第三十六話 悪意の女王(side:マリス)
エルマの代わりに次期エドヴァン伯爵家当主となったマリスは、〈加護の儀〉においてエルマが追放された騒動以降、分家の住まう別邸から本邸へと移り住むことになった。
エルマ追放騒動の翌日、マリスは現当主でありエルマの父であるアイザスの付き添いの許、領内の僻地にあるとある村へと向かい、そこで〈命移し〉と称されるレベル上げを行っていた。
〈命移し〉は、一部の上級貴族や王族が秘密裏に行っているレベル上げの方法である。
高レベルの罪人の腕や足を斬りつけて弱らせてから、レベルの低い貴族の子息子女に殺させて経験値を移すのだ。
純粋な戦闘ではないため取得経験値は大きく減少するが、〈加護の儀〉を経たばかりの子供のレベル上げには充分過ぎる程である。
〈命移し〉を終えて伯爵家本邸へと戻ったマリスは自室で一人、彼女特有の仄暗い笑みを浮かべていた。
「ここでエルマが、十五年間暮らしていたんだ。ああ、エルマのものなら、何も捨てなくてもよかったのに。勿体ない」
マリスは舌舐めずりをし、恍惚とした表情を浮かべる。
今こそ彼女の部屋となっているが、ここは元々エルマの部屋であった。
現当主アイザスがエルマの荷物を全て捨てさせてしまったため、既にこの部屋に彼の痕跡は何も残っていないが。
マリスは物心ついた頃から、本家の少年……エルマに憧れていた。
エルマは正義感が強く、誠実で明るく、家臣達から慕われ、当主アイザスからも期待されてた。
分家で日陰者として生きる自分とは、あまりに対照的であった。
「あんなことになるとは思ってなかったけど……それにしても当主のあの様子、母様の言ってたこと、本当だったんだ。元々疑ってはいなかったし、まぁ、どうでもいいことだけど」
マリスは幼少の頃から、ある変わった趣向……厄介な悪癖があった。
何が切っ掛けだったのかは今となってはわからない。
ただ、大事なもの程、愛しているもの程、自分の手で台無しにしたくなるのだ。
「ボクはエドヴァン伯爵家の跡継ぎの座にも、あの当主の男にもさして関心はないけど、利用できるものは利用しないと。追い出されたとはいえ、エルマが実家を潰されて平然としているような人でないことは知っているもの。時間を掛けて……丁寧に、ゆっくり追い込んであげないと。そうでしょう?」
マリスは姿見へと手を触れ、そこに映る自分へと言い聞かせるようにそう口にした。
「エルマが、都市ロンダルムで家名を出して好き放題しているというのは本当か!」
そのとき、外から怒鳴り声が聞こえてきた。
アイザスの声である。
どうやら執務室で、部下である私兵を怒鳴りつけているようだった。
マリスは姿見の前から立ち、自室を出て執務室の方へと向かった。
「エドヴァン伯爵家の名を出しているかはわかりませんが……ただ、エルマ様によく似た御方が、異例の功績を挙げているとは……」
「ギルドで家名を持ち出して、職員を言いなりにしたに決まっておろうが! 最低限の分別は持っているかと思っていたが、家を出てなおこの俺に泥を塗るような真似をするとはな! こんな真似をして、俺が見逃すと思っていたのか! ただでさえ俺の期待を裏切り……浅はかにも、エドヴァン伯爵家の名を汚すとは! もはや親子の情はないと思えよ、エルマ……!」
「まだ噂の段階で、詳しいこともわかっておりません。それにエルマ様は聡明で高潔な御方……ずっとお仕えしていた私には、エルマ様がそのような暴挙に出たとは思えません。まずは、事実の確認を。お願いいたします、アイザス様……!」
「チッ、トマスよ、二人連れて都市ロンダルムへ向かえ。もしエルマが家名を持ち出していたのならば、冒険者ギルドからの除名と、再登録の禁止を命じよ! そして次にこのような真似をすれば、命はないと警告しておけ!」
「ありがとうございます、アイザス様……! 必ずや、エルマ様の潔白を証明してみせます!」
マリスは話を聞いて、口許を歪めて笑みを浮かべていた。
それから表情を繕い、執務室の扉を叩く。
「当主様、ボクです」
「おお、マリスか、入りなさい」
アイザスは部下を怒鳴っていたときとは打って変わって、猫撫で声でマリスを招く。
マリスは丁寧に扉を開き、執務室へと入った。
「しかし他人行儀だな、マリスよ。お前は次期当主……この俺の跡継ぎ。父と、そう呼んでもよいのだぞ」
「先程の話ですが、処遇が甘いかとボクは。トマスではエルマに肩入れしすぎます。それに……冒険者ギルドからの除名というのも中途半端です。生活の糧を失ったエルマは、更に手段を選ばなくなり、エドヴァン伯爵家の名を汚す愚行を重ねるのではないかと。山賊にでもなられたときには、エドヴァン伯爵家の大きな汚点となります」
「ふむ……話はもっともだな、マリスよ。ではまず、トマスは外すとしよう」
「いえ、此度の事件、対応を誤れば酷く尾を引くことになりかねません。私兵如きの裁量に任せるべきではないかと」
「何が言いたい、マリス」
「ボクと当主様で、都市ロンダルムの冒険者ギルドへと視察に向かいましょう。そこで直接判断するべきかと」
マリスの提案に、アイザスは苦い表情を浮かべた。
「何を言っている、マリスよ。そんなこと、無駄に騒動を大きくするだけだ。奴は既に、エドヴァン伯爵家の人間ではない。俺がお前が、そのような時間を割く価値はないのだ。何を拘っている?」
マリスはアイザスへと大きく頭を下げた。
「お願いします。ボクは分家で、その上に女の身……エドヴァン伯爵家の次期当主として、相応しい教育を受けても来ませんでした。当主様がまだエルマに気を掛けているのではないかと……」
「何を馬鹿なことを言うのだ、マリス。この俺がいつ、そのような素振りを……」
「こんなボクを次期当主だと……実の娘のように扱っていただけるというのであれば、どうかこの我が儘を聞き入れてください。当主様が既にエルマに対して父子の情を抱いていないということを、どうかボクに安心させていただきたいのです。滑稽にお思いかもしれませんが、ボクはどうしてもそれが気掛かりでなりません。いつかまた、当主様……いえ、父様が思い直してエルマを呼び戻し、ボクを捨てるのではないかと……不安でならないのです」
「そのようなことはない! 案ずるでない、マリス。エルマは……いや、あの男は、この俺の期待を踏みにじったのだ。クラスは人を映す鏡……剣聖とは、高潔な精神の何よりの証明。重騎士などと、臆病な怠け者のクラスを得たあの男は、次期当主の器ではなかったのだ」
アイザスはそう言うなり、席から立ち上がった。
「確かにあの男が妙なことをしでかしているのならば、二度とそのようなしでかさぬよう、重い罰を加えねばならん。俺の娘も同然であるマリスにも、これ以上不憫な想いはさせられん。直接、都市ロンダルムへと向かうとしよう」
「ありがとうございます、当主様……いえ、父様!」
頭を下げたマリスの顔には、いつもの邪悪な笑みがあった。
マリスにとって、エルマは大事な、大事な相手であった。
だからこそ、時間を掛けて、丁寧に台無しにする。
エルマが伯爵家を追い出されてなお、折れずに冒険者として必死に活動しようとしていると知り、マリスは嬉しくてならなかった。
エルマの今の生き甲斐を、彼の実の父の前で奪う。
それがマリスの目的であった。
理由を付けて、冒険者の命である腕を落とす。
だが、いきなり利き腕を落としては勿体ない。
今回は左腕からだ。
「待っててね、ボクのエルマ」
マリスが小さく呟く。