【01】『火の車』
「あー……金が足りない……」
黒田屋敷の自邸で、昼間から左京は呆然としながら呟く。
目の焦点も合っていない――。まさに虚ろな表情であった。
「…………」
従者である不破イタチも呆れ顔になる。
利休の亡霊事件が解決して以来、左京は日々こんな調子なのであった。
「いやいやいや、どう考えても無理だろ」
左京はまた独り言の様に呟く。
そしてまた虚ろな表情になってしまう。
「もー、考えたってしょうがないよー」
イタチがそう言っても、左京は耳を貸す様子がない。
左京がこんなにも頭を悩ませている理由――。それは洛中の人々の噂話であった。
――関白秀吉は、果たしていつ『唐入り』を断行するのか?
これが噂好きの洛中の人々が、利休の亡霊騒ぎに代わり、新たに選んだ話題であった。
左京も事件解決に向け奔走している間はよかったが、それが解決して暇になると、ついつい余計な事に気が向いてしまう。
そんな時分、唐入りの話題が持ち上がってきたのだから、他人事ではない左京もそれが気になって仕方なくなってしまったのだ。
以前、長政から教えてもらった内部情報では、
――九州勢は一万石あたり兵五百。中国四国勢で四百。それ以外は一万石あたり兵三百。
というのが軍役になると聞いている。
単純計算でいくと、美濃菩提山五千石の左京は、兵百五十を出さなければならない事になる。
「そんな金がどこにあるんだ!」
ついに左京は、声を荒げてしまう。そしてついでに頭を抱えてしまう。
事情を知らない者が見れば、異様な光景だったろう。
だが戦国を経た安土桃山時代の、武家の台所事情は、けっして楽ではない事もまた事実だった。
その一因は、秀吉が太閤検地で『貫高制』を『石高制』に変換した事によって、土地の生産価値が全国一律となってしまった事にあった。
いわゆる『曖昧さ』と、『ごまかし』がきかなくなってしまったのだ。
検地により左京が、父半兵衛から正式に継承した美濃菩提山の領地は、石高五千石と認定された。
石高とはその土地の米の生産量の目安であり、これを仮に現代に置きかえると、一石=五万円と換算して、二億五千万円の財を生み出す事になる。
だがそれがすべて領主の収入になる訳ではなく、当時は二公一民であったので、領主の取り分はその約六十五パーセントである。
五千石なら、約一億六千万円――。つまりこれが左京の領地の『歳入』であった。
歳入があれば、もちろん歳出もある。
また現代を例にとってしまうが、村単位でも数十億円レベルの歳出が発生している――。つまり地方行政というのも、かなりの金がかかるのである。
五千石とは認定されたが、必ずその五千石の生産力が発揮される訳でもない。
農業生産力をベースにしている限り、豊作不作が必ず発生するし、米相場のレートも日々変動しているのだ。
だがそれでも五千石は五千石であり、その一定基準で何から何まで、はかられてしまうのである。
実際、美濃菩提山もけっして裕福ではなかった。
そこにきての今回の『唐入り』である。
この時代は兵農分離が進んでいたとされるが、けっしてそんな事はない。
常備軍を持てる領主など、ごくごく一部であったのだ。
兵制の多くは半農であり、なんなら支配階級も畑を耕している。
という事は、戦になれば当然農業生産力が落ちるし、生産力が落ちれば歳入が減る。そこで苛烈な取り立てなどやろうものなら、今度は一揆が起こりかねない。
それを懸念して『刀狩』が行われたが、戦国期は半農兵が武器を持ち込んでくれる事も少なくなかった。
だがその武器は、『刀狩』のせいでもうないのだ。
そうなれば兵の武器は、領主が用意しなければならない事になる。
基本的に甲冑は、『御貸具足』という合印がほどこされた統一品を領主が貸し出す。
左京も小牧長久手、小田原征伐は、父が残した武具でなんとか乗り切ったが、それでもその出費には頭を抱えた。
今も領地では、先代半兵衛からの家老である不破矢足は、家政をうまく取り仕切ってくれているが、それでもその収支報告は、やはりギリギリの『火の車』であった。
(ああ、なぜこうなった……)
そもそも左京は、小田原征伐と奥州仕置で戦役は終わると思っていた。
実際、秀吉によって天下は統一されたのだから、それは多くの武家の共通認識でもあった。
――領主である自分が贅沢をせずに、細々と暮らすだけなら、五千石の所領でもなんとかやっていける。
左京は、念願であった隠遁生活を実行に移すために、そんな計算まで立てた。
しかもその構想は徹底しており、余計な経費がかかる妻帯をせずに、最終的には無嗣断絶になってしまえば後腐れがないとまで思っていた。
だが天下が統一されると、秀吉は長久手での予告通り、左京を中央に召喚した。
まさかそれはあるまいと思っていただけに、左京にとって今の生活は、まさに『なぜこうなった』感満点の日々なのであった。
そこにきて新たな軍役まで課されるのだから、本当にたまったものではない。
もちろん事件を解決するたびに、いくらかの報奨金は支給されているが、そんなものは焼け石に水であった。
もし本当に唐入りが宣言されれば――、竹中家は破産する。
その遠因は、左京が常日頃から金策を怠っていたという点もある。
だが、ものぐさ気質で基本働きたくない――、いや『働いたら負け』ぐらい思っている左京が、金策などする訳がなかった。
という事で、左京にとっては人生プランが狂いっぱなしなのであった。
当時の経済状況も、秀吉が金銀を気前よく市場に放出するものだから、一種のバブル景気に似たインフレの様相を呈していた。
これから金がいるのに、物価が高騰している――。その事実にも、左京は打ちのめされていたのであった。
余談だが、唐入りこと『文禄・慶長の役』は、一説にはインフレ脱却の経済政策であったともいう。
それはさておき、
(ああ、いっそ出家でもして、隠棲してしまうか……?)
ついに左京は、目の前の現実から逃れるため、できるはずもない事まで夢想してしまう。
そこに、
「竹中様、失礼いたします――。若殿からの御使者が参っております」
と、黒田家の使番が告げにきた。
ちなみに黒田家は当主の長政を若殿、隠居の官兵衛を大殿と呼び分けている。
つまり使者は、長政からのものだった。
(使者――?)
いつもなら来るなと言っても本人が来るのに、どうした事かと左京だけでなくイタチも首をひねる。
とりあえず使者を招き入れると、ひどく切迫した表情をしていた。
これは何かあったなと思っていると、使者は一礼するなり、矢継ぎ早に用件を言上してきた。
「竹中様――。若殿におきましては、竹中様に急ぎ『本邸』まで、お越しいただきたいとの事にございます」
(――――? 本邸に?)
これが新たな事件の始まりであった。