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34. 東の魔女のあとしまつ(1)

「ほらよ、到着だ」


 行商人たちに蹴り出されるようにして馬車を出ても、アデルは眉も寄せず、凜と顔を上げていた。

 むしろその黒い瞳は、やる気と感謝に輝いていた。


 北五番教会。

 北方都市ノルドハイムの奥地には、たしかに黒い大理石作りの壮麗な教会がそびえ立っていた。


(あっという間に着いちゃった。それもタダで)


 自分で地図を広げることも、宿や食料の心配をすることも、馬車の手配に頭を悩ませることもなく目的地に着くだけの旅というのは、なんと快適なものだろう。


「ありがとう……」


 軽く頷いてみせると、行商人たちは微妙な表情になって互いに顔を見合わせる。

 これまで生け贄にするため女を攫ったときは、必ず罵られたり、泣かれたり、喚かれたりしていたからだ。


 こんなに静謐に、己の運命を粛々と受け止めるような佇まいでいられたことはなく、運び屋の男たちとしてもどういう反応を示してよいのかわからなかったのである。


「いやあの、わかってんのか? おまえ、生け贄にされるんだぞ?」

「作り話じゃねえぜ? この教会には、10年くらい前からドラゴンが棲み着いてて、腹が減ると大暴れするんだ。だから教会は年に1回、『餌』を与えて宥めてる。『餌』は生きたまま、骨一つ残らず食われちまうって話だぜ」

「なるほど、なるほど……」


 アデルは神妙に頷いた。それはたしかに恐ろしい。


「ちなみに、そのドラゴンには、黒い鱗が……? かぎ爪があって、翼がある……?」

「なんだおまえ、どうしてそれを知ってるんだよ」

「なるほど、なるほど……」


 アデルは再度頷いた。

 今度は安堵の頷きだ。


 この教会に棲み着いてしまったというドラゴンが、予知夢に出てきた個体を指すというなら、そいつは数日以内に絶命する運命だ。

 それもあっさりと。


 アデルが食われることはまずないだろう。


(だとすれば、私はレイノルドによる拷問死回避に専念するのみ!)


 長年悩まされてきた悪夢にようやく訣別できるのかと思うと、何やら身震いがする。

 アデルは改めて教会を見つめた。


 夢に繰り返し出てきたのと同じ、光り輝く黒い壁。

 ここで間違いない。

 ただし、現時点で教会はまったく廃墟のようではなく、堂々たる姿を誇示していた。


 続いてアデルは、己の右腕を見下ろした。

 今嵌めている腕輪は1本だけ。


 予知夢では、右腕の腕輪は2本あった。

 ということは、今日から3日後、12月の20日以降に、この教会は崩落するということになる。


(何が原因で教会が崩落するかわからずにいたけど、今ならわかる。たぶん、ドラゴンが大暴れして教会を壊してしまうんだわ。それでレイノルドが勇者として討伐にやって来る。で、うっかり残っていた私は彼に見つかってしまって、捕まって、7年越しの復讐心を抱いた彼に殺される。これだわ)


 だいぶ前後が補完できてきた。

 欠けていたピースがぴたりと嵌まる感覚に、アデルはうんうんと頷いた。

 予知能力の制御はイマイチだが、この冴え渡る推理力ときたら我ながら恐ろしいほどだ。


(ということは、この未来を回避する方法はただ1つ!)


 ドラゴンが暴れるのを阻止して教会崩落を防ぎ、レイノルドがここに立ち寄る切っ掛け自体を潰せばよいのだ。


 幸いなことに、今回新たに加わった予知夢には、「あっさりとエミリーに倒されてしまうドラゴン」というのがあった。

 もしかしたらすでに未来は、教会崩落回避、つまりアデル拷問死回避の方向に動き出しているのかもしれない。


 だとすればアデルがすべきは、ドラゴン討伐という予知を確実に実現することである。


(エミリーが追いつくまで待っておけばいいのかな。でもせめて、ドラゴンの居場所くらいは特定しておいたほうがいいわよね。弱点を探るとか)


 この教会は、ドラゴンをどのように棲まわせているのだろう。


 教会が魔獣をわざわざ飼うなんて理由がない以上、当然棲み着かれてしまったのだろうが、なぜそれを隠してきたのか。

 王都に報せれば、すぐにでも勇者が来て討伐してくれたに違いないのに。


(それとも、ここもレイノルドが教会に八つ当たりしすぎて要請に応じてくれなかったとか?)


 なにしろ逆恨みでエーベルトを孤立させ、ちょっと子どもに石を投げられただけでクレフの魔物を放置した彼だ。

 十分にありえる気がする。


(そのへんの事情を探りつつ――)


 と、教会をあちこち見回していたそのとき、中央の扉が開き、門へと近付いてきた。

 真っ白なローブをまとった金髪の男性だ。


「司教様だ」

「それじゃあな。悪く思うなよ」


 運び屋の男たちに突き飛ばされるようにして、相手に引き渡される。

 行商人たちはちんぴらの決まり文句のような言葉を吐いて去っていってしまったが、アデルは気にするどころではなかった。


 なぜなら。


「――……!? あなたは」

「あれ? イェルクさん……?」


 北五番教会の司教として登場したその人物は、7年前――体感的には5日前――、アデルを王都に連れ出した司教、イェルクだったのだから。


(そういえば彼の出身教区は北のほうって言っていたっけ。教区に戻っていたのね)


 アデルは今さらながら呑気に思い出していたが、相手はといえば、トレードマークのようだった微笑を手放し、さっと青ざめていた。


「な……、死んだはずでは」


 彼からすれば、幽霊でも見たような気分だよなと思い至ったアデルは、慌てて手を振った。


「あ……、驚かせて、すみません……! アデルです、本人です……。実は、火刑で死ぬ直前に、こちらの世界に、時空魔法で転移して、きてしまいまして……」


 咄嗟に告げてから思う。

 もしや、教会に断罪されたアデルが、のこのこと教会人員の前に現れてしまったら、再び火刑に掛けられてしまうのではないかと。


 焦ったアデルは、必死にイェルクへと言い募った。


「あの、私、イェルクさんが、言ったとおり、本当に、火刑に掛けられちゃって……。でもあの、それは、教会が忖度して、先走っただけみたいなんです……。だから、火刑自体は、不要だったというか……その、イェルクさん、私を中央教会に、突き出したり、しないですよね?」


 なにしろ彼は、火刑に処されるアデルを案じて、「自分の教区に匿おうか?」と申し出てくれた人格者だ。

 さすがにいきなり、アデルを通報したり、王都に連れ戻したりはしないだろう。


 そのあたりをこっそり計算しつつ、アデルは念のため媚びるように小首を傾げた。


「前みたいに、私のことを、庇っていただけないかな、などと……」

「『前みたいに』」


 イェルクはゆっくりとその言葉を反芻し、やがて「なるほど」と呟いた。


 顔に柔らかな笑みが戻る。

 いかにも彼らしい、慈悲深そうな笑みだった。


「私を信頼してくださっている、ということですね?」

「それはもう……。魔女の私に、優しい言葉を掛けてくれた、唯一の、司教様ですから……」


 アデルにとって、イェルクは職務と板挟みになりながらも弱者に逃げ道まで与えようとしてくれた人格者だ。

 熱心に頷くと、イェルクはますます「ふふ」と笑みを深めた。


「それは光栄です。ですが――あなたは、行商人たちにこの場につれて来られた理由を、聞いていますか?」

「はい……。10日後に、ドラゴンの、生け贄に、されると……」


 きちんと応じてから、アデルは相手の名誉のために声量を落とした。


「この教会に、ドラゴンが、棲み着いてしまった、そうですね……。それで、生け贄を与えて、宥めていると。王都へ報告して、退治してもらおうとは、しないのですか……?」

「ああ、それは――そうですね。何度か訴えたのですが、取り合ってもらえなかったのです。それで苦肉の策として、贄を与えてドラゴンを宥めるしかできなくて」

「やっぱり……」


 アデルが神妙に頷くと、イェルクは一瞬ふっと息を漏らし、口元を押さえた。


「イェルクさん……?」

「いえ、すみません。込み上げるものがあって。いくら多くの民を守るためだとはいえ、贄に犠牲を払わせてしまっている教会の在り方が、あまりにも情けなくて。ずっと目を逸らしていましたが、今あなたも巻き込もうとしているのかと思うと、いよいよ己の罪を突き付けられるようです」


 肩を震わせるイェルクを見て、どうやら彼はここでも職務と正義との板挟みになっているようだとアデルは考えた。

 そこは戦ってくれよ、と生け贄に選ばれる側の人間としては大いに思うが、意に染まぬ職務を命じられる苦悩というのはわからなくもない。


「イェルクさん。聞いてください……。私が、ドラゴンに、食われることは、ありません……」

「え?」


 きっぱり告げると、イェルクは驚いた様子で顔を上げた。


「そうなのですか?」

「ええ……。ドラゴンは、近々、討伐される、はずだからです……」


 予知で見たのです、と付け足すと、彼は息を呑んだ。


「討伐? 誰に?」

「私の、弟子にです……」


 具体的には二番弟子のエミリーのはずだが。


「そう遠い未来のことでは、ありません……。この数日中に、ドラゴンは倒される……それも、あっさりと。だからイェルクさん。少なくとも、未来については、思い悩まずとも、大丈夫です……」


 過去に払った犠牲については、どうにか償いの方法を模索していくべきだろうが。


(いや待ってよ、もしレイノルドが討伐を渋った結果、生け贄の数が増えてしまっていたなら、巡り巡って、私にも責任があるということに?)


 アデルが悶々としはじめていると、イェルクが不意に切り出した。


「すみません。こんな寒い中、長々立ち話をしてしまいましたね。どうぞ、中へ」


 優雅な仕草で教会内部を指し示す。

 たしかに、空には雪がちらつき始めていた。


「少し歩きますが、よければ二階へ。そちらに応接室があるので」


 こつ、こつ、と靴音を鳴らしながら、イェルクが歩く方へと付いていく。


 彼は相変わらず物腰柔らかで、自分のことよりもしきりとアデルの話を聞きたがった。


 7年前――アデルからすれば数日前だが――、アデルはたしかに火刑に処されたこと。

 けれどそのせいでレイノルドが大荒れしたので、見かねた一番弟子が時空魔法を研究してアデルを現在に呼び寄せてくれたこと。

 けれど運悪く、現代に転移してくるやレイノルドに遭遇し襲われかけたこと。

 きちんと話さなくてはと思うが、長年見てきた予知夢によれば、彼にむごたらしい目に遭わされるらしいので、恐ろしくなって逃げ出してしまったこと。

 ひとまず予知夢で示された期日を乗り越えてから、レイノルドとは向き合うつもりであること。


 これらの事情を、廊下を歩き螺旋階段を下る、たった数分の合間に、アデルはイェルクにすべて話してしまった。


 アデルの説明はあまり上手ではなく、しかも掠れ声で途切れがちだったというのに、イェルクは心から興味深そうに耳を傾けてくれた。

 本当に聞き上手な人物だ。


「それで……長年の予知によれば、彼は、20日以降に、ここに現れて、私をいたぶる、はずなんです……。だから私は、それを変えたい……。前倒しで、ドラゴンを討伐し、彼が、ここにやって来るという未来ごと、変えてしまいたいのです……」

「なるほど……」


 イェルクは頷き、「さあ、着きました」と扉の前で立ち止まった。


 やけに頑丈そうな、鉄の扉だ。

 ギィイ、と不気味な音を軋ませ扉を開けると、中は真っ暗だった。


 いくら雪のちらつく曇天だとはいえ、日中である以上薄明かりも射そうものなのに、まるで夜のような暗闇だ。

 それもそのはず、室内の窓は、真っ黒な何かで塞がれているのであった。


「すみませんね、寒さを防ぐため、窓をすべて目張りしてしまっていて。今、火を入れますから」

「ああ、いえいえ……」


 反射的に答えたが、廊下に面した扉もしっかり閉められてしまい、暗さで足元も覚束ない。

 壁にぶつかりそうになりながら、「ええと」と恐る恐る部屋を歩いていると、見かねたらしいイェルクが手を差し出してくれた。


「よければ手を。ソファはこちらです」


 なんと親切な人だろう。アデルは礼を述べ、イェルクの手を取った。


(あれ……? 今の、『よければ手を』っていう台詞)


 そのとき、ふと予知でこの場面を見た気がしたと思ったが、腕を引かれて部屋の奥へと進んでいくうちに、曖昧な記憶は立ち消えてしまう。


「すみませんね、不便を掛けて。ずっと昔はこの教会にも、もっと多くの人手がいたのですが、今や私一人が切り盛りするような有様でして――ああ、ここにお掛けください」

「え? ここですか……?」


 アデルが思わず聞き返したのは、座れと指示された場所に、どうもソファらしきものはないように思えたからだ。


 咄嗟に伸ばした手に触れるのは、つるつるとした壁だけで、あとは石造りの床が広がっているだけだった。

 それとも、もう少し目が慣れれば、ソファが見えてくるのだろうか。


「ああ、もう少し右ですね。こちら」


 イェルクはくい、とアデルの右腕を引き、位置を調整する。


 次の瞬間。


 ――ぱちんっ。


 小さな音とともに、右腕に金属のひやりとした感触を覚えたので、アデルは目を瞬かせた。


「え……?」

「ああ、よかった、ぴったりですね。今、鎖も繋ぎますから」


 じゃらじゃらという音が響き、途端に右腕が重くなる。


「え……!?」

「よし」


 イェルクが満足そうに頷く。


「では、火を入れましょうか」


 彼がぱちんと指を鳴らすと、途端に部屋中の燭台に火が付き、そのときになって、アデルはようやく己の現状を理解した。


 己の右腕には、細い鉄の手枷が嵌められ、そこから伸びた鎖によって壁に繋がれていたのだ。

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