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【08】『摩阿姫』


「まあ……。まあまあまあ」


 ほがらか――という言葉を人にしたら、こうなるのだろうという女人が、北政所から贈られた絹織物に目を細めている。

 女の名は前田摩阿(まあ)。『加賀殿』とも呼ばれる前田利家の三女――。そして秀吉の側室であった。

 だが摩阿姫は十八歳ながら、その愛くるしさから世上では、もっぱら『摩阿姫』と呼ばれている。


 その摩阿姫を訪ねる事が、淀殿が勝手にでっち上げた容疑者リストの最後の調査という事もあって、


(やれやれ……)


 左京は内心ホッとしている。

 思えば北政所から始まり、京極竜子、織田夏子と、それぞれが一癖も二癖もある女人ばかりだった。


 なので摩阿姫のこの『ほがらか』さに救われる思いがするが――、かといって油断はできない。

 なぜなら摩阿姫は、聚楽第の前田屋敷に常時滞在しているからであった。


 それは前田利家という秀吉の無二の親友の娘という優遇もあったが、逢瀬のために摩阿姫を訪ねる事で利家と密談できるという政治的な意味もあった。

 後の五大老になる利家は、弟である秀長を亡くした秀吉にとって、今や徳川家康を牽制するための重要な存在なのだ。


 それだけに変な勘繰りをされれば、秀吉にも情報が漏れる。

 淀殿から『私的な』依頼を受けている左京としては、それは絶対避けたいところであった。


 重臣という事もあり、聚楽第の内郭にあるこの前田屋敷に来るまでも、まるで盗賊の様に人の目を盗んできた――。もちろん利家が不在のタイミングを狙ってである。

 そこまでのリスクを冒しつつ、かつ秀吉の目と鼻の先にいるのだから、本当に落ち着かない。


 左京としては、なるべく早めに退出のタイミングを掴みたいと考えていた。


「本当に綺麗な絹だこと――。ねえ阿茶子(あちゃこ)


「はーいー」


 摩阿姫の言葉に、阿茶子と呼ばれた細面の侍女は、独特の口調でそう答えると――、次の瞬間、下座に控える左京と長政にキッとした視線を向けてきた。


(な、なんだ、この女は?)


 左京は背筋が凍る思いがした。

 それにしても摩阿姫との対比がひどい。

 これまでと違って、摩阿姫は御しやすいと思っていたところに、思わぬ強敵の出現であった。


 とはいえ、実際に面会できたおかげで摩阿姫の人柄は分かった――。彼女もまた他人を呪詛する様な人ではないと。

 それが分かった上は長居は無用と、左京が長政を見ると――、鼻をグシグシとやっていた。


「ふえっくしょん!」


 続けて、大きなくしゃみまでした。


「お、おい――」


 そう言いながら、左京は首をひねる。

 どうも長政は、最近この様に鼻の調子が悪い時がある――。別段、風邪をひいている訳でもなさそうなのにだ。


「おやー」


 阿茶子が長政の顔をのぞき込む。


「黒田様は、『獣忌み』でございますかー?」


「――――? なんですか、それは?」


 聞きなれない言葉に、左京は阿茶子に問い返す。


「ええ、ええー、私の郷里の言い伝えですが、人によって獣の匂いを嗅ぐだけで、この様に鼻を悪くしたり、麻疹が出たりする方がいらっしゃるんですー」


 確かに摩阿姫のまわりには、珍しい犬、猫、兎などが走り回っており、傍らではオウムまでもがバサバサと翼を羽ばたかせていた。

 貴人相手なので、あえて言わなかったが、左京もそれはずっと気になっていたので、


「この獣たちは……、なぜこんなにいるんですか?」


 と、その理由を聞く。


「私が加賀にいる時、獣が大好きだったので、父上がこの屋敷にも、たくさん連れてきてくれたんです。それで関白殿下も、それならとこんなに――」


 摩阿姫が近くにいる舶来の犬を抱いて、嬉しそうに笑う。


「ですがー、ご家中の中にも黒田様と同じ様に、こちらに来ると鼻を悪くされる方がいらっしゃいますー。こんな可愛いのに、『獣忌み』とは本当に難儀なものですー」


「それは……獣だけでなく草木――、花などでなる事もあるんですか⁉︎」


 阿茶子の補足説明に、閃いたものがある左京は前のめりに問いかける。

 すると阿茶子は、あまり摩阿姫に近付くなと、壁の様に両手を広げてから、


「ええ、ええー、私の郷里では花でも同じ様になる方はいらっしゃいましたー。はい、下がる!」


 と、左京を威嚇しながらも、質問にはちゃんと答えてくれた。

 言われるがままスルスルと後退しながら、左京は思考をフル回転させる。


(そういえば長政は、淀の方の猫を抱いていた時も、同じ様に鼻をすすっていた)


 それだけではない。


(淀城で、あの腐った白椿の花を嗅いだ時もそうだった)


 疑惑が――ひとつの推論になる。

 まだこの時代には立証されていないが、左京は『獣忌み』が一種の『アレルギー反応』ではないかと仮定した。


 それはおそらく花や草木でも起こる――。左京は迷信の類いを、推理から排除する事で真実に近付いていこうとする。


(調べなければいけない事が増えた――)


 それでも突破口が見えてきた事に、


「阿茶子殿、ありがとうございます」


 と、左京は素直に礼を述べる。

 すると一瞬で、阿茶子の頬が真っ赤に染まった。


「あら――? まあ、まあまあまあ。阿茶子は竹中様が気に入られましたか?」


 うぶなくせに――、いやうぶだからこそ、摩阿姫がとんでもないツッコミを入れてくる。


「は……、はー……いー……」


 否定しない阿茶子に、


(そこは否定してくれ!)


 と、今度は左京がツッコミを入れたくなる。

 そんな時、


「で、でば私だちは、ごの辺で――」


 狙ってやってくれたのか、それとも鼻の調子の悪さに耐えかねたのか、長政が絶妙のタイミングで退出を宣言してくれた。


「まあ、まあまあまあ。そうですか――。ではまたぜひ遊びに来てくださいね。竹中様、黒田様」


 摩阿姫もまったく悪気なく、再訪を望む言葉をかけながら、二人を送り出してくれる。

 その時――、阿茶子は左京に熱い視線を向けていた。


「そ、そうですね」


 曖昧な返事を残して、左京はそそくさと摩阿姫たちの前から退出する。


(まったく――、なぜこうなるんだ)


 今度こそは気をつけようと思っていたのに、秀吉の側室本人ではなく、その侍女から好意を向けられようとは、左京もまったく予想外であった。

 だがその阿茶子と、長政のおかげで見えてきた事がある。

 それを突き止めるために、淀殿に会いに行かねばならない。


(長政には悪いが、こいつが解策(げさく)の鍵を握っている――)


 左京は遅れて退出してきた幼なじみを気遣いながらも、頭の中では『解策師(げさくし)』としての冷静な計算を働かせていた。


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