【07】『女信長』
京極竜子との対面からまた数日後――。左京と長政は、今度は大坂城三の丸にある織田夏子の屋敷を訪ねていた。
「猿の嫁がこれを私にと――?」
「は、はい……」
ひと言で言って『威圧』としか思えない、その口ぶりに長政は閉口してしまう。
織田夏子――。十七歳。
かの織田信長の六女で、本能寺の変後、まだどこにも嫁入りしていないのを、秀吉に目をつけられて、その側室とされた姫君である。
「フン。いらん――」
夏子はそう言うと、一度は手にした北政所からの絹織物を放り投げる。
「猿どころか、その嫁ごときが――。思い上がりもはなはだしいわ」
夏子は天下人である秀吉を『猿』、その正妻である北政所を『嫁』呼ばわりして憚らない。
これも秀吉の主筋である『織田の血』がなせる業なのだろうが、織田信雄や織田長益たちでさえ、みな豊臣政権に臣従した中で、それはやや時代錯誤的なふるまいであった。
「お前らが私をどう見ているかは知らんが、私は猿に指一本触れさせてはおらんぞ」
脇息にもたれながら、夏子は長政をにらみつける。
事実も夏子の言う通りで、秀吉は側室にはしたものの、夏子に手を出す様な事は一切なかった。
もちろんあわよくばとの思いはあったが、夏子はこの通りの気性だし、秀吉としても信雄や長益が軍門に降った様に、織田の権威を手中にしたという体裁が取れれば十分だったのである。
ちなみにその織田信雄は、前年に秀吉からの領地替えを拒み、尾張・伊勢を召し上げられた上、追放されている。
この様な秀吉の振る舞いが、より夏子を頑なにしているのかもしれなかったが、とにかくこれは厄介な姫君ある事は間違いなかった。
なので、どうしたものかと困惑する長政は、助けを求めるべく隣に目を移すが、
「――――?」
そこにいるはずの左京がいない。
あたりを見回すと、いつの間にか、はるか後方に小さく座しているではないか。
一応、左京も北政所からの使者の副使の立場である。
だがその振る舞いは、
――私は、ただの小間使いです。
と言わんばかりの、いやそう装おうとしているのが『見え見え』であった。
「んー?」
左京の不審な動きを見つけた夏子が、上座から一気に左京の目の前まで詰め寄る。
「んー?」
そして、もう一度同じ口調で首をひねる。
「銀髪……」
そう言って、夏子は何かを思い出そうとする。
もちろん今回は、秀吉の閨話ではない。
「――――! お前、安土の時の『首の子』か⁉︎」
そう言って夏子は、左京の顔をぐいと持ち上げる。
「ハハ、お久しぶりです……。夏姫様」
観念した様に、目をそらしながら左京が呟く。
二人の間には、過去にとある『約束』があったのだ。
時は天正六年(一五七八年)に遡る。
当時、織田信長は全国制覇に向け、方面軍を各地に同時展開していたが、その中国方面である問題が起こっていた。
摂津有岡城主である荒木村重の謀反であった。
理由は待遇への不満、信長の苛烈な姿勢に対する不安、本願寺と通じていたなど諸説あるが、とにかく村重は、播磨の三木城攻めに着手している羽柴秀吉の後方を塞いだ。
その時、村重の説得に志願した者がいた――。誰あろう、長政の父親である当時三十一歳の黒田官兵衛であった。
秀吉麾下に入ってから数々の調略で、竹中半兵衛に次ぐ軍師の地位にあった官兵衛には、若さゆえの驕りがあったのかもしれない。
結果は村重に捕らえられ、その後一年あまり土牢に監禁された。
それを信長は、官兵衛の寝返りと判断した。
そして人質として秀吉のもとに預けられていた、官兵衛の嫡男松寿丸――今の長政を処刑するように命を下した。
それを知った半兵衛は播磨より、美濃に残る家老の不破矢足に指令を出した――。主である秀吉の了解も得ない、半兵衛の独断であった。
それから十日の後、矢足は秀吉の使者と偽り、安土城に信長を訪ねた――。裏切り者、黒田官兵衛の子、松寿丸の首を持参したと言って。
安土城の謁見の間には、異様な空気が漂っていた。
なぜなら矢足は首ではなく、一人の童子を連れてきていたからであった。
「これは……、いかなる事か?」
表情を変えずに信長が問うた。
織田信長――。この時、四十六歳。
対する隻腕の勇士、不破矢足は主君半兵衛より二歳年上の三十八歳。
「右府(信長)様が、我が主、竹中半兵衛の盟友の子の首を所望との事にて、それを持参してきた由にございます」
覇王たる信長を相手に、矢足はぬけぬけと言上する。
その左腕を失った稲葉山城乗っ取りの時と同じく、その胆力は凄まじいものであった。
「ほう、これが首とな――。小僧、名は?」
信長が、訳も分からず硬直する童子に問いかける。
「た……、竹中左京と申します」
童子の正体は、左京であった。
(なぜだ……? なぜこうなった?)
当時四歳の思考回路なりに、左京は考える――。これは只事ではないと。
父の命という事で、家老の矢足に安土まで連れて来られたが、いきなり鬼神の様な男の前に引き据えられているのは尋常とは思えない。
話の内容はよく分からないが、どうもこれは命に関わる事らしいというのは、左京にも理解できた。
「フン。信じろ……、という事か?」
信長は半兵衛の意図を理解した。
黒田官兵衛はけっして裏切ってはいない――。それを稀代の大軍師である竹中半兵衛が、我が子を質として訴えているのだ。
もちろん左京を生かすも殺すも、信長の自由である。
そもそも松寿丸を殺せという主命を破っているし、その身柄を半兵衛が匿っている事も明白であった。
だが半兵衛は己の策に賭けた――。必ず信長は自分の思いを理解してくれると。
「ハハハッ」
信長が笑った。それで矢足は半兵衛の策が成った事を確信した。
よかろう――。そう信長が言おうとした瞬間、
「父上!」
という童女の甲高い声が、謁見の間に響き渡った。
「おお、夏――。どうした?」
「これは『首』なのですか?」
夏と呼ばれた童女が、左京の前に詰め寄ってくる。
(な、なんだこの子供は……?)
自分も子供のくせに、左京は顔を歪めて夏を見返す。
「そうだ。これからしばらく儂が預かる『大事な首』だ」
「ふーん。銀の髪の毛で面白い――。父上、この首、夏にくださいませ!」
いきなり夏は、父である信長に直訴した。
「フン――。で、あるか……」
そう言って信長は、夏と左京を見比べると、
「よかろう。事の真偽が分かるまで、左京は夏の遊び相手とする――。矢足、異存はないな」
そう言って、娘の願いを即座に聞き届けてやった。
「ははっ」
矢足も笑顔でその申し出を承服した。
(待て、待て――。なぜこうなる?)
運命に翻弄される左京は、ただそう思う事しかできなかった。
それから荒木村重の有岡城が落城して、官兵衛の無罪が証明されるまで、約一年もの間、左京は安土に軟禁され、夏子と寝食を共にした。
それが官兵衛と長政を守るための、父半兵衛の策であったと知るのは、だいぶ後になってからであった。
そして、もちろんこの時の『夏』が、今、左京の目の前にいる織田夏子であった。
「久しいの、左京」
左京の正体が分かると、急に夏子は上機嫌になる。
「で、私に会いに来たという事は、あの時の『約束』が果たせそうになったという事か?」
「――――⁉︎ な、なんの事でしょうか……」
夏子の問いに、左京はしらばっくれる。
「ほう、忘れたのか――。もしお前が『強い男』になったら、私の婿にしてやると約束したではないか」
そう言って、夏子は左京の顔をのぞき込む。
その瞬間、左京は思い出す――。あの安土で見た織田信長という驚異的な存在を。
性別は違えど夏子には、信長の風格が備わっている。
だから左京にしてみれば、今、目の前に『女信長』がいるといっても過言ではなかったのだ。
信長はもういない――。だが左京にとって、信長という存在は一種のトラウマの様になっているのであった。
だから、
「わ、私はあの頃と同じ、まだ弱い男です!」
そう言って左京は、後を長政に押しつけると、足早に逃げる様に退出する。
それから少しして、事後処理を済ませた長政が追いかけてきた。
「お、おい左京――。お前、織田殿と昔、何があったんだ⁉︎」
「う、うるさい! お前と、お前の親父のせいで、ひどい目にあった!」
長政の問いに、左京は真実を伝える。
それにしても、秀吉の側室となった夏子からも、過去の婿取り話を蒸し返されるとは思ってもみなかった。
淀殿といい、竜子といい、これでは命がいくつあっても足りない気がする。
(まったく……。恨みますぞ、父上)
左京は黄泉の国にいる父親に愚痴ると共に、我が子でさえ策に用いる、軍師という生き物を呪うのであった。
【織田夏子という名称について】
今回登場した織田信長の六女は、後の『三の丸殿』ですが、彼女がその名を冠されるのは伏見城の築城後で、今回よりかなり後の話となります。
なので呼び名がないと困る……という事で、勝手に夏子と命名させていただきました。
由来はお察しの良い方ならお分かりかもですが、信長の次女の冬姫を反対にしたものです。
ですが冬姫自体も、『〜年冬 姫が〜』の様に、その年の季節を記したものを誤って、冬姫と解釈してしまったという説もあり、どうやらお名前は三の丸殿同様、分かっていない様ですね。
話が少しそれましたが、夏子というのは完全に作者の創作です。という事を、あらためてここに記させていただきます。