21. 手掛かりのあとしまつ(3)
「ねえ、エミリー。やっぱり、このへんにしておこう? あなたには、刺激が強すぎるみたい」
何度も至近距離で叫ばれて、とうとうアデルが切り出した。
エミリーもさすがに逆らえず、くらくらする頭を押さえながら素直に頷く。
ただし明晰な頭脳の中では、得られた情報がすでにしっかりと整理されていた。
「お話はよくわかりました。これは、まさに悪夢です。絶対に回避しなくては。ただし、彼はすでに勇者の称号を手にしているし、動機も確定してしまっている。となれば、今から変えられるのは」
何気なく散りばめられた情報が、次々と繋がっていく。
その中で、一際強く本能に訴え掛ける情報を、エミリーは迷わず拾い上げた。
「廃墟」
黒くつるつるとした壁、というのを聞いたときから、エミリーは引っかかっていたのだ。
「冬に雷が鳴るというのは、王都では聞きません。ですが、北方の一部地域では、雪が降る日にも雷が鳴ることで知られる場所があるのです。何よりそこには有名な建築物がありまして――黒の大理石で作られた、世にも美しい教会があるのです。もっとも、今は全然廃墟という状態ではないですが」
「黒の、大理石……」
アデルは軽く目を瞬かせた。
本来の表情であれば、きっと目をまん丸にしていただろう。
「そうか……。言われてみれば、あれは黒の大理石だわ……。エミリー、よく、知っていたわね」
「レイノルドが教会組織をめちゃくちゃにしたせいで、祈り手の魔力持ちが足りなくなって、各地で天候不順が起きたんです。それで私も一度、北方に駆り出されたことがあって、その際に見ました。北五番教会という、地元ではそこそこ大きな教会なんですよ」
「そうだったの……」
意外な知識を披露した弟子を、アデルは目を輝かせて労った。
「すごいわ、エミリー……。なら、そこに近寄らないようにすれば、予知は避けられるわね」
「いいえ、逆です」
だが二番弟子は、可憐な美貌を笑ませて、とんでもないことを言ってのける。
「全壊させましょう。廃墟すら残らないほどに、跡形もなく」
「ええ……!? な、なんでそんな――ごほっ」
「大丈夫ですか? ……だって、予知の場所があるというだけで不安ではないですか。避けたつもりでも、思いがけない形で引き寄せられてしまうかもしれません」
そう、エミリーは過去の過ちを繰り返すつもりはなかった。
レイノルドの予知を得たとき、自分は彼を殺すべきだった。
もはやそれができないから、せめて場所くらいは破壊しておきたいのだ。
「場所が変われば、状況が変わる。少なくとも鎖で縛られることはなくなるはずです。そうしたら逃げ出せるかもしれない。師匠。北五番教会を壊しに行きましょう」
「そ、そう……?」
アデルは静かな相槌の下、激しく焦っていた。
やはりこの7年で、可愛かった二番弟子はずいぶんと苛烈になってしまったようだ。
彼女は自分に懐いていたから、きっと親代わりの存在をなくしたことで、グレてしまったのだろう。
(この子のことも、どうにかしなきゃ!)
弟子の不始末は、師匠の責任。
エミリーが器物破壊犯になろうとしているなら、師匠の自分は、それを止めるべきだとアデルは思った。
半壊した教会、という条件を変えるためにエミリーは教会を全壊させようとしているようだが、むしろ廃墟化するのを阻止するだけでも、十分条件は変わるだろう。
「いえ、予知とは条件を変えるために、私だけが行って破壊してきたほうがいいですね。師匠を残して行くのは心配ですが」
「わ、私も、一緒に、行くわ……!」
単独犯でさっさと済ませようとするエミリーに、反射的に挙手する。
(だってこの子はやる。やると言ったら、絶対にやる。昔からそうだった)
まったく、あっちでもこっちでも世話の焼ける弟子たちだ!
「そうですか? ふふ、師匠と二人きりで移動だなんて、女子旅みたいですね」
師匠の心弟子知らず。
エミリーは上機嫌に笑う。
念のため、レイノルドがこの家まで追いかけてきた場合に備え、いかにも南方に向かったように数々の偽装を凝らし、二人は「アデルの家」を旅立った。
もっとも、てきぱき動いていたのはエミリーだけで、アデルは数日ぶり――7年ぶりと言うべきか――の食事を楽しんでいただけだったが。
「旅の準備、任せっきりで、ごめんね、エミリー。私、食べるしかしてない……」
「いいんです。私に任せてもらったほうがむしろ安心ですし。ふふ、なんだか身長も、すっかり追い越しちゃいましたね。こうして並んで歩いていると、師匠と弟子というより、姉妹か友人みたいじゃないですか? それも、私が姉です」
「あなたは、とっくの昔から、私よりも大人びていたわ……。それでも最初は、私が『あーん』って、してあげていたのよ。覚えてる……?」
「最初と言っても9歳ですよ? もちろん覚えています」
この7年、ろくに微笑むこともなく、水魔法を使役することもあいまって、実は周囲からは「氷の魔女」とも呼ばれていたエミリーである。
だが今、彼女は心から寛ぎ、アデルとの会話を楽しんでいた。
大いなる誤解を孕んだ道行きは、少なくとも序盤は、かくも和やかに幕を上げたのである。
***
さて、その数時間後。
「アデルの家」の前の庭に突如光が溢れ、次の瞬間には、男二人が現れた。
「ああ、……懐かしいな。ここで大丈夫です。ご苦労様でした、マルティン兄さん」
「ご苦労、じゃないよ! 転移陣描くの、もう数日は無理だからな!? 本当に無理だからな」
漆黒のマントをまとい悠々と立つレイノルドと、疲弊しきったマルティンである。
そう。
この二人は、転移陣で消えたアデルを探索しているところだった。
マルティンは必死に見当違いの方角に誘導したのだが、抜群の推理力と魔術解析力を持つレイノルドは、「行き先の定義されていなかった陣を使ったなら、咄嗟になじみ深い場所に転移されるはずだ」とあっさり正解にたどり着いてしまった。
挙げ句、時空魔法が「多少使える」マルティンを脅して再び転移陣を描かせ、この場にやって来たのである。
「というか、突然この場にやって来たら、管理者のエミリーに殺されるってー」
陣の定義が甘く、うっかり苺畑を踏んでしまったマルティンは、びくびくと怯えながら庭と小屋を見回した。
素直で可憐に見えた二番弟子。
けれどアデルの「死後」、彼女は無機質な人形のようになってしまうと同時に、この小屋を少しでも荒らすと途端に激怒するような、苛烈な人間になってしまった。
いいや、あるいは、エミリーはもともとそういう性格だったのかもしれない。
アデルという、春の陽だまりのように穏やかで脳天気な人間がいなくなってしまったから、本性が露わになったというだけで。
(俺の弟妹弟子たちは、二人とも性格がキツすぎるんだよー!)
エミリーは、アデルとの思い出の場所が壊されることをひどく嫌う。
一人小屋に籠もり、ずっとこの家を維持してくれているが、数年前にマルティンが訪ねたときには、「畑を踏まないでください」「師匠のカップを所定位置からずらさないでください」と、そんな理由で攻撃されたっけ。
(もし、師匠を愛しすぎてるレイノルドと、師匠を慕いすぎてるエミリーが遭遇したら……うわ、修羅場の想像しかできない)
この二人の折り合いは元々あまりよくなかったが、7年前を境に、一層交流を持たなくなってしまった。
そんなところに、レイノルドが「間違って師匠を攻撃してしまったのですが、ここに避難しているでしょうか?」などとやって来たりでもしたら――きっと戦争が始まる。
いや、それ以上に問題なのは、この場に実際アデルがいる場合だ。
レイノルドは歓喜して彼女を攫うだろう。
そしてエミリーと自分では、魔王のような彼に歯が立たない。
(いませんように! いませんように!)
祈りが通じたのだろうか。
小屋の扉を叩いても返事はなく、解錠して踏み入っても――レイノルドが魔力でたやすく鍵をねじ曲げたので、マルティンは心底恐怖した――、中に人はいなかった。
アデルだけではなく、エミリーもだ。
マルティンはほっと胸を撫で下ろした。
「あれ。出かけてるのかな。師匠もやっぱり、ここには来ていないのかも」
「……二人分の食器が洗ってあるようです」
だがレイノルドは、目敏く洗いかごを見つけ、二人の人物が飲食していた痕跡を指摘した。
「先ほどの苺畑には、二人分の足跡がありました。やはり師匠はここに来たのでしょう」
「そ、そう!? いやー、でも、師匠とは限らないよ。エミリーのお客さんとかかもしれないし」
「あの青いカップは師匠専用です。僕がエミリー姉さんなら、他人には絶対使わせません」
やだもうこいつら。
マルティンは半泣きになった。
なるほどアデルはやはり、ここに来たのだろう。
そして、レイノルドに攻撃されて逃げてきたと知ったエミリーは、おそらく激怒し、師匠を匿うことにした。
今は姿を隠そうとしている最中かもしれない。
だとしたら、時間を稼ぐのが一番弟子の役目だ。
マルティンは冷や汗を滲ませながら、必死にとぼけた。
「そうかなー。でも、それじゃあどこに行っちゃったんだろう? もしかしたら、女子二人で積もる話があるのかもしれないなー!?」
「おそらく、旅に出たはずです」
レイノルドは部屋中をゆったりと周り、納戸に向かって目を細めた。
「物置にしまってあった旅行鞄が2つなくなっている。それに、師匠の服も減っています」
「いや、最後の記憶、7年前でしょ!? それに、エミリーが処分したのかもしれないよ!?」
「師匠のワードローブは僕が整えたのだから、忘れるはずがありません。それに僕がエミリー姉さんなら、師匠の服を捨てるはずもない」
やだもうこいつら。
マルティンは再度胸の内で叫んだ。
「師匠はこの場に立ち寄り、エミリー姉さんと会った。食事を取り、そして二人で旅に出た。独占欲の強い姉さんなら、僕たちに会わせず、師匠を独り占めしようと考えてもおかしくない。行き先は」
淡々と呟き、今度は居間の書架に目を留める。
「――南?」
ずらりと背表紙を見せる地図のうち、南方地域を扱ったものだけが抜き取られていたのだ。
減っていた服も、半袖のものばかりだったとレイノルドは言う。
(ひえっ、名推理……!)
マルティンは肩を竦めた。
このぶんでは、アデルの行方はすぐに突き止められてしまうだろう。
だが一方で、あのエミリーが、こうもやすやすと尻尾を掴ませるものかとも思う。
頭のよく回る彼女なら、こうなることを見越して、行き先を偽装していてもおかしくないところだ。
一番弟子として長く付き合ってきたからこそわかる、これは勘である。
(言わないけど! レイノルドには絶対、言わないけど!)
頭脳明晰なレイノルドは、すでに行き先を南と仮定し、小屋から南に続く道を調べはじめた。
すると、新しい足跡が二種類。
いよいよ断定にふさわしい手掛かりだ。
「やはり、南に行かれたのか」
「な、なあ。追いかけるのは、止そうよ。君がさっき攻撃したから、師匠は怯えて逃げ出したのかもしれないじゃないか。そんなところに追いかけても、怖がられるだけだって」
一応、南方行きで合っていた場合に備え、レイノルドを止めてみる。
だがレイノルドは穏やかに苦笑し、取り合わなかった。
「それは師匠への侮辱です。師匠は怯えたり、逃げ出したりする方ではない。常に泰然として、その双眸で世界の真実を見つめている、そんな方です。師匠が移動したなら、それは何らかの深遠な意味を帯びた行動のはずです。弟子として支えなくては」
「いやあ、あの人の行動に、深遠な意味っていうのはさあ! ないんじゃないかなあ!」
どうしたらあの大ざっぱで詰めが甘くておっちょこちょいのアデルを、そんなに美化できるのだろう。
(この幻想、どうにか打ち砕いて幻滅させられないものか……!)
これまで、レイノルドの前でアデルを侮辱する発言をすると、全身の骨がひしゃげそうなほどの圧力を掛けられて、自ら撤回するのが常だった。
だがいい加減、覚悟を決めて、アデルの本性を説明した方がよいのではないか――。
そのときである。
「うん……?」
レイノルドが、風に誘われるように顔を上げ、北の道を振り向いた。
道には足跡もなく、周囲の草が踏みしだかれた様子もない。
ところが、ぽつんと、野いちごが道ばたに落ちていた。
「これは」
レイノルドが息を呑み、地に跪いて野いちごを拾い上げる。
彼はそれをまじまじと見つめ、感動に掠れた声で呟いた。
「師匠が好んでいた野いちごです」
「なんて?」
「この時期に普通の苺はならない。ですが、小屋の裏手の奥まったところに、早く実る野いちごがあるのです。師匠は時々僕たちに隠れて、そこで野いちごを摘んでいました」
隠れて食べていたはずなのに、なぜそれを彼は知っているのだろう。
思わず背筋が凍った。
「へ、へえ。そんな野いちごが落ちているなんて、偶然だな。風に吹かれて転がってきたのかな? それとも鳥が落としたのかも」
「いいえ、違います」
レイノルドは恭しい手つきで野いちごを拾うと、道の先に向かって目を細めた。
「道に沿って点々と落ちている。これは……師匠の残した手掛かりです」
「て、手掛かり?」
「そう」
レイノルドは次の野いちごを拾い上げ、懐から取り出したハンカチに、厳かな手つきで包んだ。
「師匠は、わかるか、わからないかのぎりぎりのところで、行き先を示してくださっている。有能であれと――そして追ってこいという師匠のご意志です」
(絶対違うよそれ!)
マルティンは内心で叫ぶが、レイノルドがあまりに爛々と光る目で野いちごを見つめているので、もはや口では何も言えない。
「点々と落ちた野いちごを追うとなると、転移陣で一気に飛ぶことはできないな。地道に足で進めということか。……わかりました、師匠。この末弟子が、必ず師匠の元へ馳せ参じます」
熱っぽく呟き、レイノルドは歩き出してしまう。
(ああもう。ああもう。あああ、もう!)
幻想を壊すどころか、「意味深に弟子を導く偉大な師匠」像を一層強化してしまった事態に、マルティンは頭を抱えつつ、とぼとぼと後を付いていったのであった。
***
さて、その頃。
「そういえば師匠。私が南の道に偽装工作をしていた最中、何をしていたのですか?」
「ああ……、せっかくだからと、思って、道中のおやつを、確保していたのよ……」
北に向かって歩いていたアデルたちは、呑気におやつの話をしていた。
「ほら――」
アデルはごそごそと旅行鞄を漁り、布で包んだ野いちごの山を取り出そうとする。
だがそこで、「あ……」と小さく声を上げた。
布の結び目が緩み、鞄の隙間からぽとんっ、と、野いちごが落ちてしまったからである。
しかも落ちたのは一つではないようだ。
布にたっぷり包んでいたはずなのに、今や、記憶にある量の四分の一程度しか残っていなかった。
(え、嘘! もしや、点々と落とし続けてた?)
「師匠?」
さあっと青ざめるが、エミリーに首を傾げられ、慌てて笑顔をこしらえる。
「え……っ? あっ、な、なんでもないわ。ほら、野いちごよ……。少ししか摘めなかった、けど」
目を泳がせていると、エミリーはくすくすと笑った。
「なにを恐怖の気配を出しているんです。べつに、自分だけ苺摘みをしていたからって、怒ったりなんかしませんよ。手掛かりの後始末は、私が完璧にしておきましたから」
「そ、そうね。ありがとう、エミリー……」
その完璧な後始末を、どうやら自分が台なしにしてしまった恐れがあるのだが。
(で、でも、野いちごなんて道ばたに落ちていても変じゃないし、そもそもレイノルドが小屋まで追いかけてくるとも限らないし。大丈夫よね?)
残念ながら、まったく大丈夫ではないのだが、それを知るアデルではなかった。
「ほら、もうすぐエーベルトの町ですよ。あそこで馬車を借りましょう」
森が途切れ、遠くに町を囲む石壁が見えてくる。
アデルはどきどきする胸を押さえ、滲む冷や汗をごまかした。