36. 東の魔女のあとしまつ(3)
「この末弟子が、ようやく馳せ参じました。師匠」
いきなり登場した末弟子に、こつ、と靴音を鳴らしながら近寄られて、アデルは目眩がするかと思った。
だってこの光景に、ひどく覚えがあったからだ。
柱や壁が崩れ落ちた廃墟のような場所。
抉られた壁の向こうでは、雪がちらつき、雷が鳴っている。
前触れもなく始まった雷は、目の前の青年が魔力を滲ませるのと同期して轟いていた。
つまりこれは、天候がもたらす自然のものではなかったのだ。
彼――レイノルドの怒りに誘われて、膨れ上がった魔力が呼び寄せた雷。
そして、目の前の弟子が全身に浴びているのは、アデルの返り血などではなく、ドラゴンの胴体から零れ落ちた大量の血液だった。
「先日は僕が至らぬあまり、師匠に恐ろしい思いをさせてしまいました。伏してお詫びし、どのような償いでも差し上げ、師匠に一刻も早く快適な生活を、と思っていたのですが――」
美しい低音を紡いでいた彼が、ふと口を噤み、瞳の色を暗くした。
「どこのどいつが、師匠を鎖で繋いだのでしょうか?」
冬の空を思わせる瞳は、じっとアデルの手枷を見つめている。
強く鎖を引っ張り続けたあまり、手首がすっかり赤く腫れ上がっていた。
「あ、あの……」
アデルは混乱のあまり喘いだ。
このタイミングでレイノルドが現れるとは思っていなかったし、予知がこんな形で回収されるとは――すなわち、レイノルドが憎悪ではなく、愛情由来の怒りを滾らせてやって来るのだとは思いもしなかったからである。
「く、そ……っ。なぜ、こんなに早く。来るのは3日後ではなかったのか」
冷や汗をダラダラと流し硬直しているアデルとは裏腹に、爆風で吹き飛ばされていたイェルクが、瓦礫に手を突いて身を起こした。
よせばいいのに、ぎらりと目を光らせ、アデルを睨む。
「さてはこの私を騙したのか!? 卑劣な魔女・アデルめ!」
口調を荒らげて罵るが、それを聞いた途端レイノルドが剣呑に目を細めたので、アデルは「あっ」と思った。
この流れは。
「『卑劣な魔女、アデル』」
ぞくりとするような低い声で、レイノルドが復唱する。
相手の言い分を繰り返しただけだったが、まるで刑を宣告するような、冷え切った口調だった。
遅れて壁の穴から這い入ってきたマルティンも、レイノルドの放つ禍々しい魔力に、気圧された様子で後ずさっている。
「7年前とはずいぶん異なる言い草だ。あのときは、『清廉な女性を行き違いで処刑してしまった愚行を、教会は幾重にも詫びるべきだ』と言ってくれたのに。そちらが本心か?」
瓦礫に挟まれたイェルクは、足を引き抜こうと躍起になっていた。
「おまえが、仕組んだのか?」
もがく司教に、こつ、こつ、と足音を立てながら、ゆっくりとレイノルドが近付いてくる。
「だとしたら何だ! 教会が魔女を処刑してなにが悪い!」
唾を飛ばして叫ぶイェルクに、レイノルドは唸るような声で「絶対に許さない」と呟いた。
「僕のかけがえのない存在を踏みにじった虫けらを。虫けらだからと見逃していたのが過ちだった。おまえだけは逃がすものか。何度殺したって足りない」
彼の瞳が輝いている。
7年ぶんの憎悪で。
イェルクが彼から最愛の師匠を奪った。
彼が最愛の女性を火に掛けた。
7年もの間彼を絶望の底に突き落とし、そして今も愛しい人を鎖に繋いでいるのだ。
レイノルドが口を開くたび、身にまとった魔力が、ぶわりと大きな渦を描いた。
「やめて……やめて、お願い、レイノルド……!」
アデルはがしゃがしゃと鎖を鳴らしながら懇願した。
イェルクが憎くないと言えば嘘になるが、目の前で惨殺されるとなれば話はべつだ。
ついでに言えば、もしレイノルドが目の前で剣でも揮おうものなら、その魔力の流れ弾がこちらに炸裂して、アデルも十分死にそうだった。
被害が甚大すぎる。
「や、やめろ、落ち着けレイノルド。いくら師匠を――ぐうっ!」
同じことを懸念したのか、マルティンが横から止めに入った。
が、レイノルドが煩わしげに振り返った途端、叩きつけられるようにしてその場に崩れ落ちてしまう。
「マルティン!」
(これ、予知夢で見たやつ!)
ごほっ、と噎せる一番弟子に、アデルは胸の内で絶叫した。
吐血したように見えるが、そうではない。
彼は単にドラゴンの返り血を浴びているだけだ。
なるほど、マルティンが瀕死の重体に見えたのはこういうわけだったのだ。
いいや、呑気に納得している場合ではない。
どうにかレイノルドに理性を取り戻してもらわなくては。
「ね、ねえ、レイ、レイノルド。やめて。あなたは栄誉ある、大陸一の勇者でしょう? こんな」
だが、喉が張り裂けんばかりに叫んでいたら、唾が変なところに入って思いきり噎せてしまう。
「うっ、ごほっ、ごほっ!」
声を掠れさせ、手首からは血を流しているアデルを見て、とうとうレイノルドはふっと短く息を吐き出した。
溜め息だとか、笑いだとかではない。
これから行う非道な殺戮のための、準備運動としての呼吸だ。
「一撃で殺すなど、しない」
不穏な一言とともに、ドラゴンの血にまみれた聖剣をゆっくりと持ち上げる。
ぽた、と血が垂れるごとに、彼はまた一歩近づいた。
「く、来るな……」
「まずは耳障りな声を放つ喉を潰そう。醜い顔を焼き、次に手足をもぐ。焼き鏝を呑ませ、串刺しにしてやる。楽に死ねると思うな。回復魔法でいくらでも繰り返せる」
「ひ……っ! や、やめ」
彼から放たれる魔力で肌がびりびりと痛い。
ますます咳き込みが激しくなってしまい、とうとう喉から出血してしまった。
「ごほっ、ごほっ!」
屈み込んで噎せるが、ああ、このままではいけない。
自分が対象でないとはいえ、四肢断絶拷問ショーなんて、断じて見たくない!
「絶対に許すものか!」
「だめ……!」
アデルは慌てて顔を上げ制したが、それよりも早くレイノルドは長剣を大きく振り上げた――!
――どぉおおお……んっ!
突然、レイノルドの振り上げた剣先に、巨大な塊が飛び込んで来たので、アデルはびくっとして身を引いた。
一拍遅れて、ばしゃああっ! という轟音とともに大量の水が床を走る。
(へっ!?)
目を見開いてみれば、なんとレイノルドの目の前に立ち塞がったのは巨大なドラゴンの胴体だった。
どうやら、大量の水によってこの場に押し流されてきたようだ。
「レイノルド! 復讐もいいけれど、先にドラゴンの息の根を止めなくてはだめでしょう! 斬られた箇所から分裂しかけていたわよ!」
ドラゴンを追いかけるように、怒り心頭の表情のエミリーが壁から乗り込んでくる。
まんまとドラゴンをレイノルドの前に突き出し、両断させた彼女は、ふん、と片方の眉を引き上げた。
「その男を切り刻む前に、ドラゴンを切り刻んでちょうだい。あと、師匠の鎖を早く外して」
「は、はい、エミリー姉さん」
我に返った様子のレイノルドが、急いで剣を構え直す。
アデルの右腕を繋いでいた鎖に軽く切っ先をめり込ませると、細身の手枷はぱきっと悲鳴のような音を立てて砕けてしまった。
どんな膂力だろうか。
一方で、床に蹲っていたマルティンも、エミリーに肩を貸され、身を起こしていた。
「大丈夫ですか、マルティン兄さん」
「あ、ああ。少なくとも、彼よりはマシだ。あいつ、完全に潰されちまったな……」
マルティンの視線を追ってみれば、瓦礫で身動きを取れずにいたイェルクは、見事にドラゴンに押し潰されてしまい、完全に白目を剥いているのだった。
その上で、首元から一刀両断された哀れなドラゴンは、泡を吹きながら絶命していた。
「嘘でしょう、エミリー。ド、ドラゴンって、こんな簡単に、倒せるものなの……?」
呆然と呟いてしまってから、はっと口元を押さえる。
手枷がなくなったことで、腕輪1本だけが残った右腕。
床で事切れるドラゴン。
どれもこれも予知の通り――。
今をもって、アデルを苦しめてきた不穏な夢は、すべて回収されてしまった。
「師匠、ただ今、もう片方の手枷も外します」
立ち尽くしている間に、レイノルドが甲斐甲斐しく動き、左手の鎖や手枷も外してくれる。
赤く腫れた手首を、彼は宝物でも扱うかのような手つきで、そっと包み込んだ。
「ようやく……ようやくきちんとお目にかかれました。この7年、どれほど師匠が恋しかったことか」
金髪の美青年は、白皙の美貌を感極まった様子で赤らめ、こちらを見つめてくる。
感情のキャパシティを超え、完全に沈黙してしまったアデルをどう受け止めたか、彼は切なげに唇を引き結び、「……わかっています」と目を伏せた。
(え、何を?)
真顔で固まるアデルの前で、彼は切々と訴えた。
「師匠を失ったと思い込むあまり、この7年、この末弟子は、あまりに愚かな振る舞いをしました。憎み、恨み、周囲に禍を撒き散らし……。師匠は愚かな僕に、さぞや呆れていらしたことでしょう。再会するなり僕の元を去ってしまわれたのも、当然です」
彼はそこで、美しい顔をぱっと上げた。
「ですが師匠は、行く先々で、この末弟子の後始末をつけてくださった。愚かな僕でもわかるよう手掛かりを残し、誘導し、エーベルトを、クレフを、女性たちを救わせ、そしてドラゴンと仇敵を倒させた」
「…………」
「こんな愚かな弟子のことも見放さない、寛大なお心。そして、あらゆる未来を見通し、緻密に繋ぎ合わせ、皆を幸福へと導かれる師匠のご手腕には、このレイノルド、尊敬の念しかありません」
「…………」
アデルはただただ、真顔で佇むことしかできなかった。
いったいなにがどうしたら、この自分の一連の行動を、そんな風に解釈できるというのだろう。
寛大とはなんだ。
未来を見通すとは、緻密な策とはなんだ。
そして、自分をうっとりと見つめる、この熱を湛えた瞳はなんなのだ。
「師匠。どうかお願いです。この末弟子を、これからも傍に置き導いてください。僕もまた師匠を、どんなものからもお守りします」
傍に置いてください、と言っておきながら、万力のようにしっかり腕を握ってくるこの手の強さ。
「師匠。僕の大切な師匠……」
(ええっと)
アデルは、蛇に睨まれた蛙のように硬直し、冷や汗を滲ませた。
(思ってたのと、違った)
むごたらしい死は回避できた。
たぶん。
猫かぶりが奏功し、レイノルドは中途半端な予知能力しか持たない自分のことをかなりの大人物だと思い込み、尊敬してくれているようだ。
だが、奏功しすぎた。
こんなに神格化され、恭しく――かつ盲目的に、狂おしく傅かれるなんて、いったいどうすればよいのだろう。
(どう始末つけんのこれ!)
泣きそうになりながら――と言いつつ、この顔はさして動かないとは理解しているのだが――、マルティンやエミリーを振り返る。
だが、「最凶の予知夢」の真相とはこの程度のことだったのだと悟った2人は、もはや焦るでも、心配するでもなく、ただ生温い視線を返すだけだった。
だって考えてみれば、この末弟子は結局のところ、アデルを髪ひと筋ぶんたりとも傷付けたことはなかったし、むしろドラゴンやイェルクから彼女を守ったではないか!
『このままのほうが世界は平和だから、もうそう思わせておきなよ、師匠』
『さすがに身から出た錆ですね……』
唇の動きだけで、2人の弟子たちはそう伝えてくる。
「そんな――」
「なぜ2人のことばかりご覧になるのですか」
半泣きになったところを、レイノルドに顎ごと掬い取られる。
「師匠。どうかこの末弟子のことも視界に入れてください。師匠のためなら、なんでもしますから」
青い瞳に射貫かれたその瞬間、まるで走馬灯のように数々の光景がアデルを襲った。
孤立が解消され喜びに沸くエーベルトの人々。
教会を再建され感涙するクレフの青年たち。
なぜだか花束を抱えて遊びに来る黒髪の女性たち。
ドラゴンを退治した勇者に贈られる金の盾。
はにかむレイノルド。
誰も彼も幸せそうだ。
いいや、マルティンとエミリーたちだけは両手で顔を覆って天を仰いでいる。
まるで何かに祈るように。
それとも嘆くように。
なぜだか2人は白い礼装に身を包み、胸元や頭に花を飾っていた。
祝い事の席にあるようだ。
エミリーの髪が一層伸びているから、どうやら数年後の世界と見える。
一瞬彼らが結婚したのかと思ったが、エミリーはヴェールを付けていないから、2人の結婚式というわけではなさそうだ。
遠い目になっているエミリーの肩を、マルティンが労しげに叩いている。
自分はどこにいるのだろう。
どうも視界がぶれている。まるで強引に引きずられているように。
『お願い、待って、待って、待って……!』
『待ちません』
そのときようやく、虚空に向かって伸ばされた自分の両手が映り込んだ。
反射的に腕輪の数を確認しようとして、それ以上に目を引くものを見つけてしまう。
左手の薬指に、やけに存在感の強い金属の輪が嵌まっていたのだ。
より具体的に言えば、発光しそうなほど眩しい宝石を乗せた、金の指輪が。
腕それ自体も、いつものゆったりとしたローブではなく、目眩がするほど繊細な刺繍が施された、白いレースの袖に覆われていた。
まるで、花嫁衣裳のようだ。
ばたん、と扉が閉められる。アデルはもがく、だがすぐに柔らかな何かに沈められる。
もしやこれは、寝台――。
「師匠」
形のよい唇が、世にも美しい低音を紡ぎ出した。
「もう逃がしません」
背中がぞくりとするほど情熱の籠もった声に、アデルは不意に悟った。
黒い鎖を嵌められて、彼にじり寄られる未来は乗り越えた。
だが今度は、金の指輪を嵌められて、寝台へと追いやられる未来が、どうやら自分を待っている。
アデル自身がこじらせてしまった、レイノルドの執着の後始末は、今始まったばかりであった。
これにて完結となります!
作中におけるアデルの運命の日、12月17日に最終話を投稿できました。イェイ!
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
ポイント、レビュー等いただけると飛び上がって喜びます。
またお陰様で、本作の書籍化が決まりました。
詳細は追って活動報告やX等でお知らせさせていただきます。
改めて、ご声援ありがとうございました&これからもよろしくお願いいたします。