05. アデル、勇者を攫う(1)
己の人生は泥溜まりのようだと、ステンドグラスの嵌まった窓を見ながらレイノルドは思った。
暗くて、淀んでいて、冷え切っていて。
誰もが目を背け、時々忌まわしげに足蹴にしていく。
彼が生まれたのは、大陸の北方にある、ごく小さな町だった。
住人たちは皆寡黙で、質素な生活を送っている。
雪に閉ざされ、暗く沈んだ町の中で、ほかよりわずかに裕福な男が、ほかよりわずかに美しい、亜麻色の髪の女を見初め、産ませたのが彼だった。
レイノルドは輝くばかりの金髪と、空のように青い瞳を持って生まれた。
不思議なことに、腹の中の記憶が残り、生まれたときから周囲の言葉が少しわかった。
彼が泣くと、つられるように空も雨を降らせた。
もしこれが王都での話だったなら、彼は即座に教会に引き取られ、勇者として持て囃されていただろう。
特別な教育を受け、王家に忠誠を誓い、姫君との婚姻さえありえたはずだ。
しかし彼が生まれたのは、領主からも存在を忘れられそうなほどの小さな町で、そこで重要だったのは、彼が父親とも母親とも異なる色彩を持って生まれたという事実のほうだった。
そしてそれは、母親の不貞を意味した。
砂色の髪と灰色の瞳を持つ父親は、赤子の目が開いた途端、妻を雪降る街路に追い出した。
レイノルドは放置され、屋敷に入り浸るようになった愛人に嘲笑われながら乳を求め、使用人の残したパンを食んで命を繋ぎ、みすぼらしい少年に育った。
美しい金髪も白皙の美貌も、汚れて悪臭を放っていたのでは気付かれない。
頻繁に殴られ、目も当てられぬほどに殴られていたならなおさらだ。
彼の中にあった知性は、恐怖に押し潰されて奥底に隠され、滲み出る魔力がもたらす数々の現象は、彼の存在ごと無視された。
レイノルドは、生き延びるために周囲を見回し、慎重に振る舞った。
その生き方は彼の知恵を磨いたが、同時に懐疑的な性格を育てた。
懐疑的な性格は彼を寡黙にさせ、寡黙な性格は彼を無感動にしていった。
暗い目をして、邪魔にならぬよう部屋の隅でひっそりと息をしている少年。
それが彼だった。
ところが、そんなレイノルドが8歳になった頃、転機が訪れた。
厳格さで知られる王都派の教会が、主の導きにより「啓光」を行うというのである。
実際には、その年には聖徒学院に欠員が出るほどに勇者・聖女候補が少なかったから、外部から補充しよう、というのが教会側の事情であったが、民にはそんなことなどわからない。
比較的金髪の子どもが生まれやすい、という理由で対象地域に北部の町がいくつか選定されると、人々は胸を高鳴らせながら我が子の髪色が少しでも薄く見えるように努力し、教会からの使者に我が子を差し出した。
そして見事、ほか数名とともに王都行きの馬車に乗せられたのが、レイノルドだったというわけだ。
彼は数年ぶりにきちんと仕立てられたシャツを着るまで、自分が金髪であったことも、レイノルドという立派な名前があることすら忘れていたほどだった。
馬車での道行きは楽しかった。
共に連れられた子どもたちは、質素な食生活に文句を垂らしていたが、彼からすれば三食きちんとパンが与えられるなんてありがたさしかない。
およそひと月の道程の間に、彼は少しずつ体を回復させ、生来の美貌を完璧なものにした。
これからは、きっと王都で教育が与えられ、誰もが羨む生活が待っているのだと、少しずつ信じはじめた。
ところが、いざ教会の一室に集められ、簡単な魔力適合検査を受けてみると――「低」と判定されたレイノルドの扱いは、悲惨なものだった。
そもそも魔力とは幼少時に発現し、本人の努力や周囲の助力によって少しずつ育てられていくものである。
生まれた直後から虐待に遭いつづけていたレイノルドの魔力は、同年代の子どもたちと比べて明らかに小さかった。
だが、馬車から降りた美しいレイノルドを見ると、彼が粗略に扱われていたことなんて誰も想像できない。
採用官はその場にいなかったし、引き継ぎは荒く、多少の事情を知っていたほかの子どもたちは、己が有利になるために口を噤んだ。
結果彼は、「容姿で目を引くものの、力はさしてない子ども」と評価されたのだ。
低魔力の子どもたちは、教会の下働きに回された。
清廉を掲げる組織なのだから、貧しくとも節度ある生活が望めるのかと思いきや、外で品性高く装う彼らの、内での振る舞いは荒々しかった。
下働きたちは頻繁に食事を抜かれ、暴力に晒され、罵られた。
それでもひと月が経ち、やはりレイノルドの図抜けた美貌は見過ごせないとなると、彼の扱いはまた少し様相が変わりはじめた。
兄弟子たちから殴る蹴るといった暴行がなくなった代わりに、より年配の、師父と呼ぶべき人々から、湿度の籠もった視線を向けられるようになってきたのである。
ときどき教会内で見かける、こぎれいなローブを着た、けれど虚ろな目をした少年たち。
彼らは内々では「雌羊」と呼ばれていて、ともすれば下働きよりもよほど悲惨な生活を送っているのだと――ときに自ら命を絶つ者もいるのだと、噂好きの兄弟子たちは教えてくれた。
そして、レイノルドも「雌羊」になったから、この部屋に連れてこられたのだということも。
「…………」
レイノルドは椅子に掛けなおし、淀んだ瞳で窓を見た。
尖塔の屋上近くにある、豪奢な部屋だ。
分厚い石壁と重厚な扉に囲まれており、一つだけ据えられた窓には、壮麗なステンドグラスが嵌め込まれている。
窓のすぐ手前には、精緻な彫刻が施された祭壇と、数々の奉納品。
聖十色で織られたタペストリーや、硝子瓶に入った聖水、宝剣や宝飾品などが惜しげもなく飾られているのを見れば、誰もがこの部屋を、主に祈りを捧げるための部屋だと思うだろう。
やけに広々とした寝台さえ置かれていなければ、の話だが。
「おめでとう、新入り『雌羊』くん。今日からおまえの仕事は、師にご奉仕することだ」
「心からお仕えしなきゃ、仕置きをされるって話だから、せいぜい頑張れよ」
そんな嘲りとともに兄弟子たちが目を付けたのは、祭壇に飾られていた金の腕輪だった。
「ふふ、やっぱりこれを使う気なんだ」
「可哀想に、おまえ、どうやったって逃げられないなあ」
彼らが言うには、それは嘘を見分ける腕輪なのだった。
身に付けた者は、周囲の嘘を聞き分ける能力を得るらしい。
つまり師父がそれを嵌めてしまえば、たとえどれだけレイノルドが口先の忠誠を誓おうと、媚びて脱走を試みようと、たちまち見抜いてしまうということだ。
嘘をつけば体罰、媚びても体罰。
そうやって精神の奥深くまで操縦し、相手を隷属させる。
「この聖水は、浴びた者の体を麻痺させる。この宝剣は、切れ味は鈍いが耐えがたい痛みをもたらす。タペストリーは、うっかり相手が死んだときに、搬送するのに使うんだってよ」
「全部お楽しみの道具ってわけ」
飾られていたものは、祈りのためではなく、「雌羊」を甚振るための道具ということだ。
レイノルドが顔色を変えると、兄弟子たちは満足そうに部屋を出て行った。
彼らは彼らで、うまくすれば師お気に入りの小姓――つまりはそれなりの権力者になりうるレイノルドのことを、やっかんでいたのだ。
レイノルドはひとしきり祭壇の道具を自分が使ってしまえないか試してみたが、宝剣などの攻撃的な道具は、魔力の低い彼が触れたところで、持ち上がりもしなかった。
辛うじて嘘を見抜く腕輪なら嵌められそうだったが、この状況で自分が周囲の嘘を聞き分けても、なんの手助けにもならないだろう。
「…………っ」
彼は、一度だけ強く祭壇を叩いた。
差し出されたと思った手。
喜び勇んで飛びついた教会からの「救い」は、その実、彼を一層泥の奥深くへ押し込むためのものだったのだ。
信じてはいけない。
きれいごとを抜かす連中は特に。
レイノルドは疲れきったような顔になり、椅子に腰掛けた。
そうして、ずっとステンドグラスを見上げていた。
色とりどりの硝子から注ぐ光は、こんなにも美しいのに、なんて世界は汚らわしいのか。
――と、そのとき、ステンドグラスを見つめていた彼の瞳が、不意に見開かれた。
それもそのはず、色づき硝子の向こう側に、逆さまになった女の顔が突然現れたのだから。
「な……っ」
レイノルドは椅子を蹴って立ち上がる。
地上十階ぶんはある尖塔の、こんな高くにある窓の外に、人が見えるはずがない。
咄嗟に、幽霊かなにかだと思ったのだ。
ところが、長い髪をだらりと垂らした女は、レイノルドを見つけると、よし、というように頷いた。
なぜか手の甲を、こちらに向けてひらひらと振ってくる。
もしや、下がっていろという意味なのか。
身を竦ませたまま、レイノルドがじりっと後ずさると、彼女は思いも寄らぬ行動に出た。
懐からなにがしかを収めた小瓶を取り出すと、それを、ステンドグラスの鉛線に沿って垂らしはじめたのである。
――じゅわ……っ。
すると、美しい模様を描き出していた黒い線が、小さな音を立てて溶けてゆく。
溶けたところを硝子ごとぐいと押すと、ステンドグラスは、まるでそういう形の扉が元から据え付けてあったと言わんばかりに、ぱかりとくり抜かれてしまった。
内側に倒れてきた硝子の塊が、祭壇のタペストリーに柔らかく受け止められる。
「よかった」
「な……」
人一人ぶんくり抜かれた穴から、すいと入ってきた女を見て、レイノルドは絶句してしまった。
まだ年若い娘だ――とはいえ、彼よりだいぶ年上ではあったが。
一つに結わえた黒髪は凜々しく、肌はレイノルドたちよりも、少しだけ黄みがかっている。
目鼻立ちは整っているが、華やかな美貌というよりは、筆ですっと線を走らせたような、涼やかな顔立ちをしていた。
フォルツ王国ではあまり見かけない容貌で、レイノルドからすれば硬質な、というか冷たい印象を受ける。
特に切れ長の瞳は、髪と同じく神秘的な漆黒を湛えていて、見る者をどこかぞくりとさせた。
全身を塔の壁に同化させるかのような灰色のローブに身を包み、腰には太い縄を巻き付けている。
察するに、尖塔の屋根あたりにロープを結んで、そこから降下してきたのだろう。
「師匠、ちょっと、早く奥に行ってくださいよ」
「こ、怖いです」
彼女に続き、そばかす顔の青年と、レイノルドと同年代くらいの金髪の少女が、次々と尖塔内に入ってくる。
「はじめまして」
やがて、パンパンと手を払った黒髪の女が、優雅に手を差し出した。
「私はアデル。魔女だけど、心優しい部類の魔女よ。あなたを救いに来たの。ここを出て、幸せに暮らしましょう」
思いがけない言葉に、レイノルドはますます警戒を強める。
すると彼女は、困ったように眉尻を下げた。
「最近教会に来たのよね。ここでなら輝く未来が手に入ると思ったでしょう。でもね、これはごく一部の人間しか知らないのだけど――実は教会というのは、恐ろしい組織なのよ。子どもに勇者になれると思い込ませてから、絶望に突き落とすの。あなた、本当は勇者候補なんかではないのよ」
そんなこと、身をもって知っている。
今でこそ金糸の刺繍入りのローブを身につけているが、つい昨日まではぼろ布をまとい、牢のような部屋に押し込められていたのだから。
いいやこれからだって、一層惨めな生活が待っている。
「このままでいるとあなたは不幸になる。そういう予知夢を見たのよ。だからあなたを見過ごせなくて、こうして保護しにきたの。さあ、一緒に行きましょう」
アデルと名乗る女は、迷いなく手を差し出した。
美しくはあるが、どこか芝居がかった仕草だ。
口調も取り澄ましたというか、まるでもったいぶって占いの結果を伝える詐欺師のような、奇妙な厳かさがある。
けれど、何もかも鮮やかで、目が眩むような色彩に溢れている世界の中で、黒の色彩を持つ彼女がそのように振る舞うと、不思議な説得力と迫力が滲み出るのであった。
この手を取れば、必ず幸せになれるとでもいうように。
「…………」
レイノルドはごくりと喉を鳴らし、窓際に立つアデルへとゆっくり近付いていった。
「さあ」
女は、神秘的な囁き声で告げる。
レイノルドは、恐る恐る、手を伸ばし――。
「誰が信じるか!」
祭壇から素早く聖水の瓶を取ると、中身を相手に向かって撒き散らした!