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31. 人攫いのあとしまつ(1)

 師匠、と、優しくアデルを呼ぶ声がした。


『師匠。何を召し上がっているのですか』


 柔らかく澄んだ少年の声。

 きらきらと輝く青い瞳。


 ああ、これは13歳頃のレイノルドだ。

 彼はアデルを見るたびに、その白皙の美貌を嬉しそうに綻ばせていたから。


『野いちごよ……。私の可愛い末弟子は、お腹が空いているかしら? ひもじくない? 大丈夫?』


 朝な夕な彼の歓心を買うことに熱心だったアデルは、そのときも当然、野いちごを籠ごとレイノルドに譲ろうとした。

 未来の命がいちごの籠ひとつで買えるなら安いものだ。


 だが彼は、食べ物を勧められるときいつもそうするように、くすぐったそうに笑い、辞退した。


『いいえ、この末弟子は、ちっとも空腹なんかではありません。師匠のお陰で、いつも満たされていますから。野いちごはすべて師匠がお召し上がりください』

『そう……?』


 アデルは問いつつも、目は籠に釘付けになっていた。


 元々いちごは大好物なのだ。

 彼が要らないというなら、もちろん独り占めするのにやぶさかではない。


『なら……食べたくなったら、言ってね』

『言いません。師匠のいちごに手を出そうなんて、恐れ知らずな真似はできませんよ』


 レイノルドはくすくす笑う。


『その野いちごは、森で摘んできたのですか?』

『いいえ……薬を引き取りに来た、商人見習いの男の子が、くれたの。私の好物だと、聞いたからって。商売上手ね……』

『え?』


 だがアデルの答えを聞くと、ふと黙り込み、次にはなぜか向かいの席に腰を下ろした。


『レイノルド?』


 首を傾げると、彼はぱっと笑みを取り戻し、急に野いちごを籠ごと掴んだ。


『師匠。やはりこの末弟子は、お腹が空いてしまいました』


 言うが早いか、流し込むような勢いで野いちごを食べはじめてしまう。


『え……っ? レイノルド――えっ』

『ああ、美味しかった。おっと、空になってしまいましたね、すみません。埋め合わせに、僕が森で野いちごを摘んできます』


 アデルが愕然としている間に、野いちごをぺろりと平らげた彼は、さっさと森に去ってしまう。


 夕方頃戻って来たと思ったら、一籠どころか、両手に収まりきらぬほどの野いちごを抱えてきたので驚いた。

 籠に詰めればおそらく十は超える。


『ど、どうしたの……、その量?』

『だって、先ほどは僕が一籠すべて平らげてしまったので』


 レイノルドはこともなげに微笑んだ。


『師匠。この末弟子は、1を与えられたら10を返す男です』


 付け足された言葉を聞いて、アデルは2つのことを心に刻んだ。

 1つ、彼は野いちごのことになると見境がなくなる。

 1つ、けれど恩は10倍にして返す。


 レイノルドが摘んできた野いちごは、商人見習いの少年からもらったものより、よほど味が濃く、美味しかった。

 そう、彼は時々不思議なわがままさもあったものの、基本的には礼儀正しく、何事もそつのない、理想的な弟子だったのだ。


 1を聞いて10を知ったし、1つ与えれば10を返した。

 けれど、だからこそ――。


卑劣な魔女(、、、、、)アデル(、、、)


 野いちごを抱えていたレイノルドの背が突然伸び、微笑みが憎悪の視線へと転じた。

 ぼたっ、ぼたっ、と、潰された野いちごが、まるで血塊のように地に落ちる。


『絶対に許さない。僕のかけがえのない存在を踏みにじった虫けらを』


 すっかり偉丈夫となったレイノルドが、こつ、こつ、と靴音を響かせながら近付いてきた。

 恩を10倍にして返す彼は、当然、恨みは100倍にして返すのだろう。


『この末弟子は、報復は必ず完遂させる男です』


 また違う角度から声が響く。

 これはべつの時代だ。


 ああ、場面が混ざっている。


 これは予知ではない。

 過去の記憶と、未来への恐怖が見せた単なる悪夢だ。


『やめて……やめて、お願い、レイノルド! 許して……!』


 アデルは必死に叫んでいる。

 腕に光る腕輪と手錠。黒い壁。

 血まみれのマルティン。


『やめて。あなたは栄誉ある、大陸一の勇者でしょう? こんな――うっ、ごほっ、ごほっ!』


 ノイズが混ざり、視界が明滅し、いくつかの光景が流れていった。


 きれいに舗装されたエーベルトの町。

 真新しい門となにかの銅像の前で歓声を上げるひょろりとした青年たち――あれはクレフの町で見かけた青年たちだろうか?


 それから、泡を吹いて床で事切れている巨大な生き物。

 魔物だろうか。


 翼と鱗を持つ、どうやらドラゴンに見える。


『嘘でしょう、エミリー……。ド、ドラゴンって、こんな簡単に、倒せるものなの……?』


 一瞬だが腕輪が映り込んだ。


 今と同じ色、同じ本数の腕輪だ。

 ということはこれは、極めて近い未来のことか。


(あれ? ということは、やっぱり予知夢?)


 内なる自分が戸惑いの声を上げる。


 映像が乱れ、再び黒い建物が映った。

 すぐ近くに人がいる。


 男だ。

 アデルに向かって手を差し伸べている。


『よければ手を』


 だが周囲の光源が乏しくて顔が見えない。

 アデルは慌てて相手の腕を取る。


 彼は――。


(誰?)





「ねえ、あんたは誰なの?」


 強引に肩を揺さぶられて、アデルははっと目を覚ました。


「へ……っ?」


 無意識に涎がないかを確認しながら、きょろきょろとあたりを見回す。


 一拍遅れて思い出した。

 ここは、ノルドハイムに向かう荷車の中だ。


 クレフの町を抜けて飛び込んだ森の中で、幸運にもアデルは、ノルドハイム行きの行商人の荷車が近くを通るという予知を得た。

 数時間ほど待ち構えた末、見事行商人の一団に遭遇し、彼らの荷車に乗せてもらったのである。


「なに、路銀がない? まあいいよ、嬢ちゃんの見た目なら。ちょうど今回はノルドハイムの港に人を運ぶって案件なんだ。途中でほかの客も乗り込んでくるけど、それでもよければ」


 とは行商人の談だ。

 どうやら彼らは、荷物だけでなく人の輸送も手がけているらしい。

 相乗りでもまったく気にならないアデルは、即座に話に飛びついた。


 それにしても、黒髪だからと避けられるどころか、この容姿を歓迎してくれるなんて珍しいことだ。


(北方出身のイェルクさんも私に対して丁寧だったし、北方の人々は、黒髪の容姿にも寛容ということかしら? ……それとも、意外に私、美人だった!?)


 レイノルドを引き取ってからというもの、所帯臭さでも滲み出していたのか、一向に異性に口説かれたことがなかったため、つい一瞬浮かれてしまった。


 荷車の隅に落ち着くこと数十分。

 振動に釣られてあっという間に眠りに落ち、目覚めてみれば昼になっていたようだ。


 ということは、クレフから抜け出してもう半日以上が経ったのか。


「あんたも、候補の一人なの?」

「イステルでは見かけなかった顔だけど、どこの出身?」


 アデルはいつの間にか、荷車の中で女たちに囲まれていた。

 それも、ものの見事に黒髪、黒い瞳の若い女たちばかりだ。

 彼女たちが、行商人の言うところの「ほかの客」だろうか。


 見れば、荷車は森を抜け、ノルドハイムより手前の町に停車し、そこから女たちが5人ほど乗り込んでいるのだった。


 彼女たちの肩越しには、「イステル」と彫られた古びた門が見える。

 おそらくそれが、この町の名前なのだろう。


 だが、候補とはなんのことだろうか。


「えっと……?」


 戸惑っていると、女たちのうち、一番年長と見える蓮っ葉な女が、肩を竦めながら説明役を買って出た。

 泣きぼくろが印象的な美女だ。


「あたしはリタ。イステルの出身よ。まあ、今乗ってきた子たちはみんなそうだけど。あたしたちはこの容姿と魔力を見込まれて、教会から『魔女候補』に選ばれたの。これから港で選抜会さ」

「教会から……魔女が選ばれる?」


 だが、説明を聞き、アデルはかえって混乱してしまった。

 魔女とは基本的に異端の存在で、教会からは弾圧される身分だ。


 だというのに、魔女が「教会から選ばれる」とはこれいかに。


 戸惑っていると、リタは「あんた、噂に疎いのねえ」と意外そうに鼻を鳴らし、より詳しい説明をしてくれた。

 同じ黒髪同士だからか、親しみを持ってくれたらしい。


「7年前までは、フォルツ王国では黒髪で魔力持ちって言うと異端者扱いだったけど、例の件があってから、教会も姿勢を改めたじゃない? 今じゃ教会は、血眼になってあたしたちみたいな女を集めてるのよ」

「例の件?」

「やだ。『東の魔女アデル』の処刑よ! 教会が先走って処刑しちゃって、勇者様が激怒したやつ」


 思いがけなく名前を出されて、アデルはその場で噎せるかと思った。


「え? あ、ああ! そ、その件ね……」


 咄嗟に相槌を打ちつつ、必死に思考を整理する。


 つまり、教会が先走ってアデルを火に掛け、復讐の機会を奪われたレイノルドが激怒した件。

 まさかこんな北方まで話が広がっているとは。


「でも……その件と、あなたたちが、どう関係しているの……?」

「だ、か、ら。勇者様は、愛する(、、、)師匠だった『東の魔女』を殺されて激怒したわけでしょ? 教会はそのご機嫌取りに必死なのよ。彼好みの黒髪の女を『アデル』に仕立てて差し出そうってわけ」

「はい!?」


 とんでもない説明に、アデルは今度こそ声を裏返した。


 なんだそれは。

 教会ときたらとんでもないことを考える。


 だいたい前提として、それではまるで――


「まるで……レイノルドが、『東の魔女』を、愛していた、みたいじゃないの……」

「何言ってんのよ」


 リタが顔を顰めるので、一瞬こちらの勘違いかと安心しかけたが、彼女は続いてとんでもない爆弾を落とした。


「みたい、というか、そうなんだってば。勇者様は、自分を育ててくれた魔女アデルを熱烈に愛していたのよ。だからこそ、教会が彼女を勝手に処刑したとき激怒して、遺体が見つかってないからって、今なお彼女を探してるんじゃない。あんた、本当に何も知らないんだね」

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