【04】『長久手問答』
「徳川が、戦を続けたくねえってか?」
左京の推察に内心舌を巻きながら、官兵衛は白々しく神妙な顔をしてみせる。
実はこれは官兵衛の予想とも一致していた。
だがそれを齢わずか十歳の初陣の子供が、しかも『損得勘定』で読み解くとは――。これには官兵衛も大人げないと分かっていながら、論戦を仕かけずにはいられない。
「でもよ――。徳川はこの戦に勝ちゃあ、天下を取れるかもしれねえんだぜ?」
「いやいやいや、絶対に無理でしょう」
官兵衛の主張に、左京は真顔で即答する。
「元々、徳川は三河、遠江、駿河の経営途中だったんですよ。そこに信長公がお斃れになったドサクサに、甲斐と信濃まで手に入れて――、もうその時点でいっぱいいっぱいのはずですよ」
「――――!」
官兵衛は左京の視野の広さに、あらためて驚く。
確かに、戦というものは兵だけでするものではない――。これはともすれば見落とされがちだが、戦争には莫大な戦費が必要なのである。
すなわち軍事力と経済力は表裏一体――。そのどちらが崩れても、待っているのは滅亡である。
「織田信雄殿に泣きつかれて、徳川殿も今後の大義を示すために嫌々出陣したんでしょうが……。おそらく本音は適度な頃合いに――、遅くとも稲の刈り入れ前には、絶対に撤退したいはずです」
「でなけりゃ、五ヶ国が干上がっちまう……って訳か。だが、それなら長久手で勝った今こそ、徳川にとっちゃ絶好の引き時じゃねえのか?」
官兵衛はさらに、左京を挑発する様に煽り立てる。
こうなれば、とことん左京の才を引き出してやろうという腹である。
「たとえ引きたくても、引かせてもらえないでしょう――」
「信雄殿にか?」
「いやいや、徳川殿の家臣にですよ」
「おお、なるほどな! なぜ優勢に立っておきながら、ここで陣を引くのか――。確かに、あの頭の固ぇ家臣団なら、そう言うだろうな。だからわざと徳川に勝ちを拾わせたのか……」
官兵衛はそう言って、またわざと驚いてみせる。
「ええ、長期戦になれば徳川殿に勝ち目はありません。今のまだ落ち着いていない五ヶ国では、それを支える経済力がありません。それに比べて――」
そして左京は己の運命を決定づける失言をしてしまう――。まさに口は災いの元であった。
「我が羽柴軍は中入りの失敗程度じゃビクともしていません。それどころか池田恒興殿という、秀吉様の最後の目の上のコブも排除する事に成功しました――。これはもう丸儲けといっても、言い過ぎじゃないでしょう」
そう言い終えると左京は、まんまと官兵衛に乗せられた事にも気付かず、子供らしいドヤ顔になる。
次の瞬間、背後の陣幕が乱暴にめくられた。
「――――⁉︎」
振り返る左京の目に、絢爛豪華な陣羽織をまとった壮年の武将が迫ってくる。
「あー……、こりゃやべーなー」
そんな官兵衛の呟きが聞こえたのと同時に、左京は肩を掴まれる。
「誰じゃあ、この童は――。官兵衛?」
「まあ、落ち着いてください、殿――。お分かりになりませんか? 半兵衛殿の息子ですよ」
自分の肩を掴んでいる男を、官兵衛が『殿』と呼んだ――。それだけで聡明な左京は、すべてを悟った。
目の前にいるのが――、自軍の大将羽柴秀吉であると。
(ヤバイ――。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!)
顔面蒼白になる左京をよそに、秀吉はその顔をまじまじと覗き込む。
半開きの目、美しい銀髪――。それはまさに竹中半兵衛そのものであった。
天下統一に邁進していたせいで、これまで気にもかけていなかったが、亡き半兵衛の遺児が、この様な男に成長していたとは、秀吉も驚きであった。
それにしても、長久手の戦いヘの左京の推理は、まさに秀吉の編んだ策を完璧に看破していた。
・領国経営に専念したい家康を、長期戦に引きずり込み疲弊させる。
・同時に、先の織田政権の重鎮の中で、最後の生き残りである池田恒興を、戦という状況下で合法的に粛清する。
その二つを同時に実現させるのが、三河中入りの敗戦であった。
結果、意気上がる徳川軍から撤退という選択肢はなくなり、秀吉にとっても池田恒興の死によって、織田政権の影響というものが、もはや過去のものとなった。
まさに徳川の損と、羽柴の得――。これこそ秀吉の思う壺であった。
だがそれに気付く者は、官兵衛ぐらいだと思っていたのに、今、目の前にいる小童がすべてを見通していた。
「むむむ――」
秀吉はただ唸る事しかできない。
もしかすると三河中入り部隊の情報を、徳川軍に巧妙に漏らしていた事も見抜かれているのでは――と秀吉は疑心暗鬼になる。
それを隠すかの様に、
「小僧、名は?」
と秀吉は、ようやく左京に向かって声をかける。
「竹中左京――。半兵衛の嫡子です」
左京も左京で、人が変わった様な子供らしい声色で、折り目正しい返事をする――。もちろん身を守るための偽装であった。
だが、もうとっくに手遅れであった。
「左京よ――。お前は策を解くのは上手いが、策を弄するのは、からきし下手じゃの」
すべてを見抜いている秀吉が、ニヤリと笑う。
(ま、まずい。私はこの先、父上とは正反対の悠々自適で、気楽な隠遁生活を一生送るつもりだったのに……! それをこんなところでお手討ちだなんて――、恨みますぞ、親父殿!)
外面とは真逆の、子供らしからぬ老獪な思考で、左京が官兵衛を睨みつける。
そんな左京の頭を、秀吉がぐしゃぐしゃと愛おしげに撫でまわした。
「フフッ」
それに官兵衛が不敵な笑みを漏らすと、
「官兵衛よ。こいつは元服はしたのか?」
と、秀吉も同じく不敵に微笑みながら問いかける。
「いいえ。この戦が『勝ち戦』となった後にと、考えておりました」
「勝ち戦か――。フン、まあええ。ならお前が烏帽子親になってやれ。そうじゃな、諱は……」
小憎らしげに官兵衛を睨むと、不意に秀吉は陣幕の外に見える城門に目をやる。
「うん。重門でええ」
そして左京の父親、半兵衛重治の一字と組み合わせて、あっさりと命名してしまった。
(おいおいおい、人の名前をそんな適当に決めるんですか⁉︎)
思わず左京は抗議したくなる。
だが官兵衛が目配せしている事に気付くと、その思いをぐっと呑み込み、
「あ、ありがたき……幸せに……ございます」
と、もはや自分を偽る事をやめて、半開きの目のまま、面倒くさそうに棒読みの口上を述べた。
この時、左京は自分が歴史の表舞台から逃れられない存在になった事に、無意識に気付いたのかもしれない。
それを裏づける様に、
「ええか左京――。儂はこの戦が終われば、関白になる」
秀吉が急に途方もない事を言い出した。
関白――。それは武家の概念を超えた、異次元の発想であった。
「そしたら、お前にも官位と領地をくれてやろう。そして儂が天下を取った暁には――」
秀吉がそこまで言って一息つくと、左京は猛烈に嫌な予感に襲われる。
それは例によって正解であり、秀吉は為政者の顔付きになると、
「ええか、左京――。お前は儂の様な策を弄する者が、天下を揺るがさん様に……、その策を解き崩す『解策師』となれ!」
と、声高らかに命を下した。
(――――⁉︎ な、な、な、なぜそうなる⁉︎)
これによって左京の生涯は決定づけられた。
同時に秀吉は、自分が天下の簒奪者――悪である事を公然と認めた。
悪であるがゆえに、同じ悪を認めない――。その思考は間違いなく天下人にふさわしいものであった。
「儂はあと数年で天下を統一してみせる――。お前の出番はそれからじゃ、左京」
そう言い残すと、秀吉は大笑しながら去っていく。
「な……、なぜこうなった……」
左京の嘆きに、官兵衛ももう苦笑するしかない。
まさに、口は災いの元であった。
これから数年後に成立する豊臣政権――。そこに暗躍する闇を解き明かす、『解策師』竹中左京重門。
その誕生の顛末であった。