったんだろう。更にそれが冒険者によって崩され、死者が出た。崩壊は確実だし、実際それ以後、盗賊被害は出なかった。島喰亀の一件が出るまでは」
「では、今回の盗賊は以前カナンの砦で出た盗賊とは別の盗賊という事ですか?」
「ところが、君が発見した小人のエセ商人から面白い話を聞けた」
曰く、エセ商人は、盗賊たちとはずいぶん以前からの顔見知りであったのだと証言したらしい。
2年以上前からカナンの砦を根城にしていた盗賊者たちであり、そしてその時から自分は彼らに物資を融通していた。しばらく姿を見せなくなっていたが、急にまた顔を出して、商売を要求してきたのだ。と、彼は言っていた。
都市国への背信行為についての減刑の為の必死の証言だ。嘘はないだろう。と、ディズは言う。
「……つまり、同一人物?」
「多分ね。姿を見せなくなったのは、恐らく冒険者に討伐された時だろう。そしてしばらく間を開けて、再び姿を見せた。しかも、死霊術師が傍にいる。これだけの情報が揃ったら、死者と疑わない方がおかしいよね」
全員が、ではないだろうけど、と、ディズは付け足した。少なくともグリードからの連絡を聞く限り、アカネが生かして捕らえた盗賊は、文字どおり生きていたらしい。
「でも、骨だけの死霊兵と違うとはいえ、死んでるんだろ?エセ商人相手にどう誤魔化したんだよ」
「幻術の類かな。死霊術師はよく使うよ。蘇死体だけじゃなくて、普通の死霊兵だって、生きたヒトらしくみせかけることだってできるだろうさ。」
「一見して区別はつかないって事か。まあ、生きていようが死んでいようが手加減なんてする余裕は無かろうが……」
と、ウルが考えていると、隣で聞いていたシズクは少し困ったような顔をしていた。どうした?とウルが問うと、
「盗賊だけではなく、人質の皆様にも警戒が必要になるかもしれません」
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そして現在
『ほう』
「……っ!!」
ウルは壮年の男が軽々と振り下ろした長剣から繰り出された斬撃を受け止めながらも、戦慄した。咄嗟に宝石人形の盾で受けきったが、男の剣撃は明らかにウルの技量を上回っていた。盾で受けきったはずなのにその衝撃が足まで届いた。震えと、汗が噴き出す。
先ほど相手していた盗賊たちとは全く違う。達人の剣技だ。
だが、
『凌いだ。驚いたの。完全に意識の不意を突いたつもりであったのだが』
ウルはその相手の不意打ちを完全に防ぎ切った。
「な、なに?!」
「あのヒト、体が……?!」
人質たちから悲鳴と混乱が巻き起こる中、男の姿が変わる。人畜無害そうな、年老いた皺の入った男の顔が掻き消える。幻術がかかっていたのだろう。その下から現れるのは死肉ではなく、死霊兵たちと同じ骨の身体。しかしそこらに群がる死霊兵よりも一回り大きかった。更に人骨で出来た鎧を纏っている。
「ウル様」
「結界を維持して、中庭から離れてくれ。こっちは【聖水】で凌ぐ」
「時間にお気をつけて」
シズクに指示を送り、ウルは薬瓶をポーチから取り出し、飲む。
聖水、魔除けの加護、要は魔力の気配を隠す効果を持つ魔法薬だ。当然眼で目視されれば意味はない。が、死霊兵のように”目”が効かず、魔力探知で人を襲う五感を持たぬタイプには有効だ。
高価であり、時間制限があり、アルトの騎士団も必要としてたこともあり、数もあまり用意できなかった。
『むう、お主が見づらくなったな。何かしたのか』
「別に、何も」
しかし、目の前の死霊兵にはあまり効いていない。単なる死霊兵ではない。先ほどからカタカタカタ、と頭蓋骨が動き、声が伝わってくる。目の前の死霊兵がしゃべっているのだ。その他大勢の死霊兵のような魂なき操り人形ではない。意思がある。
「蘇死体でもない。なんだあんた」
『
死霊騎士。死霊兵は魂すらない、魂の入れ物だった外枠に術師の魂を込めて操るだけの人形だ。しかし騎士は蘇死体と同じく、もともと込められていた魂そのものが使われている。世界に還らず留まった強い魂を利用した、強靭なる魔物。
魔物の等級、十三階級の内、十級。宝石人形と同じ。ウルは警戒を強めた。
『しかしお主にも驚いたの?先ほどから動きを観ていたが、まだ戦いに身を置きはじめて間もないだろう。随分とぎこちない。にも拘らず一撃を防いだ……気づいていたカ?』
「人質に死者が紛れ込んでいた可能性は予想した。その中であんたは男で、ガタイがよくて、人質のように見えなかった。警戒して当然だ。」
ウルはもつれそうになる舌を回しながら、時間を稼いでいた。ディズが死霊術師の暗殺を成功させれば、目の前の状況はすべて解決だ。基本的に目の前の死者の群れも、この強靭な死霊騎士も、術師さえ消えれば解放されるのだから――
《はろ、ウル。聞こえる?》
そして、耳元から魔具を通したディズの声が届いた。ウルははやる気持ちを抑え、答える。
「聞こえる。死霊術師は?ローズはどうなった?こっちにはいなかったが」
《単刀直入に言おう。ローズは救えたが他は手遅れだった。術師は滅せていない》
その答えにウルは息をのみ、そして幾つかの言葉を巡らせ、腹から息と共その言葉を全て残らず吐き出した。
《怒ってもいいよ?》
「……俺達や、騎士団の尻に鞭を打って、急かしたのはディズだ。そのアンタですら間に合わなかったというなら、それはもう誰にも間に合わなかったろうよ。で、どうする」
余計なことを言いそうになる己を律し、ウルは問う。術師が滅せなかった。どういう状態なのかは不明だが、少なくとも目の前の骨どもがいきなり糸の切れた操り人形のように崩れおちることはまずないだろう。で、あれば次の策を考えねばならない。
《君は連れ出せるだけの人質を連れて今すぐこの砦から脱出してくれ》
「お前はどうする気だ」
《勿論後から逃げるさ。残るは騎士団に任せるよ。これ以踏ん張る義理もないし”にぇ”》
聞こえてきたその声に、ウルは眉をひそめた。
「……今噛んだか?」
《噛んでない》
「何動揺してんだ。俺達だけ逃がす気か」
《……》
「ローズは見つかったんだろう。あとは全員連れて逃げれば一応目的達成だ。なのに何故逃げない。逃げたら何が起こるんだ」
ディズの虚言を無視してウルは話を進めた。ディズは何か悩む様にしばらく唸っていた。その間魔具越しに彼女の周囲から激しい金属の擦れるような音が繰り返し鳴り響いていた。
《……後悔するよ?》
「もうとっくにしている。はよ言え」
《
ウルは、再び息をのみ、そして先ほど以上にたくさんの言葉が頭の中で洪水のように巻き起こった。そして、絞り出すように声を吐き出した。
「……手伝うから、なにをしたら、いいか、言ってくれ」
《だから後悔するっていったじゃん》
うっさい、と呻く。そんな話を聞いて「じゃあ俺達は逃げるな」って言えるわけがないだろう。ああ、だから何も聞かずに逃げるようにと取り計らってくれてたのかありがとうございます!!とウルはヤケクソ気味に心の中で吐き出した。
「で、何をすればいい」
《―――いいだろう、じゃ付き合ってもらおうか。そっちで赤黒い魔石見なかった?》
ウルはすぐに思い当たった。今や死霊兵の巨大な塊となったソレに目を向ける
「見えて”いた”。死霊兵と蘇死体が続々と群がって一塊になってる」
《それ壊して》
「まーじか」
出来るかいボケェ。
《その赤黒い魔石は死霊術士”だった”ものだ。それを壊さないと死霊が崩壊しない》
「俺達で倒せるのか」
死霊術士が自分たちには手が余るから、ディズが戦うことになっていた。その役目をいきなり自分たちができるのかわからなかった。
《死霊術師本人は殺している。あの魔石はその”残骸にしがみついていた魂”を利用した魔石だ。卓越した死霊術も使えない動力源だ。魔物の魔石と同じものだと思えばいい》
「全ての死霊兵たちの核か」
元々死霊術師とはそのようなものと言えばそうだ。姿かたちまでそのものになったのだ、と思えばまあ分かりやすい。
《追加情報。術師の魔石には恐らく【暴食】の【竜】の加護がついている。》
「暴食……【竜】?!」
竜、という単語に思わず聞き直そうとするが、ディズはそれには答える間もなく矢次言葉を続ける。
《特性は【捕食】と【膨張】だ。喰らうモノがあれば際限なく拡大する。エサを探し求めて都市に向かうだろう。何かを喰われる前に潰せ。後は司令塔には近づくな》
最後の方は彼女もいくらか早口になり、通信はブツンと切れた。その直前では金属の擦れる様な轟音が一際に大きくなっていた。向こうでも何かろくでもないことが起こっているのは間違いないらしい。
魔石を、破壊する。暴食の竜、何かを喰らう前に。
次々に与えられた情報を何とか飲みこむ様にウルは頭を振るう。そして改めて前を向くと、対峙していた死霊騎士はといえば、
『終わったかの?』
そんな風に尋ねながら、自身が握っている長剣をのんびりと眺め、素振りをしていた。一見すると、都市城壁で暇そうに見回りする騎士か何かにすら見えるほど、人くさい所作だった。
「わざわざ、待ってたのか?」
『人の会話に割って入る趣味はないわ。元より、あの術師の道具として扱われるのは不本意じゃからの』
「その割に、さっきは不意打ちに殺そうとしてきたが」
『突然命令が割り込まれ、抵抗できなかったのだ。許せ。カカ』
骨をカタカタカとならし、そしてゆらりとこちらに向き直る。途端、体が重く感じる様な圧力が体を包んだ。
『そして今もまた、どうやら抵抗はこれ以上は難しいらしい。腹が立つの』
「ちなみに、どんな命令なんだ?」
『”喰らえ”だ。』
剥き出しの並びの良い歯がガチンガチンと音を鳴らす。この場合、肉野菜を用意すれば満足するかといえばそんなわけもないだろう。彼の頭上では赤黒い魔石、死霊術師の核がさらに強く脈動する。
『KAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKA!!!!!』
集った骨たちが魔石に吸われ、そして一個の塊となる。最初は多量の骨の球体。だが、そこから何かが伸びる。それは腕となり、足となり、体となり、そして頭となる。
異様な光景だった。同時に、死霊の騎士は剣をゆらりとこちらに向ける。
『ちなみに貴様は美味いのかの?』
「知らん。食ったことも、食われたこともない」
『では、確かめよう』
地響きがする。背後のヒトガタが形を成し、そして降りてきた。島喰亀を襲撃したものと同じ、無数の骨が積み重なってできた、
『死霊どもに食い散らかされたくなくば死に物狂いで足掻けよ小僧』
「心配するくらいならそのまま自害してくれ」
―――死霊の軍勢戦 開始―――
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
司令塔、死霊術師の部屋
「……よし、さて、待たせたね」
『ぐげげげ!!』
「ああ、そういえば君は全然待ってくれてたりはしなかったね」
「…………!!」
ローズの眼前では激闘が続いていた。
ローズをかばう様に前に立っていたディズは、彼女を守り続けていた。あの奇妙でおぞましい生物の猛攻は、ディズがどこかへと連絡を取っている間も全く緩むことなかった。
『げっげげげっげげ!!』
あの生物がいったい何なのか、ローズには全く分からない。わかっているのは、あのバケモノが攻撃を繰り返すたびに、徐々に体を肥大化させていくということだ。
『げっげげぎぎぎぎひひひ』
あの気色の悪い舌が空間をえぐるたび、幼子のような短い手足が長く伸び、爪が醜く光る。胴が更に二回りと大きくなり、背中からは蝙蝠のような翼が伸びる。そのたびに攻撃の速度は増していく。瞬く間に強くなっていくのだ。
「あたたたたたたた!っと」
それを、シズクはひたすら凌いでいた。目にも止まらない速度で剣をふるい、四方八方から繰り出される舌の猛攻を一つ一つ弾き飛ばしていた。彼女の剣速それ自体は、決してあのバケモノが振り回す舌に劣るところはなかった。だが、それでも
「んん……!」
ディズの体の彼方此方を抉られていく。衝撃音が響くたび、血が飛び散る。凌ぎ切れない暴力の嵐が確実に彼女の身を抉っていた。その理由もわかっている。彼女がローズを守るため、その場から一歩も退こうとしないからだ。
「ディズ!!!」
「動かないで、陣がぶれるから」
思わずローズは叫ぶ。が、激音を縫う様にディズの声が耳に届いた。そして気づく。彼女の紅の鎧の足先が針のように伸び、そしてこちらの足元に術式を刻み円を描いていく。精緻で、複雑な、幾重にも重ねられた式によって構築された魔法陣。
「【白結界】」
カン!とかかとで術式の端を踏む、同時にくるんと彼女は一転し、魔法陣の中に転がり込んだ。完成された結界が淡い光を放ち、ディズとローズの身体を守るようにして包み込んだ。
『ぐぎいいいいいいいいいいいいい!!!』
それを嫌がったバケモノが、逃すものかと言わんばかりに舌を伸ばす。だがディズへと一直線にとんだ舌は、彼女を捕らえなかった。間違いなくディズの背中をえぐるようにして伸びたはずのその舌は、なぜか彼女の身体を通り抜けて、向こう側の壁だけを抉った。
「あた、らない?」
「”ズラ”してるからね。さて」
と、彼女は手のひらをかざすと、赤紅の鎧が解け、そこからばらばらと細かい、しかし大量の魔石があふれだした。戦いの最中、儀式に使われていた魔石を掠めていたらしい。それを結界の中心に積み上げた。
「これだけ魔石があればしばらくはこの結界でも持つ。ローズは此処から動かないで」
「……って、貴方は」
「怪我治し終わったら出るよ。アレが飽きて別の所に行く前に動かないといけない」
そういいながら、ディズは紅の鎧を指でつかみ、脱ぎ捨てた。まるで液体が滑るように、奇妙な解け方をして晒された彼女の身体は、先ほどローズが見ていたよりもずっと多くの傷があった。鎧で抑えられていた傷が晒され、そこから大量の血が零れ落ちた。
《ディズ!ち!》
「へーき。治癒術で治せる」
脱ぎ捨てられた彼女の鎧自体が声を発している。”知恵の武器”の類だったのか、それはローズにはわからなかったし、その事は別に彼女にとってもどうでもよかった。
問題なのは、これほどまでの傷を負いながら、彼女が自分を守ったということだ。
顔を見合わせれば悪態しかつかなかった自分を。
「……どうして、そうまでするの」
「ん?」
「私は、貴方に救われるような筋合いは、ないわ」
救われるような筋合いは、権利は、資格は、自分にはない。そんな血塗れの怪我だらけになってまで、彼女に救われるようなことをした覚えはないのだ。
恨まれ、嫌悪され、侮蔑される覚えはある。事あるごとにつっかかり、時に悪評を流し、くだらない嫌がらせをした。だというのに、何故、そんな血塗れになってまで、彼女は自分を守ろうとする?
「だーから、どうして皆同じこと聞くのかなーっと。よいしょ」
「なにを……」
「ま、確かに私は君の家宝を悪辣な手段で奪い去った。君は私を恨んでいる。嫌がらせも山ほど受けた。私の方だって君に良い感情を抱いていない。」
でもね、と、ぽんと頭に掌を置かれる。まるで子供にするようなしぐさにローズは手を除けようとした。そうしようとして、彼女の顔を見た。
彼女は微笑んでいた。優しく、慈しむように。
「なにも、死ぬことはないだろう?」
それは、慈悲だった。親が子に注ぐような慈悲の笑みだった。庇護せねばならぬ者へと向けた、慈しみの笑みだった。
「ディ……ズ」
「神は天にいまし、世はすべて事もなし、とはいかない。唯一神がいても世は騒乱に満ち、多くの弱者は悪意に軽々しく翻弄され、振り回され、踏みにじられる」
それでも、と彼女はローズの頬を撫で、額に口づけする。途端、彼女の瞼は重くなり、ぐらりと意識が遠のいた。まって、と、手を伸ばす先にいる彼女は既に、鎧を纏いなおし、剣を構えていた。
「死ぬことはないじゃないか。失われなくたっていいじゃないか。私はそう思うよ」
《だからからだをはるの?》
結界から足を踏み出して、バケモノと対峙するディズに、アカネが声をかける。
「自分のしたいことをするのに身体を張るもなにもないよ。ただの身勝手さ」
《そうなん?》
「そうとも。さて、アカネ」
アカネが生み出した剣をディズが構える。手出しできない結界から飛び出してきた獲物を前に、バケモノは嗤っている。その濁った眼には相手を嬲り喰らう欲望しか浮かんではいなかった。
決して存在してはいけない悪意がそこにあった。
「君の全能を私に寄越せ。さもなければ死ぬよ」
《にーたんが?》
「ウルも、シズクも、アルトの住民も、ここで”アレ”を止めなきゃ何もかもが、死ぬ」
《いーわよ。しょーがない”せかい”ね》
そうだね。とディズは微笑んだ。
「でも、私はこんな世界が好きなんだよ。そこそこね」
そういって彼女は笑みを消し前を見据える。剣を構え、左手の甲を竜へと向ける。
「我、世界の守護者、七天が一人 【
紅の鎧越しに、浮かび上がった魔名が輝く。彼女を顕す刻印が手から腕、体を巡りその背へと翼のごとく浮き上がる。後ろで眠る少女を、その先の世界のすべてを守り包むような眩い輝きを、竜は忌々しげに睨み、そして咆哮した。
畏怖を与える喚き声にも一切怯まず、ディズは静かに宣告した。
「凶星を断ち、世の平穏を守らん」
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