【01】『左京』
天正十八年(一五九〇年)十月。
小田原北条氏を降し、奥州仕置を終えた豊臣秀吉は帰洛後、天下統一の祝いと自身の慰労を兼ねて、摂津の有馬温泉へと湯治に赴いていた。
当然の事だが、天下人の逗留ともなれば、多くの家臣たちが同行する。
日ノ本六十余州を制したとはいえ、反対勢力は今もまだ内在しているのだから、いついかなる時も警戒を怠る事はできない。
中でも秀吉の腹心石田三成は、いつも以上にその怜悧な頭脳をフル回転させ、周囲に注意深い視線を送り続けていた。
その理由は、一通の脅迫状であった。
天が先
有馬の西は浄土にて
猿も転ぶは
是非もなきかな
一見、ただの和歌に見えるが、これは秀吉の暗殺を示唆している。
この脅迫状が、秀吉が有馬に訪れた翌日に、阿弥陀堂に投げ込まれたのである。
阿弥陀堂とは、有馬近隣の天神山の麓にある蘭若院阿弥陀堂の事である。
そこを会場に、秀吉は大茶会を予定していたのであった。
当然、三成は茶会の中止を進言したが、天下人が一通の脅迫状に屈するものかと、秀吉はそれを一蹴した。
そして後世、『有馬大茶会』と呼ばれるこのイベントの開催は、ついに明日に迫っていた。
だから焦る三成は、晩秋の日差しの中、自ら阿弥陀堂周辺を入念に探索していたのである。
「どこだ――。いったいどこなのだ……」
脅迫状が届いてから一週間、暗殺者の影が見えない事に三成は苛立ちの声を漏らす。
禅寺だけに、あらかじめ建物に潜むという事も考えられた。
だがすでに、兵だけでなく三成自身の手によって、どこにも刺客がいないのは確認済みである。
ならば次に考えられるのは、外部からの襲撃であった。
そのルートを割り出すべく、さっきから注意深く目を凝らしているのだが、完璧な警護態勢を破れる要素は、どこにも見当たらない。
それなら大丈夫と安堵すればよいのだが、頭脳明晰な分、三成は疑心暗鬼に陥ってしまっていた。
――ようやく掴んだ秀吉の天下。
それを守るために、この若き官僚は彼なりに必死なのであった。
だが、どうやっても答えの見えない謎に、途方に暮れそうになる。
そんな時、三成の目に一人の若武者の姿が映った。
「…………?」
思わず三成は首をかしげる。
なぜなら若武者は、禅寺の木々の中にある、枯山水を思わせる巨石に腰かけながら、何やらブツブツと呟いていたからである。
それにしても、なんとその姿の幽玄な事であろうか。
高く結った総髪は年に似合わぬ銀髪であり、それは木漏れ日の中で、まるで透き通っているかの様に美しかった。
肌も同じく透き通る様に白く、整った顔立ちのせいで、帯刀していなければ女人と見間違ってもおかしくはなかった。
だが何より三成が魅入られたのは、その眼差し。
若武者の美しい半開きの目が――、何か見えない謎を探っているかの様に、三成に見えたのである。
「ああ、なぜこうなった……」
「…………?」
不意に聞こえてきた若武者の呟きに、再び三成は首をかしげる。
まったくもって発言の意味は分からなかったが、とにかく目が離せなかった。
「……ああ、面倒くさい」
「――――⁉︎」
続けて発せられた無気力な声に、今度は三成は唖然としてしまう。
同時に、寺院に見慣れぬ者がいるという事実にようやく気付く。
思わぬ遭遇に我を失ってしまったが、三成は主君の暗殺予告の手がかりを探していたのである。
だから、
「貴様――、いったい何者だ⁉︎」
と若武者に向け、その身分を誰何する。
もしかすると、この若武者が刺客かもしれない。
万が一に備え、腰の刀に手をかけておく。
能吏といえど三成も戦国武将である。
相手の返答次第では、この場で斬り伏せんという覚悟であった。
「ああ……」
気のない返事が返ってくる。
「私ですか? 私は、竹中丹後守ですが……」
「――竹中? という事は、竹中丹後守重門か?」
三成の明晰な頭脳は、その膨大なデータベースから、即座に若武者の身分を照会する。
竹中重門――。今は亡き秀吉の軍師、竹中半兵衛重治の一人息子。
一昨年に従五位下丹後守に任官。昨年も美濃に五千石の領地を与えられたとも記憶している。
特に功もない十代半ばの青年のはずで、官位も領地も秀吉による、亡き半兵衛への恩義と供養によるものだと、三成はその存在を歯牙にもかけていなかった。
だが、
「おや、よくご存知で――。石田治部少輔殿」
「――――⁉︎」
予想もしなかった返しに、三成は衝撃を覚える。
竹中重門とは面識はないはず――。しかも領国を得るまで、彼は後見の叔父の所で部屋住み同然の暮らしをしていたはずで、自身のいる政権中枢には関与すらしていない。
(なのに、なぜ私の事を知っている?)
三成の背筋に緊張が走る。
さっき見た、何かを探っている様な眼差し――。それが今は、自分のすべてを見透かしている様に感じてしまう。
「なぜ自分の事を? と言いたげな顔ですね」
「――――⁉︎」
心の内を言い当てられ、三成は困惑する。
「いやまあ……、もしかしたらと思っただけですよ――」
「ど、どういう事だ⁉︎」
人を食った様な物言いに、三成も語気が荒くなる。
果たして竹中重門という男が、何を言ってくるのであろうかと、三成の緊張はさらに高まっていく。
「簡単な事です。今、この有馬の地で一番『得をしている人間』――、そして『損をしている人間』は誰かと考えれば、自ずとその答えは出てきます」
「私が……損をしていると?」
「違いますか?」
「くっ!」
思わず三成は苦悶の声を漏らす。
竹中重門の言う通りだ――。今、自分は明日に迫る有馬大茶会の奉行として、窮地に追い込まれている。
だからといって、それだけで自分の正体を瞬時に見抜くとは、いったいこの男は何者なのだ⁉︎
もはや三成は、竹中重門という若武者に恐怖の感情さえ抱いた。
――だが自分は天下人、関白豊臣秀吉のもっとも信頼厚き腹心である。
その矜持が、折れそうになる三成の心を、ギリギリのところで奮い立たせた。
「ええい、もういい! して貴様、誰の許しを得てここに来ているのだ⁉︎」
すべてを振り払う様に、三成は居丈高に叫ぶ。
三成の治部少輔と竹中重門の丹後守は、共に従五位下。
劣勢に追い込まれたとはいえ、官位の上では同格であるのに、秀吉の側近という権威を笠に着て、相手を見下す三成の悪い癖がここで出てしまった。
いやこの場合は、本人も気付いてはいなかったが、明らかに虚勢だっただろう。
だが恫喝にも動じない竹中重門という男が、表情も変えずに自分を見つめ続けている事に、三成はただ顔を歪める事しかできない。
「ハア……。私は呼ばれたから、来たんですよ」
「なに――?」
ため息まじりに告げられた言葉に、三成は理解が追いつかない。
呼ばれた――? 誰にだ?
天下人豊臣秀吉の、この度の大茶会の差配は自分に一任されている。
その列席者、及び自軍の同行者たちの中に、竹中重門の名などない。
「貴様、ざれ言を――」
三成が言いかけた時、
「おお、左京――。ここにいたのか」
という壮年の男の声が聞こえてくる。
三成が声の方に振り向くと、そこには杖を片手に立つ、顔に痣のある男がいた。
「こ、これは黒田殿――」
三成もその正体に呆然とする。
黒田官兵衛孝高――。竹中半兵衛亡き後、奇策縦横の軍師として、秀吉を天下人へと押し上げた大功労者であった。
だが、その官兵衛がなぜ? しかも竹中重門を、左京と親しげに呼んでいる。
「ああ、親父殿。ちょっと先に、阿弥陀堂を探索していただけですよ」
その左京も気だるげながら、笑顔で官兵衛に手を振っている。
(どういう事だ?)
三成は心中の動揺を隠しながら、
「黒田殿、この度はいかなる仕儀でこちらに?」
と、ひとまず状況を整理しようとする。
「ん? いやなに、ちょいと関白殿下に呼ばれたんでな」
(なんだと――⁉︎ 黒田官兵衛の召集も自分はまったく聞いていないぞ!)
事もなげに言う官兵衛に、再び三成は激しく動揺する。
だが表面上は平静を装うと、
「左様ですか。して――、そこなる竹中左京は黒田殿の供なのですか?」
と、今度はここまで自分を翻弄してきた謎の存在――竹中左京について言及する。
そういえば、さっき左京が官兵衛を『親父殿』と呼んでいた様に、黒田官兵衛は竹中重門の元服に際し、烏帽子親を務めていた。
さらに竹中半兵衛と黒田官兵衛は、『二兵衛』または『両兵衛』とも呼ばれた知己でもあった。
だから親のいない左京を、烏帽子親の官兵衛が配下の様に扱っているのだろうと考えたのだが、
「いや、ちょいと違うかな――」
「――――?」
案に相違する返答に、三成は首をひねる。
「どっちかというと、俺の方が左京の供かもしれんな」
「なっ⁉︎」
さらなる官兵衛の言葉に、三成は絶句してしまう。
豊臣政権の重鎮たる黒田官兵衛孝高が、たかだか五千石程度の無名の青年の供とは、いかなる事か?
「そ、その竹中左京はいったい何者なのですか⁉︎」
ついに三成も、狼狽しながら本音を包み隠さず口にしてしまう。
そして同時に、三成はその左京が自分を気だるげに――、しかも面倒くさそうに見つめている事にも気付いてしまう。
しまった――。自分とした事が、謎の青年の底知れなさに醜態を晒してしまった。
そう思ったが、三成としては今はそれよりも、竹中左京という男の事が知りたい。
だから官兵衛の言葉を固唾を呑んで待った。
そんな三成の心中を見抜いたかの様に、
「ふふん。左京か――?」
官兵衛はにやけ顔で、もったいつけてくる。
思わず三成も舌打ちしたい気持ちになるが、その気持ちをぐっと抑えていると、
「俺と同じく、左京の親父の半兵衛殿も、策を編む者――軍師だった」
官兵衛が的はずれとも思える事を言い出す。
だが黒田官兵衛ともあろう者が、意味のない事を言うはずがない。
それを知る三成は、やはりそのまま黙って官兵衛の言葉を待った。
「だがな――」
そして三成は知る事になる――。この先、関ヶ原でその生涯を終えるまで、時には味方、時には敵として関わり続ける男の正体を。
「半兵衛の息子、竹中左京はな……。策を解く者――解策師さ」
竹中左京重門――。半兵衛の息子。
彼の『解策師』としての華麗なる謎解きは、けっして歴史には残らない。
それでも左京は時の権力者たちに翻弄されながら、『損得勘定』という感性を武器に、時代の闇を解き明かしていく。
そのデビュー戦が、今ここに始まったのである。