【01】『鶴松』
天正十九年(一五九一年)八月――。豊臣家の跡取りである鶴松が、突然逝去した。
これは豊臣政権にとっても激震となり、衝撃のあまり関白秀吉は、髷の髻を切って喪に服するほどの事態となった。
発病からたった三日――。鶴松はわずか二歳でこの世を去った。
秀吉は全国の神社仏閣に病平癒の祈祷を行わせ、天下の名医をも集めたが、この時代の幼児の生存率が高くない事は、天下人の後継者であっても、けっして例外ではなかったのである。
そして恐れていた事が、ついに起こった。
愛息の葬儀を終え、有馬温泉で傷付いた心を癒していた秀吉は、都に戻るなり大明帝国征伐を――、唐入りを正式に宣言したのである。
もはや守るべきものを失った、秀吉の不退転の決意に、逆らえる者は誰一人としていなかった。
弟である豊臣秀長、そして千利休はもはやこの世にはなく、彼らが命をかけて阻止しようとした外征が、ここに始まる事となったのである。
総勢二十万を号する日本軍が、まずは朝鮮半島へと渡海し、そこから今の中国である明に攻め込む――。その決行は翌年春と布告された。
これにより全国の大小の武家衆は、急ぎその準備に取りかかる事となり、飛鳥時代の『白村江の戦い』以来の外征に、日本中が騒然となった。
だが――、この唐入りには重大な誤算があった。
秀吉はこの時点で李氏朝鮮が日本に服属したと考えており、相手は明だけだと誤認していたのである。
実情は朝鮮はいまだ明の冊封国であり、日本軍を明へと先導するつもりなど、さらさらなかったのである。
これには理由があり、李氏朝鮮との交渉役であった対馬を治める宗義智が、秀吉に虚偽の報告をしていたからであった。
当初より、明に服属する朝鮮を日本に鞍替えさせるなど、どだい不可能な事であったが、それでも義智は秀吉の勘気を恐れ、舅である小西行長と共に偽装工作を繰り返していたのだった。
その内容は念の入ったものであり、秀吉の日本統一の祝賀にかこつけて呼び寄せた朝鮮通信使を、服属使節であると偽ったのだから、これには秀吉もすっかり騙されてしまった。
これが前年の出来事であり、その後やや落ち着いていた唐入り論だったが、鶴松の死をきっかけに再燃する事となってしまったのである。
この後、さらに嘘に嘘を上塗りしながら唐入りは始まるのだが、こうして豊臣鶴松という幼子の死は、日本国を揺るがす未曾有の事態へと発展していくのであった。
「ま、待て⁉︎ どういう事だ⁉︎」
黒田屋敷の自邸で、左京は使者を前に愕然とする。
使者は豊臣家からの――、唐入りの動員を通達する使者であった。
「は、はあ、どういう事だと言われましても……」
「我らの動員が、兵二百とは――、百五十の間違いではないのか⁉︎」
左京は血相を変え、使者に確認する。
「い、いえ、確かに、『美濃菩提山 竹中丹後守 兵二百』となっております」
「…………」
もはや左京は動揺しすぎて、返す言葉がなかった。
「参集は大坂にて十二月でございます――。では、これにて」
使者はこれ以上関わりたくないと思ったのか、それだけ言って、そそくさと退出していく。
「………………。なぜだ――、なぜだ、なぜだ、なぜだ⁉︎ 長政は美濃は一万石につき兵三百と言っていたぞ⁉︎」
不破イタチを前に、左京は虚空を睨み、まくし立てる。
確かに以前、長政から聞いた情報で計算すると、美濃菩提山五千石の左京の動員は、兵百五十となるはずであった。
だが、
「なぜ、五十も増えている⁉︎」
計算が狂った左京はそう叫ぶと、今度は畳に手をついてしまう。
「さ、左京……?」
そこにちょうど、長政が顔を出してきた。
「お、おい長政――! 今、聚楽第からの使者が来たが、私に兵二百を出せと言ってきたぞ!」
左京は立ちあがると、すかさず長政に向かって抗議の声を上げる。
「ああ、俺も先ほど本邸に使者が来たので、その報告を父上にしに来たんだ――」
応じる長政の声に、いつもの力がない。
「――長政?」
これは何かあったなと、左京も一旦矛を収めると、
「黒田家は、兵七千五百――。そして肥前に城を築く様に命じられた」
長政は黒田家に課せられた軍役を、緊張した面持ちで口にした。
「な、七千五百――⁉︎」
「ああ、軍役の内容が変わったらしい。九州、四国勢は一万石につき兵六百、中国勢も兵五百に増えて、畿内近辺は兵四百――。それ以外も各地で兵の数が増えているらしい」
驚く左京に、長政はその全貌を説明してやる。
「…………」
秀吉の並々ならぬ気迫を感じ、左京も絶句してしまう。
「こうなってみると、黒田が豊前の地を拝領したのも、このためだったのかもしれないな――。父上は大坂城の縄張りもしているからな」
長政は、官兵衛が大坂城を設計した事に触れながら、すべてが秀吉の遠大な計画だったと予想する。
「だが城を作るなんて、只事じゃないぞ?」
「ああ。父上も、『あー、そうきたかー』と苦笑いしていたよ」
心配する左京に、長政も苦笑しながら、官兵衛の口調を真似てみせる。
「長政……」
それが長政流の精一杯の虚勢だと分かる左京は、胸が痛くなってしまう。
「まあ黒田にとっては大きな負担になるが、竹中の軍役を補填とするという約束は、ちゃんと守るから心配するな」
事ここに至っても、長政という男はけっして弱音を吐かないどころか、さらに左京を気遣う言葉まで口にする。
そんな幼なじみに、
「そんな事はもういい!」
と、左京も思わず強い口調で返してしまう。
「左京……」
「すまん――。だが、苦しいのはお互い様だ。ここは竹中も竹中だけでなんとかしてみせる」
長政の苦境に、あれほど金、金と言っていた左京も、一瞬で腹をくくる。
「………すまない。だが、アテはあるのか?」
心配する長政に、
「うーん……。とにかく私は、一度菩提山に戻る」
左京は領地の財政状況を確認するために、美濃菩提山へと赴く事を口にする。
前年の秀吉からの召喚以来の、故郷への帰還。
だがこの里帰りが、思わぬ事件に繋がっていく事など、この時の左京はまだ知る由もなかった。