【04】『エスケープ』
淀殿との旅は北陸道に入り、琵琶湖畔の長浜宿まで至る。
目的地である小谷はまだ少し先だが、ここを過ぎると次の宿場は、近江国を越えて若狭国に入ってしまうので、距離はあっても長浜を拠点とする必要があった。
なぜなら小谷城は浅井氏滅亡後、すでに廃城となっているため、もしそこに泊まるとなると野営になってしまうからだ。
貴人である淀殿に野営などさせられないので、小谷へは長浜を早朝に出発、夕暮れ前にまた長浜に戻るという面倒な行程を、何日か繰り返す予定であった。
(うーん……、めんどくさい)
左京は宿場に入るなり、思わず声に出しそうになる。
その行程もさる事ながら、小谷城は山城であったため、当然登山になるからだ。
左京の居城である菩提山城も山城であるが、あまりに不便なので麓に岩手城を別に築いて、平時はそこにいた。
浅井氏滅亡後、その所領を拝領した秀吉も小谷城を見切り、新たに平城である長浜城を築き、北近江支配の拠点とした。
つまり今となっては小谷城は、淀殿以外にはなんの価値もない場所なのである。
そんな前世代の山城に――、しかも遺構しかないのに行かなくてはならないのだから、左京の気持ちにも、いくらかの同情の余地はあった。
しかも小谷城は廃城から十五年以上経っているので、おそらく経路も往時のものではなく、荒れている事が予想された。
加えて、イタチが発見した尾行者たちである。
あれからイタチに引き続き探索させているが、特に目立った動きはない。
なので彼らの目的は分からないが、もしこちらの隙を窺っているのなら、小谷への経路がもっとも危険であった。
一応、大野治長率いる馬廻衆がついてはいるが、黒田の兵に比べればなんとも心許ない。
(長政……)
上洛以来、いつも一緒にいた幼なじみも、今は側にいない。
いつも邪険にしていたが、一人になってみて、その存在の大きさを思い知りながらも、
(いやいやいや、そもそも私が戦をする事自体が間違っている!)
左京は、素直に心細いとは認めない。
『小牧・長久手の戦い』、『小田原征伐』と戦陣は経験しているが、前者は形式的な初陣だったし、後者は未曾有の大軍団による『勝ち確』の殲滅戦だった。
防衛対象を持ちながらの野戦など経験がない――。いや、下手をすると山岳戦にもなりかねないのだ。
(これはまずい……)
考えうる最善手は、小谷に行かない事であった。
――だが、それを淀殿になんと説明する?
あの気性であるから、どう出てくるか予想がつかない。
怖がってくれればいいが、万が一面白がられたらタチが悪い。
長浜城に入る事も考えたが、尾行者たちの正体が分からない状況では、迂闊な判断はできない。
「うーん……」
あてがわれた宿の部屋で、左京が唸っていると、
「どうした? 何をそんなに悩んでおる?」
淀殿がいきなり襖を開けて、中に入ってきた。
「はあ⁉︎ ちょ、ちょっと何やってるんですか⁉︎」
若武者姿に男装した淀殿に、左京は面食らってしまう。
「何って――、遊びに来たにきまっておろう」
淀殿は平然と答える。
(こ、この女は――)
以前、黒田屋敷に男装で突入された事があったので、免疫はあるものの、やはり淀殿の破天荒さは尋常ではないと、左京は絶句する。
どうせ今回も、お付きの女中たちを巻き込んだ上で、大蔵卿局の目を盗んで、一人で来たのだろう。
こうなっては、帰れと言っても帰らない事も分かっているので、左京は取りあえず廊下を確認してから、静かに襖を閉める。
それから露骨に呆れ顔を作ると、
「いいですか? 少しだけですよ――。明日は、朝早くから小谷に向かうんですから」
と、まるで修学旅行の引率の教師の様に、淀殿に注意を与えた。
「フフン――」
それに対して、淀殿がドヤ顔気味に笑った。
(――――⁉︎)
その瞬間、左京は猛烈に嫌な予感がする。
根拠はない――。だが根拠などいらない。これは経験に基づく予測なのだから。
「小谷へは――、行かん」
「なっ⁉︎」
予想もしなかった内容に、左京は動揺する。
「い、行かないって? 小谷に行くために、ここまで来たんじゃないんですか⁉︎」
「最初は行くつもりじゃった――」
「――――⁉︎」
淀殿の言葉に、左京はさらに嫌な予感がする。
「左京――。そなた菩提山に帰りたいのじゃろう?」
「な、なぜそれを――⁉︎」
いや、聚楽第で三成に領国に戻りたい旨を申請した時点で、もう情報は漏れていたに違いない。
左京はそう判断すると、淀殿が次に何を言ってくるかが分かり戦慄する。
「左京。妾を菩提山に連れていけ!」
(やはり、そうきたかー!)
おそらく淀殿は、小谷行きへ随行させようとした左京が、領国に戻りたがっているという情報をキャッチした時点で、密かにプランを変更していたのだろう。
そしてここ長浜で、それを言ってきた点も抜け目がない。
なぜならここで一行は一旦動きを止める上、美濃の菩提山へも遠くないからだ。
左京の感覚では、馬で駆ければ半日かからずに菩提山に入れるだろう。
だがこれは、とんでもないエスケープになる。
天下人の側室を連れ出すなど、下手をすれば左京の首が飛んでもおかしくない。
「淀の方様――。一応、聞いておきますが、断ったらどうなりますか?」
「うむ。ここでそなたに手籠めにされたと殿下に報告する」
淀殿は笑顔で即答する。おそらくこれも、すでに考えていた事に違いない。
「…………」
進むも地獄、退くも地獄が確定して、左京はもう諦めの境地になる。
(なぜ……、なぜこうなった⁉︎)
そして左京の嘆きと共に、翌早朝、美濃菩提山への逃避行は実行へと移されるのであった。