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【04】『北政所』


「あーんもー、松寿丸ーっ!」


 長政が豊満な婦人に抱きしめられている光景に、左京は唖然とする。

 ちなみに松寿丸というのは、長政の幼名である。


「もー、こんなに立派になってー。おー、よしよし」


「き、北政所(きたのまんどころ)様、私ももう黒田家の当主となりました。そんな子供みたいな扱いは――」


 頬ずりしながら頭までなでられている長政は、顔を真っ赤に染めて恥ずかしがるが、


「なーにを言っとるかね。豊臣の子は、みーんな私の子供だがね。だから、なーんもおかしい事はないんよー」


 北政所と呼ばれた婦人はおかまいなしに、満面の笑みで抱擁を続ける。


(これが天下人の正妻か――)


 左京はややドン引きしながらも、冷静な目で北政所いう人物を観察する。


 北政所――。後世、ねね、おねの名でも知られる豊臣秀吉の正妻である。この時、四十二歳。

 だがその容姿は、年に似合わぬ少女の様な純朴さと、年相応の屈託のない母性が同居しており、とにかく淀殿とはまた違った『魔性』を左京に感じさせた。


(果たして、ただの気立ての良い女人なのか――?)


 まだ掴みどころのない、その内面を注意深く探らねばと思った時、


「で――、今日はなんのお願いがあってきたんかな? 松寿丸」


(――――⁉︎)


 北政所の口から発せられた言葉に、左京は愕然とする。


「あ、あ、あのー……」


「んー、なにー? ふふ、黙っとっても分かるんよー」


 突然の事に口ごもる長政の顔を、北政所が笑顔でのぞき込んでいる。


「わざわざ私が、聚楽第から大坂城に移った時に挨拶に来るなんて――。んー? さあ言うてごらん」


(この人は鋭い――!)


 北政所の洞察力に左京は目を見張る。

 事実、左京は長政というパイプを使って北政所に接触して、北政所から京極竜子、織田夏子、前田摩阿に接触する『大義名分』を得る腹づもりであった。

 加えて、秀吉の目をくらますため、北政所が聚楽第から大坂城に移ったタイミングを狙って訪問したのも、まさに指摘通りであった。


 淀殿が容疑者としてあげた四人には、もちろん北政所も含まれている――。だから今回の大坂登城はその調査も兼ねていたが、これは下手を打つと自分の首を絞めかねないと左京は緊張する。


 それにしても、北政所には人を包み込む不思議な魅力がある――。これを狙ってやっているのだとしたら相当な悪女だが、そうではないと左京は思う。

 おそらく北政所は生まれながらのチャーミングな女性なのだろう。それでいて頭が切れるのだから、タチが悪い。


 そんな分析をしていると、困惑する長政が視線を送ってきたので、左京は少し考えてからそれに頷く。

 すると長政は、あらかじめ打ち合わせておいた内容を北政所に話し始めた。




「うーん。訳は言えないけど、竜子姫、夏子姫、摩阿姫に会える様にして取りはからってほしいと――?」


 北政所が思案顔になる――。当然といえば当然の反応である。

 配下が主君の側室に会える様に、その正妻に頼むなど、お門違いもはなはだしい。


 だが、左京にはこれしか手がなかったのだ。

 ここは北政所の温情にすがるしかない――。場合によっては、豊臣の危機だと、多少話をでっち上げてやる覚悟もあった。


「――うん。いいよ」


「――――?」


 案に相違して、あっさり承諾してくれた北政所に、左京は拍子抜けする。

 だが、


「松寿丸は、とても素直で優しい子じゃからね。きっと誰かを助けたい『訳』があるんよね」


 そう言って長政を優しい顔で見つめる北政所に、今度は衝撃を受ける。

 北政所は長政の本質を完全に見抜いている――。事実、長政は左京を助けるべく、その共犯者となっているのであった。


(やはりこのお方は、只者ではない……)


 左京がさらに警戒を深めていると、


「でーもー、お願い事がある時以外も、たまには顔を見せるんよー。みんな偉くなって忙しいんは分かるけど、最近は虎之助も市松も佐吉も、みーんな来んようになって寂しいんよ」


 北政所は一人の女性として、今度は本心から寂しそうな顔を見せる。

 秀吉と北政所の間には子がいない――。それはこの賢女をしても、大きな心の痛みになっている様であった。


 だが北政所はその溢れる愛で、これまでに多くの子供を育ててきた。

 虎之助こと加藤清正、市松こと福島正則、そして佐吉こと石田三成ら子飼いの者だけでなく、人質として送られてきた松寿丸こと黒田長政も――、余談も含めれば徳川家康の子、秀康と秀忠も人質時代に北政所から、みな我が子の様に慈しまれた過去がある。

 その他にも宇喜多秀家や、のちの小早川秀秋なども、北政所がいうところの『豊臣の子』たちであった。


 それらは今、豊臣政権の中核をなしている。

 秀長という実の弟を失った秀吉にとって、この北政所の功績は内助の功をはるかに超えているといっても過言ではないだろう。


(これは関白殿下とはまた違った、天性の『人たらし』だ――)


 北政所の境遇に同情しながらも、左京は『解策師(げさくし)』としての分析を怠らない。

 そんな時、


「あんたが左京かい――。初めて会うね」


 と、北政所が左京に向かって手招きしてきた。


「…………」


「ほら、はようおいで」


 突然の事に戸惑う左京に、北政所は早く自分の前まで来る様に催促する。

 左京も断る理由がないため進み出ると、北政所は感慨無量と言わんばかりに、その思いを語り始める。


「あー、殿下が言うとったが、ほんに半兵衛様にそっくりじゃねー。特にこの銀色の髪は、半兵衛様の生き写しじゃ」


「…………」


「半兵衛様が三木の合戦で亡くなってから、ずーっとほったらかしで、ほんとにすまんかったねー。殿下もあれから信長様が亡くなったりで、気が回らんかったんじゃろうね。そのせいで左京には辛い思いをさせてしもうたねー」


「い、いえ、そんな事は――」


 髪をなでながら、半兵衛死後の境遇について謝罪してくる北政所に、左京はどうしていいか分からなくなる。


「あの人が――、殿下がよう言いおったのよ。半兵衛がいれば何も怖くない。半兵衛が大丈夫と言えば絶対に大丈夫なんじゃ、って――。ほんに私たちは半兵衛様には、言葉では言い表せないほど世話になったんよー」


 北政所はそう言って、半兵衛への感謝を息子である左京に伝える。


(父上が殿下の軍師だとは知っていたが、ここまでの信頼を寄せられていたとは……)


 左京もあらためて竹中半兵衛という存在の大きさを感じていると、北政所の方からさらに身を寄せてきた。


「左京は、お母上は壮健なのかえ?」


「いえ、母は父が陣没してからすぐにみまかりました」


「左京がいくつの時かえ?」


「確か五つの時だったかと――、だからあまりよく覚えておりません」


 左京がそう答えた次の瞬間――、その体がぐいっと前に引き寄せられた。


「――――⁉︎」


 そして、北政所の胸に抱きしめられている事に気付いた左京は呆然となる。


「そう……、そう……。ごめんね、左京」


 左京の頭をなでながら、北政所は涙声で謝罪する。

 北政所にしてみれば幼子を、それも大恩人の息子を長年に渡っておざなりにしてしまった事が許せないのであろう。

 左京もその溢れる慈愛を肌で感じ、もはや何も言えなくなってしまう。


「でも、もう大丈夫――。左京もこれからは私の子だからね」


 そう言って北政所は、さらに左京を強く抱きしめる。


(――この人は己の損得のために、誰かに呪詛をかける様な人ではない)


 豊臣の母の愛を全身で感じた左京――。彼は『解策師(げさくし)』としてではなく、一人の『子』としてそう確信するのであった。


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