のっぺらぼう

作者: 赤の虜

短編です(-_-メ)

「のっぺらぼう」


  のっぺらぼうが今日も行く。

  あっちへふらふら、こっちへふらふら。

  顔が惜しけりゃあ近づくな。

  夜更けになれば、顔をはがれて、皮ぬすまれて、あげくすべてを奪われる。

  お天道様は蛮行なんて許さねえが、月の女神はなにごとにも寛容なこと。

  のっぺらぼうが如何しても微笑み、ころころ笑うだけ。

  夜が更ければのっぺらぼうの独壇場。

  それが嫌なら家の奥の、そのまた奥で震えてな。


 ***


 ざわざわと、あちらこちらで誰も彼もがこそこそと、うるさい雑踏をかき分けて、コウスケはぽつぽつ進む。

 向かうは毎度お馴染みのアルバイト。二十半ばにセンスのない私服、寝癖で後ろ髪跳ねさせて、運動靴でゆっくりふらふら進む道中。

 駅から数分がどういうわけか数十分。道は覚えていても人生途方に迷う毎日。鉛のように重い足。

 先日、コウスケの母が急死した。口を開けば、あれをしろ、これをしろ、そんなだからお前は駄目なんだと鋭い言の葉で傷つけられた思い出だけあるが、一度だって口から素晴らしい、誇らしいなんて引き出せなかった母がぽっくり逝った。父は物心ついた頃から単身赴任で見たことなくて、家に飾っている写真の中の住人なんだと、母の葬式で顔を合わせるまで思っていた。

 浪人すること二度。三度目の正直と入ったはいいが半端な大学、ふらふら漂い、気がつけば職なし、取り柄なし、人脈なしの三拍子。

 それでも将来育ててくれた親には報いようと奮起しようとした矢先に死んだ。

 コウスケは鮮明に覚えている。元気が肉を得て動きまわったような母がほんの少し心の臓が止まっただけで冷たくなって、燃やされて、灰になって、土に還った。

 それでも母の命はきっと自分よりはマシだったとコウスケは思う。コウスケに学はない。幼少の頃は失敗する度、涙を腕で拭ったものだが、今や負けて仕方ない、自分ならばこんなもの、自分を見限り、お釈迦様のごとき悟りの境地に至ったようでいて、その実は遠吠えすら忘れた負け犬であった。恋をするにも告白する前から振られる心配。お洒落するにもありのままが美しいと屁理屈こねくり回すこじつけ名人。

 そんなコウスケも人生百年、うち何割も生きて道端に咲く蒲公英以下の痕跡くらいは残したい。

 コウスケは見て、触れることができる幽霊として消えるのだけは嫌だった。

 

「おお、コウスケ。最近どう元気か?」

「ええ、まあ」


 料理屋の店主に、コウスケはぼそぼそ返す。制服に着替えて、ウェイターとして料理を右から左へ捌き、食器を下げて、洗い物。立ったまま足が疲れて仕事はピーク。


「おい、にいちゃん。ここの店はどうなってやがる。どうしてこんなにもメシが来るのが遅い。俺はあの客と同時に来店したってのに、まだメシが来やがらねえとはどういうことだ」

「申し訳ありません」

「おい、コウスケ。どうしてまだ食器が洗い終わっていないんだ。これは新人にやらせる決まりだろう? どうして監督してなかった? これはお前の仕事だろう?」

「申し訳ありません」

「水がこぼれたぞ、拭くものをくれ」

「はい、ただいま」

「メシはまだか!」

「すぐにでも出しますとも」

「洗い物はまだか」

「すぐにすませます」


 胃がキリキリしながら、コウスケは家に帰り、ベッドに倒れ込む。

 今日も身を粉に働いた。だが、まだ寝てはいけない。これから食事をして、風呂をすませて、気晴らしにテレビに齧りつくのだ。一日の、終わりくらいは幸せにありたいと画面の中の宝探しをするのだ。

 そうして、ああだこうだとしている内に辺りは真っ暗、窓には生気の抜けたアホ面一つ。

 

「ああ、夜が来る。また、恐ろしい夜が来るぞ」


 人生山なし谷なし平坦道。無為に迎える夜がカウントダウン。一、二、三、と死へと近づく足音に頭を悩ます夜が来る。

 

「また一つ、俺は死に近づく。死神の鎌がまた近づいてくる」


 ベッドで身体を丸めて、手足は折りたたみ、全身を抱きしめてガタガタ震え続ける。

 ぷつんと意識が途絶えるまで……。


 ***


 恐ろしい夜が明けて、息苦しい朝がきた。

 時計代わりのテレビニュースに、深刻そうに何かを告げるキャスターの声だけ木霊する。

 味気ない焼いただけのトーストを齧り、何とはなしに上げた視線の先に目につくテロップ。


『連続顔剥事件、未だ犯人捕まらず』


 どうやら世間は事件で大変らしいが他人事だ。少し見続けているとわりと近所のことらしい。とはいえ、それで生活を変えるほど出来た人間じゃあない。やっぱり他人事だ。


「コウスケ、近所では顔剥がいるらしいからな。愚図なお前は気をつけろよ」

「ああ、はい。気をつけます」


 昨日と違うことはこの会話だけ。他はどれもこれも同じ。朝飯。アルバイト。帰宅。夕飯。入浴。就寝。

 冴えない人生が日に日に色褪せていく。輝かしいものがどんどんモノクロになっていく。

 きっと、コウスケはもうすぐ死ぬんだと、何の感慨もなく、それでいて確信を持って思う。

 停滞は死だ。きっと世界はマラソンを走り続けるように常に進んでいる。だから、歩みを止まれば置いて行かれて、世界の端っこに、そして最後はこぼれ落ちていく。

 少なくとも自分が死ぬときはそんな感じになるんだろうと思う。

 

「嫌ではある……だけどなあ」


 しかし、そうは言っても何をする?

 生きてきて、自分にはこれがあるなんて大それたこと、コウスケは一度も思えたことがない。

 そう、たとえば運動にしても、野球をして、当然のように四番になって、いつだってホームランを打ってきた。

 ファッションにしても、始めは羞恥心を抑えながら雑誌を手に取り、奇抜な衣服に身を包むモデルを見ながらあーでもない、こーでもないと創意工夫して、ようやく最近は彼女もできた。

 勉学にしても、小さい頃から知らないことを自分で調べて知ることが無類の喜びだった。学業ではいつも一番にならないと気がすまない負けず嫌いだったけれど、何よりも新しいものを知ることが楽しくて仕方なかった。成人してしばらく経つまで女性に触れたこともなかったっけ。


 あれ?

 まあ、いいや。やっぱり俺は駄目だと意気消沈。

 そして、夜が来る。


 ***


 数日経った。朝起きて、バット片手に素振りして、入浴ついでにスキンケア。アルバイト前の洋服選び。

 今日はどの服にしようかとコウスケは悩む。

 天気予報はどうだったろうか。

 季節はどうだったか。

 雑誌で最近のトレンドはなんと言っていたっけ?

 アルバイト。

 今日もせっせと働く。


「こちらご注文の料理になります」

「おう、早いじゃねえか」

「ありがとうございます」

「ああ、すみません店員さん。子どもがジュースをこぼしてしまって……」

「お召し物は濡れたりしませんでしたか? そうですか、少々お待ちください。すぐに拭くものを用意いたしますので」

「ああ、君、新人だよね。そっちはいいから先に洗い物を片づけておいてくれないかな?」


 帰宅して、入浴をすませてから、鉛筆とノートを広げて、資格の勉強を始める。

 いつも通り、何事もコツコツとした努力が大事なのだと頬を叩いて、奮起する。

 一日でやることを全て終え、就寝。

 ああ、また夜が来る。今日は良い夢が見れるだろうか。

 

 ***


 のっぺらぼう。

 顔なしが首をゆらゆら。

 足元には恐怖に顔を歪ませるコウスケ。

 のっぺらぼうの両手がコウスケの首に添えられて……。


 ***


 朝が来る。激しい動悸を必死に抑える。

 覚えている。

 顔なしがコウスケに両手を添えて、絞め殺そうとしていた。

 他人事だと思っていたことが、己に降りかかるなんて思いしなかったコウスケは恐れた。

 わけもわからず、着替えをすませ、最新のファッションで身なりを整える。

 逃げ出すように本棚や野球道具、クローゼットのあるリビングを飛び出し、洗面台へ。

 すると、鏡にはのっぺらぼうがいて、ゆっくりと夢のときのように手をコウスケの首元へ。

 発狂しながら、家を飛び出す。

 当てなく逃げ回る。どこを見てものっぺらぼうがいて、近づいて来る。

 息も切らせた逃避行の末、コウスケは母の墓前にいた。

 まだ、出来て間もない墓はキラキラと眩しく、のっぺらぼうに追われるコウスケには羨ましかった。

 

「何しに来たの?」


 声がした。

 顔を上げると墓に腰かけた母が茶を啜っていた。

 死んだはずなんていう気にもならず、ただ叫んだ。


「母さん、顔のない化物が俺を追いかけてくるんだ。助けてくれ!」


 母は訝しげにしながら、


「だから、何しに来たんだい?」


 と言うだけだった。


「何しにじゃあないんだ! 助けて欲しいんだよ、俺を! 母さん!」


 母は肩を竦める。


「やれやれ。言わなきゃわからないなんてねえ……。誰だい、あんた。私にはあんたみたいな顔の子どもはいないよ。確かに息子はいるけどね、あんたじゃあないね」

「はあ、何言って……」

「だから、知らない奴に母さんなんて言われる筋合いはないんだよ。帰んな、うちの息子はどうしようもない愚図だけどねえ、あんたみたいにヘラヘラと不気味な笑い方はしない優しい子なんだよ」


 それから、コウスケは気づけば家に戻っていた。どういう道を通ったかは覚えていない。

 母に見捨てられた。

 それだけでもう、何もする気が起きなかった。

 床に寝転ぶと、真上にはのっぺらぼうがいて、コウスケの首元に手を添える。

 抵抗の意思はなかった。

 そこで意識は途絶えた。


 ***


 そして、楽しい楽しい夜が来た。


  のっぺらぼうが今日も行く。

  あっちへふらふら、こっちへふらふら。

  顔が惜しけりゃあ近づくな。

  夜更けになれば、顔をはがれて、皮ぬすまれて、あげくすべてを奪われる。

  お天道様は蛮行なんて許さねえが、月の女神はなにごとにも寛容なこと。

  のっぺらぼうが如何しても微笑み、ころころ笑うだけ。

  夜が更ければのっぺらぼうの独壇場。

  それが嫌なら家の奥の、そのまた奥で震えてな。


「さあ、今日も行こうか。えっと、昨日は三丁目のサッカー選手の顔を剥いだんだっけ? 次は何がいいかな? 運動神経も良くなったし、ファッションセンスも磨けたし、勉強だって出来るようになったしなあ。そうだなあ、次は金持ちになりたいからそっちを襲うか」


 洗面台に立つ顔立ちの整った青年は首元に手をかけ、皮を脱ぐ。


「ああ、スッキリする! やっぱり何者でも自分であるときは気分がいいや!」


 鏡には口が裂けそうなほど口角を上げた、コウスケの姿が映っていた。