羅針盤との出逢い
「黒き森」の奥深く。
この泉に、一人の男が訪ねてきた。
突如として現れた彼は、私にとっては思いもしない来訪者だった。
人間を見るのも久しぶりだ。
――この森には、吸血鬼が住んでいる。
そんな噂が流れて何年が経っただろうか。それすらも覚えていない位なのだから、相当年数が経っているのは間違いない。
吸血鬼とは、簡単に言ってしまえば人間の天敵だ。
狩るものと狩られるもの。相容れる事の無い種族。
首に長く鋭い牙を立て、いともたやすく人間を屠る存在。
ようするに、人間からすると『私』という存在は化け物と同義だということだ。
そんな恐ろしい化け物が居ると噂されるこの森を訪れるのは、自殺願望のある者か、余程の物好きかどちらかのはずだ。
だが、私の目の前に呆然と立っている『彼』は、吸血鬼の噂を信じていた訳でも、自殺願望があるわけでもなさそうだった。
なぜ彼はここを訪ねてきたのだろうか。
理由は分からないが、これは好都合だ。
彼は独り身のようだし旅慣れてもいるように見える。確信はないが、そう感じた。
これから私が始めようかと思っていた『旅』の連れにするには、これ以上ないくらいの人材だろう。
私は彼に気づかれないようにほくそ笑む。
彼はこの泉の水を求めて来たのだろうか。それ以外に目的はなさそうに見える。
私をどうこうしようとは……いや、警戒はしているようだが、殺す気はないようだ。
ならば、そこに付け込まない手はない。
深く息を吸い込み、吐き出す。
久しぶりの他人との会話だ。そう意識すると形容しがたい緊張が私の中に生まれたが、無理やりそれを振り払い一息に声を発した。
それから二言三言、話をしたら彼がなぜここに来たのかは判った。
どうやら道に迷ったようだ。
未だ彼が何を目的にして旅をしているのかはわからないが、私がその旅に同行しても――私の目的の為に彼を利用しても――問題はなさそうだ。
言おう。言ってしまおう。
私の内に眠る欲求を。
根拠などないが、彼なら最終的には私の全てを受け止めてくれる気がした。
否、気がするのではない。
私は今――不思議なことなのだが――彼が『そう』なのだと確信しているのだ。
そうして私は、緊張を精一杯隠しながら声を発する。
「世界の果てへ、共に征きましょう?」
静寂があたりを支配した。
彼はふぅ、と一つため息を吐き、油断なくソレに手を掛ける。
何をするのかは明白だ。
彼にとって私は異質な存在。人ではないもの。
警戒心は合格と言ったところか。
「何が目的だ」
だが、短気なのが減点だ。
ただ会話をしているだけなのに、彼は私にその凶器をゆっくりと突き付けてきた。
満月に照らされていても尚、漆黒に妖しく光るその剣を。
「さっきも言ったでしょう? ただ……世界の果てを共に見たいから、よ」
本心からの言葉だ。
嘘偽りなんて、無駄だから。
「お前は、何だ?」
彼は静かに、微塵の隙もなく私に問いかけてきた。怯えず、堂々とだ。
吸血鬼であるものを前にして臆さぬその態度に、少し嬉しくなってしまった。だが、その問い自体は答えるまでもないものだ。
何か、などという問いに答えは一つだけ。
「私は、私でしかないわ。見てのとおりの、普通の女の子」
その答えに、なぜか彼はにやりと口元を緩めていた。
何故笑っているのだろうか。
そこで私は気付いた。
彼は笑っているのではないことに。
考えてもみれば当然のこと。人間である彼は『私』という化け物に相対したのだ。
不敵に『嗤う』事で相対するもの――私に対して――威圧をかけてきているのだろう。
しかし生憎だが、それは全く私には通用しない。
吸血鬼であっても、私は『女』だ。メス、と言い換えても良いだろう。
女というものは大概、見られることに関してはかなり敏感な生き物なのだ。吸血鬼である私も例外ではない。
だから――彼は私の体を必死に見ないようにしているのは明白だった。初心な男だ。それに私は気付いているというのに、彼は未だ、威圧続けようとしている。
男ならば、形だけは女である私の裸体に興味を抱いていても、何の不思議もないというのに。
それがすこし可笑しかったけれど、こちらに向けられた剣は私にはどうしようもない。変なことを言って首を飛ばされでもしたら冗談ではないので、押し黙ることにした。
「普通の女の子? 笑わせてくれるな。その牙をもって、吸血鬼、と言ったところか?」
「牙があるだけで、吸血鬼と決めつけるの?」
当然だが、彼の上の歯の中央四つの両脇に生えている歯は、私とは違う。
私には鋭い『牙』が。彼は平たい『歯』しかもっていない。
内心、それだけで吸血鬼と言われるのは納得がいかないものがある。
私はほかの吸血鬼を数えるほどしかしらないが、人間と一緒の歯がある吸血鬼だって存在していた。
当然、私のそんな思いは彼に届くはずもない。
「そうだ。お前は、吸血鬼……伝承にある、吸血鬼という存在ではないのか。まさか、自分は吸血鬼ではないとでも思っているのか?」
それについての答えは、間違いなく私は理解していると言わざるを得ない。
自分が吸血鬼であることも、そう人々から呼ばれていることも。
だが、それでも彼に伝えたかった。
『私』は、人間に伝えられている『吸血鬼』などという野蛮な存在ではないと。
「確かに私は、あなた方から見れば『吸血鬼』なのでしょうね。けれど、あなた方に伝えられているような野蛮な存在と一緒にはしないで欲しいわ」
「ほう? ならば、なんだというんだ」
興味深げに彼は私を見る。
どうやら対話を続ける気はあるらしく、少し私は安堵する。
「私はあなたや、ほかの人間を襲おうなどとは思っていません。ただ、『世界の果て』をみたいだけの、牙をもつ普通の女として認識しては貰えない? ……現に私は今、あなたに敵意を微塵も抱いていないわ」
「そ、そうなのか」
彼の前に両手を広げて無防備に立つと、少し彼がたじろいだ。
「それでも私を信じられないのであれば、今ここで私を斬りなさい。どうせ、この機会を逃せば旅に出ることもできないのでしょうからね」
「……」
私の答えに満足したのだろうか。目の前の彼は静かにその漆黒の剣を鞘に納めた。
彼は目にかかってきたその長い黒髪を邪魔そうに払い、言葉をつづけた。
「失礼した。美しき姫君よ」
姫君、などと言う呼び名で呼ばれるのは初めてだった。
思わぬ言葉に頬が熱を持ったのを感じたが、先ほどまで剣を突き付けられていたのだ。ここは毅然とした態度で接しなければ、今後の彼との関係に悪影響を及ぼしてしまうだろう。
「私は姫君なんかじゃないわ。まぁ、それほどまでに美しいという自覚はあるけれどね……。っと、話がそれたわね。いい? 私には、ルネ・フランシスカ・クリスティアナという立派な名前があるの」
彼は驚きに目を見開いた。
「名前が、あるのか」
吸血鬼にだって名前がある。当たり前のことだ。なぜ、彼はこんなにも驚いているのだろうか。
その疑問を思わず口にすると、彼はなんでもない、とかぶりを振りながら答えた。
「立派な名前だ。響きがどこかの国のお姫様みたいだな?」
「そんなことはどうでもいいこと。それで、一緒に世界の果てを探しに行ってくれるの?」
彼は頷きながらしばし考え込んでいたが、私の体を再認識した途端、後ろを向いた。
「この服を着てまっとうな生き方をするなら、考えてやらんでもない」
黒い旅装束を纏った彼とは対照的な、白い旅装束が私の目の前に投げられた。
放られたソレを、私は危なげなく受け取る。
「これを着たら、共に征ってくれるのね?」
ここで言質を取っておかないと彼はひとりでに消えかねない。
その意図を理解したのだろう。
彼は小さな声で、ああ、と呟いた。
「ありがとう。えぇと」
「……ルーカスだ」
「これから宜しくね」
「ああ」
こうして、吸血鬼の女と人間の、世界の最果てを目指す旅が、始まったのだった。
―――――――――――
吸血姫と最果ての羅針盤
第零章 ~邂逅~
―――――――――――
ここ、サモフラケ山とニケル山の間に広がる【黒き森】には吸血鬼が出る。
そんな話を、ニケル山の山頂から森を見下ろしながら、ルーカスは思い出していた。
吸血鬼。宿屋の主人からその話を大真面目な顔でされた時は、思わず吹き出しそうになってしまった。
今時、吸血鬼などという迷信じみた話をいったい誰が信じるというのか。
日光に当たれば死んでしまう、教会の十字架とにんにくが苦手、死ぬときは灰になる……お伽噺の類であれば、下働きの者にでも話しておけば良い。
もちろん、ここに至るまでの道中に吸血鬼などに襲われていない。そもそも架空の生き物におびえるなど、ルーカスには理解できない。
大体もっと怖いものがあるじゃないかと思う。
森に潜む魔物達、ゴブリンやオークと言った手合いが、一番怖い。
奴らは狡猾で、群れでの狩りを得意としている。一人旅で一番注意しなければならない手合いだろう。
一対多ではそもそも戦闘にすらならないからだ。襲われたが最後、肉も骨も残さず奴らに喰い尽くされる。そういう生き物だ。
それと比べれば、吸血鬼の噂話くらいで地図に載っていないこの地域に、足を運ばないのはもったいないと思った。
そこまで思考して、ルーカスは本来の目的を思い出して腰に黒い布で繋がれている手のひら大の金の装飾が施された愛用の羅針盤を取り出した。
羅針盤と言っても、これは北を指すものではない。いや、厳密にいえば北も指そうと思えば指せるのだが、それだけではない。
この羅針盤は『魔道具』なのだ。
魔道具、とは自身の魔力を使って作動させる機械の事だ。
たとえば、この羅針盤に魔力を流せばどんなところに居てもでも必ず目指す場所を指すし、自身の正確な位置情報を脳に伝えてくれる。ただし正確な、と言っても最後に出発した街からどれくらい離れていて、どのくらいの高さの場所にいるか、位なものなのだが。
なので、先ほど登ったサモフラケ山からここニケル山までの距離は数値ではわかるのだが、地図を書く上では景色も重要なものになるので、この頂きから位置情報を頭に刻み込みながら周りを見渡す。
辺りの風景を頭に刻み込み、次に東の方の一点を見る。すると遥か先にもう一つ、今いる山より大きな山があり――サモフラケ山だ。その山頂に残してきた大きな赤い旗を見つけた。空はすでに茜色に染まっており、急がねば暗くなってしまうので、ルーカスは早めにそれが見つかってほっとした。
「サモフラケ山からここまでは……大体四千ヤルド位か」
1ヤルドは成人した男の鼻の先から、伸ばした手の親指までの距離の事だ。
ルーカスの出身国で常用されていた単位で、旅を始めた頃からこの単位を使って地図を作成していた。
ルーカスの資料集めはこれで達成だ。
どのような場所に、どのようなものがあるか、すでに頭に入っている。
あとはそれを紙に起こすだけだ。街に着いてからの作業になるが、また一つ地図の空白を埋められる事に、ルーカスの胸は高鳴っていた。
気分的にはまだ他の場所を探索したかったが、道中ずっとこの羅針盤を作動させておくくらいの魔力はあるとはいえ、連日の不眠不休の探索で体が悲鳴を上げていた。
節々の痛みを感じ、ルーカスは流石に疲労が溜まっていると思い、街に戻るべく山を下ることにした。
―――――
ルーカスが山の麓にある森に着くまではざっと二時間ほどかかった。
もう夜も深く、天を見上げると木々の隙間に煌々と光り輝く満月が見えた。美しい月の姿に、思わず歩みが止まってしまった。
魔性の月、とは昔教えられた物語の中でもあったな、と思い出す。夜空にぽっかりと浮かぶそのあまりに美しい姿に、魔物ですら魅了してしまう月というお話だ。
地図はその土地の姿をありのまま伝えてくれるものであるが、その土地にある物語たちは、そこに住んでいる者達の姿をありのまま伝えてくれるものだ。
今では多くの土地を巡り物語を無数に聞いた。その中にはぞっとするような恐ろしい物語もあったり、若者が罠にかかった猫の姿をした魔物を助けて恩返しをされる……などという心温まる話もあった。それらを聞くのが、ルーカスは好きだった。
吸血鬼のような、旅人を震え上がらせ、危険地域から遠ざけるような迷信じみたものは勘弁願いたかったが。
だが、地図を書くだけが十年間続けているこの旅の目的ではなかったことに、ルーカスは最近気付いた。
たしかに、地図の空白を埋めている作業をしている時が、自分の眼が最高に輝いている時であることは間違いない。だが、地名を書き込んでいる最中にふとした拍子に浮かぶ、その土地の人の顔と酒場の人々の喧騒。これらの想い出も地図の書き込み作業と同じくらい好きになってしまっていた。
思い出すと、顔がにやけてしまうのを抑えられない。結婚のプロポーズを酒場でやっていた男女のことなどいい思い出だ。
そのよそ者同士の二人は相当の変わり者で、どういう訳かルーカスに執拗に話しかけてきたのだ。話の出だしで、貴方は何をしている方ですかという問いかけに、ルーカスは迷わず『世界地図を作るため、旅をしている』と答えた事が原因だったのかもしれない。街道でも魔物がうろつくこのご時世に、山や森すべてを探索し、地形を調べつくしながら一人旅をしている男の事がよほど珍しかったのだろう。その直後質問が殺到した。その時はいい気分だったので、二人に自分の旅を語った。ずっと感じていた孤独が、安らいだ気がして底抜けに楽しかったのを覚えている。
「あの人たちは、今でも仲良くしているだろうか……」
柄にもなく、楽しかった日々を思い出し寂しくなってしまった。
旅を始めたときはやる気に満ち溢れていたので、そんなことはなかったと思うのだが、今では孤独をひしひしと感じるようになってしまった。
街を歩いているときに見かける、自分と同じくらいの年の男。それが女性と手を繋いで歩いていたりすると、心に何かもやもやとした霧のような物が出てくる。別に妻が欲しいわけでもないはず。これでも宿屋の若い女中といい雰囲気になったことはある。やることもしっかりやったこともある。
そこまで考えても、なお晴れない心の霧。
『孤独』と言うのは死に至る病である、と誰かも言っていた事を思い出す。
「はっ、寂しくて死んでたまるかよ」
不意に自らの考えに耽ってしまって暗くなってしまった心を晴らすかのように、一人呟く。
それよりも、今は野宿の準備をしなければならない。魔物がいつ襲い掛かってくるとも限らない、深い森の中に居るのだ。警戒は怠れない。
森の中でも木々の間から月の光が多く届く場所を見つけた。
布の三角屋根を張るには手元が明るく、絶好の場所だった。
背中にある大きな麻の袋を地面におろし、自身を覆えるくらいの大きな布を三枚出す。一枚は三角屋根を張る用の布、もう一枚は地面に敷く布、それと、自身に掛ける布だ。
それと、魔物除けの香を焚くのも忘れない。
「『種火よ、来たれ』」
言葉を紡ぎ、魔力を練り、指先に意識を集中させる。
すると、指先より少し浮いたところに真っ赤な炎が生まれた。
魔法だ。
ルーカスには魔法の才能があったのだが、故郷の魔法学校で簡単な魔法を学んだあと、最終目標としていた測量の魔法を完成させすぐに退学したので、派手に火を燃やしたり暴風をおこしたりなどできない。
できるのはせいぜい、火をつける事くらいか。
ルーカスは指、先に灯った炎が消えないうちにと思い、あわてて香に火を移す。少しすると、途端に周囲へ甘ったるい匂いが拡散していく。この香りが魔物除けになるのだ。
火がついたので、次は今日の寝床の確保だ。手近にあった木の枝を、剣で斬り落とす。その作業を繰り返し、枝を集めた。そしてそれを細工し、三角屋根を張った。手慣れたもので、そんなに時間はかからなかった。
屋根を張ったところで生まれたその三角の小さな穴。そこが今日の寝床だ。布を地面に敷き、寝床の確保は終わった。
街で購入した水袋を取り出す。日中の間にかなり飲んでしまっていて残りが少なくなっていたので、朝の分を気にして一口飲むだけにしておいた。明日街に帰るとはいえ、水を切らすのは自殺行為に等しい。
喉の渇きを紛らわす為、早々に寝床に入った。
いつもであれば、考え事をしていればすぐに来る眠気が、なぜか今日に限って来なかった。
酒を飲めば眠りには入れるだろう。
麻袋の中にはワインも入っていて、準備は万端だ。
しかし、今は森の中。酔っぱらって香を消してしまい、魔物に襲われてしまっては元も子もないので、ここは我慢することにした。
虫の声やフクロウの声が耳に入ってくる。
静かな夜だ。
その時、ふと水音が聞こえた。
確かなその音。それは近くに泉があることを伝えてくれていた。
水は旅人にとって生命線だ。それに、水袋の中は残り少ない。とるべき行動は一つだった。
もぞもぞと身じろぎした後、三角屋根から抜け出し、あたりを見渡した。
再び、水音がした。
動物か魔物かは分からないが、何かが水を飲んでいる音だろうか。
朝になってから泉を探す事が一番の策だったが、今は喉の渇きを癒すことの方がルーカスの頭を支配していたので、近くにあるであろう泉を探しにルーカスは寝床を離れたのだった。
―――――
乾いた枝を踏みしめる音があたりに響く。
一人で夜の森を歩いているからだろうか。やけに枝を踏む音が大きく聞こえた。
剣で邪魔な枝を斬りつつ、先に進む。
しばらく進み、周りを見渡した。
街へ続く帰り道でも、ニケル山へと続く道でも、サモフラケ山に続く道でもない。
完全な獣道で、頭の中にも泉の場所を示すものはない。
だが、今も水音がしている。
不可解だ。
「……無いな」
見渡すが、泉らしきものも、開けた場所もなかった。
徐々に霧も出てきた。朝でもないのに不思議だな、と思ったが、自信の居所は羅針盤により正確に把握できているので、迷う事は無い。
かすかな水音を頼りに、歩き続ける。
霧が深くなってきた。
視界は遮られ、1ヤルド先も見えないくらいだ。加えて、息苦しさも感じる。
ルーカスは得体のしれない焦燥感にかられた。
旅をこれまで続けてきて、空間を把握する能力や周りを探る能力には自信があったのだが、今はそのこと如くが全て役に立っていない。
歩けど歩けど、泉が見つからないのだ。
いつ魔物が襲ってくるとも限らない。先ほどの野営地から離れすぎて、香の効かないところまで来てしまっていたので、急いで戻ることにした。
もっと近くに泉があると思ったのだが、当てが外れたようだ。
ひたすらに元来た道を戻る。
頭に入ってくる正確な位置情報は、確かに野営地がすぐ近くにあるところだった。
もうすぐ、開けたあの場所に出るはず。そう思い歩を進める。
だが、野営地のあったはずの場所が、なかった。
「なんだ、これは!?」
羅針盤から流れくる位置情報は確かに野営地を示していたのにも関わらず、目の前にあるのは森の中の暗い小道。
不可思議すぎる状況に、久しぶりの恐怖が襲う。
原因不明のこの事態に対処できる知識が、ルーカスにはなかった。
しかしここで立ち止まっても仕方ないと思い、焦燥感に任せて走り出す。
森の奥深くへ進む。徐々に霧が晴れていくことに、安堵した。
しかし、羅針盤から流れくる位置情報は変わっておらず、先ほどの野営地から一歩も進んでいないことに気付いた。
未だ完全に霧は晴れていない。薄く靄のように広がっている。
この怪しい霧について考察を重ねた。
森の中の霧など、自然発生した霧については自分はそれほど影響を受けないはずだ。羅針盤で自身の居場所がすぐさま分かるからだ。
では、自然発生ではないものではないか、と思い当たった。
自然発生ではないもので、人を惑わせるものと言えば――思い当たったのは、件の伝承にあった吸血鬼の使う幻術だった。
伝承の中に、確か旅人を迷わせる霧というものがあったはずだ。
いるはずがないと高をくくっていたが、状況が状況だ。最早居ないと断ずることはできないのかもしれない。
「幻術の類か、それなら……」
立ち止まり、目を閉じる。深呼吸の後、目をカッ、と見開いた。
ルーカスの体から魔力が迸り、霧を払う。
魔力に切り裂かれた霧は、地面に溶けるように消えていった。
霧が晴れた目の前の景色は先ほどとは打って変わり、より広く見渡せるようになっていた。不思議なことに、羅針盤の示した位置は先ほどと同じく野営地の近くを示している。
少し先に、月の光が差し込む場所がある。
きらきらと水面が光り輝いていた。
泉だ。こんなに近くにあったことにルーカスは驚いた。
そして―――――『ソレ』を見た瞬間、全身を雷鳴が貫いたかのような衝撃が走った。
いや、実際に体に雷を受けたわけではない。そのあまりの現実離れした美しさに、雷撃を受けたかのように錯覚しただけだ。
泉の中央で、美しいという表現でさえ足りないほどの『存在』が水浴びをしていたのだ。
水に濡れた金髪が月の光に照らされて淡く光り輝き、神々しく見える。
それは少女の体をしていて、その姿はまさに女神のよう。
思わず、見惚れるほどの美しさ。
体の曲線は女らしさをこれでもか、と言うほどに強調していて艶やかだ。
ルーカスの描く理想の女性像。それが今、目の前にいた。
彼女はゆっくりと水を両手ですくい、体にかけていた。
思わず近寄ってしまったその時、地面に転がっていた小枝を踏みしめた、その乾いた音が泉のあるその広場に響き渡った。
まずい、と思ったがすでに少女はこちらを振り向いていた。
「こんな時間に来訪者なんて……珍しいこともあるものね」
目と目が、あった。
その目も髪色と同じく、淡く光っていて、見ようによっては月の光で黄金色にも見えた。
「ち、ちがう、これは――」
ルーカスが弁明しようとしたその時、その唇に人差し指が当てられた。
「だめよ。取り乱して、悲鳴を上げるのは私の方なんだから――普通だったらね」
訪れる沈黙。
相手は魔物の類であろうか。冷静に考えてもみれば、夜が深くなり夜行性の魔物が出始める時間に、一人で少女が水浴びをしているのはおかしな話だ。
しかし、魔物だと断じるには不安な要素をルーカスは発見していた。
魔物であればすぐにでも人を襲ってくるだろう。奴らはそういう生き物だ。なのでルーカスは自分を認識しても襲ってこない少女を見て、魔物ではないな、と結論付けた。
もしかすると普通の少女で、家出をしてきたのかもしれない。などと下世話なことを考えていた。
だが、少女の姿をよく見ると、街で聞いた吸血鬼の特徴に酷似していたことに気付いた。
信じられないとルーカスは思うが、先ほどの妖術の類であろう霧が推測の通り吸血鬼の仕業なら説明がつく。
考えてもらちがあかない。ルーカスは直接、少女に尋ねることにした。
「お前が、俺を迷わせたのか?」
静かに問う。
恐れはなかった。
だが、警戒は緩めない。
「あら、謝罪はないのかしら? 嫁入り前の……それも純潔の女の裸を見て、あなたはどう思ったのか……非常に興味があるのだけれど」
「っ――からかってるのか。俺を迷わせたのは、お前かと聞いている」
ルーカスは自分の頬が熱くなるのを感じた。童貞でもないというのに、目の前の女の色香に充てられたようだった。
「ふふっ……心外ね? 私はあなたを迷わせてはいない。あなたの方が私の方へ迷い込んだのでしょう? 迷える旅人。いったい何を求めてここまで来たの」
どこまでも透き通ったような声音は、相手を惑わせるものを含んでいるように感じた。
これも妖術の類なのだろうが、その少女の美しさにルーカスの思考は鈍ってしまっている。
思考を侵されまいと気を強く持ち、声を発する。
「俺が、ひとりでに迷った? あの霧はお前の仕業だろう」
そう問うと、彼女は少し頭を傾け考えるような仕草をした。そのあとすぐに何か思い当たったのか、ハッとしたような顔をする。
「霧? ああ、そういえば、そんな罠を仕掛けた覚えもあるわね」
ルーカスは訝しげに少女を見た。
「なら、完全にお前の仕業じゃないか」
「そう言われれば、そうかも」
話にならない。
目の前の呆としている少女は、一体何を考えているのだろうか。
「何を考えている」
思わず、思考がそのまま口にでてしまった。
彼女はにこり、と微笑む。
ルーカスは見逃さなかった。
彼女の美しい唇から除く、人間であれば八重歯に相当するであろう場所に、大きな牙があることを。
「何を考えているのかと問われれば、答えないわけにはいかないわね……」
彼女は月明かりの下で微笑みながら、突拍子もないことを提案してきたのだった。
「世界の果てへ、共に征きましょう?」