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【02】『淀殿』


(この女が、淀の方――⁉︎)


 まるで抱きつく様に、自分の胸ぐらを掴んできた女の正体に、左京は息を呑む。

 淀の方――。後世、淀君や淀殿の名で呼ばれる秀吉第一の側室である。


 北近江の戦国大名浅井長政を父に、織田信長の妹で絶世の美女とうたわれたお市の方を母に持つ、戦国のサラブレッド。

 そんな彼女は、一昨年に秀吉の嫡男鶴松を産んだ次期天下人の母でもあった。


 この時、二十一歳――。だがとても一児の母とは思えないその可憐さに、左京も思わず目がくらみそうになる。


「淀の方様ーっ」


 そんな時、淀殿を探す侍女の声が、間近に近付いてきた。


「――――!」


 左京はとっさに、胸に抱いたままの淀殿を控えの間に引き入れると、襖を静かに閉める。

 その後で、我ながら何をやっているのかと困惑してしまう。


 さっきの段階なら、まだ十分に弁解はできた――。事実、左京は一方的にからまれたのである。

 だが、なぜ無意識にそれを隠す様なマネをしてしまったのか?


(これが魔性の女というものか――)


 もはや左京も、自分にそう言い訳するしかない。


「離れて……いただけますか? 淀の方様――」


 なんとか理性を働かせて、それだけ言った――。でなければ、どうにかしてしまいそうな気がした。


「んー? (わらわ)を抱きしめているのは、そなたであろう? 竹中左京」


「――――⁉︎」


 言われて左京は愕然とした。

 不可抗力とはいえ、天下人の側室をその胸にかき(いだ)いているのは、確かに自分だった。


「こ、これは失礼いたしました」


 慌てて身を離そうとするが、意に反して体が動かない。

 なぜなら、まだ淀殿が左京の胸ぐらから、手を離していなかったからである。


「おたわむれを……」


 そう言って顔をそむける左京に、淀殿は妖しく微笑むと、自分から顔を近付けていく。


「のう左京――。なぜ妾がそなたの事を知っていると思う?」


「――――⁉︎」


 左京の反応に気をよくした淀殿は、嬉しそうにその種明かしをする。


「フフッ。関白殿下が(ねや)で楽しそうに語っておったのよ――。竹中左京という男は面白いとな」


(なるほど。そういう事か――。それで銀髪の事も知っていたのか)


 左京は納得すると、いつもの冷静な眼差しに戻り、淀殿の手をほどくと、すっと後ろに下がる。


「――――? なんじゃ、何を怒っておるのじゃ?」


 途端に淀殿が慌て出す――。その姿はまるで、悪女の化けの皮が剥がれた童女の様であった。


「は? 別に怒ってはいませんけど……」


 左京も淀殿の意外な変貌に、調子を狂わされる。


「嘘じゃ。そなた急に妾の事を嫌ったじゃろ? あれか? 閨と言うたのが気に入らんかったのか?」


「…………」


 何も答えられない左京に、


「なんだか目つきまで悪くなっておるぞ――。何か? もう妾は女としての魅力がないのか?」


 淀殿はさらに追い討ちまで、かけてくる。


(目つきが悪いのは生まれつきですよ……。それに女としてって――⁉︎)


 左京も淀殿が秀吉の側室で、かつ子までなしている事は知っている――。だから別に、淀殿に何を期待していた訳でもなかった。

 だが言われてみれば、なぜあんな態度を取ったのか?


(いや、あれは豊臣の臣下として当然の振る舞いだった――。きっとそうだ)


 そう自分に言い聞かせるが、よく分からない感情に、左京も心が乱れていく。

 だから、


「淀の方様――。先ほど、呪詛と仰っていましたが?」


 左京は己の本分である『解策師(げさくし)』となる事で、この流れをリセットしようとした。


「――――⁉︎」


 これには淀殿もハッとする。


「誰に――、呪詛されているのですか?」


 淀殿の反応を見定めると、左京は話を次の段階に進めていく。

 だが、


「………………。分からんのじゃ」


「えっ、分からないんですか……」


 思わぬ返答に、左京は半開きの目を、さらにジトっと細めてしまう。

 この瞬間――、左京は大きな地雷を踏んだ。


「わ、分からんものは、分からんのじゃ! じゃからそなたに頼んでおるんじゃろうがー⁉︎」


 淀殿が顔を真っ赤にしながら、逆ギレ気味にヒステリックな声を上げる。


「こ、声が大きいです!」


「フガ――フガ――」


 こんな所で騒がれてはまずいと、再び左京は淀殿の体を胸に抱くと、その口を手でふさぐ。

 すると今度は、淀殿は頬を赤く染めて、急にしおらしくなってしまう。


 やれやれ厄介だと思いながら、淀殿がおとなしくなったと分かると、左京はふさいだ手を口から離してやる。

 すると淀殿は、また人が変わった様にボソボソと何かを語り始めた。


「――とうに……」


「――――?」


「本当に、誰が呪詛をかけたのかは分からんのじゃ。じゃがそのせいで鶴松は……、鶴松は年の初めに死にかけたのじゃ」


 明かされる悲痛な思い――。その時、淀殿は母の顔をしていた。


「…………」


 新たに見た淀殿の一面から、なぜか左京は目をそむけてしまう。

 同時に心に、チクリと小さな痛みを覚えた。

 それがどういう意味なのかは分からない。

 だが、


(この(ひと)を救いたい)


 そう思った事だけは確かだった。


「私でお役に立てるなら、力をお貸しいたしましょう」


 左京は、淀殿の耳元でそうささやいた。


「本当か?」


「ええ」


 今度は少女の様に微笑む淀殿に、左京は頷きながら、思わず心奪われてしまう。

 だが――、そんな甘い時間は、一瞬であった。


「では今度、淀城に来い」


「淀城に……ですか?」


 淀殿からの意外な申し出に、左京は首ひねる。


「そうじゃ。ここでは、誰が敵か味方か分からぬからの――。ゆえに妾の居城で密談じゃ」


 そう言って淀殿は、左京の胸の中で得意満面のドヤ顔になる。

 天下人の側室とその居城で密談――。それはけっして穏やかな内容ではなかった。


(ま、待て――! これは何かまずい事に、巻き込まれている気がする⁉︎)


 思い直した左京は、猛烈に嫌な予感に襲われる。

 次の瞬間、


「おーい、左京――。なんかそこの廊下に、すごい毛の長い猫がいたぞ」


 長政が鼻をグズグズさせながら、胸に猫を抱いて、勢いよく襖を開けてきた。


「…………」


「…………」


「…………」


 長政は絶世の美女を胸に抱いた左京に、淀殿は秘め事を見られたかのごとき羞恥に、左京は左京で最悪のタイミングで最悪の帰還をした長政に――、つまり全員が絶句した。

 だがこういった場面では女が強いのか、


「そなた! 名を名乗れ!」


 スクッと立ち上がると、淀殿は長政を指差し、厳しい口調でその身分を誰何する。


「――――⁉︎ は、ははっ! それがしは黒田甲斐守長政。豊前中津十二万五千石の当主にございます」


 これも淀殿の魔力なのか、長政も背筋を伸ばすと馬鹿正直にその身分を言上する。


「そうか――。よいか、長政? 今見た事、他言すれば、黒田は取り潰すからな!」


 淀殿はいきなり居丈高に申し渡すと、困惑する長政の腕から乱暴に猫をぶん取っていく。

 そして笑顔で左京に目配せすると、


「では、左京――。約束じゃぞ」


 と言い残し、そそくさと控えの間から去っていった。


(……まるで嵐の様な女性(ひと)だ)


 左京はその背中を見送ると、ひとまず解放された事に息をつく。

 それからチラリと隣に目を移すと、そこにはただ呆然と立ち尽くす事しかできない幼なじみの姿があった。


「左京……。俺……、何か悪い事したか?」


 目をパチクリさせながら呟く長政に、


「いや――。お前は、いつものお前だっただけだ……」


 そう答えながらも、さすがに今回ばかりは、左京も同情を禁じえなかった。

 そして同時に決意する――。もうこれは長政も共犯にするしかないと。


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