23. 寂れた町のあとしまつ(2)
「ああああああ!」
青ざめている間にも、縄は「ぶち……ぶちぶちぶち……っ」と何かが千切れる音を加速させ、その数秒後には、
――どおおおんっ!
ぶら下がった吊り橋が、崩壊音を立てながら崖の側面を叩いた。
どうやら、残った一本だけの縄では重量に耐えきれず、左右とも千切れてしまったようである。
すでに馬車に乗り込んでいた御者も、「どうした!?」と御者台から顔を振り向かせている。
「ああっ! どうしよう……! ごほっごほっ、は、橋っ、落としちゃった……!」
「後始末というより、むしろ事態を悪化させていますね」
エミリーもさすがに顔を引き攣らせている。
それでも、彼女はすぐに意識を切り替えたようだ。
「私たちが渡った直後、橋が崩落してしまいました。危ないところでしたね」
と御者に告げて、そつなく事態をごまかしたあと、しみじみとアデルを見た。
「レイノルドですら吊り橋を掛けることは許したのに、師匠ときたら」
「ち、違うのよ……。よかれと思って……、橋を補強しようとして、やったの。本当よ……」
「師匠って、本当に師匠ですよね」
「ねえ、もしかして、エミリーの言う『師匠』って、『馬鹿』って意味……?」
思わず半泣きで問うたが、いやいや、今そんなことはどうでもいい。
「どうしよう……、なんとかして、橋を、直せないかな。これじゃ、町の人たちが……」
「大丈夫。この町にはまだ南門からの道があります。回り道にはなりますが、私はもう使用料を取らないことにしたので、彼らはそちらを使えばよいでしょう」
それに、と、エミリーは罪悪感をごまかすような空笑いを浮かべた。
「この橋が落ちれば、ちょうどいいレイノルドの足止めになります。むしろさすがです、師匠」
「そ、そう、かな……っ? はは……! ははは……!」
「あはは」
そんなはずがない。
だがもう、笑うしかない。
二人は同時に真顔になった。
「行きましょう」
「うん……」
身を翻して、馬車に飛び乗る。
車輪の振動を受けながら、アデルは必死に祈った。
(ごめんなさいすみませんごめんなさい! 自分の死を回避次第、橋の復旧に尽力します。大丈夫かな。どうかな、橋!)
固く目を瞑り、うんうん唸って吊り橋のことを考えてみるが、気まぐれな予知能力は、知りたいと思ったことに限ってちっとも能力を発揮してくれない。
代わりになぜだか、ニシンのパイを嬉々として摘まむ自分の手が「視え」て、アデルは空腹を覚えつつ、顔を覆って項垂れた。
近々食事にニシンのパイが出るようだが、そんな情報、知っても知らなくても構わない。
自分にがっかりだ。
(こんなことで、無事にレイノルドより早く、ノルドハイムの北五番教会にたどり着けるの!? というかレイノルド、早くない? まじで、早すぎない?)
末弟子の追跡能力の高さ、そしてそこから伝わる憎悪の深さに、アデルはぶるりと身震いした。
***
さて、アデルたちが馬車に飛び乗ってから一時間もせぬうちに、レイノルドとマルティンは、エーベルトの町を通り抜け、北門までやって来ていた。
野いちごの手掛かりは途中から消えていたが、東の森から北に向かうとしたら、エーベルトの町は必ず通らねばならない。
町自体は寂れていたが――というかレイノルドが寂れさせたのだが――、この町の北門には吊り橋と、より北の町へと繋がる道があったので、そこで馬車でも借りるのだろうと考えたのだ。
「ひどい寂れようだな。昔は僕たち、みんなここで買い物とかしてたのに。あの頃の活気が欠片もないじゃないか」
レイノルドの後ろについて、町をずっと見回していたマルティンは、嘆きを抑えきれずに息を吐いた。
「たしかにおまえの怒りもわかるし、僕だってエラたちには腹を立てたけどさ。なにも、ここまでしなくてもよかったんじゃない? エラだって、恋にのめり込んで愚かになっていただけだよ」
「愚かな女は嫌いです」
だが、斜め前を歩くレイノルドは淡々としたまま、眉一つ動かさなかった。
「その愚かさが、清純で慈悲深いあの方を傷付けたのなら、なおさら」
時々垣間見えるアイスブルーの瞳は透き通っていて、前だけを見つめている。
前だけ、というよりは、この先にいるはずのアデルだけを。
(恋にのめり込んで愚かになっているのは、どっちですかって話だよ)
マルティンは頭に両手を突っ込んで天を仰いだ。
誰が清純で慈悲深い、だ。
マルティンたちの師匠・アデルは、そこそこに打算的だし、怯えやすいし逃げ腰だし、なにより詰めが甘くて大ざっぱだ。
マルティンだって彼女のことは大好きだが、客観的に見て、全然「ひれ伏したくなる威厳を持つ人」だとか、「敬虔な気持ちで見つめたくなる神秘的な人」などではないと思う。
なのにこの末弟子には、アデルという人物が、聖女のように神秘的で悠然としていて、聡明で慈悲心に満ちていて冒しがたい気品に溢れていて、繊細な宝物でも愛でるように熱心に崇め保護しなくてはならない存在、と見えるらしい。
もっともその「保護」の方法が、一直線に「監禁」に結びついているところがこの男の恐ろしさなのだが。
考えてみれば、美しい鳥を見ると羽を折って鎖に繋いで「保護」するというのが、昔から教会や王族たちのお家芸だった。
勇者である彼の気質にも、生まれながらのそうした傲慢さが宿っているのだろう。
(「人を監禁しちゃいけません」って伝える……いや、説得されてやめるような人間なら、そもそも監禁しようなんて発想しないんだよな。だったら師匠に幻滅させて、執着それ自体をなくす。やっぱこれだよな)
ちらちらとレイノルドの背中を見つめながら、必死に思考を巡らせる。
7年前までは、彼の逸脱した忠誠心を、「まあ師匠が殺される可能性が低くなるなら」と放置してきたし、7年前からは「彼の生きる希望になるならば」とやはり放置してきてしまった。
だが、この行き過ぎた美化と崇拝がアデルに、そして世界に害となっている以上、兄弟子としては彼を諭すべきだ。
「なあ、レイノルド」
意を決して、マルティンはレイノルドへと話しかけた。
「ずっと言おう、言おうと思っていたんだけどさ。べつに師匠って、おまえが思うほど、繊細というか、神聖な感じの人じゃないよ」
途端にレイノルドが足を止める。
振り返らずとも、ひしひしと伝わってくる不機嫌オーラに、マルティンはたじろぎつつも両足を踏ん張った。
(前に「寝起きとか寝癖爆発しててやばいし」とか「昼寝中ときどき白目剥いてるし」とか言ったときは、「僕が知らない姿を知っているという自慢ですか?」って殺されかけたんだよな。ここは慎重にいかないと)
というか、寝癖爆発や白目姿を知っていることが「自慢」と映るなら、彼はそれらをも受け入れる用意があるということだ。
意外に寛容というべきか、それすらも美化するつもりならすごいというべきか。
「たとえば、おまえがしょっちゅう言う、慈悲深いとかっていうのもさ、僕にはちょっと疑問というか――」
「橋が落ちています」
ところが、渾身の説得を遮られてしまい、マルティンは目を瞬かせた。
「橋が?」
レイノルドの長身越しに覗き込めば、たしかに、北門の奥に続くべき吊り橋が見当たらない。
橋のたもとに駆け寄ってみれば、なんと橋は見事に崩落してしまっているのだった。
「わあ、老朽化かな。被害者がいなければいいけど」
マルティンが崖の底に向かって目を細めた途端、すぐ隣でレイノルドが息を詰めた。
「あれは……!」
「えっ、なに、誰か落ちてる!?」
「師匠のスカーフです」
「はい?」
ついで、思いがけないことを彼が呟くものだから、ぽかんとしてしまった。
「スカーフ?」
「ええ。緑と赤の悪趣味な水玉。間違いない、9年前の10月7日、師匠と僕が町歩きをした際に、売り子からおまけで渡されたものです。目が痛くなるような色の組合せで、明らかに売れ残りだったのに、師匠は『苺を思い出せていい』と笑って受け取っていました。本当にお優しい方です」
「ここからよく見えるね? というかよく覚えているね?」
そして呼吸するように称賛するね?
最後の一行を飲み込み、マルティンは崩落した橋の先に目を凝らした。
言われてみれば、縄の先に、悪趣味な色合いの布が巻き付けられているようにも見える。
まさかアデルはこの橋から落ちたのか、とも考え一瞬ぞっとしたが、どう見ても崖底に人影や血痕はなかったし、もし落ちたのだとしたらスカーフを「巻き付ける」余裕などないに違いない。
「いったいこれは、どういう――」
「わかりました……!」
困惑も露わに呟いたマルティンとは裏腹に、レイノルドは唐突に頷き、背筋を伸ばした。
「これは師匠からのメッセージです」
「はあ?」
「この町でもらったスカーフは、楽しかった町歩きの象徴。同時に、嫌がらせとわかっていても受け取った師匠の高潔な行動を示している。それが吊り橋――この町が受けた罰の象徴に結びつけられているということは」
レイノルドはすっ、と片手を動かした。
途端に掌から閃光が溢れ出し、崖がうねりはじめる。
―――どどどどどど……!
「うわ! うわ! うわあああ!」
マルティンに悲鳴を上げさせながら、崖はみるみる形を変えて地の底から盛り上がり、溝を埋めてしまった。
「――つまり、この町を許してやれということです」
断崖絶壁に囲まれ、陸の孤島と化していたはずのエーベルトは、今や元通り、堅固な大地で外部と繋がっていた。
崖の底に落ちたはずの吊り橋が、隆起した土に持ち上げられ、まるで倒れた梯子のような風情で地に伸びている。
レイノルドは悠然と歩くと、反対側の橋げたにたどり着き、そこに結びつけられていたスカーフを回収した。
「師匠は、ご自身のために町を滅ぼすなんて望まない方でしたね。だからあえて橋を落として、この末弟子に、後始末を命じたのですね」
どう見ても野暮ったい、しかも土にまみれたスカーフに、切なげに口づけまで落とす。
彼に追いついたマルティンは、
(いや、あの師匠がそんな深謀遠慮をするはずはないんだけど……)
と、まじまじと縄のあたりを見つめた。
やけに断面がきれいだ。
あの不器用で優柔不断なアデルが、これほど毅然と縄を切れるとは思えない。
むしろこれは、なんらかの理由でナイフを持っていた彼女が、手を滑らせてザクッとやってしまった、といった状況のほうがありえるのではないだろうか。
信じられないが、彼女は時々、本当にその手のドジをやらかすのである。
(あるいは、レイノルドの接近を恐れて、エミリーが切ったか?)
まだそちらのほうがありえる気がする。
「師匠。相変わらず、なんて慈悲深いお方だ……」
しかし、レイノルドは切なそうな表情すら浮かべていて、こちらの主張などまるで聞き入れてくれる様子はない。
かつ、この状況でアデルのぽんこつぶりを訴えても、説得力が薄いというのはマルティンの目にも明らかだった。
(なんか、これはこれで、世直しみたいになってるし)
アデルという存在を失った結果、レイノルドが撒き散らした禍はあまりに多い。
マルティンの願い通り、アデルが「現在」に現れて、そのうちのいくつかでも後始末をしてくれるというのなら、多少の美化や崇拝は、あえてそっとしておくというのもアリなのではないだろうか。
だってやっぱり、「偉大な師匠」のほうが、レイノルドも言うことを聞くだろうし。
(……次の町に入ったら、今度こそ頑張ろう)
様々な角度から比較検討した結果、マルティンはひとまず、今日のところは「師匠幻想ぶち壊し作戦」を延期することに決めた。