第49階層 十六羅漢像・野良迷宮
沼地のオープンエリア。
足元に湿った腐葉土の柔らかさを感じながら、マットと衝立を出してひとりずつ着替える。装備を整えた僕らは、四方が緑と深緑に覆われたエリアの探索を始めていた。
足下のぬかるみは思ったよりも緩く、あっという間に革のブーツは泥だらけになった。しかも足を取られたところを狙って、空からの敵が多い。鳥のような黒い影のシャドウ系の魔物から、虫系も頻出してかなりきつい。
真梨乃は泣き言ひとつ言わずに状況から的確に動いていた。苔むして滑りやすい岩を足場にしたほうが足を取られる地面より応戦しやすいようで、それは軽戦士系のバランス感覚があってこそだ。姫叉羅のようなどっかり地面を踏みしめて戦う重戦士系だと不利な環境である。
蚊柱が蠢いて近づいてきたとき、その一匹一匹が拳大ほどもあることに気づいて、姫叉羅は卒倒しそうになっていた。魔術師がいれば焼き払うところだが、生憎と純戦士系がふたりで、僕に至っては戦力にならない。
「これ使って」
そう言って取り出したのは、出した瞬間から火の付いた松明である。
「消えない松明っていう魔道具なんだけど、効果的なのはこれくらいかなって」
「油があればもっと使い道はありますよ」
「オリーブ油なら」
「もったいないですが、それも出してもらえますか?」
松明を振り回すくらいしか思い付かなかったが、案外真梨乃は臨機応変に対応できるようだ。柔軟な考え方と、経験に裏付けられた安定感がある。一年と三年、二年の経験差がここまで違うのか、というのは当たり前の話で、迷宮に潜っている時間は実時間に比例しない。潜っている廃人レベルの人間はすでに体感十年だったりするし、最低限のノルマだけでいいと思っているような連中は半年に満たない場合だってあるだろう。
時間の進みが違う中での一年間の差は、恐ろしいほどに深い溝がある。だからエルメスが優秀なエルフだったとしても、PK狙いの二年生を初撃で削りきることができなかったのだ。ステータス差とは恐ろしいと思う。
「ちなみに真梨乃さんは何回ランクアップしてます?」
「呼び捨てでいいですよ。冷たい感じで言ってくれたほうが喜びます」
「喜ばしてどうするよ……」
会話の端々にMっ気を出してくるので侮れない。姫叉羅は頼れる先輩像がガラガラと崩れているのでツッコミにも覇気がなかった。
「メインジョブは《
「あと二回もランクアップしないと追いつけないのかよ」
「これが二年間の差だよね」
「話を聞いた限り、一年頑張ればリーダーさんのパーティはあっという間に四回昇格すると思いますよ。だって普通、一年生で一回に潜る期間は長くて一週間ですもん。三ヶ月って聞いたときは冗談だと思いました」
「冗談じゃないんだよなあ」
「姫叉羅がランクアップするのも最速だと思いますよ。迷宮が解禁されてまだひと月半ってところじゃないですか。私が昇格したのも一学年の最後でしたもの」
真梨乃は松明を受け取ると、黒い靄となって近づいてくる不気味な蚊柱へずいと近づいた。そして油のボトルを口に含むと、勢いよく松明越しに藪蚊の魔物群へ吹き掛けた。龍村なら素で火を吹けるが、それに相当する火力だ。ステータスで基礎能力を底上げした人間を侮っては行けない。思い切り吹き掛けた吐息で踏ん張りもきかずにひっくり返るくらいの威力は出るのだ。お誕生日ケーキなんかスポンジの土台ごと蝋燭と一緒に飛んでいくから注意が必要である。
轟々と音を立てて燃え移った藪蚊の魔物は、瞬く間に火に包まれた。空中で燃え上がる火の玉のようであった。チリチリと燃え尽きた個体が、焦げた皮を剝くように落ちていく。
敵のレベルはそれほど高くない。だが環境の不快指数が高い所為で、興味本位でやってきた素人が入り口で帰ってしまう状況を作っているのだろう。粘つくような湿度と温度、進む足を絡め取る泥と植物、一筋縄ではいかない擬態し群れる魔物、嫌な要素を上げればキリがなかった。雪山のほうが十倍はマシだと思える。あっちは防寒対策をしっかりすれば、拠点では割と快適だったのだ。パーティにひとり土魔術のクリエイターがいれば家が作れるという事実は目から鱗だった。自分で習得したいが、これ以上はもう手が伸びない。いまですら欲しいジョブを泣く泣く選んで切り捨てているというのに。土魔術を習得した魔術師をひとりパーティに入れることも要検討である。
「これ、うまく油切らないと口が火傷しますね」
口許をぐいと拭い、真梨乃が笑う。
「姫叉羅の方が肺活量は多いでしょうから、任せますね」
「うっす」
「口の中で魔力を練って油に乗せるとダメージが高いですよ」
「やってみる」
言われるままに姫叉羅は松明を受け取り、藪蚊を殲滅していく。確かに吹き付ける油を伝って火が口許を炙ったようだが、姫叉羅はものともしていない。種族的にも耐性は高い方なので、火傷するほどではないのだろう。
「このままのペースなら一年のうちにもう一回昇格できるでしょうね。そしたら二年を相手にすることも十分可能です」
「それじゃあ足りないんだよなあ」
「リーダーがおかしいんだぜ。この場合は」
「その『足りない』を埋めるために、学校の外にある未踏の迷宮へ来たんでしょう?」
真梨乃には野良迷宮を攻略したら特典があることを話していない。どちらにしろ今回は姫叉羅を強化するつもりだったからだ。しかし野良迷宮を攻略することでジョブ数が増えたとか、レアなスキルを覚えたとか都市伝説レベルではあるがクリア特典の存在はにわかに語られている。たまたま最弱モンスターしかいない野良迷宮を攻略し、迷宮コアに触れて得た人間がいても不思議ではないのだ。そういうラッキーな人間が主人公なんて話はよくあるし。
逆に使い勝手のいい迷宮なら素材が尽きない永久機関なので、迷宮コアを破壊せずに残しておくということも多い。そもそも攻略難易度が異常に高くて最下層までたどり着けない無理ゲー迷宮が多いという現実が野良迷宮にはつきものなので、攻略後の話は噂の域から出さないのだろう。
怖いもの見たさや肝試し感覚で、毎年何百人というお馬鹿さんが野良迷宮に潜って帰らぬ人になっている事実も無視はできない。
「そもそも私たちがリアルな時間の流れる外の迷宮に入るメリットはないですしね。何ヶ月もぶっ通しで学校の迷宮に挑む傍らで、外の迷宮に挑むだけの理由があると思うのは当たり前でしょう?」
「真梨乃さんはどんな理由があると思いますか?」
「試されていますね。そうですね、入るまで中がわからない迷宮ですから、レア素材集めという線は薄そうです。ならば学校では手に入らない劇薬のような何かがほしいと思うわけです。たとえば禁制の首輪とか」
真梨乃が僕に流し目を送りながら、自分の首元をさらりと撫でる。
「目的とはズレてるかな。小遣い稼ぎにはなると思うけど」
「じゃあ迷宮の最奥の話ですかね。迷宮のコアが特殊な力を与えるとか、噂を聞いたことがありますね」
「おい、リーダー。ちょっとヤバいんじゃないか?」
「いやいや、価値を知らなければ大丈夫じゃない?」
「姫叉羅や、リーダーの反応で言ってしまってるも同然ですけどね」
真梨乃はニコニコして僕らを見ていた。まるで幼い兄妹を見守る保護者のようだ。
「迷宮の奥で手に入るものを真梨乃はほしい?」
「あなたが与えてくれるなら。でも今日は姫叉羅のためなのでしょう? ならば私はお手伝いするだけです」
「わお、謙虚ぉ」
「私は映画の主人公じゃなくても全然気にならないですよ。登場人物であればいいんです」
その言葉をそっくりそのまま信じることはまだできそうにない。
その後も、沼地の岩に擬態する大亀の魔物に齧られそうになった姫叉羅を、直前で気づいた真梨乃が亀の首を両断して窮地を救ったり。水の中から水弾を打ち込んできたザリガニの魔物にいち早く気づき、僕の首根っこを引っ張って回避したり。直感と探索能力がずば抜けて高いのを目の当たりにした。闇音に教えようとしていた斥候のポテンシャルを最大限引き出している。狼系獣人なので五感に優れている上にステータス値も二倍以上の差があった。三年上位クランの実力は伊達ではない。敵を先に発見することが安定して攻略を進める上で必要不可欠だと実感させてくれる。あと危機的状況にかこつけたスキンシップが多い。姫叉羅の目がさっきから吊り上がりっぱなしだ。
「私はぶっちゃけ攻略の目的とかどうでもいいです。知っていればどういう風に動くと効率がいいかわかるから聞いているだけですし」
「本当にそう思ってそうで怖い」
「たぶん首輪に鎖で繋いで引っ張ってもらいたいとしか思ってないよ、あれ」
喋ると尻尾が忙しなく揺れるので、構ってほしいのだと思う。野心がないのも本当だろう。一般的には上を目指して上下するのが人生だろう。だが、闇音のようにあっちへふらふらこっちへふらふら、横にしか興味のない人間もいる。そういう例を知っているだけに、真梨乃という人間の根源というか、本性のようなものも透けて見えてくる気がするのだ。
休憩中、掻いた汗を拭くために首筋から胸元へタオルを滑らせる仕草を、あえて見せつけてくるような真似、普通はしないからなあ。姫叉羅がプキーッと怒って、僕と真梨乃の間に仁王立ちすることがたびたびあった。
「この迷宮ってどれくらい深いか、なんとなくわかるものなんでしょうか?」
「出現してから一年も経ってないだろうし、深くて五層だと思う。結構広いみたいだから、三層くらいで終わる気もするけど」
「やっぱり慣れているんですね」
「ぶっちゃけると、学校の迷宮に潜る前から経験者ではあるからね」
そのときは翼蛇コアトルを召喚して、ほとんど自分は何もしなかった。目的は迷宮のコアなので、それ以外は寄り道もなにもほとんどしなかった。魔物はほとんど翼蛇が喰らっていたため、魔石を穿る作業も学校の迷宮で初めてやったし、グロいものには目を背けてきた。ジョブスロットを六つも増やせたのは有利だったし、野良迷宮で襲われないために取得した〈隠蔽〉スキルも、ジョブスロットを隠す効果があって実生活でも有用だった。
「できたばかりだと敵のレベルはやっぱり弱いのか?」
「それは個々の迷宮によるね。この前闇音と潜ったところはレベル二百超えの化け物がうろうろしていたよ」
「野良迷宮が危険と言われる所以ですね」
「迷宮は別世界の一部を切り取っているんだと思う。そこに元からいた魔物をそのまま配置しているから、レベル差がひどいんだろうなって」
「別世界ねえ……」
姫叉羅は半信半疑だが、その別世界から呼ばれた存在としては、翼蛇コアトルのこともあって有力説だと思っている。
「迷宮としてこの世界にくっついたときから、魔物は迷宮の付属物として固定されて、倒されてもいずれ再出現するオブジェクトになるんだと思う」
「魔物に感情を一切感じないのはそういうからくりだと?」
「意思のある生物からゲームの敵性生物に変換されるような感じ?」
「言わんとしてることはわかりますよ。ただ、それを追究することに興味はないので、お任せしますが」
「僕の趣味みたいなものだから気にしないで」
探索に時間を掛けることはできないので、次の階層への階段を見つけたら、すぐに降りていった。苔むした大岩にぽっかり空いた黒い渦。階下に降りるタイプもあれば、扉を開いて進むこともあるし、鏡の世界に飛び込むような異空間の水膜みたいなものもある。上か下に進むのかよくわからなくなるが、基本は一層、二層で判定している。
――沼地エリア二層目。
濁った緑の水辺が多く、水草や身の丈ほどの葦が生えていて視界は悪い。陸地を歩こうとしても、足が沈む緩い地層だった。最初に気づいたのは、やはり五感に優れた真梨乃だ。水辺のあたりからぬぼっと顔を出した巨大な浮島。
「あれ、ナマズじゃないでしょうか?」
「たぶん、サンショウウオだ」
魚ではなく、足のある両生類。
陸地で休んでいる僕らに向かって音もなく近づいてくる。水辺から上がるのかと思いきや、陸地を泳いでくる。何を言っているかわからないかもしれないが、ありのままを話そう。サンショウウオに触れた陸地が途端に泥と化して、まるで水の中を泳ぐように近づいてくるのだ。ただでさえ少ない足場が、頭だけ水面から出した象のようなサイズのサンショウウオによって削られてしまう。
姫叉羅が鉄棍を構えて叩き潰す構えを見せているが、サンショウウオは二匹、三匹と葦の隙間から姿を現した。
「陸地を減らして水中に引きずり込むつもりだ」
「遠距離攻撃がないって時点でかなり不利なんだが」
「斬撃飛ばすくらいならできますが?」
真梨乃はナイフよりもいくらか刀身の長い小太刀を〈アイテムボックス〉から取り出す。鞘を払うと刀身が薄青く光っていた。腰だめに構え、覇気とともに一閃すると、冷気と粉雪が散った。正面のぼうっとした顔のサンショウウオに斬撃があたり、顔をパキパキと凍り付かせた。黒板を引っ掻いたような奇声を上げて、正面のサンショウウオは反転した。他の個体はその場に留まってこちらを窺っている。
「いいもの持ってるじゃないっスか」
「なかなかいいでしょう? 小太刀『白兎光雪』は凍剣の属性を持ってますから。綺麗で繊細なシルエットなんで、私のお気に入りです。私たちみたいな近接系の戦士は属性武器があると便利ですよ」
「僕も欲しいけど、いますぐは手が出ないかなー」
「レアモンスターのドロップアイテムで素材を集めて鍛冶士に作ってもらうか、武士系や戦士系のモンスターから直接ドロップですね。通常武器を属性武器にするなら付加魔術を施してもらう必要があります」
どちらにしろ高額であることには変わりない。いずれはレアモンスターを狩りまくってドロップアイテムを狙うのもありだ。『しゅき兄』のクランのひとたちは、ドロップやテイムが目的でレアモンスターを狙いに行くらしいし。
さらに横合いから水圧レーザーのような攻撃を受けた。姫叉羅が気づいて鉄棍で弾かなければ、脳天撃ち抜かれていたかもしれない。ザリガニの魔物だ。水中から狙ってる。場所がわかれば攻撃を見て避けることは難しくない。ただ音もなく忍び寄ってきて、不意打ち気味に攻撃してくるので厄介だった。それに、水中を跳ねるように移動し泥を巻き上げるので、捕捉し続けるのも骨が折れる。
「囲まれてます」
「向こうのフィールドで戦い続けるのは良くないよね」
「一時撤退ってことだろ。逃げる方向はひとつしかねえし。しんがりはアタシがやる」
「じゃあ私が先頭ですね。死なないように頑張ってくださいね。死に戻りないんですから」
「わかってるからさっさと行け!」
水圧レーザーを鉄棍で打ち払いながら、姫叉羅は僕の肩を押してくる。言ったの僕じゃないのに姫叉羅に睨まれてしまった。
ぬかるみに足を取られながら、苔で滑る湿地を走る。ところどころ水たまりがあり、気をつけないと足が深くまで嵌まる底なし沼のようになっていた。先導する真梨乃は余裕がありそうだ。かくいう僕も切り札は残している。まだ大丈夫という慢心が、どこかにあったのかもしれない。
二メートル以上の丈があるススキのような草を掻き分けながら進んでいたが、その足が突然止まる。目の前に壁が現れたのだ。しかし壁のように見えて、光沢があった。マス目のような溝が均等にあり、色味が複雑で、まるでそう、蛇腹のような……。
「大蛇……!」
真梨乃が飛び退く。ピンと緊張した狼耳と、逆立った黒白の髪が、先ほどまでの余裕を吹き飛ばしていた。姫叉羅の背丈よりも高い胴体がゆるゆると動き出していく様に、真梨乃の髪がさらに逆立つ。全長はもしかしたらいつも召喚する翼蛇コアトルといい勝負かもしれないと思った。
「私、蛇って無理なんです!」
「えぇ? 蟒蛇先輩いるじゃないっスか」
「佳文ちゃんはいいんです。可愛いから。蛇目とかスプリットタンは別に気になりません。でもにょろにょろしてるのがもうぞわぞわで」
「八ツ俣先生は?」
「あれは最悪ですね。頭の上でぐねぐね動いてるとか狂気の沙汰かと。正直、廊下であの先生を見ると回れ右して逃げ出したくなります」
「さすがに失礼なのでさりげなく方向転換しますが」という真梨乃は、顔が真っ青で本当に苦手な様子だった。僕らの担任の蛇頭族の八ツ俣先生は、大上真梨乃にとって天敵であるようだ。では翼蛇コアトルを出したら、真梨乃は飼い主解消してくださいとか言い出すだろうか。PK襲撃者だった真梨乃たちを最後に喰らいつくしたコアトルだったが、そういえば真梨乃はその前に姫叉羅と相打ちになって死に戻りしていたから、僕の切り札を知らないのだろう。手の内を明かしたとき、面倒がひとつ去り、戦力がいくらか下がる結果になるだろうか。
蛇の動きとは反対側に足を向けるが、足場が悪くなるばかりだ。泥濘に足が沈み、生臭い泥水が跳ねる。それでも後ろからは静かにサンショウウオの群れが近づいてきて、近くの草場からしゅるしゅると蛇の這う音が聞こえてくる。
「止まってください――」
真梨乃が手で制したため、僕らは足を止めた。足下には濁った水がまとわりついてきていた。下半身は泥だらけだった。僕が自分のことを気にする一方で、真梨乃の狼耳はしきりに動いていた。
「蛇が両生類のほうに向かいました」
シャーッと蛇の奇声に続き、レーザー音が丈の長い枯れ草を薙ぎ倒す。水場で暴れる音が間断なく響くが、水辺のサンショウウオに蛇が襲いかかっているのだろう。サンショウウオの一体がこちらに向かって転がってきたので、姫叉羅が素早くトドメを刺した。水から上がってしまえば大きな的でしかなく、防御が高いわけでもない。
漁夫の利を得て難場を切り抜ける未来が浮かんだが――その光景は訪れない。枯れ草から蛇の頭が飛び出してきて、真梨乃が正面から突撃を受けて枯れ草の向こうへと吹っ飛んだ。
「は?」
「――え?」
瞬く間もなく姫叉羅の左足が、突然地面から食いついてきたサンショウウオに腿のあたりまで飲み込まれる。そして空高く持ち上げられた。姫叉羅のすごいところは、そんな状態からでも戦士としての本領を忘れないところだった。鉄棍をサンショウウオに向かって振り下ろし、頭部を陥没させた手応えが僕のほうまで聞こえた。
「―――――――アアアあぁぁァァァぁぁっッッッ!!!!」
枯れ草の向こうから聞こえた絶叫は真梨乃のものか。びしゅっばしゅっと飛び散らかす赤い飛沫は誰のものだろうか。地面を揺らすほどのたうち回る地響きと、喉を涸らすほどのつんざくような悲鳴が入り交じる。
片足を食われたまま無様に着地して頭から泥まみれの姫叉羅が這いずって抜け出すと、片足が真っ赤に染まっていた。サンショウウオの口はどうやら小さくて鋭利な歯が並んでいたようだ。すぐに消毒しないとばい菌が傷口から入って大変なことになるが、そこは優秀なポーションがすぐに癒やしてくれる。
「余裕ぶってた真梨乃パイセンの本気ってところか」
「どうなってるか見に行くの怖いんだけど」
「飼い主が飼い犬にビビってちゃ世話ねえよ」
「飼うって決めてないんですが」
「飼わないって選択肢ねえくせに」
少しして静けさが戻った。そこらじゅうから聞こえる虫の音と溺れるくらいの草の匂いが戻ってきた。突然思い出したかのように感じるのは、それだけ緊張していたのだ。
枯れ草を掻き分けて血だらけの真梨乃が現れた。顔は蒼白だったが歩き方はしっかりしていた。胸の下あたりを押さえて顔を歪めているので、肋骨が折れているのかもしれない。
「蛇、嫌いじゃなかったんスか」
「嫌いすぎて手加減ができなくなるから、やっぱり嫌いです」
「そんなボロボロな先輩初めて見たっスよ」
「田んぼに飛びこんだのかってくらい泥だらけの姫叉羅も初めて見ましたよ」
ふたりの視線が混じり、ふと緩んだ。そしてどちらともなく笑い合う。窮地を乗り越えたこと、張り詰めた緊張の糸がようやく緩んだことで、ふたりはちょっとだけ素直になれていた。
真梨乃にポーションを手渡し、休憩している間に真梨乃の戦闘の現場を覗いてきたが、輪切りになった蛇が絶命しているのが確認できた。真梨乃の武器は短刀か小太刀ほどの長さだというのに、体高二メートルはあろうかという大蛇をぶつ切りにする力は圧倒的だ。サンショウウオやザリガニの魔物も近くでぐちゃぐちゃになっていたが、こちらは大蛇との戦闘で潰されたものだと思う。利用できそうな素材やそこそこの大きさの魔石を取り出し、僕らは先へと進む。
「風呂入りたい……」
「いま入っても汚れるだけだよ。終わったらいくらでも汚れを落とせばいいよ」
「ブーツの中は汗か泥かわからないくらいぐちょぐちょですね」
「それなんか言い方卑猥っスね」
「いちまんことかに興奮しちゃう中学生男子ですか、姫叉羅は」
休もうにも、そもそも乾いた大地がなかったので座り込むこともできない。木が一本も生えておらず、視界は身の丈より高く生えた枯れ草で二、三メートル先さえ見通すのがやっとだった。
愚痴を言えるのも難関を越えたという意識があるからだった。数時間歩いたところで、異空間への扉を見つけた。顔だけ突っ込むと、そこは水辺だったが、木々が複雑に絡み合って円形の闘技場のような作りになった場所だった。ボス部屋だ。