08. アデル、勇者を育てる(2)
ぱかん! と軽快な音を立てて薪が割れる。
斧を手にしたレイノルドは、軽々と薪を割ってみせた自分の手を、まじまじと見下ろした。
(あっという間に終わった)
今日の彼は、薪割りに挑戦していたのであった。
アデルの家に身を寄せてから、彼が極端な労働を強要された試しはない。
ただ時々、申し訳程度に、皿洗いや荷物運びを手伝わされるだけだった。
それすらも、教会脱出直後は体力が追いつかず、引き受けられずにいたのだが、さすがにひと月もこのままではと思い立ち、斧を手に取ってみたら、思った以上に作業が捗った。
どうやらこのひと月、きちんとした三度の食事と、徹底的な休養を与えられたことで、体がすっかり回復したらしい。
ふらつくこともすっかりなくなり、手は膂力を取り戻し、集中して考え事もできる。
(あの人たちに、元気にしてもらった)
己の肉体にそのことを突き付けられた気がしたレイノルドは、斧を下ろし、その場に座り込んだ。
(……もしかして、あの人たちを、信頼していいんだろうか)
今のところアデルたちは、レイノルドを教会から保護しただけで、特になにを要求してくるでもない。
わざわざ魔女が教会に逆らってまで、自分のようなみすぼらしい子ども一人を助けるだなんて、いったい何が狙いだろうと警戒していたが、どうやら彼女は、本当に自分をかくまっただけのようだった。
(でも、ありえるのか? そんなことが)
眉を寄せていたら、ふと、汲んでおいた水桶に映る自分の顔が目に入った。
陽光を集めたような金髪に、青い瞳。
忌まわしき色彩だし、故郷では汚物にまみれてばかりで目を留めてくれる人もいなかったが、教会で危うく慰み者にされかけたところを考えるに、この容姿は優れているのだろう。
だとしたら、あの魔女も愛玩用として自分を拾っただけなのか。
(そのほうが、ありえるかもしれない)
アデルはいつも悠々としていて、落ち着き払っている。
悪人には見えないが、同時に超然としすぎて見えて、レイノルドの境遇に心を痛めたというのがいまいち信じられなかった。
まだ、気まぐれに拾ったと考えたほうがしっくりくる。
(だとすれば、気まぐれに捨てられるのかもしれない)
レイノルドがきゅっと唇を引き結び、桶から視線を逸らしたときである。
「おい、おまえ! 今日という今日は言ってやるぞ!」
薪割り小屋の向こうから、つかつかと少年がやって来た。
そばかす顔と、人の善さそうな垂れ目が印象的な兄弟子、マルティンである。
ただし今は怒りでか、顔を真っ赤にしている。
彼は肩を怒らせ、「おまえな!」と指を突き付けたが、切り株の側に座り込んだレイノルドのそばに、薪割り用の斧が転がっているのを見ると、さっと顔色を変えた。
「お、おま、おまおまえ、斧、斧なんて持って何してるんだよ!」
「……薪を割ろうと」
彼からは時折ちくちくとした敵意を感じていたが、見たところ――そして腕輪の判じるところ、こちらを陥れようとする悪人ではない。
レイノルドは素直に答え、それから、なぜこんなにも警戒されるのだろうかと首を傾げた。
「僕はなにか、あなたを怖がらせるようなことをしましたか?」
「ば、ばか、おまえ、そんな、僕が7歳も年下の野郎を怖がるもんかよ! ただ不思議に思って聞いただけだろ!?」
マルティンが噛みながら答えた途端、レイノルドの左腕に嵌めたままにしてある腕輪が、じわりと熱を帯びる。
嘘をついている証拠だ。
(この人はなぜだか、僕をときどき恐がっている)
それはもちろん、マルティンが師匠から「予知の通りになったなら、あんたもあの子にぼっこぼこにされる運命なのよ」と聞いているからだが、そんなことを知らぬレイノルドは、ただ不思議さに目を細めた。
幼くして完成された美貌を持つ彼がそんな顔をすると、言いようのない迫力を帯びる。
マルティンはいよいよ引っ込みがつかなくなったように、唾を飛ばして叫んだ。
「あ、あのなあ。おまえ、なんか生意気なんだよ! 俺たちに拾われてからもうひと月も経つっていうのに、なんでいつまでも無愛想なんだ? 手伝いもろくにせず、引き籠もって!」
レイノルドが終始無愛想だったのは、アデルたちが悪人ではないか、自分に見せる優しさは偽善ではないかと疑っていたからだし、引き籠もっていたのは、教会脱出直後でほとんど体力がなかったからだ。
少なくとも回復させてもらった恩はあるからと考え、今日は自ら斧を握った。
なのに、せっかく人が少し歩み寄ろうとした矢先に、向こうから叱られてしまうと、反発が込み上げる。
気付けばレイノルドの口からは、冷え切った声が漏れていた。
「拾ったといっても、あなたたちが勝手にしたことじゃないですか」
そして一度声にしてしまうと、その内容は、あたかも以前からずっとそう考えていたかのように、くっきりとした輪郭を帯びて心にのしかかるのだった。
(そうだ。べつにこの人たちは、気まぐれで僕を拾っただけ。信じ切ってしまったら、きっとまた裏切られる)
そうとも、いくら腕輪が彼女を誠実だと示していても、信じてはいけない――。
「気まぐれが理由のくせに、僕に」
「気まぐれで喉を潰すかよ!」
だが、レイノルドの言葉は途中で遮られてしまった。
マルティンが顔を真っ赤にして、いいや、拳すらぶるぶると震わせて、怒鳴ったからだった。
「気まぐれで痺れ薬を浴びて、気まぐれで浴びせてきた相手を許して、気まぐれでその相手の世話をするかよ。ふざけるな!」
言葉の意味がよくわからなかった。
「喉を潰す?」
「ああ、元々の師匠を知らないおまえにはわからないよな。師匠は前は、あんな掠れ声で話す人じゃなかった。弱々しい姿じゃなかった。おまえがそうさせたんだぞ! おまえが、変な薬を掛けたから!」
指を突き付けられて、レイノルドはびっくりしてしまった。
だって、アデルはいつも悠然としていた。
聖水を浴びせたときだって軽く咳き込んだものの、その後もすぐ落ち着いて話しはじめたものだから、まさかそれが彼女の本来の状態ではないとは、思いもしなかった。
むしろ、聖水なんて効果がないのだろうと思っていたのだ。
「でも、あの人は僕に、そんなこと、一度も」
「ああ、そうだろうな。師匠は絶対、おまえに弱みなんて見せないよ」
マルティンは吐き捨てた。
腕輪はいっこうに熱を帯びない。
彼の言葉は真実だということだ。
絶句したレイノルドをマルティンは再度睨みつける。
だが、相手が青ざめているのに気付くと、自分よりもだいぶ年下の少年に怒鳴りつけてしまった状況に居心地が悪くなったらしく、「ふん」と踵を返した。
「とにかく、その、なんだ、明日からは態度を改めろよ!」
わざとらしく足音を立てて、その場を去ってゆく。
そう、彼は他人を威圧することに慣れていないのだ。
彼だけではない。
その師匠であるアデルもだ。
彼らが「そういう人種」ではないということは、まさに「そういう人種」である父や教会の連中に虐げられてきた自分なら、すぐに見分けられたはずなのに。
「レイノルド……!」
立ち尽くしていると、今度はマルティンが去っていったのとは反対方向から、アデル当人がやってきた。
長い黒髪をたなびかせ、いつも静かな表情ばかり浮かべている白い顔は、物憂げに、ほんのわずか顰められている。
「今、マルティンの声が……」
彼女の声は掠れていて、聞くとレイノルドはいつも、霞の掛かった月や、湖に映った星を思い浮かべてしまう。
静かで、儚い声。
「大丈夫……?」
静謐な魔女は珍しく、焦りを滲ませてこちらに手を伸ばした。
途端に、甘さと爽やかさを含んだ香りが、すっと鼻腔をくすぐる。
それは、アデルがつい先ほどまで苺をどか食いしていたことによる残り香だったのだが、そうとは知らぬレイノルドはつい、胸を高鳴らせてしまう。
物静かで、伏し目がちな黒髪の魔女は、その雑な内面を知らなければ、神秘的で儚げなお姉さんに見えた。
「殴られたり……? 大丈夫? 嫌な思いは、していない……?」
頬を撫でたり、顎に手を添えて顔の左右を確認する姿からは、心配の念がひしひしと伝わってくる。
母親にもされたことのない仕草に、胸を詰まらせてしまったレイノルドは、ぐっと拳を握り、慎重な声で切り出した。
「殴られてはいません。ですが彼からは、あなたの事情を聞きました。僕が浴びせた聖水のせいで、……ひどく負傷したって」
「え……?」
なぜだか途端に、魔女は手を引っ込めた。
「そんなこと、ないわ。全然、平気。どこも、問題ないわ。私が、こんなに小さなあなたに、ダメージを、負わされるわけがないじゃない……? 私、あなたより強いし……すごく」
声は相変わらず静かだし、表情も平然としたままだ。なにも知らなければ、淡々と告げられたアデルの発言を、そういうものかと信じ込んでいただろう。
相手は強いのだから、自分が傷付けられるはずがない、気にしなくていいと。
だが。
(嘘ばっかりだ)
先ほどから、腕輪はじわじわと熱を帯び続け、痛いほどだった。
レイノルドは、鼻の奥がつんとするのを感じた。
彼女は事実、レイノルドによって負傷したのだ。
だが彼女は、こちらに気を遣わせまいと、その事実を秘匿してきた。
「でも……僕のせいで、声が、変わってしまったって」
あのおぞましい道具に、どんな効果があったのかをレイノルドは知らない。
もしかしたら元の声を奪っただけでなく、彼女の魔力だって奪ってしまったかもしれない。
けれどアデルは、それを一言も責めることなく、ただレイノルドに安全な家と食事を与え、叱ることも、なにかを要求することもなく、そっと側にいてくれた。
「馬鹿ね、レイノルド。声なんて、全然気にしてないわ……」
俯いたレイノルドに何を思ったか、アデルは肩にそっと両手を置いてくる。
「私にとっては、声なんかより、命のほうが数倍大事なんだから。だから、これでいいの……。あなたが無事でいてくれることが、とにかく重要なの……」
ほかの人間が告げたなら、真っ先にきれいごとだと疑う発言だ。
だが、アデルがその言葉を口にした瞬間、腕輪は熱を帯びなかった。
熱を、帯びなかったのだ。
「――……っ」
レイノルドは口を引き結び、慌てて彼女から視線を逸らした。
先ほどまでの疑念が、まるで波に押し流されたように一掃され、代わりにとくとくと、温かな感情が満ちてくるのを感じた。
(やばっ、顔逸らされた! 退かれた!? さすがに保身に溢れた本音を滲ませすぎた!?)
一方、そんな彼に息を呑んだのはアデルのほうである。
彼女は、聖水でしっかり負傷していた事実を見抜かれたことに、内心で激しく動揺していた。
それゆえに、咄嗟に「いや声のことなんて? 全然? 気にしてないですし?」のノリで返してしまったのだが、勢いで、「レイノルドの心証が自分の命を左右する」ことまでばらしてしまったのはよくなかったかもしれない。
彼には、自身がアデルの命運を握っていると知ってほしくなかったのに。
「ああ……。ごめんなさい、変なことを、言ったわ。今のはその……忘れて……」
慌てて前言撤回に走ったが、内面の彼女が赤面し絶叫するようなトーンで伝えようとした内容も、物憂げ囁きフィルターを通せば、「静謐で清廉な師匠が、思わず零した弟子への愛情を恥じらいつつ撤回する」ような、奥ゆかしい物言いとしか聞こえない。
(この人は、なんて……)
レイノルドは顔を逸らした先で、ひそかに唇を噛み締めた。
その日からレイノルドは、アデルのことを「師匠」と呼び、熱心に薪割りなどの雑用もこなすことになる。
しかし当のアデルといえば、「マルティンの説教が効いただと……?」と、特に叫ぶしかしていない一番弟子のことを、畏敬の念を込めて見つめるばかりなのだった。
次話、勇者覚醒。