彼女の地獄/フラグ❖
エシェル・レーネ・ラーレイ
彼女が家を出る前、エシェル・シンラ・カーラーレイだった頃。
カーラーレイ家、実家においての彼女の存在は、“汚点”だった。
「必要な時以外、我々の前に顔を出すな。不愉快だ」
当主であり、父親であるはずのガルドウィン・シンラ・カーラーレイから告げられた言葉がこれである。
ずっと幼い頃、物心が付くよりも前には親子としての会話はあった。気難しく、厳格な父親ではあったが、少なくとも父子としての体裁は保っていた。誕生日になれば、エシェルが望むものを買い与えるくらいの父としての甲斐性は彼にもあった。
だが、エシェルとガルドウィンが親子としての関係を維持していたのは、エシェルが邪霊【鏡の精霊ミラルフィーネ】の寵愛を受けていると判明するまでのことだ。
それが判明するや否や、長女として生まれた彼女の親としての責務をガルドウィンは放棄した。誕生日の贈り物として購入していた愛らしいぬいぐるみを即座に放棄し、全く状況を理解していない幼いエシェルに罵詈雑言を浴びせ、何故怒っているかも分からず、泣きながら謝るエシェルを汚らわしそうに振り払い、彼女の部屋から彼女を追い出し、使用人達が使う用具置き場に彼女を押し込めた。
最も古く、最も鮮明な、エシェルの父親の記憶がこれである。
言うまでも無く、それは幼い彼女の心に深く深く傷を付ける事となった。彼女にとって父親とは恐怖の対象そのものだ。実家の屋敷の中で、彼女は必死に、父親の視線から逃げ隠れて暮らしてきた。
しかし、実家で恐ろしかったのは父だけではない。
「寄るなバケモノ!!」
そうやって引きつった顔でエシェルの頬をひっぱたいたのは、義母だった。血の繋がった母親は、エシェルを産んだ事を血族全てから叩かれて、殆どリンチのような形で自殺した。正妻となった元愛人の義母は、エシェルを毛嫌いし続けた。近寄られれば、自分も邪霊に憑かれるといわんばかりに。
「はは!見ろ邪霊がいるぞ!屋敷から追い出せ!」
義母が産んだ弟たちがエシェルに石を投げる。半分とはいえ血の繋がった彼女に弟たちがかける情けは皆無だった。罵声を浴びせ、石を投げる。時には魔術や、精霊から賜った力までいたずらに振り回す始末だ。
「なんだか変な臭いがするわ。汚らしい悪霊の臭いよ」
「あら、家畜の臭いじゃない?饐えたような臭いがそっくりよ」
妹たちがわざと聞こえるような声でクスクスと嘲笑う。反論も出来なかった。エシェルはあまり身体を洗うことも出来なかった。屋敷の風呂場には当然入れてもらえなかった。井戸の水は冷たすぎて、身体を洗うのが辛かった。
「出来る限り早くこの家から出ていってくれよ?存在自体が迷惑だ」
ほんの数日、後に生まれた、義母の弟、元は妾の子であり、今は正当なるカーラーレイ家の次期当主となった彼女の弟は、汚物でもみるかのようなさげすんだ目でエシェルを忌避した。上から蔑むその言い方は父親にそっくりで、エシェルはいつも身がすくんだ。
「エシェルさま。だいじょうぶです。わたしはみかたです」
エシェルがすんでの所で耐えることが出来たのは、下位の官位であり使用人として奉公に来ていたカルカラの存在があまりに大きかった。
カーラーレイからすれば、接触することも悍ましいが、しかし死なれるのも面倒だったために最下位の使用人にエシェルの世話を押しつけただけのことだったのだが、カルカラのエシェルへの態度は献身的で、決して他の血の繋がった家族達のように敵意と嫌悪を投げつけてくるような事はしなかった。
彼女が居なければ早々にエシェルは心を砕いていただろう。
地獄だった。
ヒトの悪意をとことんまで煮詰めきった地獄だった。
魔物に命を狙われ、常に飢えと戦わねばならない名無しとて、これほどではあるまい。
それでも、それでも彼女は必死に抗った。砕け散りそうになる心を必死に抱え込みながら、父の言うことを守り、決して彼の前に姿を見せぬよう縮こまり、兄弟姉妹達に頭を低くして媚びるように笑みを浮かべた。自分よりも二つも三つも年下の妹や弟に奴隷のようにこき使われながらも、それでも耐えてきた。
いつか、いつか、幼い頃に向けられた父の愛が、また得られる日が来るのではないか。ほんの少しでも良いから、愛情を向けてもらえるのではないかという、ありもしない希望に縋ってのことだった。
最初から、何も与えられなかったなら、彼女はそんな風に思わなかっただろう。だが、幼い頃、1度与えられた愛情が、彼女を強く縛っていた。深く失望し、怒鳴り散らした父の怒りが、エシェルを自罰的にした。
惨たらしい仕打ちも、自分が悪いのだと、そう思うようになってしまった。
だから父に、【天陽騎士】になるように命じられた時も了承した。期待をかけてくれているのではないかという、僅かな希望にかけて。
天陽騎士と成った者は独立が認められる。つまり早々にカーラーレイから追い出すことだけが目的だったのだという事実に、気づかぬふりをして。
こうして、天陽騎士になって、家から独立してからも彼女は天陽騎士としての訓練を続けた。官位持ちの出身者として当然の教育もロクに受けてこなかったから、天陽騎士の中でも落ちこぼれで、それでも必死に、無様に、頑張った。
頑張って、頑張って、その頑張った果てに、
《死ね》
弟からの、死刑宣告が待っていた。
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「エシェル様!大丈夫ですか!」
聞き覚えのある声、カルカラの声にエシェルはゆっくりと目を覚ました。
不思議と心は静かだった。ぷつりと、何かが切れてしまったかのように、何の感情も湧き上がってこなかった。自死を促す弟の言葉に、意識まで失ったというのに、不思議だった。
「エシェル様。こうなってはもう仕方ありません。急ぎ、ここから逃げなければ」
カルカラがキッパリとそう言う。正しい意見だと思った。弟は、カーラーレイ家は、エシェルを殺す気だ。だが、エシェルは反応出来なかった。心が動かない。肯定も否定もする気にはならない。
「逃げるってんなら居場所は用意できるぜ?グラドルを離れた衛星都市にウチの実家がある……まあ、親には嫌われてるんだが、あそこなら知り合いも多い。かくまってもらえる筈だ」
カランがカルカラの言葉に助け船を出す。だが、それでもエシェルは反応できなかった。声も湧いて出なかった。思考が何一つまとまらず、解れて散らばってしまっていた。カルカラやカランが此方に声をかけてくれるが、何一つとして、彼女の心に届かなかった、
「エシェル様。大丈夫ですか?」
シズクが近づいてくる。美しい髪、端麗な容姿、鈴のような声音。何か、声をかけてくるのだろう。きっと、エシェルを慰めるような、あるいは奮い立たせるような言葉を。だが、何を言われようとも何かが響くとも思えなかった。
だが、彼女は足を止めた。彼女の前に、ウルが進み出て、彼女を制したからだ。
「――――エシェル」
ウルは、座り込み、虚ろな顔をしたエシェルの正面に座った。エシェルは、少しだけ顔を上げた。ウルの顔が視界に映る。だが、何も響かない。何も思わない。何も――
「お前、どうしたいんだ」
彼が、両の手でエシェルの頬に触れる。右の手は竜に呪われ、黒い帯に覆われた歪な手だ。少し前なら悍ましいと引っぱたいていただろう。彼女の家族が、彼女にした事を真似るように。だが、そうする気にもならなかった。
それに、嫌でもなかった。
どうしたい?
問われる。その声は深い労りがあった。ズタズタに引き裂かれた彼女の心に染みこんで、癒やして、そして死に絶えていた彼女の心をほんの少しだけ、蘇らせた。
そして、その瞬間、心の奥底に、熱が湧き上がった。
暖かで優しい想いではない。ウルを見たときに無意識に湧き上がる想いではない。
そんなものでは断じてない。
熱く、煮えたぎるような、その身をも焼き尽くすような熱だ。いったいそれがいつからあったのかもわからないような灼熱が、彼女の奥底から溢れた。そして僅かに回復したエシェルの心を一気に飲み込んでいった。
動悸が激しくなって、息が苦しくなる。汗が噴き出してきた。胸を服の上からかきむしる。頭を抱えて伏せてしまいたかった。だが、ウルは正面から彼女を見つめ続けた。まるでその熱から、エシェルが逃げてしまわぬようにするようだった。
「エシェル。どうしたいんだ」
「……!………ッあ…!!」
ウルが再び問う。エシェルは声を上げようとして、喉が震えて、まともな言葉にならなかった。代わりに両目からぼたぼたと大粒の涙が溢れた。幼い頃、父に初めて罵声を浴びせられた時だってこんなにも涙は出なかった。
視界が酷くぼやけたが、何故かウルの顔だけがハッキリ見えた。そして
「……………………………………アイツ、なんなの……!!」
そして、ようやく声が絞り出た。
自分の声とはとても思えない、血を吐くような、憤怒の声が。
そしてもう止まらなかった。
「なんだ……なんなんだアイツ……!死ねって…!!自殺しろって…!!」
「俺も聞いた」
「家でもだ!!私を見るたびに惨いことを言って!!カルカラまでバカにして!!」
「酷い話だ」
「それで、散々いたぶって、死ねって…!?死ねって!!なんなんだアイツ!!!」
涙はずっと流れ続けた。彼の腕を死に物狂いでひっつかむ。血が滲むほどに爪が食い込む。だがウルは身じろぎもしなかった。
「私はやったぞ!!アイツの!アイツらのために!!頑張ったぞ!!いっつも馬鹿にされて!こき使われて!!殴られて!!ゴミをぶちまけられて!!!」
舌が上手く回らず、言いたいことも時系列がバラバラだ。
十年以上の想いの全てが、胸の奥に頑なに封印してきた激情が、溢れかえっていた。
「それでも言われた命令は全部こなして!!家族で狩りに出るための銃の手入れもいっつも全員分やって!!家においてかれて……!!!」
エシェルが銃に慣れていた経緯、その事実をウルは黙って聞き続けた。見開かれた彼女の瞳からこぼれる涙をずっと受け止め続けた。
「天陽騎士になってからも!!こっちが手紙を送っても何一つ返事なんて送ってくれなくて!返ってきたと思ったらいきなり都市を建造しろとか言い出して!!それで!!それでも頑張ったのに!!!ふ、ふざけやがっで!!」
拳を握りしめて、ウルの胸を強く叩きつけた。強く、鈍い音がした。その八つ当たりをウルは黙って受け止めた。
行き場を失った怒りのままにウルの胸を何度も殴りつけて、それでも彼女の怒りと涙はまるで止まらなかった。そしてウルを見上げて、
「ウル…!!お前達への依頼を変える!!もうウーガなんてどうだっていい!!!だから!!だから!!」
「エシェル様!!!」
カルカラが激しい声で彼女を制止しようとする。だが、エシェルは止まらなかった。神殿の外まで響くような怨嗟を、彼女は叫んだ。
「アイツらを!!ぶっ殺してくれ!!!!!!」
親を、兄弟姉妹達を、殺してくれと言う願いを吐き出した。
十数年間押し殺し続けた、彼女の心からの祈りと呪いが形となったのだ。
後に残ったのは沈黙だ。その場にいる全員が黙った。ただ、未だ泣き続けて、息を荒らげるエシェルの嗚咽だけが部屋に響いた。誰も動けずにいる中、一人、真正面で彼女の叫びを受けたウルだけが動いた。全身をぶるぶると震わせて泣き続ける彼女の頭をゆっくりと撫でると、真っ赤に充血した彼女の目を真正面から見て、問うた。
「いいんだな?」
その問い返しに、再びカルカラはぎょっと反応した。その問いは、彼女の言葉を正すのでなく、ただ、確認をするためだけの問いかけだったからだ。
エシェルはウルの問いに対して、動揺することはなかった。零れ続ける涙の奥の瞳には憎悪と殺意が煮えたぎり続けていた。親の愛を取り戻そうとしていた彼女の心は、壊れて塵になった。
「いい」
「なら新しい依頼になるな。報酬はどうする」
「私の何もかもくれてやる。お前の奴隷にでもなんでもなってやる」
そう言われて、ウルは深々と溜息を吐き出した。そして
「――――わかった。お前は俺のものだ。エシェル」
泣き続けるエシェルを、壊れぬように、そっと抱きしめた。
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「待て!!貴方本気ですか!?」
カルカラがウルの正気を問うた。実に真っ当な反応だった。
エシェルが冷静でなくなっているのはいいだろう。しかし、それにまさかウルが応じるとは全く思っていなかった。カルカラはウルを睨んだが、振り返る彼は驚くほど、静かな表情をしていた。
「冒険者ギルドに所属しているのに、殺人の依頼を受けるのは確かに問題だけどな」
「そんなことを言ってるわけでは……!!」
「だけど向こうさん、俺たちを一人も逃さず皆殺しにする気だ。ちゃんとした道理があればギルドも正当防衛だって認めてくれる。冒険者ギルドはそこまで融通が利かない場所じゃあない。安心してくれ」
「だから!そういう話ではありません!!!」
カルカラは怒鳴った。
冒険者ギルドの規約がどうであるだとか、殺人の是非だとか、そんな次元の問題ではない。エシェルを殺そうとしている者は、エシェルの実家。カーラーレイ家。大罪都市グラドルの第一位、王だ。
つまり、この男は、大罪都市グラドルを敵に回すとそう言っている。
「正気じゃない……!」
そう直接言われても、ウルの顔にはやはりまるで動揺の色が見られない。凪のようだった。その冷静さが逆に狂気を思わせた。
「逃げる道を用意すると言っているのです!!何故立ち向かおうとするのですか!!?」
「ああ、それで少し確認したいことがあったんだ。カルカラさん、少し良いか」
ウルはそう言って彼女に向き直る。カルカラは訝しんだ表情のまま一歩前に出た。
「失礼」
するとウルは懐から小剣を取り出してそのまま彼女の胸に突き立てた。
「――――――え?」
彼女らしからぬ気の抜けたような声がカルカラの喉から漏れた。
全フラグ到達 【宵闇の魔鏡姫】降誕確定