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【12】『奥御殿潜入』


「ここからは、お前が先に進め、左京――。邪魔者は私が叩き出してやる」


 奥御殿に入ると、夏子はそう言って左京を前に出す。

 ここからは時間の勝負だ――。夏子の威勢を借りて無事潜入には成功したものの、長居をする事はできない。さすが夏子は、(いくさ)の呼吸が分かっている。


「ありがとうございます。夏姫」


 左京もそう言うと、先頭を切って目的地に向けて急ぐ。

 一応、万が一に備えて『奥の手』も用意してあるが、左京としては絶対にそれを使いたくはなかった。

 だから侍女の格好ながら、左京は裾をまくって無作法に廊下をひた走る。


「長政。なるべく鼻で、大きく息を吸い続けろ」


 同じく裾をまくって走る長政に、左京は指示を出す。

 ――解策(げさく)の鍵は長政だ。

 左京は前田屋敷で、『獣忌み』の存在を知った時、そう思った。

 鶴松の発病が『獣忌み』というアレルギー反応で起こったのなら、同じ体質を持つ長政に実証実験させればよいと考えたからだ。


 その意図を理解している長政も、左京の指示に従って、顔を真っ赤にしながら、大きく鼻で息をしてくれている。

 長政は獣に近付くと、鼻を悪くする――。淀殿の滞在から、かなりの月日が経過しているが、わずかな痕跡でも『獣忌み』は症状を起こす可能性があると、施薬院全宗が言ってくれたのが今は頼みだった。


(頼むぞ、長政――)


 左京は、祈る様な気持ちになる。

 聚楽第で初めて会った時、淀殿は舶来の猫を伴っていた。

 そして摩阿姫も、秀吉から珍しい獣を贈られたと言っていたので、聚楽第には恒常的に貴人の目を楽しませるための獣が存在していると、左京は踏んでいた。


(当たっていてくれ――)


 左京がそう思った時、


「へっくしょん」


 と、長政がくしゃみをした。


「長政⁉︎」


「ああ、あど時と同じだ」


 左京の問いに、長政が鼻がぐずつかせながら、したり顔で答える。

 だが、その後ろにいる夏子は意味が分からず首をかしげていた。


「――――? 獣など、どこにもいないではないか?」


 夏子の言う通り、美しく掃き清められた廊下には、猫の子一匹いない。

 だがアレルギー反応は、その引き金となる物質が、わずかに残留していても起こる事がある。

 まだ目的地の手前で、それが起こった事はまさに僥倖であった。


「夏姫と私には起こらない。だが長政には起こる――。それでいいんです」


 左京は夏子にそれだけ言って、さらに廊下をひた走る。

 そして、ついに目的地である淀殿と鶴松の滞在していた部屋の前まで到着した。


「そーら!」


 かけ声と共に、夏子が襖を開けてくれた。

 あくまでも奥御殿に侵入しているのは、夏子であるという体裁を保つための措置であった。


「ありがとうございます」


 夏子に礼を言うと、左京は長政の袖を引く様にして、部屋の中に飛び込む。

 敷き詰められた畳は上質なものであるが、新しい香りはしない――。つまり、おそらくは淀殿と鶴松が滞在していた時と、変わっていないという事であった。


「よし! 行け、長政!」


「おう!」


 左京のかけ声と共に、長政が床に這いつくばる。

 仮にも長政は、豊前中津十二万五千石の黒田家の当主である。

 その長政が床に這いつくばり、それだけでなく畳に顔を押しつけて、懸命にその匂いを嗅いでいる光景に、さすがの夏子も呆然とする。


「お、おい左京……」


「どうだ長政⁉︎」


 夏姫の声を遮り、左京は必死の形相で長政に問いかける。

 それに返ってきたのは、


「グスッ、グズグズッ……、ふえっくしょん!」


 という、長政のひどい鼻詰まりの音と、大きなくしゃみだった。


「長政?」


 希望に満ちた左京の声に、


「当だりだ――。こごは今までで一番ひどい」


 長政も鼻詰まりのひどい声ながら、嬉しそうにそう答えた。


「よし、やった!」


「ああ!」


 そして実証に成功した二人が喜びあう光景を、夏子はやや引きながら、異様なものを見る様な目で眺めていた。

 そこに奥御殿に勤める女中たちが、何やら騒いでる声が聞こえてきた。


「――――⁉︎」


 左京と長政に緊張が走る。


「私が聞いてこよう。お前たちはここで待っておれ」


 夏子はそう言うと、すぐに女中たちを捕まえて、状況を確認してきてくれた。


「まずいな――」


 戻ってきた夏子が開口一番そう言った。


「私への詮議のために、兵が聚楽第に来たらしい」


「兵がですか?」


 夏子の言葉に、左京は驚くと同時に首をひねる。

 荒馬の様な側室とはいえ、女一人に兵を動かすなど尋常な事ではない。


「どうやら小西行長が兵を率いているらしいが――」


「――――⁉︎」


 左京には、すべて合点がいった。

 またもや小西行長に情報が漏れていた――。いや今回の場合は、三成を訪ねていった時点で覚悟していた事であった。


(だが、まさか兵まで用いるとは……)


 行長の徹底ぶりに左京は舌を巻く。

 とはいえ、奥御殿を囲まれ現行犯で捕まってしまえば、もはや言い逃れはできない。


「…………」


 左京と長政は、無言で頷きあう。


「お前らが逃げおおせるまで、せいぜい私も時間を稼いでやろう」


 夏子も二人の脱出の意思を読み取って、すぐにそう言ってくれる。


「ありがとうございます――。では!」


 左京が礼を述べるなり、侍女姿の二人は同時に髪結い紐を、胸から取り出した。

 そして解いた髪をぐわっと掴むと、それを高々と雑に結い上げる。

 続けて艶やかな柄の着物の胸を広げ、裾も高々とめくり上げると腰帯に乱暴に挟み込んだ。

 最後には、顔にほどこした化粧を両手でぐしぐしと拭うと、二人は今まで女装していたとは思えないほど、凛々しい顔付きになった。


「おお、随分と(かぶ)きおったな!」


 二人の変貌した姿に、思わず夏子が声を上げる。

 それはかつて『うつけ』と呼ばれた夏子の父、織田信長の若き日を彷彿とさせる出立ちであったからだ。


 左京たちにしてみれば女装を解く事で、少しでも嫌疑を受けない様にという配慮であったが、偽装という面でこれは思わぬ副産物かもしれなかった。

 なぜならこの時期、洛中では『傾奇者(かぶきもの)』と呼ばれる、派手な身なりで『(いき)』を気取る無頼の徒が横行していたのだ。


「では夏姫、参ります」


「武運をな」


 夏子の激励を背に、二人は奥御殿の裏口から外に飛び出す。

 すると聚楽第内は、もう小西勢の兵が入っているらしく、ちょっとした騒ぎになっていた。


(これは……、奥の手を使わざるをえないな)


 左京がそう思ったのと同時に、聚楽第の内塀に颯爽と跳ね回る人影が現れた。

 その神出鬼没な登場に、城内の者たちの目は奪われ、また新たな騒ぎが起こった。


(イタチ――。頼むぞ!)


 その正体は、左京が抱える忍びの者――不破イタチであった。


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