01 アイキャンフライ
誤字脱字等修正。
森の中にいる。
思い返してみたところで、さっぱり理解できないし、状況も変わらない。
暗闇の中で遭遇したナニかはどうなったのだろう?
まだ微かに気配を感じるような気もするけれど、先ほどまでの存在そのものを握り潰されるような恐怖――いろいろ混ざっていて表現し難い、あの感覚にはほど遠い。
ショックを受けた後の余韻ということなのだろうか。
とにかく、今は目は見えるし地面の上に立ってもいるので、当面の危機は脱したと判断して、ひとまず安堵の息を吐いた。
もちろん、問題が解決したわけではない。
むしろ、まだまだ山積み状態だ。
とはいえ、さっきのナニかに比べれば可愛いものだし、ひとつずつ片付けていこうと思う。
まずは所持品を確認する。
携帯と名刺くらいしかなかった。
それ以外は――時計や伊達眼鏡はともかく、家の鍵や財布まで失くしてしまったようだ。
ヤバい。また怒られる。
辺りを探してみたものの、何ひとつ見当たらない。
というか、樹木が生い茂った場所というのは、そこに生きる動物も多いわけで、地面を見ると俺の苦手とする虫とか虫とか虫がそこかしこにいるのだ。
こんな場所で遺失物を探すなんて、拷問以外の何ものでもない。
そもそも、状況が状況なだけに、いつまでも探しているわけにもいかない。
怒られるのは嫌だけれど、物事には優先順位というものがあるのだ。
どのみち、財布には現金は大して入っていなかったし、カード類は家で妹たちに管理されているので、金銭的には大した問題ではない。
それに、運転免許証のような身分証明も無いし、会員証とかそういう類の物も無い。
あれ? あまり問題なくない?
いつまでも下を見ているより、上を向いて生きた方が良いに決まっている!
ただ、今月はもう飲みにいけない思うと、少しだけ泣きたくなった。
疲労した心身を休めるように――身体的な疲れを感じたことはないので気分的なものだけだけれど、何となく側にあった大木の元に腰掛ける。
もちろん、そこに虫がいないかは充分に注意した上で。
では、早速だけれど次の問題だ。
「ここはどこ……?」
呟いてみても当然返事はない。
飛び込んだのは、地方都市を流れるギリギリ一級河川。
海どころか河口までも結構な距離があったはずで、流されたのだとしても、こんな大森林の真っ只中はあり得ない。
その前の真っ暗闇の中だったり、光の中だったりが関係しているのだろうか?
とにかく、考えても分からないことは分かったので、一切合切きっぱり後回しにする。
遭難した場合、下手に動かずに救助を待った方がいいと聞いた覚えがある。
しかし、仕事帰りの遭難――しかも、何の脈絡もない大森林に救助が来ると考えるのは甘い気がする。
というか、本当にここはどこ?
自宅は結構な田舎にあったものの、それでも携帯の電波が入らないようなことはなかった。
もしかすると、携帯が故障しているのかもしれないけれど、それはそれでどうしようもない。
しばらく考えた末、ここがどこかすら分からない以上、待っていても動いても大して変わらないという結論に至った。
体力気力も充分に回復している――体力的にはいつも元気なのだけれど、ひとまず現在地の確認をしようと、「よし」と気合を入れて立ち上がる。
どうも身体の調子というか、気の漲り方がおかしい気がしたものの、木に登る程度のことなので気にしないことにした。木だけに!
冗談はさておき、目についた中で、最も高そうな三十メートルほどの高さの木を選ぶ。
それを一気に駆け登ると、天辺から周囲を見渡す。
太陽はほぼ中天にある。
気を失った――のかどうかは分からないけれど、記憶が途切れる前からは相当な時間が経過しているらしい。
しかし、携帯の時計ではそれほど時間が経過していないことを示している。やはり壊れているのだろうか?
気を取り直して、周囲を注意深く観察する。
北から北西の方角にかけて――俺の方向感覚は渡り鳥並らしく、直感でも間違ったことがないのが秘かな自慢だったりする――によると、そちらには標高の高そうな山々が連なっている。
森林限界を三千メートルと仮定した場合、標高は軽く七千メートルを超えている。
日本にそんな山あったか?
嘘だと言ってほしい。
南の方には、見渡す限りの木々が見えた。
所々に開けた場所が見受けられるものの、人工物の気配は無い。
そして、東の方角には、やはり木々と、それほど離れてはいない距離に川が流れているようだ。
とまあ、正直どこを見渡しても大自然だ。
テレビで見たアマゾンとか――気候は違うようだけれど、そんな感じにしか見えない。
下手をするとアマゾンより人口密度が低いまである。
アマゾンに行ったことがないので適当だけれど。
結局、どこにも森の出口は見えなかった。
空にも地面にも人工物が一切見えないとか、ここは本当に日本なのだろうか?
◇◇◇
妙案も浮かばないので、東に向かってみることにした。
川に出れば何か見つかるかもしれない。
遭難した際は登るのが基本だと聞いた記憶があるけれど、ここは生憎と平地である。
そもそも、それは山で遭難したケースを想定してのことなのだろうし、最寄りの山は七千メートル級だ。どう考えても遭難者が登る山ではない。
さておき、日本では山中で遭難して川というか沢を目指すと、大抵谷間に出ることになって、戻るのもひと苦労、そのまま進んでも滝とか崖に当たって詰むとかそういうことだと思う。
というか、結構山中も走り回ったので、実体験として知っている。
俺くらいに体力があれば、崖だろうが壁だろうが登れるし降りられるけれど、妹たちを連れてキャンプに行った時は、「お兄ちゃん、滝を泳いで登るのは人間の所業じゃない。竜にでもなる気?」「兄さん、危ないから止めてください! いえ、兄さんじゃなくて、普通の人が真似すると死にますので!」などと呆れられたのも良い思い出だ。
やはり、何としても帰らなければならない。
話を戻そう。
森の中を歩くのは、木々を避けながら進まなくてはならないため、真っ直ぐ進むことは難しいと聞いた記憶がある。
しかし、それも俺くらいの体力になると関係無い。
木の天辺から天辺へ飛び移ることくらいは余裕だし、何なら、木だろうが岩だろうが粉砕しながら進むことも可能なので、方角を見失うことはない。
人前では気軽にやってはいけないと、俺がまだまだ幼かった頃に両親から諭されていたけれど、今ここで少々目立ったところで問題は無いはずだ。
むしろ、可能性は低そうだけれど、見つけてもらえたなら現状を脱することもできるかもしれない。
普段抑圧されていたからか、人目を憚らず、久々に伸び伸びと――まあ、本気にはほど遠いものの、身体を動かせるというのは気持ちが良いものだ。
例えるなら、妹たちが修学旅行に行っている間、家の中で裸族として過ごした時の開放感に似ているだろうか。
特殊な性癖があるわけではないのだけれど、俺の身体には少々問題があるため、そういった機会でもなければ自由になれないのだ。
ということは、今なら素っ裸になっても構わないのでは――!?
そんなことを考えていると、ふと頭上に影が差した。
足を止めて見上げてみると、遥か上空を何かが飛んでいる――というか、俺の方へ降下してきている。
最初は鳥かと思ったけれど、どうにもシルエットが違う。
それに、やたらと大きいような――世界一大きい鳥であるダチョウの何倍か――でも、ダチョウは飛べないはず。
いや、人間にも俺みたいなのがいるのだし、ダチョウにも気合が入っているのがいたのかもしれない。
とにかく、それは比較できる対象のない上空にいるので、どうにも遠近感が狂う。
俺がいろいろと考えている間に、それはあっという間に詳細が判別できる距離まで接近してきた。
よく見ると、角やら棘やらでデコレートされた、全長十メートルはある灰色の爬虫類――トカゲのようなもの。
灰のトカゲ。
新手のカップ麺か――いや、トカゲなのか?
前足がない代わりに翼が生えている。
ダチョウは飛ばないなどと言っている場合ではない。
トカゲはもっと飛ばない。
それが今は翼を畳んで、頭から猛スピードで俺に向かって突っ込んでくる。
何これ? もしかして、竜とかいう?
俺以外にも泳いで滝を登った人――いや、鯉がいるの?
どう考えても生物というよりは空想の産物だけれど、万一新種の生物だったりして、俺の名前が付けられるのは御免被る。
などと、下らないことを考える余裕はあるものの、その実、頭の中は混乱の極みにある。
(どういう状況? 向こうはやる気みたいだけれど、反撃していいの? ドッキリだったりする!? カメラはどこ!?)
何にせよ、俺からすればそれほど大した速度でもないのだけれど、悠長に考えていられる余裕は無い。
命のやり取りは、対象が人ではなくてもあまり好きではない――正確にはただの結果には特に興味がないのだけれど、相手がその気なら仕方ない。
俺は一刻も早く家に帰らなければならないし、こんなわけの分からないのを連れて帰るわけにもいかないのだ。
元いた場所に返してこいと言われても困るし。
怪物は急降下から一転して、翼を広げて若干ブレーキをかけつつ、空中で反転して後ろ足をこちらに向ける。
その鋭利な鉤爪で、俺を捕獲するつもりなのだろう。
しょせんは畜生か。
俺を敵だと思っていないのか、敵だとしても相手にならない獲物だと思っているのか。
有利不利でいえば、空を飛べる方が有利だとは思うけれど、それを活かせる頭がなければ宝の持ち腐れである。
空を飛べるのは利点ではあるけれど、絶対的なものではない。
そして、空を飛んでいても、俺の間合いの中に入ってしまっては何の意味も無い。
俺も迎撃するべく、適度に引きつけておいて、樹上から怪物に向かって飛びかかる。
飛べもしない俺が地面から両足を離すなど愚の骨頂でしかないのだけれど、そこはまあ不安定な樹上では大差ない。
それに、トカゲに飛べて俺に飛べないはずがない――と、冗談はともかく、この状況ではどう頑張っても有効な迎撃手段は無いのだ。
それならこちらから迎撃に出て、相手の間合いを外した方がマシである。
向かってくる足をすり抜けるように懐に潜り込んで、その勢いのまま飛び蹴りを食らわせる。
昆虫よりはマシなものの、蜥蜴の腹部も大概気持ち悪い。
それでも、ここは我慢だ――などと無理してみたところで、本気を出したわけでもなく、体重の軽い俺の空中での打撃など大して効くはずもない。
踏み切ったのが固い地面であれば速度で補えたかもしれないけれど、そもそもこれで倒そうなどとは思っていない。
むしろ、勢いあまって木端微塵にする方が、グロテスクなものも苦手な俺は精神的なダメージを受けてしまう。
ここまでの流れは、この怪物の硬さとか耐久性を確かめたかったことと、間合いの調整――怪物の胴の中心に届く攻撃は限られているように思えたため、ひとまずの位置取りをするためだ。
もっとも、安全地帯という意味では、背中の方が上だと思うのだけれど、どんな動物でもお腹が弱点であることが多い。
爬虫類――怪物に理解できるかは分からないけれど、「その気になれば、次の一手で殺せるよ」と告げているも同然なのだ。
解説の人でもいたのなら、「なぜそんなことを?」と言われるだろう。「警告などせずに殺してしまえばいい。その隙が命取りになることもある」とも。
しかし、気づいてしまったのだ。
この怪物に乗って、もっと高い空から見下ろせば、もっと地形が分かるのでは、と。
もちろん、こんな怪物を飼い慣らせるとは思っていない。
犬とか猫とか鳥には好かれる方で、牛や豚や鶏は違う意味でも好きだけれど、トカゲに好かれた覚えはない。
しかし、死なない程度に痛めつけてやれば、空を飛んで逃げようとするのではないだろうか。
空を飛べる存在が、地を這って逃げるはずがないし。
逃げなければ、逃げるまで殴ればいい。
その際、背中に乗っていると、振り落とすことに躍起になってしまうかもしれないけれど、お腹側だと逃れようと上昇するかもしれない。
何の根拠も無いけれど。
あまり爬虫類は好きではない――はっきりいって苦手なのだけれど、選り好みできる状況ではないし、昆虫よりはマシ――それだと絶対に無理なので、それくらいは我慢するしかない。
とか何とか考えている間に慣性を失って、怪物と一緒に落下を始める。
当然、怪物は貼りついた俺を嫌って振り落とそうと暴れる。
そうこうしているうちに、怪物の鼻先が手の届くところに来たので、安全地帯を放棄してその先端にある棘を掴む。
そのまま、間髪入れずに逆の手で怪物の横っ面を殴打する。
攻撃目標を胴体から頭部に変えたことには深い意味は無い。
決して、お腹がぶよぶよしていて気持ち悪かったとか、我慢できなかったわけではない。
頭も急所だし、攻撃できるならどこでもいいのだ。
もちろん、攻撃は手加減はした。
必要無かったかもしれないけれど、万一間違って殺してしまってはまずいので、様子を見ながら手数で補うのだ。
鼻っ面を強打された怪物は、苦悶の叫びを上げつつ、今度は首を振って俺を振り落とそうとする。
両翼の鉤爪で攻撃されるかと思っていたけれど、そちらは姿勢制御で手一杯らしい。
しかし、怪物がいくら首を振り回しても、重機でも持ち上げられる俺が、俺の体重程度を支えられないわけがない。
もちろん、体幹も強いので、追撃することにも何の影響も無い。
俺の予想外の反撃に混乱する怪物には構わず、2発目を叩き込む。
続けて3発目をお見舞いしようとした瞬間、掴んでいた棘がポッキリと折れた。
当然、支えを失った俺は空中に投げ出されて、攻撃も空振りする。
予想以上に脆い――いや、トカゲの尻尾切り同様、棘も切り離せるのかもしれない。
というか、落ちる――。
怪物は、錐揉みしながらも、何とか付近の木にしがみついた。
そして、自由落下を続ける俺を見て忌々しげに吠えると、ふらつきながらもどこかへ飛び去ってしまった。
なるほど。
いろいろな意味で俺の手が届かない存在になってしまったということだ。
残念ながら重力に抗う術のない今の俺には、それをただ見送ることしかできない。
いつか、重力にも負けない男になってやろうと心に決めた。
◇◇◇
面白くない結果に終わってしまったけれど、今更どうこういっても仕方がない。
そもそも、こちらに不利な空中戦だったし、撃退できただけでも良しとしよう。
なお、落下中暇を持て余して、何となく手で羽ばたいてみたけれど、当然飛べなかった。
トカゲに負けた気がした。
いや、諦めなければいつかは飛べるかもしれない。
それに、受け身は俺の方が上手い自信がある。
今日のところは引き分けということにしておこう。
◇◇◇
結局、あの怪物が何だったのかは分からなかった。
分かったからどうなるというものでもないので構わないのだけれど、映画やゲームの中に出てくるような、架空の存在にしか見えなかった。
俺はどちらにもそれほど興味はないのだけれど、妹たちはこういうファンタジー作品が好きだったように思うので、土産話くらいにはなるかもしれない。
与太話だと思われるだけかもしれないけれど――そのためにもどうにかして帰らなければならない。