07. アデル、勇者を育てる(1)
あのおぞましい部屋に通されたことで、唯一いいことがあったとしたら、それはこの腕輪――嘘を聞くとじわりと熱を帯びる不思議な聖具――を拾ったことだとレイノルドは考えている。
ヘルトリングの中央教会を脱走して、ひと月ほどが経った頃だ。
レイノルドはアデルたちに連れられて、フォルツ王国東端の森に構えられた小さな家に落ち着いていた。
ここでの彼は、アデルの三番目の弟子という身分だ。
マルティンやエミリーを兄弟子、姉弟子と仰ぎつつ、薬草摘みや占いなどの手伝いをこなし、合間合間に魔力の鍛錬をすることになっていた。
なっていた、というのは、実際の彼は、まったくそれらをこなしていないからだ。
レイノルドはマルティンたちを兄姉とは呼ばなかったし、アデルを師匠とも呼ばなかった。
当然彼らの手伝いなどしなかったし、はぐれ者の魔女なんかに魔力を育ててもらおうなどとも思わなかった。
ただ口数少なく彼らと行動を共にし、与えられた食事を食べ、寝た。
マルティンなどはそんな姿を不満に思っているようだが、レイノルドは頑なに無視し続けた。
理由は簡単、アデルたちのことが信用しきれなかったからだ。
これまでの人生で、人は簡単に他者を裏切るのだと知っていた。
父は母を捨てたし、母は我が子を助けようともしなかった。
人は汚いものを見ると容易く唾を吐きかけるし、それでは「きれいなもの」になれれば助けてくれるのかと思いきや、今度は蹂躙しようとする。
救うと見せかけて、その実相手を搾取しようとした教会のやり口は、レイノルドの中にかろうじて残っていた希望や信頼というものを、粉々に打ち砕いてしまっていた。
(信じないことだ)
レイノルドは何度も腕輪を撫でては己に言い聞かせた。
1ヶ月前アデルの手を取ったのは、単にあの教会から脱出するためだ。
当面の間は信用できると踏んだだけ。
アデルは「あなたに優しくしたい」と告げ、絶対に傷つけないと主張していたが――そして腕輪もまたそれを否定しなかったが――、人の心なんていつ変わるかわからないのだ。
少なくとも、彼の8年の人生を通して、レイノルドを心からの想いで守ってくれた人なんていなかった。
(そうだ。信じてはいけない。いくら聖女みたいな雰囲気をしているからって)
与えられた一人部屋で、固い寝台に座り込みながら、レイノルドは黒髪の魔女のことを思い浮かべた。
彼女はまるで、夜の静けさを秘めたような人だった。
髪は黒くつややかで、闇を湛えた瞳はいつも物憂げに伏せられている。
レイノルドに嘲笑を浴びせてきた父の愛人たちのような金切り声ではなく、まるで月光のように静かな声で話した。
レイノルドの名前や出身を言い当て、また、部屋を見ただけで、即座にレイノルドが軟禁されていると悟ったところを見るに、予知や予言のような力を持っているというのは本当なのだろう。
レイノルドの境遇に、「かける言葉もない」と言葉を詰まらせたほどなのだから、清らかな心の持ち主なのかもしれない。
それでも、レイノルドは彼女を即座に信じようとは思えなかった。
(たぶんあの魔女には、なにか目的があるんだ)
おとぎ話でも、魔女は子どもに最初だけ優しくして、それから食べるではないか。
きっとあの黒髪の魔女にも、そうした狙いがあるのだ。
たとえば、レイノルドの中に眠る魔力を育てて奪ってしまおうとか、金髪碧眼の容姿に目を付けて教会のスパイに育てようとか、そういう後ろ暗い狙いが。
(魔力だって、鍛えたりなんかするものか)
ぎゅっと膝を抱えながら、レイノルドは考えた。
魔力というのは、心身を鍛え、理を学び、そのうえで強く願うことで引き出せる力なのだという。
虐待に遭っていたレイノルドは、心身を鍛えるどころかいつも追い詰められていたし、田舎暮らしのため理論も知らなかった。
ゆえに、生まれつきの才能で「魔力が湧き出る感覚」というのを理解できても、それをうまく操ることができずにいる。
だが、もうそれでよかった。
魔力なんて多少使えたところで、故郷では誰も彼を認めなかった、どころか異端視してきたし、見どころがあるとして連れてこられたはずの教会だって、特筆するほどの魔力ではないと判じるや、むしろ彼を奴隷のように扱った。
そのうえ、正規の教会ではなく、魔女の指導のもと身に付けた魔力だなんて、役立つどころか害悪にしかならないかもしれない。
レイノルドは、アデルたちに心を許そうとは思わなかった。
(偽善だ、絶対)
彼が膝を抱える寝台の脇には、素朴な木のトレイに、季節の野菜を煮込んだシチューと、焼き立てのパンが載っている。
師匠であるアデル本人のものよりも、いつもシチューは多く、パンだって見栄えのよいものが選ばれていた。
レイノルドは、ついトレイに視線を向け、そんな自分に気付くと慌てて顔ごと背けた。
――思う存分食べて。
――お金なんて……必要ないわ。遠慮もね。
食事を手渡すとき、あの魔女はいつも静かにそう告げる。
――ただ……もし、食事をおいしいと思ったなら、そのことを、よく覚えておいてね。
支払いも奉仕も要求せず、彼女はただそれだけを言い聞かせた。
覚えておいてねと。
きれいごとの見本のような台詞なのに、腕輪は毎回、熱を帯びない。
ということは、彼女は真実、目の前の子どもに対価もなく食事を与えたいと願っているのだ。
それがレイノルドには信じられない。
(そんな人、この世にいるのか?)
気付けば自問してしまう。
ついで慌てて首を振るのだ。
だから、いないと言っている。
彼女を前にするときだけ、きっと腕輪の調子が悪くなるのだ。
「絶対にそうだ」
レイノルドは、この半月ですっかり栄養状態のよくなった手足を一層引き寄せ、寝台の上で小さくなった。
***
「もう、我慢できない!」
空に向かって吼える一番弟子を、草むらに屈んでいたアデルは「まあまあ」と宥めた。
「そんな、大声、出さないの。あの子に、聞かれたら、どうするの……」
かすれ声で窘めつつ、手はせっせと苺を摘んでいる。
じきに春が終わってしまうので、これが最後の収穫になるのだ。
どっさり摘んだ苺は、干したりジャムにしたりして、残りはタルトに仕立ててレイノルドに食べさせようと考えていた。
「ねえ、あの子って、苺は、好きかな? きっと好きよね。苺が嫌いな、子なんていないし……」
教会でしびれ薬を浴びさせられてからこちら、喉の調子が一向に戻らないので、ついつい途切れがちの囁き声になってしまう。
それを聞くと、マルティンはますます「ああああ!」と声を荒らげ、髪に両手を突っ込んだ。
「さすがに師匠、尽くしすぎじゃない!? あいつ、こっちの厚意に胡坐をかいて、礼のひとつも言わないじゃないか。ずっと感じ悪いし、閉じこもってるし。それに……あいつが浴びせた聖水のせいで、師匠はいつまでもよくならない」
目は痛ましそうに、アデルの顔や喉を見つめている。
「いつもそんな、憂い顔で」
そう、しびれ薬を浴びてしまったせいで、アデルは声だけではなく、表情を操ることも不得意になってしまったのだった。
伏し目がちになった顔立ちは、えもいわれぬ陰りを帯び、まるでアデルが物憂げな人間であるかのように思わせる。
いつも快活な笑顔を浮かべ、早口でしゃべっているからこそ、「陽気でちょっと抜けているアデル」という真実の姿がそのまま伝わっていたのだが、その二点を取り去ってしまえば、東方の血が混じる彼女は、白い肌と艶やかな黒髪、そして神秘的な黒い瞳を持つ、ミステリアスな美女でしかないのだった。
「え……。どうしよう……。中身はいたって、変わってないし、今も、ご機嫌なんだけどな……」
「そのアンニュイな顔と囁き声で言われても、全然説得力がないんだよ!」
アデルのすぐ隣で苺を摘んでいたエミリーは、そのやりとりを聞くと、心配そうにアデルに手を差し出した。
「師匠。今日も喉が痛そうなので、いつもの方法で」
「ありがとう、エミリー……」
アデルは礼を告げ、エミリーの手を握りしめる。
エミリーはまたマルティンにも手を差し出し、三人は輪になって相手の手を握りしめた。
途端に、繋ぎ合った手からふわりと光が滲み、三人の脳に直接、互いの声が響きはじめる。
『いやー、エミリー、助かるわ! やっぱこの喉で長い文章を話すの、結構負担でさー。ついつい囁き声になっちゃうんだけど、屋外だと声って届きにくいもんね。ごめんねー、魔力使わせちゃって!』
これは、エミリーの精神感応能力を媒介にして、相手の脳に直接思考を届ける「心話」と呼ばれる術だった。
心話に切り替わった途端、いつもの早口なおしゃべりに切り替わったアデルに、二人は安心したような、ギャップに悩むような、複雑な表情を浮かべる。
『いいえ、師匠の役に立てるなら、全然。それより、本当にほかは問題ないですか?』
『ない、ない! 超元気。顔がちょっと無表情になってるだけで、今日も楽しく生きてるよ。むしろ私、なんでも顔に出すぎだったから、占いやはったりの場面で、この無表情ぶりに結構助けられてるんだけど』
『そりゃ、そうかもしれないけど……』
マルティンは不満げに眉を寄せた。
『でもやっぱり、師匠はあいつに媚びすぎだと思うんだ。そこまでやる必要ってある? あいつ、俺たちがこんなによくしてるのに、ずっと感じ悪いままだし』
お人よしではあるけれども、それ以上に真面目でもあるマルティンは、一向に輪に溶け込もうとせず、ただ与えられるものを受け取るだけのレイノルドが気に食わないようだ。
『毎食出してる食事だって、俺たちがどれだけ苦労して食材をかき集めてると思う? なのに、あいつ、礼のひとつも言わないし。仕事の手伝いも、魔力の鍛錬だってしないし、怠けてるよ』
『馬っ鹿ねー、それでいいのよ』
だがアデルはちっちっと指を振り、取り合わなかった。
なお、悪戯っぽい口調に反し、顔は相変わらずアンニュイ感を貫いており、見ていると非常に頭が混乱する。
『苦労なんて滲ませちゃだめだめ、悠然としてなきゃ。だってあの子は、もし覚醒したら勇者になれるほどの素養があるのよ? 今のうちに精神的優位に立って、「この人には逆らえない」って思わせておくべきでしょうが。大人は大人ぶるべきなのよ。これ、子育ての鉄則ね』
数多くの子守りバイトをこなしてきたアデルから言わせれば、子ども、特に男の子には、こちらが舐められないことが大事なのだ。
序列が下と思われたら一巻の終わり。
獣の理屈と同じである。
そうなのか、と怯みはじめた子育て経験のない弟子たちに、アデルは得意げに付け足した。
『それに、今は「うわー魔女って優しいな、アデルさんいい人だな」っていう印象を積み重ねていくのが大事なの。すぐに礼なんて取り立てちゃだめよ。とにかく「覚えておけよ」、「覚えておけよ」っていちいち貸しの記憶を刻み付ける。これよ!』
『たしかに師匠、彼を部屋に案内したときも、いちいち説明していましたもんね』
エミリーがしみじみ頷く。
レイノルドに家を案内するにあたり、アデルときたら「これがあなたに用意した部屋よ」、「これがあなたにあげた寝間着よ」、「これがあなたのための焼き立てのパンよ」と真面目くさった顔で数え上げていたのだ。
もし聖水の影響がなく、いつもの元気な口調だったなら、相当うるさかったし恩着せがましく響いていたことだろう。
『へへ、ごめん、ごめん。些細なアピールの積み重ねが大事かなと思って、つい』
『でも、そんな積み重ねで、予知って変わるのかなあ。直近見た予知夢では、なにか変化はなかったの? 例の予知夢をもう見なくなったとか?』
『いやあ、それが』
マルティンがそばかす顔を顰めながら尋ねると、アデルは手を繋いだまま溜息をついた。
『しきりと見るんだよねえ。それも同じ場面、同じ内容ばっか。そろそろ台詞も暗唱できそうよ。怖いからしないけど』
「全然効果出てないじゃんか!」
「まるでだめですね!?」
弟子たちは思わず肉声で叫んでしまった。
こんなに下手に出続けて、表情や元の声まで失ってなお、なんの効果も出ていないなんて。
『や、未来っていうのはそう簡単に変わるものじゃないんだってば! 何十回と試行錯誤してね、もうだめかもって諦めたくらいに突然変わったりするんだから』
「もう見てられないよ」
アデルはとりなしたが、マルティンは憤然と手を放し、その場に立ち上がった。
「僕、あいつにビシッと言ってくる。未来の勇者だかなんだか知らないけど、これだけ師匠に迷惑をかけておいて何様のつもりだって」
「え、やめて……。そもそも、だまして攫ったのは、こっちなんだし……」
術を打ち切り、弱々しい掠れ声に戻ったアデルが諫めると、人のいい一番弟子はますます顔を歪めた。
彼は、師匠であり、命の恩人でも幼馴染でもあるアデルが、こんな掠れ声で話すようになったのが見ていられないのだ。
「そりゃ唆したのはこっちだけど、教会暮らしが嫌だと言って手を取ったのはあいつのほうじゃないか。いつまでもお客さん気どりでいられたって困るよ。この一番弟子の僕が、ビシッと締めてやる!」
言うが早いか、マルティンはその場を走り出してしまった。
「えっ、ちょっ、待っ……」
アデルは追いかけようと立ち上がるが、ローブの裾を踏んですっころぶ。
「痛ぁ!」
こんな姿を末弟子に見られたら威厳もへったくれもないので、今でよかったが、いやいや、マルティンの暴走は自身の危機だ。
(ちょっとやめてよ! あの子の機嫌を損ねたら、私の未来も危ないし、あんただって吐血の危機が待ってるんだからね、マルティン!)
だが、転んだときに叫んでしまったせいで喉まで痛い。
「ごほっ、ごほっ……、む、噎せた」
「師匠……。単なるドジのはずなのに、その姿で弱々しく噎せられると本当に心配になります。少し休んでから追いかけましょう?」
喉を押さえて蹲るアデルを見かねて、エミリーが心配そうに背中をさすってくる。
「唾が、変、変なところに、入った……」
「わかりましたから。それ以上話さないでください。死期が近い人みたいに見えます」
敬慕というよりは介護寄りの優しさを受け、アデルは焦りを募らせながら、しばし草原で休んでいくことにした。