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35. 東の魔女のあとしまつ(2)

 アデルの右腕には、細い鉄の手枷が嵌められ、そこから伸びた鎖によって壁に繋がれてしまった。


「な、なんですか、これ……!?」

「ああ、お似合いですよ。ちょうど腕輪と同じ色で、統一感がありますね。おしゃれです」


 がしゃがしゃと右手を引っ張るアデルに近付き、イェルクは反対側の手を取ると、そこにも手枷を嵌めた。


「引き換え、こちらの手枷は無骨で、左右がちぐはぐしてしまって申し訳ないのですが」


 悠然とした微笑みとは裏腹に、手は力強くアデルの腕を拘束し、付けた手枷に鎖を繋ぐ。


前の餌(、、、)のときに、ドラゴンが手枷ごと食いちぎってしまったんですよね。なにしろこちらには、手枷を買い直す予算もないほどなんです」


 あっという間に、アデルの両手は、無骨な手枷と腕輪型の手枷、それぞれに拘束され、左右の壁に繋がれてしまった。


「イ、イェルクさん……!?」

「そうだ、前から言おうと思っていたのですが」


 ――ぱんっ。


 突然、頬を強く叩かれて言葉を詰まらせる。

 呆然とするアデルの前で、ぷらぷらと右手を振ったイェルクは、酷薄そうに微笑んだ。


「軽々しく名前を呼ばないでくれますか、下賎な異国人ごときが」

「え……」


 ごく滑らかに振る舞われた暴力に、理解が追いつかない。


 だって彼は微笑んでいる。

 微笑みながら人を殴ることなんて、できるものだろうか。


「ふふ、驚いていますね。私が本当に異国人融和派だったとでも? まさか。聖主の威光に預かれる人間は、輝かしい金髪に透き通る碧い瞳を持った選ばれし者だけ。それ以外の、純粋なフォルツ人ですらない人間が魔力を持とうなど、おぞましいばかりですよ」


 すらすらと語られる言葉が衝撃的すぎて、脳で意味を結ばない。

 声すら発せずにいるアデルを、イェルクは軽蔑も露わに見下ろした。


「あなたのその鈍さには、いっそ感動します。私こそがあなたの火刑を決めた張本人だと、まさか気付きもしないなんて。ドラゴンが棲み着いたのは偶然? 私がそれに葛藤を? まさか。ドラゴンは私が飼っている(、、、、、)のですよ。なぜ餌やりにいちいち悩まねばならないのです、馬鹿らしい」


 教会はドラゴンに占拠されてしまった被害者などではなかった。

 自らの意思でドラゴンを育てていたのだ。


 先ほどアデルがイェルクに事情を尋ねたとき、彼が言葉を詰まらせた理由がようやくわかった。

 イェルクは単に、失笑したのだ。


「なぜ、そんな、ことを……」

「決まっているではないですか。世を正しく導くためですよ。聖主教の威光は、異国人に育てられた、ぽっと出の勇者ごときに独占されてはならない。人々は、選ばれし血統のこの私こそを指導者として仰ぎ、私の与える罰にこそ恐怖せねばならないのだから」


 つまり――ドラゴンの持つ強大な力と、それがもたらす恐怖によって人々を支配しようということだ。


「ありえない……! ドラゴンは、退治されるべき、生き物よ……」

「そう、勇者がいれば、ドラゴンは退治されてしまう。だからこそ、勇者候補が教会の外にいると知ったとき、彼を手なずけようと最初は思ったんです。油断させて餌にして、彼の魔力をドラゴンに蓄えさせればよいとね。ところが彼は私に懐くどころか、教会を乗っ取ってしまった」


 あなたのせいです、と、イェルクは忌々しそうにアデルを睨んだ。


「おかげで私は、フォルツを支配するどころか、7年もの間、彼に媚び、片田舎で息を潜めるほかなかった。もっとも、密かにドラゴンを育てるにはいい環境でしたがね。異国人の微々たる魔力でも、食わせればドラゴンはそのぶん強くなる」


 彼はなぜだか目張りされていた窓を振り返り、そっと手を伸ばした。

 彼の指が触れた途端、窓が波打つ(、、、)


 いいや、目張りの板かなにかだと思っていた黒いものが、突然動き出したのだ。


 窓からそれ(、、)が少し離れると、隙間から外の光が差し込み、いくつもの黒い鱗が浮き彫りになる。

 びっしりと連なる黒い鱗、ずるりと動く巨大な胴体、時々覗く鋭い爪――。


 この部屋の窓をすべて塞ぐような形で、ぐるりとドラゴンが外壁に巻き付いていたのだと、アデルはようやく理解した。


「ふふ、壁に張り付く黒とかげみたいで、可愛いでしょう? この部屋にくっついていれば、内側から時々『餌』が貰えるって、ちゃんと理解しているんです。あなたを食えば、そろそろこのドラゴンも成体になる。やっと勇者と戦えるようになるでしょう」


 イェルクの発言に呼応するように、どぉぉ……ん! と近くの壁が轟音を立てた。


「ひ……っ」


 ドラゴンの尻尾が外から壁を叩いたのだ。


「おやおや、催促だ」


 アデルは恐慌状態に陥って、がしゃがしゃと鎖を鳴らした。


 黒くつるつるとした壁、壁から伸びる鎖、拘束された両手。

 これでは予知夢そのものだ。


 だがおかしい。

 この場にレイノルドはいないし、アデルが拘束されるのは右腕に腕輪を2本嵌めた期間――少なくとも今日より3日以上先に起こる事態のはずなのに。


 だが、腕に食い込む手枷、特に右腕のものを見て、はっとした。


(腕輪と手枷が似すぎてて、腕輪が2本に見える!)


 室内が薄暗く、しかも手枷が細い鉄の輪で、ちょうど8番目の年を表す黒い腕輪とよく似ていたため、「右腕の腕輪は2本」と見間違えてしまったのだ。


(馬鹿! 信じられない! こんな根本的なことを! 馬鹿アデル!)


 ということは、長年見てきた予知の内容が、すでに現実になりはじめている――いいや、それとも、「レイノルドに拘束され襲われる」未来が「イェルクに拘束され襲われる」未来にすり替わってしまったのだろうか。


 ――ぐるるるあああ……!


 壁を伝って、ドラゴンが低く唸る声が響く。


 炎を吐いたわけではなく、空腹で喉を鳴らしているだけだろうが、それでも凄まじい音量だ。

 こんな魔物に襲われたら、とてもではないが敵わない。


(待って待って待って、でもドラゴンはあっさり倒されるはず。右腕の腕輪が1本の時期に。つまり私が拘束されるよりも前の時期ということよ。なんでドラゴンはまだ生きてるの!?)


 予知を読み違えてしまったのか、それとも未来が変わってしまったのか。

 焦りがますます混乱に拍車を掛けた。


(いったい、なにがどうなって――)

「ですがあなたの予知には感謝していますよ。もし予定通り『餌やり』を10日後にしていたら、3日後に来るという勇者に、ドラゴンはあっさり倒されてしまっていたでしょう」


 そのときである。

 暴れるアデルの前で、まだつらつらと問わず語りを続けていたイェルクが――思うに彼は、自分の優位を描写することで悦に入りたいのだろう――、とんでもない爆弾を投げて寄越した。


「特に、あなたを拘束している現場なんて見られたら、『東の魔女』を深く愛する勇者殿は、見境もなく暴走するでしょうから」


 ふっと笑って、そんな言葉を付け足したのである。


「…………」


 アデルはがしゃがしゃと鎖を引っ張るのを止め、真顔になった。


「……なんて?」

「ですから、あなたは愚かにも、敵である私に忠告を寄越してしまった――」

「いや、そこではなく……」


 アデルは奇妙に声を引き攣らせた。


「『東の魔女』を、深く愛する?」


 7年間にもわたり騙してきたと、アデルを恨むのではなく――?

 尋ねると、イェルクはなんとも言えない顔になってアデルを見た。


「はあ?」

「いやだって……」

「何を言っているんですか? 出会い頭に襲われるほど、彼から執着されていると、あなたも理解しているわけでしょう?」

「いや、執着というか……7年越しの恨み、というか……」

「恨み?」


 イェルクはますます眉間の皺を深めたが、ふと目を瞬かせると、弾けるような笑い声を立てた。


「ははっ! もしやあなた、『攫ったせいで勇者から恨まれる』などという、私の吹き込んだ無理筋の説明をずっと信じていたのですか?」

「無理筋……!?」


「無理筋でしょう! 勇者があなたにぞっこんなのは、誰がどう見たって明らかなのに!」

「ぞっこん……!?」


 きっぱりと言い放たれた言葉を、アデルは律儀に復唱してしまった。

 だって、それほどに衝撃的だったのだ。


 まさかレイノルドが、彼から華やかな人生を奪った自分を、恨むのではなく、愛していただなんて!


「彼の一途さには困ったものですよ。どれだけ似た女を宛がっても、犬のように差を嗅ぎ分けては噛みついてくる。名うての職人に作らせたアデル像すら、喜ぶどころか『実物はもっと美人だ』と破壊してきたときには、さすがに引きました」

「え? 似た女……? アデル像? 破壊……? それって、え……?」

「処刑を決行した教会上層部どころか、石を投げた学生や、教会に密告した女たちを憎んで町ごと苦しめる始末。むしろ愛に狂った彼こそが魔王ではありませんか?」

「え……石を投げた学生……密告……? 町ごと……? は……?」


 イェルクは愉悦も露わに語り続けるが、アデルはそれにリアクションをするどころではない。


 これまでに思い描いていた構図が突然ガラガラと音を立てて崩壊し、その破片が凄まじい勢いで繋がり合って、まったくべつの絵を浮き上がらせてきたようだった。

 冷や汗が止まらない。


(ってことは何、この数日、私はまったく逃げる必要のなかった相手から逃げてたってこと!?)


 それもエミリーやマルティン、町の皆々を巻き込んで。

 さらに言えば、数日どころではない、数年前から、不必要に怯えていたということか。


 本当なのか。

 とても信じられない。


 レイノルドも、なぜまた少年時代を搾取した魔女に愛情など抱くのか。

 彼の精神構造はどうなっているのか。


「ちょ、ま……っ」

「そう、彼こそが魔王だ。そして私がそれを討伐し、世を光に導く勇者」

「待って……。いったん、黙って、ったら」

「そのためならば、ドラゴンを飼うくらいなんだと言うのでしょう? どうせ餌になるのは下賎の女だ。汚らわしい女どもが生きたまま身を食われようが、輝かしい正義の前には些細なこと」


 落ち着いて話を整理したいというのに、猫なで声での黒幕露悪大会が一向に止まないので、アデルはイラッとした。


「黙りなさい……!」


 喉の痛みをおして、つい声を張り上げてしまう。


「おやおや。ドラゴンが恐ろしいのですか?」

「誰がドラゴンなんか、怖がるというの? ごほっ、ごほっ! 私はただ、()()()()()()()()()()()()()()()()()……!」


 ねっとりとした声でからかわれて、アデルはとうとう逆ギレした。

 こちとら、一度にいくつもの対象に怯えられるほど要領のいい脳みそは持っていないのだ!


「私は――」


 ところが、威勢よく喚き散らそうとした言葉は、途中で遮られてしまった。


 どごぉおおお……んっ!


 とんでもない重量音と振動とが、突然周囲を襲ったからだ。


「きゃあ……!」


 石造りの建築物がびりびりと震える。

 天井や壁がめくれるように崩れていき、縦横無尽に吹き荒れる風が、壁に繋がれた鎖をがしゃがしゃと激しく鳴らした。


 爆風が通り過ぎた後、ふと静寂が訪れる。

 その静寂に切れ目を入れるように、と……っ、と軽やかな靴音が響いた。


「――ご無事ですか」


 破壊された天井から、一人の男が舞い降りてくる。


 金冠を髪に宿した美貌の男は、半分ほど面積を失った石床の上で、恭しく跪いた。

 そうして、青空のような瞳に熱を湛え、こう告げたのである。


「この末弟子が、ようやく馳せ参じました。師匠」


 と。





***





 話は少しだけ時を遡る。

 アデルがイェルクによって2階に招かれていた同じ頃、行商人から馬を強奪したレイノルドたち3人は、雪がちらつき出す頃にはすでに、北五番教会へと追いついていた。


 ちょうど教会を発とうとしていた残りの行商人を捕まえ、すでにアデルを教会に引き渡したことを聞き出す。


「司教様……イェルク様が、次の『餌やり』は10日後だと言っていた。だから、それまでは、あの女も、地下牢かどこかにいるはずだ」


 ぼこぼこに殴られた行商人の証言に、マルティンとエミリーは目を見開いた。


 イェルク。

 アデルの火刑時に、唯一魔女に同情的な立場を取った司教だ。


 だからこそレイノルドも命までは奪わず、辺境の教区を押し付けるに留めた。

 だが、その彼が、王都から目が届きにくい立地をいいことに、教会で魔物を飼っていたなんて。


「あの野心家の司教の十八番なんだよ、弱い立場の女を騙して、生け贄にするっていうのは……。だが、あの女は、どうにも、様子が違った。何か考えがあるのかもしれねえ……」


 知っている情報、思ったことをすべて吐け、と脅されていた行商人は、最後に余計な一言を付け足して気絶した。


「師匠に、お考えが……」


 つられたレイノルドが、男の胸ぐらを掴み上げたまま考え込みはじめる。


「やはりそうか。師匠はここまで僕を導き、エーベルトの橋を直させ、クレフの魔物を退治させ、教会に騙された女たちを救わせた。次はいよいよ、ドラゴンを退治せよということですね」

「そういうんじゃないと思う!」

「師匠は単に、うっかりドラゴンに巻き込まれに行っただけよ。今ごろ怯えて泣いているわ!」


 マルティンとエミリーは即座に訂正したが、レイノルドは聞く耳を持たなかった。

 なぜなら二人の言葉にかぶせるように、「どぉぉん!」という轟音が教会の裏手から響いたからだ。


 驚いて回り込んでみれば、なんと教会の外壁に、黒い大理石と同化するような黒い鱗を持ったドラゴンが張り付いている。

 ぐるりと尖塔に首を張り巡らせたドラゴンは、開いた顎から瘴気の漂う涎を垂らし、巨大な尾を壁にむかって打ち鳴らしているのであった。


「ひぇっ! なんて大きさだ」

「涎……中にいる人間を狙っているのかしら」


 息を呑んだマルティンやエミリーをよそに、目を細めたレイノルドは即座に地を蹴り、ドラゴンへと接近していく。

 腰に下げた、滅多に使わぬ聖剣に手を掛け、躊躇わず魔力を注ぎ込んだ。


 取り残された二人も、慌てて後に続く。

 マルティンがもたもたしていると、エミリーが器用に水の玉で足場を作り、上に引き上げた。


 三人はドラゴンの胴体のすぐ下にある、バルコニーへと降り立つ。

 幸いドラゴンの顔は建物の半周ほど向こう側にあり、腹に接近されているということに気付いていないようだ。


 レイノルドは剣に手を掛けながら、ぴたりと壁に体を沿わせた。

 ドラゴンが中にいる「餌」に釘付けになっているのだとしたら、その動向を掴めれば隙を見極められる。


 そうして窓の向こう、薄暗い室内に向かって目を凝らし――彼ははっと目を見開いた。

 奥の壁に、鎖で繋がれた最愛の人が見えたからだ。


「――……!」


 こちらに横顔を見せるアデルは、レイノルドたちの存在に気付いていない。

 相変わらず表情の凪いだ神秘的な面持ちで、目の前に立つ男の話を聞くばかりだった。


「そう、彼こそが……だ。そして私が……」


 白いローブをまとった男――イェルクは、両手を広げ、朗々と何かを演説している。

 アデルはあまり話さなかったが、その寡黙さは、むしろ彼女の聡明さと余裕を窺わせた。


「師匠! ああもう、なんだってのこのこ捕まりに来たんだ」

「固まっている……恐怖に呑まれているんだわ!」


 だが横に立つマルティンやエミリーは頭を抱えたり、心配そうに身を乗り出している。


「なぜあなたたちはそう、師匠を見下すような発言ばかりするのです? 師匠は何もかも計画に織り込んで、この場に立っているのだと思いますが」


 2人の態度が不思議で、また不快でもあったレイノルドが尋ねると、兄弟子たちは一斉に牙を剥いた。


「そんなわけないだろう! 見下すとかじゃなくて、師匠は事実、相当なうっかり者なんだから!」

「いい加減に現実を見て、レイノルド。師匠はたしかに可愛い人だけど、ドジだし怖がりだし考えなしよ! だからこそ今ドラゴンの生け贄にされて、ビビり散らかしているのでしょう!?」

「師匠が怯えて……?」


 あまりの迫力に、レイノルドもさすがに気圧されて顎を引く。

 だがそのとき、


「黙りなさい……!」


 室内から凜とした声が響いたので、彼ははっと背筋を伸ばした。


「誰がドラゴンなんか、怖がるというの?」


 威厳に満ちた声だ。

 声を張ったせいで咳き込んでしまったが、真実、何にも怯えていないように聞こえる。


 それはそうだ、彼女は、真実と未来を見通す「東の魔女」。

 神秘的な黒い瞳、卑俗な感情など切り捨ててしまったような崇高な表情の下では、凡人には到底考えの及ばぬ遠大な思考が渦巻いているのだ。


「私はただ、()()()()()()()()()()()()()()()()()……!」


 アデルのその発言は、レイノルドにはこのように響いた。


 すなわち、師匠は緻密な策のもと、レイノルドという名の駒が違わずこの場にやって来ることを確信している。

 この末弟子を信じ、想いを馳せ、期待しているのだと――!


 己のすべきことを悟ったレイノルドは、その瞬間、魔力のすべてを放出し、ドラゴンの張り付いた壁ごと、爆風とともに叩き斬った!

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