06. アデル、勇者を攫う(2)
「誰が信じるか!」
――ばしゃっ!
「あ、…………っ!」
(どああああああ!)
顔面から液体を浴びせられたアデルは、大きな悲鳴を上げかけたが、途中で声を掠れさせた。
これまでは演技のために取り澄ました囁き声で話していたのだが、今はなぜだか、喉が引き絞られる感覚がして、本当に声が出なくなってしまったのだ。
いいや、喉だけではない、顔全体が引き攣っている。
ぐうっと全体が糸で縛られたかのような痛みの後は、急激に力が抜けてしまった。
顔を顰めたいのだが、眉がきちんと感情通りに動いているかもわからない。
「な……っ、ごほっ、ごほっ!」
喉が変に強ばり、唾がうまく呑み込めない。
咳き込んでいると、隣にいた弟子たちがぎょっとした様子で身を乗り出した。
「おい、おまえ! 何をした!」
特にマルティンなどは、怒りのままにレイノルドの胸ぐらを掴み上げている。
「ぐ……っ」
まだ10歳にもなっていない少年は、勇者候補であっても到底力で敵わない。
苦しそうにもがくレイノルドを見かねて、アデルは声を掠れさせながら叫んだ。
「マルティン。やめ……さい! 私、大丈夫だから!」
「だって師匠!」
薬に焼かれた喉に驚いたのか、ますます手に力を込め始めた一番弟子を、アデルは渾身の力で引き剥がした。
「やめ、さいったら! 彼を、傷付けないで!」
(ただでさえあんたは、後々この勇者に吐血させられる運命にあるんだからね!? ここで恨みを買ったら、吐血どころか四肢断絶までありえるからね!?)
可能ならそう説明したいが、激しく痛む喉では、あまり長々と話すことができない。
ひとまずアデルは、少年を後ろ手にかばい、マルティンに向かって要点だけを伝えた。
「絶対に、彼を、傷付けてはいけない。わかった?」
よくできた一番弟子は、ぐっと口を引き結びながらも後ろに下がった。
ほっと胸を撫で下ろす。
自分たちを破滅の未来から救うためにきたのに、危うく運命を加速させるところだった。
(どうやらこれ、かかった部位を麻痺させるポーションのようね)
口に入ってしまった味と症状を照合して、命に別状はなさそうだと判断したアデルは、「何をするんだこいつ!」という本音をぐっと堪え、レイノルドに向き直った。
なにしろこの教会を割り出し、清掃員のふりをして潜り込むのに、ひと月も掛かったのだ。
感情のままに相手を罵り、自主的に同行してもらうプランを台なしにするのは、あまりにもったいなかった。
(ただでさえ、窓から入って「一緒に行こう」なんて言ってくる連中、明らかに怪しいし)
自分たちが入ってきたステンドグラスをちらりと振り返り、内心で冷や汗を浮かべる。
だって、堂々と教会に出入りできるわけでもない自分たちが、この尖塔に入るには、こうするしかなかったのだ。
アデルは、金髪碧眼のエミリーに「聖女候補生」を演じてもらい、自らはマルティンとともに、窓清掃要員の奴隷のふりをして、ここまでやって来たのである。
エミリーに精神感応能力を使って、周囲の気配を探ってもらったところ、現時点でこの部屋付近に人影はない。
ここに誰かがやって来る前に、自主的に自分たちとこの部屋を出るよう、さっさと少年を説得せねばならなかった。
(今こそはったりの経験を生かすべきときよ、アデル……!)
密かに己に言い聞かせる。
断片的な予知能力を持つアデルが、精度が高いとは言えない占いでそれなりの金を稼げてきたのは、ひとえにこのはったり能力のお陰だった。
どうやらフォルツ王国の人間には、この東の血混じりの顔は、表情が読み取りにくいというか、神秘的に見えるらしい――もちろん中身は全然そうではないのだが。
アデルはその特性を生かし、「凜とした」「エキゾチックな巫女のような佇まいで」予言めいた発言をすることで、数々の客から金を巻き上げてきたのである。
「――あなたの名は、レイノルド。出身は……北ね。雪が見えたわ。暗く、寒い土地」
すう、と表情を消し、神がかった感を演じながら呟く。
名前は予知夢からだし、出身地は馬車の状態から割り出しただけだが、そんなことはおくびにも出さない。
今は顔面が麻痺していて、無表情ぶりが一層いい感じだ。
これはこれで状況に有利かもしれない。
いきなり名前を当てられたレイノルドは、はっと息を呑んだ。
それでいい。
「幸せになれると思って、ここに来たのね。でも実際は――」
ここは地獄なのよ、と適当なことを続けようとして、アデルは言葉に悩んだ。
(どう見たって、天国よね、これ)
教会という未知の組織のランク付けはよく知らないが、豪華絢爛な調度品や、おしゃれなローブ、ふかふかの広い寝台を見れば嫌でもわかる。彼は勇者候補の中でも特別期待されるグループに振り分けられ、一人部屋を与えられたのだろう。
「実は勇者候補なんかじゃない」と言ってはみたものの、簡単には信じてもらえなそうだ。
「師匠、なんでそこで黙っちゃうんだよ」
「いや……、彼の今後の生活が、想像できてしまって……掛ける言葉が」
マルティンに小突かれたが、この環境をどうやったら貶せるかわからない。
(ふかふかすぎる寝台は腰に負担ですよ、とか? いや、それもちょっと無理筋)
思わず眉間を押さえてしまう。
正直、実際に忍び込んでみるまで、ここまで彼が豪華な住環境を与えられているとは思わなかったのだ。これは大変やりにくい説得になりそうだ。
「……僕の今後の生活が、想像できると?」
と、それまで押し黙っていたレイノルドが、慎重に声を掛けてきた。
「あなたには、そうした能力があるんですか?」
「ええ。予知の能力がね。でもこの状況、魔力を使わなくたってわかるわ」
アデルは答え、羨望を込めて寝台を見つめた。
「広い寝台……」
羨ましさのあまり、しんみりした声になってしまったかもしれない。
なぜだか、レイノルドがぐっと拳を握り締める。
アデルは慌てて話を戻した。
とにかく今は、幼い彼に教会を危険な場だと刷り込むことが肝要だ。
すぐには信じてくれないだろうから、大げさに伝える必要がある。
「落ち着いて聞いて。教会が邪悪というのは、信じられないかもしれないけれど――」
「信じます」
「そう、にわかにはね、なかなか――えっ」
が、難航するだろうと思っていた丸め込みが一瞬で完了してしまい、アデルは思わず声を上げた。
途端に負担の掛かった喉が痛み、慌てて叫びを飲み込む。
どうやらしばらくは、極力低く、静かな声で話したほうがよさそうだ。
「……信じるの?」
「こんな生活を強いられて、不信感を抱かないほうがどうかしています」
吐き捨てるように告げたレイノルドに、アデルは心底驚いた。
(この生活水準でも満足しないですって!?)
なんという贅沢好きだろうか。
「……ここでの生活が、いや?」
動揺しながら、アデルは部屋中に視線をさまよわせた。
正直、これ以上の贅沢暮らしを求められたらこちらでは対応できない。
(ど、どのへんが嫌なんだろう。高級品に囲まれすぎてて落ち着かないとか? 漂う香水がキツすぎるとか?)
密かにおろおろしだしたアデルの思考に応えるように、レイノルドは吐き捨てた。
「こんな寝台に一日中横たわっているくらいなら、固い地面の上にでも寝たほうが何倍もましです」
(えっ、寝台!? 寝台は固い派ってこと?)
「いえ……いっそ死んだほうが人としての尊厳を守れるかもしれません」
(そこまで!?)
寝台へのこだわりが強すぎて驚いてしまうが、ふかふかの羽毛布団でないと眠れないと言われるよりはましだ。
森の家での暮らしは、ワイルドさにかけては定評があるので、彼にもきっと受け入れてもらえるだろう。
「もし、私の弟子となり、ともに森で暮らすなら、身の回りすべてのことを、自分で決めていいわ」
寝台の固さだろうが枕の高さだろうが、自由に決めていただいて大丈夫です。
セールストークのつもりで主張すると――ああ、もう少し明るく告げたいのだが、いかんせん静かな声しか出ない――、レイノルドははっとした様子で息を呑み、まじまじとアデルを見た。
「……あなたがどんな人なのか、僕にはよくわからない。でも、僕を連れ出すというのなら、ひとつだけ伺いたいです」
やがて、なぜか手首の辺りを押さえながら、切り出してくる。
彼はわずかに幼さの残る声で、こう尋ねた。
「あなたは、僕を――傷付けるつもりですか?」
「いいえ、そんなはずがないわ」
これにはアデルは即座に答えた。
レイノルドを傷付けるつもりなど毛頭ない。
むしろ傷付けられる予定なのはこちらだ。
そうなる未来を避けるべく、アデルはこれから、彼をどろどろに甘やかし、寝食のすべてを世話してやり、恩を貸しまくるつもりである。
(甘やかされまくった子は大成しないしね! 思いきり堕落させてやるわ!)
なので彼女は、心を込めて告げた。
「私は、あなたに、優しくしたいの。できる精一杯のことをして、あなたを、大切にしたい」
レイノルドは感触を確かめるように強く手首を握りしめ、しばらくすると、信じられないというような表情を浮かべた。
「どうしたの?」
「いえ……」
やがて少年は、唇を引き結び、覚悟を決めたような顔をする。
不思議に思ったが、あまり時間がない。
「さあ」
とアデルが手を差し出すと――なんとレイノルドは、躊躇いながらも、その手を取った。
(取った! レイノルドが手を取った!)
純粋な感動が込み上げる。
これで四肢切断拷問死の未来から、一歩遠ざかることができた。
(よかったー! この天国みたいな待遇を捨てる子なんていないだろうと焦っちゃったけど、私の説得術のレベルって、自分で思っている以上に高いのかも!)
こちらに、とレイノルドを窓に誘導してやりながら、調子に乗りやすいアデルはそんなことを考える。
普段だったらにやけ笑いが漏れて、マルティンに「やめてよ気持ち悪い」と窘められる場面だったが、幸か不幸か、浴びたポーションがまだ効いていて、顔はすんとした無表情を保っているのだった。
これはこれでなかなか便利だ。
人目を気にせず悦に入れる。
そう、アデルは悦に入っていた。
だから気付かなかった。
レイノルドが聖水を投げつけてきたとき、彼がもうひとつ聖具を掴んでいたこと。
嘘を聞くとじわりと熱を放つ不思議な腕輪を、彼は素早く装着し、ずっとアデルの言葉を聞いていたのだということ。
そして、
――絶対に、彼を、傷つけてはいけない。
――私は、あなたに、優しくしたい。
保身ゆえに放たれた言葉は、本心ではあったので、腕輪もこれを否定せず――結果的に、アデルは終始、本人が思っている以上の聖人ムーブを決めていたことに。
ここからしばらく、ヤンデレが徐々に育っていく過程をお楽しみください…